○ 悟りとは、"本当の自分を知ることである!"といわれるように、人生の目的は本当の自分を知ることです。それも、心の底の底で知ることです。自分の本性を知れば、誰もが正しい生き方ができるようになりますので、もうそこに倫理も、道徳も、宗教も、いらなくなります。"愛しなさい!、調和しなさい!、正しく生きなさい!"、という言葉さえいらなくなります。なぜなら、自分の本性を知った者が、本性に恥じる生き方をするわけが無いからです。そのような人が多くなれば、社会から争い事が無くなってゆきます。もう何の約定も、何の規則も、何の法律も、何の罰則も、いらなくなります。したがって、警察官や、検事や、弁護士や、裁判所や、刑務所など、人を捕まえたり弁護したり裁いたりする人も機関も要らなくなります。
所詮、人を規則や罰則でコントロールすることなどできないのです。唯一コントロールできるのは、人間一人ひとりが自分の本性に目覚めた時です。
○「私達は人間では無く宇宙生命である!」とここまで言い続けてきましたが、このことが大衆の前に披露されたことは、恐らく地球の歴史を振り返ってもそう多くは無いでしょう。ですからこのメッセージをはじめて読んだ人は、驚きと共に狂言者の戯言と一笑に伏すのです。でもどんなに笑われようと、私はいい続けます。
「あなたは生命である!」
「私は生命である!」
「すべてのものは生命である!」、と・・・。
生命とは、
「意識です」
「エネルギーです」
「原子です」
「知恵です」
「光です」
「愛です」
そして、
「無限なる存在です」
「普遍なる存在です」
「永遠なる存在です」
「不滅なる存在です」
「完全なる存在です」
「絶対善なる存在です」
私はこれを総じて、「神」と呼んできました。神は生命であり、生命は神なのです。その神は恐れ多い存在でもなければ、神秘的な存在でもありません。どこにでも転がっている、ありふれた存在です。神は至る処におるのです。石の中にも、花の中にも、虫の中にも、犬の中にも、人間の中にも、汚物の中にさえいるのです。神はすべての全て、有りて有るものです。神と呼ぶのが恐れ多いなら、生命と呼んでも、エネルギーと呼んでも、原子と呼んでも、光と呼んでも良いのです。ようするに意識と意志を持ち、知恵を働かせ、実際に生きて働いているのが生命であり神なのです。だから生命は現実的です。実際的です。手より足よりも身近な存在です。
その生命は大宇宙に満々ていますので、私達も大宇宙に満々ていて当然でしょう。なぜなら、生命そのものが大宇宙そのものであり、私達そのものだからです。
○ もしあなたが人間と思ってこの世を去るなら、再び人間社会に舞い戻ってこなくてはなりません。なぜなら、思いにも慣性の法則が働くからです。本当の自分は宇宙生命なのに、人間と錯覚することで人の形を取ってしまうのです。
人生を懐かしく思う人は、どうぞ再び人間に生まれて下さい。そして昨日の夢を、今日の夢を、明日につなぎ止めようと必死にもがいて下さい。あなたは今生も、嫌というほどこの世の虚しさを味わったのではありませんか?。嫌というほど肉の苦しみを味わったのではありませんか?。まだ、味わい足りないのですか?。
日本に生まれた人はまだ幸いです。世界を見渡して見て下さい。手足を奪われた人、飢餓で苦しんでいる人、強制労働させられている人、戦場で人殺しを強いられている人、五体を満足に動かせず苦しんでいる人など、地獄の苦しみを味わっている人達が沢山いるではありませんか?。今、幸せと思っているあなたも、来生どんな境遇に生まれるか分からないのですよ。もうこりごりですよね!。さあ、生命に目覚めて下さい。
○ 人間の想念は、何でも作り出す偉大な力を持っています。事実人間は、高層ビルを建て、コンピューターを操り、自動車を走らせ、船を浮かべ、ジェット機を飛ばしているではありませんか。それは、人間が神だからできる技です。でも人間は、誰も自分のことを神だと思っていません。神の自覚無しにこれだけのことができるのですから、自覚を持ったらどれほどのことが成し得るか、考えただけでもゾクゾクします。
いっておきますが、人間がやっているのではありません。形(物質)は生きていないのですから、人間がやれるはずがないのです。やっているのは、あくまでも中で働いている生命です。これだけは勘違いしないで下さい。
今人類が味わっている不幸や災難も、人間が神の力を悪用して作ったものです。自分が作り、自分で苦しんでいるのが人間なのです。そのことに、一日も早く気付いて欲しいものです。
○ 実在とは、永遠に無くならないもののことをいいます。非実在とは、時が来れば消えて無くなる物のことをいいます。無くなるのは、実際には無いからです。あなたに、亡くなった祖父母がいたとしましょう。その祖父母は、本当にいたのでしょうか?。いいえ、いなかったのです。一時、形を取っていた、蜃気楼のような存在でしかなかったのです。
誤解しては困りますのでいい添えますが、形が蜃気楼のようなものといったのであり、形の中で生きて働いている生命は実在します。ですから、生命の祖父母は実在です。でも肉体の祖父母は、実在ではありません。だから、形につけられた名前も実在ではありません。つまり、祖父母の「誰の誰べえさんは」幻だったというわけです。
名前は、食べ物を食べません。着る物も、住む家も、必要ありません。必要なのは形ある物だけです。それも、形のある間だけです。ということは、形の無くなった「祖父母の誰べえさんは」、一体、何だったのでしょう?。
○ このメッセージに初めて出会った人は、戸惑っているでしょうね。何せ「肉体は無い!、個人はいない!、誰々さんはいない!」と人間を否定するのですからね・・・。でも考えてみて下さい。肉体があるということは、肉体を形作っている本質が必ずあるはずです。どのような形も、本質なしには生まれようが無いからです。その本質がものを思い考え、言葉を話し、行動指令を出しているのです。
海の上に浮いている氷は、海から生まれた海の子です。氷が解ければ海に帰るわけですから、氷の生みの親は海です。人間も、生命という海の上に浮いている氷のようなものです。人間が解ければ(死ねば)生命に帰ります。海が無ければ氷が生まれないように、生命が無ければ人間も生まれようがないのです。
あなたがどんなに「人間はいる!」と突っ張ろうと、人間なんてどこにもいないのです。いるのは人間の形をした生命です。その生命は永遠不滅ですから、生命から生まれた私達も永遠不滅です。氷を見れば一個の存在ですが、氷を生み出している海は無限です。人間も形を見れば個人ですが、人間を生み出している生命を見れば無限です。だから私達は、無限の存在なのです。
形を見ないで下さい。形の生みの親である本質を見て下さい。本質を見れば、人間も、個人も、誰の誰べえさんもいないことが分かります。
○ 人生の目的が不明確だと、誰もが自堕落な生き方をしがちです。特に一回限りの人生と思えば、生きている間できるだけ楽しく過ごそうと、金欲、物欲、色欲、権勢欲に走りたがるのも仕方がないかも知れません。鰹節を目の前に出されて、食べない猫がいないように・・・。
でも、人間には理性があります。自分を律する良心があります。これこそが、人間が神である証しなのです。ただし理性を完全に機能させるためには、人生の目的を知らねばなりません。人間の本性を知らねばなりません。もし知ったら、決して自堕落な生き方はしないでしょう。一旦、知ったら、どんな誘惑にも負けない理性が働くのが人間だからです。ぜひ、人生の目的を知って下さい。本当の自分を知って下さい。
○ これまで宗教が必要だったのは、あまりにも宇宙に謎が多かったからです。不幸の原因が分からない?、運命の行方が分からない?、何か目に見えない力が左右しているのではないか?、その恐怖と猜疑心が迷信的な信仰にしがみつかせたのです。
誰かが、何かが、不幸にするのではありません。また、神が罰を与えるのでもありません。不幸にするも幸せにするも、すべて自分の思いと行い次第です。正しい思いと正しい行為の下に生きれば、誰だって幸せになれるのです。これは絶対的な法則(因果の法則)ですから間違いないのです。
「鰯の頭も信心から」といわれるように、信じた自分の思いが幸・不幸を呼び込むのです。宗教を信ずるのでは無く、科学を信じて下さい。迷信を信ずるのでは無く、法則を信じて下さい。そして、何よりも自分を信じて下さい。あくまでも、己の思いと行為が幸せにすることを知って下さい。己の思いと行為が運命を握っていると知れば、もう宗教にしがみつく必要はありません。
どうでしょう。正しく生きるのに、宗教が必要ですか?。生命と思えるようになるのに、宗教が必要ですか?。己を律する心と、理解力と、自覚だけが必要なのではありませんか?。
人はどうしても外側に何かを求めたがります。でも外側に真実なるものは、一つも無いのです。真実は、唯一自分の心の中にあるのです。さあ、自分の中に真実を探しましょう。自分を頼って下さい!。自分を信じて下さい!。自分を信じる者に宗教は必要ありません。さあ宗教を捨てましょう。
○ 知識を詰め込む教育に重点を置く必要はありません。だからテストも必要ありません。学校は二つあれば結構です。一つは社会常識を身に付ける学校、もう一つは「自分を知る」学校です。自分を知る学校は年齢性別に関係ないので、誰でも、いつでも、好きなように学んで良いでしょう。お父さんやお母さんと机を並べて学ぶ、そんな光景が近い将来見られるかも知れません。
真に学ぶべきことはただ一つ、「本当の自分を知ること」です。これなら誰でも百点取れるでしょう。もう試験勉強に頭を痛める必要はありません。
○ 私達は、合理的で、便利で、快適な社会を文明社会だと思っています。でもそれは錯覚です。なぜなら、文明の本文は「究極の幸せに近づき、その中に入る!」ことだからです。
私達の心は、外に向かえば向かうほど落ち着きがなくなり、荒み、能力の減退を招くようにできています。逆に内に入れば入るほど落ち着きが増し、安らぎ、本来、持っている能力が冴えるようにできています。このことからいっても、幸せは心が関係するのであって、文明が関係するので無いことが分かります。
確かに装いを見ると、物質(機械)文明は実に華やかで魅力ある文明に見えます。でも、その弊害も大きいのです。あなたは電話番号を何件覚えていますか?。携帯電話やカーナビを使うようになってから、あなたの記憶力や直感力は衰えたのではありませんか?。計算機を使うようになってから、あなたの計算能力は落ちたのではありませんか?。このように機械文明は、私達の能力を潰してもいるのです。私達は、何でも成し得る「意識」という偉大なコンピューターを持っているのですよ!。そのコンピューターを使えば、もう機械文明に頼る必要はないのです。
機械文明は、精神文明に向かう通り道にしか過ぎません。ですから、華やかな物質文明がいつまでも続くと思ってはなりません。地球人類はその直前にいるのです。
○ 人間は、人の目の届かないところでは平気で悪いことをします。心の中の悪さを考えたら、恐らく目を覆いたくなるでしょう。なぜそのような心を持つのかといいますと、自分の心と他人の心が別々だと思っているからです。でも宇宙には、宇宙生命という一つの心しか無いのです。その一つしか無い心を、人間だと思うことによって、個別の心に分けてしまったのです。でもどんなに分けようと、心は一つしかありません。一つしかないから、本当の自分に嘘がつけないのです。
本当の自分とは、宇宙生命の自分です。宇宙生命の自分の心、すなわち良心です。良心が警察なら、人の目が有ろうが無かろうが、悪いことはできないのではありませんか?。
ルールに頼るのは他力です。良心に頼るのは自力です。罰則が怖いから守るのでは、大人とはいえません。誰が見ていても見ていなくても、良心に恥じない生き方ができて、はじめて大人といえるのです。
大人の社会にルールは必要ありません。「天知る」「地知る」「人知る」「我知る」です。我はすべての全てだから、すべてを知って当たり前です。
地球人は良心に生きることなどできないと思っていますが、宇宙には良心に生きている星が数知れないほどあるのですよ。地球も、一日も早くその仲間入りをしたいものです。
○ 私達が毎日受け取っている情報は、すべて「幻」の情報です。なぜなら、この世そのものが幻だからです。この世の知識はこの世限りのもの・・・。そんな幻の情報を携帯電話やインターネットで追い求め、あなたの生活はおかしくなっていませんか?。常に頭の中は雑念で一杯ではありませんか?。これでは心が安らぐはずありません。
できるだけ無駄な情報は受け取らないことです。また不必要な情報を自分から発信しないことです。どうしても必要な場合でも、必要最小限度に止めるべきです。
繰り返します。
外は幻の世界ですから、外の世界から得る情報は幻です。その情報は、まだ幻の世界に用のある人だけに必要な情報です。真実に目覚めた人は、この世の情報はあまり必要としません。私達は一日も早く、外側の情報を必要としない人になりたいものです。
○ 武器不要論を唱えれば、"武器を持たなければ侵略され皆殺しにされてしまうよ!"と、多くの人はいうでしょう。良いではありませんか?。どうせ、人はいつか必ず死ぬのですから・・・。こんなことをいうと"無責任極まりない!"と怒られそうですが、でも考えて見て下さい。今、勝った負けたといっている人も、百五十年後にはこの世にいないのですよ。一時、勝った夢を見ているようなものです。
今、死ぬ人も、百五十年後に死ぬ人も、宇宙時間においては大差ないのです。それに人は常に生まれ変わっているのですから、今、勝った負けたといっている人も、次生どこに生まれるか分からないのです。事実、今、戦っている敵国に、前世、生まれていた人達が沢山います。ということは、今、戦っている人の中に自分の肉体子孫がいるということです。その人達は、自分の子孫と殺し合いをしているのです。
殺し合いで物事が解決したことなど、ただの一度もありません。殴れば殴り返されます。殺せば殺されます。
「目には目を歯には歯を」とは、
"相手を殺せば自分も必ず殺されますよ!、相手を傷つければ自分も必ず傷つけられますよ!、だから決して人を傷つけたり殺したりしてはなりませんよ!、"
との戒めの言葉なのです。" やられたらやり返せ!" という意味では無いのです。
○ これまでの人生の総決算として、今の環境があります。つらく厳しい環境、平安で穏やかな環境、すべて因果応報によるものです。見方を変えれば、必要だから与えられた環境です。だから有り難く受け入れ、その環境で精いっぱい生きることです。
人を口で諭せるものではありません。また自分も人から諭されるものでもありません。でも環境は、黙っていても諭してくれます。環境が気づかせ、学ばせ、成長させてくれるのです。だから環境は愛そのもの、慈しみそのもの、といわれるのです。
たとえば障害者は、家族の厄介者と思われがちですが、実際は家族の方が障害者から多くのことを学んでいるのです。どんな厄介者も、どんな乱暴者も、どんな薄命な者も、愛の環境として大切な役割を果たしているのです。
愛の環境とは、人を成長させる役割を持った環境のことです。あなたも、あなたの肉親も、妻も、夫も、友人も、職場の仲間も、あなたが出会うすべての人、すべての生き物、みな縁が結んでくれた愛の環境です。その愛の環境が、これまであなたを成長させてくれたし、これからも成長させてくれるのです。
自分を生んでくれた両親に感謝しましょう。妻や夫に感謝しましょう。周りの人達に感謝しましょう。すべての環境に感謝しましょう。今あなたが、どんなに辛く苦しい環境にいようとも・・・です。一生懸命 生きていれば、そこで生きている意味が分かってきます。その時あなたは、両親に、兄弟姉妹に、妻や夫に、子供達に、周りの人達に、今の環境に、感謝できるでしょう。
○ 利害の溝をどう埋めるか?、これは非常に難しい問題です。個人の立場に立てば、東西南北それぞれ違う立場から見るわけですから、利害が生じるのは当然です。我を通そうとすれば、永久に平行線のままでしょう。では、どうすれば解決できるのでしょうか?。
それは、立場を拡大するしかありません。一個人の立場から、社会全体の立場に立つことです。一窓口の立場から、役所全体の立場に立つことです。地から見るのでは無く、天から見ることです。すなわち、人の目から見るのではなく、生命の目から見ることです。極言すれば、あなた私の障壁を取り払い、一つ目になることです。その見方も、一時の目で見るのでは無く、永遠の目で見ることです。そうすれば利害の枠を越え、譲り合う心も生まれてくるでしょう。(一つ目になるとは、全ての物を同じものとして見ること、すなわち、全てを私として見ることです。)
○ 銃の引き金を引かせているのは何(誰)ですか?。核爆弾のボタンを押させているのは何(誰)ですか?。手ですか?、心ですか?。
そうです。事の起こりの背後にあるのは、すべて心です。心が肉体を動かしているのです。人間はこのことを深く考えようとしません。だから心を粗末にするのです。
この事実をしっかりと認識すべきです。
真に国民の幸せを考えるなら、心のメカニズムを解明し、正しい心の使い方を国民に周知させるべきです。これは国策として、真っ先に取り組まねばならない重要課題です。源流を清めれば黙っていても下流が清まるように、原因である心を清めれば結果である社会は黙っていても清まるのです。何事も "心" が関係していることを、教育者にも、政治家にも、知って欲しいと思います。
○ 労働力は、本来、売買の対象にならないものです。なぜなら、労働は肉体がするのでは無く、心がするものだからです。心は売買できません。でも肉体が労働すると考えれば、肉体は物質ですから売買の対象になってしまいます。労働力が売買の対象になれば、とうぜん生産物もサービスも売買の対象になってしまうでしょう。
今の社会でお金が幅を利かしているのは、労働力が売買の対象物として扱われているからです。もし売買の対象物から外されれば、個々人の労働力は社会的財産(奉仕労働力)として扱われるはずです。なぜなら、労働力をバラバラに使うより、集めて使う方が合理的だからです。そうなると、社会的財産から生まれた生産物は、とうぜん社会全体のものになるでしょう。配分についても、お金から生まれた物の配分にはお金が必要ですが、奉仕労働力(心)から生まれた物の配分にはお金は必要なくなるでしょう。そうなれば、良心に委ねる「自由収得制」が採用されるのは当然の成り行きです。一人ひとりの心が生み出した生産物の配分は、一人ひとりの心に委ねるのは当然だし、その方が間違いないからです。
奉仕社会では、価値の根源が心にあることを認めていますので、どんな自然物も、どんな生産物も、どんなサービスも、心の表現物として大切に扱われます。でも物に価値の置く社会では、物は単に物として扱われますので、無謀な開発、無謀な生産、乱暴な消費が当然の如く行われるのです。また人生の目的が物を得ることにあるなら、汗水流して金集めに躍起になるのもまた当然でしょう。
労働力は「知恵と力」の結晶です。知恵も見えなければ力も見えません。その見えない知恵と力が物を生み出しているのですから、物を単に物として扱うのでは無く、心を持った生き物として大切に扱うべきでしょう。(知恵も力も心の産物)
○ 配分を良心に委ねる「自由収得制度」を、夢のように考えてはなりません。なぜなら、今も現に行っているからです。あなたは、家族からお金を取って食べさせていますか?。お金を取って着せていますか?。お金を取って住まわせていますか?。取っていませんね。それは、家族間に自他の溝が無いからです。この考えを社会に広げたのが自由収得制度ですから、お金は不要になるのです。
さらに家業をやっている家では、家族の労働力は惜しみなく家業に使われているはずですし、家業で得た糧も家族全員のために使われているはずです。この発想を広げたのが奉仕社会ですから、労働奉仕制も自由収得制も異端な制度では無くなるのです。つまり社会の営みを家業と考えれば、一人ひとりの労働力を社会全体のために使い、そこで生み出された物の配分も一人ひとりの良心に委ねるのは当たり前なのです。全人類が兄弟姉妹だと知り自他の溝が無くなった社会では、このような発想が生まれて当然なのです。
○ 人間は過去にこだわり過ぎます。過去は閉ざされたページです。"過去を清算せよ!"という国がありますが、過去をどう清算せよというのでしょうか?。お金で清算することを清算というなら、それはただお金が欲しいだけではありませんか?。
精算できる過去などあるわけがないのです。もしあるとすれば、今、仲良くすることです。そうすれば戦争で犠牲になった人達も、きっと喜んでくれるでしょう。いつまでもいがみ合っていては、亡くなった人達は浮かばれません。ですから靖国神社にお参りすることでも、慰霊碑に花束を捧げることでも無く、お互い仲良くすることが、亡くなった人達に対する最大の供養になるのです。
○ あなたがどんなに"私は生命で無い!"と主張しようと、あなたの本性が生命であることに変わりは無いのです。私意で真実は曲げられないということです。もしあなたに真実を見る目が備わったら、自分のことを納得して生命と認めるでしょう。だから私は何度もいうのです。"本当の自分を知りなさい!、本当の自分に目覚めなさい!"、と・・・。
本当のあなたは生命なのです。あなたの本性は生命なのです。このことは、いくらいってもいい過ぎるということはありません。あなたがどんなに違うと突っ張ろうと、生命である既成事実が変わることは無いのです。真実はどこまでも真実のままです。ニセモノはどこまでもニセモノのままです。今の私達は、カモがアヒルと勘違いし、空飛ぶ鳥をうらやましがっているようなものです。本当の自分に目覚めれば、今すぐにでも空を飛べるようになるのです。
生命になるのに、難しい修行をする必要はありません。何かを拝む必要もありません。もともと生命だからです。初めから生命だからです。何かすることがあるとすれば、自分を生命だと認めることだけです。
○ 今人類は膨大な費用をかけ宇宙に探査機を送っていますが、これほど予算の無駄遣いはありません。なぜなら、外から得るものはみな幻(結果)だからです。幻(結果)を得て、一体、何になるのでしょう?。私達が求めるべきものは、幻(結果)では無く真実(原因)ではありませんか?。
一体、宇宙の塵を集めて何になるのですか?。どんなに遠くの塵を集めても、それはみな幻なのですよ!。この表現宇宙に存在するもので、一つだって真実なるものは無いのですよ!。
そんなに宇宙の塵を研究したいなら、自分の足元にある塵を研究したら良いではありませんか?。何億光年先にある塵も、足元にある塵も、同じ本質(真実)によって生み出された物だからです。
私は批判しているのではありません。欲しいものが自分の家にあるのに、わざわざ遠くに出掛ける必要が無い!、ということに気付いてもらいたいのです。そんな予算があるなら、心の研究のために使った方がどれほど国民のためになることか!?・・・。
この宇宙は、一つの真実を知れば全てを知ることができるようになっているのです。その一つの真実は、どこか遠い所にあるのではなく、一番 身近な私達の心の中にあるのです。(私達の心は原因次元にある)だから私は予算を使うなら、心の研究に使ってほしいと願うわけです。
現れているものは非真実です。現しているものは真実です。このことに一日も早く気付いてもらいたいものです。
○ このメッセージは、私の恩師である知花先生の口から語られた真理を、一般人にも理解できるよう目線を下げ、さらに噛み砕き、そこに私の観じた宇宙の薫りをまぶして書き上げたものです。私がここで強調したいのは、恩師の教えと宗教を一緒くたにして欲しく無いということです。
既存の宗教の教えと恩師の教えの違いは、次のような例えで示すことができるでしょう。
池の鯉をマナ板の上に乗せ、色や、艶や、固さや、匂いなどを観察し、さらに包丁で腹を裂いて内臓器官を観察し、鯉とはこのようなものである! 、と物的に示したのが既存の宗教の教えだとすれば、鯉を生かしている命の本源に観察者自らが潜り込み、鯉とはこのようなものである! 、と心的に示したのが恩師の教えです。
さらに既存の宗教の教えは、神あるいは超越的絶対者を外側から推理・推論し、ドグマ的思想によって組み立てた知的な教えです。つまり、自分がそのものになっていない、ただ「ああそうか!」で終わってしまう、自己満足に過ぎない教えです。それに対して恩師の教えは、自らが内側に潜り込んで神的体験をし、それを身を通して(エネルギーとして・波動として)現した真実なる教えです。真にそのものになることができたら、現実に生き方が変わり、自分の身に変性・変容が起きるのです。(天の技を地に降ろし、実際に使うことができる。)
いかがでしょう。既存の宗教の教えと、恩師の教えの違いが分かってもらえたでしょうか?。
くどいようですが、
「真の宗教とは、神を祭ったり拝んだりすることではなく、心の底で本当の自分を知ることです。生命を自覚し、生命そのものになることです。」
以上復習を兼ね、気付いた点をまとめさせていただきました。
私は、すべての人に知って欲しいと願っているわけではありません。真剣に真理を求めている人達や、縁ある人達に知って欲しいと願っているだけです。知れば、きっと疑問に思っていた人生の謎が解けるでしょう。そんな人が一人でも多くなれば、地球に光が差してきます。地道ではありますが、それしか地球を変える方法は無いのです。ですから、まずは知って下さい。そして知ったら実践して下さい。自分が変われば、周囲の人達も変わって欲しいと思うのは当然ですから、そうなったら伝えて下さい。
真理を会得するのは容易なことではありません。知れば知るほど、誤解も、疑問も、深まるからです。でも今の地球には、波立たせることが必要なのです。イエス・キリスト、一人現れただけでも、あれだけ大きな波紋が起きたのですよ!。もし皆さんが行動を起こせば、どれほど大きな波紋を起すことができるでしょうか?。考えただけでもゾクゾクしませんか!。
私達は気の遠くなる年月人間として生きてきたわけですから、"今すぐ人間を捨てて生命になりなさい!"といってもできるものではありません。だから、少しずつ少しずつ変えてゆくしかないのです。私はその意味においても、真剣に真理を求めている人に、縁ある人に、このメッセージを読んでもらいたいと思うのです。
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