人の見出した真理は人のものです。自分が見出した真理は自分のものです。真理は当人が感受するものですから、人に教えることはできないのです。だから昔から、真理の受け売りはできないといわれてきたわけです。真理を自分のものにしたければ、自分の心に問いかけ、自分の心から回答を得ることです。なぜなら、自分の心中に全能の神がおられるからです。
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一度、医者に、「人間とは何ですか?」と質問してみて下さい。多分人間とは、心臓があって、肺があって、脳があって、と、このボディーのことを人間というはずです。そして、ものを考えるのは脳ですよ!、というはずです。もし脳がものを考えるなら、コンピューターが発明発見するといわねばなりません。でもコンピュターは、入力されたものしか回答できないのです。それは、コンピューターは物質だからです。脳も同じ物質ですから、記憶したものしか回答できないのです。ものを思い、考え、語り、行っているのは生命です。素晴らしい発見や発明は、みな生命がやっていることなのです。
あなたは学校で、動く物だけが生き物だと教えられたはずです。また、人間だけに意識があると教えられたはずです。でも、それも誤りです。形ある物 形なきものに みな意識があり、生きているのです。つまり、木屑一つにも、砂一粒にも、鉄屑一つにも、ガラスのカケラ一つにも、意識があり生きているということです。だから偉大なスポーツ選手は、道具を大切にするのです。どんな物も生きているのですから、粗末に扱ってはならないということです。
このように私達は、幼い頃から誤った観念を植え付けられてきたわけですが、今、あなたが自分のことをボディーだと思い込んでいるのも、その誤った観念の一つです。その固定観念は、思想化されるぐらい深く心に刻み込まれております。なぜ刻み込まれているかといいますと、私達は今生だけでなく、これまで何度も何度も人間として生きてきたからです。これを仏教では「輪廻転生」といっていますが、私達は一回限りの人生ではないのです。本当の自分を知るまで、何度も何度も生まれ変わってくるのです。その生死を繰り返しているうちに、誤った観念を深く植え付けてしまったのです。
その誤った観念を取るには、「自分は人間では無い!、生命である!」と自分にいい聞かせ思い聞かせる瞑想が必要なのです。ギブスをはめていた手を使えるようにするのにリハビリーが必要なように、誤った観念を取るにも瞑想というリハビリーが必要なのです。
瞑想については第三章で詳しく述べますが、今、あなたがやらねばならないのは、人間という誤った観念をまず払拭することです。そして、自分の本性が生命であることを「知る」ことです。知れば波動が上がり、理解力が増します。理解力が増せば、追求する意欲も強まりますから、その後「なぜ自分は生命なのか?」疑問点を掘り下げていって下さい。
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人生の目的は自分を知るためにあるのだから、あまり勉強する必要も無い、あまり働く必要も無いといったら、世間の人達はどう思うでしょうか?。多分、気違い扱いするでしょうね。いう必要はないのです。心の中でやればいいのですから、自分だけの秘密にしておけばいいのです。
この世の宝探しは、外に出て人と競わねばなりませんから大変ですが、心の中の宝探しはその必要がないので案外と楽です。といっても私は、怠け者になりなさいといっているのではありません。もしあなたが、今の勉強や仕事が面白くやりがいがあるなら、大いにやって下さい。でも苦しいなら、苦しくない程度にやって下さい。苦しくて苦しくて仕方がないなら、やらなくてもいいのです。ただ、社会常識程度の知識は身に付けて下さい。食べられるだけの仕事はして下さい。それが苦しいなら、それは甘えです。怠け者といわれても仕方がありません。要するに、今の社会で生きられるだけの事はして下さい。そして余った時間を、本当の自分を「探す」ことに使って下さい。
これまで多くの人達が、お金をかけ時間をかけ真実を探し求めてきましたが、手に入れたのはほんの一握りの人達だけでした。なぜでしょう?。それは、外側に真実を探し求めていたからです。この世に真実を作っている所もなければ、売っている所も無いのです。唯一真実は、手よりも足よりも近い自分の心の中にあるのです。ただしどんなに身近にあっても根気よく、それも真剣に探さなければ手に入れることはできません。真実という宝物は、心の奥深いところに隠されているからです。
では具体的に、どのように探せばいいのでしょうか?。それは、疑問に思っていることを自分に問いかけることです。すなわち、人生の思索、宇宙の思索、生命の思索することです。真剣に問いかければ、必要な回答が得られます。それも実感として・・・。気付きとして・・・。これは体験者である私が保証します。
何事でもそうですが、何かを得るにはコツを教えてくれるアドバイザーが必要です。そのアドバイザーは、真剣に真理を求める者と縁を結んでいますので、探せば必ず巡り会えるようになっています。「探す」とはこのように、まずアドバイザーを探すこと、次に自分の心の中を探すことなのです。
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恋人を愛している人は、片時も恋人のことを忘れません。同じように生命を愛するなら、片時も生命を忘れてはなりません。求めるとは、片時も生命を忘れないこと、常に生命を意識すること、常に生命を想うことなのです。
恋人のことを想っていれば気持が通じ合うように、生命を想っていれば必ず気持が通じ合うようになります。これは「想念は実現の母」が保証してくれるので間違いありません。思うことは欲することです。欲すれば与えられるのが宇宙の仕組ですから、思えば思うほど早く与えられるのです。それほど想念は偉大な力を秘めているのです。
普段の生活の中で、どれだけ生命を想うかが勝負です。「求める」とは、「想うこと!、意識すること!」、なのです。
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私達は生まれた時から五感を頼りに生きてきたため、五感で物事を理解する癖が付いております。見える物を理解するのはそれでいいのですが、見えない真実を理解するには、沈思黙考して 直接 真実と触れ合わねば理解できないのです。瞑想は 直接 真実と触れ合うための方法なのです。
「子が父を知った時、父は子を知りたもう!。」
「子が父を認めた時、父は子を通して現われ、子は 事実上 父のような働きができるようになる!。」
という覚者の言葉がありますが、その意味は、「表面意識(自我意識・子・人間)が潜在意識(真我意識・父・生命)に触れた時、潜在意識は表面意識を通して現われ、表面意識は 事実上 潜在意識のような働きができるようになる」という意味です。よくハイヤーセルフのことを口にする人がおりますが、ハイヤーセルフとは、潜在意識の本当の自分のことなのです。潜在意識に触れ合った状態が、直接、真実(父・生命・神)に触れ合った状態なのです。でもこれは、何も神秘的なことではないのです。
表面意識も潜在意識も同じ生命意識ですから、表面意識を潜在意識に触れさせれば、潜在意識の思いが表面意識に浮かび上がり、潜在意識が去っても浮かび上がった思いは、表面意識に余韻として残るのです。余韻は時間と共に消え去りますが、表面意識と潜在意識の触れ合いを繰り返すことによって、やがて表面意識は潜在意識にとって代わられてしまうのです。つまり自我意識が、真我意識にとって代わられてしまうのです。この触れ合いを繰り返すことが、「叩く!」ことなのです。
覚者が "叩きなさい!" と口癖のようにいうのは、繰り返し叩くことで表面意識が潜在意識にとって代わられることを、体験的に知っているからです。だから覚者は、瞑想を重要視するわけです。このように「叩く」とは、「瞑想」をすることなのです。
おさらいします。
○ まず、自分の心の中に真我(生命)が存在する!、という事実を「知る」ことです。
○ 知ったら、自分の心の中に真我を「探す」ことです。すなわち、覚者(アドバイザー)の言葉を手掛かりに思索をすることです。
○ そして生命を片時も忘れず意識すること、想うこと、すなわち「求める」ことです。
○ 最後に「叩く」ことです。すなわち瞑想することです。「吾生命なり!」が叩くことなのです。
本当の自分を知るためには、この四点は必須科目です。どうか「知る!」「探す!」「求める!」「叩く!」ことを実践して下さい。
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真実を探しなさいと言われても、その道は細く長くイバラな道ですから、新たな道を開拓するとなると大変な時間と労力が必要になります。でも幸いなことに私達には、すでに知花先生が敷いてくれた道があります。ですから素直にその道に沿って進めば、そう苦労しなくても頂上に辿り着くことができるのです。
先生は今はおられませんが、先生が話された真理が、ビデオテープやカセットテープや本などになって残されております。ビデオテープを見て、カセットテープを聴いて、本を読んで、「瞑想すること」、それが先生が敷いてくれた「道に沿う」という意味です。どうか、探して!、探して!、求めて!、求めて!、叩いて!、叩いて!、真理を我がものとして下さい。
何もしないで待っていて、どうして欲しいものが手に入るだろうか?。本当に欲しいなら、自分の方から探し求めることである。
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