「人の幸せって何か?、と問われて、あなたははっきりと答えられますかな?。」
「・・・?。」
「私たちは普段何気なく“幸せ”という言葉を使っていますが、幸せの本当の意味を理解して使っているじゃろうか?。もし“幸せな人”をどう定義するかと問われたら、あなたはどう答えますかな?。」
老人は催促するように私を見た。
「それは、“お金や財産のある人”と答える人もいるでしょうし、“健康が一番だ”という人もいるでしょう。また“家庭円満が何より”と答える人もいるかも知れません。殆どの人は、“そのすべてを持ち合わせた人”と答えるでしょう。私もそう思います。」
今の世にあって、幸せってそんなものではないだろうか?。
「たしかに、お金や財産や地位や名誉があり、健康でなお家庭が笑顔で満ち溢れていれば、それが幸せといえるかも知れない。でも、人はいつまでも健康でいられるものじゃろうか?。いつまでも生きられるものじゃろうか?。いつまでも親子が一緒に暮らせるものじゃろうか?。人は老い、病み、死んでいくものです。子供は成長し、親から離れていくものです。お金も財産もいつまでもあるものではありません。」
たしかに、いわれてみればその通りかもしれない。でも私たち凡人が求める幸せって、そんなものではないだろうか?。それ以外の幸せってあるのだろうか?。
「それでは、どのような人を不幸な人というのか、それが分かれば本当の幸せが見つけられるかも知れません。
“そりゃ、お金も、財産も、地位も、名誉も、家庭もなく、不健康な人さ”と先程とは反対の意見が返ってきそうですが、本当にそうでしょうか?。乞食をみれば誰もが不幸せな人と思うでしょうが、当人にしてみれば自由気ままに生きられ、案外幸せを感じているかも知れませんよ。反対にきらびやかな衣装をまとい、高級車を乗り回し、豪邸で暮らしていても、様々なしがらみに縛られ案外苦しんでいるかも知れませんよ。
幸不幸というものはこのように、傍で感じるものと必ずしも一致しているとはいえないでしょう。なぜなら、幸不幸というものは客観的なものと思われがちですが、実は主観的なもので、それも当人の心情によって、コロコロ変わる、雲を掴むようなものだからです。外見で計り知れないもの、当人だけの心持、それが幸不幸の正体ではないでしょうか?。」
そういわれてみれば、私にもいくつか心当たりがあった。ある大金持ちの家庭では、物質的豊かさはそれは羨ましいほどだが、なぜかいつも家庭内にいざこざがあり、家族の心からの笑顔は見られない。反対に、子沢山で経済的には苦しいが、いつも笑顔の絶えない家庭もある。こうみると、どうやら物やお金の多寡が人の幸せを決定づけているとはいえないようだ。
「さてここで、人の欲望には、限りがないという、心の傾向性を、科学的に捕らえた法則があるので、紹介しましょう。
ドイツの生理学者であり哲学者でもあるフェヒナー(1801~1887)は、人の感覚とその認識を研究をしているうちにおもしろい発見をしました。それは、“感覚の強さを等差級数的に増すためには、刺激の強さを等比級数的に増やしてやらなくては効果は薄い”という発見でした。つまり彼は、“感覚というものはあくまでも主観的なもので、外から認識したり測定することはできないが、一定の法則にしたがって変化していく実態を掴むことができる”と気付いたわけです。感覚が、一、ニ、三、四、五、と、一定の強さで増していくためには、刺激の強さを、一、ニ、四、ハ、十六、と、一定の比率で高めてやらなくては効果は薄いというのです。これを分かりやすく説明すると、年収百万円の人が二百万円に昇給した時の喜びと、年収一千万円の人が一千百万円に昇給した時の喜びは著しく違ってくるというのです。当然といえば当然の話ですが、私たちはこの心の傾向性を見過ごして、ただ欲望だけをエスカレートさせているのではないでしょうか?。フェヒナーの法則を普段の生活にあてはめれば、なるほどと思われる事例が数多く見つかるはずです。
私の子供のころは、今のように物が豊かではありませんでした。その当時アメ玉一つ貰った時のあのうれしさ、今思っても胸が踊るほどです。またその頃のごちそうといえば、年に数回の母の手作りカレーライスくらいなもので、普段は実にお粗末なものでした。ところが今は、毎日が盆か正月がきたようなごちそうばかりです。これでは、喜びもおいしさも半減するのは当然でしょう。おもちゃ一つ取ってみても、最近では少々のものでは子供たちは満足しなくなりました。いや大人にしても消費感覚が麻痺し、より派手でより高価な品々を買いあさっては、満ち足りない心の空白を埋めようとしています。人間の欲望には際限がないので、今以上の満足をえたいと思えば、次にはその倍以上の刺激をもってこなくては満足できなくなる。最近の消費濫費の実態を突きつめれば、この欲望を企業側がうまく利用した結果といえるでしょう。つまり、派手な宣伝でまず消費者をこちらに向かせ、次に目先を変えた品々で消費意欲をかきたて、“隣はもう買いましたよ”の殺し文句で購買意欲を誘っているのです。
現代人はなぜ限度を弁えぬ消費に走るのでしょうか?。それは満たされぬ心の寂しさや空しさを、物によって埋めようとするからではないでしょうか?。でもどんなに物を買いあさっても、決して心は満足しない。なぜ満足しないのか?。それは、心が永遠を求めるのに対して物は有限だからです。永遠の心を持つ人間が、有限なものにすがろうとするところに無理があり、その不安やいらだちがまた物を追い求めるという悪循環を生むのです。もちろんその背景には、物を通して永遠の幸せを手に入れたい願望のあることは否定できませんが、物に頼っている限り、決して永遠の幸せを手に入れることはできないのです。」
「いつの時代も、人は幸せを求めて歩む旅人でした。“幸福の青い鳥はどこに?”探せども探せども幸福の青い鳥は見つからない。本当に青い鳥は存在するのか?。それとも夢か幻か?。そんな疑心暗鬼な気持を抱きながら、人は諦めず今日まで幸せを追い求めてきました。私は幸せの青い鳥は存在すると断言します。なぜそういえるのか?。それはその気になりさえすれば、今すぐにでも、手に入れられるからです。それは秘境にあるのでも、お金や宝石の中にあるのでも、ましてや地位や権力の中にあるのでも無く、一番身近な私たち一人ひとりの心の中に存在するからです。さてそれでは、一人ひとりの心の中にどんな形で存在するのでしょうか?。それには、価値観によって幸せの捕らえ方が違ってくると思いますので、まずはその価値観について考えてみることにしましょう。
卒業式に歌う、“仰げば尊し”の一節に、“身を立て名を上げやよ励めよ”という個所が出てきますが、これが長い間私たちが求めてきた価値観ではなかったでしょうか。あなたは子供の頃、大きくなったら“偉くなれよ”と親や知人から激励されなかったでしょうか。この“偉くなれよ”の中身は、一体何だったのでしょうか。それは“末は博士か大臣か”のニュアンスが込められていなかったでしょうか。最近では少々変わってきて、“一流学校に入って一流会社に勤めろよ”、あるいは“事業家になって金儲けしろよ”、もしくは“著名人になれよ”、というものに変わってきたかもしれませんが、いずれにせよ大衆が求める価値観は『立身出世』に尽きるでしょう。
昔から、家柄、血統、身分、といったものを何よりも重視する人がおりますが、これもその人たちにとってみれば大切な価値観の一つでしょう。特に最近では、知識、頭の良さ、教育の程度といったものを重視する傾向がありますが、これなども、目にみえない価値観として、大切にされている一つでしょう。
形に見えるものとしては、お金、財産、絵や骨董品、宝石、といった物質的なものでしょうが、これらは特に肌で感じられる大衆向きの価値観として、現代社会では最も貴ばれているようです。その外に、ボランティア活動に生きがいを感じている人、過疎地で病人を救おうと献身的な働きをしている人など、実に素晴らしい生き方だと思いますが、これはしっかりとした信条に支えられた価値観の一つでしょう。
変わったところでは、主義主張を振りかざし政治運動や社会改革に没頭している人、滝にうたれ山野をかけめぐり荒行で肉体を虐めている人、地下鉄や橋の下でたむろする人など、これも特殊な人生観の持ち主なのかもしれません。さてこれらの価値観を整理してみると、次のように分類できると思います。
1は、物質的なものに価値観を置く者。
2は、精神的なものに価値観を置く者。
3は、その両方に価値観を置く者でしょう。
それでは現代人は、一体何に価値観を求めているのでしょうか?。いうまでもなく、物質偏重時代に生きている現代人のほとんどは、一番目の物質的なものに価値観を求めているといってよいでしょう。家柄、身分、地位といった価値観も、つき詰めれば、金や財産が下地となっていますから、結局物質的な価値観に舞い戻ってしまいます。当然ながら、我武者羅に金儲けに走る、肩書を求める、権力にすがる、といった生き方に走ります。でもいくら手に入れても心は休まらない?。幸せ感が得られない?。なぜか心にポッカリとした空白がある?。一体その足りないものは何だろう?。そうだ、永遠のものが足りないのだ!、そこで昔から大金持ちや権力者が求める究極のものは、不老長寿なる薬だったのです。でも、そのようなものがこの世にあろうはずがない。したがって、どんな大金持も、老後の日々は穏やかにならず、暗い憂欝な日々を送らなければならなくなるのです。今日ではそのような夢を追う人はいなくなりましたが、それだけに再び振りだしに戻り、物に幸せを見いだそうと躍起になるのです。しかし何度もいうように、物は永遠でないから手に入れても心は満足しない、そこで益々現代人の不安は高まっていくのです。
私たちは、外的環境である教育・思想・習慣・情報などによって知らず知らずのうちに価値観を身につけていきます。もちろん、身につける要因は外的環境だけではありませんが、(輪廻転生でつけた価値観もある)大きな影響を受けていることは間違いないでしょう。この外的環境によって身につけた価値観は、相対的なものですから浮草のように落ち着きがありません。年令により、性別により、時代により、場所により、あるいは立場の違いによってもクルクルと変ってしまいます。したがって、このような価値観にとらわれている限り、人の心は安らぎません。だからそのことに気付いた人は、安らぎを心の中に求め宗教にのめり込んでゆくのです。
でも心がいくら大切だからといって、お寺や教会に入り浸っていて良いでしょうか?。ろくに仕事もせず、瞑想にふけっていて良いでしょうか?。滝に打たれ山野を駆け巡り、行に一生を捧げて良いでしょうか?。いいえ、それではこの世に生まれてきた意味がありません。心に価値観を置く生き方は、精神修養によって身につくものですが、それは決して社会を否定し人間味をなくすことではありません。物を無常なものとしながらも、人間社会を不合理多いものとしながらも、そこに身を浸し生きてこそ三番目の価値観を輝かすことができるのです。
さて、これまで幸福について考えてきましたが、まだはっきりと結論が出されたわけではありません。たしかに“心”に幸せを求めることでしたが、それではあまりにも具体性がありません。もし聖人のように生きられるのでしたら(絶対を悟り、絶対の中に身を置くことができたなら)幸せの本質をつかむこともできるのでしょうが、それを現代人に求めるのは酷というものです。したがって、凡人が幸せを手にする唯一の方法は、幸せを受け入れる心の状態をどう整えるかでしょう。それでは、現実に私たちが幸せを感じるのはどんな時でしょうか?。それはどこで感じるのでしょうか?。
第1に、五感で快さを感じたとき。
第2に、欲心が満たされたとき。
第3に、愛する者と満ち足りた生活をしているとき。
分け方は色々ありましょうが、おおよそこんな時に私たちは幸せを感じているはずです。しかも、それを感じるのは肉体ではなく心でしょう。快感も肉体から心に伝わって感じるし、舌で味わったおいしさも心で受け止め感じます。また自己顕示欲を満した時の満足感も、愛する人と充実した日々を送っている時の喜びも、お金や宝石を手中に収めた時の喜びも、すべて心が感じているはずです。その喜びは多寡によって感ずるより、質によって感じる方が大きいのではないでしょうか?。その質を高めるのも己の心です。
たとえば、ここに月給二十万円の給料とりの奥さんがいたとしましょう。今日の物価からすれば収入は多い方ではありませんが、慎ましい生活をすればやっていけない額でもありますまい。そして、夫が一生懸命働いてくれたお金だからと感謝して使えば、不満は起きないでしょう。だが隣の裕福な家を羨んで、うちの亭主が甲斐性なしだから貧乏なのだと思えば、不満は膨れ家庭に波風が起きるでしょう。これでは幸せな家庭は築けません。どんな幸せも他人と比べ不満をいっていたのでは、決して手にすることはできないのです。同様にどんな不幸も、“まだまだ不幸な人はいる、私はまだ幸せな方だ!”とプラスに考えれば、大きな不幸も小さな不幸に変えることができるのです。要するに幸不幸は、その人の考え方ひとつで決まってくるということです。
たとえば病気や事故などの不幸も、"これは生き方を変えなさいという警告だな!、"と謙虚に受け取り悪かったところを直していけば、ノイローゼにならずにすむのです。また他人からひどい仕打ちを受けた場合も、これは自分を大きくする試練だと受け取れば、憎しみも恨みも感謝の思いに変えることができるのです。要するに、憎むべきことも恨むべきことも、考え方ひとつで喜びや希望に転じることができるということです。では、どうしたらそのような心をもつことができるのか、そのコツを教えましょう。
宇宙の心根は何度も言うように、“愛と調和”です。すべてここに通じているのです。これを信ずることです。つまり、“つらい苦しい中に必ず実りがある””苦しみは幸せに通じている“という宇宙の法則を信ずることです。悪く受け取って暗い人生を歩むか、良く受け取って明るい人生を歩むか、欲と脅迫によって進化の道を歩むか、宇宙の法則を信じ進化の道を歩むか、この違いは天と地の開きがあるでしょう。
このように法則を信じ何事もプラス思考で対処すれば、どんな困難な出来事も、どんな不幸な出来事も、良きものに変換させられるのです。そうなると老いることも、病むことも、別れることも、死ぬことも、すべて感謝の一念に包むことができ、出てくる言葉はただ”ありがたい“の一言になるのです。ただしひとつ注意しなければならないのは、どんなにプラス思考を守っても、宇宙の正流に逆らった生き方をしてはなりません。宇宙の正流とは、“愛と調和”の美しい流れです。この流れに逆らわずプラス思考を持って生きれば、もう鬼に金棒です。
すべての人が一様な幸せを得たいと願っても、決してできるものではありません。なぜなら、人それぞれ幸せの感じ方が違うからです。ですから、幸せとはこんなものだ、あんなものだと、形にして見せられるものではないし、また人と比べられるものでもないのです。心のもちかた次第で、得たり失ったり、小さくなったり大きくなったり、またどこにでも転がっているありふれたもの、それが幸せの正体なのです。このように幸せの青い鳥は、どこにでもいるそんなありふれた鳥だったのです。