初め無きはじめ、宇宙にはたった一つの神(生命)が存在していました。その 神 は、何一つ憂いのない満ち足りた生活を送っておりました。でも、ある時フト思いました。
「私はすべてに満ち足りている。幸せ一杯であるが、そのことは私しか知らないのだ。これで良いのか?。」
またこうも思いました。
「私は現に存在している。だが、そのことを知っているのは私だけである。私だけが私の存在を知っていて、一体 何になるのだ?。」
そのことに気付いた神は、表現の世界を造り、そこから自分の存在を認知してもらおうと考えたのです。
神の意識(光子)が四方八方に放射され、宇宙の創造劇が開始されました。神は、真・善・美を最高の目標とし、思いの丈を地のキャンパス一杯に表したのです。空も、海も、山も、川も、湖も、鉱物も、植物も、動物も、それは それは 神々しく輝いていました。気候は穏やかで、草花は一年中咲き乱れ、そこには蜂や蝶が乱舞していました。
たしかに地上は美しかったが、彼らは創造主の私を認識しようとしません。これでは以前と何も変わらないではないか???。
神は考えあぐねた末、思い立ちます。
「そうだ!、私の分身を地に降ろし、その分身に私を認知してもらおう!。」
こうして人間は、表現の世界に出現することになったのです。
地上に降り立った人間は、感嘆の声を上げます。「何と素晴らしい世界だ!。神は何と偉大であろう!」と・・・。人間は神の偉大さを、しみじみと噛み締めるのでした。
「やっと私の存在を認めてもらうことができた。」神は満足しました。
人間は当初、己が神の分身であることを知っておりましたので、神と変わらぬ自由自在な生き方をしておりました。肉を持ったまま天と地を行き来し、天の利を地に降ろすことができたのです。乗り物に乗ることなくどこへでも行けましたし、意識の交流も自由に行うことができました。人々からは光が放たれていましたので、鉱物も、植物も、動物も、みな輝いていました。ライオンと子羊が戯れる光景は、当たり前だったのです。それは正に、地上天国そのものでした。
ところが人間は、地上に慣れ親しむうちに物質の虜となり、肉体を自分だと誤認するようになりました。そしていつしか、己が神の分身であることを忘れてしまったのです。
自他の意識が芽生え、自我が膨らみはじめます。自分だけが、家族だけが、部族だけが、といった排他的精神が蔓延しはじめます。縄張り争い、物の奪い合い、戦争がはじまります。今まで穏やかだった地上界は、こうして争い多い世界へと変わっていったのです。
自然界にも変化が現れはじめます。
でも神はこうなることを予測し、因果の法の中に自らを留め、人間が目覚めるよう配慮していたのです。人間はやがて気付きはじめます。
「なぜ苦しいのだろう?」
「なぜ悲しいのだろう?」
思索に思索を重ねた末、ついに自分を思い出します。
「そうだ!、私は人間ではなかったのだ!。この肉体が私ではなかったのだ!。私は創造主の分身である神の子だったのだ!」と・・・。
目覚めた人間は苦笑します。
「自分が神であったことを忘れていた。何と愚かな私であったことか・・・あはははは!」
自分を思い出した途端、神は人間を通して現れはじめます。
○ 誠が返ってきました。
○ 正義が取り戻されました。
○ 美が輝きはじめました。
再び人間の手に神の御業が取り戻されたのです。すなわち人間は、以前のような神の生き方をするようになったのです。こうして地上界は、再び喜び多い天国へと変容するのでした。
これまでこの宇宙で、どれほどのドラマが生まれたことであろうか?。
そして今、どれほどのドラマが進行中であろうか?。
考えただけでも気の遠くなる思いがする。
悲しいドラマ、楽しいドラマ、退屈なドラマ、感動的なドラマ、どれ一つとっても同じ筋書きの無いドラマを、神は懸命に演じている。
己が神だとも知らないで・・・。
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