人間が価値にこだわるのは、自分達が価値を生み出していると思っているからです。つまり肉体がものを考え、働き、価値を生み出していると思っているからです。しかし肉体がものを考えたり、働くことはありません。考えたり働いたりしているのは、生命です。生命が考え働いているのに、どうして肉体のあなたが価値を欲しがるのですか?。このことを知ったら、決して価値を自分のものとしないでしょう。
もう一つ価値にこだわってならない理由は、価値は人間のご都合主義で作られた人的なもの、それも相対的なもので、決して不動のものでは無いからです。
・物の価値を考えて見ましょう。
通常物の価値は、希少性に富んでいるか否かで決まります。でも、どんなに希少性に富んでいても、条件が変われば途端に変わってしまうのが価値の正体なのです。例えば、平常時において金やダイヤモンドは貴重品ですが、非常時においては水一リットルの方が貴重品になる場合もあるのです。ネジ一本無くても時計は動きません。部品一個無くても車は動きません。ならばネジ一本部品一個は、時計や車と同等の価値があるのではありませんか?。このように、条件次第で揺れ動くのが物の価値の正体なのです。
・能力の価値はどうでしょう?。
これも条件次第で変わる相対的なものです。例えばある工場で一番の技術者といわれる者も、別な工場へ行ったら最低の技術者といわれるかも知れません。村一番の早足も、国では鈍足者といわれるかも知れません。
・職業の価値はどうでしょう?。
今の社会で医者は尊ばれていますが、健康な子供達にとってみれば、綿菓子職人の方が価値は高いと思うでしょう。自動車の修理は、医者にはできないのです。時計の修理は、総理大臣にはできないのです。トイレの配管がつまり汚水があふれた時、駆け付けてくれた職人さんが神様のように見えた、という経験はありませんか?。本当に必要な場合は、職業の価値の壁さえ崩れてしまうのです。
・量的価値はどうでしょう?。
これも単に、数や量や時間だけで片付けられる問題ではありません。たとえば、一瞬の技が大きな価値を生む場合もあれば、じっくり時間をかけねば生み出せない価値もあります。常識的に考えれば、十時間働いた人と一時間しか働かなかった人を同等に見ることはできませんが、打ち込んだ熱意は時間で測れるものでしょうか?。問題にすべきは、動機と熱意とその中身(内容)ではないでしょうか?。
このように物の価値も、能力の価値も、職業の価値も、量的価値も、みな条件次第で変わる相対的なもので、決して絶対的なものではないのです。だから、決して価値にこだわってはならないのです。
能力や努力を認めてやらなくては、奮起が期待できないという人がおりますが、どうでしょう?、能力は自分のものでしょうか?、天の恵みではありませんか?。努力だって、天に帰るための準備行為ではありませんか?。あなたは、人に認めてもらいたいから努力するのですか?。沢山の報酬が欲しいから頑張るのですか?。そうではないはずです。少しでも自分を成長させたいから、頑張るのではありませんか?。
今、私達は天の恵みをタダで頂いて、人生という大切な勉強をさせてもらっているのです。仕事は華厳の道であり、魂の成長に欠かせない体験の一つです。なのに沢山の報酬が欲しいなどといっては、バチが当たるというものです。
「私達はすでに、努力に対する報酬を魂の成長という形で頂いているのですよ!。」
それ以上何が欲しいというのですか?。
価値は天のもので、決して私するようなものではありません。もし私するなら、その人は神様から、「あなたは天の価値を盗んでいますよ!、」といわれても弁解できないでしょう。
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