すでに述べましたように、人には二通りの生き方があります。一つはボディーを主体にした生き方、もう一つは心を主体にした生き方です。ボディーを主体に生きれば、より安全に、より快適に、より豊かに、を追究しようとする物質主義に傾きますので、対立や争いの多い喧騒な社会へ発展するのはやむ得ないでしょう。一方、心を主体に生きれば、平安と安らぎを追及しようとするようになりますので、穏やかで静かな社会に落ち着くのは当然でしょう。また、足ることを知るのは心の属性ですから、分かち合いによる生活の安定が図られ、幸せの道が開かれるのもまた当然でしょう。このように、二通りの生き方があるにもかかわらず、人間はいつの時代も物質第一主義を貫いてきました。分かち合うのと、奪い合うのと、どちらが賢い生き方かは誰が考えても分かることですが、実際にはそうなっておりません。
覚者は口々にこういいます。
「人間をこういうものだ、ああいうものだと限定しないで欲しい。肉体を自分だと思って生きる限り、肉体人間 以上の働きはできないからだ。人間はそんな無力な存在では無いのである。本当の自分に目覚めれば、どんなことも成し得る偉大な自分に返り咲けるのである。そんな素晴らしい力を持ちながら、小さな自分に甘んじている人間が口惜しい! また、そのことを知ってもらえない歯痒さがたまらない!」と・・・。
このようにいう覚者の気持が、私には良く分かります。私達の本性は生命ですから、生命である本当の自分に目覚めたら、もっともっと自由ではつらつとした生き方ができるはずなのです。私達はただ姿形を見て、人間だ!、個人だ!、と思い違いしているだけです。
このメッセージを読み、「本当の自分は生命だったのか!」と嬉しさが込み上げてきた方は、すでに変わりつつあります。さらに深く理解し瞑想を実践すれば、自分を大きく変えることができるでしょう。
自分が変化しない瞑想は、科学的瞑想とはいえません。これまで瞑想しても変化の起きなかった人は、瞑想そのものが正しくなかったか、瞑想のやりかたが間違っていたかのどちらかです。これから紹介する科学的瞑想法は、やり方さえ間違わなければ、必ず自分を変えることができる瞑想です。ぜひ挑戦してみて下さい。
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私の恩師である知花敏彦先生が開発された科学的瞑想法は、実にシンプルです。いらぬ贅肉をそぎ落とし、すっきりさせた分かりやすい瞑想法です。なぜ科学的瞑想法かといいますと、宇宙力である想念力を拠りどころにしているからです。
「想念は実現の母」といわれるように、私達の想念は宇宙をも創造し得る偉大な力を持っております。その偉大な想念を利用すれば、この宇宙に成せぬことは無いのです。ただ残念なことに、私達は長年外側の世界に慣れ親しんできたために、内側に意識を集中することが不得手なのです。これが大変といえば大変なところですが、幸いなことに想念には、「同時に二つの思いを持つことができない!」という特性があるため、その特性を上手に利用すれば効果的に集中することができるのです。知花先生が開発された瞑想法は、その特性を科学的に応用したものです。
さて私達は、輪廻転生を繰り返す内に思いの罪を犯し、宇宙空間を歪めてしまいました。その歪みは、消さない限り何千年経っても宇宙空間に残ったままになっております。その歪みのある内は、私達はこの表現世界で落ち着いて瞑想することができないのです。なぜなら、歪めた原因に対する結果として様々な災難が襲ってくるからです。ですからまずは、その歪みを無くす作業が必要になってくるのです。その作業が、「反省・懺悔の行」といわれるものです。
知花先生の開発された科学的瞑想法を土台とし、そこに「反省・懺悔の行」を加えた二段構えの瞑想が、これから紹介する瞑想法です。この二段構えの瞑想法こそ、完璧な瞑想法だと私は確信します。あとは、やる気と根気と努力です。
では、その手順と技法を述べたいと思います。
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キリスト教に洗礼という儀式がありますが、この洗礼には火の洗礼と水の洗礼の二通りがあります。水の洗礼は字のごとく、体を水で清める儀式のことをいいます。火の洗礼は、反省や懺悔によって心の汚れを取る行のことをいいます。
私達は今日まで、社会の汚れにドプリと浸かってきたために、殆どの人が心にスモッグを付けております。そのまま放っておいては生命の光が届かないので、心穏やかに瞑想することができません。ですから瞑想に取り掛かる前に心の汚れを取りなさいということで、どの宗教にも反省や懺悔の行が組み込まれているのです。
ランプの火を明々と照らすためには、火屋の内外に汚れがあってはなりません。生命の光を照らすにも、私達の心の内外に汚れがあってはならないのです。勿論、生命の自覚が持てれば反省も懺悔も必要ないのですが、そう簡単に持てないのが生命の自覚です。そこで反省や懺悔によって、先に外側の心の汚れだけでも落とそうというわけです。(火屋の外側の汚れは今生つけた心の汚れ、内側の汚れは過去世でつけた心の汚れです)真剣に反省や懺悔をすれば、今生つけた心の汚れをきれいに落とすことができます。これは私の体験からいえることなので間違いありません
基本的には、
「これまで歩んできた人生を振り返り、過ちがあったら心から詫び、二度と過ちを犯さないよう堅く心に誓うことです。」
反省には、大きく分けて三通りの手順があります。
○一つは、成長ごとにする反省です。
幼児のころ、小学生のころ、中学生のころ、高校生のころ、大学生のころ、大人になってからも、青年時代、中年時代、熟年時代、老年時代といったふうに、成長ごとにやります。反省の対象は、人だけではありません。自分の肉体・鉱物・植物・動物など、すべての生き物を対象とします。一例として、
・自分の肉体を酷使しなかったか?。乱暴に使っていなかったか?。何十年も働き続けてくれた肉体に感謝しただろうか?。
・生き物に自分の怒りをぶつけなかったか?。不平不満をいったり、文句をつけたり、八つ当たりしなかったか?。
・乱暴な使い方や、もてあそぶような使い方をしなかったか?。
うっぷんを晴らすため、怒りを収めるため、欲望を満足させるためにやっていたら、大いに反省すべきです。
○二つは、環境や境遇や運命に対する反省です。
私達は知らない内に、自分の環境(身体的・能力的・性別的・経済的・家庭環境など)や境遇に対して、愚痴や恨みや怒りやしっと心などを持ち、心を汚しているものです。特に悲運(運命)を呪ったり、恨んだり、愚痴ったり、怒ったりして心を汚しています。これは間接的に親を恨み、世を恨み、時代を恨み、神を恨むことにつながっていますので、この心の汚れを取る作業は大変重要です。
○三っは、縁ある人に対する反省です。
この反省の対象は勿論人間です。まず身近な肉親に対する反省、次に隣人に対する反省、友人に対する反省、学校の先生に対する反省、そして職場の上司や同僚や部下に対する反省といった具合に、反省の対象を広げてゆきます。
難しく考える必要はありません。焦らず小出しに少しずつ反省することです。若い人ほど短時間で終えられ、年を取った人ほど時間がかかるでしょう。私の場合は余りにも反省材料が多かったため、何ケ月もかかったものです。反省している内に、これまで犯した過ちがイモずる式に思い出され、悔悟の涙で溢れるでしょう。特にひどい仕打ちをした人に対する反省の場合は、大声を出して泣き叫ぶかも知れません。私も大声を出して何度も泣いたものです。
反省の一番肝心な点は、自己弁護を一切しないことです。恥ずかしいこと、罪深いことなど、一切隠すことなく良心の前で懺悔することです。私の場合はキリスト教会で行いましたが、そんなことをしなくても良心の前でやれば良いのです。自分の中に神がおられるのですから、その前で真剣に反省すれば心の汚れは取れるのです。
心から反省すれば、色々と不思議な現象が起きるのも反省の特典です。例えば、身も心も軽くなり空中に浮きそうになったり、淡い光を見せられたり、素晴らしい現象を見せられたり、身がとろけるような安らぎを体験したりします。この体験は、こちらが一歩近付けば神は百歩も近付いてくれるという、神様からのご褒美だと私は思っています。あまり特典を気にしてもなりませんが、生命(神)に対する確信を深めるには大いに役立つと思います。
このように真心を持って反省すれば、神の心を打つのです。反省は心の曇りを取り除く、最も手短な方法なのです。科学的にいっても、波動の打ち消し合いによって悪業が消えるのは当然なのです。どんな極悪人も心から改心したら、同じように神の祝福を受けることができるのですから、罪を犯したからといって死刑にしてはならないのです。神の許しを得るチャンスを、人の手で奪うことほど罪深いことはないからです。
反省で最も注意すべき点は、犯した罪を悔やみ過ぎ心を曇らせないことです。受け取った教訓を後の人生に生かすことが大切なのであって、心を曇らせたのでは何のための反省か分りません。ですから反省したらスパッと忘れ、後に尾を引かないようにすることが大切です。
もう一点、私達は肉を持っている限り、汚れた社会で身を浸して生きてゆかねばなりませんから、日々の反省が必要になります。一日を振り返り、今日、自分はどんな思いで過ごしたか?、心に汚れはつけなかったか?、もしつけたら反省し、その日の心の汚れはその日のうちに取ることです。それが癖になると、一瞬一瞬が反省になります。それができたら、もうあなたの心に一点のシミも無くなるでしょう。
最後に・・・、反省をすると、どうしても気持ちが落ち込みがちになるものです。自分の悪いところを、重箱の隅をつつくようにするわけですから、良い気分になれるわけがありません。ですから自虐的になりやすい人は、次のような反省の仕方をお勧めします。
まず罪を犯した対象物や人を思い浮かべ、
「私はあなたに酷いことをしました。本当に申しわけありませんでした。でもその体験から色々と学ぶことができました。あなたは私の恩人です。本当に有難うございました!、と反省の対象物や人に感謝することです。」感謝の波動は反省の波動と同じですので、波動の打ち消し合いによって犯した罪は消えてしまうのです。この方法ですとあまり心を暗くしなくて済みますので、ぜひお勧めしたいと思います。
本来、この宇宙には、悪もなければ不完全も無いのです。だから罪があるわけがありません。目覚めた瞬間 業が消えるのはそのためです。しかし悪的波動を出した人は、実際に宇宙空間を歪めているわけですから、反省して打ち消さない限り、歪みを消すことはできないのです。心の汚れを沢山持ちながら生命の自覚を得ようなど、戦車に立ち向かうアリのようなものです。だから私は、瞑想を始める前にできるだけ心の汚れを取っておく方が良いと思い、反省を勧めているわけです。生命の自覚が簡単に持てるなら、反省など必要ないのです。簡単に持てないから、反省や懺悔が必要になってくるのです。事実、心の汚れを取る前と後では、明らかに瞑想に違いが出てきます。雑念が少なくなり、集中しやすくなり、深く入りやすくなるのです。それは心のアカが取れ、わだかまりが無くなったからです。反省が先か瞑想が先かと問われたら、私は反省が先だと答えたいと思います。
この反省による変化は、第一次の変性変容が起きたことを意味し、悟りの道に踏み込んだ証しになるでしょう。
壁に描いた落書き(汚れ)は、消そうと思えば消すことができるが、心に描いた落書き(汚れ)は、心から悔い改めねば消すことができない!。
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"瞑想を教えて下さい!"、という人がおりますが、瞑想は教えられるものではありません。瞑想は当人が心の中で紡ぐ、内的作業のものだからです。もし内側のものを外側のルートを使って伝えるとするならば、余韻も薫りも伝えたいものとは似ても似つかぬものとなり、返って人を惑わしてしまうでしょう。だから昔から、「瞑想は言葉や文字で伝えられない!」といわれてきたのです。といって口を閉ざしては前に進みませんので、ここでは私の体験をできるだけシンプルに伝え、薫りの一端でも届けたいと思います。
私達は宇宙生命から生まれた宇宙っ子ですから、瞑想によって呼び水さえ与えれば、本当の自分を思い出すことができるのです。もし私達が宇宙生命で無かったら、どんな修行をしようが、どんな瞑想をしようが、思い出すことはできないでしょう。思い出せるのは、もともと宇宙生命だからです。
私達は何億年もの時をかけ、やっと、"自分は人間である!、妻子がいる!、宇宙がある!"、と自覚できるところまで成長してきたのです。鉱物や植物は自我を持っていませんが、動物になると少し自我が芽生えてきます。意識核が一定量集まると、自我が芽生えるのです。自我が芽生えると、自分が何者か自覚できるようになるわけですが、これを「自己に目覚めた生命」といい、進化の第一段階を卒業したことになります。さらに自分が宇宙生命だと自覚のできるようになった生命を「本性に目覚めた生命」といい、進化の第二段階を卒業したことになります。そして、自分が宇宙生命そのものになった生命を「悟った生命」といい、進化の第三段階を卒業したことになります。
進化の第一段階に達した生命体は、自分を自覚し宇宙を認識できるところまで成長しておりますので、宇宙生命から見れば半ば目的が達成されたことになります。人間は自分を自覚し、さらに宇宙を認識できるところまで成長しておりますので、今、進化の第一段階を卒業した所にいるわけです。しかし、まだ自分が宇宙生命だと自覚する段階に至っていませんので、できるだけ多く意識核を集め生命核を成長させる必要があるわけです。
瞑想は意識の濃縮作業そのものです。瞑想を続けることによって記憶が蘇ってくるのは、意識核が結集し生命核が濃縮されるからです。これは私の体験からいえることで、まさに最初の自覚は、喉ぼとけに引っ掛かっていた人の名を思い出したような記憶の蘇りでした。でもその自覚の程度は弱いもので、すぐに失ってしまいました。再びその記憶が蘇ったのは、半月ほど後のことでした。今度は絶対忘れまいと、二時間ほど集中して瞑想したのですが、その自覚も電話一本で失ってしまいました。
自覚した時は実際に、「私は宇宙生命だ!」と思えるのです。思えている間は光に包まれ心地良く、これが自覚に入った印なのだと嬉しくなったものです。次に自覚がやってきたのは、一週間後のことでした。今度こそ失うまいと、五時間ほど必死になって瞑想したのですが、夕食をとった後 再挑戦してみると、何と自覚が持てないのです。それほど自覚の維持は難しいのです。
この自覚の状態をどう伝えるかは、古今東西 覚者達が一様に持つ悩みでした。自覚した時には、本当に宇宙生命だと思えるのです。宇宙を闊歩できる気分になれるのです。宇宙生命そのものに成り切れるのです。これ以上いいようがありません。そのいいようの無い自覚は、失うのもまたいいようが無いのです。先ほどまであれほど自覚が強かったのに、今はどこにも見当たら無い、一体あれは何だったのか?・・・。このように自覚は、寄せては返す波のように揺れ動いているのです。しかし、少しずつではありますが維持できる時間が延びてきて、やがて目をつぶるとすぐに自覚がやってくるようになります。ここまで来ると、もう自覚はどこにも逃げません。
自覚を高めてゆくと意識核が集まってくるので、光が強くなってくるのが分かります。自覚を持たずに瞑想するのと、自覚を持って瞑想するのとでは、天と地の開きがあるのは、自覚の強弱によって意識核の集まり方に差が出てくるからです。はじめ内的光は見えませんが、自覚が生まれるとボンヤリと紫色の光が見えてきます。さらに自覚が深まると、曇り空の一角から太陽が覗いたような明るさを体験します。人によっては、光の輪が眉間に向かって飛んで行く体験をすることもあります。でも大切なのはそんなことでは無く、あくまでも自覚の深さや強さです。
内的光が見えるようになった人は、次のような境地で瞑想したら良いでしょう。見えている光に意識を集中し、
「その意識を光の奥へ奥へと潜り込ませる。」
「意識で光の扉をこじ開ける。」
なぜこのような瞑想が必要かといいますと、宇宙生命は私達の意識の奥深いところに存在しているからです。いわゆる顕在意識は前方に位置し、潜在意識は奥深いところに位置しているのです。(場所があるわけではない、イメージとして・・・。)だから宇宙生命と接触するには、潜在意識の奥深くに潜り込む必要があるのです。
※大和神話に出てくる「天の岩戸」とは、アマテラス(真我・神)を隠している自我の扉(自覚の境界線)のことを指しており、その扉の奥に隠れているのがアマテラスなのです。力持ちのタヂカラオとは、悟りを目指す強い意志のことをいっており、その意志によって「天の岩戸」を開け、アマテラスと対面しなければならないわけです。「天の岩戸を開けるとは」、瞑想によって自我の扉を開くという意味です。
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瞑想の基本的作業は、本当の自分(生命)に一心集中することです。私達の本性はもともと生命ですから、生命を強く意識すれば、本来の自分に戻れるのです。
ではもともと生命である私達が、なぜ人間と思うようになってしまったのでしょうか?。それは気の遠くなる年月、人間として生きてきたためです。つまり、自分で自分に人間という催眠術をかけてしまったのです。その催眠術を解くには、「私は生命である!」と繰り返し思い続ける作業が必要なのです。なぜ思い続ければ催眠術が解けるかといいますと、想念は「実現の母」だからです。
私達はもともと生命ですから、生命になる必要は無いのです。人間と思っている誤解を解くだけです。何度も何度も「私は生命である!」と自分にいい聴かせ、思い聴かせれば、必ず目覚めることができます。そこには根気と忍耐が要るだけで、技術的なものは何も要りません。ただ素直に生命の自分を意識し、生命の自分に成り切ることです。
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生命に一心集中する事といいましたが、厳密にいえば、生命が何なのか理解の伴った一心集中が必要なのです。ただ口先で生命と思っても、効果は少ないのです。心の底から生命と思えるには、生命がどのようなもので、どのような働きをするかなど、生命に対する理解が必要なわけですが、それは覚者の言葉が後押ししてくれます。私が知花先生の動画や音声の視聴を勧めるのは、それらの中に理解力を高める強い波動が含まれているからです。ぜひ、視聴されることをお勧めします。
ところで一心集中する言葉(マントラ)は、生命に限ったものではありません。理解の伴う言葉なら、「神」でも、「無限」でも、「知恵」でも、「愛」でも、「光」でも、「エネルギー」でも結構です。なぜなら、生命は神であり、無限であり、知恵であり、愛であり、光であり、エネルギーだからです。
私達の意識は、限定されたもの(物質)に向ければ固着し、抽象的なものに向ければ拡大するようにできております。私達の帰るべきところは無限生命ですから、できるだけ抽象的なものに意識を向ける必要があるのです。「神・生命・無限・普遍・空・愛・光・エネルギー・知恵」などの言葉は、抽象的で掴みどころがありませんから、意識が拡大しやすいのです。瞑想が単純でありながら奥深い側面を持っているといわれるのは、理解力の伴わない思いは自覚の効果が薄く、また意識を固着させる物質的思いは瞑想の妨げになるからです。
念を押しますが、生命の自覚を持った人(覚者)の言葉は間違いなく理解力を高めてくれます。ぜひ、生命の自覚を持った人の助言を頂いて下さい。
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1、瞑想で一番大切なのは根気です。何の変化が起きなくても続ける意志の強さが必要です。
2、想念の力を利用し成し遂げようというのが科学的瞑想法ですから、常に思いを真実に向ける必要があります。その意味では、真理の話を聞いている時も、花に生命を感じている時も、海や山に生命を感じている時も、みな瞑想していることになるのです。ただ目をつぶってやることだけが、瞑想でないことを知って下さい。
3、瞑想を限定しないで下さい。瞑想は形では無く、あくまでも意識状態です。座り方がどうとか、手足の恰好がどうとか、息の吸い方や吐き方がどうとか、目のつぶり方がどうとか、そんなものに囚われないで下さい。いかに意識が真実に向いているかが大切なのです。それは座っていても、寝ていても、歩いていても、トイレに入っていても、料理をしていても、電車に乗っていてもできるはずです。この少しずつの積み重ねが後々大きな成果を生むのですから、少しの合間も見つけやって下さい。
4、慣性の法則を利用するのも、科学的瞑想法の一つです。何でもそうですが、始め動かす時は力が要りますが、惰性がつきだしたら案外といらないものです。瞑想も同じところがあり、思いを集中させ惰性が付きだしたら、知らず知らずの内に奥深いところまで意識が潜り込んでゆくものです。
5、瞑想していると、どうしても雑念に邪魔され深く入れません。その場合、雑念と戦わず放っておくことです。放っておけば、雑念は消えてゆきます。どうしても消えない場合は、時を改めてすることです。一つ良い方法があります。それは連続的祈りです。連続的祈りとは、隙間を与えない瞑想のことです。例えば、「吾生命なり!」と思い終わると同時に、「吾生命なり!」と思いを重ね続けるやり方です。
6、義務的瞑想なら止めましょう。やりたいから瞑想をするのです。強い信念に基づいた瞑想が大切です。
7、瞑想は時間を決めてやるものではありません。やりたいと思った時が瞑想の時間です。何時間しなければならないとか、何時までしなければならないといった限定瞑想は止めましょう。解きたくなるまでやるのが瞑想です。それは納得した時です。瞑想は納得のゆくまでするものです。「今日の瞑想は有意義だった!、確かな手ごたえがあった!」と思えるまで続けられたら最高です。
8、瞑想はやりたい気分になった時やれば良いという人がおりますが、私はノルマを課してやるべきだと思っています。なぜなら、私達は常に物質の誘惑を受けているため、ややもするとその誘惑に負け、瞑想やる気分をそがれてしまうからです。その誘惑に打ち勝つには、自分にノルマを課すことも必要なのです。
9、瞑想の真髄は生命の自覚を持つことですが、それは自分を生命と認められるか、認められないかで決まってきます。しかし、なかなか認められないのが人間癖を持った私達です。その認められない自我の思いを打ち砕くには、繰り返し繰り返しが必要なのです。瞑想は理屈ではありません。繰り返し繰り返しの単純作業です。
10、できるだけ覚者に添って下さい。もしくは、それに近い波動の出す人に添って下さい。その見分ける目を養うのも、大切な学びの一つです。
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さて瞑想の一つに、相対させる自問自答の瞑想があります。私は、「重く、汚く、不自由な肉の塊である人間なのか?。それとも軽く、清く、自由な宇宙生命なのか?」と相対させ、自分に問いかける瞑想です。何度か問いかけている内に、「軽く、精妙で、自由な宇宙生命である」という思いが、気持ちの良い波動と共に出てくるはずです。その思いには実感が伴っていますから、その思いを忘れないよう、「自分は生命である!、自分は生命である!」と、繰り返し繰り返し心に訴え続けることです。この瞑想は、生命の確信を深めるのに大いに役立ちます。
不思議なもので、相対物の波動の差が大きければ大きいほど、自覚が得やすいのです。だから知花先生は、
「あなたは人間ですか?、生命ですか?」
「個人ですか?、無限ですか?」
「闇ですか?、光ですか?」
と相対させて話をされるのです。
例えば、日本人と日本人を並べてみてもあまり違いが分かりませんが、欧米人と並べてみたら違いがはっきりと分かります。ぬるま湯からぬるま湯に入っても違いが分からないけれど、熱い湯から冷たい湯に入れば違いがはっきりと分かります。同様に、人間と生命を相対させれば、違いがはっきり分かるので、自覚が得られやすくなるのです。ぜひ、やってみて下さい。
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さらに、思索を巡らせる瞑想があります。
「自分はなぜ人間では無いのか?」
「自分はなぜ宇宙生命なのか?」
「私の意識は一体どこから来ているのか?」
「私は何者なのか?」
「私の意識が無くなったら、宇宙はどうなるのか?」
などと問いかける瞑想です。(思索の題材は自分で考える)
始めはすぐに答えは返ってきませんが、リラックスしている時などにヒラメキとして、あるいは気付きとして返ってくるようになります。気付きは理解力を高めますので、これを上手に利用すれば自覚を深める為の武器になります。またこの道筋が付けば、問いかけに対し即座に答えが返ってくるようになります。これは実に不思議な気分で、学んだことのない知識や知恵が、フツフツと自分の思いとなって涌き上がってくるのです。しかも、その解答には実感が伴っているのです。ただし、何でも回答が与えられるわけではありません。神は知識欲を満足させる回答は与えないのです。本当に必要な場合、それも今の理解力に相応した回答しか与えないのです。
ちなみに、このメッセージに書かれている内容の殆どは、そこから得たものです。いわゆる、天啓とか啓示とかいわれるものです。
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生命に一心集中していると内的光が見えてきますが、その光をイメージ力を持って全世界に放射するのが、光を放射する瞑想です。一旦イメージした光は自動的に流れますので、流れるままに放っておきましょう。その光エネルギーは、癒しを必要とする人の処に届くと同時に、地球をも宇宙をも浄化し、さらにエネルギーの道を太くするという、三重四重の効果をもたらしてくれます。与えれば与えられるの法則は、ここでも生きているというわけです。
さて、自覚の高まりはエネルギーの高まりと比例していますので、ドンドン意識を高めてゆくと、眩いばかりの光に包まれるようになります。それはそれは、まるで光のドームの中にいるような感覚です。またそれとは別に、霊太陽が見えてきますが、その光は目を潰すほど強烈です。(慣れてくると霊太陽の輪郭まで見えるようになる。)
でもそんな現象に囚われ、自覚の思いを置き忘れてはなりません。あくまでも、生命の自覚を高めることに主眼を置いて下さい。
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生命に一心集中する瞑想を続ける内に、必ず自覚の訪れる時がやってきます。その証が、内的光と細胞の振動です。この現象は、自覚が得られた印と思ったら良いでしょう。すなわち、自覚の境界線を超えた証です。自覚が得られた時は、何をやっていても中止し、一心に自覚の味を噛み締めることです。味が無くなるまでしゃぶり続けることです。
自覚する!、自覚を失う!、自覚する!、自覚を失う!、しばらくこの繰り返しは続くでしょうが、やがて目をつぶるとすぐに自覚がやってくるようになります。
自覚がどのような意識状態か伝えられないのは残念ですが、一つだけいえることは、自覚の深さに際限は無いということです。浅い自覚から深い自覚まで、その意識段階は無限に存在するということです。だから少々自覚が得られたからといって、そこが終着点だと思わないで下さい。ただ節目節目はあるようですので、一つの節目にたどり着くまでは根気よく続けて下さい。
「私は悟らなくても結構です!」といえないのは、人間が宇宙生命ゆえの宿命だからです。どんなに嫌だと駄々をこねても、この悟りの道だけは誰も避けて通ることはできないのです。ならば、やるしかないのではありませんか?
瞑想で大切なのは形や作法などでは無い!
あくまでも意識状態である。
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