「人間は実に環境に影響されやすい生き物です。どんなに素晴らしい能力の持ち主も、環境が悪いため能力を開花させることなく一生を終えてしまう、といったことは決して珍しいことではありません。その典型的例がオオカミ少年です。ジャングルでオオカミに育てられた少年は、何とオオカミと同じように四つん這いで歩き、唸り声を上げ、口で肉を裂き食べていたといいます。もしこの少年が人間社会で育っていたら、人の上に立つ立派な人間になっていたかもしれません。人間はこのように、環境に非常に左右されやすいだけに、家庭環境や教育環境や社会環境の整備が望まれるのです。
ところが今日これら教育環境の整備は、経済の前に骨抜き同然にされています。たとえば、エログロ雑誌・アダルトビデオ・競輪・競馬・パチンコ・酒・タバコなど、百パーセント害悪を与えるものが、経済優先の名のもとに放置されています。また、大人たちの素行も目を覆うばかりです。たとえば、国民の手本となるべき政治家が汚職をする、教育者自らが信号を無視しタバコのポイ捨てをする、酔っ払いが絡んでくる、電車の中で痴漢や喧嘩が発生する、家に帰れば今度は夫婦喧嘩が追い討ちをかける、それを見たくないとテレビをつければ、欲望を刺激する宣伝が目に飛び込んでくる。果して子供たちは、学校で学んだことと外で体験するこのギャップをどう感じ、どう埋めようとするでしょうか?。すべての悪を排除せよとはいわないが、せめて百パーセント害悪を与えると思われるものは無くすべきではないでしょうか?。反対に良いと思われるものは、率先して採用すべきではないでしょうか?。経済的利益が得られない理由だけで採用しないのは、無罪を証明できる証拠を持ちながら握り潰している卑怯者のようなものです。これらのことを考え、奉仕社会では次のような教育目標が打ち立てられます。
[人格者に育て上げる]
人間の優秀さは、知能水準が高いとか、多くの知識を持っているとかで測られるべきでしょうか?。私は人間の価値を決めるのは、心の豊かさにあると思っております。たしかに、優勝劣敗を重んじる今日の社会においては、頭のよさや知識の豊かさは大切かも知れませんが、もし生活の糧を得るのに何の憂いもない社会になったら、つまり奉仕社会になったら、このような教育は見直されるのではないでしょうか?。といって、すべての知識を否定しているわけではありません。社会で生きていくためには、読み書きも、算数も、地理や歴史も、ある程度身につける必要はあるでしょう。また専門分野で働く人たちは、それなりの高等知識も必要でしょう。だから、これらの知識の習得は大いにやったらよろしい。でも、温かみの無い人間を作るような教育であってはならないのです。つまり、
このような温かみのない人間になっては、いくら勉強ができても喜べるものではないのです。真の教育は、人間性を高めるものでなくてはなりません。すなわち、人格教育こそが最大の教育目標なのです。
[常識人に育て上げる]
私たちは、祖父母や父母がいるからこの世に生を受けることができました。そう考えれば、祖父母の恩や父母の恩を忘れるわけにはいかないでしょう。また兄弟姉妹や友人がいるから、心豊かな人生を歩むことができるのです。そして、私たちの血肉になってくれる生き物たちの犠牲があるから、私たちはこの世で生きていけるのです。そう考えると、自分の周りのすべての物、すべての生き物、すべての環境に感謝しないわけにはいかないでしょう。またそういう気持ちになればこそ、人としての常識も芽生えてくるはずです。すなわち、
このような言葉が自然に出る人間に育てることが大切なのです。ですから小学校における教育の相当時間は、この徳育教育に振り向けられるべきでしょう。
[宇宙の法則を知らしめ、同時に人生の目的を認識させる]
この宇宙には『宇宙の法則』が存在します。その宇宙の法則を、学校教育で徹底的に教え込む必要があります。なぜ必要かといえば、私たちの五感は十八歳ごろ発達の極に達し、色々な欲望を作り出します。この欲望を制御するには、悪い思いを持ち、悪い言葉を吐き、悪い行いをすれば、因果の法則によって罰せられる(悪いことが起きる)、といった畏怖の念をもたせることが必要なのです。それも何の疑いも持たない小さなころから教えれば、これは欲望の大きな歯止めとなるでしょう。これは脅迫ではない、心の揺れをなくす一つの方法なのです。しかも人間の本性は何か?、人は何のために生まれてきたのか?、またどんな使命を果さなければならないのか?、といった人生の目的を教えれば、どんな誘惑にも負けない強い心を築くことができるでしょう。これを心から納得させるには、瞑想が一番です。だから奉仕世界では、学校教育に瞑想が取り入れられているのです。
瞑想が身に付くに従い、法に対する畏怖の念も和らぎ、これまで抱いていた意識界(あの世)の迷信や、誤解や、不信は取り除かれるでしょう。奉仕世界では、国自らがこのマニュアルを示します。また、すべての国民も、素直にこのマニュアルに則った実践を行います。その結果は本人が一番分るわけで、それが法の存在を確かなものにするのです。
[社会創造の担い手に育て上げる]
もちろんこの間にも、語学、数学、物理、音楽、スポーツ、文芸などの一般教育が行われるのはいうまでもありませんが、加えて職場精神・社会精神といったものを身に付けさせるのも、学校教育の目的の一つです。その甲斐あって中学生の後半ともなると、キラキラと個性が輝きはじめ、やがて生徒一人ひとりの進む道がはっきりと見えてくるのです。こうして、次の専修学校へと駒を進めることになるのです。
専修学校での学習は、すでに職場へとつながっています。その意味では、すでに奉仕社会人としての育成がはじまっているということです。生徒たちは基礎教育を習うかたわら専門知識を身につけ、その知識を本物の知恵に変えるために、実際に職場に出向いて働きながら学ぶのです。量を問わず質を重んじる職人根性を植えつければ、この世からきっと怠慢やマンネリを無くすことができるでしょう。それが社会常識ともなれば、もう理想世界は不動のものとなるでしょう。
[個性に見合った能力の開発を目指す]
魂の遍歴によって人それぞれ極める道が違うから、当然生まれもった環境も能力も違ってくるでしょう。だから基礎教育を重んじながらも、その上に個人色を輝かせる専修教育に力を入れなくてはならないでしょう。となると、全員が全員高等数学を学ぶ必要もないし、高等物理学を学ぶ必要もない、その生徒が得意とする分野で思う存分特性を発揮させてやり、それを生きがいに転じてやるのです。その特性を見極める場が学校です。もし特性を発見したら、迷わずその道に導いてやるべきでしょう。特に天童は国の宝ですから、大切に育ててやりたいものです。この社会では、天童を拾い育てることを何よりも重視していますから、この世界では、科学も、芸術も、スポーツも、ますます発展していくのです。
[人間としての喜びに触れさせる]
人は幼いころ大きな夢を抱くものですが、その夢を大事に育ててやるのも学校教育の一つです。したがって、できるだけ子供の夢が適えられる時間と環境を与えてやりたいものです。自然との触れ合い、生き物との触れ合い、異国人との対話、有名人との対話、冒険の旅、そして宇宙との触れ合い、この夢実現に国が率先して加担し、子供たちに夢と希望を与えてやるのです。学問だけが勉強ではありません。また学校だけが勉学の場ではありません。あらゆる環境が勉学の場であり、あらゆる人生体験が勉強なのです。したがって触れ合う人びとはみな先生であり、あらゆる環境はみな教材なのです。
今日の社会で生きていくためには、最低限の知識は必要です。ところが知識を重んじるあまり、有名校を出なければ出世できないといった、歪んだ学歴偏重社会を作ってしまいました。したがって、誰もが有名校へ凌ぎを削る試験地獄に身を投じるようになり、最も肝心な夢と希望を忘れさせてしまったのです。
子供の一日を見なされ、誠にかわいそうなものです。学校から帰ると、教育ママが作った学習メニューの消化のため、塾というベルトコンベアに乗せられ家を追われます。家に帰ったら帰ったで、今度は宿題消化のために、夜遅くまで机に向かわされます。親は己のエゴと見栄のために、夢を育む大切な時期を、子供から奪い、それが我が子のためと自分をごまかしているのです。幼い頃には幼い頃にしかできない体験があり、学生時代には学生時代にしかできない体験があるのです。幼児は母親の愛情を一身に受け、安らぎの中で成長していくのが一番であり、子供は兄弟姉妹や友達と遊びを通し大人になっていくのが一番なのです。天真爛漫な心を育て、優しく思いやりのある人間に育てねばならない時期に、現実ばかりを直視させガムシャラに知識を詰め込もうとするのは大きな誤りです。
知識は、この宇宙に無限に存在するのです。今地球でもの知りだと自負する者も、宇宙の無限の知識においては、アブクにも匹敵する無知者になるのです。それを追い求めるのは、海岸で砂粒を数える行為に等しく、この世を去る時きっと悔やまれるはずです。そんな時間があるなら、少しでも心の研磨に励む方がどれほど有意義か?。よろしいですか、ガリ勉からは決して人格は高められないのですよ!。」
「でも人間には、勉強しなければならない時期があると思います。そして教養というものは、人間形成に欠かせない大切な要素だと思うのですが・・・。」
あまりにも勉強を軽んじる老人の言いぐさに、私はいささか向きになった。
「私は勉強を否定しているわけではありません。むしろ、人は死ぬまで勉強の連続だと思っているくらいです。だが勉強をするにも、時宜と選定が必要ではありませんかな。つまり人生がハードル競争だとすれば、子供の頃にしか越えられないハードルもあれば、大人になってからでも越えられるハードルもあるはずです。なのにそれを無視し、時宜にそぐわないハードルを越えさせたのでは、一体誰のための、何のための人生なのか?。子供は日に日に成長していくものです。その一時期の体験というものは、人生にとって後戻りできない貴重な財産です。いってみれば、成長段階でつける勲章のようなものです。それを放棄させる権利は誰にもありません。このように教育の第一歩は、時宜に即した正しい学習選定をすることなのです。
特に才能の秀でた天童たちは、中学校を終えた時点で分類され、特殊教育の場に送られることになります。もちろん、これも本人の意志を無視して行われるわけではありませんが、殆どは本人自らが使命感に燃えこの道に入ってくるのです。彼らはいつの日か人類のために役立つことを夢見、ひたすら能力開発、才能開発、技能開発に励むのです。
“人の欲が文明を発達させた”とか、“戦争が科学を発達させた”とか、“芸術は貧困の土壌から生まれた”とか、本気で思っている人がいるようですが、決してそのようなことはありません。もっとも、貧困から抜け出したい一念で目的を成就する人もおりますが、それはその人の努力と念が引き寄せたのであって、大抵の場合は私欲を滅し人の為に社会の為にと打ち込んだ時に天啓として与えられるのです。この天啓は、決して知識からは生まれません。いやかえって知識は、天啓の道筋を閉ざしてしまうでしょう。知識に溺れ過ぎると、その知識が固定観念となって自由な発想を妨げてしまうからです。したがって特殊教育では、仕入れた知識を絶対視せず、あくまでも“仮定”として与え、生徒もそれを前提として研究に取り組み、澄み切った空白の中にきらめくヒントを掴むのです。
さて、この国家最高教育機関を管理監督するのは中央国家です。そして、その教育機関に優秀な人材を送り込むのは都市国家です。各都市国家から推薦されたこれらの能力の持ち主は、恵まれた環境の中で基礎知識を深め、更に才能に磨きをかけていくわけですが、中でも特に優秀と認められた人材は、更に上位の(世界政府傘下の教育機関)教育機関に送られ、世界の頭脳となって人類を牽引していくことになるのです。世界の優秀な頭脳(右脳と左脳のバランスのとれた頭脳)が国境や人種の垣根を取り払い、更に今日に見られる科学者同士の確執や師弟関係の阻習にこだわらず、広い大きな開襟の中でそれも鏡張りの中で研究に励むとき、人類の芸術や科学は飛躍的に発展していくでしょう。現在起こっているさまざまな不都合は、この優秀な人たちの手によって必ずや解決されることでしょう。
さて、教育も政治も文化も経済の背に乗って発展していくといいましたが、その経済は教育に支えられ進展していくのです。その意味では、この両者は相互補完関係にあるといえるでしょう。したがってこの世界の教育は、大人になってからも続けられるのです。
今日の社会では、仕事から完全に解放されるのは希です。朝早くから夜遅くまで、企業戦士は仕事に追いまくられ休む暇もありません。家に帰っても仕事が頭から離れず、まんじりとも休めません。どうしたら仕事が貰えるか?、どうしたら売上が伸ばせるか?、どうしたら利益が上げられるか?。会社の業績が気になり、自分の成績が気になる。まるで仕事の奴隷です。奉仕世界では、労働に対する姿勢は今以上に厳しいかも知れませんが、一旦職場を離れると完全に仕事から解放されます。ある程度のノルマはあっても、利益追求の必要性がないから、成績が人を悩ませることがありません。また、労働力が豊富な上にキッチリした計画生産体制が敷かれているから、よほどのことがない限り残業はないでしょう。したがって労働者は、今日とは比べようのない自由時間がもてるのです。その自由時間は一体何に使われるでしょうか?。もちろん、息抜きの娯楽に、旅行に、家族の団欒に使われるでしょうが、殆どの人は自己挑戦に使うのです。自由教育制度は人間の可能性を啓発し、埋もれている才能を発掘しようという、奉仕世界ならでのユニークな教育制度ですが、それを一般向けにしたところに大きな意義があります。
私たちは一旦社会へ出てしまうと、生活に追われやりたいこともやらずに一生を終えてしまうものです。なかには、そのまま埋もらせてしまうには惜しい才能の持ち主もいます。その才能を発掘し、さらに磨きをかけ、花咲かせようというのが国民自由学校の目的なのです。挑戦課題は多々あると思いますが、中でも精神開発の挑戦、やり残した学問への挑戦、スポーツ、芸術、趣味などの挑戦は多いでしょう。それを国は、国民自由学校という場を提供することで、国民の意欲に報いようというわけです。ここで磨きをかけた人たちは、成果を試す発表会に挑戦でき、その発表会で認められれば、人生行路を大きく変えることも夢ではないのです。どこまでも夢を与えてやるのが、奉仕世界の教育の誇りなのです。
教育について私の考えを述べさせてもらいましたが、まだまだ舌足らずです。といって、あまり時間をかけては外の話ができませんので、教育の詳細についてはあらためて機会を見つけて話すことにしましょう。」