今日の伝統仏教も新興宗教も、倫理的教えや道徳的教えに終始し、宗教の真髄である「人間を知らしめる」という根本的教えから外れております。宗教の真の目的は、いかに人間を四苦(生・老・病・死)から解放してやるかであり、それは真の人間を知らずしてできるものではないのです。
宗教の指導者の殆どは、自分を知っておりません。自分を知らないということは、人間を知らないということです。人間を知らないで人を導くのですから、百害あって一利なしです。さらに問題なのは、宗教が職業化している点です。宗教が食べるための道具になっていては、衆生に純粋な教えが伝わるわけがないのです。今日、神道も伝統仏教も祭事や儀式(葬式・法事・神事など)に奔走し、真の宗教の目的を果たしていません。
なぜ私達は、学校へ通い勉強しなければならないのでしょうか?。なぜ私達は、朝早くから外に働きに出なければならないのでしょうか?。一体 人生は何のためにあるのでしょうか?。この理由を知るには、人間が何者なのか知らねば分らないのです。今の私達は本当の自分も知らず、人生の意味も分らず、ただ生きるために、家族を養うために、学校へ通い働きに出ているのです。
では人間は、何者なのでしょうか?。一体 何のために生きているのでしょうか?。といってもその前に、正しいものの見方ができなくては核心に迫ることはできません。お釈迦様が八正道の第一番目に「正しく見る」を持ってきたのも、人間が一番惑わされやすいのは、「見る」という部分だったからです。正しくものが見れなくては、正しい選択も、正しい判断も、正しい生き方も、できません。ですからこのメッセージも、正しくものを見るところから入りたいと思います。
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私達の感覚器官は、実にごまかされやすいようにできています。特に見ることに関しては、手放しなのです。
このような体験はありませんか?。
隣の列車が前進しているのを見て、自分の乗っている列車がバックしていると錯覚したことが?・・・。また、同じスピードで動いている列車を見て、自分の乗っている列車が止まっていると錯覚したことが?・・・。この世の動きも これと良く似ていて、周りの物と自分とが同じ時間(スピード)で動いているために、私達は本当にその物があるような錯覚に陥っているのです。
本当は、この世の物は実際には無いのです。しかし私達は実際にあると思っています。それは見て触れるからそう思うわけですが、でも見て触れる物で、永遠に無くならない物がありますでしょうか?。自分のボディーも、山も、海も、地球さえも、いつか必ず消えて無くなってしまうのですよ!。どんな物も、刻々と消える方向へ進んでいるのです。しかし、自分のボディーも同じスピードで進んでいるため、実際にあるような錯覚に陥っているのです。もしこの世の動きを早送りで見ることができたら、私のいっていることが理解できると思います。要するに私達は、同じ時空の土俵の上で同じ物同士が相撲をとっているため、本当にあるような錯覚に陥っているのです。
こんな誤解もあります。
空気を冷やせば水になり、水を凍らせれば氷になることは、誰でも頭では分かっています。でも私達は、本当に氷を空気だと思っているでしょうか?。本当にあるのは空気で、氷は一時の存在です。ということは、氷は実在しないことになります。しかし私達は、本当にあると誤解しているのです。
私達は見える物があると思っていますが、見える物は見えないもの無しには存在できないのです。形ある物はすべて見えない本質から生まれ、見えない本質に帰るのです。もし見える物が永遠に存在するなら、この宇宙は見える物で埋まってしまうでしょう。幸い形ある物は消えて無くなるから、宇宙は永遠の存続が可能なのです。
消えて無くなる物(結果)が、消えて無くなる物(結果)を生むことはありません。また消えて無くなる物(結果)が、永遠に無くならないもの(原因)を生むこともありません。永遠に無くならないもの(原因)が、消えて無くなる物(結果)を生み、永遠に無くならないもの(原因)が、永遠に無くならないもの(原因)を生むのです。これは冷静に考えれば誰でも分かることですが、私達はこの当たり前のことを当たり前と思えない大きな錯覚に陥っているのです。また、このような錯覚もあります。
コップを手に取り、"これは何ですか?" と質問すると、百人が百人とも、”コップです!” と答えます。でも、コップって本当に実在するのでしょうか?。コップとは、ガラスがコップの形を取った時に付けられた名前ではありませんか?。その証拠に、コップを粉々にしてしまえば誰もコップとは呼びません。ガラスのカケラというはずです。コップは名前だけの存在ですから、実在するものではないのです。実在しているのはガラスです。しかし私達は、コップが実在していると錯覚しているのです。
また、次のような大きな誤解もあります。私達は宇宙の一部です。その証拠に私達は地球から生まれ、今地球の中におります。その地球は、宇宙から生まれた宇宙の一部です。でも私達は、地球は宇宙の一部だと思えても、自分が宇宙の一部だとは思っていません。それは、宇宙に比べ人間があまりにも小さいため、宇宙と人間は別モノだと感じているからです。
人間から生まれたイボは、人間ではありませんか?。人間の一部である爪や毛は、人間ではありませんか?。ならば宇宙から生まれた人間も、宇宙ではありませんか?。私達は正しい物の見方ができないために、自分が宇宙でありながら、宇宙と思えない錯覚に陥っているのです。
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正しく見るについて、もう少し踏み込んで考えてみることにしましょう。
私達は普段なにげなく物を見ておりますが、物を見ている状態には二つの状態があるのです。一つは外側(形・現象・結果)を見ている状態、もう一つは内側(本質・真実・原因)を見ている状態です。前者は実際にない幻で、後者は実際に有る真実です。私達は、外側と内側を見る二つの目(肉眼と心眼)を持っているのですが、殆どの人は外側を見る目しか使っておりません。これでは正しく生きられるわけがないのです。なぜなら、実際に無い物を有ると見れば、どうしてもその物に溺れてしまうからです。多くの人が躍起になって物やお金を追い求めているのはそのためです。
正しく物を見るためには、物の本質を心眼を使って観なくてはなりません。心眼とは理解眼のことですが、目に見えない本質を観るには、理解力によって見るしかないのです。お釈迦様がいっていた「正見」とは、物を色や形で見るのではなく、
「物の本質を理解力をもって観なさい!」という意味だったのです。
「物は幻であり、実際に無いものである!」と、心底で理解できるようになれば、この世のいかなる物にも執着しなくなります。また自分を本質として観られるようになりますので、本質として生きられるようになります。これは、人間(現象・肉体・結果)の自分から本質(真実・生命・原因)の自分に変身することを意味しますので、人世観が全く変わってしまうのです。
ここまで「正しく見る」について述べてきましたが、一番大切なのは、本当に有るものと本当に無い物の識別をすることです。本当に無い物は目で見えますが、本当に有るものは目で見えないのです。つまり結果は目で見えますが、原因は目で見えないのです。今日の教育の一番の問題点は、原因(本質)を教えないで結果(形・物)ばかり教えている点です。そんな知識をいくら頭に詰め込んでも、真実を知ることができなくては何の意味も無いのです。教えるべきことは、「原因・本質・真実」すなわち「真理」です。自分探しの旅を続けるにあたって、まずこのことを念頭において下さい。
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私達は生まれた時から、「あなたは人間ですよ!」と両親から教えられてきました。また学校の先生からも、「あなたは人間ですよ!」と教えられてきました。そして自分も今日まで何の疑いも無く、人間と思って生きてきたはずです。誰もが自分のことを人間と思い、人間として生きております。でも私達は、本当に人間なのでしょうか?。おかしな質問かも知れませんが、この問いは実に重要なのです。なぜなら、もし私達が人間でないとしたら、全面的に生き方を変えねばならないからです。人間だと思っているから学校に通わねばならないし、朝早くから働きにも出なければならないのです。たとえば、本当は空を飛べるカモなのにアヒルだと勘違いしていたら、どんな生き方をするでしょうか?。多分、一生、地を這いずり回って生きることでしょう。もし空を飛べるカモだと知ったら、全く違った生き方をするはずです。
ヒマラヤの聖者たちは、水の上を歩いたり、空中から物を取りだしたり、色々と不思議なことができるといわれます。彼らは、私達と何ら変わらぬ手順を踏んで生まれた人間なのに、どうしてそんなことができるのでしょうか?。
彼らと私達との違う点はたった一つ、自分の本性に目覚めているかいないかだけです。(本質として生きているかいないかの違い)自分の本性に目覚めれば、誰でもそのようなことができるようになるのです。突然このようなことをいわれても信じられないかもしれませんが、コロンブスが卵を立たせて見せたことも、やる前は誰も信じなかったのです。でもやって見せたことは、誰にでもできる当たり前のことだったのです。
先駆者の言動は、初めは誰の目にも気違いじみて見えるものです。でもその先駆者がいなかったら、新しい道は開かれなかったのです。
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どんな素晴らしい能力の持ち主も、周りの環境が悪いため能力を開花させることなく一生を終えてしまうということは、決して珍しいことではありません。その典型的例が、オオカミ少年の話です。
ジャングルでオオカミに育てられた少年は、オオカミと同じように四つん這いで歩き、唸り声をあげ、口で肉を裂き、食べていたといいます。もしこの少年が人間社会で育っていたら、人の上に立つ素晴らしい人間になっていたかも知れません。このように人間は、非情に環境に左右されやすい生き物なのです。でも一方、順応性の高い生き物でもあるのです。順応性が高いがゆえに、幼い頃から真実を教え真実に生きる教育をしたら、四苦(生・老・病・死)からの解放は勿論、宇宙に羽ばたいてゆける存在になれるはずなのです。
学び始めのころ、「悟りとは己を知ることである」と教えられた時、己の何を知るのだろうと疑問に思いました。人間は人間以外の何者でもないはずなのに、一体 人間の何を知りなさいというのだろう?・・・。この疑問は、ズーッと私の頭から離れませんでした。でもある切っ掛けがもとで、その疑問が解けたのです。
「たしか、この交差点を左折したところにコンビニがあったはずなのに?・・・」でもいくら探しても見付かりません。思い込みの激しい私でしたから、その交差点が間違っているとはどうしても思えなかったのです。そうこうして探しているうちに、「もしかしたら次の交差点だったかも知れない」、と気付いたのです。やはりそうでした。私の思い込み違いだったのです。その時私は、真理の探究も同じではないだろうか?、と気付いたのです。
「今日まで何の疑いもなくボディーを自分だと思って生きてきたけど、本当にボディーが自分なのだろうか?。もしかしたら、思い込み違いしているのではないだろうか?。己を知りなさいとは、ボディーが本当の自分なのかどうか知りなさいということではないだろうか?。もしこのボディーが自分で無いとしたら、自分で無いもののために毎日生きていることになる。それでは生きている意味も、生きている甲斐も、無いのではないだろうか?。もう一度 考え直して見よう!。」私はその時そう思ったのでした。
思い込みとは恐ろしいもので、一旦 信じ切ると他のことが考えられなくなるのです。特に長年思い込み違いしていると、それが凝り固まって間違っていても間違っていると思えなくなるのです。もし私達が人間で無いとしたら、これは大変な過ちを犯していることになります。ぜひこの機会に、思い込み違いしていないかどうか確かめて下さい。自分探しの旅の第一歩は、そこから始まるのです。
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