人間は、五感から受ける刺激や情報に惑わされやすくできております。そして心は、どうしてもこの五感に感応し、苦楽の情をつくるものです。といって、この五感がなくてはこの世でまともな生活は営めません。それではどうしたら、この相反するものを上手に使いこなすことができるのか?、その方法を教えましょう。
おいしいものはつい食べすぎてしまい、快いものにはすぐ傾いてしまう。五感というものは、実にヤンチャ坊主のように落ち着きがありません。それだけに揺れ動く心に歯止めをかける必要があります。勿論そのために良心があるわけですが、この良心を惑わす顕在意識という大敵がいます。この顕在意識は五感と結びついてさまざまな欲念をつくりますが、ほとんど五感に都合の良いものばかりです。したがってこの顕在意識に、知性と理性のクサビを打ち込まなくてはなりません。そのクサビとなる理性とは、宇宙の法則です。この法則を信じ守ることによって、いまわしい五感を制御することができるのです。」
「しかし、倫理や道徳も守れない私たち凡人が、雲を掴むような宇宙の法を守るなど、とてもできるとは思えませんが?。また宇宙の法を守ることが、どうして実生活に結びつくのでしょうか?。」
「あなたは、宇宙の法を単に観念的なものと考えているようですがとんでもない!、私たち一人ひとりの言動が、個々人の人生に、人類の運命に、絶大なる影響を与えているのですよ。」
「宇宙の法と実生活の関わりを、どのようにして知ることができるのでしょうか?。」
「それにはまず、法の中身を知らねばなりません。法を知り遵守していくうちに、私たちの運命がいかにこれらの法則に左右されているかが分かってくるでしょう。」
「誰でも知ることができるのですか?。」
「勿論、それが人間の特権なのですから・・・。」
「さて宇宙の法則の一つに、原因と結果の法則というものがあります。この原因と結果の法則を、宗教の世界では『因縁因果の法則』といい、物理の世界では『作用反作用』の法則といっておりますが、どちらも同じものです。
壁を叩くと壁からも叩き返されます。それも強ければ強いように、弱ければ弱いように、叩き返されます。これは叩いたという『原因』に対して、叩き返されたという『結果』が生じたためです。これは心の世界でも同様で、たとえば人に優しくすれば人から優しくされ、笑顔で応じれば笑顔が返ってきます。反対に怒りには怒りが、憎しみには憎しみが返ってきます。人を殴り相手から殴り返されるのは、この原因と結果が即座に現れたためです。もし結果がこのように即座に現れるなら、誰も法則を疑わないし逆らおうとしないでしょうが、残念なことにこの世は波動の粗い世界ですから、結果が現われるまでに、それ相当の、時間がかかります。その結果も人の目に見えなかったり、見えても変形しているため、なかなか信じられないのです。
この世では、盗みをしても人に見つからなければ法的責任を負うことはありません。良心を痛めない人なら、のうのうと一生を過ごすかも知れません。結果が直線的にみえないため、人は悪事を犯してしまうわけですが、決して“やり得”ということはありません。なぜ私ばかりが?、なぜこんな不幸が?、なぜ、なぜ、なぜ?、と嘆くのは、その結果が遅まきながら到着したためです。
ギリシャのアンチポンは、『法には人為法と自然法があり、人為法に背けば人為的に罰を科されるが、人知れず犯した罪は人為法で罰せられることはない。しかし自然法の前では、目撃者の有無にかかわらず必ず罰が与えられるのだから、人前では人為法にしたがい、目撃者のいないところでは自然法にしたがうべきである』、と人間に警鐘を打っております。またイエスキリストは、『自分が撒いた種は自分が刈り取らなければならない』といい、釈迦は『因果応報』を説いています。彼の偉大な聖者や賢者が、このように口を揃えて警告しているのに、なぜ私たちは信じようとしないのでしょうか?。
それでは、アンチポンが唱える自然法が本当に実在するのか、ここで物質に働く作用反作用の法則と、心に働く原因と結果の法則を比較し、少々科学的に分析してみることにしましょう。
[物質に働く作用反作用の法則]
原因=結果
“作用と反作用は直線上にあり、大きさが等しく向きは反対である”これをニュートンの第三法則といいます。
[心に対して働く作用反作用の法則]
原因≦結果
“作用は超空間にも働き、反作用の力は等しいかもしくは大きく、その向きは発した源に返ってくる”というふうになります。
物質の世界は波動が粗いため、“作用”は作用した人以外飛び火することなく作用と対等な反作用が生じますが、心の法則は池に石を投げ入れた時に生ずる波紋のように四方八方に広がり、それも超空間に影響を与え広がっていきますから、与える影響は絶大なものとなります。特に、同じ波動をもつ人の心に当たると波動は増幅され、さらに影響は拡大します。その波はやがて震源地へ返ってくるわけですが、その波の力や大きさは、発した時と同じか何倍にもなって返ってくるのが通例です。原因≦結果は、そういう意味なのです」
「それでは一旦原因を作ったら、決して結果から逃げられないのでしょうか?。」
「残念ながら、逃げられないのがこの法則の厳しいところです。」
私はドキッとした。
「それでは悪事をした人は、永久に救われないのでしょうか?。」
私もこれまで何度か悪い事をしてきた。しかしある事件を境に、二度と過ちは犯すまいと心に誓い、なんとか最近では正しい道を歩めるようになったが、救いが全くないとなると一体どうなるのだろうか?。
「いや、救われぬとはいっていません。たしかに法則は絶対ですから、原因に対する結果は必ずやってきますが、次のような方法で結果を繰り延べたり弱めたりすることはできるのです。その方法は、『反省』し二度と過ちを犯さないよう心に誓うことです。人間であるかぎり誰でも過ちは犯します。でも、人間の真価を決めるのはそこから先です。
罪を犯した人の生き方には、次の三つがあると思います。
この3つの中で一番救われないのは、1でしょう。なぜなら、その人は過ちを過ちとも気がつかないほど、意識の進化が遅れているからです。2は、過ちを過ちと分かっていながら、欲望を捨て切れず過ちの上塗りをする意志の弱い人です。この人は、過ちを過ちと認められる意識の持ち主ですから、理性を保ち意志を強く持ったら、すぐにでも立ち直れるでしょう。
さて、過ちに気がついたその時から二度と過ちを犯さないと心に誓い、その後の生活を正していったら反作用は変形させられます。つまり返ってきた悪念の波動が、良念の波動に打ち消されるという波の干渉によって結果が弱められ、致命的難事から逃れられるのです。そうなると、百の借金を十ずつ十回に分けて返済したり、借金をお金で返すのではなく、別な形で罪の償いをすることも可能になるのです。そうなると、死によって償わなければならない反作用も、軽い怪我何回ですむかも知れないし、大事故が軽い事故何回ですむかも知れない。この物質の世界は結果が訪れるまでに時間がかがるので、それまでに修正し反作用を変形させる芸当も可能なのです。それはあたかも執行猶予を与えられた罪人のように、執行猶予期間中正しい生き方をすれば罪が償われるようなものです。このように、悪果を修正できるのは宇宙心と同じ波動をもつこと、つまり、正しい思い・正しい言葉・正しい行いをすることです。その思いと行為が本物になるにつれ、悪しき波動は静まっていくでしょう。
因果の法則は神の愛そのものであるといわれるのも、愛は毒消しの役目をしてくれるからです。
※原因と結果は輪廻しているが、愛は因果をも越える。
気分良く運転しているとき急に横合いから犬が飛び出し、あわてて急ブレーキーをかけた!、そんな体験をした人も多いでしょうが、そのとき車は直ぐに止まらず、しばらくは惰性で進んだはずです。これが二つ目の法則、『慣性の法則』です。この法則は、心の傾向性という形で心にも働くのです。
“なくて七癖”といわれるように、人にはさまざまな癖があります。仕草に癖のある人や言葉に癖のある人は、他人から指摘を受け修正もしやすいですが、心の癖は目に見えないだけに見過ごされ、本人が自覚しない限り修正は困難です。その種類も十人十色、しかも一人で二つも三つも抱えている場合がありますから修正が大変です。
さて死ぬ直前に、“懺悔したからあなたの罪は許されましたよ”と気休めをいう人がいますが、懺悔しただけで罪が許されるなら、この世に罪人は一人もいなくなるでしょう。今まで極悪非道の行いをしていた人が、死ぬ直前に懺悔したからといって本当に救われるものでしょうか。もし本当に救われるなら、若い時好き勝手に生き、死ぬ間際に懺悔して許しを乞えば良いでしょう。しかし、そんなぺテン師まがいが通るはずはないのです。たとえ本心から悔い改めたとしても、心の癖というものは抜けるものではなく、『慣性』という形で意識界まで引きずって行き、そこで苦しむことになるのです。これを宗教では『業』といっておりますが、私たちがこの世で修行する理由の一つに、この癖をなくすことがあるのです。
さて、この法則を先程と同じように対比させてみましょう。
[物体に働く慣性の法則]
“物体に力が働かなければ、あるいは物体に働く力が釣り合っている場合は、静止物体はいつまでも静止しようとし、運動している物体は同じ速度でいつまでも等速運動を続けようとする”
これを物体に働く慣性の法則といい、ニュートンの第一法則です。この法則は次のような性質をもっています。
“物体に力が働いているとき、物体にはカと同じ向きの加速度が生じる。加速度aの大きさは、働いているFの力の大きさに比例し、物体の質量mに反比例する”このことから次の式が得られます。
F=ma(aは加速度の大きさ、mは質量、Fは働いている力の大きさ)これをニユートンの第二法則といいます。
このことからいえるのは、物体に力を加えなければ物体はいつまでも静止したままであり、運動している物体に逆方向から力が加えられなければ、その物体はいつまでも等速運動を続ける。そして物体に力が働けば、加えられた力の方向に加速度が生じ、その加速度の大きさは力に比例し質量に反比例するということです。
[心に働く慣性の法則]
あるmという悪念を発したとします。思いを発するにはエネルギーが必要ですが、そのエネルギーは念の力(a)です。その思いは行動(F)に駆り立てるでしょう。しかしその思い(念)の力が弱ければ、行動にまでつながらないかもしれません。なぜならば、物質が動くと摩擦や抵抗生じるように、心にも逆念つまり摩擦や抵抗力が加わるからです。逆念とは良心から発せられる理性です。しかし、aの力がますます募って理性を上回ってしまうと均衡が破れ、そこにmaという運動がはじまり行動化されるでしょう。
これで、F=maが心の法則にも当てはまることが理解されたでしょう。理性を打ち破り己の欲望を満足させた思いは癖として生き残り、縁があれば再び行動に駆り立てるでしよう。今度は当初とは違い、すでに等速運動を続けていますから念の力はそれほど必要とせず、少々躊躇(良心が咎める)はするものの、実行に移すのはそう困難ではないでしょう。これが度重なると、他人の意見に耳も貸さず暴走することになるわけですが、これは癖が理性を上回ったために起きる一種のノンブレーキ現象です。つまりそこに、『業』が作られたわけです。これも早いうちなら修復も簡単ですが、度重なると修復にはそれ相当の逆工ネルギーと時間が必要になってきます。それも質量が大きければ大きいほど、修復は困難を極めるでしょう。心の世界での質量(m)とは、思いと行為の内容をさしているのですが、どのような思いや行為が質量の大きなものか、ここで代表的なものを挙げてみましょう。
『狂思想家、狂宗教家、狂闘争家、破壊活動家、異常性欲者、殺人者、暴力者、盗癖者、人を平気で陥れる者、怒りと愚痴で調和を乱す者、人を憎んだり、恨んだり、誹謗したり、自己中心的な者、見栄っ張り、意地っ張り、自己顕示欲の強い者、心配性、ネクラ性』などでしょうが、これらの癖も何種類か絡みあって浮かび上がってくるから厄介です。
人がこの世に生を受けたときには、みな正しい心をもっているのですが、傾向性(業)というものは心の芯に残り火のように残っており、人生道を歩む中で縁に触れ発火しはじめるのです。ではこの傾向性(業)を直すには、どうすればよいのでしょうか?。
物体が加速している場合、まず加速している原因を捜し出し取り除く必要があります。加速度を取りのぞくと物体は等速運動に変わるから、今度は逆方向から同じカを加えてやれば物体は静止します。心の癖もこの要領で止めればよいのです。ただ物と違って心の場合は、原因を捜し出すのが厄介です。心の癖というものは案外と自覚していないもので、また他人もはばかって指摘してくれませんから、なおざりになってしまいます。その欠点を捜し出すには、自分の心をジーッと見詰める『反省』以外ないでしょう。反省だけが心の欠点を見つけ出してくれるのです。反省によって原因をつかまえたら、あとは加速度を加えないよう普段の想念と行為を謹めばよいのです。しかし、これで安心してはなりません。等速運動に変わったとはいえ、まだ悪癖の根は残っているわけですから、その根を掘り起こし完全に息の根を止めるまで油断は禁物です。息の根を止めるには、逆方向から力を加え等速運動を完全にストップさせることですが、それは先ほどもいったように、良い想念を常にもち続けそれを行為につなげることです。その行為も人前だけの繕いではなく、人知れずところ、つまり良心の前でやるところに意味があるのです。
こうして悪い等速運動が止まり、良い等速運動がはじまるわけですが、それを意識して加速していくと、今度は良い癖(善業)がつきはじめるのです。
※悪癖を修正するには、宇宙心と一体になることである。
・ブランコに乗っている人の後ろから、その振幅にあわせて力を加えてやると、そんなに力を加えたように思えないのに、ブランコの振幅は次第に大きくなっていきます。このように、固有の振動数と同じ振動数の振動を与えることによって物体に影響を及ぼす現象を共振といいます。
・同じ長さの二つの振り子と、違った長さの二つの振り子を用意し、その四つの振り子を一本の糸で吊り下げます。そしてその内の一つの振り子を振動させると、振り子の長さの振動数は決まっているから、同じ長さの振り子が共振を起こしてよく振れます。
・同じ振動数をもった発音体を向かいあわせ、一つの発音体を叩くとそれにつられもう一方の発音体も音を発します。これを共鳴といいます。
これらの実験でも分かるように、物体はすべて固有の振動数というものをもっており、ある物体が強制力を受けると、補足空間内にある同質の物体は何らかの影響を受けます。この現象を私たちの実生活に当てはめてみると、実に興味深い事実が浮かび上がってきます。
子供の頃は自覚せず無心で遊んでいましたが、今考えてみると同じ性質の持ち主同士が仲間をつくって遊んでいたように思います。これは社会へ出てからも同様で、釣り好きは釣り好き同士が、山登りの好きな者は山登りの好きな者同士が、酒好きは酒好き同士が集まるといったように、いつの間にか似通った者同士が集まって行動していることに気づきます。それも仲間が多くなると、一層促進されるようです。結局この現象は、同じ性質の心をもった者同士は共鳴しあう証明になり、自分を見極める一つの羅針盤ともなるのです。“類は類を以て集まる・類は友を呼ぶ”のたとえのように、同類は同類を呼び、良い人のところには良い仲間が、悪い人のところには悪い仲間があつまってくるのです。
※共鳴は心の反応、悪には悪の共鳴が、善には善の共鳴が。
・黄燐を入れたフラスコを秤に掛け、次に中の黄燐を燃焼させます。そうすると、燃焼し終わった後のプラスコ内には五酸リンに姿を変えた燃え滓が残ります。しかし燃焼後の重量には、少しも変化は起きていません。
・リチウムに水素イオンを高速度で衝突させると、リチウムの原子核が壊れ二つのへリウムの原子核ができます。この二つの原子核を加え、リチウムと水素原子核を加えた質量と対比してみると、ヘリウムの質量が少ないという質量保存の法則に反する結果が出てきます。しかしこの異常な現象も、アインシュタインの相対性理論で決着がつきます。つまり質量が少なくなった分、エネルギーに変換されたのです。消えた質量をm、発生したエネルギーをE、光の速度をcとすると、次の方式が成り立ちます。
これによってエネルギー保存の法則が成り立つのです。要するに質量保存の法則は、エネルギー保存の法則でもあったのです。
物質はこのように、エネルギーが同居しているのです。質量は計量すればその存在を知ることができますが、エネルギーは人の感覚で捕えることは不可能です。しかし、すべての物質がエネルギーに変換できるところから、その存在を知ることができるでしょう。私たちの意識エネルギーも目には見えないが、同じように肉体に同居して行動を共にしているのです。
※ 意識はエネルギーの一種であり、エネルギーはまた意識の一種である。その意味では、意識の充ちた状態が宇宙と言えるのである。
この宇宙のすべての存在物は、循環の法則によって永遠の命を保持しています。大気の循環もそうです。水の循環もそうです。大宇宙の消滅生成もそうです。生物の誕生死もそうです。
[炭素の循環]
大気中の二酸化炭素(CO2)は植物の中に取り込まれ、光合成によって有機物に姿を変えます。草食動物(一次消費者)が植物を食べると有機物は草食動物の体内に移り、肉食動物(二次消費者)がその草食動物を食べると、有機物はさらに肉食動物の体内に移動します。そして、その動物が死ぬと今度は細菌や微生物によって分解され、結局二酸化炭素となって大気に戻っていきます。
[窒素の循環]
窒素は大気中に窒素ガス(N)として大気成分の約八十パーセントを占めていますが、直接これを利用できるのは根粒細菌などいくつかの種類に限られています。生物の遺体や排泄物が腐敗細菌によって分解され、アンモニウム塩が酸化して硝酸塩になったものを植物は吸収しますが、この吸収された窒素化合物は、今度は植物体の中で有機物化合としてタンパク質に合成されます。動物はその合成されたタンパク質を吸収し、動物性タンパク質に再合成して生命を維持しています。動物体内のタンパク質の一部は生命活動に消費され、アンモニア、尿素、尿酸となり尿成分として排泄されますが、このような排泄物や動物の遺体は、再び分解者によってアンモニウム塩や硝酸塩に還元されるのです。
[水の循環]
地球の地表面積の約七十二パーセントは水で覆われています。その水は太陽の熱によって蒸発し、雲となり、雨となって地上に降り注いできますが、その一部は蒸発したり、高山で雪になったり、地表を流れ川ヘ合流したり、沼や湖に止どまったり、地中へ浸透して地下水になったり、草木類の根から吸い上げられたりしますが、結局大部分は海に流れていきます。海に流れ込んだ水は再び蒸発し、雲となって次の降雨を待つことになるのです。
大気中の水は、おおよそ年に四十回転するといわれますから、九日に一度入れ代わっていることになります。しかし、地下水などの回転は遅く、通常の場合で二、三年、最も遅いサハラ砂漠などでは二、三万年もかかって入れ替わっているといわれます。これも循環のなせる技です。
[生命の循環]
私たちの魂(意識)は、地上で精子と卵子の結びつくのを待って子宮に飛び込んできます。飛び込んできた生命は、以後細胞意識を上手にコントロールしながら正常な肉体を形成し、十月十日をもって産声を上げます。しかし空気に触れるや否や過去の記憶は完全に潜在し、全く新しい人生を歩まねばならなくなります。(あなたという意識生命は、Aという名の肉体の操縦者となって八十年余の人生を送ることになるのです)
こうして再生した生命は、新しい人生体験を魂の中に刻んでいき、やがて携えてきた目的を果すと、地上に肉を残し再び意識界へ戻っていきます。私たちの生命がエネルギーであるように、この宇宙に遍満する生命はすべてエネルギーの一種なのです。そのエネルギーが時に、水の循環として、物質の循環として、宇宙の脈動循環として(膨張と収縮の循環)、生命意識の循環として姿を変えていくからこそ、永遠の命が約束されるのです。もしすべてのエネルギーが固着し、循環を停止してしまったらどうなるでしょうか?。水は澱み、物質は静態し、宇宙意識は一箇所に止どまって輝きを失い、闇一色の世界が訪れるでしょう。“私は死にたくない、永遠の命が欲しい”という人がいたとすれば、それこそままならぬ老いの身を引きずり(生きる屍となって)永遠に地上をさ迷わねばならないでしょう。今生でやりとげられなかった目的も、新しい肉体がもらえるから果せるし、無念の悔しさや漸塊の思いも、次生あるからこそ晴らすことができるのです。生命の平等性はこの永遠の循環があるから成り立ち、私たちは今の環境に甘んじられるのです。
※生命はさまざまな姿を見せるが、それは永遠の循環あればこそ、もしすべての循環が停止したら、命の火花は闇の彼方に葬り去られるだろう。
老人は一息ついた。
老人の沈黙は西の空に一筋の流れ星が走るまで続いたが、それを満足そうに見送ると老人はおもむろに口を開いた。
「ミクロの世界も、マクロの世界も、実に人間によく似ています。だから人間を知るには宇宙を理解すればよく、宇宙を知るには人間を理解すればよいのです。宇宙は人間の拡大図であり、人間はまた宇宙の縮図なのです。
どうでしょう。人間の正体がご理解できましたかな?。人間の正体が理解され、多くの人が人生の真の目的を知った時、奉仕社会は喝采をもって迎えられるのです。」