「私がこれから紹介する世界を、『奉仕世界・奉仕社会』と呼ばせてもらうことにします。奉仕という言葉を使うのは、この社会を動かしているのは、唯一奉仕労働力だからです。奉仕労働という言葉からも推測されるように、この社会の特徴は、万事が万事人の善意によって切り盛りされている点です。そこで私は、この社会の経済を奉仕経済と呼ぶことにしました。
この奉仕経済は、次の二つの原理が柱となっております。
ではなぜ、このような原理が採用されたのでしょうか?。
人類の使命は、この地球に理想の世を建設することでした。そのためには、まず人の心を豊かにしなくてはなりません。つまり、魂を磨く必要があるのです。その目的を遂行するためには、すべての人に平等な生活環境が保障(生活保障)されなくてはなりません。この二つの原理は、それを苦もなく可能にしたのです。それでは、一つずつ見ていきましょう。
経済の源をたどっていくと、まず自然の恵みである①資源や土地を第一番目に取り上げなくてはなりますまい。次に、それを製品化する②労働力が必要です。また、その労働力を有効に生かす③生産技術も忘れてはなりません。この生産技術は絶対欠かせない経済分野で、近代産業革命はこの機械技術の発達が推し進めました。私たちが余暇に親しめるのも、労働時間を短縮させた高度な工業技術のおかげです。しかしその生産技術を確保するには、現在の経済下では資本は絶対欠かせない要素でしょう。ここに④資本家が登場してくることになります。そして最後に分配や流通にかかわる商行為者、つまり⑤商人が顔を出すことになります。この五つの要素が支えあって、現在の経済はなりたっているはずです。でも①の資源や土地の要素は、明らかに自然界からの贈り物です。そうすると、あとの②から⑤までの要素はすべて人間側にあることになります。とくに④の資本家は、人間がつくりあげた社会権力ですから、排除しようとおもえばいくらでも排除できます。となると残りの三つは、すべて私たちの労働力ということになります。以上の理由から、「労働力こそが経済を支える大黒柱である」と断言できるのです。その意味では、労働力の乏しい国はどんなに資源が豊かでも大国になれないし、怠け者は貧乏から抜け出せないのです。
さて経済を支えている大黒柱は、『労働力』であるという理由を示しました。ではもし、この労働力をただで手に入れることができたら、すべての物やサービスもただにできるのではないでしょうか?。経済学はいっています。『労働力という商品の価値は、労働力の再生産に必要な生活財を生み出す価値に等しいと・・・。つまり、労働力という価値が生活財の価値を決定し、また生活財の価値が労働力の価値を決定し返す』のだと・・・。もしそうなら、タダで労働力が手に入ったら、すべての生活材やサービスもタダにできるのではないでしょうか?。」
「でも、どのようにしてタダの労働力を獲得するのですか?。」タダ働きする人などいるだろうか!?。
「まあ、私の話を聞いてください!。
これまで人類が行ってきた労働力の獲得方法は、次のようなものでした。
今日のように民主主義の行き届いた社会で1はナンセンスですから、どうしても2の方法に頼らざるを得ません。すなわち、資本家は労働者から労働力を買うことで、労働者は資本家に労働力を売ることで得てきたわけです。さてそれでは、労働力を得る方法は1、2、以外ないのでしょうか?。
あります。それは労働奉仕という方法です。といっても、これは人の善意を当てにするものですから、全面的に頼るわけにはいきません。でも世の中にはまれではありますが、奉仕心が旺盛な人もおります。もしまれな人をまれでなくしたら、この方法は使えるのではないでしょうか?。そのためには、『奉仕は自らを助ける』という納得できる科学的論拠を示す必要があるでしょう。それを示しましょう。
今日物価が上がるのは、太陽が東から昇るくらい当然と思われるようになりました。でも、物価はなぜ上がるのでしょうか?。先程、『労働力の価値は、労働力の再生産に必要な生活材を生み出す価値に等しい』という経済法則を紹介しましたが、もしそれが確かなら、物価も上げない代わりに、賃金も上げないという経済操作も可能ではないでしょうか?。勿論この前提には、『単純生産に徹し、人々の生活水準は凍結したまま』という条件はつくでしょうが・・・。もし物欲に飽きがきて、人口増加も横這いになる時代がくれば、この話はまんざら夢物語でなくなるでしょう。」
「・・・?」
「まだ納得がいかないようですね。それでは、この話をもう一歩前進させてみることにしましょう。
これまで私たちは、賃金が上がることを当然と思い、下げられることには大きな抵抗感をもっていました。でも発想を変え、思いきり賃金を下げてみることにしましょう。
100であった労働力の価値(賃金)を、50に、30に・・・このように下げられたなら、物の値段も100から50に、30に、下げられるのではないでしょうか。物価が下がればまた賃金も下がる。今の逆循環がはじまるわけですね。もし、この労働力の価値を0まで持って行ったら、どうなるでしょうか? 労働力の価値0という意味は、無報酬で働くということです。」
「タダ働きをするという意味ですか?」
「先程の経済法則によれば、労働力がタダになれば生活材もタダになるのではありませんかな?。生活材がタダになるなら、タダ働きにはならないでしょう。」
「・・・?。」
「この科学的論拠を示すことによって、奉仕社会ではみなが納得して労働奉仕してくれるようになるのです。ただし、善意が土台(動機)となっていなくては長続きしないでしょうから、善意を保つ意識改革は必要でしょう。意識改革とは、唯物思想から唯心思想への改革です。もしこの改革に成功したら、人類は奉仕労働力という無限の価値を秘めた社会的財産を手にすることができるでしょう。」
「しかし、私的な奉仕労働力をどのようにして社会的財産にするのでしょうか? 」
「たしかに、人の心は損得に揺れやすく楽な方へ傾きやすい弱さをもっていますから、奉仕労働力を私物化させない配慮は必要でしょう。」
「私物化させないとは、自分の労働力を自分のものにしてはならないという意味ですか?。」
「そうです。自分好みに使われては、社会の福利に反した使われ方をされてしまうからです。何よりも不合理です。」
「しかし、自分の労働力を自由にできないなんて、まるで奴隷と同じではないでしょうか?。」
「自由にできないとはいっておりません。職業選択の自由はどんな世界でも保証されるべきですし、労働するしないの意志も尊重されるべきです。ただ、自分好みに使われては、せっかくの奉仕労働力が無駄になってしまうといっているのです。大自然をごらんなさい。細菌も虫も動植物も、自ら生きるために働いているように見えて、実際は生態系を安定させる犠牲的働きになっているではありませんか。人間も自らの労働力を社会的財産として提供すれば、犠牲的働きとして社会に貢献できるのです。更に奉仕労働力の良い所は、労働の連鎖性を完成させることです。」
「労働の連鎖性を完成させるとは、どういうことでしょうか?。」
「タダで提供した個々人の奉仕労働力は、物となりサービスとなって社会を渡り歩き、最終的に奉仕労働者のところに帰ってくるでしょう。つまり農業に従事する奉仕労働者は、米や麦や野菜などを作って社会に貢献します。それを食べて英気を養った他の労働者は、別な働きをして社会に貢献します。物を作らない学校の先生も、その生活材によって生計をたて、生徒を教育して形こそ違うが社会に貢献します。教育をうけた生徒も、いずれ奉仕労働者として社会に貢献するでしょう。このように、連綿とした労働力のつながりを、労働の連鎖性と呼んでいるのです。ところが今日の社会においては、この連鎖性が貨幣によって分断されているために、社会における労働者の立場も、労働成果も、労働者同士のつながりも、人の目に見えづらいものになっているのです。もしこれが貨幣でなく生活材によるならば、社会における労働者の立場も、労働成果も、労働者同士のつながりも、人の目にはっきり見えてくるはずなのです。
では、ここまでの考えを整理してみましょう。
社会で一番大切なものは労働力であり、その労働力は奉仕労働力という形でいくらでも確保することができ、さらに労働者同士のつながりが身近に感じられるようになる、ということが理解できたと思います。」
「そうなると、生み出された物の配分が問題になってきそうですね?。」
「物の配分が問題になる? 」
「どのような世界でも、能力や労働量や職種によって配分量は違ってくるでしょうから、配分問題は当然注目の的になるでしょう。」
「奉仕労働力を使えば、いくらでも物の生産はできるのですよ。そのいくらでも生産できる物を、どうして労働価値に応じて分けねばならないのでしょうか?。あなたは、空気を労働価値に応じて分けよとおっしゃるのですかな?。よろしいですか。人類の争いの種は何だったでしょうか?。それは、配分争いから起きたのではありませんかな?。そしてそれは、価値の拘りから生まれたのではありませんかな?」
「しかし!」
「まあまあ、私の話を聞いて下さい。」
「私たちは何かというと、すぐに価値を持ち出しては問題にします。
・あなたの職業より私の職業の方が価値が高いから、私の方が余計に報酬がもらえて当然である。
・私の方が労働時間が長いから、それ相応の報酬がもらえて当然である。
・あなたより私の方が能力が優れているから、あなたより多く報酬がもらえて当然である。
・こちらの物の方が価値が高いから、それに見合った利益を得るのは当然である。
このように私たちは、価値を秤にかけ価値の重さを貨幣などで表そうとする悪い癖をもっているのです。この価値を問題にしだすと、
・物やサービスや労働力が商品となる
・量や時間が商品となる
・価値を測る道具、つまり貨幣などが必要になる
そうなると、
・欲得者が貨幣に群がるようになる
・貧富の差がつくられる
・階級社会が生まれる
・弱肉強食まがいの闘争社会が展開されるようになる
さらに、
・価値が人品評価の道具とされる
・偽善の道具に利用される
・視線社会がつくられる
このように価値を問題にしだすと、二重三重の社会悪が生まれてくるのです。いわゆる闘争心と競争心を煽り、争い多い社会にしているのはこの価値なのです。「諸悪は価値が生み出す!」ここに着目した奉仕社会では、価値をこの社会から一掃しようと考えたわけです。では、どうすれば価値をなくすことができるのでしょうか。それには価値はなぜ、どうして、どこから、生まれてくるか突き止めねばなりません。
いうまでもなく、価値は希少性が生みだしております。アメリカ大陸が発見された当時、土地はタダ同然でした。これは土地が沢山あったからです。空気がタダなのも無限に存在するからです。もし労働力も無限に存在するなら、労働力はタダになるはずです。労働力がタダになれば、この社会に価値は存在しなくなるでしょう。労働力が有限だから、この社会に価値が生まれるのです。
奉仕労働力がすべてのものを無価値にするということは、裏返せばすべてのものに無限の価値を与えることになるのです。なぜなら、無価値なるがゆえに私達は自由に使えるからです。(空気が無価値なるがゆえに、私達は自由に使える)そう考えると、価値を無くした社会がいかに優れた社会か分かろうというものです。これは奉仕労働力が、そのような優れた社会を作るのです。今日の社会が有償社会なのは、労働力が私物化され私意的に使われているからです。つまり、労働力が有償化され売買されているからです。」
[職業の価値・労働の価値]
「すべての価値は労働力が生み出し、その労働力が奉仕労働力ならすべての価値は消滅してしまうという考えは、たしかに納得できます。しかし、物そのもの、人そのものの価値を否定するとなると、これは別問題だと思います。なぜなら、それを否定することは、物そのもの、人そのもの、を否定してしまうことになるからです。たとえば帽子一個とスーツ一着とは、明らかに価値は違います。もしそれを同等に見よというなら、スーツそのものを否定してしまうことになるでしょう。職業の価値にしてもそうです。医者と綿菓子職人の価値差は、歴然としています。それを同等に見よというなら、医者そのものを否定してしまうことになり、それこそ公平と平等を無視した社会になるのではないでしょうか?。」
「本当に、帽子一個とスーツ一着に価値差があるのじゃろうか?。医者と綿菓子職人の価値は違うのじゃろうか?。」
「えっ!?。」
「価値を生み出しているのは労働力であり、その労働力が奉仕労働力なら価値は無限に生み出されてくる。その奉仕労働力に、優劣(差別)があるでしょうか?。優劣がないなら、優劣のない奉仕労働力から生まれた物やサービスに、どうして価値差がつくでしょうか?。」
「しかし、その物がもつ使用価値や有用価値がなくなったわけではないはずです。その物がもつ価値自体は、どんな労働力から生まれたものであっても存在しているはずだからです。それともご老人は、その価値まで否定してしまおうといわれるのですか?。」
「たしかに、使用価値や有用価値は失われていないでしょう。しかし、その使用価値や有用価値は絶対的な価値なのでしょうか?。」
「えっ!、どういう意味でしょうか?。」
「その価値は不変的価値じゃろうか?、といっているのです。
たとえば、病人から見れば医者は価値が高いと思うかも知れないが、健康な子供たちから見れば綿菓子職人の方が価値が高いと思うじゃろう。また、芸能界やプロスポーツ界は今は花形産業としてもてはやされているが、一旦戦争になり国が乱れたらこれらの職業は社会の隅に追いやられ、国を防衛する自衛隊が一躍クローズアップされてくることになるじゃろう。気候不順で食糧不足ともなれば、今度は農業に従事している人たちが最も価値ある存在となるじゃろう。トイレの配管が詰まり汚水が溢れたとき、駆けつけてくれた職人さんが神様のように見えた、そんな経験はありませんかな?。
このように職業の価値というものは、時により、場所により、世相により、状況により、相手により、クルクル変わる不定的なもので、決して絶対的なものではないのです。また、こういう価値評価もあります。
自動車は何千種もの部品で作られていますが、見た目は派手なボディーや動力源であるエンジンは、とりわけ部品の中でも主役の座を占めているといえるでしょう。しかしどんなにエンジンが大切でも、ネジ一本無くても車は動かないのですよ。ならばどうして、エンジンを作っている会社が主役で、ネジを作っている会社が脇役だといえるでしょうか?。また次のような三すくみからも、職業の価値は平等化されるはずです。
電力会社は石油会社から石油を買って電気をつくりますが、その石油会社は原油精製機を機械メーカーから買わねばなりません。その機械メーカーは電力会社から電気を買わなくては機械を作ることができません。現代の産業はこのように、動力、機械、原料、部品、消耗材などの生産材が、様々な産業間を渡り歩き相互に依存しあう構造をなしているのです。すなわち、すべての企業は三すくみの関係にあり、相互依存を通じてお互いに価値を作り合っているのです。なのに、一方の会社だけを価値が高いと見るのは、軽率だといわねばならないのです。つまり相互に依存しあっている社会では、価値を比較し序列をつけるのはタブーなのです。いやできないのです。となると、私たちはこれまで職業に優劣をつけ、賃金に格差をつけ、金持ちと貧乏人を作ってきたことが、いかに誤りだったかが分かるでしょう。
今の社会では、有用性の高い職種の労働者を優遇する傾向がありますが、その有用性はあくまでも相対的なもので、決して絶対視すべきものではないはずです。重視すべき点は、仕事に対する「姿勢」が「熱意」がどれほど真剣か、「努力」と「工夫」がどれほど傾けられているか、ではないでしょうか。」
「ご老人のおっしゃることはよく分かります。でも世の中には、責任の重い職業とそうでない職業とがあると思うのです。ですから、それ相応の待遇があって良いと思うのですが?。」
「どうして待遇差が必要なのですかな?。」
「ではご老人は、責任ある仕事をしている人も、責任のない仕事をしている人も、みな同等にみよとおっしゃるのですか?。」
「奉仕社会の良いところは、貴重な職業であろうとなかろうと、また学歴の差、熟練の差、男女の別、年令の差があろうとなかろうと、生活格差がつかないところです。どんな労働者も同じ人間です。奉仕者としても同格です。もっとも職場の規律や統制を維持するために、上司や部下といった職階が生まれるのは当然じゃろうが、それによって暮らしの差が生まれてはならないのです。」
「でも医者になった者は、それだけ苦労をしてきたのです。それを認めてやらなくては、可愛そうではないでしょうか?。」
「人に認めてもらいたくて努力するのですかな?、何か形あるものが欲しくて頑張るのですかな?。」
「ええ、人に認められたいから、人よりよい生活がしたいから、一生懸命努力するし、頑張りもするのです。"人間の本性は善である! "とご老人は思っておられるようですが、"怠けて人より良い生活がしたい! "と思うのが人間の本性だと思います。」
「性悪説を信ずる限り、人の世に理想社会は訪れないでしょう。よろしいですかな。昔の職人は、技術を教えてもらうために幼い頃より丁稚奉公にいったのですぞ!。そこでは食べさせてもらうだけで、殆ど報酬らしきものは貰っていない。当然です。技術を教えてもらうのに報酬を戴くなど恐れ多いからです。私たちはこの地上界で自然の恵をただで頂いて、今人生という勉強をさせてもらっているのです。仕事は修道のひとつであり、人格を育てる貴重な体験のひとつです。なのに報酬が欲しいなどといっていては、罰が当たるというものじや。『人格の向上』これ以上の報酬がどこにありましょうか?。私たちは魂を磨くために生まれてきたのであって、良い生活をしたいために生まれてきたのではないのですよ。そこのところを勘違いしてはこまります。」
「職業に差別感を抱いてはいけない、ということは分かりました。でも人の能力を認めてやらなくては、奮起が期待できないのではないでしょうか?。人は何か形で認めてもらってこそ、一層奮起するものです。」
「それは職場の地位が上がることで、認めてやれるのではないじゃろうか。それだけではご不満ですかな?。」
「でも実のない肩書だけ与えられ、責任だけを押しつけられて皆が納得するでしょうか?。」
「しかし、貨幣も財産もない奉仕社会で、どんな形で認めてやれというのじゃろうか?。もし何等かの報酬を与えるとしたら、再び狂った競合社会へと発展するじゃろう。なぜそこまで能力を認めてもらいたいのか?、私には解らない。能力というものが何か分かれば、そんなものに拘ることもなくなるじゃろうに・・・。能力とはこういうことなのです。よろしいですかな!。
世の中には同じ仕事をしても、百こなす人がおるかと思えば、十すらやり遂げられない人もおる。何事もテキパキと処理す者がおるかと思えば、ヘマばかりしている者もおる。しかし本当に一生懸命やっているのだったら、それをとやかくいってはなりますまい。もっとも、努力によってある程度の能力差は埋められようから、努力と挑戦心は忘れてはならないが、歴然とした能力差を責めては可愛想というものです。
また能力の優劣は相対的判断によるもので、決して絶対的なものではないはずです。たとえそこで有能者呼ばわりされている人も、他の場所にいったら無能者呼ばわりされないとも限らないのです。この宇宙は広いのです。その広い宇宙の中で能力の自慢をし合っていては、それこそ"井の中の蛙大海を知らず"と笑われてしまうじゃろう。能力のない者が、少しでも能力を向上させようと努力するところに価値があるのです。その意味では、有能者といえども努力と挑戦心を忘れては、大切なものを失ってしまうじゃろう。
また有能者の責務は、無能者の鏡ともならなくてはならないのですから、有能者であればあるほど自分を律し技量を磨いておかなくてはならないでしょう。これは横綱は横綱らしい実力を備え、幕下の手本とならなければならないのと同じで、天の配剤の意味もそこにあるのですから、それを忘れて増長慢になっては下位の者にも負けかねないじゃろう。無能者も、そこに有能者がいるからそれを目標に励めるのですから、引け目を感じたり劣等感を抱くのではなく、目指す大樹として敬うくらいの心の大きさが欲しいものです。
あなたは形で認めてやることは大切だというが、私たちは口にこそ出さないが優秀な人を見ると、心の中で拍手を送っているものです。つまり認めているのです。これは何にも代えがたい誉れではありませんかな?。」
「たとえお金で認めてやれなくても、賞状とか記念品とか、何か別な形で認めてやることはできると思います。そうすれば益々やる気を起こし、より大きな成果が期待できるはずです。」
「それこそおかしな考えです。形で評価しきれない成果を、物や賞状などで認めてやるとしたら、その評価は形(物や賞状)の中に封じ込められてしまい、かえって価値を下落させてしまうでしょう。またその評価をランクで表すとすれば、評価された人たちの中から必ず不満が起き、せっかくの喜びも後味の悪いものとなってしまうでしょう。もしそれが物や形でなく、“よくやったね!”素晴らしい!“あなたは私たちの誇りだ!”と心で讃えてやったなら、それは限りない評価を与えたことになり、その満足感はどこまでも膨らんでいくでしょう。
この地上界には、形で讃えきれないものが沢山あります。にもかかわらず、人はとかく形で讃えようとする。これは評価される側の者にとって、有難迷惑といわねばなりますまい。次のようなこともその類いでしょう。
美しいものを見ると、つい自分の手元に置きたくなるのが人情のようですが、『やはり野におけれんげ草』の句を持ち出すまでもなく、大自然の美しさ(花鳥風月)はその場所にあってこそ輝けるのであって、花瓶や写真の中に封じ込めてしまえば色あせてしまうものです。これも、形に置き換えたがために価値を下落させた一例でしょう。
またこんなこともあります。最近ある新興宗教の教祖が、自分の偉大さを誇示する演出材料として、音響やレーザー光線を利用しているようですが、これもせっかくの偉大さを形の中にすげ替えてしまうことになり、かえってその人物を小者にしてしまうでしょう。まあ小者だからそのような演出をしたがるのでしょうが、見る人の目から見れば滑稽に写るので、そのようなことをしない方が賢明でしょう。大人物はそんな姑息な手段を用いないでも、心ある人たちを十分に引きつけることができるのですから・・・。
このように、大自然の美しさや人の心(行為、成果)を形の中に封じ込めるのは、価値の下落につながりあまり感心したことではないのです。」
「・・・」
「それでは、人の頭から生まれてくる知的な価値はどうでしょうか?。それこそ、その人を讃えてやらなければならないと思うのですが?。」
「たしかに、知的な価値は大切にしなければならない財産でしょう。何せ、無限の可能性を秘めた財産ですからね。といっても、私が大切にしなければならないというのは、その知的価値自体であって、生み出した人を特別扱いしなさいといっているのではありません。なぜならその価値は、その人が生み出したものではないからです。」
「えっ!?。」
「物質である脳から、発明などなされるでしょうか?。それを認めることは、コンピューターが発明することを認めるようなものです。
よろしいですか。知的な価値が生み出されるのは、私欲を滅し人のため社会のためと純粋に打ち込んだ時に、インスピレーションとして天から与えられるのです。いいかえれば、宇宙の知恵の宝庫に人の心が触れ、引き出されてくるのです。勿論その宝庫から引き出すには、努力と粋なる心が揃わなくてはできませんから、その人の努力は認めてやらなくてはなりませんが、知的価値そのものは宇宙の知恵の宝庫に眠っていたものなのです。
今日知的価値が金儲けの道具にされておりますが、これは天の心を無視した背信行為といわねばなりますまい。人類が得たこれらの財産は、広く世間に公開し、更に発展させ、人類のため、いやすべての生き物のために役立てるべきでしょう。私はこの知的価値こそ、『永遠の価値』だと思っています。労働者の追及する価値は、この永遠の価値の追及でなくてはならないでしょう。
「では、量的価値はどうでしょうか?。どんな世界であろうと、量が価値の対象にならないはずはないと思うのですが?。」
「0をいくらプラスしても0になるのは、小学生でもわかる計算問題です。」
「どういう意味でしょうか?。」
「タダの労働力がどれだけ集まろうと、どれだけ時間をかけようと、タダはタダにしかならないということです。すなわち、
労働対象(土地や資源)0円+労働手段(機械や道具)0円+奉仕労働力0円=作られた物0円・・・となるのは当たり前だということです。
それに労働価値というものは、単に時間量だけで測れるものでしょうか。たとえば、一瞬の技が大きな価値を生む労働もあれば、じっくりと時間をかけなくては生み出せない労働もあります。
また一時間で一日分の価値を生み出す労働もあれば、残業をしてもなんら生み出せない労働だってあります。労働価値はこのように、単に時間量だけで決められるものではないのです。」
「しかし、工場で働く工員さんや工事現場で働く職人さんなどは、時間で価値を生み出しているではありませんか?。いや、時間で価値を生み出している職業は沢山あります。」
「それは商品価値を生み出しているのであって、使用価値を絶対化させているのとは違うのです。
つまり資本主義経済では、労働を二つの側面に分けてしまうのです。ひとつは使用価値を生み出す労働、もうひとつは商品価値を生み出す労働です。商品価値を生み出す労働は、それ自体が労働カという商品ですから、時間によって価値が生み出されるように見えるのです。要するに、本来使用価値だけ問題されるべきものが、資本主義経済下においては商品価値というもう一つの価値を作りだし、それを売買し利益に結びつけているわけです。
今日資本家は、労働者の売りつける労働力を次のような商品価値に結びつけています。
資本家が得る労働価値(1日八時間) 25、000円
労働者が資本家から得る賃金(1日八時間)10、000円
差し引き剰余価値(商品価値) 15、000円
(我が国の剰余価値率は約210から260%であるといわれている)
このように資本家は、支払う賃金の何倍もの価値を労働者から得ることで資本を蓄積しているわけです。労働本位制の世界は商品の売買はしませんから、商品価値を問題にする必要はありません。労働本位制で問題になるのは、あくまで使用価値(有用価値)だけです。となると、労働時間が多いとか少ないとかという問題は、まったく無意味になってきます。この世界で問題になるのは、あくまでも労働に向かう動機と姿勢です。
なぜ動機と姿勢が大切かといえば、この世界では何よりも量より質を重んじるからです。量は時間によって生み出すことも可能ですが、質はただ時間だけ過ぎればよいといった労働姿勢からは生まれません。質を生み出すには、世のため人のためといった献身意識と、真心を込めてなす姿勢が不可欠だからです。それではなぜ、この世界では量より質を重んじるのでしょうか?。
相対の世界において物の価値は幻でしかありません。これは相対世界における物の宿命といってよいでしょう。しかし奉仕世界の労働者たちは、それを宿命として諦めてしまうのではなく、質を上げることで少しでも絶対的価値に近づけようとしているのです。物の価値を絶対的価値(永遠の価値)に近づけるには、質の向上は不可欠だからです。ですからこの世界の労働者は、いつも質の向上をめざして励んでいます。おおげさないいかたですが、彼らは全身全霊を込めて質との戦いに挑んでいるのです。なぜそこまで真剣になるかといえば、その戦いは自身の目的(人格形成)とも重なり合うものだからです。
そんな世界に怠け者はおりません。人に責任を転化する無責任な人もおりません。そんな彼らに与えられる報酬は感動です。つまり絶対的価値・水遠の価値イコール、美、感動、喜びだからです。質への挑戦とは、この美と、感動と、喜びへの挑戦なのです。それだけに成果が実った時には、言葉で表しようのない喜びを味わうことができるのです。
量的価値が唯物的価値といわれ、この世界の人たちに嫌われるのは、どんなに量的価値を生み出しても何ひとつ美や感動に結びつかないからです。いやかえって、煩わしさを多く背負ってしまうでしょう。ですから彼らは時間を気にしません。必要な時にはやる、必要でない時にはやらない、徹底しているのです。
こうしてみると、私たちが問題にしなければならないのは、あくまでも精根込めて打ち込む労働姿勢でしょう。その真面目な労働姿勢が新しい価値を生み、また無限の価値を生むのです。」
「では物の価値はどうでしょうか?。世の中には有用な物もあればそうでない物もあります。もしそれも同価値に見よというのであれば、それこそ味噌もくそも一緒にしてしまうことになります。」
「その味噌とくそですが、あなたはどちらが貴重品だと思いますかな?。」
「えっ!?そ、それは味噌だと思いますが?。」
「たしかに、味噌は日本料理に欠かせない調味料として重宝されています。しかし、糞尿だって植物の栄養源になってくれるのですよ。今は石油が採れているので糞尿は見捨てられていますが、もし石油が採れなくなったら糞尿だってきっと見直されるはずです。事実、ついこの間まで貴重な肥料源だったのですからね。」
「でも希少性やエネルギー量からみた場合、やはり物の価値は違うと思うのですが?。」
「たしかに、今の制度下においては違うでしょう。しかし、そのエネルギーは人間が作ったものではないはずです。作ってないものに価値をつけ我がもの顔で売買する、これこそおかしいのではないですかな?。また希少性は、人間のご都合主義で作られた人的なもので、決して物の属性ではないはずです。神はすべての生き物に困らないだけの物を与えたにもかかわらず希少性が生まれるのは、あくまでも人間の私利私欲のためではありませんかな?。」
「でも現実に、金やダイヤモンドのような希少物質が存在するではありませんか?。」
「でも、その物がなかったら人間は生きられないのでしょうか?。」
「生きられないことはないですが、貴重品であることは間違いないでしょう。」
「しかし、その物を貴重品にしているのは人間でしょう。私がいいたいのは、本当に生きるに必要なものに希少性は存在しないということです。
この地球上には多くの命が生かされています。それも神が私たち生き物のために、多種多様のエネルギーや資源を用意してくれているからです。大欲さえ抱かなければ、多くの命が生きられるようになっているのです。とくに私が感心するのは、食べ物の配剤とその特性の素晴らしさです。すなわち、穀物類や根菜類の多種多様さ、繁殖の旺盛さ、栄養価の高さ、また魚類の中でも栄養価の高い種ほど手に入りやすいという不思議さです。私はこの配剤の素晴らしさに、神の愛を感ぜずにはいられないのです。」
「・・・」
「あなたはまだ希少価値にこだわっているようですが、人間がつくった希少価値をよく観察してみて下さい。これほどあやふやなものはないのですよ。
今日高名な画家の絵が、一幅何億何十億という価格で売買されていますが、その価値は決して絵そのものがもっている価値ではないはずです。人間の欲によって、見栄によって、作り上げられた幻の価値でしかないはずです。それがなかったら生きられない、といった価値ではないはずです。あなたは、高名な画家の絵一幅と、水一リットルのどっちが貴重品だと思いますか?。」
「それは?、絵だと思いますが?。」
「しかし、砂漠で孤立してしまえば水の方が役立つのですよ。よろしいですか、ここに釘があったとします。でもこの釘は、金づちがなくては何の役にも立ちません。また金づちだけあっても、釘がなくてはこれも用をなさないでしょう。また釘と金づちがあっても、木材がなくては意味がないでしょう。高級なカメラを見せびらかし、誇らしげに周りの景色を写してみても、そのカメラにフイルムが入っていなくては何の役にも立たないのですよ。冷蔵庫もクーラーも電気がなくては宝の持ち腐れなのです。
このようにすべての物は、条件が整わなくては何ひとつ価値に結びつかないのです。ほんものの価値とは、Aの条件下であろうと、Bの条件下であろうと、変わらない価値をいうのです。そんな価値がこの世にあるでしょうか?。つまり一時空に浮かぶ雲のようなもの、それがこの世における価値の正体なのです。とすれば、物の価値に序列をつけるのはおかしいことになる。もしそこに序列をつけるとすれば、それを作っている労働者にも序列をつけなくてはならなくなり、それこそ今日のような争い多い世の中ができあがってしまう。」
「・・・」
「よろしいですか、先程も話したように、この世は現象の世界といわれるように無常の世界です。どんな物も永遠に形を止どめることはできません。石油にしても、鉱物資源にしても、ましてや人間の造ったお金にしても、摩耗し減価していきます。つまりこの世に存在する物の価値は、一時存在しているに過ぎないということです。それも条件が変われば価値はドンドン変化していく。そんな頼りないものに価値の序列をつけ、その差を貨幣で埋めようとする。そんな愚かなことに人生をかけてよいでしょうか?。命をかけてよいでしょうか?。職業の価値もそうだったように、物の価値も決して無常の世界で見いだすことはできないのです。したがって、揺れ動く価値に囚われ悪いことをするなどは、愚かも愚か大愚かともいえるふるまいなのです。なぜなら、永遠の心が無常の現象に傷付けられることほど愚かなことはないからです。」
「しかし、条件によって価値は変わるとはいえ、自分に利益になると思えるものに価値を求めるのは、この世で生きている人間にとって当然の感情ではないでしょうか?。私たちの目からみれば、今の条件下においては明らかに絶対的価値があるように見えるのですから、いや現実に便益を得ることができるのですから・・・。」
「たしかに効用は認めます。しかし価値となれば別の話です。なぜなら価値は非属性のもので、決してそれ自体単独で存在するものではないからです。」
「でも石油は、それ自体“燃える”という属性があるではありませんか?。いや属性のある有益物はまだまだ沢山あります。鉱物資源や植物資源の殆どがそうでしょう。」
「しかし、ただ燃えるだけでは何の価値もないではありませんか。いやかえって危険の方が大きいでしょう。それを有用な物に変えるには、私たちの労働力が必要ではありませんかな?。」
「でも自然に実っている果物は、それ自体に価値があるはずです。木からもぎ取り、ただ口に入れればすむのですからね。」
「その木からもぎ取る行為は、人間の労働力ではありませんかな。木になっている果物を見ているだけで腹が膨れるのでしたら、その価値の属性は認めましょう。しかし果物を採るにも、魚を捕るにも、資源を掘り起こすにも、みな人間の労働力が必要なのですよ。すなわち物の属性を発揮させるには、どうしても労働力の世話にならなくてはならないということです。
今日私たちは、多くの資源を手に入れることができるようになりました。しかし、昔も今と変わらぬ資源はあったのです。その資源を上手に活用し、有用物につくり替えてきたのは、ひとえに人間の知恵と労働力ではありませんか?。どんなにその物に価値があろうと、それを有用物につくり替えなくては宝の持ち腐れだからです。
最近多くの学者が、資源やエネルギーの枯渇にたいして警告を発しています。つまり、このまま右肩上がりで消費が進めば、近い将来資源やエネルギーは枯渇してしまうだろう、そうなれば文明の火も途絶えてしまうであろうと・・・。この警告はある意味では正しいでしょう。すなわち、資源やエネルギーの大量消費は環境汚染に拍車をかけ、環境面から人類を破局に追いやるだろうとの警告と一致するからです。でも資源やエネルギーの枯渇問題だけに限ってみれば、そう心配することもないのです。というのも、資源やエネルギーは昔から地球上に沢山あったし、今も沢山あるし、末来も沢山あるからです。しかし、いくらあっても人間の知恵や労働力が幼稚なうちは、それを使いこなすことができない。つまり、あってもなきに等しいということです。この言葉は、今の人間にも、末来の人間にも、そっくりあてはまることなのです。すなわち、昔使いこなせなかった資源やエネルギーが今使いこなせるようになったように、今使いこなせない資源やエネルギーもいずれ使いこなせる時代がくるということです。そうなれば、枯渇問題は解決されるということです。その意味では、今日の枯渇問題は単に資源やエネルギーのあるなしの問題ではなく、人間の知恵(技術)と労働力の問題であるということになるでしょう。したがってここでも、本当に価値あるものは物ではなく、人間の知恵と労働力であるというところに行き着くのです。これを技術革新面から見れば、労働の持ち味が一層鮮明になってくるでしょう。
今日技術革新の目覚ましい進歩により、短時間で大量の物が生産できるようになりました。これは生産コストの下落に結びつきますので、当然労働力の再生産に必要な生活材の価格は下落するでしょう。つまり、それだけ労働力の価値が安くなるわけです。平たくいえば、もし資本家に剰余労働時間を搾取されないなら、それだけ労働しなくてすむということです。
今日必要労働時間は平均3時間前後だといわれていますが、(必要労働時間とは労働者の再生産に必要な生活材をつくり出す時間)もし技術革新によってこの時間を2時間なり1時間に短縮することができたら、そして残りの余剰労働時間を社会のため自分のために有効に活用することができたなら、個人も社会もどれほど潤うことでしょう。今日の社会においてさえ、技術革新の威力は私たちに希望をもたらしてくれているのです。ましてや、これが奉仕社会という環境の下で存分にその威力が発揮されれば、今日にみる難問はすべて解決されてしまうでしょう。
これでなぜ物の価値にこだわってはならないか、職業に序列をつけてはならないか、能力にこだわってならないか理解されたでしょう。」
「しかし人類は、そのような制度を本気で取り入れるでしょうか?。」
「必ず取り入れるでしょう。なぜなら、進化した星ではすでにその制度を取り入れ、素晴らしい社会を実現させているからです。」
「待って下さい!、進化した星といわれますと・・・?。ではご老人は、地球以外にも人類が生存しているといわれるのですか?。」
意外な話が飛びだし、私は一瞬面食らってしまった。
「そうです。宇宙には地球と同じような星が数多くあって、そこにも人類が栄えております。進化した星では、今話した経済システムがすでに根づいていて、何ひとつ争いのない世界が営まれているのです。といっても社会の仕組みは、人の意識の高さや科学の発達と共に変化してゆくものですから、終着点というものがありません。その証に、進化した星の中にも未だに経済に足枷をはめられている星もあれば、まったく経済の必要のなくなった星もあります。地球も同じように、人の心の成長と共に社会の仕組みは変わって行くでしょうから、今話した経済の仕組みも、一時的なものとお考えください。」
まさにその世界の人間がしやべるごとく、老人の言葉には威厳が感じられた。私はただただ老人を見詰めるだけだった。一体この老人は何者なのだろうと……。
「今日の地球のように、価値をいちいち秤にかけその差を貨幣などで埋め合っていては、決して他の星のような理想世界は生まれないでしょう。価値の平等化が当然なものとして認められる世界だからこそ、人は欲を起こすことなく真に社会に貢献できるのです。いわゆる迷いと欲は、価値にこだわるから生まれてくるのです。また比較する目からも生まれてくるのです。
『どのような能力の持ち主も、どのような環境下にある人も、法(宇宙の法)の下では平等に扱われるのだから、目にみえる価値に惑わされて欲を募らせてはならない!』、といった考えが人々の心に定着することによって、あらゆる格差は納得のうちに解消されるのです。私たちの目にその法がみえないから、人は価値にこだわり迷いを募らせるのでしょうが、もし愛深い宇宙の法を信ずることができたなら、決して自分のことを高く評価して高慢になったり、低く見積もって劣等感にさいなまれたりなどしないでしょう。
本物の価値というものは目に見えるところにあるのではなく、人の心の中に不定なものとして座しており、それは人それぞれ心の使い方によって輝きを増したり弱めたりするものなのです。要するに、心の使い方ひとつで価値なきものが価値あるものに、価値あるものが価値なきものに変わってしまうということです。私たちがこの世に生まれた目的のひとつに心の修行が織り込まれているのも、こういった理由があるからです。
さて、価値は完全に葬り去られました。この価値否定は、これから話す二つの制度を否定する理由ともなるのです。その二つの制度とは、私有財産制度と貨幣制度です。この二つの制度を否定することによって、理想世界は大きく前進することになるのです。」
「さて、人間は自然物を何の疑いもなしに私有していますが、本当に私有できる財産がこの世にあるのでしょうか?。この地上界にあるすべての物は、私たちがこの世で生きている間一時使わせてもらっているだけで、決して私物化してはならないはずです。肉体は時が来れば地上から姿を消す、ならば肉体ある間のみ借用できれば良いのではないでしょうか?。
人類の争いの歴史は、私有財産の争いの歴史であったといっても過言でないでしょう。現在でも親の財産分与で子供達が骨肉の争いをしている姿をみますが、これなども前言からいえば愚かな争いといわねばなりますまい。この世には何ひとつ私物は存在しないと同時に、自分が使用してならない物も何ひとつ存在しないのです。すべての物は、すべての生き物のために用意されているのですから、それを使用してならないという決まりはないからです。ただこの世は物質の世界ですから、時間と空間が重なると『ぶつかり合う』という不都合が生じます。だからぶつかり合わないよう便宜上、Aの物は誰のもの、Bの物は誰のものと、一時区別しているに過ぎないのです。にもかかわらず人間は、私物として執着を抱くからさまざまな争いが生じるのです。
海も山も川も湖も大地も、すべての生き物の共有物です。なのに地主の子として生まれただけで、なぜその土地を自分のものとできましょうか?。それは空気の下に生まれた生き物が、“ここからここまでは自分の空気だ”と主張するくらいおかしなことではないでしょうか?。ある人はこんなことをいっております。
”もし三人の仲間が、冬山で吹雪のため山小屋に閉じ込められたら、三人がめいめい持っていた食糧は個人の私有からはずされ、三人のものになるだろう。とすると、本来「私有」とはどういうことなんだ!”と・・・。
この人のいうように、私有という形は一時の見せかけであって、あるべき姿ではないのです。あるのは、必要に応じて使用できる権利だけです。つまり、その人が生きるに本当に必要であれば、どんな物であっても使用して構わないという使用権を、元々天賦権(天から与えられた当然の権利)として与えられているということです。なぜなら、すべての生き物は神の御手によって等しく創造された神の子だからです。その意味において、物は必要な時に借りて使い、必要なくなったら元に返しておけばよいし、返せない場合でも、(食べ物、生活必需品など)それはそれで生きる権利として互いに許しあえば良いのです。これが生き物の、物質界において守らなければならない基本的掟なのです。私有財産を許すことによって、いかに多くの矛盾と不合理を生みだしたことでしょう。
その第1は、階級社会をつくり貧富の差を生み出したことです。
生き物の潜在意識の中には、この世の物はみな生きとし生けるものに与えられた共有物という本能的知覚が働いています。アフリカの原住民の中にはいまだにその名残があり、持たない者が持っている者から物をもらうのは当たり前となっています。動物もその意識が働いているから、余った餌を隠し持つようなことはしません。持ては持つほど欲深くなり、手放したくなくなるのは人間だけです。
第2は、社会秩序を乱したことです。
人類共通の生活空間を創造しようとしても、そこに所有者個人の不寛容な思惑が入りそれが許されない。たとえば、ここに100ヘクタールの土地があったとしましょう。もしその土地を私有に任せるとなれば、必ず力の強いものが占領するようになり、占領した者の都合のよい使い方をされる。大きな家を建て、大きな庭をつくり、背の高い塀で囲み、木を植え、橋を架け、道路はまるで迷路のように好き放題に敷かれる。不動産は動かしがたいものだけに、一旦つくられるとそれが邪魔だからといって簡単に動かすわけにはいかない。こうなると、少数権力者のために理想とする社会環境は適えられなくなり、多くの人が不自由な生活を強いられることになる。今日、消防車も入れないほどの狭い住宅街がアチコチに見られますが、これなどはその典型的事例といえるでしょう。
第3は、個人主義を助長させたことです。
人間には潜在意識とは別に、五官からつくり出される顕在意識というものがあります。その動きの根は欲望ですから、どうしても個人主義に陥りやすい。私有財産を許すとその欲望は火に油を差したように燃え広がり、個人主義を暴走させることになる。社会秩序はこうしたエゴイストによって掻き乱され、何ひとつ配在された環境作りがなされないのです。今日の地球環境の危機も、その大きな要因にこの個人主義の暴走があるのです。もし個人主義を主張したいなら、出した廃棄物も個人で解決してもらいたいものです。消費する時だけ私物化し、使用後の廃棄物を社会共有物として放っておかれたのでは地球環境はたまったものではない。
私たちは何か自分に都合の悪いことがあると、すぐに“人権蹂躙だ”人権無視だ“と騒ぎ立てますが、その騒ぎ立てている人たちは果して全体の人権を守っているでしょうか?。この世に自分しかいないのでしたら好き勝手に生きたらよいでしょうが、多くの仲間と睦まじく生きていかねばならない人間社会において、自分の行動が社会にどのような影響を与えるか、といった自覚はいつも持っていなくてはならないし、また持つことが人間としての責務でもあると思うのです。したがって個人の権利を主張する前に、この主張が果して社会全体にどのような波紋を投げかけるか、また全体の福利にどのような影響を与えるか、といった公人の目を常にもち、その良否を確かめた上で主張すべきでしょう。また周りの人たちも同様に、全体権利を主張することによって個人にどのような影響を与えるか、それを強いることによって個人を窮地に追い込まないか、個人の利害と全体の利害との比重はいかほどか、といったトータル的な判断もまた必要になってくるでしょう。このように互いに相手の立場になって考えあう時、そこに素晴らしい知恵も生まれてくるでしょう。最終的には双方の『許し』がすべてを解決するのでしょうが、この『許し』が大きければ大きいほど、平和も大きくなっていくものなのです。
このように人類の歴史は、私有財産制度を許すことによって数々の苦汁をなめてきたわけですが、人類は一向にこの過ちを改めようとしません。それどころか、ますます私有を容認する傾向にあります。なぜこれまでして人間は、私有物にこだわるのでしょうか?。もし本物の財産が何なのか知ったら、これほどまで私有物にこだわらず生きられたでしょうに・・・。
では、人間が真に大切にしなければならない財産とは何でしょうか?。土地でしょうか?、お金でしょうか?、地位や権力でしょうか?。私たちはよく、“あの人は財産家ですよ!”とか、“あの人は大金持ちですよ!”とかいいますが、財産とはそのように目に見えるものばかりでしょうか?。目に見えない財産、すなわち、お金に代えがたい財産もあるのではないでしょうか?。私は財産を次の三つに分類してみました。
1の財産は社会通念上いわれている財産ですが、これは肌で実感できる一番頼りがいのある財産のように思えます。しかしよくよく考えてみると、これほど頼りがいのないものはありません。なぜなら、経済変動、社会情勢、政治の動向、戦争や天変地変によって、これらの価値はコロコロと変わってしまうからです。またこの財産は物ですから、増やしたり増えたりする反面、盗まれたり焼失したり減ったりする恐れもあります。だから一番安住していられるはずの財産家が、金庫に鍵をかけ、戸締まりに神経を使い、世の動きにいつもビクつき、改革が行われるたびに現体制が崩壊しないよう必死になって抵抗するのです。この財産にしがみついている限り、人の心は休まらないでしょう。それに比ベ、2の財産は、その人の身についているものですから、盗難にあったり焼失したり失ったりする恐れがありません。努力次第でお金も財産も地位も思いのまま、可能性はドンドン広がっていくでしょう。しかし喜んではいられません。この技術や知識もこの世限りのもの、肉体が無くなったり破損すれば、その素晴らしい財産も失うことになります。
それでは3番目の財産はどうでしょうか?。これは肉体がなくなっても決して失われない永遠の財産です。人を思いやる広い心、優しい心、不動の心、何事にもくじけない不屈の闘志心、努力心、協調心、正義心などの財産は、お金で買えない貴重な財産です。私たちは、肉体の死が万事と思うから三番目の財産を軽んじますが、人間が永遠の存在だと知ったら、うかつな扱いはできないでしょう。
さて人間が永遠を求める旅人なら、私たちの求める財産は永遠の価値を秘めた三番目の財産でなくてはならないでしょう。金持ちがしがみついている財産は、不安定極まりない財産ですから、一日も早く三番目の財産獲得に転換してほしいものです。人間はこれまで、失う財産を追い求め、多くの争いと悲劇を生み出してきました。今日の混迷も、この一点にあるといって過言でないでしょう。財産のために人を裏切り、陥れ、欺きあう、これは財産が物だから起こる悲劇です。もしこれが物でなく、二番目三番目の財産なら、この悲劇もずっと少なくなるはずです。」
「前述したことを念頭に置いて、現在各国に帰属している資源やエネルギーはどうすべきか?、ということについて考えてみることにしましょう。
この世に私物は存在しないといいました。ならば資源やエネルギーも、一国に帰属させるべきではないでしょう。つまり地球上にあるすべての資源やエネルギーは、全人類の財産として全人類の為に使うべきではないでしょうか?。」
「でも、元々自分の国にあった資源やエネルギーを、なぜ他国民のために使わなくてはならないのでしょうか?。」
「では質問しますが、その資源やエネルギーはその国の人たちが作ったのですかな?。その民族が誕生する以前から、もともと自然物としてそこにあったのではありませんかな?。それをなぜ、その国民だけのものにできましょうか?。」
「しかし、先住民族に帰属権があるのは当然ではありませんか?。」
「先住権の主張ですかな。それでは貧土の国に生まれた人たちは、ただ運が悪かっただけだとおっしゃるのですか?。豊かな地に生まれた人は一生豊かに暮らし、貧しい地に生まれた人は一生貧しい生活に甘んじなくてはならないのでしょうか?。」
「それは仕方がないと思います。もし資源やエネルギーが欲しいなら、一生懸命働いて買い取るしかないでしょう。」
「もし買い取るお金がなかったら、その国の人たちはどうするでしょう。死ぬわけにいかないから、きっと豊かな国を侵略しようと考えるでしょう。そうなると、戦争になり多くの犠牲者を出すことになる。」
「それでは、ご老人は資源をただで分け与えろとおっしゃるのですか?。」
「どのような国であろうと、何か役立つものがあるはずです。たとえば、技術の移譲とか人的サービスといった目に見えない財産が、それを交換することだってできるはずです。」
「もし、それさえもない国だったらどうするのですか?。」
「気持ちをいただくことです。気持ちをいただいた上で物を分け与えることです。」
「見返りがなくとも分け与えろとおっしゃるのですか?。」
「そうです。たとえ見返りがなくても、困っている人たちを助けるのは人道上当然ではありませんかな?。」
「しかし、その国の資源だっていつまでもあるわけではありません。だったら、できるだけ子孫のために残して置きたいと思うのは人情ではないでしょうか?。」
「子孫のために?。」
「ええそうです。」
「そこがおかしいのです。よろしいですか・・・。
先程もいったように人間は永遠の存在です。つまり、輪廻転生を繰り返す永遠の生命体、それが私たち人間です。その永遠の命を持つ私たちが、一国だけの肉体子孫にこだわるのはおかしいのではありませんかな?。私たちはある転生ではA国に生まれてA国人の肉体を持ち、ある転生ではB国に生まれてB国人の肉体を持つといったふうに、色々な肉体に宿って転生を繰り返しているのですよ。ならば、すべての肉体子孫に愛情を注ぐのが道理というものではないでしょうか?。なぜなら、次生自分がどこに生まれるか分からないからです。
たとえば、今あなたは資源豊かなA国に生まれ、指導者となって裕福な暮らしをしていたとしましょう。A国の隣には貧しいB国があって、時々資源援助の申し込みがあります。しかしあなたは、貧しい国の要求に耳も貸さず少しも資源を分け与えようとしません。それどころか、侵略から身を守るため多くの予算をつぎ込み軍備の増強を図っています。そんなあなたの人生は百年足らずです。いや余りにも贅沢に親しんだため、六十年しか生きられませんでした。あなたは短い一生を終え、意識界へ帰って行きます。次生あなたは、B国に肉体を持ち再び指導者となりました。彼は自国の余りの貧しさに何とかしなければと思い、豊かなA国に資源を譲ってほしいと申し出ました。しかし資源を譲ることは国の決まりでできないと無下にも断られました。(その決まりは、自分がA国の指導者の時に定めたものであった)そこで彼は、ひもじい思いで一生を過ごさなくてはならなかった。
こう考えると、あなたは二つの転生を通じ楽と苦を体験したことになり、その総和は〇でした。もしA国の指導者であった時に、貧しい国を助ける援助法を法制化していたなら、B国に生まれた時ひもじい思いをせず生活できたはずです。贅沢もできなかったが、ひもじい思いもしないですんだ。総和は同じ〇ですが、一方では暖衣飽食によって命を縮め、一方では飢えによって命を縮めた。一体どちらが賢い生き方だったでしょうか?。A国人も次生B国に生まれないとも限らないし、B国人も次生A国に生まれないとも限らないのですから、資源を偏らせるより、人類全体の財産としておいた方が利口ではないでしょうか?。」
人類が輪廻転生を繰り返す生命体であるとすれば、たしかに理屈は通るが・・・?。
「もう一つ、私たちは国境線を作ることで大損していることを知らねばなりません。もし国境線を作らず、地球上のすべての資源を人類全体のものとして扱うなら、人類はみな裕福に暮らせるはずです。」
「どういうことですか?。」
「わかりませんかな?。あなたは自分の国の資源だけ自分の物にするのと、地球上のすべての資源を自分の物にするのと、どちらが裕福に暮らせると思いますか?。地球上のすべての資源を自分の物にすることですね・・・。では人類は今、そのようなことをしていますか?。ここからここまでは自分の国の資源、ここからここまではあなたの国の資源、と分けているのではありませんか?。国境線を設けなかったらすべての資源を自分の物にできるのに、国境線を設けているため、地球上では常に資源の奪い合いや領有権の争いが起きているのです。」
たしかに、すべての資源を全人類の財産として扱えば争い事はなくなるだろう。また貧しい者もいなくなるかもしれない・・・・?!。
「今後科学は飛躍的に発達します。そうなれば、エネルギーも資源も錬金術まがいに手に入るようになります。(理想社会が浸透し人の心が整えば、科学は一段と発達する)そうなると、私有物とはなにか、国有物とはなにか、といった考え自体まったく無意味になってきます。つまり、空気のように自由にエネルギーや資源が手に入るようになれば、これは私のもの、これはあなたのもの、といった区分けが不要になってくるというわけです。
さて、私有財産にこだわる事の愚かさを論じてきましたが、ご理解いただけましたかな?。たしかに、生きていくためにはある程度の物は必要でしょう。しかし、それも肉体ある間かぎりです。どんなに沢山の物を持っていても、あの世に持ち帰るわけにはいかないからです。それに、次生どこに生まれるか分からないとすれば、肉体子孫に財産を残す姑息な考えも捨てざるを得ないでしょう。」
価値の消滅は、貨幣の存在を否定する理由になると老人はいうが、物の配分にはやはり貨幣は必要ではないだろうか?。私はこの疑問をぬぐいきれないでいた。
「経済とは『配分の哲学』であるといわれるように、経済を語る時にこの配分問題を避けて通るわけにはいきません。今日この配分は資本主義経済、つまり適者生存(優勝劣敗・弱肉強食)という最も原始的な手法によって行われているわけですが、その中心的役割を担っているのがこの貨幣制度なのです。それでは、貨幣はどうしてもなくてはならないものなのか、機能に注目しながらその存在意義を考えてみることにしましょう。
貨幣は太古の昔より私たちの生活にさまざまな便宜をもたらしてきましたが、貨幣にまつわる人間ドラマは決して楽しいものばかりではありませんでした。"金が敵の世の中"といわれるように、人生劇場で演じるテーマの殆どは金にまつわる悲劇であり、その悲劇は時代を問わず繰り返されてきました。それではなぜ、貨幣が必要なのでしょうか?。それにはまず、貨幣がどんな働きをしているか知らねばなりません。
貨幣は次のような職能をもちます。
これを見ると貨幣は、私たちの生活に欠かせないように思えます。しかし、貨幣には次のような欠陥があります。
人を殺したり、傷つけたり、盗んだり、欺いたり、犯罪には必ずといってよいほどお金がからんでいる。これは貨幣が物だから起こる悲劇である。
ひたいに汗して働くところに価値があるのに、ただ金を動かすだけで利益を得ようなど、卑怯者、怠け者のやる所業である。これでは何に一つ肝心なものが身につかない。賭博・宝くじ・商品取引き・株式売買・為替取引などマネーゲームに熱中するかぎり、世に悲劇がつきまとうだろう。
貨幣を紛失したり焼失してしまえば、ひたいに汗して得た労働対価がむなしく消え去る矛盾がある一方、偽金を造って労せず巨万の富を得る不合理もひそんでいる。
真面目に得た労働対価がこのようなことで失ってしまうなど、本来あってはならないことである。しかし、貨幣本位社会である限りこの矛盾はいつもついて回り、我々を不安におとしいれるのである。本当に価値あるものなら、どんな事態が起ころうと減ったり失ったりするものではないだろう。その意味でも、貨幣は本物の価値あるものとはいえないのである。
貨幣の回転が早くなれば景気は良くなり、鈍れば悪くなっていく。つまり何かの原因で消費意欲をそがれれば、回転は鈍り経済は停滞へと向かっていく。その原因は多々あると思うが、現在のように物の生産が容易になった社会では、殆どが庶民のメンタルなものから引き起こされるといって良いだろう。最近では、それを打破しようと政府自らが景気振興を図るようになったため、戦前のような大恐慌は少なくなったが(公共投資や企業への補助、産業基盤の整備、社会福祉などの財政投融資)それでも景気の波はうねっており、それによって生みだされる失業も、インフレも、突き詰めれば貨幣弊害のひとつなのである。
発展途上国や後進国などの債務問題がとりざたされているが、我々の周りをみても、お金は力の強い者のところにあつまり、弱いところにはあつまらないという欠点を暴露する。これはお金が”物”だから起こる欠点である。物は念の強いところへ引きよせられる法則が働き、貧者は富者に押さえ込まれるという大きな不公平を生みだす。大国は人道主義を唱えながら、弱肉強食むきだしの経済戦争をくり返しているが、その結果はあきらかで、小国は戦いに負け莫大な債務をかかえ込むことになる。そこに人道精神があるといえるだろうか。これも、貨幣に縛られた限定経済の実態である。
通貨の増大は消費の拡大であり、また経済成長を意味し国民が富むことでもある。たとえばインフレを考慮しないで、闇雲に消費をあおり通貨の回転を速めればできないことではあるまい。その見返りとして国民は富み、見掛けは豊かな社会を築くことができよう。しかしその豊かさは、自然の犠牲の上に成り立っているのである。
大蔵省の印刷局で印刷される紙幣は、一日当たり二千五百億円、一年で約七十兆円だといわれている。近年紙幣の発行残高、つまり市中に出回っている紙幣は約四十兆円前後といわれているが、これを積み上げると富士山の約百八十五倍、六百九十キロメートルにも達するというから驚きである。(平成五年現在)これだけの紙幣を印刷し管理する手間は一体いかほどであろうか?。
江戸時代に不作で困窮した農民は、娘を売ってお金を作ったといわれる。いわゆる人身売買である。これなどは、実際表せるはずのない価値を無理やり金で表した典型的事例であろう。最近では暮らしに困らなくても、平気で体を売る若い女性が増えているといわれるが、これなども実情は違っても同列にかかげられるだろう。
また金さえ出せば、学歴や肩書やはたまた名誉までも手に入れられるという、不見識極まりないことがまかり通っているようだが、一見便利なお金の効用も、ここまでくると罪つくりの道具としかいいようがない。
ところで最近、善意をお金で表そうという傾向があるが、そのお金の出所が不純であっても形としての善意はなりたち、金額の大きさによって世間もその人を認め、新聞も善意者としてほめたたえる。こうなると身を尽くして施す陰の小さな善意など、どこかに吹き飛ばされた形となり、”長者の万灯より貧者の一灯”などの諺も影の薄いものとなってしまう。
”お金は出すが汗は出さない“では、本物の善意とはいえない。誠の善意とは、汗を流して尽くす行為をいうのである。(汗して働いたお金の寄付は立派な善意となる)。
また生命保険などのように、命の価値を無理やりお金で表すのも大いに問題がある。なぜなら大金を受け取ることにより、その後の人生を狂わす危険性を作ってしまうからである。何度もいうように、お金はひたいに汗して勝ち得るもので、決して棚からボタモチ式に得るものではない。貨幣がエネルギー貯蔵の役目をするとすれば、その反作用によってシッペ返しを受ける危険性は大となろう。このように、貨幣は真の労役を踏みにじってしまうのである。
金貸し業、銀行、生命保険会社、損害保険会社、証券会社、不動産売買業、さらにその紛争を処理する司法書士、弁護士、検察官、裁判官など、本来無用の職業が花形職業として登場し、損得に揺れる社会にドッカリと腰を据えることになる。これらの職業は資本主義社会特有ともいえる存在であるが、この活躍の場が増えればふえるほど社会は混迷の度を深めていくのである。
昔から金の切れ目は縁の切れ目といわれてきたように、貨幣は人と人のつながり、人と社会のつながり、人と国家のつながりを断ち切ってしまう。つまり、何事もお金によって解決できる世の中では、人の誠意とか、真心とか、情味といった心を育てないのである。
このように貨幣は、人の心を卑しくし多くの犯罪を生み出す厄介物となっているわけですが、どうしたことか人間はこの貨幣を手放そうとしません。どうも私たちは、貨幣というものが元々この自然界にあり、どうしても使用しなければならないような思い込みをしているようですが、これは人間が社会生活を営む中で必要に迫られ造られた純に人的なものなのです。ですからもし無くせるなら、一日も早く無くすべきなのです。もし貨幣がなくなり、一切の損得勘定ができなくなれば、人々の欲望は沈静化することでしょう。
ではどうしたら、この社会から貨幣を無くすことができるのでしょうか?。いうまでもなく、すべての価値が無くなったときでしょう。すなわち、
もっとも、すべてのものがタダになれば比較衡量する必要もないし、損得や利害も生まれないわけですから、1と2と3は同じと考えてよいでしょう。
では六つの貨幣の職能のうち、価値尺度機能と交換価値機能に注目して下さい。今日貨幣が必要なのは、違う品物の価値あるいは違う労働力の価値(サービス、アイデア、技術も含む)を共通単位で測り、その差異を埋める必要があるからです。たとえば(A)という人が作った洋服と、(B)という人が作った靴下の商品価値は、今日の社会常識では明らかに違いますから、それを等価交換するわけにはいきません。でも貨幣に置き換えることによって、それができるのです。貨幣にはこのような価値尺度機能と交換価値機能があるわけですが、先程から話ているように、もしどんな物もどんなサービスも等価値なら、つまり純粋に奉仕労働力から生まれた物なら、価値はすべて同じになるので測る道具(貨幣)は不必要になってくるはずです。すべてものが同じ重さなら測る必要がないので秤がいらないように、すべての物の価値が同じなら、それを貨幣という秤にかけて測る必要はないということです。しかもその物やサービスが公的市場で扱われるなら、そこにもう貨幣などの介在物は必要ないでしょう。」
「それでは、価値の貯蔵は何がするのでしょうか?。」
「価値の貯蔵が必要ですと?。」
「そうです。私たちは貨幣を貯蓄することによって、必要な時に必要な分だけ物を買い取ることができるのです。もし貨幣がなければ、その役目は一体何がするのでしょうか?。」
「なぜ価値の貯蔵が必要でしょうか?。食べる物も、着る物も、住む家も、医者にかかるのも、教育をうけるのも、旅行をするのも、電気、ガス、水道、すべてタダなのですよ。それも、欲しい時にいつでも手に入れられるのですよ。そのような社会に、価値の貯蔵が必要でしょうか?。
私たちには、無限の価値を秘めた労働力という財産があるではありませんか。それは“打出の小槌”のように、なんでも生み出す財産なのですよ。その“打ち出の小槌”を持っている私たちに、なぜ貨幣が必要でしょうか?。
残りの貨幣の機能、つまり支払いの手段、利潤を得る手段、権利の決済手段といった機能は、資本主義社会ならではのものですから、無くてもなんら問題はありますまい。」
「では、欲しいものをどうやって手に入れるのですか?。貨幣がなければ買うこともできないではありませんか?。それともご老人は、物々交換か配給制度にでもしようといわれるのですか?。」
「いいえ、物々交換も配給制もいらない、実に理想的な配分システムがあるではありませんか?。」
「理想的な配分システム?。」
「そうです。あなたは家で食事をする時お金を使いますか?。」
「私が稼いだお金で食べるのに、どうしてお金が必要でしょうか?。」
「それでは、お子さんから食事代を取りますか?。」
「いいえ、家族の一員ですからお金など取りません。」
「理想的な配分システムとはそれなのです。」
「えっ!?。」
「それでは貨幣も用いずどのように配分するか、いよいよその異色ともいえる配分システムの核心に触れることにしましょう。
大自然の生態系をみて感心させられるのは、我が身を犠牲にして他の生き物を生かす捨て身の精神、つまり滅私奉公の姿です。この精神が法のもとに脈打っているから大自然の秩序は保たれ、生命の循環も絶えることがないのです。すなわち、一見相食む弱肉強食の醜い姿の中に、素晴らしい秩序の束ねが息づいているということです。
“人間は社会的動物である”といわれるように、人間社会は色々な人が寄り添い助け合うことによって成り立っています。しかし、資本主義社会における助け合いは真心から生まれたものではなく、個々人の利害や損得の投げあいの中から生まれた不純な助け合いにしか過ぎません。すなわち、私的な労働力が損得勘定を背景に個々バラバラに積み上げられ、社会的労働力として運用される中から生まれた、結果的な助け合いに過ぎないということです。奉仕世界では、それを真心をもって表せる土壌作りに成功しました。つまり、『互恵』『犠牲(奉仕)』『少欲知足』の三つの精神を社会の中心に据えることで、何の強制力(権力や資本力)も使わず経済を循環軌道に乗せることができたのです。
経済を循環軌道に乗せるという意味は、私たちの労働力は切り放された存在ではなく、循環して渡り歩く社会的労働力であるという意味です。特に、利害や損得から解放された奉仕労働力は、途中で何ものにも邪魔されないだけに、速やかに「結果・成果」として自分のところに帰ってきます。それだけ張り合いも緊張も責任もあるわけですが、もしこの奉仕労働力を社会機構に完全に組み込むことができたら、すべての生活必需品を自家消費感覚で使用して良い!、といった制度も異端で無くなってきます。自分が作ったものを自分が使うのに、誰にも遠慮はいりませんからね・・・。これがこの世界の配分精神なのです。つまり配分は、本人の自由意志に任せた自由収得制度で良い、すなわち必要な時に、必要な量だけ、自由に持ち帰って良い!、という制度がこの世界の配分システムなのです。これなら、貨幣も、物々交換も、配給制も、必要ないでしょう。」
「それじゃ、泥棒と同じではないですか!?。」
「自分の物を持ち帰ることが、どうして泥棒になるのですか?。」
「たしかに、自国民が作ったものを自国民が持ち帰るのであれば問題無いでしょうが、他国民が持ち帰るとなればこれは別問題だと思います。」
「でも自国民だって、他国へ行って収得することがあるのですよ。これはお互い様なのです。」
「そうなると、持ち帰る人の心構えが問われそうですね?。」
「そうです。この制度の発想の原点は、人の心を敬い信ずるところから出発していますから、やはりそこらへんが問題になってくるでしょう。しかし、食べるものにしても、着るものにしても、住む家にしたって、質素な生活に甘んじる限りそう大差は出てくるものではないでしょうから、基本的な生活材に限ってみればそう案ずることもないでしょう。『収得』という言葉を使ったのも、すべての生活材は「自家消費のため!」ということを強調したかったからです。つまり自分の家で作ったものを、自分の家族が消費する感覚ですね・・・。
家族の物に欲を募らせる人はいないでしょうからね。とはいえ、生産調整の必要性から、収得内容を報告する義務は徹底させねばならないでしょう。
「でも人の良心をあてにして、本当に配分秩序が保たれるでしょうか?。世の中には、強欲者もいれば偽る者もいます。良心の塊みたいな人ならともかく、不正直な者は報告義務を怠るばかりでなく、いくらでも持ち帰ってしまうでしょう。たとえ正直者でも、報告義務を忘れることだってあるはずです。それでは、この制度は成り立たないのではないでしょうか?。」
「沢山持ち帰ってどうしますかな?。貨幣があれば一儲けすることもできましょうが、貨幣のない世界で多くの物を持つことは、厄介を多く背負うことになるのですよ。
ここに三人の人がいて物が四個あったとすれば、一個余ってしまうことになる。すぐに使うのだったら問題はないが、使わないとしたら、保管場所もいるし保管の手間もいる。生ものは腐りやすいから、保管には余計に神経がいるでしょう。必要な時いつでも自由に収得できる社会で、なぜ神経を使ってまで余分な物を持っている必要がありましょうか?。多く物を持っていなければ安心できないのは、信頼のない社会で生きている人間だけです。次のように考えれば、その不安も解消されるでしょう。
たとえば食糧なら、自分の食糧保存庫が市場にあって、そこで仲間が自分のために保管してくれている。少々面倒ですが、必要なときに市場に出掛け自由に持ち帰れば良いのです。できるだけ余分な物を所持しないよう心掛けるのが、この世界に生きる人たちの暗黙の了解事なのです。たしかに、行き渡らないほどの品不足ならあなたの心配もうなづけますが、いつも品物が豊富で、いつでも自由に持ち帰れる環境が整っていたら、誰が余分な物を持ち帰ろうとするでしょうか?。たとえ食べたい物がかちあって品不足になったとしても、明日まで我慢すればすむことです。信頼の行き届いた社会なら、その心の余裕さえ生まれるものです。
石油ショックの時、流言飛語に惑わされた主婦達がトイレットペーパーの買いだめに走ったことがありましたが、品不足になったのは、一儲けを企んだ業者が売り惜しみをしていたからでした。隠しておく方も卑劣なら、買いだめに走る方もまた愚かといわねばなりません。人の心の弱さといえばそれまでじゃが、これは資本主義経済に対する信頼のなさが引き起こした、笑い話にもならない事件でした。真にその経済に信頼があるなら、決してそのような混乱は起きなかったでしょうに・・・。」
「ご老人がいわれるように、すべての人が良心に恥じないよう一生懸命働くのでしたら、この制度は本当に素晴らしいと思います。でも世の中には、怠け者もずる賢い人もおります。そういう人たちは遊びながら食べたいのです。これでは配分の正義がまかり通らないのではないでしょうか?。一生懸命働く者は裕福に、怠け者は貧乏に、これは自然の摂理だと思います。たとえばここに、Aという人とBという人がいて、この二人に同じ量の芋を分け与えたとします。勤勉家であり努力家でもあるAは、もらった芋をみな食べるのではなく将来に備え増やそうと考えました。荒れ地を開墾し田畑をつくり、そこに種芋を植えました。その努力が実って、Aはたくさんの芋を手にすることができました。一方Bはもらった芋をみな食べてしまったので、すぐに食べるのに困ってしまいました。そこでBはAに芋を恵んで欲しいと申し出たのですが、この場合AはBに芋を分け与える必要があるでしょうか?。誰もが、いつでも、ただで、欲しい物が手に入る社会とは、怠け者に芋を恵んでやるようなものです。果してこのような配分システムが、正しいといえるでしょうか?。」
「結論からいいましょう。どんな事情があろうとも、困っている人を助けるのは当然です。ただしこの救済方法には、三つのやり方があると思います。
一つは、Bがまったくの無能者の場合です。この場合は無条件で助けてやらねばならないでしょう。何せ、能力がまったくないのですから仕方がありません。
二つ目は、能力はあるが無知なため、どうしたら最善の生活が営めるか分からない場合です。この場合、物を与え当面の生活を支えてやる一方、どうしたら最善の生活が営めるか教えてやることです。これなら一度目は失敗しても、二度目からは立派に自立できるでしょう。
三つ目は、何もかも承知の上で、ただ働くのが厭だから何もしない場合です。
この場合は黙って物を分け与えてやることです。何せ、人生の目的は何か?、人の生き方はどうあるべきか?、どのようにしたら最善の生活が営めるか?、すべて知った上での怠惰ですから、どう諭すこともできないでしょう。でもこのような人は、一人もいないといって良いでしょう。なぜなら、本当に人生の目的を知った人なら、決して怠け心など起こさないからです。怠け心を起こすのは、やはり無知ゆえです。つまり人がこの世に生まれて来た理由、努力することの尊さ、働く意味などが分からないから怠け心を起こすのです。したがって、怠け者のためになぜ働かねばならないのだと愚痴をこぼす人や、楽ばかりを追い求める人には、人生の意味をしっかりと教えてやることです。要するに、『人助けは人の為だけにあらず、いつの日か我が身に返らん』という真理を教えてやることです。」
「情けは人のためならず、というわけですか?。」
「そうです。ですから、愚痴も文句もいわず黙々と働いている人は、自分の為に働こうが怠け者の為に働こうが、努力に対する応報に色分けのないことを知っているから、決して怠け心など起こさないのです。あとの制度の欠陥などは、知恵を絞ればどうにでも解決できる問題です。」
「しかし、すべての人に行き渡るだけの物の確保ができるでしょうか?。」
「今日世界の特定地域で物不足が起こっているのは、国の経済政策の失敗か政治的混乱が原因です。もし何百万何千万という軍人を、あるいは売るため儲けるために動いている人たち(非製造労働者)を、生産過程に有効につぎ込むことができたら、そして今日の工業技術を持って円滑に生産活動が行われたら、この地球は物で溢れかえるでしょう。」
「でも、高価な品物、自己顕示欲をくすぐる品物、流行品、あるいは美味な食料品などに人気が集まり、常時不足する品物が出てこないでしょうか?。またその逆も考えられると思いますが?。」
「全く無いとはいえないでしょう。しかし、消費統計や生活アンケート調査を進めるにしたがい、人々の趣向も把握でき、極端な品不足や余剰品のでることも、なくなっていくでしょう。今日でも美味な食べ物に落とし穴があるのは知られておりますが、今後その正体がはっきりするにつれ、グルメ狂といわれる、美食家や大食家は減っていくでしょう。これは単に食べ物だけの話でないことも、人は知るようになるでしょう。」
「しかし食物には腹一杯があっても、着るものや身を飾るもの、あるいは電化製品や家具調度品といったものには腹一杯はありません。自制心のある大人といえども欲に誘われ、沢山持ち帰るのではないでしょうか?。また自制のきかない子供たちは、きっと好きなように持ち帰ってしまうでしょう。」
「たしかに、人の欲望を制御することは難しいかも知れません。でも奉仕社会は、あえてそれに挑戦するのです。奉仕社会は、完璧なほど自由を重んじます。それだけに自由には、対等の責任がのし掛かってきます。当然責任のとれない子供たちは、自由の行使は制限されるでしょう。つまり、必要な物は親が与え、子供たちに自由収得を許さないのです。今でも子供に渡す小遣いは、成長の度合いによって親が調整しているはずです。それがなされない子供は、どうしても曲がった道に足を踏み入れてしまう。だから奉仕世界では、親と社会が一体となって子供たちを見守るのです。」
「では収得が許されるのは、大人になってからですか?。」
「十五歳以上になれば許されて良いでしょうが、これも我が子の成長度を見て親が決めるべきでしょう。これは大人であっても、同じ考えをもって対処すべきでしょう。(責任能力の欠落している大人たち)とはいえこの世界の人たちは、“贅沢は敵”が身に染みているし"欲望の正体”も知っているので、決して無謀な収得には走らないのです。要するに、無謀な収得は人の心を腐らせ、環境にも悪影響を与え、しいては自分の労働にも負担を掛けるということをよく知っているのです。」
「でも中には、物欲に誘われ無用な消費に走る人も出てくるのではないでしょうか?。そんな人たちの罰則などは用意されているのでしょうか?。」
「奉仕世界には罰則も罰する人もいません。だが一番厳しい良心という法の番人がおり、行為に対する応報(原因と結果の法則)という処罰があります。この世界の人々はそれを何よりも恐れるから、無謀なふるまいはしないのです。」
「でも人の良心をあてにして、本当に社会の秩序が保たれましょうか?。それは理想ではありますが、現実とは程遠い考えだと思います。」
「もっとも、今日のような貨幣本位制の中でやれといっても無理でしょうが、欲の空回りする社会なら、きっと現実味をおびてくるはずです。」
「欲の空回りする社会?。」
「貨幣も私有財産もない世界では、欲を起こしても空回りするしかないから、その欲はきっと良い方に向けられ、“悪に強きは善にも強し”ということになって、良きものは一層、良きように展開していくのです。人の心は元々善ですから、良い制度の中では善が光り輝くしかないのです。人の心はそう見捨てたものではありません。」
老人は確信に満ちた笑みを漏らしたが、本当に人の心は見捨てたものでないのだろうか?。たしかに、人類史上このような制度を取り入れたことはなかった。だからやってみる価値はあるかもしれないが、しかし?・・・。
「先程もいったように、この制度の発想の原点は人の心を信じ敬うところから出発しています。したがってこの世界の人たちは、人を信じ自分を信じています。そんな人たちが、常識外れの物を収得するはずはないし、無謀な消費に走るはずもありません。あなたが私の話を信じられないのは、私の世界に今の醜い世界をダブらせて見るからです。」
「ご老人は人の心は善だといいますが、今の世界を見ると、どこにその善が見えるでしょうか?。他人を陥れてでも欲望を満たしたい。ライバルの不幸を見てはひそかに喝采を送っている。他人の不幸を楽しみの種にしている。そのような人の多い社会に、仏心をあてにする制度を導入しようなど無謀ではないでしょうか?。また成功するとも思えませんが?。」
「しかし、他の星の理想世界も一夜にしてなったわけではありません。地球と同じ醜い世界から徐々に脱皮し完成されたのです。
地球においても、理想の壁を乗り越える苦難の日々は続くでしょうが、今もいったように、人の心はそう見捨てたものではありません。磁石が北を指すように、制度さえ整えばきっとまともな向きを示すようになるでしょう。労働本位制の真価を知れば、どんな人だってのめり込む世界なのです。」
「その奉仕労働ですが、誰もが希望の職業に就けるのでしょうか?。」
「いくら自由であっても、自由のぶつかり合いがあっては混乱します。だから、自由をより自由にするルールは必要でしょう。」
「やはりルールはあるのですね?。」
「無論あります。もしまったくないとすれば、それは自由世界とはいえないでしょう。好き勝手な生き方は、信号のない交差点を暴走するようなもので危険極まりありません。キッチリしたルールが必要なのは、宇宙の様相を見てもわかろうというものです。ただ、今日の世界と奉仕世界のルールの相違点は、強制力を与えるのはあなた自身であるという点です。」
「それでは、就職はどのように行われるのでしょうか?。就職試験のようなものがあるのでしょうか?。また、どこまで自分の希望が適うのでしょうか?。」
今日の社会では、生活の為に厭な職業でも就かねばならないが、奉仕社会でも同じなのだろうか?。
「この世界の労働に対する基本的考えは、自分のできる仕事を無償提供するということで、自分好みの仕事場で好き勝手に働いて良いというものではありません。
奉仕国家には何万もの労働機構が存在しますが、病人や怪我人、あるいは一定の年齢層を除いたすべての国民は、その労働機構のどこかに所属し働くことになっています。当然そこには、現業系労働者、技術系労働者、事務系労働者、研究開発系労働者、管理職系労働者など、その職種の適人者たちがそれぞれの職場で活躍することになるわけですが、その適職を決定するのはやはりその人の能力です。能力を見極めるためには、やはりぺーパー試験や実地試験などの適性試験は必要でしょう。」
「それでは、志望しても適わない人が出てくるのですね?。」
「それはどんな社会でも同じでしょう。能力を無視して就業させたら、他人に迷惑をかけるばかりか事故にもつながりかねません。その意味では、職業選択は今以上に厳しくなるかもしれません。」
「それでは、3K(きつい、汚い、危険)の職種には誰も就きたがらないのではないでしょうか?。」
「どんな時代でも、楽な仕事、奇麗な仕事、華やかな仕事に就きたいのは人情でしょう。だからといって、みんなが3Kを嫌っていたのではこの社会は成り立ちません。」
「ではどうするのですか?。今日の試験地獄も、突き詰めればここに起因しているはず。一流大学を目指すのも、良い職業に就きたいため、良い会社に入りたいためなのです。」
「先程もいったように、奉仕世界は完全能力主義の社会ですから、ここでも就職競争は避けられないでしょう。どうしても希望を通したいなら、人より努力して勝ち取る以外ないでしょう。これはどんな世界であっても同じことです。そこで希望が適わなかった者は、第二、第三の希望職種に切り替え再挑戦しなければならないわけですが、この世界ではその舞台が何度も用意され、しかも公明正大に行われますから、希望に燃える若者の力量を存分に試すことができるのです。こうしてトコトン納得するまで就職活動が行われ、次第に労働力の均衡が図られるのです。」
「働かなくても生活に困らない、就労も自由、そんな社会で、果して厭な仕事に就く人がいるでしょうか?。」
仕事をせず、のんきに暮らす人が必ず出てくる。いや、そういう人たちばかりになってしまうかも知れない。
「あなたならどうしますかな?。仕事が厭だからといって、何もしないで遊んで暮らしますかな?。」
「さあ?、私は三日も休むと落ち着かなくなってくる方ですから、とても遊んでなどいられないでしょうが、中にはこれ幸いとばかり遊んで暮らす人も出てくるのではないでしょうか?。」
「そうでしょうか?。人は短期間なら遊んでいられましょうが、一生となると、苦痛になるものです。人間は遊んでいられないようにできているのです。特に、小さな時から人間の本性と人生の目的を教育された者には、遊ぶ暮らしは拷問にも匹敵する苦痛でしょう。」
「しかし、地を這う劣悪な環境で働いている人たちは、みな生活に追われ仕方なしにやっているのです。もし働かないですむなら、誰が厭な仕事に就くでしょうか?。」
「今日の技術革新は、労働時間を短縮し力仕事や汚れ仕事あるいは危険な仕事を機械に振り向け、人間を3Kから解放しつつありますが、今後それはますます進み、近い将来デスクワークと変わらぬ職場を提供するようになるでしょう。現在でも金に糸目をつけなければ、どんな劣悪な仕事場もオフィス並に変えられるといわれますが、奉仕世界はそういった下の方から解決されるのです。その時3Kは過去のものとなり、どんな仕事も喜んで就けるようになるでしょう。」
「しかし、どんなに職場の環境が改善されても、やはり厭な仕事には就きたくないものです。そうなると、社会機能に支障が生じてくると思うのですが?。」
「この世界が浸透するにつれ、汚れ仕事に自ら飛び込んで人格を磨こうという人たちが増えてきますので、そのような心配はいらないと思いますが、創成当時にはやはり何らかの手を打つ必要はあるかもしれません。そこで、“若いときの苦労は買ってでもせよ!”という格言を取り入れ、学校出たての若者を三年間厳しい労働環境に駆り立てるのです。つまり、徴兵制のようなものですね。徴兵制は人殺しの勉強をするわけですが、ここでは厳しい仕事を通して人格を磨く道場にするわけです。三年くらいなら我慢できるでしょうから、これはある程度強制的でもかまわないでしょう。」
「繰り返しになりますが、働かないでも生活できる世の中で、本当に厭な仕事に就く人がいるでしょうか?。」
「人は働かないでいられないようにできているのです。たとえ一生遊んで暮らそうと心に決めた人でも、月日の経つうちに良心に急き立てられ、きっと働きに出るようになるでしょう。」
「たとえ仕事に就いても、厭な仕事に情熱が傾けられるでしょうか?。」
「あなたは、今の仕事に情熱を傾けておりますかな?。」
「えっ!、そういわれれば耳が痛いですが、自分なりには一生懸命やっているつもりです。」
「今日就労は、安穏な生活を送るための手段になっていますが、奉仕世界ではそんな安っぽい目的は、これっぽっちもないのです。彼らは労働を通じ、職場の人間関係を通じ、己の人格を磨き同時に社会に貢献しようと懸命です。」
「でも今の地球において、それは夢物語りにしか過ぎません。私には、どうしてもすべての人たちが働きにでるとは思えないのですが?。」
「人間というものは不思議な生き物で、はっきりと目的が示されれば損得を度外視した行動を取るものです。特に与えられた責任が社会的なものであればあるほど、立派にやり通そうとする気概を持つものです。いや社会的責任だけでなく、どんな小さな責任であろうと与えられたと感じたら、なぜか義侠心的なものが沸き上がってきてジッとしていられなくなるものです。消防士が危険を顧みず火の中に飛び込むのも、警察官が凶悪犯に立ち向かうのも、これみな責任感からでた義侠心の現れです。もしあなたの労働が、社会のためになくてはならないものだとほだされたなら、果してノンビリと遊んでいられるでしょうか?。それも小さな時より人間の本性を教育された者ならば、とても遊んでなどいられないでしょう。」
「しつこいようですが、世に刃向かう者は必ずいるものです。そんな人たちにはどう対処するのでしょうか?。」
私はしつこいほど食い下がった。“怠け者のいない世界”など、私の頭では描けなかったのである。
「あなたはどうも、今の資本主義社会の厳しい労働条件を念頭に心配しているようですが、この世界の労働はスポーツでもやるくらいの気楽な気持ちで就くことができるのですよ。勿論、厳しさがないわけではありません。でもその厳しさも、ときめきの厳しさ、希望の厳しさ、喜びの厳しさなのです。やる時には徹底してやりますから、労働時間が今より多くなる場合もあるかもしれませんが、時間的拘束があるわけではありません。(職種によってはある程度の時間的拘束は必要)普通労働時間は、三、四時間、もちろん週休二日制は常識です(初期の理想世界)。それでも遊んで暮らしたいと思うなら、そんな人は放っておいたら宜しいではありませんか。何も強制してまで働いて貰わなくてよいのです。」
「なぜ強制しないのですか?。」
「人類史における不幸の大半は、労働が不当に扱われたところにあったのです。奴隷制度、封建制度、共産主義制度、資本主義制度、これみなそうです。したがって、そのような過ちを二度と犯してはならないという戒めから、奉仕世界では就労するしないは本人の自由意志に任せるべきとしたのです。もし”働かざるもの食うべからず”の大原則を貫こうとすれば、次のような矛盾が必ず生まれるでしょう。
怪我人や病人の就労免除は、どんな世界においても同じでしょうから、もしこの大原則を貫こうとすれば、真の病人を職場へ追いやる過ちや、病状判断の難しさから回復した者まで遊ばせる間違いを犯すでしょう。また厭がる者を強制労働させるとなると、人権問題にもなりかねません。それこそ、奉仕世界の基本理念を揺るがすことになります。だから、働く働かないは、本人の自由意志に任せるべきとしたのです。
今日社会秩序がまがりなりにも守られているのは、国家権力を前提にした法の秩序があるからでしょうが、その法の乱用や誤用によってどれほどの人たちが間違った裁きを受け、どれほどの人たちが人権侵害をうけていることでしょう。人間は間違いを犯します。そんな人間が、どうして人を裁けましょうか?。人は人を裁けません。裁けるのはその人自身だけです。つまり、良心だけが人を裁けるのです。」
「それでは、怠け者や不正を働いた者を野放しにせよとおっしゃるのですか?。それで社会の秩序は保たれましょうか?。」
そんなことを許したら社会は荒れ放題、この世は悪者の天国になってしまうだろう。私は老人のいうことが納得できなかった。
「あなたは今の社会像をそのまま私の社会に重ねるから、そういった意見が出てくるのです。もし貨幣が存在せず、物の生産が潤沢に行われ、収得が自由で、人間の本性を知らされた社会なら、そのような意見は出てこないはずです。たしかに、今の社会から一足飛びという分けにはいきません。でも奉仕世界の器作りが進み、真の教育が浸透してゆけば、必ずそのような社会になるはずです。子供のころから人間の本性と人生の目的を教え込まれた者が、悪いことをするはずは無いし、怠け心を起こすはずも無いのです。あなたが人間性悪説を頭から離せないのは、今の濁世にドプリと浸かっているからです。」
しかし、奉仕経済の柱となっているのは計画経済だろうから、競い合うことが少なくなるだろう。そんな世界に進歩はあるのだろうか?。そんな疑問がふと私の脳裏をかすめた。
「それでは競合のない社会で、人間は一体何を目標に努力すればよいのでしょうか?。」
私は、ここぞとばかりに突いた。
「努力する目標がない?。」
「平等で格差がなく、生活に困らない社会で、もし職種や職階にこだわらない生き方をするとすれば、あと何の目標が残るでしょうか?。そこに何の奮起が期待できるというのでしょうか?。」
「あなたには家族はありませんかな?。子供はいませんかな?。 人生の目標はありませんかな?。国民としての責務を感じませんかな?。人類としての大義を感じませんかな?。」
「はあ・・・?」
「夫婦仲よく手をとりあい子供を立派に養育する。人格を極め負わされた使命をまっとうする。人のため社会のために働く。理想世界を築き人類の進化を押し上げる。そんな崇高な目標があるではありませんか?。今の私たちの目標は、そんな崇高なものですかな?。あなたが考えている競合とは、利己心を満足させる貧しいものではないのですかな?。」
「・・・」
「人間同士の競合なんて安っぽいものです。あなたが本当に競わなければならない相手は、あなた自身ではないだろうか。つまり、あなたの心です。その心は、この世のどんな相手よりも手ごわいのですぞ?。」
「でも、目に見えない心を相手にするより、目に見える人と競い合う方が手っ取り早いのではないでしょうか。その意味では、資本主義世界はそれを適えてくれる格好のシステムだと思います。その点奉仕世界は、社会主義世界のように計画経済が基調のようですから、どうしても競い合いが少なくなると思います。そんな社会では、個人の特性は社会の中に埋没してしまい、画一的なロボット人間ばかり出来てしまうように思います。事実社会主義世界が崩壊したのは、この人間味のない計画経済が原因ときいております。」
「ちょっと待ちなされ、社会主義が崩壊したのは、人の心を無視した唯物主義がもたらしたもので、決して計画経済が原因ではありませぬぞ!。」
「ご老人の提唱する世界は、配分の違いや貨幣が存在しない違いはあっても、その根底をなしているのは計画経済と無競合システムではないでしょうか?。社会主義が崩壊したのは、計画経済と無競合がもたらした労働意欲の減退にあったはずです。品質においても、性能においても、生産性においても、西側諸国とは比べようのない劣悪さです。またオリジナリティーが無視された画一的品々は、人間の精神的個性まで失わせています。」
「勘違いしては困ります。配分の技術的未熟はあったにしても、社会主義が崩壊した真の原因は、人の心を無視した、まったく物でしか存在価値を認めない唯物主義(スターリン型社会主義)がもたらしたのです。彼らは公平な配分を口にしながら、自由を無視した不公平極まりない社会を作ってしまった。強大な権力を傘にきた官僚制度は、人民から夢と希望を奪い、そこに蔓延した、わいろ、ごまかし、追従、盲従、怠惰や日和見主義が、社会主義を崩壊へと追いやったのです。
あなたはオリジナリティーがなくなり、画一的なロボット人間ばかり出来てしまうと心配するが、私にいわせると、奉仕世界こそ個人の特性を最大限に生かしながら、なおかつ創意工夫の発揮できる世界だと断言できる。本来企業家や労働者は、いかなる時も“人の為に”“社会の為に”尽くす気高い目標をもっていなければならない。なのに企業家は、儲けることを最大の目的としている。労働者にしても、人より多くの報酬を得たい!、物質的豊かさを謳歌したい!、職場での地位を上げたい!、といった至って貧しい目的です。社会主義に至ってはどうでも良い、ただその日を無事にすごせたら良い、といったマンネリズム的堕落精神です。それでは社会が良くなるはずがない。
奉仕社会の第一義は、人のため生きとし生けるもののために人々が手をつなぎ、下から盛り上げていくものです。したがって奉仕社会では、各人の自主的行動に期待が委ねられ、特色ある労働成果が期待できるのです。たしかに生産量などの枠決めはあるにしても、その内容はより高質性が要求され、より良い品作りの研究は寸暇をおしんで行われるでしょう。ましてや単純労働ともなると、その単純さの中により一層の味つけと飾りつけがなされ、マンネリ化の打破と労働意欲の増進が図られるでしょう。なぜそう断言できるかといえば、時間の余裕と恵まれた職場環境の下で、売上増強も利益追求もいらない労働者のめざすものはただ一点、品質の向上にあるからです。”職人馬鹿”という言葉がありますが、良い意味でそれが発揮されるのです。こうなると労働者は、技術の改善や品質の向上に全力をかたむけられるし、技術者や科学者も、人類の崇高な目標を目指して研究にうち込めましょう。また医者も教育者も政治家も、純粋に国民の幸せを願って献身できるでしょう。」
「でもご老人は先程、“利便や快適は人を堕落させる敵である”とおっしゃったではありませんか。なのになぜ、品質の向上が必要なのでしょうか?。」
「私は単に五感をくすぐるもの、好奇心をそそるもの、そんな不真面目なところに技術革新を使ってほしくないといったのであって、品質の向上を図るなとはいっておりませんぞ。『質の追及』は人生の目的とも一致するのですから、大いにやったらよろしいのです。」
「質の追及とは、具体的にどのようなことでしょうか?。」
「今日の経済でタブーとされている完全品を作ること、これを質の追及といっているのです。たとえば、一生使える鉛筆とか、壊れにくい電化製品とか、破れにくい衣類といった質の追及ですね。この種の追及も大いに意味ありますが、質追求の本当の目的は物質を征服することにあるのです。たとえば、永遠のエネルギーをくみ取ったり、次元の扉を叩いたり、時間と空間を征服するといったもの、あるいは、幸せ・感動・安らぎ・美といった絶対的価値をつかみ取ることです。」
しかし、自分との戦いだけで人間は本当に成長できるだろうか?。スポーツをはじめあらゆる技術の向上は、競い合いの中でこそ成し遂げられるはず。今の社会はまさにそうだから、著しい進歩を遂げてこられたのではないだろうか?。たしかに、試験地獄や企業摩擦などの弊害もあったが、それがあったればこそ人は勉学に励み、企業は努力し、国家は奮励し、発展してこられたはず。生ぬるい湯の中で、人は本当に成長できるだろうか?。私は首を傾げないわけにはいかなかった。
「あなたのいい分だと、“戦争が科学を発達させた”という理屈と同じになりますぞ!。」
「えっ!。」
またまた心を読まれた驚きに、私はドギマギした。
「たしかに競い合いによる成長は、この世界ではある時期必要じゃろう。あなたがいうように、これまで競争社会が人や国を成長させたかもしれないが、いつまでもそのような他力に頼っていてはいけないのです。人の成長というものは、ある時期を過ぎれば内的なもの、つまり、自分の心を競合相手としなければならないからです。人間は自らに甘い、だから規則をつくって、監視人をおいて、強制的にしたがわせようとする。法律や社則などはその代表的なものでしょうが、これを頼りにしている限り、人の進歩は、たかがしれています。競争し合わなくても、規則で尻を叩かれなくても、自らの意志によって自らを律し、発展的行動につなげてこそ本物の大人といえるのです。他人の目を気にし、規則だからしかたなくやる姿勢では、いつまでたっても幼子から脱皮できないじゃろう。
奉仕世界では、規則は申しわけ程度にしかない。律するのは自らの強い意志であり、それを行動につなげるのも自らの意思です。これが本心をもってできた時、自己完成に大きく近づくことができるのです。これは、人間の本性が理解できれば、分かることなのじゃが・・・。」
はたまた老人は、話をそこへ持っていった。
しかし計画経済下では、仕事は自分が作るのではなく上から与えられるのではないだろうか?。そこにどうして、個人の味つけができるだろうか?。
「今日のような競合盛んな社会にあっても、仕事は人から与えられるものだと勘違いしている者は、意外と多いものです。先日知人からこういう話を聞かされました。彼は駅長をしていることもあって、さまざまな人間像を見せつけられるといっておりました。駅には沢山の清掃員が派遣されておりますが、その殆どが中老年の男女だといいます。彼らは、片手にホウキ、片手にチリトリをもって駅構内を清掃していますが、清掃する先から心ない人たちがタバコの吸い殻を放っていくといいます。それも鼻先でやられるらしいのですが、彼らは腹もたてずに落とした吸い殻を黙々とひろっていきます。ひどい者になると、チューインガムまで吐き捨てていくそうです。あまりにひどいので、彼は注意したそうです。ところが返ってきたいい草がまたひどい。
“何をいうんだ!、俺たちは清掃員に仕事をつくってやっているんだ!、有り難がられても文句をいわれるいわれはない!”と、・・・。
彼は清掃員に同情して、“困ったものだね、君たちも良く我慢をしているよ”といったところ清掃員は、
“彼らのいう通りですよ、駅が奇麗だったら私たちの仕事は上がったりですからね、ハハハハハ”と・・・。その言葉に彼は、しばし声が出なかったといっていた。そして、何が正義か不正義か分からなくなってきた、とこぼしておりました。
最近いわれることですが、濫費がなければ経済が停滞し失業者が増える、だから濫費や浪費も大切な経済行為だと・・・。これなども仕事を作ってやっているという屁理屈に通じている考えでしょう。ともあれ私たちの仕事は、決して人から与えられるものではありません。いかにしたら社会に貢献できるか?、何をしたら人のためになるのか?、といった公役に服す精神で自ら仕事を見つけ出し、それを価値あるものへとつなげなければならないのです。たとえ与えられた仕事であっても、ただ機械的に消化するのではなく、常に創意と工夫をこらして、新しい発見と喜びを生まなくてはならないでしょう。」
「あなたは、計画経済とか計画社会という言葉を嫌っているようですが、社会を意識的にコントロールすることはとても大切なことなのですよ。その理由を述べましょう。
私たちは何かプロジェクトを起こす時、まず企画し、立案し、その立案に基づいたプログラムを設定して実施に移ります。また終わった後も、どのような成果が収められたか分析し、将来にそなえ資料を作成します。こうして、企画―立案―実施―結果分析、といった一連の作業を通じて人間社会は進歩していくわけですが、これはすべて意識的に行える、いわゆる能動的なものです。間違いのない未来を開拓するには、この意識的ということがとても大切なことなのです。私たちの行動が意識的に行われているように、社会運営も意識的に行われなくては正しい目標に近づくことはできないでしょう。このことからもいえるように、意識的にコントロールできる仕組みこそ、間違いのない未来を切り開く唯一の方法なのです。ところがどうじゃろう。資本主義は意識的にコントロールできる仕組みじゃろうか?。
資本がすべてを支配する世界において労働力は、一つの商品という形を取ります。またそこで生産された物も、一つの商品という形をとります。ここでの商品は、使用価値という側面よりも交換価値という側面を重視されるがゆえに、市場経済独特の運動法則によってその姿が不透明になっていきます。そこに資本家の成算や、労働者の要求や、消費者の欲望が複雑にからみあうと、その姿は一層不透明になっていきます。そのべールをはがすために経済学の研究がなされるわけですが、いかに研究しようともこのつかみどころのない生き物の正体を解明することはできません。現に、インフレ、デフレ、財政赤字、貿易赤字、格差、失業、貧困、などの問題が起こっているのは、人間がこの経済を解明しきれていない証でしょう。もうこの世界での人間関係は、単なる表面上のものにしか過ぎず、損と益・利と害の関係、上(豊かさ)と下(貧しさ)との関係、煎じつめれば、人と貨幣の関係に収斂されていくのです。
その世界は、意識的にコントロールできない世界です。利潤を追及し資本を膨らませ、利潤を追及し資本を膨らませる行為が、必然的法則として社会を縛っていきます。そんなところに正義も道義もありません。たとえば、資本主義社会において物をつくる動機は儲け以外ありませんから、売れると思われるものはどんな悪的(法律に触れない)なものでもつくられます。今日の商品が好奇心をあおるもの、快適なもの、便利なものが主流となっているのも、こういった利益優先が動機となっているからです。そのために故事伝来の文化が廃れたり、尊ぶべき習慣とか風習といったものが退廃したり、人々の心が毒されるといった弊害が生じているのです。
奉仕社会における計画経済の良いところは、意識的にコントロールできる点にあります。
つまり、
私たちがこの世に生を受けたのは、一重に人格(魂)を磨きこの地上界に理想世界を築くためでした。そのために経済は必要だったのです。ところが、手段であるはずの経済活動に人生の目的が転換してしまい、肝心要の人格を磨くといった目的がおろそかになってしまったのです。したがって、優勝劣敗現象・弱肉強食現象といった動物まがいの闘争が展開されるようになり、弱い者が虐げられる不都合が生じてきたのです。
痩せ細った子供たちの死を見る時、なんと人間は罪深いことをしているのだと怒りを感ぜずにはいられません。この世界に物は溢れているのです。その物が万遍に行き渡らないのは、あくまでも意識的に行えない経済の仕組みにあるのです。
もう一つ計画経済の良いところは、人々の長短期的な指向に報いる万能性をもっているという点です。また途中で方向転換したい場合も、即座にできる自在性をもっているのもこの仕組みの良さでしょう。ただし、何事も意識的にコントロールできる反面、ひとつ間違えば次のような危険性もひそんでおります。
1は、民主主義さえ成熟すれば克服できる問題でしょうが、2と3は人の心を相手にしなければならないだけに少々厄介です。しかしこれとて、進化の追随に人類は必ず克服してしまうでしょう。」
「しかし計画経済というと、どうもソビエト共産主義を思い出しあまり良いイメージがもてないのですが?。」
「しかし今日の日本も、自由経済大国といわれながら社会主義的色彩を濃くみせているではありませんか。いわゆる、修正資本主義あるいは社会主義的資本主義といわれるものです。つまり、国家が行政指導という名目でさまざまな制約を設けたり、『経済何ケ年計画』といった経済方針をうち立て市場経済に方向性を与えているのは、明らかに社会主義的動きだからです。また最近では、私的独占資本の解体によって企業が社会共同体的な形に変わりつつありますが、これも社会主義的といってよいでしょう。つまり所有と経営の分離、経営への自由参加、そして労働組合の経営への参画が、企業を社会共同体的存在におし上げているのです。このように自由経済を望む中にも、社会秩序を保持する意識の介入が働いているのです。
それではここで、これまで地球上で採用されていた社会主義社会と、私の提唱する奉仕社会との相違点を比べてみることにしましょう。その違いがはっきりするはずです。
・生産手段の公的所有
・労働力は個人の財産
・計画生産経済
・能カと労働量(質と量)に準じた配分
・貨幣制度あり
・一党独裁による専制政治
・人権を無視した不自由な世界
・官吏と国民の区分けあり
・国民の目的と使命が不明
・唯物的教育
・生産手段の公的所有
・労働力は社会的財産
・計画消費経済
・能力と労働量に左右されない平等な配分
・自由収得制度(貨幣なし)
・国民主権を根底にした民主政治
・人権が保障された自由な世界
・すべての国民が官吏
・国民は目的と使命を悟っている
・宇宙法を理解させた唯心的教育
一般的に計画経済は、生産性や多様性において資本主義経済より劣るといわれています。たしかに、そうなのかもしれない。しかし、私たちは儲けるため、財を増やすために生れてきたのではないのです。何度も言うように、人格を磨き、この地上に理想世界を築くために生まれてきたのです。その目的の前に、生産性や多様性がどれほどの価値があるというのでしょうか?。むしろ質の向上ということになれば、市場経済よりも計画経済の方がはるかにくみしやすいでしょう。人生の目的は人格向上にあり、それは労働に対する熱意や努力や工夫といったものと重なるものだからです。したがって、人生の目的に熱心になればなるほど労働に対する熱意も高まり、それが質の向上をどこまでもおし上げるのです。」
「くどいようですが、どうも指令型社会というと不自由を強いられるようで良いイメージがもてないのですが?。」
「あなたは大変な誤解をしているようです。この世界は決して指令型社会ではありません。国民主権が尊重され、国民の意向が正しく反映される民主的な社会です。それに本当の自由は、放逸な自由の中にはないのですよ。自由・自由と息巻いているアメリカも、その放逸な自由ゆえに、世界一の犯罪大国といわれているではありませんか。家に鍵をかけ、銃を持ち、自分の財産と命を守らなくてはならない。また都会の裏道は歩いてはならないといわれるほど、危険は身近なものとなってしまいました。世界一治安がいき届いている日本でさえも、最近では深夜にコンビニが襲われる、マンションに強盗が押し入る、銀行が襲われる、住宅街で拳銃が発射される、などの事件も珍しくなくなってしまいました。これらの治安問題もさりながら、経済問題においては一層深刻でしょう。商取引規制や貿易規制など、いまや規制花盛り時代となってしまいましたが、これも放逸な自由経済なるがゆえの障壁といえるでしょう。どちらも放逸な自由を求めるあまり、かえって不自由を強いられているのです。これは、自由の大枠をきっちりと押さえていないために生じた弊害なのです。これは次のような譬えで表現できるでしょう。
『自由に目覚めた馬(人間)たちは、なにものにも束縛されない自由な放牧地を望みました。そこで彼らは、囲いも柵もない自由な天地を広い原野の中に求めたのです。ところがしばらくすると、あまり放逸な自由を得たゆえに自由のぶつかりあいが生じ、多くの問題が持ち上ってきました。そこで仕方なく彼らは、対処療法的に野原に柵を巡らせ自由の衝突をさけようとしたのですが、次からつぎへと問題が持ち上がってきたために、柵はそこらじゅうに張り巡らされるようになり、いまや柵の扉を開けることに多くの労力を費やさねばならないほどになったのです
このように放逸な自由を望んだ馬たちは、不自由な世界に身を縮めて生きなければならなくなったわけですが、少々不自由でも囲いのある放牧地を望んだなら、その中で大いに自由を謳歌できたことでしょう。』
柵とは、資本主義社会や社会主義社会(法律や規則で縛られた社会)であり、囲いとは、奉仕社会(良心が自らを縛る社会)のことです。
この囲いは、あなたが思っているような不自由な囲いではありません。民主主義も行き届き、人権も大いに守られ、教育の自由も、労働の自由も、居住の自由も、収得の自由も、何もかも資本主義社会より自由な世界です。ただひとつ不自由に見えるとすれば、経済の営みが意識的に行われている点だけでしょう。しかしこれだって、慣れてしまえばそう堅苦しいものではないのです。またこの社会は、労働者イコール官吏イコール国民イコール主権者ですから、問題提議は下からなされ、それがまた下によって試行されるといった自由があります。それだけに国民一人ひとりの意向が反映されやすく、それが均整のとれた社会繁栄を約束するのです。
さてここまで、奉仕世界の柱というべき奉仕経済について語ってきました。実にユニークな経済システムだと思われるかもしれませんが、経済とは本来このように、人が意識的にコントロールできる簡素なものでなくてはならないのです。いや経済ばかりではない、あらゆる仕組みは簡素簡潔でなければならないのです。
なぜ人は複雑多様を好むのでしょうか?。世の中が複雑怪奇になればなるほど、混迷の度は深まっていく、これは歴史が証明するところです。いってみれば今日の社会は、機械時計のようなものです。たしかに見掛けは頑丈そうにみえますが、一旦故障すると手に負えません。あちらを取り替え、こちらを付け足し、しまいには何がなんだか分からなくなり、バラバラに解体しなければならなくなります。
その点、奉仕社会は日時計です。少々辛抱はいりますが、日時計は故障がありませんから安心です。単純明快、矛盾なし。これが奉仕社会の誇りなのです。ではなぜ多様化は悪なのでしょうか?。それは、利害得失の絡みが多様化をもたらすからです。言い換えれば、欲望が多様性を助長するのです。近年多様性がもてはやされておりますが、これは人の迷いの深まりを意味し、決して喜ぶべきことではないのです。
社会は経済の背に乗って進展して行くといわれますが、もし奉仕経済が導入されたら、政治や教育や福祉などの社会制度はどう変わって行くか?、次に考えてみることにしましょう。」