人間の最大の敵は死の恐怖です。でもその恐怖は、自分をボディーと錯覚する処から生まれた迷妄です。もし生命を自分と思えたら、誰もが死の恐怖から解放されるでしょう。死の恐怖は、本当の自分を知らない無知が生み出した誤解なのです。
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宇宙に死はふさわしくないといいましたが、なぜふさわしくないのでしょうか?。それは、宇宙からドラマを消し去ってしまうからです。ドラマの無い宇宙に、どんな意味があるというのでしょうか?。それはまさに、何も書かれていない本を見ているようなものです。死は人間を自分と信ずる者にだけあるのであって、生命を自分と信ずる者には無いのです。あるとすれば、ただ変化があるだけです。
物質は、個体・液体・気体の三態に変化します。どんな物質も、液体を通して必ず気体に戻るのです。昇華という言葉がありますが、物質から直接昇華することはありません。昇華しているように見えるナフタリンも、瞬間的に液体となり気体となっているのです。私達のボディーも、命が抜けると液体となり気体となり宇宙空間にバラ撒かれますが、それは形が無くなっただけで、本質は無くなっていないのです。その本質はいつか必ず縁に触れ、再び形を取るのです。変化したのは形のみで、本質も生命核(魂)も不変不動なのです。
ではボディーから生命核(魂)が抜けたら、どのような変化が起きるのでしょうか?。
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人間のボディーが、どのような構造になっているか大まかに説明しますと、まず中心に絶対原子(生命核)があります。中間に反原子体があります。そして外側に原子体があります。
ボディーから生命核が抜けると、ボディーは水を通して気体に帰ります。良く土に帰るといいますが、元素に帰ることを土に帰るといっているのです。人間はボディーの下に、反原子体というボディーとそっくりな体を持っており、死ぬとしばらくはその体をまとったまま地上近くをさ迷っています。
殆どの人は死んだら意識が無くなると思っていますが、ボディーを脱ぎ捨てても何ら変わらぬ意識状態を保って生きているのです。反原子体とボディーとは、何も違わないのです。姿形も同じ、柔らかさも同じ、温かさも同じ、脈も打っていますし、呼吸だってしています。だから、死んでもまだ生きていると錯覚している人達がいるわけです。
この反原子体は、ボディーの下着のようなもので、通常の場合、ボディーの余韻を残したエーテル体は、数日から数年で消えて無くなります。(あくまでも思いの強さによる)その間に意識の調整が行われ、その人のメンタルが描いた世界へ旅立って行くのです。落ち着く先は、自分と同じ理解度を持った人達の集まった世界です。そこで似通った精神状態の人達が、集落を成し生活しています。
このメンタルな世界は生命の理解度によって、上は光の体を持った階層から、下は動物さながらの階層から人間臭い階層まで無数の世界に分かれていて、ここでも自然の法則(因果の法則、類は類を呼ぶ法則、慣性の法則、循環の法則)が働いています。ただ思いの世界は、思った瞬間、結果が現れるので、物質世界のように誤魔化しがきかないのです。例えば、人を憎んだ瞬間、般若の面相になり、愛を与えたいと思えば、即座に仏の顔になるといった具合に、思いと行いは同じですから、少しも悪いことは思えないのです。だから、上辺を飾って生きるしかないのです。
またこの世界は、似通った者同士が生活していますので、「人の振り見て我が振り直せ」といった相対的体験があまりできません。さらに、生きる苦しみが無いので努力する心が生まれない、我慢する心が生まれない、要するに厳しさが無いので向上心がわかないのです。だからこの世界では、あまり成長できないのです。
苦しみの無いところに進歩はありません。そんな生活が長期間続くと嫌気がさしてきます。そこで厳しい世界へ降りて行って欠点を修正したいと思うようになり、再びボディーを持って生まれてくるというわけです。人の本性は生命ですから、本能的に本当の自分を知りたがっているのです。ですから、いつまでも生温い世界にはいられないのです。
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自分の本性が、宇宙生命であると完全に自覚できた人は、反原子体を脱ぎ捨て、純粋な生命意識となって本源の世界(絶対原子の世界・生命の世界)へ帰って行きます。私達の帰るべき世界は、生命の世界であって幻の世界(物質世界・幽界)ではありません。ですから、できるだけボディーを持っている間に、本当の自分を知っておく必要があるのです。本当の自分を知れば、ボディーを脱ぎ捨てたらすぐに生命の世界へ帰れますが、自分のことを人間だ!、ボディーだ!、とあくまでも人間に固執している人は、この地上付近から離れられず、ウロついています。これが迷った魂といわれるものです。
人は死んだら成仏するのではないのです。死んでも生きている時と同じ考えを持ち、同じ行動を取るのです。ですからお経の意味も解らない人に、お経を上げても何の意味もないのです。お経を上げたり果物や花を供えることが供養になるのではなく、生きている私達が彼らに正しい生き方を見せることが、供養になるのです。(正しい生き方については、「第二章 生きる」で詳しく説明します。)
あまり書きたくないことを書いたのは、少しでも皆さんの不安を解消したいと思ったからです。死後の世界など考えなくてもいいのです。私達の本性は生命ですから、生命の世界へ帰ることだけ考えたらいいのです。中間の世界(幻の世界・幽界)のことを考えても、何の意味もないのです。意識すれば実現するのが宇宙の仕組みですから、幻の世界のことはあまり意識しないことです。それより、自分は「生命である!」と意識することが大切なのです。
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豊臣秀吉も、徳川家康も、ヒットラーも、今はいません。どんなに権力を欲しいままにした者も、いつか必ずこの世を去るのです。これは誰がどんなに否定しようと、否定できるものではありません。若い人はあまり死について考えないと思いますが、人生なんてアッという間です。人は必ずこの世を去るのです。百パーセント間違いないこの事実を、どうして誰も真剣に受け止めようとしないのでしょうか?。150年後には、今、生きている人は地球上に一人もいないのですよ。この間違いのない事実を、どうして真剣に考えようとしないのでしょうか?。生まれてくる子供のことは色々考え用意するのに、間違いのない死に対して何も用意しないのは、片手落ちというものではないでしょうか?。生まれてくる子供は間違って生まれてこないことはあっても、人の死は百パーセント間違いないことなのです。
なぜこうもクドクドいうのかといいますと、百パーセント間違いない死に対して、あまりにも人間は無頓着すぎるからです。死ぬと分かり切っているのに、どうして何も用意しないのか?、それが不思議でならないのです。
死後の用意とは、あの世のことを考えたり調べたりすることではありません。生きている間にしておかねばならない準備のことです。すなわち、本当の自分を知り、正しい生き方をすることです。本当の自分を知り、正しい生き方をすることで、死後の準備はできるのです。準備のできた者は素晴らしい世界(生命の世界・絶対世界・本源の世界・これを天国と呼んでいる。)へ帰ることができるし、できない者は厳しい世界へ帰ることになる、これは一重に生きている時の生き様が決定するのです。
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宇宙に生命(本質)しか無い前提で物事を考えれば、これまでの物の見方がまるで違ってきます。更にその考えを自分の身に置換えることができれば、自分を大きく変身させることができるでしょう。
たとえば、鉄を溶かしナイフを作り、ハサミを作り、鍋を作っても、その本質が鉄であることに違いはありません。同様に、生命を溶かし鉱物を作り、植物を作り、動物を作り、人間を作っても、その本質が生命であることに違いはありません。ナイフを溶かせば鉄に戻るように、人間を溶かせば(死ねば)生命に戻ります。でも形だけを見ている人間は、どうしても生命に帰るとは思えないのです。だから人間は、死を怖いものにしてしまうのです。
私達は一つの本質(生命)の現れなのです。死とは、無常なる形が永遠不滅の本質(生命)に帰ることです。本当の自分に帰ることです。何にも束縛されない自由な自分になれるというのに、なぜ悲しいのですか?。なぜ恐ろしいのですか?。死は悲しむべきものでも、恐ろしいものでもなく、むしろ喜ぶべきことなのです。
多くの人は、死ねば何も分からなくなると思っていますが、とんでもありません。肉体は死んでも、意識は今の状態のまま生き続けるのです。記憶も失っていません。感情もそのままです。死は生命が、肉体という乗物から降りただけのことです。人生とは、生命の自分が肉体という乗物に乗って様々な体験をしている状態なのです。これまで私達は、その体験を何万回もしてきたのですよ!。今さら何を恐れるのでしょうか?。
このように、自分の本質(生命)が心の底で理解できれば、人生の見方が大きく違ってくるのです。
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