《1》資本主義経済は欲を前提にした自由経済であるから、市場機能を完全に働かすためには、できるだけ政府の干渉を許さない必要がある。そこに大企業の横暴が生れる。
・弱小企業を合法の下に吸収する。
・突然の下請け停止を行う。
・元請けの優位を利用し、下請けに低価格を押しつける。
・資本力をバックに、弱小企業を市場から排除する。
・市場を独占し価格操作を行う。
など、大企業の横暴ぶりは目を覆うばかりである。弱小企業が生きのびるには、大企業の傘下に入って延命策をこうじるか、反乱を起こすか、涙を飲んで転業するかのいずれかであろうが、いずれにしても生き延びる道はそう多くはない。これは企業間だけの問題ではなく、弱小国と大国においても同様である。すなわち、モノカルチャー政策(利益の得られる産業あるいは作物に特化する政策)をとらなければならなくなったり、借金をして無理に近代化を進めなければならないのも、大国の圧力に屈服したがゆえである。
またお金第一の社会では、何事もお金が優先する。金持ちは社会で優位な地位を獲得し、金のない者は虐げられる。その貧富の差から、人権すら無視されるようになる。こういったお金第一主義が人の心を狂わせ、犯罪の多い社会をつくってしまうのである。
《2》今日の経済の主役は、大資本をバックにした大企業であろう。その企業の使命は、何をおいても利益をあげ、資本提供者(株主)に利益の還元をしなくてはならない。したがって、他企業に負けないよう売上の増進を図り、少しでも多くの利益をあげることに力が注がれる。歪みはそこに生まれる。
・需要満杯の状態から売上を伸ばすには、二、三年置きにモデルチェンジを行い、まだ使える製品を時代遅れへと誘導しなくてはならない。
・修理するより新品を買った方が安価であるといった、道理に合わない商法を横行させる。
・宣伝は今や企業の必勝戦術であるが、その原価はなぜか消費者負担となって跳ね返ってくる。また過剰な宣伝は消費者の欲をあおり、無用な消費を生み出すことになる。
・コストを下げ生産性を上げるには、ロボットを導入した大量生産方式が有効であるが、それは雇用を減らすことにつながり、多くの失業者を生み出すことになる。
・質素倹約がもてはやされてはこの経済はなりたたない。また丈夫で長持ちする品物がつくられたのではこの経済は干上がってしまう。このようにどんなに良いことでも、どんなに良いものでも、経済を悪化させるものは敬遠され、どんなに悪いことでも、どんなに悪いものでも、経済を良くするものは喜んで迎えられるのである。
《3》資本主義経済は不況と隣合わせになっているため、常に倒産におびえていなければならない。いったん不況になると、一番に影響を受けるのは零細企業とそこで働く労働者であるが、大企業に比べ救いの手はほとんど無い。経営者の自殺や、仕事を失い路上生活に身を落とす者など、資本主義が生み出す悲劇は絶えることがない。
《4》儲けるためには手段を選ばない、これが企業の偽らざる気持ちであろう。これによって、どれほど社会正義が地に落ちたことだろう。
・経済が悪化してくると強引な需要作りが必要になってくるが、その代表的なものが戦争であろう。戦争も経済活性には必要な手段であり、それも必要悪として容認されている節がある。世界恐慌の次にくるのは大戦であるといわれるのも、まんざら的外れでないかも知れない。
・金の力で他国の自然を食い荒らし、自国の繁栄だけに酔いしれる。これも正当な経済取引であれば許されて当然だという。さらに許しがたいのは、ただ金を動かすだけで巨万の富を得るマネーゲームである。
・薬漬けにするのも注射漬けにするのも、退院時期がきているのに理由をつくって退院させないのも、回復の見込みゼロの患者にスパゲティ治療を施すのも、これみな儲けるための需要作りである。
・詐欺、売春、賭博、麻薬など、儲けられるものならどんな悪いことでも商売になってしまうのが資本主義社会の懐の深さであろうが、それによって人々はどれほど苦しんでいることだろう。
《5》今日企業の販売活動費(営業経費・広告宣伝費・販売手数料・接待費・販売員の人件費)は膨大なものとなっているが、それらはただ売上を伸ばすための費用であって、生産過程ではなんら貢献していないのである。もし、宣伝も営業活動も必要ないなら、すべての非生産労働者(営業マンや店頭員や宣伝マンなど、全就労人口の約五十%を占めているといわれている)を生産過程につぎ込むことができるだろう。そうなれば生産性の向上はいうにおよばず、福祉やサービスも行き届くようになり、潤いある社会が作られるはずである。それができないのは、どこよりも誰よりも多く売って儲けなければならない、この経済の仕組みにあるのである。
《6》資本主義経済における生産の適性さは、市場という相互取引の場があってはじめて知ることができる。したがって、その品物が人々の役に立ったかどうかは、市場に出て消費されるまで確認できないのである。本来なら、消費者側の要求が先行し生産側がそれを満たすという形にならなければならないのだが、資本主義経済では生産者側が消費者側をリードする形をとるために、どうしても無駄な生産と消費が生まれてくるのである。時には企業の思惑がはずれ、生産イコール消費とはならず、多くの無駄を生み出すのもこの経済の欠陥である。
《7》農作物の価格の下落は一見喜ばしいように思えるが、現在の資本主義経済下では多くの弊害を招いてしまう。すなわち、耕地に恵まれた大国の意のままに市場が牛耳られるため、農産物の価格が維持できなくなり弱小国の農業はつぶれていく。これが更に地場産業の崩壊、地方の過疎化、自然荒廃など地域社会の崩壊につながっていくのである。また、気象事情からも食糧管理が不安定になり、ますます弱小国の食糧不安は高まるのである。
《8》その大国も、いつも経済効果や利益効率を念頭に経営しなければならないところから、“早く、大量に”を掛け声に、高エネルギー(化学肥料)の投入や過度な農薬を使用して生産性の向上を図らねばならない。そのために、土壌疲弊や薬害を引き起こすことになる。土壌を守り自然体の作物を収穫するには、有機農業の導入が欠かせないと分かっていながら、利益を優先する資本主義農営では、それが無下にも切り捨てられてしまうのである。これでは安全安定は望めないであろう。また豊作貧乏を回避するために、せっかく収穫した農産物を廃棄処分にしたり、価格維持の必要性から余った食糧を困っている国に無償で回せないなども、資本主義経済の抱える矛盾の一面であろう。(以前アメリカで、価格の安定を図るために二千万頭以上の牛を廃棄処分にしたことがあったが、その時飢えで苦しむ人は世界中に溢れていたのである。企業にとって牛は、飢えをしのぐために飼育されているのではなく、売るため儲けるために飼育されているのである。何と愚かな経済であろうか。)
《9》現代の資本主義経済は『消費は美徳・何よりもお金』の意識を定着させ、人を物欲の虜とした。それは精神的安らぎを奪い、異常なほどの競争人間をつくった。これによって対人関係はすべて損得がらみとなり、信じあえる社会は遠のいた。どんな約束事もどんな決まり事も、今や文書にしたため合わなければ安心できなくなったのである。民事裁判(商業裁判)は、今後ますます多くなっていくであろう。
《10》国家挙げての高度経済成長政策は、国内産業を活性化させ労働者の生活を豊かにするという利益をもたらしたが、一方、地方の人口を大都市に集中させ過密都市をつくるという弊害も生み出した。この影響はこれだけに留まらず、地方の若年労働力が奪われたために、国の基盤である農林業を衰退させるという二重の弊害ももたらしたのである。今や農地や山は荒れ放題になっている。
《11》資本主義経済の発展の陰には、いつもインフレと失業がつきまとっている。国民はそれを恐れ、身を守る為にさまざまな防衛策を考える。金取引や商品取引に引っ掛かったり、株式投資などで失敗するのもその現れであろう。もしインフレも失業もないなら、危険な投資をする人もいなくなるであろうに・・。
その失業も、資本家から見ればなくてはならない必要悪だという。つまり、労働力が逼迫すれば賃金が上がり労働者を雇うことが困難になる、そうなると労働者の管理も甘くなり、生産性の向上は望めなくなる。失業の恐れがある労働市場こそ、企業に取って有利なのである。
《12》国家の財政赤字のつけは、結局国民に降りかかってくる。税金や社会保険料の負担増など、今や慢性的である。これは卵が先か鶏が先かの論法と同じで、貨幣経済が抱える最も初歩的弊害である。また地方自治体の台所も今や火の車のところが多く、そのため社会秩序を守るべき役所自らが公営ギャンブルに手を染めている。これでは世の乱れは押さえられない。
《13》企業の激しい販売合戦は、消費者に見栄と虚飾を煽り立て、果てしのない濫費浪費の泥沼に引きずり込んだ。これは恐ろしいほどの無駄を生み出し、自然環境を著しく悪化させる要因ともなっている。大都市では廃棄物の処分地がなく頭の痛い対策に追われているが、これも利益優先経済が招いた欠陥である。
《14》資本主義国家における経済施策や新法案制定の陰には、必ず企業と政治家との醜い癒着がある。贈収賄は今や日常茶飯事、『政治献金も誰々を励ます会』と称する集会も企業に借りをつくることであり、そこにもはや公平な政治はありえない。これも、営利を優先する現代資本主義社会の醜い体質であり恥部である。
《15》大企業は国家の擁護の元に急成長を遂げ、我が国は経済大国の名を勝ち得るにいたったが、それは学歴偏重社会を形成することとなり、試験地獄なるおかしな社会悪をつくってしまった。今やその影響は幼い子供にまで忍びよっている。将来の夢は何かと子供に問いただしたところ、“サラリーマンになること”と答えた子供が半数以上いたといわれるから、その夢のなさに今更ながら驚かされる。勉強・勉強・試験・試験と追いかけられる子供達の、何とかわいそうなこと・・・。
《16》どのような有益なものであっても、儲けにならないものは常に切り捨てられるのが、利益第一を目指す資本主義経済の実態であろう。それによる新考案、新開発の阻害は計り知れないものがある。競合経済が社会を発展させたというが、その陰では素晴らしい『可能性』が見捨てられているのである。
《17》今や年中行事になった春闘は、労働者の生活を守るための戦いであるという。だが、いくばくかの賃金引き上げに喜んでいるあとから、物価は高騰し税金は高くなっていく。賃金引き上げと物価の上昇、これも卵が先か鶏が先かの論法と同じで行きつく先をしらない。
《18》一時、ねずみ講なるものが流行し驚かされたものだが、今日の資本主義経済もそれと似たり寄ったりである。ねずみ講は空売りで物の裏づけはないが、資本主義経済は物の裏づけがあるだけに、自然を破壊し環境を悪化させる。高回転経済、拍車経済、これは暴走する馬車みたいなもので、いつか我々を振り落としてしまうであろう。
《19》事件や事故の原因追及をしていくと、そこに必ず企業の無理な利益追及が浮かび上がってくる。企業はできるだけ多くの利益を得ようとするから、少々危険と分かっていても手抜きを黙認する。現場を任されている者も、それが上司の心証をよくし自分の成績につながると思えば、いやであってもやらざるを得ない。
“不正融資、不正商品取引、不正株式投資、不正雇用、不正販売、積載違反、スピード違反、手抜き工事、違反建築、違反何々”など挙げれば限りがないだろう。
《20》資本主義経済は欲望を根底としているだけに、どうしても人間性を堕落させる。
・あなたは本当に良いと思って商品を薦めているのだろうか?。
・それを薦めることが本当に客の為になっているのだろうか?。
・こちらに責任があっても賠償問題が絡むので、止む得ず「これは不可抗力です」と責任逃れをしていないだろうか?。
・成績欲しさから、同僚をおとしいれなかっただろうか?。
・仕事欲しさにこびへつらい、自己の人間性を傷つけなかっただろうか?。
・接待、供応、買収などによって相手を堕落させなかっただろうか?。
・その駆け引きが、自分の良心を傷つけていないだろうか?。
・売りたい一心で、過剰な宣伝、ハレンチな宣伝をしていないだろうか?。
・上司の手前、よい恰好をしなかったであろうか?。
・手段を選ばず儲けようとする態度が、相手に煩わしい思いをさせたり、迷惑をかけたりしていないだろうか?。
・犯罪や事故を激増させているのは、売らなければならない儲けなければならない資本主義経済の体質が理由である。また、諸々の価値を下落させているのも同様の理由からである。そこに我々は気がついているだろうか?。
・週刊誌も、新聞も、小説も、音楽も、映画も、はたまたテレビドラマも、好奇心を誘うもの、あるいは興味本位なもので勝負するようになってしまった。これも儲けるため、視聴率を上げるためであろうが、そのためにどれほど社会は毒されたことだろうか?。
・あなたは本当に人を救おうと、その宗教を勧めているのだろうか?。宗教を生計の手段にしていないだろうか?。
・あなたは純粋に芸や技を披露しているだろうか?。お金のために芸を切り売りしていないだろうか?。
このようにして、今日の経済は人から真心を奪ってしまったのである。
《21》今日の社会において、対等な人間関係を維持することが非常に難しくなっている。たとえば上司と部下の関係、営業マンと取引先の担当者との関係、店員と顧客との関係など、ほとんどが何等かの利害関係を形成し、それが優位に立つ者とそうでない者とに分けている。最近では、友達や肉親の間においてもこのような関係が成り立っているといわれ(夫婦や親子の間でもお金は別)、ますます対等な人間関係が失われつつある。そんな社会で、本当に人間らしい生き方ができるだろうか?。
《22》今や企業の理念が社会の規範となり、企業の生き方が人の生き方の基準になってしまった。その影響は国の行政や教育にまで及び、もはや国民の生活は企業に握られてしまったといっても言い過ぎではないだろう。その規範を考えるとき、肌寒さを感じるのは私だけだろうか?。
《23》成長なしにやっていけない資本主義経済は、今、環境問題との間で苦慮している。資本主義経済において、経済の停滞や縮小はそのまま生活の破壊につながるからだ。(そう思っているに過ぎないのだが)
経済を発展させ(豊かさを落とさない)環境を悪化させない連立方程式に、今人類は頭を痛めている。
「さて、資本主義経済の矛盾と歪みを追及してきましたが、この経済に依存する限り、私たちは万物の霊長としての誇りを失っていくでしょう。
私たちは本当に、欲望を根底に置いた経済を望んでいたのでしょうか?。ハンドルのきかない経済を望んでいたのでしょうか?。あなたはどうですか?。」
「ええ、若い時には贅沢な生活をしてみたいと思ったこともありましたが、今は家族の皆がひもじい思いをせず健康で暮らせたらそれで良い、そんな考えに変わってきました。特に今のように多くの物に囲まれ生活していると、何か息苦しささえ覚えます。どうも私たちの望んでいたものと、違う方向に社会が進んでいるように思えてならないのですが?。」
「あなたもそう思いますか。そうなのです。誰もこのような社会を望んでいたわけではないのです。それではなぜ、このような世の中になってしまったのでしょうか?。それは、物が豊かになれば貧困も争いも解消されるだろうとの考えが、市場経済を拡大させ、そこに蔓延した唯物主義が人々の欲望に火をつけてしまったからです。
先程もいったように、資本は減退したり停滞することが許されません。100であった資本が、120に150に200にといったふうに、ドンドンと膨張していかねばやってゆけないのがこの経済の宿命なのです。その宿命の渦中に、人間が、社会が、国が、スッポリと呑みこまれているのです。こうなると、どんなにあがいてもその渦から逃れることはできません。したがって厭でも、よい学校へ、よい会社へ、と凌ぎを削る競争社会に身を投じなければならなくなるのです。
・成績を上げなくては昇給も昇進もないから、ガムシャラに働かなくてはならない。それでも結果が出ない場合は、悪いこともやらなくてはならない。
・企業のためにする悪は何のためらいもない。したがって、倫理も道徳もますます地に落ちていく。
・景気が冷え込み企業が儲からないようでは、国家の財政のめども立たなくなる。したがって環境保全の叫び声も、需要喚起と景気対策の前では空念仏となる。
・その国家の台所も今や火の車、その上追い討ちを掛けるように外国からの圧力も強まる。そこに国家間の不和も生まれてくる。
こうして人間がつくった経済に人間が操られ、いつしか抜き差しならぬ状態に陥ってしまったのです。どうでしょう。このような社会がいつまでも続くと思いますか?。」
「さあ・・・??。」
「私は資本主義社会の崩壊は、すでにはじまっていると見ています。それではどのような過程をへて資本主義社会は崩壊していくのか、ここでその足取りを追ってみることにしましょう。」
この時点で老人と私との関係は、完全に師弟関係になっていたのである。