この宇宙には、私のオリジナルな世界が一つあるだけで、共有された世界があるわけではありません。世界が共有されているなら、すべての場面にすべての人が出てこなければなりませんが、いつも出てくるのは私が意識したものだけ・・・。つまり、私と私の関係した人や物しか出てこないのです。
今、私の世界では、私を主人公としたドラマが進行中です。私の世界に登場してくる人物は、私と関係を持った時のみ出てくる脇役で、自分勝手に出てくる者は一人もおりません。つまり、私の引き立て役としては時々顔を出しますが、必要のない時には出てこないのです。
カメラアングルは常に私の前方を捕え、私の関係する人や物を写し出しています。私が主役の私が演じるドラマだから、私抜きの場面は一つも無いのです。だから、私の思った通りドラマは進行します。
そのドラマは、宇宙に存在する人類の数だけあります。(宇宙には無数の人類が存在している。)その理由は、一人ひとりが自分の世界を持っているからです。その人の世界は、その人のものなのです。一人ひとりが当事者だという意味です。だから、誰もその人の世界を乗っ取ることなどできないのです。これは、次のような譬えでいい表せるでしょう。
同じマンションに住む三人の奥さんが、茶飲み話をしておりました。五階に住む奥さんが微笑みながらいいました。
「このマンションから見る景色は、本当に素晴しいですわね・・・。」
一階に住む奥さんも誘われるように、
「ええ、素晴らしいですわね!」と、相槌を打ちます。
特に十階に住む奥さんは、
「毎日こんな素晴らしい景色が見られて、私達は幸せ者ですわね!」と、笑顔一杯で応えます。
さて三人の奥さんは、本当に同じ景色を見てそういっているのでしょうか。いいえ、別々な景色を見てそういっているのです。なぜなら、一階から見る景色と、五階から見る景色と、十階から見る景色が同じであるはずが無いからです。この景色の違いが、理解力(意識の高さ)の違いなのです。私達は同じ世界で生きているつもりですが、理解力の違いによって生きている世界がみな違うのです。だから私は、人類の数だけ世界があるというのです。
見ている世界が違うなら、人それぞれ意見が違って当然でしょう。だから私は、意見が違うからといって人を批判してはならないというのです。その人はその人で、見た通りの正しい意見をいっているのですから・・・。
ただしこの話は、迷った人達の話であって、悟った人達の話ではありません。悟れば同じ階から同じ景色を見ることになるのですから、意見の食い違いが出るわけが無いからです。
今、世界中で様々な衝突が起きているのは、一つの私を分けて個人こじんを作り、その個人こじんが別々な階から景色を見て「ああだ!、こうだ!」と自己主張しているからです。もし「全体は私!、私は全体!」という真理に目覚めたら、もうそこに立場の違いや利害は生じなくなり、世界は一つに収まるでしょう。悟りが必要なのはそのためです。悟ればオリジナルな世界は消え、唯一の世界、唯一の宇宙を写し出すことになるからです。
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