「今日の地方自治体の最小単位が村なのに対して、奉仕国家の最小単位は人口数十万人を抱える都市です。(人口が少ない場合は村国家・村社会になる)これを都市国家と称しますが、この都市国家の特色はそれ自体が一つの国であり、独自の憲政を保ち、独自の行政形態を持っている点です。そしてそこでは、自力の供給を原則とした自給自足体制が整えられ、地方色豊かな独特の生活基盤が築かれています。
今日地方政治は、中央が地方の実情にあわない政策を強引に押し進める形で行われていますが、奉仕世界はその土地の気候風土や人の気質や特性といったものを尊重し、それに即した地方自治が行えるようあらゆる権限を都市国家に委譲してあるのです。」
「それは、立法、司法、行政、の三権を持ちあわせた独立国家を意味するのでしょうか?。」
「有機的細胞国家とでも呼んだらよいでしょうか。」
「有機的細胞国家?。」
「つまり、都市国家群と国家(中央国家)の関係は相即的な関係となり、都市国家群同士は網状の神経を伸ばして堅く手をつなぎあう、いわゆる兄弟姉妹の関係にあります。中央国家はその中心にあってしっかりと情報の手綱を握り、都市国家群を率いているのです。これを人体に例えれば、頭脳は中央政府であり、都市国家群は諸器官と見立てることができるでしょう。
諸器官は色々な気質や特性を持っており、その特性の上に独自の生活機能を維持しています。爪は爪としての気質を、毛は毛としての特質を、皮膚は皮膚としての特性を発揮し、体全体の健康維持に寄与しているのです。つまり、爪は爪の主権の下にその地域の実情にあった働きをし、毛は毛の主権を持って独自の働きをしているから地域の秩序が保たれ、また体全体の健全な営みも可能なのです。もし中央国家がすべての指令を出そうものなら、それこそ地方の実情に合わない強引な働きを強いることになり、必ずや局所的病を引き起こすでしょう。そうなれば、いずれ体全体も病気になってしまうでしょう。」
「では、今日の都道府県という単位はなくなるのですか?。」
「さよう、都市国家(村国家)が国の最小単位となるのです。この方が国民の意向をまとめやすいでしょう。」
「でも地方が大切だからといって、地方の思うがままに政治を任しておいたのでは、国全体の秩序は保てないのではないでしょうか?。」
「もちろん、脳(中央国家)は脳としての大切な役目はあります。たとえば、都市国家の正しい行動規範を定めること、すなわち、
・国法の制定
・エネルギーの適性開発・適正生産・適正配分・適正消費の規範を定める
・基本的な労働規範・社会規範・生活規範を定める
・基本的な教育方針を定める
などが脳(中央国家)の主な役目です。
ガン細胞の異常増殖は、地方が中央に対して起こす反逆行為のようなものですが、これとて脳(中央)が地方の実情を理解し思いやりある政治を行ったなら、決して起こることではないでしょう。ガン細胞の異常増殖は地方を破壊し、結局中央の命まで奪ってしまうわけですから、中央と地方の関係は相身互いの関係、運命共同体の関係にあるといえるでしょう。要するに庶民生活に直接影響を与えるのは、中央政府ではなく地方政府だということです。インフラにしても、地域開発問題にしても、エネルギーや環境問題にしても、直接影響を受けるのは地域住民であり、それを処理してやれるのも地方政府なのです。特に多民族国家は、宗教や、慣習や、考え方や、文化などが違うわけですから、それを一つの枠に押し込めればどうしても反発が起こる。」
「それではご老人は、民族ごとに国家を作れとおっしゃるのですか?。」
「そうではありません。中心核がなくてはバラバラになるから国家は絶対必要ですが、あまり中央の権限を大きくすると、地方の特色が失われかねないばかりか、住民の創意工夫といったものや自立精神まで骨抜きにしかねない。だからできるだけ権限を地方に移譲し、自由な政策が立てられるようにすべきだといっているのです。そうすれば地方に活気をもたらすばかりでなく、国家もスマートな体型を維持できるでしょう。
そもそも愛国心とは、自分が直接所属する身近な団体、つまり、村・町・都市、といった地域を愛するところから生まれたもので、最初から国家に思いを寄せたものではなかったはずです。祭りひとつ取ってみても、自分が直接参加できる町内祭りは一緒に楽しむことができるが、国家的祭りはどうも他人事になってしまう。これは、距離的隔たりが大きいからです。ですから住民の政治向心力を地方都市域までと捕らえ、ここに政治の中心軸を据えるべきなのです。地方独自の文化も、そういった中から必ず育まれるでしょう。『地方分権政治』これはもう時代の要請なのです。
そもそも奉仕世界における都市国家は、『都市市民の生活は都市市民自らの手によって守り、できるだけ中央国家の手を煩わさないようにする』、といった前国家的発想から生まれたものです。したがって、そこに独立国家としての固有の権能を持った政治形態を求めるようになるのは当然でしょう。つまり地方という諸器官の正常な機能維持には、地方の実情にあった政治が行われるべきであり、それは国家の安定にも寄与するものであるから、できるだけ地方の働きを萎縮させない配慮が必要としたところから、国が持っていた許認可権限や事務権限をすべて地方に委譲し、更に立法権(人類基本法あるいは国法に抵触しない範囲で)も委譲して独立国家としての権能を高めたわけです。こうして見ると、どうも国家の権威が失墜したように見えますが、地方の政治が円滑に行われ地域の人達が幸せになればそれが国家の権威ともなるのですから、都市国家を準国家的存在として認めるのは、何も国家の品格や権威を失墜させたことにはならないのです。
その都市国家の役目を要約すると、次のようなものになるでしょう。
人間は一人で生きられないようにできています。これは、一人で人格を磨くことは不可能との配慮から、神は人間を肉体的にか弱くつくられ、集団で生活するよう仕向けたからです。人間社会はこのように、必然的用命によって生まれたわけですが、その人格を磨く舞台を奉仕世界では、都市国家という形で実現したわけです。人類の目的がはっきりしている以上、都市国家の役目もそれに沿うのは当然で、それが前述した役目です。もちろん各都市国家の特色が、この役目の中に盛り込まれるべきですから、ここで述べた役目はあくまでも標準的な目標と思ってもらいたい。
都市国家の特色といえば、これは非常に深い意味合いが込められています。つまり都市国家の色、匂い、肌触り、これが人々を引きつけ引き離す要因となるからです。したがってそこの住民たちの色、匂い、肌触りも、必然的に似通ったものになるのは避けられますまい。(類は類を呼ぶ法則により)こうして都市国家は特色ある様態を育むこととなり、それがまた住民の転入転出にも微妙な変化をもたらすのです。」
「それではここで、国民の資格について述べましょう。
新生児が誕生し、届がなされた時点で、都市国民としての資格が与えられるのはいうまでもありません。また国民が他の都市から他の都市へ転入転出する場合も、正式な申し込みがなされれば何ら問題はありません。外国への移住も外国からの移住も同様です。ただしこの場合、正式国民としてあるいは正式都市国民として認められるには、原則として何等かの職業に就いていなくてはなりません。
この制度の趣旨は、どこの国にもどこの都市にも所属しない無籍者や無国籍者を存在させてはならないという配慮から、全世界共通の決まりとしたのです。よって現在のように、流民や浮浪者あるいは戸籍上の不明者は全く存在しなくなります。」
「蒸し返して申し訳ありませんが、国民の中には浮浪者となって自由に食べ物を手に入れ、自由に生活する者も出てくるのではないでしょうか?。」
「等しく教育の機会が与えられ、等しく家が与えられ、等しく生活必需品が与えられるのに、それを放棄してまで浮浪者になる者がおるだろうか?。」
「では、気候のよい国、環境のよい国に人が集まるという、居住地の偏りは起こらないでしょうか?。」
「今日の難民移民問題は、生活不安から止むに止まれず起こっている経済難民が殆どです。誰が故郷を捨てたいと思うでしょうか?。誰が国を離れたいと思うでしょうか?。盆や正月にあの混雑をおして故郷に帰るのも、死んだら骨を故郷の地に埋めて欲しいと願うのも、やはり生誕の地が恋しいからです。故郷というものは、それほど人の心を掴んで離さないものなのです。奉仕世界が浸透し生活が安定した暁には、旅行はともかく、国を離れようと思う者はまずいなくなるでしょう。先程もいったように、肌にあった故郷というものは、何物にも代えがたい宝ものなのです。色、匂い、肌触り、この慣れ親しんだ波動から、どうして逃げ出したいと思うでしょうか?。」
「政治とは何でしょう?。『政』とは『国を治めること、あるいはまつりごと』、と辞典に載っておりますが、『政』とは、“整”なのです。人心を整え、物を整え、環境を整えることです。『治』とは、自然を生かし上手に活用してゆくことです。昔から“治山”治水“は国を治める不可欠な要素といわれてきましたが正にその通りで、人間が自然と共存共生できたら豊穣はもとより、彼らから有意義な生き方を教わるでしょう。したがって『政治』とは、人心を整え、物を整え、自然と相和し、住み良い社会環境と自然環境を調えることなのです。
さてそのような政治を望む中で、奉仕国家は都市国家という独特の政治形態を作り上げました。先程も説明したように奉仕国家の特色は、中央集権的色合いを排除し、地方重視の政治を採用していますから、中央国家は都市国家を裏支えする脇役に徹し、主役は都市国家が演じることになります。とはいっても、行き過ぎがあってはならないので、中央国家は情報の手綱を後方で握り、いざというとき伝家の宝刀が抜けるよう監視に怠りがあってはなりません。また都市国家は、都市国家間同士の協力なしに成り立ちませんから、相互の交流は頻繁で、多岐に渡って行われるでしょう。もちろんこれは国内に止どまらず、世界のあらゆる都市国家とも、姉妹提携、情報交換、技術協力、人的交流、労働協力といったものを通して、独自のつながりを保つことになるでしょう。」
「“生産手段は、権力を集中させることによってしか生み出せない”との世迷い言は、人類の歴史がつくった幻想です。生産手段などは、奉仕精神さえあればどこからでも引き出せるし、どうにでも生み出せるものだからです。もっとも人それぞれの欲求は様々ですから、どれだけの生産手段をどの生産部門にどれだけ配分し、そこにつぎ込む資源をどこからどれだけ調達し、どのような物をどれだけ生産し、どのように配分するかといった意志決定者は必要でしょうから、その存在自体は否定しませんが、それは資本家や権力者でなくても良いはずなのです。民主的に選び出された指導者の下に行政機構を作り、皆が納得できる生産や配分はいくらでもできるはずだからです。
『人類が発見した最大の功業は民主主義制度である』といわれるように、平和を目指す人類にとってなくてはならないものが民主主義制度でしょう。特に奉仕世界においては、民主主義の熟成度はどんな世界よりも要求されるでしょう。なぜなら、人を動かすのは権力でも武力でも金力でもない、国民一人ひとりの良心だからです。その民主主義も、今日の民主主義とは少々違っています。今日の民主主義は主権が国民にあるというだけで、その内実を人の心に求めていません。つまり、外圧(規則あるいは利害や損得)に依存しているのです。しかし奉仕世界の民主主義は、内圧(良心)を母体にしています。この違いは天と地の差があるでしょう。
さて、都市国家を基盤とする国体においては、市民一人ひとりの政治に対する関心は高くならざるを得ないでしょう。なぜなら、完全なる地方分権制度が導入された都市国家においては、その組織自体が一つの国家としての役割を果たすからです。したがって、都市国家の政治動向が直接市民生活に影響を及ぼすという切迫感と緊張感が、市民に政治参加の重要性を認識させるのです。熟成した民主主義が国民の手に掌握され、かつ血の通った奉仕経済が駆動力となれば、もうそこに何の不安も不都合も生まれないでしょう。
ただひとつ弱点があるとすれば、人々の良心が何らかによって毒され、民主主義が大きく歪められた時でしょう。しかしそれさえも、成熟した労働本位制の下では一時の現象であり、はやり病が治るがごとくすぐに正常化してしまうでしょうが・・・。
さて民主主義が正しく運用されるには、やはり主権者である国民自らが政治の最終決定権を持つことが大切でしょう。その主権行使の場はやはり選挙です。したがって選挙は、国家の死命を決する重大行事となりましょう。
都市国家議会は都市国民が選んだ奉仕議員によって運営されますが、都市行政は都市国民が直接選んだ都市国政総理大臣(都長)の付随機関である行政庁がこの職務を遂行することになります。この奉仕議員も都長も、職域選挙という予備選挙によって選ばれた資格者の中から、都市国民全員の直接選挙によって選出されます。私が職域選挙という予備選挙を重要視するのは、『国を治め指導していく者は哲学者でなければならない』というプラトンの哲人政治論に共鳴するところがあるからです。たしかに、多数決による民主主義政治は安全運転の代表かも知れないが、それだけに目先の安全ばかりを追い求める安易な政策に偏ってしまい、気がついて見るとそれがいつのまにか危険な流れに乗っており、慌てて舵を切らねばならない羽目になる。これでは、いつまでたっても視野の狭い政治から抜け出せないでしょう。
職域選挙がなぜ哲人政治論に結びつくのかと疑問に思うでしょうが、人徳者の多くは人心を洞察する力を備えており、このようないい方はしたくはないが、高い魂の持ち主が多いからです。彼らの人生観にはしっかりとした信条があり、そこから培われた見識があります。だから迷いも少ない。また、何事にもくじけない忍耐力と行動力も兼ね備えているので、時勢に即した対応も期待できる。この差はどこからくるのでしょうか?。
人格には長い歴史があり、そこからくる思慮の深さの違いがあります。人格の高いものは巨視的なものの見方ができ、低いものは微視的な見方しかできない。これは誰が悪いのでもなく、単なる人生経験の不足(輪廻転生の数)から来る差なのです。当然未熟な地球上においては、高い人格者の数は少なく、低い者の数は多いといったピラミッド型を形成するでしょう。多数決原理が絶対だといえないのは、これらの理由からです。私が職域選挙を重視するのは、そのピラミッド層を上に押し上げ、少数層の絶対多数を実現しようと思うからです。今日の政治家のすべてがこの中間層より下だとはいわないが、やはり占める割合は多いでしょう。その彼らは、金権と組織を利用してのし上がってきた者だけに、利権に惑わされ易く優柔不断に陥りやすい。そのような者の行う多数決政治が、国家を間違いない方向に導いてくれるでしょうか?。職域選挙で選ばれる者は、普段の有りのままの姿が評価されるのですから、その時だけよい恰好をしても真にその人格から来ていない限り、すぐに化けの皮が剥がれ人に見向きもされなくなるでしょう。お金のない世界で人に認めてもらうには、不断の努力と人の心根がものをいうのです。
さて私が今日の政治を憂える一つの理由に、目的と手段が不明確になっている点が上げられます。つまり、派閥争い、権力争い、利権争い、選挙戦略などに力点が置かれ、何のための政治か、誰のための政治か、何を目指すべきか、この肝心なものが忘れられているのです。ただ経済を成長させ物質面から国民の期待に応えよう、あるいは上辺だけの平和を続行させることで政権を維持しよう、といった薄っぺらい政策しか取られておらず、国民を一体どこへ向かわせるのか?、どういう世界を目指すのか?、この肝心要な目的が忘れられているのです。ですから国民は金儲けを唯一の目的とし、気違いじみた経済戦争に明け暮れているのです。それが自らの足元を掘り崩し、亡国への影を深めているのです。これは良くよく心すべきことでしょう。」
「今日の政治は政党政治によって行われていますが、奉仕国家も同じ方法で行われるのでしょうか?。」
「ある特定の主義主張、あるいは原則において意見を共にする議員が結合した団体を政党と名づけているようですが、本当にそのような団体が必要でしょうか?。」
「必要だと思います。人の意見は百人百様です。もし意見調整の場がなかったら、国会はたちまち空転してしまうでしょう。」
「しかし、その弊害も忘れては困ります。結成当時の意気込みは純粋で活力に満ちたものですが、時間の経過と共に初心が忘れられ、ついには権力闘争の修羅場に変わってしまいます。そのよい例が醜い派閥争いです。彼らは権力を勝ち取るために金権を利用しますが、その不純な金が足枷となって、正しい判断を鈍らせてしまいます。そんな連中に正義の政治が可能でしょうか?。また一旦政党に名を連ねると、反対意見をもっていても政党の意に沿わねばならなくなり、不本意な一票を投じなくてはならなくなる。その一票が国を動かすのですから、誠に恐ろしいといわねばなりません。
奉仕世界の創成に当たって、すでに思想的合意ができあがっていますから、その政治において基本的意見の対立することはありますまい。だから、今日に見るような政党は必要ないのです。」
「でも、進むべき道は同じでも方法論は違うでしょうから、やはり意見調整の場は必要ではないでしょうか?。」
「たしかに、細かい案件をまとめるには意見調整の場は必要でしょう。だから奉仕議会ではまず『意見調整委員会』という補助機関を設け、そこに奉仕議員の意見なり主張なりを文章にて提出させ、似通った意見をもつ者同士を集めてその案件限りの談議団を結成させるのです。もちろん類似の政策であっても、すべてに渡って一致するとは限りませんから、意見が煮詰められるまで大いに論争が交わされるのはいうまでもありませんが、今日のように立場や利権が障害となって正義が踏みにじられることがありませんから、案外スンナリと理性的結論が導きだされるのです。こうしてまとめられた意見は、談議団の代表が議会に持参し一つの政策として反映させるのです。もちろん最終決定は多数決によってなされますが、ここで肝心なのは、他の談義団から出された政策が自分のところより上位と見たら、談議団の違いに関係なく、また面子にこだわることなく賛同する大きな心が表せることです。今日の政治家は、面子を重んじ立場を守ろうとするなど、理性を無視する傾向がありますが、奉仕世界では何よりも理性を重んじ、誠心を尊んだ政治がなされるのです。」
「それでは、案件ごとにそのような談義団が結成されるのでしょうか?。」
「そうです、だから審議内容ごとに談義団の顔触れが違ってくるわけです。今日の政治においても、本来このような形が取られるべきですが、権力集中のために、利権獲得のために、寄らば大樹の陰ということで政党政治が幅を利かすようになるのです。」
「それで議会はスムーズに運ぶでしょうか?。」
人は迷いが多いだけに、万事が万事すんなり行くとは思えないが?・・・。
「彼らの意識の底には、人類の平和と使命達成という大目標があるだけで、私的な損得感情は一切ありません。もしあったとしても、それを形として手に入れることができないから、(金儲けができない・地位や名誉が得られない)そのエネルギーは良い面に向かうしかなくなるのです。したがってもし意見対立があったとしても、それは真に人類を思ってのことですから、そこに不和や憎しみの生まれる余地はなく、むしろその意見の練り込みが最善の道を選択させることになるのです。
たしかに政治は難しいものです。人はどうしても日常の小事に目がいき、遠くの大事に目が行かないものです。だから卓越した意見は庶民には人気がないのです。これも本物の政治家を育てない理由になっているわけですが、良くよく考えて見ると、これもすべて利害がらみの経済に由来しているのです。その点奉仕世界は、損得勘定(感情)の生まれる余地はありませんから、思いっきり遠くを見据えた政治ができるのです。ですから、そこから良い芽が吹き、良い花が咲き、良い実を結んでいくのです。」
「さて今日政治家は、一体何を目指して舵取りしているのでしょうか?。『一国の政治は何よりも先ず自国の利益を考え、他のすべての動機はこの考えに従属させるべきである』、とする国家行動の基本準則がそれならば、何と悲しむべきことでしょう。自国の利益を何よりも優先するなら、他国の利益は無視して構わないということになります。そんな考えに立って政治を行うから、他国が飢えていても平然と見過ごせるのです。国家は人であり、人は国家ですから、国家と国家は人の結びつきとなりましょう。したがって、人道主義の精神が垣根を越えて貫かれなくてはならないのです。それが我が国に不利益になろうとも、それが人道精神に適うなら、万難を排して事に当たるのが正義の政治ではないでしょうか。それが、人種・言語・思想・宗教などの障壁を乗り越えてゆける唯一の方法なのです。
“これをしてくれたら、これをしましょう”では、あまりにも心が貧しいのではないでしょうか?。そんな醜い心で、どうして物事の解決が図れましょうか?。本当に困っており、助けを必要としているなら、利害を越えて援助の手を差しのべるのが、人道政治・正義政治ではないでしょうか?。
“与えれば与えられる。与えてもらってから与える”
この違いは天と地の差があるでしょう。したがって奉仕政治の第一番目の目標は、
『人道主義を貫き、相互扶助の絆を堅くする』ということになりましょう。
次の目標は、
『人格を極める教育の充実』ということになるでしょう。
宇宙心が体現化したものが人間です。人間は人格形成を目的に地上に降り立ちましたが、これまでの地球は荒地でした。その荒地で修行を積み、やっとここまで成長してきたのです。ここから以降は、豊かな土地で修行したいものです。そのためには、国家が率先して人格教育に加担すべきで、学校教育はその重責を担わねばなりません。国家が率先してということは、取りも直さず政治家が率先して人格教育に当たれということで、これは政治家になった以上逃げられぬ宿命と思わなくてはなりません。ところが今日、“人心向上(魂の向上)”を政策に掲げる政治家は、ただの一人もおりません。何ともお寒い限りです。
さて次の目標は、
『生活の充実と福利の増進』でしょう。
この世は物質世界ですから、生きるためには物が必要です。その物の生産をスムーズに行い、国民に健康で文化的な生活を提供するのは国家として当然の役務でしょう。また、ただ生きるだけでは味も素っ気もありませんから、この世に生を受けた喜びも享受させねばならないでしょう。したがって国家は、物質的かつ精神的喜びを整える、経済の充実と文化の創成に力を注がなくてはなりません。
さて次の目標は、
『法科学の充実』ということになりましょうか。
"科学は人類に幸せをもたらすだろう!、"との切なる願いをもってこれまで人類は科学の振興に力を注いできましたが、どうしたことかその科学が、今日人類を暗雲の下にさらしているのです。これは明らかに、どこかに誤りがあったからに外ならないのです。そうです。二面性の構造をもつ宇宙を一面性と勘違いし、物質科学だけに力を入れてきたところに誤りがあったのです。これを解決するには、精神科学と物質科学をミックスした法科学の充実以外ありません。それには、国家機関の中に精神世界を研究する特別班を設け、徹底してその解明に力を注がなくてはなりますまい。もしこれによって法科学が花咲けば、今日に見る不都合はすべて解決されるでしょう。
さて最後の目標は、
『人類の使命と目的を知らしめる』ことでしょう。
どの道を行けば良いのだろうか?、人は分かれ道を前にして迷います。それほど人は迷いやすいのです。もし大きな力を持つ国家が道標を示せば、国民は迷うこと無く勇気をもって前進できるでしょう。今日国は国民に、何処へ向かいなさいといっているのでしょうか?。どのように生きなさいといっているのでしょうか?。何もない、何とも悲しい限りです。
[都市国家の財政]
今日、国の財政は国民の税金によって賄われていますが、奉仕国家における財政は、国民の奉仕労働力によって賄われることになります。貨幣のない社会において、これは当然といえば当然の話ですが、税の目的からいっても、安定性・公平性・合理性からいっても、この方法が最良な方法なのです。税の目的は、あくまでも国家を賄うエネルギーを何に求めるかであり、そのエネルギーはお金でなくても良いはずだからです。
エネルギーは目に見えませんが、目に見えないエネルギーが国を動かし、社会を動かし、人々を動かしているのです。すなわち、目に見えないエネルギーを目に見えるお金に置き換え、そのお金によって人を動かすことにより、物を生み出したり、サービスを生み出したり、国家を運営したり、しているわけです。ですからお金はあくまでも労働力を確保する手段であり、お金が物を生み出したり、サービスを生み出したり、国家を運営したり、しているわけではないのです。ここのところが非常に誤解されている点です。
もし国民の奉仕労働力が確保できたら、労働力を確保する手段であるお金など必要なくなるのは当然でしょう。要するに、税金など集める必要はなくなるということです。
(今日の社会の仕組み)
○税金を集める。→その税によって労働力を確保する。→その労働力が国を動かす。(国民と官吏の区分けあり)
(奉仕社会の仕組み)
○国民の奉仕労働力が自主的に集まる。→その労働力が国を動かす。(すべての国民は官吏)
このように人の心が経済を動かすように、政治も人の心が動かすのです。人の心を無視して何事も成し得ないことを知ってください。