「人間は果して、ダーウィンが唱えたように猿から進化したのじゃろうか?。それとも、もともと人間としての姿形をそなえ、独自の意志をもち、考え、工夫し、創造し、美的感覚や素晴らしい恋心をもち、自己主張する能力をもっていたのじゃろうか?。
19世紀の著名な博物学者である、フランスのラマルク(1774年~1829年)は、キリンの首は祖先が高い木の実や葉を食べようと代々首を伸ばしていたから高くなったという、『獲得形質遺伝説』を打ちだしました。またイギリスの自然科学者ダーウィン(18O9~1882年)は、彼の著書『種の起源』の中で、生物は[神]が創造したのではなく、自然進化の過程で生まれたもので、その進化は連綿と続いていくものだと唱えました。彼の自然選択説は、『どの生物も沢山の種を残すが、種の固体数は一定に保たれている。これは種の中で互いに生存競争が行われ、その勝利者は最も有利な変異を偶発的に持った固体で、これが何代も選択されるうちに種の変化が起こった』というものでした。
またダーウィンは、ラマルクの獲得形質遺伝説を自説の中にとり入れ、環境も固体変異に大いに影響を与えるとしています。このダーウィンの進化論については、百二十年以上も生物学者や遺伝学者の間で論争されてきましたが、今もって結論は出されておりません。現代の主流は、このダーウィンの進化論を補足し一歩進めた、ネオ・ダウィズム(進化総合論)を取っているようですが、この進化総合論は分子遺伝学が発達した近代になって、獲得形質は絶対遺伝しないという事実が判明されたところから、(DNA→RNA→タンパク質、つまり情報の流れは一定方向のみに伝わり、逆進はないという絶対的教義が確立された)ダーウィンの説からこの獲得遺伝説を抜き取り、突然変異のみが進化を助長するとしたのです。分かりやすく説明すると、『通常生物は子孫保存のために沢山の子供を生むが、その子供たちが外敵や同種の生存競争から生き残るのはすぐれた種のみで、劣ったものは滅びてゆく、しかもその固体に優劣の差が生ずるのは突然変異であり、その突然変異の中でも特に優位な固体が生きのび、それが度重なる内に進化が促進される』というのです。
この外にも、進化を促進させるのは単に環境のみであり、長い年月の間には獲得形質も遺伝すると主張する学者もおりますが、今もってはっきりしないのがこの進化論なのです。それでは私の意見を述べる前に、ダーウィンを初めとする既存の学説を覆すいくつかの根拠を上げてみることにしましょう。
人はなぜ、単細胞から霊長動物といわれるまで前進的進化をしてこられたのじゃろうか?。これに答えられる人は誰もおりません。かろうじてラマルクだけが、『生物は元々前進的進化の潜在能力が備わっている』と説明しているだけで、他の学者は誰も答えられないのです。なぜなら、それを認めれば唯物論的考えを放棄し、目にみえない[何]かを、つまり[神]を認めなくてはならなくなるからです。彼らはそういう力を頭から否定し、生物の前進的進化能力を唯物的に論じようとするから、おかしな突然変異説をもってこなくてはならなかったのです。もしダーウィンの唱える自然選択説が正しいなら、生物は最終的にすべて人間にならなくてはならないじゃろう。なぜなら、進化の最終目標は人間にあるはずだからです。ならば、人間の祖種と同時期に発生(今日の定説では、人間は魚類より枝別れしたといわれている)した生物が、今もって進化していないのはなぜじゃろうか?。(三億年前のデボン紀に棲息していたといわれるシーラカンスや、貝類、ナマコ、クラゲ類など数多い)百歩譲って、途中で高等生物と下等生物に分かれたという説を認めたとしても、次の謎が解けない。
単細胞から魚類へ、魚類から両性類へ、両性類から爬虫類へ、爬虫類からほ乳類へ、ほ乳類が更にさまざまな種に分かれ猿へ、そして猿から人間へと進化したなら、なぜその途中の形態の化石が見つからないのじゃろうか?。(猿人、原人などの呼び名の骨が発掘されているが、あくまでも猿は猿、人間は人間で、中間的な化石は見つかっていない)またラマルクの唱える『獲得形質遺伝説』を認めたとしても、なぜキリンは首を伸ばしてまで高い木の実を食べる必要があったのじゃろうか?。周りに背の低い草木類がいくらでもあっただろうし、たとえ木の実しかなかったとしても、首が長くなるのを待つより木に登る能力を身につけた方が手っ取り早かったはず。またラマルクは生物の自然発生を認めているが、それなら太古から現在まで途切れなく自然発生しているはずだから、進化途中の形態が残ってなくてはならないはずなのに、その化石が見つかっていない。現在の生物学者の間では、生物の自然発生は認めていないから前述したことは当てはまらないとしても、次の謎はどう説明するのか?。
地球は生成当初、炎のように燃え、それが冷えて地殻が形成され海ができたといわれているが、隔絶された地球で、それもそのような炎熱の中から、どうして生き物が誕生したのであろうか?。ある学者は、宇宙からやってきた隕石が胞子を持ってきたといっているが、その隕石に運ばれた胞子も炎熱の中から生まれたはず。なお百歩譲って偶発的発生を認めたとして、なぜ現在偶発的発生はないのだろうか?。
次に生物学者は姿形ばかりにとらわれ、肝心な人格についてあまり触れようとしません。人がものを考え創造する力をもち得たのは、突然変異で単に細胞が優位に組みあわされた結果なのじゃろうか?。私たち人間は、突然変異の産物なのじゃろうか?。学者は都合が悪くなると突然変異説をもってきて逃げるようじゃが、その突然変異が起きるのも、そうさせる何かの力が背後で働いているからではないだろうか?。その力こそ、[神]といわれるものなのです。」
「それではご老人は、人間は神によって創造されたといわれるのですか?。」
科学万能の世界で生きている今の私たちには、神話や伝説はおとぎ話程度の感覚でしか受け取っていない。科学者がいう進化論の方が説得力があるように思うのだが?。
「信じられないのも無理はありますまい。しかし騒々しい生活から一歩退いて、四季折々に見せる自然の装いや、整然と運行する宇宙の動きを眺めるとき、ふと心の底から沸き上がってくるノスタルジアは、宇宙と人間の深いつながりを証明しているのではないじゃろうか?。
この宇宙には整然とした秩序があります。もし偶然にでき上がったものなら、宇宙は一瞬たりとも存在しておれないでしょう。私たちがこうして安心して生きていられるのも、目にみえない意識が全宇宙を支配しているからに外ならないのです。
それでは、その秩序を維持している意識とはどのようなものでしょうか?。私たちは生物の順応性に目を見張ることがあるし、傷を癒す自然治癒力の不思議さにも驚かされます。しかし生物学者は、その治癒力がどこからきているのか説明できません。できないのは生き物を唯物的にみているからです。
この大宇宙の根底に横たわっている意識は、愛と秩序と正義に満たされた『識エネルギー』です。その『識エネルギー』が全宇宙を支配しているからこそ、恒星も惑星も衛星も一糸乱れぬ動きをみせ、生き物も意味のある生存が可能なのです。この地球上の生物はその『識エネルギー』、私はそれを『意識主』『創造主』あるいは『宇宙心』と呼んでいますが、その意識主によって命を吹き込まれ誕生させられたのです。人間の目から見たら、それはあたかも自然発生的(偶発的)に見えたかもしれませんが、実はその背後にこのような意識主が存在していたのです。
私たちは時々、なぜこんな害をもたらす生物がいるのだろうか?、なぜ何の役にも立ちそうにもない虫がいるのだろうか?、と思うことがありますが、自然を冷静に観察してみると、それが他を生かす益物として活躍していることが分かり、その計らいの素晴らしさに感心させられずにはいられないのです。たとえば、食物連鎖にかかわりあう数知れぬ生物は生態系を維持する一員として、お中に住み着く大腸菌は消化調整役として、私たちが嫌う病原菌だって、進化の抗体という形で役立ち、その存在意義を誇っているのです。それはあたかも、悪の顔と善の顔をもつ二重人格者のように、あるいは諸刃の剣のように、“ 使い方次第で薬にも毒にもなる “という側面をチラつかせながら絶妙に生きているのです。
宇宙意識はこのように、あらゆる生き物に目的と使命をもたせながら地球という生命体を生かし続けているわけですが、人間は他の生き物と違い、宇宙意識の分身という形で命が吹き込まれ、万物の霊長としてあるいは地上の王として君臨させられているのです。
人間が猿から進化したなどと愚かな教育をするから、平気で悪を犯すのです。その罪の一部は、 " 進化論を唱える学者にある、"といわれても反発できないでしょう。