宇宙を知るには数字を理解すれば良いといわれるくらい、数字は宇宙を如実に現しています。特に「1」という数字は、宇宙の原点ともなっている数字で、「1」で宇宙のすべてを知ることができ、「1」で宇宙のすべてを語ることができる、最も大切な数字なのです。すなわち「1」は無限を意味し一点を意味するところから、「1」を探れば宇宙の始まりと終わりを知ることができるのです。
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何度もいいますように、宇宙は一つの生き物です。宇宙そのものが、一つの生命体なのです。一命とは、「一つの命からすべてのものが生まれた、だからどんなものも一つの命の現れである!」という意味です。そして数命とは、数は命であり命は数である、だから数を知れば生命を知ることができ、生命を知れば数を知ることができるわけです。なぜ数と命は同じものかといいますと、「1」という数字から無数の命が生まれたからです。だから「1」は命の故郷、命の源ともいわれているのです。
本来宇宙には、「1」という一つの数字しか無いのです。「1」は元数といって、すべての数の本元です。本元なるがゆえに無限です。ゆえに、1=∞ と記すのです。
元数1から別れた数を「分数」あるいは「幻数」といいますが、そう呼ばれるのは、表現世界にのみ存在する幻の数だからです。その分数が元素になっており、その元素に番号を付けたのが原子番号なのです。
このように「元数1」から無数の分数(幻数)が生まれたわけですが、その分数一つ一つには、その数字にしか果たせない役割が持たされています。1には1の役割が、2には2の役割が、3には3の役割が、4、5、6、・・・そのすべての分数に独自の役割が持たされているのです。これは分数が、表現宇宙を創造する素材(元素)となっているところから、その一つひとつに特異な性質や能力が持たされていると考えられるからです。様々な物質は、その組み合わせによって生まれるわけですが、これは宇宙の約束事の一つです。たとえば、ある分数とある分数をプラスすればこのような性質の物質が生まれる、ある分数からある分数をマイナスすればこのような性質の物質に変化する、といった具合です。その分数は単体になればなるほど性質はきつくなり、合体されればされるほど穏やかになります。分数一つ一つの役割は、すでに固定化されていますから、単独では変化できないのです。合体したり分離したりすることによってのみ、変化できるのです。
本来合体は調和で、分離は不調和です。分離すればするほど元数1から遠のき、合体すればするほど元数1に近づいて行くからです。すなわち元数1から遠のけば、知恵(意識・記憶)や力や光が薄められ、近づけば、知恵や力や光が強められるのです。でも、分離も必要な場合があるのです。建設的な分離は、合体と同じ効果を生み出すからです。分離と合体の循環は調和なのです。
さてこの宇宙は、体験の必要なうちは数の分散が行われ、必要無くなれば調和を目指して「1」に帰って行きます。「1」から生まれたものが「1」に帰るのは、宇宙の定めなのです。だから 1+1=1であり、2+2=1であり、50+50=1 になるわけです。どんなに数を+しても1にしかならないのは、分数は元数から生まれた子供達だからです。元数1を切り刻んだのが分数ですから、分数を集めれば元の元数1に戻るのは当たり前なのです。
たとえば、ここに一つの大きな砂糖の山があり、その砂糖を百人に分けたとします。でも、何かの都合で回収しなければならなくなった場合、回収した人数をプラスし百として読むでしょうか、一つの砂糖の山として読むでしょうか?。これと同じように、どんなものもみな「同じ1」「同じ宇宙」「同じ生命」「同じ意識」「同じ私」です。沢山のものがあるのではなく、一つの宇宙、一つの生命、一つの意識、一つの私があるだけです。絶対なる「1」は全能です。無限の力、無限の知恵、無限の光を秘めた本源・本質です。ここに帰れば安泰です。
※ 分数・・物質・原子
幻数・・幽質・反原子
元数・・生命・絶対原子
この三つの数字は、通常、三位(身)一体(元数1)になっている。
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悟りは、すべてが一つであることを心の底で知った状態です。瞑想は「1」に帰る手段です。つまり、一つの命が無数の形に分かれ、再び一つの命に帰る旅が「悟り」の旅なのです。これは元数1から生まれた無数の分数が、元数1に帰る旅ともいい替えれるでしょう。要するに、白光源から放射された無数の色光線(元素・原子)が、再び白光源に帰る旅が「悟り」の旅なのです。
「分数が元数を認めた時、分数は事実上 元数になる」といわれるのは、分数が元数から出てきたことを悟れば、分数は元数のような生き方や働き方ができるようになるからです。どんなものも「1」の現れだと自覚できれば、それは「悟り」です。様々なもの、様々な数があると見るなら迷いです。世の人々は、他人がある、鉱物がある、植物がある、動物があると思っているから、平気で恨み、憎み、怒り、殺したりするのです。すべて一から生まれた兄弟姉妹だと知ったら、決してそのような愚かなことはしないでしょう。何かを恨んだり殺したりすることは、自分を恨み殺すことになるからです。
この宇宙には、一つの数字しかありません。一つの命しかありません。一つの意識しかありません。私しかいないのです。私からすべてのものは生まれたのです。孫悟空が自分の毛をむしって息を吹きかけ、沢山の分身を生み出したように、宇宙も宇宙生命が塵に息を吹きかけ、無数の分身を生み出したのです。その分身が、「分数」であり、「元素」であり、「物質」であり、「人間」です。すべて宇宙生命の分身です。元数1からすべてのものが誕生したことを考えれば、どんな悪も、どんな不完全も、その根が完全であることは疑う余地が無いでしょう。
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「毒は毒をもって制する」という諺がありますが、なぜ毒をぶつけると毒を制することができるのかといえば、それは自分が痛い目に遭って相手の痛みが分かるように、毒をぶつけられることによって悪の苦みを知り、潜在していた善を引き出すことができるからです。「目には目を歯には歯を」という旧約聖書に出てくる言葉は、そのことを教えているのです。「やられたらやり返せ!」という意味ではありません。自分が受けた同じ苦しみを、人に与えてはならないという戒めの言葉なのです。悪を体験することで悪の苦みを知り、良い行いが引き出せるというわけです。それはこの宇宙に、もともと悪や不完全が無いからできることなのです。それを地で行っているのが、ホメオパシーという医療です。
偏った生活をすると毒(負のエネルギー)を生み出し病気になりますが、その毒に毒をぶつけ現象面で治そうというのが、ホメオパシーという薬餌療法です。この治療法は、もともと毒も薬も出所は同じである、同じ元数1から生まれたものである、という考えが前提になっているのです。元数1から生まれた分数には、元数の能力や性質が受け継がれているわけですが、通常は与えられた役割を忠実に果たすだけで、その能力や性質は潜在したままです。ところが、自分と同じ数字をぶつけられると、潜在していた能力や性質が蘇り、抗体あるいは免疫として働くようになるのです。要するに、痛い目を見て目覚めるわけです。これはもともと、分数に元数の能力や性質が受け継がれているからできることなのです。いや、もともと一つだからできるのです。このように元数1は、分数に身をやつしても、どこまでも「1」として働いているのです。
先に、宇宙に数字は元数1しか存在しないといいましたが、厳密にいえば、もう一つ存在するのです。それは〇という数字です。〇が数字かどうかは異論のあるところですが、この〇は相対世界にだけ存在する、これも幻の数字なのです。
ちなみに〇は、永遠と完全を演出する役割を担っています。〇にどんな数字を×ても、÷ても、+ても、-ても、〇になります。〇は毒消しのような働きがあるのです。また〇は、どこから始まって、どこで終わるという境目はありません。永遠に弧を描いています。〇の中に入れば、すべてが完全になってしまうのです。無限の印である∞は、二つの〇を縦に結んだもので、上の〇は絶対界を意味し、下の〇は相対界(表現世界)を意味し、この二つの〇をつないで∞とし、そこを循環することで宇宙は永遠と完全を得ているのです。つまり〇は、相対宇宙と絶対宇宙をつなぐ、架け橋的存在になっているわけです。更にいえば、「元数1」は、相対界を超越した絶対宇宙そのものなのに対し、「〇」は絶対宇宙を相対宇宙に写し出す鏡のような役割をしているのです。このことは、電子と原子核(陽子)の関係になぞらえることができるかも知れません。すなわち、電子は創造の場で現れているもの、原子核は創造の力で現わしているもの、この二つの関係は、相対宇宙と絶対宇宙の依存関係そのもの、つまり〇と1の関係そのものといえるのです。
元数1は父なる神を示し、第一の故郷です。〇は母なる神を示し、第二の故郷です。すなわち元数1は「天」で、〇は「地」です。私達はいつか母なる大地の故郷から、父なる天の故郷に〇を通して帰らなければならないのです。
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元数1(生命)から別れた分数(原子)は、単なる分数ではありません。元数1の属性をすべて備え持った分身です。その分数(原子)によって私達は創られたわけですから、私達も元数1の属性を備え持っていて当然でしょう。ということは、元数1は絶対宇宙そのものですから、私達の中にも絶対宇宙が内在していることになります。いや、私達だけではありません。石一個の中にも、虫一匹の中にも、花一輪の中にも、絶対宇宙が内在しているのです。すなわち、表現宇宙の中に絶対宇宙が内在し、絶対宇宙の中に表現宇宙が内在しているのです。だから、すべてのものの中に私がおり、私の中にすべてのものがいる、といういい方ができるのです。私はあなたであり、あなたは私であるといえるのも、すべてのものの中に私がいるからです。なぜなら、私は元数1そのものであり、宇宙生命そのものだからです。
原子が有限(個)であると同時に無限なのは、原子の中に絶対原子が内在しているからです。すべてのものの中に私がいる理由も、絶対原子と対になっている原子が、すべてのものの中に内在しているからです。ただし、原子そのものは絶対原子の媒体として造られたものですから、実在しているものではありません。役割が終れば、自ら生み出したブラックホールに呑み込まれ消えて行く儚い存在です。原子は幻なのです。だから物質も幻です。人間も幻です。表現宇宙も幻です。一個一個の原子の中に、幻と本物が同居しているというわけです。
一つのものの中には、一つのものしか無いのです。もしこの宇宙に二つのものがあるなら、宇宙は一瞬に消滅してしまわなければなりません。しかし、現に宇宙は存在しているわけですから、一つのものしか無いという証になるのです。私が個人で無く無限の存在といえるのも、現に私が今存在しているからです。もし私が個人なら、宇宙はとっくに消滅しているはずです。
真実の世界に、真実なるものが二つも三つもあるなら、それは真実で無くなってしまいます。無限の中に個があるなら、無限は無限でなくなってしまうのと同じ理屈です。無限しか無いから、無限は無限でいられるのです。だから、この宇宙に個人はいないのです。宇宙に一つのものしか無い理由が、無限の私しかいないことを証明しているのです。
真実の世界においては、一と多は同居できないのです。同居できるのは、非真実の世界(表現の世界)のみです。その点からいっても、私達の住んでいる表現宇宙が、幻の世界だという事が分かるわけです。
あなたの中には、あなたしか存在できないのです。あなたの中にあなたしかいないから、今あなたは存在できているのです。宇宙の中に一つの宇宙しかないから、今宇宙は存在できているのです。一はどこまでも一です。一が、二にも三にもなることはないのです。私があなたになれなく、あなたが私になれないのと同じです。だから真実は一つしか無いのです。ただし一つしか無い真実は、そのままでは自分の存在を明かすことができませんので、真実は非真実の世界を創り、そこから自分をアピールしているわけです。真実の世界に真実は一つしかないけれど、非真実を通してなら真実はいくらでも存在できるのです。だから一は多であり、多は一なのです。個は無限であり、無限は個なのです。すなわち、私は無限であり、無限は私なのです。なのに私達は肉体を自分と誤解し、無限の自分を小さな自分にしています。自分を無限に解放すれば、風にも、雲にも、月にも、星にも、太陽にも、大宇宙にもなれるのに、自ら小さな肉体の中に閉じ込め、自らを不自由にしているのです。どうか小さな肉の中に自分を閉じ込めないで下さい。
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