人間の不幸は、実際に有るものと無い物の識別ができないがゆえである、と覚者はいっております。もし、実際に有るものと無い物の識別ができたら、この世から一切の争い事は無くなるでしょう。なぜなら、誰も実際に無いカゲロウを奪い合う愚かなことはしないはずだからです。では、実際に有るものとは何か?、実際に無い物とは何か?、識別してみたいと思います。
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実際に有るものを実在といい、実際に無いものを非実在といいます。実際に有るものとは、永遠に無くならないもの、不変不動のもの、つまり真理のことです。ですから「意識」は実在です。「生命」は実在です。「光」は実在です。「元数」は実在です。「神」は実在です。これを称して、絶対界とか実在界とか呼んでいます。
実際に無いものとは、無常なるもの、可変変動するもの、つまり非真理のことです。ですから「物質」は非実在です。「時空」は非実在です。「影」は非実在です。「分数」は非実在です。「人間」は非実在です。
鉱物も、植物も、動物も、人間も、いつか必ず無くなりますから実在するものではありません。もし人間が実在するなら、死ぬことはありません。実在しないから、人間は死ぬのです。鉱物も、植物も、動物も、星さえも、いつか必ず無くなります。
このように、形ある物は必ず崩壊し、朽ち果て、無くなってしまいます。だから、あなたのボディーは非実在です。あなたの子供は非実在です。あなたの妻や夫は非実在です。お金も財産も非実在です。地球も月も太陽も非実在です。この世の出来事は、みな時と共に時代と共に移り変わってゆく非実在です。日々、演じている人生劇もまた同じです。しかし形は非実在でも、それを生かしている「意識・生命・エネルギー」は実在です。
私達は見えないものは無いと思っていますが、この宇宙の実態は見えないものがホンモノで、見える物はみなニセモノなのです。形ある物は、みな見えない世界から出て、見えない世界へ帰るのです。すなわち見えない意識(理念)が先にあり、その表現の場として後に形の世界が創られたのです。形ある物の背後には、それを生み出している意識主(理念の主)が必ず存在しているということです。その意識主を私達は、「生命」とか「神」とか呼んでいるのです。
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画家がいなくては絵が生まれ無いように、生命無しに物は生まれません。どんな物(形)にも、必ず生みの親である生命がおり、その生命が形の中で生きて働いているのです。形はただの死に絵です。形として表現し終わったものは、何の進展性も発展性もないから死に絵なのです。形が実在でない理由は、次のような例えでも説明できるでしょう。
粘土(素材)をこねて人形を作ったとします。そこには、人の形をした粘土があるだけです。粘土は無くなりませんが、形は崩してしまえば無くなります。人間も、生命(素材)によって創られた形ですから、形を粉々にしてしまえば無くなるのです。ということは、人間という形は幻で、実際に有るのは素材である生命ということになります。その素材である生命が、生きて働いているのです。
私達は形が生きていると思っていますが、形は生きてもいなければ働いてもいないのです。生きて働いているのは、あくまでも素材である生命の方です。その形と生命が一体化しているため、私達は形が生きていると錯覚しているのです。形と生命は絶対不可分といって、決して切り離すことができないのです。
そのことを釈迦は、
「色不異空・空不異色・色即是空・空即是色」
といわれました。
つまり、見える「色」は見えない「空」であり、見えない「空」は見える「色」であるといわれたのです。その見えない空が、生きて働いているのです。だから人間が生きてるとも、働いているとも、いってはならないのです。今 考えていたのは、今 語っていたのは、今 行っていたのは、実際にある空、つまり生命だったのです。
このように実在とは、永遠不滅・不変不動なる生命のことをいうのです。しかし残念なことに、生命には形がありませんので、そのままでは存在意味がありません。そこで生命は、自分の身代わりとして人間を創造したのです。だから人間には、生命の代弁代行役を果たす使命があるのです。これは光と影の関係に置換えれば、なお分かりやすいかも知れません。
影は光によって写し出された幻ですから、自分で動くことも働くこともできません。影には、一点の知恵も、一寸の力も、無いのです。影は光の表現媒体なのです。だからといって、光は影を軽んじるわけにはゆきません。なぜなら、光は影無しに自分の存在を明かすことができないからです。光と影は、相身互いの関係にあるのです。同じように、生命も人間なしに自分の存在を明かすことはできないのです。光と影が相身互いの関係にあるように、生命と人間も相身互いの関係にあるのです。その意味では、実在と非実在は同等の重みがあるといって良いでしょう。
先ほど形を取ったものは死に絵だといいましたが、では人間も死に絵なのでしょうか?。ええ、そのままでは死に絵になってしまいます。人間が死に絵にならないためには、絵でありながら画家としての自覚を持つ必要があるのです。つまり、人間でありながら生命としての自覚を持つ必要があるのです。もし人間が生命の自覚を持つことができたら、時空にいながら時空に縛られない自由な生き方ができるでしょう。その者は、絵でありながら画家なのです。人間でありながら生命なのです。形でありながら理念の主なのです。その者は、もう四苦から解放されています。私達は最終的に、非実在と実在を同時に生きる存在にならねばならないのです。人間が人間として生きる限り非実在ですが、生命として生きれば実在そのものになれるのです。
もう一つ、念を押しておかねばならないのは、夢も、幻覚も、幽界も、物質界も、みな非実在だということです。形ある物は、みな消えて無くなってしまうからです。ただ物質界は、五感によって本当にあるような錯覚を与えている点、夢や、幻覚や、幽界とは違うでしょう。
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