一般人の殆どは、本当の自分を知らないで生きています。彼らが知っているのは、肉体の自分だけです。それで、生きていると言えるでしょうか? では、本当の自分とは、何でしょうか?
それは、意識です。でも、意識は、見えませんから、知ろうにも、知りようがありません。では、どうすれば、意識の自分を知ることができるのでしょうか? それには、まず、意識の本質(本性)を知らねばなりません。では、知りましょう!
意識は、すべての本質です。すなわち、モノの素材であり、エネルギーであり、光です。その意識は、自由意思を持っています。意図を持っています。計画性を持っています。創造力を持っています。更に、無限の可能性と発展性を持っています。つまり、意識は、無限の能力を持っているのです。しかし、どんな偉大な意識でも、見える(感じられる)状態にしなくては、存在しているかどうか分かりません。そこで、神は、意識を見える状態にするために、私たちに、想念を持たせたのです。
私たちは、今、自分の想念を使って、様々な物を創造しています。様々な人生を作っています。様々な幸不幸を作っています。これは、見えない意識を見える状態にした、表現方法なのです。でも、今の地球人類は、自分の想念で、人生を作っているとは思っていません。だから、意識を自分だと思えないのです。自分を意識だと思えるようになるためには、自分の想念で、人生を作っていることに、気付かねばならないのです。
さあ、気付きましょう!
犬小屋を作ったのも、想念です。
学校に入ったのも、想念です。
自動車を手に入れたのも、想念です。
結婚したのも、離婚したのも、想念です。
親子が、仲良くするのも、喧嘩するのも、想念です。
隣人と、仲良くするのも、仲違いするのも、想念です。
貧乏になるのも、金持ちになるのも、想念です。
地位や名誉や権力を得るのも、想念です。
病気や事故災難に遭うのも、想念です。
戦争も、テロも、想念の結果です。
こんなに、はっきり、見せられているのに、人間は、自分の想念で人生を作っていると思っていないのです。想念しないでは、何も生まれないのに・・・です。
その想念は、意識から生まれたのです。と言うことは、想念を持っている、私たちは、意識そのものであることになります。その証拠に、あなたの意識が無くなれば、全て、消えてしまいます。宇宙さえも、消えてしまうのです。でも、誰一人として、自分を意識だと思っていないのです。これでは、自分を見失ったまま、一生を終えてしまうでしょう。
どうか、自分が、意識であることを知ってください。自分が、想念であることを知ってください。今後、どのような人生を作り上げて行くかは、想念の使い方次第なのですから・・・。
※ 小学校で、一番に、教えねばならないのは、想念についてです。
次に、教えねばならないのは、死についてです。
この二つを教えたら、社会は、一変するでしょう。
どうか、自分の力を信じてください。自分の中に潜在している力を信じてください。
皆さんは、自分の力を信じないで、外側の人に、外側のモノに、頼り過ぎているのではありませんか? 外側のモノに頼り過ぎると、自分の中に潜在している力を見失ってしまうのです。 皆さんの中には、偉大な力が潜在しているのですよ! その力を使えば、何かに頼る必要はないのです。
自分の力を信じるとは、自分が持っている想念の力を信じる、と言う意味です。想念の力は、絶大です。これは、自我を持った時に、神が与えてくれた、宇宙一の贈り物です。想念を使えば、あなたの欲しいモノは、何でも手に入るのです。人生を豊かにすることもできます。神に近付くこともできます。勿論、幸せにもなれます。そんな、想念を持たされているのに、殆どの人は、そのことを知らないで生きているのです。大金を持っていても、持っていることを知らなければ、使えないように、偉大な力を持っていても、知らなければ、使えないのです。どうか、自分の持ちモノに、気付いてください。気付けば、宝の持ち腐れにしないで済みます。
さあ、自分の中に潜在している力に、気付いてください。
気付いたら、信じてください。
信じたら、使ってください。
そうすれば、あなたは、宇宙一の豊かな者になれるのですから・・・。
※ この宇宙に、割り切れるモノは、何一つありません。それは、想念が、割り切れないからです。割り切れないから、割り切れない(再現性のない)幸せが、味わえるのです。でも、割り切れない不幸と、隣り合わせになっていることも、知らねばなりません。
想念は、実に不思議な存在です。どうか、想念を一生の研究課題にしてください。
なぜ、瞑想は、科学なのでしょうか? それは、原因を作れば、必ず、結果が得られると言う、「因果の法則」を利用しているからです。因果の法則を利用するのは、誰でもない、自分です。瞑想が、科学であると言うのは、自分の想念を因果の法則に関与させるからです。自分の想念を関与させなくては、因果の法則は、働かないのです。なぜなら、自分の想念しか、原因を作れないからです。自分の想念によって、原因を作り、その結果を、自分の中に積むのが科学なのです。自分が、自分の想いを使って、瞑想するわけですから、自分の中に結果が積まれるのは、当然でしょう。だから、瞑想すれば、必ず、自分が変わるのです。
変わらない瞑想は、嘘です。何かが、どこかが、間違っているのです。
もしかしたら、形や作法に囚われているのかも知れません。
あるいは、想念を正しく使っていないのかも知れません。
あるいは、急ぎ過ぎなのかも知れません。
あるいは、結果が欲しくて、想いを分散させているのかも知れません。
でも、想いを使って、瞑想すれば、必ず、結果は得られるのです。
例え、あなたが、望む結果は、得られなくても、それに近い結果は、必ず、得られます。
例えば、
集中力が得られます。
忍耐力が得られます。
未来に向けて、布石が打たれます。
瞑想は、因果の法則を利用した、科学ですから、やれば、必ず、何らかの痕跡(結果)を残すのです。
神は、決して無駄なことはさせません。あなたの瞑想は、いつか、必ず、花開きます。それを信じて、瞑想を、やり続けてください。
※ 瞑想する前に、次のような強い意思を持ってください。
“私は、五分間、神(自分のマントラ)以外、何も想わない!”
五分間は、あくまでも、理想です。一分でも、五秒でも、一秒でも、結構です。
私たちは、よく、「愛」という言葉を口にしますが、「愛」という言葉を聞いて、嫌がる人は、おりません。それは、素晴らしい波動を持った言葉だからです。ですから、「愛」という言葉を聞いただけで、嬉しくなるのです。しかし、「愛」の言葉に騙されてはなりません。なぜなら、偽善の愛や、思い違いの愛も、あるからです。
人は、良く、”愛しています!” という、言葉を使いますが、愛の真の意味を理解して、使っているでしょうか? 殆どの人は、”好きです” とか、 ”恋い慕う” といった意味で使っています。確かに、それも、愛の一面ではありますが、真の愛は、そんな軽薄なものではないのです。
真の愛とは、「大バランス・大調和・中庸・中道・真ん中」に、引き寄せる力のことです。宇宙が望んでいることは、魂を進化成長させることにあるわけですから、その目的に近づけてくれる、「大バランス・大調和・中庸・中道・真ん中」に、引き寄せる力が、真の愛の意味になるのです。
神が、峻厳な愛を行使するのは、厳しい愛でなければ、中庸を維持できないからです。先程、偽善の愛も、思い違いの愛も、あると言いましたが、人間が使っている愛は、中庸から離れた、優しさや思いやりなどの甘やかしの愛なのです。そんな甘い愛では、魂は、進化成長できないのです。世の中には、愛を誤解して使い、人を駄目にしている人が結構いるのです。誤解して使っているならまだしも、愛と言う言葉を巧みに使って、人を騙している人もいるのです。確かに、愛と言う言葉は、美しいです。心地よい響きを持っています。ですから、愛という言葉に酔ってしまい、真の愛が何なのか、判断ができなくなるのです。どうか、真の愛が何か、理解した上で、受け取ってください。また、使ってください。
真の愛は、原因と結果の法則が支えていますので、どんなに、媚びても、へつらっても、許してくれません。厳しいと思われるかも知れませんが、厳しいからこそ、成長できるのですから、真の愛を嫌わないでください。
真理を生半可でかじっている人の中に、現代医療を否定する人がおりますが、これは、大変危険です。確かに、私たちの中には、偉大な生命力が宿っていますから、生命力に任せるのは、正しいのですが、それは、真理を心の底で知った人(自覚の境界線を超えた人)に言えることであって、一般人を含め、殆どの人は、知識段階ですから、この話は、当てはまらないのです。
私たちには、五感があるため、病気になると、どうしても、患部を意識してしまいます。意識すれば、エネルギーを与えるわけですから、病気は、なかなか、治らないのです。本当は、病気になっても、意識しなかったら、自然治癒力によって、病気は、治ってしまうのです。しかし、痛みや苦しみの症状が出ると、どうしても、意識しないでいられません。ですから、痛みや苦しみを取る、薬や手術などが必要になるのです。これは、今の人類には、止む得ぬことですから、現代医療を使って良いのです。ただし、正しい使い方をしなくてはなりません。
正しい使い方とは、
薬は、痛み、苦しみが無くなるまで、使用すること。痛み、苦しみが取れたら、あとは、生命力に任せ、一切、病気のことは、忘れることです。この忘れることが、とても大切なのです。昔から、病気は、峠を越えたら、心配いらないと言われてきましたが、これは、峠を越えたら、自然治癒力が働きだすからです。この生命力の働きは、中途半端な働きではないのです。ですから、自然治癒力が働きだしたら、余計なことはしないことです。もし、峠を越えた人に、薬を与え続けると、細胞は、薬に頼るようになるため、生命力が働いてくれなくなるのです。当然、副作用も起こります。特に、現代医療で使われている薬は強力ですから、使い過ぎると、良い細胞まで悪くしてしまうのです。
本当は、できるだけ、薬は、使わない方が良いのです。使うにしても、峠を越えるまでです。
病気は、私たちに問いかけているのです。あなたの生き方は、何処か間違っていませんか? どんな想念を持って、生きていますか? と・・・。病気で苦しんでいる人は、どうして病気になったか、考えてみてください。原因を見つけ、生き方を正したら、病気は、治ります。それは、もう、危険信号を送る必要がなくなったからです。
病気は、業の消えている姿ですから、忘れることです。病気で、一番大切なことは、病気を、忘れることなのです。忘れること、触らないこと、いじらないこと、意識しないこと、これが、病気にならない最良の方法であり、病気を治す最良の方法なのです。
何も想わなければ、何も生まれないのです。反対に、想えば、何でも生まれるのです。これは、病気に限らず、人生万端に言える、想念の使い方の注意すべき点です。どうか、想念の偉大さを知ってください。そして、正しい想念の使い方をしてください。正しい想念の使い方とは、恨まない、怒らない、憎しみを持たない、心配しない、要するに、悪いことを想わないことです。そうすれば、絶対、悪いことは起きないのですから・・・。
この宇宙には、たった一つのモノしかありません。たった一つのモノしか無いと言うことは、すべては、一つのモノの現れですから、砂一粒も、宇宙だと言うことです。ですから、砂一粒でも、無くなったら、その時点で、宇宙は、無くなってしまうのです。二つのモノがあるなら、一つのものが、無くなっても、もう一つのものが、有るわけですから、一つは、残ります。でも、一つのモノしか無いわけですから、一つのものが無くなったら、何も無くなるのは、当然なのです。その一つのモノを、神と呼んでいるだけです。神と言う名が嫌いなら、「原子」と呼んでも良いのです。なぜなら、「一つのモノ」が、原子になっているからです。
もし、あなたが、砂一粒を、軽んじるなら、宇宙を、神を、軽んじることになるのです。つまり、自分を軽んじることになるのです。自分は、一つのモノの現れだからです。私が、”すべてのモノを愛しなさい!” と言うのは、すべてのモノは、自分だからです。だから、自愛しか無いのです。
あなたが嫌う、あの人も、この人も、あの菌も、この虫も、この汚物も、みな、自分です。どうか、自分を嫌わないでください。
※ あなたが、どんなに、神ではなく、肉体だと言い張っても、あなたの肉体は、細胞の集まりであり、その細胞は、分子の集まりであり、その分子は、原子からできており、その原子は、神の意識によって創られたものですから、あなたは、間違いなく、神なのです。もう、いい加減に、人間と言い張るのを止めてください。
人間は、自分の能力が、どのくらいあるか、気付かず生きています。それは、肉体を自分だと誤解しているからです。肉体を自分だと思えば、肉体は、自然法則内の能力しか出せませんから、小さな能力に甘んじるしかありません。でも、生命だと思えたら、自然の法則の外に出てしまうので、大きな力が発揮できるのです。今の地球人類は、自然の法則に縛られ、窮屈な生き方をしているのです。
人間の中には、二人の自分がいるのです。
自我の自分は、幻の自分ですから、いつか、必ず、無くなってしまいます。
でも、真我の自分は、無くしたくても、無くせないのです。
それは、
意識だからです。
エネルギーだからです。
魂だからです。
つまり、生命だからです。
その生命の自分は、無限の能力を持っているのです。ただし、持っていても、持っている事を知らなければ、使えないのです。今の人類は、無限の能力を持っていながら、そのことを、知らないため、使っていないのです。それは、本当の自分が何か、知らないからです。もし、本当の自分を、心の底で知ったら、宇宙さえも創れるようになるのです。
どうか、本当の自分を知ってください。無限の能力を持った、偉大な存在であることに目覚めてください。
学びの最終目標は、自分が「1」であることを、心の底で知ることです。人生は、唯一、それを知るためにあるのです。私たちの周りには、沢山の人・物・社会・国・自然環境・があり、そこで、毎日、様々な出来事が起きています。でも、それ自体には、何の意味もないのです。なぜなら、外側の出来事は、すべて、現実(幻)だからです。意味があるのは、様々な出来事を通して、“自分が「1」であった!”と、心の底で知る意味です。すべてのモノは、神の表現物として置かれてありますから、置かれてある物一つひとつには、意味はあります。でも、そのモノ自体には、何の重要性もないのです。なぜなら、そのモノは、「1である」、と気付かせる方弁としての存在物だからです。すべてのモノは、「1である」、「1であった」、と気付かせるための道具です。道具そのものは、重要ではないけれど、気付かせるために必要な道具ですから、現実(道具)と真実は、同格だと、私は言うわけです。
重要なのは、自分が、「1」である、と自覚することです。その自覚は、瞑想によって得るわけですから、やはり、瞑想が重要になってくるのです。瞑想とは、「1」なる私が、「1」なる私を、意識することです。つまり、「1」が、「1」を、想うことです。自分が、「1」だからです。この宇宙には、「1」しか無いのです。
人は、どうして、苦しみに喘がねばならないのでしょうか? 神様は、苦しめるために、人間を創られたのでしょうか? いいえ、苦しんでいるのは、無知ゆえです。本当の自分を知らないから、苦しいのです。実際に無い物を、有ると思い違いしているから、苦しいのです。
本当の私たちは、肉体では無いのです。肉体は、本当の自分の乗り物です。本当の自分は、肉体の中で働いている生命です。
生命には、姿形がありませんから、
生きる、苦しみが無いのです。
老いる、苦しみが無いのです。
病む、苦しみも無いのです。
勿論、死ぬ、苦しみもありません。
私たちは、形を持って生きることが、幸せだと思っていますが、形を持たないで生きることが、幸せなのです。なぜなら、形を持てば、不自由です。また、形は、壊れやすいですから、形を維持するために、様々なケアーが必要です。第一、消えて無くなる心配があります。これでは、心穏やかに生きられません。でも、形がなければ、自由です。消えて無くなる心配や、壊れる心配がありませんから、心穏やかに生きられます。生命が一番安心できる状態は、形を持たないことなのです。形は、波動が低いですから、形を持って生きることは、生命にとって、余り、気持ちの良い状態ではないのです。
この宇宙の実態は、形を持って生きることは、異常で、形を持たないで生きることが、正常なのです。・・ただ、それを知るには、形の虚しさや苦しさを体験する必要があるので、今、私たちは、形の中に入って、勉強しているのです。・・ですから、この宇宙には、形を持たないで、幸せに生きている生命が、無数に存在するのです。彼らは、形を持っている生命を見ると、異常だと思うのです。
今、苦しんでいる人は、こう思ってください。
“今、私は、真の幸せを知るために、肉体の中に入って勉強しているのだ!”、と・・・。
今、私たちが体験している苦しみは、宇宙時間で言えば、一瞬です。後に待っている、幸せのことを考えれば、そんな苦しみなど、大したことありません。どうか、そう思って生きてください。
※ 神様は、
“難しい生き方をしなさい!”とは、言っておられません。
“自分の思い通りに生きなさい!”と、言っておられます。
ただし、次の二つのことだけは、やってください。
一つは、社会体験です。
もう一つは、瞑想です。
この二つのことをやり、自分の思い通りに生きたら、間違いなく、原子核が大きくなります。
私の生まれが、分からない?
どうして、生まれたのか?
いつ、生まれたのか?
どこから、生まれたのか?
どのようにして、生まれたのか?
全く分からない。
だから、私の素性が分からない。
素性が分からないから、私を知る手がかりが、全く無いのである。
正に、分からないずくめの、私である。
その私は、いつか、消えてしまうのだろうか? いつか、無くなってしまうのだろうか?
いや、そんなはずがない。
なぜなら、私は、見えないからだ。見えないものが、無くなるはずがない。
では、私って、一体、何モノなのだろうか?
私が、私を知らないで生きている、何と不思議な、私である。
不思議と言えば、なぜ、私が分かるのだろうか?
それは、私を認識できる、意識があるからではないのか?
私の意識がなかったら、私を認識できるはずがない。
と言うことは、私は、意識ではないのか?
そうだ、やっと解った! 私は、意識なのだ!
でも、意識って、何なのか? 意識って・・意識って・・意識って・・意識って、何なのか? 解らない?
では、その意識は、どこから、来たのだろうか? どこから、生まれたのだろうか?
「私・私・私・・・」と、いくら追いかけても、私の意識の源が、出処が、分からないのである。私に意識がなかったら、こんなに悩むこともないのに・・・。
でも、これは、悩みなの・・・? いや、私に悩みなどない。むしろ、嬉しいのだ。楽しいのだ。
なぜなら、私の意識が未知だからである。未知な意識なればこそ、追求のしがいがあると言うものである。
未知とは、嬉しいことなのである。
未知とは、楽しいことなのである。
未知とは、希望である。知ったら絶望である。
とは言っても、やはり、私は、私の意識を知りたい!
未知なるものを知りたいのは、本能のようなものだからである。
でも、どんなに、知りたいと思っても、永久に知ることができないのだ。
知ったら、絶望だからである。
でも、それで、良いのである。
なぜなら、「意識は、永久に知ることができない!」と、解ったことが、意識を知ったことになるのだから・・・。
では、永久に知ることのできない、私の意識に名前を付けよう。
どんな、名前?・・・。
それは、神と言う名が、ふさわしいのではないだろうか?
神は、永遠に知ることのできない存在だからである。
※ 私の意識を知る手がかりが、一つだけあります。それは、自分の意識を意識することで、自分が光ってくることです。意識とは、光なのです。私とは、光なのです。しかし、その光が、どこから、生まれたのか? その光が、何なのか? は、依然として、解らないままなのです。でも、永遠に解らないままで良いのです。なぜなら、解れば、宇宙は、有限になってしまうからです。それでは、宇宙の死です。
無限の宇宙を、永遠に知ることが出来ないと、解ったら、宇宙を知ったことになるのです。
今、地球上には、70億人を越す人類が存在しますが、その全員が、神なのです。なぜなら、神にしか無い思いを、人類は、持っているからです。思える人類は、間違いなく、神なのです。でも、今は、まだ、魂の量が少ないので、「神の子」の段階です。でも、「神の子」は、いずれ、成長し、神になるのです。
その「神の子」が、幻をホンモノに見せかける、トリックに引っかかり、今、真剣に、泣き笑いしながら生きています。神は、どうして、「神の子」たちを、このようなトリックの中に、放り込んだのでしょうか? それは、ホンモノに見せかけるトリックの中に、放り込まなければ、真剣に、生きようとしないからです。
どうでしょう! 夢と知りながら、夢の中で、真剣に生きられますか? 幻の世界だと知りながら、幻の世界の中で、真剣に生きられますか? いい加減な生き方しかできないはずです。それでは、成長できません。進化成長するためには、真剣に生きられる環境が、どうしても、必要なのです。その環境が、幻の現象界なのです。
神の子は、自我を持ち、自由意志を持っている、賢い魂ですから、少々のトリックでは、騙されないのです。だから、神は、トリックに引っかかるよう、肉体を持たせ、幻の現象界の中に、放り込んだのです。これは、神にとって、苦肉の策なのです。今、地球上で、このトリックを見破っているのは、覚者だけです。でも、騙されている一般人も、いずれ、トリックを見破る時がくるでしょう。その一番近くにいるのが、皆さんなのです。
神とは、何なのでしょうか? 神は、見えません。神は、触れません。姿形がないので、知りようがないのです。
でも、神は、確かに存在するのです。なぜなら、今、現に、宇宙が、万象万物が、私が、存在しているからです。もし、神が存在しなかったら、今、私は、存在していないでしょう。なぜなら、今、私が存在できているのは、何かが、私を存在させているからです。何かがなくては、何も存在できないのが、宇宙の道理なのです。ただ、その何かが、何なのか分からないので、その分からない存在に、神と名付けただけです。
そうです。神は、分からないモノなのです。神とは、分からないモノの代名詞なのです。神と言う名の由来は、分からないモノと言う意味から生まれたのです。分からないモノは、みな、神なのです。もし、皆さんに、分からないモノがあったら、神と名付けてください。ただし、この分からないモノは、物質のことではありません。実際に有るモノのことです。
さて、神は、分からないモノであることを知りました。では、あなたは、あなたを、知っていますか? 自分を、知っていますか? 私・私・私・私・・・と、自分の意識を追いかけて行ってみてください。いくら、追いかけても、自分の意識の出処が分からないはずです。自分の意識が、どこから、来たのか、どこから、生まれたのか、分からないはずです。自分の意識の正体が、分からない?・・・自分が、分からない?・・・分からない?・・・分からない?・・・。
先程、分からないモノに、神の名を付けてくださいと言いました。では、分からない自分の意識に、神の名を付けましょう! 分からないのが、神なのですから・・・。
私が、「人間は神である」と、断言するのは、分からないからです。そうです。私たちは、分からない神なのです。
※ 自我にとって、都合の良いことは、真我(神我)にとって、都合の悪いことです。真我(神我)にとって、都合の良いことは、自我にとって、都合の悪いことです。でも、それは、見かけであって、本当は、全て、都合の良いことなのです。
自分って、どれほど、不可思議な存在なのだろうか? どれほど、神秘的な存在なのだろうか? 何せ、自分の正体が全く分からないのである。自分の素性も、経歴も、能力も、可能性も、発展性も、何が出来るのか、出来ないのかも、全く未知数なのである。
今の自分に、分かっていることと言えば、
これくらいのことしか、分からないのである。
それでは、心配ではないのか? 心細くはないのか? と思うかも知れないが、そんな思いは、一切ないのである。反対に、分からないことの方が、嬉しいのだ。なぜなら、夢があるからである。
私・私・私・・・・と、どんなに探っていっても、掴めない自分の意識・・・何と楽しいではないか? 何と嬉しいではないか?・・・この気持、分かって頂けるだろうか?
※ 有限は、苦しみです。無限は、喜びです。
頭打ちのない、届かない、底のない、無限の自分を探る旅は、究極の幸せである。
生きているとは?・・・形の有る無しにかかわらず、存在しているモノは、すべて、生きているのです。存在していること自体が、生きている証だからです。
では、具体的に、どのような状態を、生きていると言うのでしょうか? 生きている条件は、何でしょうか?
それは、
1.永遠であること・・
2.無限であること・・
3.完全であること・・
4.意識があること・・
(思えること・考えられること・・自分の存在も、他の存在も認識できること)
この4つは、基本条件です。
5.力(エネルギー・光・想念) を持っていること・・
6.息していること・・
7.脈を打っていること・・
この3つは、副次的条件です。
この7つの条件が、クリアーされていなければ、生きているとは言えません。
では、人間は、この条件をクリアーしているでしょうか?
人間は、意識を持っています。
その意識は、永遠に無くなりません。
その意識は、無限です。
その意識は、完全です。
人間は、想念と言う創造の力を持っています。
人間は、息をしています。
人間は、脈を打っています。
と言うことは、人間は、7つの条件を、全部クリアーしていることになります。だから、人間は、間違いなく、生きているのです。でも、肉体のことを、言っているのではありません。肉体の中で働いている、意識のこと、魂のこと、生命のことを、言っているのです。
肉体は、無くなりますので、有限です。意識も持っていません。想念も持っていません。息もしていません。脈も打っていません。ですから、肉体は、生きていないのです。
冒頭に、形の有る無しにかかわらず、存在しているモノは、すべて、生きていると言いましたが、それは、形を存在させている、意識、魂、生命が、生きている条件を満たしているからです。どんな形の中にも、形のある内は、7つの条件が備わっていると言う意味です。
※ この宇宙には、生きているモノだけが、存在しているのです。死んでいるモノは、存在できないのです。宇宙は、一匹の生きモノなのです。その一匹の宇宙の中に、私たちは、存在しており、私たちの中に、一匹の宇宙が、存在しているのです。
この宇宙に、生きモノは、たった一つしか存在しません。もし、生きモノが、二つも、三つも、存在するなら、宇宙は、有限になってしまうからです。生きモノが、一つしか存在しない理由は、宇宙が無限だからです。無限宇宙そのものが、一匹の生きモノなのです。私たちは、今、その無限宇宙の中に存在し、私たちの中に、今、その無限宇宙が存在しているのです。と言うことは、私たちは、同じ一匹の生きモノ(一匹の無限宇宙)であると言うことです。
今、私たちは、間違いなく、生きています。これは、何モノも否定できないでしょう。何せ、私たちは、今、実際に存在しているのですから・・・。今、実際に生きているのですから・・・。存在していられるのは、生きているからです。また、生きているから、存在していられるのです。私が・・「私たちは、宇宙そのものですよ! 神そのものですよ!」と言うのは、今、私たちは、存在しているからです。今、生きているからです。
今、存在しているのは、今、生きているのは、宇宙しかないのです。
今、存在しているのは、今、生きているのは、神しかないのです。
ただし、真に生きていると言えるのは、想念を持つようになった以降です。つまり、自我を持つようになった以降です。自我を持たない、鉱物や、植物や、動物は、真に生きているとは言えないのです。それは、宇宙を、神を、自分を、認識してやれるところまで進化していないからです。
生きている時とは?
生きていない時とは?
本当に有るものを意識している時は、生きており、本当に無いものを意識している時は、死んでいるのです。どうか、死人にならないでください。
※ 人間の尊厳は、自分を認識できる、宇宙を認識できる、神っているのかな? と思える、想念を持った時に、生まれるのです。
“何の欲も持たず・・ひたむきに、神を求め続ける!”、こんな美しい姿はありません。
ひたむきに、神を求め続けるとは?・・・純な心を持って、神を想い続けると言う意味です。そんな純な気持ちで、神を求め続けたら、神は(本当の自分は)、きっと、あなたを、天に引き上げてくれるでしょう。
※ 自分を認め、宇宙を認め、神を認めてやれるところまで進化した、自分を褒めてあげましょう!
瞑想できるところまで進化した、自分を褒めてあげましょう!
苦難の道を歩み続けてきた、自分を褒めてあげましょう!
褒めてあげた後は、更に、努力しましょう!
社会体験と瞑想を・・・。
自分の意識を感じている自分がいます。その自分って、一体、何んでしょうか? それは、本当の自分ではありませんか? つまり、神の自分ではありませんか? その自分が無かったら、自分を意識できないのです。と言うことは、自分は、存在できないと言うことです。
自分の意識が、自分の意識を存在させているのです。つまり、自我の意識が、神我(真我)の意識を存在させているのです。それは、同じ一つの意識だからです。神我(真我)意識があるから、自我意識があり、自我意識があるから、神我意識があるのです。今、私たちは、一つしか無い意識を、二つの意識に別けているのです。それは、肉体を自分だと思っているからです。
繰り返します。
自我意識もあって、神我(真我)意識も有るわけではないのです。有るのは、神我意識のみです。この神我意識だけは、絶対無くならない意識なのです。自分の意識を消せないのは、自分の意識が、永遠に実在する、神我(真我)意識だからです。どうか、自分と思える自分の意識の不可思議さを探ってください。
※ この宇宙で確かなのは、自分しかいない、と言う事実です。だから、自分でやるしか無いのです。他人(私)を、当てにしてならないのは、他人(私)は、いないからです。他人は、外側の世界の無いモノです。自分は、内側の世界の有るモノです。他人は、実在しないのです。自分は、実在するのです。外側の電車を待っていても来ないのは、外側の電車は、実在しないからです。来ない電車を待つことほど、苦しいことはありません。どうか、来ない電車を当てにせず、自分の足で歩いてください。
どうして、相手がいるのですか?・・・それは、自分がいるからではありませんか?
認識者である、自分がいるから、認識される、相手がいるのではありませんか?
認める、自分がいなかったら、認められる、相手はいないのですよ!
「相手!」と言う字だけ考えても、自分が「相手」を作っていることに気付かされるのではありませんか? 「片手」だけでは、「相手」は、生まれないのです。この話を、宇宙に置き換えて考えてみましょう。
どうして、宇宙があるのですか? それは、自分がいるからではありませんか?
認識者である、自分がいるから、認識される、宇宙があるのではありませんか?
認める、自分がいなかったら、認められる、宇宙はないのですよ!
と言うことは、相手は、宇宙は、自分が創っていると言うことです。こんな、分かり切ったことを、人間は、気付いていないのです。だから、相手を、憎んだり、恨んだりして、戦争までするのです。憎んだり、恨んだりしている、相手は、自分が創った相手なのです。と言うよりも、相手は、自分自身なのです。なぜなら、認めている自分が、認められている相手の中にいるからです。それは、認めている自分が、認められている相手を創っている、素材だからです。なぜ、素材かと言いますと、認識している意識そのものが、モノの素材だからです。意識 = モノの素材なのです。認めている自分の意識(素材)が、認められる相手になっているのです。だから、相手の中に自分がいることになるのです。つまり、自分が相手を創っていることになり、相手は自分になるのです。
“いや、自分がいなくても、他に認識者がいるのだから、相手は、いるはずだ!” と、あなたは、反論するかも知れません。でも、自分がいなかったら、そのことを、どうして、知ることができるのですか? どこまでも、主観的見方しかできないのです。なぜなら、この宇宙には、自分しかいないからです。
世の人々は、“あの時、こうしておけば良かった!、ああしておけば良かった!”と、悔やみ事を言いますが、同時に、二つの人生を歩むことなどできないのですから、悔やみ事は言わないことです。“人生は試すことができない! 一回限りである!”と、言われるのは、今の人生を歩みながら、別な人生を歩むことができないからです。私たちは、一つの人生しか、歩めないのです。その意味では、確かに、一回限りの人生です。仮に、歩めたとしても、同じ人生ではないのです。なぜなら、時々刻々と条件が変わっているからです。今の人生の条件は、現下における条件です。時が移れば、時代背景も変わり、登場人物も変わり、社会情勢も変わります。そんな条件の違う下で、同じ人生が歩めるはずがありません。
よく、こんな事を言う政治家がいます。“私の言った事の正しさは、時代が証明してくれるだろう!” と・・・とんでもありません。そんな事、あるはずがありません。なぜなら、時々刻々と移り変わる無常の世界で、同じ条件が整うはずがないからです。
やったことが、正しかったか、正しくなかったかは、やって、はじめて分かるのです。やらなかったら、分かるはずがないのです。なぜなら、原因を作らなかったら、結果が生まれるわけがないからです。同時に、二つのことは、やれない(原因を作れない)のですから、どちらが、正しかったか、正しくなかったか、比べることなどできないのです。だから、”あの時、ああしておければ良かった!”、などと悔み事を言ってはならないのです。
二つの人生が歩めないのは、一つの時間の中で、二つの人生は、試せないからです。試せるのは、今の一つの時間の中の人生だけです。それ以外の人生はありません。あの時、ああしておけば良かった、と思うのは、単なる望みです。望みは、人生ではありません。歩んで、初めて人生になるのです。今、あなたが、歩んでいる人生は、一つしかない人生です。その人生は、誰が作ったのでもありません。あなたの想いが作ったのです。例え、今の人生が、不幸そうに見えていても、最善の人生だったのです。なぜなら、あなたが、その時の原子核の量において、良いと思ってやったことだからです。それは、必然であり、良いことだったのです。その証に、今、こうして、真理を学んでいるではありませんか。もし、他の人生を歩んでいたら、今、真理を学んでいなかったかも知れないのです。いや、それどころか、悲惨な人生を歩んでいたかも知れないのです。
二つの人生は、歩めないのですから、今の人生が最善だと思って、一生懸命、生きることです。どうか、自分を信じてください。その時の自分の思いで、やったことが、最善だったと信じてください。
※ やった事は、結果として、証明できますが、やっていない事は、結果が生まれないので、証明できないのです。つまり、起きたことの証明はできるけれど、起きなかったことの証明はできないのです。
ある学びの友の気づき。
「”こうしておけばよかった!”、“ああしておけばよかった!”と、人は後悔するものですが、では、こうした時、ああした時を、比べられるか? と言ったら、絶対に比べられません。
もし、ああしていたら、こうしていないので、こうしていたら、どうなったか、わからない・・・
もし、こうしていたら、ああしていないので、ああしていたら、どうなったか、わからない・・・
あれ?
これは、どういうことか?
そうか・・・必然って、今しかない!、という意味だったんだ・・・」
※ 瞑想は、今の条件下(理解力の下)で、行われています。でも、今の条件(理解力)は、刻々と進化しているわけですから、常に、進化した条件の下で、瞑想が行われているのです。だから、私は、雪だるま式に、原子核が増え進化すると言うのです。
参考・・ 心を安らげる一つの方法
この物質の世界は、波動が粗いので、常時、心を安定させておくのは、容易ではありません。真理を学んでいる人でも、苦労しているはずです。そんな人のために、心を安定させる一つの方法を教えましょう。
まず、B4の大きさの紙に、「神」と言う白抜きの字を大きめにコピーします。その白抜きの字の中に、「ありがとう!」と、心を込めて書いてください。多く書けば、書くほど、波動が上がります。七色を使い、芸術的に書けたら最高です。学びの友が書いた作品が、「光の画集」で紹介されていますので、参考にしてください。
書いていると、心が落ち着きます。サタンに、やられづらくなります。知人や肉親の中に、心の病で苦しんでいる人がいたら、ぜひ、教えてあげてください。良い変化が起きると思います。
白抜きの字は、あなたの好きな字を使ってください。お勧めの字は、「光」、「愛」、「命」、「心」などです。
私たちの肉体は、重く扱いづらく、実に不自由です。だから、人類は、少しでも自由性を高めようと、車や飛行機を発明してきたわけです。でも、そんな乗り物を発明するより、自分が意識体であると気付けば、そく、自由になれるのです。神は、そのことを気付かせるために、今日まで、人類に、三身(位)一体の進化の体験をさせてきたのです。
大昔の人類は、幼かったため、石炭すら扱えませんでした。でも、進化するにしたがい、石炭を扱うことを覚え、石油を扱うことを覚え、ついには、ガスまで扱えるようになったのです。これが、エネルギーの進化です。
石炭は個体で、石油は液体で、ガスは気体です。でも、石炭の中に、油とガスが同居し、三身(位)一体になっているのです。私たちの肉体も同じように、肉体の中に、幽体と意識体が同居し、三身(位)一体になっているのです。幼い内は、肉体を自分だと思っていますので、肉体の生き方しかできません。地球人類の殆どは、今、そのように生きています。でも、進化成長するに従い、幽体に生きるようになり、意識体に生きるようになるのです。
学びの友は、最終段階に入っている魂です。さあ、瞑想し、意識を、カゴ(肉体)から開放しましょう。瞑想して、自分の本性が自覚できたら、意識(魂)は、肉体から離脱して、自由になるのですから・・・。
※ 幸せの基盤になっているのは、自由性です。それゆえに、私たちは、身体を縛られても、思想を縛られても、苦しいのです。人類が「自由! 自由!」と、声高に自由を求めるのは、自分の本性が、自由な意識(魂・心・想念)であることを、本能的に知っているからです。自由性 イコール 幸せです。どうか、原子核を増やし、自由性を高めてください。
※ 一を知ったら、個人間の対立も、人種間の対立も、国家間の対立も、宗教間の対立も、無くなります。一を知れば、自由を知るからです。一は、無限なのです。一つの中には、無限の中には、何の障壁もないのです。それは、区切られていないからです。不自由なのは、区切られているからです。区切られた世界は、不自由なのです。
世の人々は、「迷惑」を悪と考えています。でも、本当に、「迷惑」は、悪でしょうか? 迷惑と言う意味は、「迷わせ惑わせる」と言う意味ですから、字の意味だけ考えたら、たしかに悪いことかも知れません。でも、迷惑をかけられた人は、迷惑から、色々と学び、成長するのですから、悪いことではないのです。だから、人に迷惑をかけて良い、と言っているわけではありません。迷惑を自分の成長につなげて欲しい、と言っているのです。
あなたは、自分を成長させたくて、迷惑をかける人を連れてきたのです。ならば、迷惑をかけてくれた人は、恩人ではありませんか? 実際に、あなたは、これまで、迷惑をかけられたことで、成長してきたではありませんか? これは、主観宇宙の仕組みを知った人なら分かって頂けると思います。
どうか、迷惑を良く受け取ってください。迷惑は、自分を成長させてくれるのですから・・・。
※ 嫌なことをしてくれた人を、嫌っているうちは、未熟です。
嫌なことをしてくれた人に、感謝できるようになったら、成熟です。
実際に、嫌なことを乗り越えたら、原子核が増えるのですから、嫌なことをしてくれた人は、恩人です。
※ 嫌なことをされたのは、あなたが、嫌なことをしていたからです。あなたが、嫌なエネルギーを出していたから、嫌なエネルギーが入ってきたのです。そのことに気付いたら、成長です。迷惑が迷惑でないのは、成長できるからです。
※ エネルギーは、出した分、入るようになっているのです。出しもしないで、余計なエネルギーを貰おうとするのは、欲です。欲のエネルギーは、いつか、必ず、返さなければならなくなります。痛みや苦しみで・・・。
皆さん! この世で起きている、どんなことも、すべて自分の魂の成長のために起きていると思ってください。それは、自分しかいないからです。自分しかいないのに、誰かのために、何かが起きますか? もし、起きるなら、無意味なことが起きていることになり、宇宙を創造した神が、無能になってしまいます。神が創られた完全な宇宙で、そんな無意味なことが起こるはずがありません。では、どうして、自分のために起きるのでしょうか? それは、自分が計画して、自分が起こしているからです。
いつも言うことですが、どうして、相手がいるのですか? 自分がいるからではありませんか? 自分がいなかったら、相手はいないのですよ! 相手がいないどころか、 何も無いし、何も起きないのですよ!
今日までのあなたの人生において、自分抜きの人生ドラマが、一つだってありましたか? 自分の人生ドラマの中には、必ず、自分が入っていたはずです。それは、自分が、自分の人生ドラマの主役だからです。もし、主役の自分が抜けたら(いなくなったら)、途端に、脇役も、舞台も、すべて、消えてしまうのです。
今、あなたは、前方を見ています。前方が見えるのは、あなたの目が、カメラとなり、自分の前を写しているからです。ですから、今日まで、カメラアングルの外れた日は、一日もありません。あなたは、今日まで、一度だって、カメラを回さない日はなかったのです。
あなたは、主役であると同時に、ドラマの原作者であり、演出者であり、監督であり、撮影技師であり、時代考証係であり、小道具係であり、照明係であり、衣装係であり、メイキャップ係だったのです。自分がドラマの筋書きを考え、自分がドラマの舞台を設営し、自分がその舞台の上で演技してきたのです。それは、すべて自分の魂の成長のためです。自分が計画して、自分がやることですから、何一つ、間違いはありません。だから、私は、この世で起きている、どんな出来事も、自分の魂の成長のために起きていると言うのです。
人生の目的は、あくまでも、自分の魂を大きくすることです。
神の自分の目的は、それしかないのです。
※ 下記の宇宙数式を深く理解してください。
この数式は、この宇宙には、自分しか存在せず、しかも、その自分は、永遠に存在し続けると言う数式です。
この数式が腹の底で理解できたら、「どんな事も、すべて自分の進化成長のために起きている!」と思えるようになります。もう、人の責任にすることはなくなります。また、人を、憎んだり、恨んだり、することもなくなります。
今日、何か特別なことが起きたら、なぜ、そのようなことが起きたのか、よく考えてみてください。理由が分かったら、自分が成長できます。例え、理由が分からなくても、必ず、意味があるはずです。 完全な神が、意味のない体験をさせるはずがないからです。
私たちは、相対的体験を通して成長して行くのです。 どうか、神を信じてください。神は、何一つ、無駄な体験をさせないのですから・・・。
※ ある学びの友の言葉
「おもしろいですね・・・
地球人類70億人に質問してみたいです。
「一瞬でも、自分じゃなかった時を体験したことありますか?」って・・・。
自分じゃない状態って・・・どうしたら、創れるでしょうか?????
いや~~すごい!!
自分しかいないですね・・・
自分・・・という状態以外に、何かあるでしょうか?・・・ないですね!!
自分しかいないって・・・こういうことだったのですね。」
人間は、どうして、「ひいきのチーム」を、作りたがるのでしょうか?
それは、自分の鬱憤を晴らしたいからです。
この社会は、「力の強い者が勝ち、力の弱い者が負ける」と言った、動物まがいの弱肉強食の社会です。力の強い者は、良いでしょうが、力の弱い者は、力が弱いからと言って黙って指を加えているわけにはゆきません。そこで、ひいきのチーム(自分の代理人・身代わりの戦士)を作って、相手と戦い、鬱憤を晴らそうとしているわけです。しかし、勝った者は良いでしょうが、負けた者はどうなるでしょう。鬱憤が積もるだけです。これでは、互いに、心(宇宙)を汚してしまいます。
ひいきのチームを作ると言うことは、偏りを作ると言うことですから、宇宙(中庸)の法則によって、しっぺ返しを受けるのは、当然なのです。今、地球人類は、武器をボールに持ち替え、戦争しているようなものです。どちらが勝っても、鬱憤は晴れません。こちらが負ければ、こちらの鬱憤が増し、相手が負ければ、相手の鬱憤が増し、トータル的には変わらないからです。要するに、喧嘩両成敗のようなものです。一日も早く、そのことに気付いてもらいたいものです。
今、地球に、たくさんの醜い絵(戦争・事故災難・病気など)が描かれていますが、これは、何事も、偏っているせいです。偏れば、苦しみが来るのが法則ですから、苦しい絵が描かれるのは、当然なのです。神様は、人類が地球と言う表現世界に、どのような絵を描くのか見ておられるのです。そろそろ、人類も、偏りの過ちに気付き、地球に美しい絵を描きたいものです。
※ 地球人類は、実に好戦的です。それは、動物時代のクセが、まだ、残っているからです。でも、それは、真理を深く知れば、取り除けるクセなのです。つまり、自分の本性が、意識であり、生命であり、神であり、一つのモノであることを、心の底で知れば、自他の溝が埋まるため、好戦的な人から、平和的な人に変わるのです。さあ、原子核を増やし、動物時代のクセを取りましょう!
私は、今まで、必要以上に現象を嫌ってきたように思います。それは、現象に惑わされ、人生の目的を見失っている人たちが、あまりにも多いからです。でも、私は、それで良いことに気付かされたのです。
V字の左側にいる幼い魂は、全く、神に顔を向けません。彼らは、肉体維持のために、毎日、物やお金集めに躍起になっています。でも、彼らも、必ず、V字の右側に進化して来るのです。なぜ、神に顔を向けない魂が進化するのか? それは、物質的な生き方をしても(現象に生きても)、原子核が増える仕組になっているからです。
私は、良く言います。“原因を良くしなければ、結果は良くなりませんよ!” と・・・つまり、“どんなに川下でゴミ拾いしても、川は綺麗になりませんよ!” と・・・確かに、人の心(魂)を成長させなくては、根本的解決にはなりません。でも、よく考えてみてください。原因と結果は、離れていないのです。離れていないと言うことは、互いに影響しあっていると言うことです。と言うことは、結果をいじって、原因に影響を与えることができると言うことです。それは、結果の中に、原因があるからです。つまり、描かれた絵の中に、画家の思いがあるからです。だから、絵を見て、画家の思いを汲み取れた人は、感動するのです。これは、汗水流してゴミ拾いしている人たちの姿を見たら、ゴミを捨てている人の心に影響を与えられるのと同じです。真剣に平和を叫んでデモしている人たちの姿を見たら、好戦的な人たちの心に影響を与えられるのと同じです。私が「人類の夜明3」の書を手書きして欲しいと願っているのも、同じ可能性を信じてのことです。
結果は、結果だけで終わっていないのです。文字は、文字だけで終わっていないのです。文字(結果)の中に、原因者の思いがあるのです。その思いは、文字を書くことで汲み取ることができるのです。言葉は、神の思いが、響き(音)として、形に現れたものです。同様に、文字も、神の思いが、形として現れたものです。つまり、「身・・・行為」と「口・・・言葉」と「意・・・思い」は、一つなのです。一つゆえに、文字から、思いを汲み取ることができるのです。
この物質世界も、幽界も、神の思いが、形として現れた夢幻の世界です。でも、今、私たちは、その夢幻の世界で学んで、目覚めようとしているではありませんか? 実際に、目覚めた先輩たちが、沢山いるのです。それは、結果で原因を変えられた、と言う証拠です。もし、夢幻の世界から、何も学べないなら、私たちは、永久に目覚めることはできないでしょう。と言うことは、V字の左側にいる幼い魂は、永遠に、V字の右側に来られないと言うことです。そんな、無慈悲な宇宙を、神が創られるわけありません。ですから、文字も、言葉も、単なる文字や言葉ではないのです。つまり、現象は、単なる現象ではないのです。神は、現象世界(結果の世界)からでも、成長できるようにしてくれているのです。だから、私は、現象を軽んじてはならないと言うのです。
だからと言って、皆さんに、ゴミを拾いに行きなさい!、デモをしに行きなさい!、とは言いません。そんな時間があるなら、原因を良くすることに、時間を使ってください。つまり、瞑想して、原子核を増やすことに、時間を使ってください。客観的見方しかできない一般人は、外側に生きても(川下でゴミを拾ったり、デモをしたりしても)、仕方ありませんが、主観的見方ができるようになった、皆さんは、内側に生きるべきです。つまり、瞑想して、原子核を増やすべきです。それが、熟した魂の生き方です。
※ 現象の世界(結果の世界)は、意識の世界(原因の世界)を、知るための教室ですから、学び終えたら、直ちに、上の学年に進むべきです。懐かしがっていては、留年してしまいます。
※ 夢から目覚めたと思っても・・それは、夢です。
その夢から目覚めたと思っても・・それも、また、夢です。
また、その夢から目覚めたと思っても、それも、また、また、夢です。
私たちは、永遠に夢を見続けてゆくのです。でも、これは、喜ぶべきことなのです。なぜなら、その夢は、苦しみ多い夢から、楽しみ多い夢に変わってゆく、夢だからです。それが、進化です。
世の人々は、悩み多い人生を送っていますが、この世は、夢幻の世界なのですよ! あなたに、起きている、どんな出来事も、時間がくれば、事情が変わってしまうのです。もし、今、あなたに、死にたいほどの悩み事があるなら、そんな、悩み事など、笑い飛ばしてしまいなさい! どうせ、夢幻なのですから・・・。
そうです。この世は、あなたが、悩むほど、価値のある世界では無いのです。それよりも、せっかく、夢幻の世界に出てきたのですから、楽しんでください。あなたは、”今夜は、楽しい夢を見よう!”、と思って、床についたことはありませんか? 日々の人生も、そうしたら良いのです。ただし、夢を真剣に楽しんではなりません。真剣に楽しんでは、ミイラ取りが、ミイラになってしまいます。夢幻だと、自覚した上で、楽しんでください。
考えてみると、神は、実に、うまい方法で、私たちを目覚めさそうとしています。夢の中で、真理の勉強をさせ、目覚めさそうとしているのですからね。これは、神ならでの見事な覚醒法です。実に、ありがたいことです。
※ 例え、あなたに、罪深い過去があったとしても、それは、真理に目覚めるために必要な過去だったのです。罪を犯さない人など、一人もいないのです。自分を責めないでください。どんな苦しい過去も、みな、自分の成長に必要だったのですから・・・。
※ 自分の思い通りに生きてください。それが、必然であり、良いことなのですから・・・。その証拠に、今日まで、自分の思い通りに生きてきて、真理に、つながったではありませんか? これからも、そのように生きたら良いのです。ただし、社会体験と瞑想だけは、やってください。それをやらなくては、本末転倒になってしまいます。
神には、姿形がありません。それでは、どんなに偉大な神でも、存在していないのと同じです。そこで、神は、人間を自分の分身として、この世に送り、自分の存在を明かそうと考えたのです。ですから、人間は、神の代弁代行役を果たす使命があるのです。でも、多くの人間は、神に顔を向けようとしません。ですから、神は、使いたくても、使えないのです。でも、皆さんは、違います。いつも、神に顔を向けています。ですから、“私を、世のため、人のために、お使いください!” と、真剣に祈れば、神は、喜んで使ってくれるのです。
神の意図は、人類に、理想の世を創ってもらうことです。そのためには、地球に、真理を根付かせねばなりません。皆さんは、その先駆けとして地球に送られた魂です。でも、使命を果たすには、まず、皆さんが、成長しなくてはなりません。それには、瞑想が必要なわけですが、瞑想は、なかなか難しく、時間もかかります。そこで、神は、「身・口・意」を利用して、魂を大きくしようと考えたのです。この方法なら、即効性があり、具体性もありますから、真理を知った者なら誰でもできます。
「身」とは、行為です。「口」とは、言葉です。「意」とは、想いです。想いは、見えませんが、口と行為によって、見える状態にできるのです。つまり、神(天)の意を、言葉と手書を通して、地に降ろせるのです。実際に、私は、勉強会で、お話することで、降ろしています。また、今週の真言や、更新集や、本で、降ろしています。それを、皆さんにも、やって頂きたいのです。
どうか、私の本を、手書きしてください。間違いなく、神(天)の意を降ろすことができます。それは、書いて気持ちが良くなることで証明できます。気持ちの良い状態・・・それが、神(天)に使われている状態なのです。
※ 真理を手書きしている時、あなたは、罪滅ぼしをしているのです。
瞑想している時、あなたは、罪滅ぼしをしているのです。
この二つを、やっている時、あなたは、日本に、地球に、「光」を降ろしているのです。
この世には、「背信」という言葉がありますが、この「背信」の文字は、本当は、「背神」と書くべきなのです。神を信じない人、あるいは、神に背いている人を、背神というのです。
あなたは、過去に、神に背いて生きた時代があったかも知れません。でも、自分を責めてはなりません。なぜなら、背神によって、痛い目に遭い、成長できたからです。大切なのは、自分を責めることではなく、神を真剣に求め、自分を成長させることです。今、神を真剣に求めたら、昔の背神の罪は、すべて許されるのです。過去を悔やむことほど、愚かなことはありません。どうか、今、真剣に神を求める、賢い人になってください。背神は、決して悪いことではないのですから・・・。
※ 世の人々は、自業自得を、悪と決めつけていますが、自業自得は、決して悪いことではないのです。なぜなら、自分が作った業で、苦しい目に遭い、気づいて、自分が成長できるからです。たしかに、苦しい部分だけ見たら、悪のように見えるかも知れません。でも、この宇宙は、表裏を体験して成長するようできているのです。神は、完全です。その完全な神が、自業自得を、悪にしておくはずがありません。信じてもらうために、自業自得の正しい意味を教えましょう。
漢字辞典では、自業自得とは、自分で作った「業」で、自分が苦しむ、と言う解釈をしています。でも、これは、誤りです。本当は、自分で作った「業」で、自分が得をする、と言う意味なのです。実際に、私たちは、苦しむことによって、得(成長)しているではありませんか。だから、自業自得は、良いことなのです。
老いることを、憂いている人に、死ぬことを、恐れている人に、私は、言いたいと思います。老いることは、良いことだ、死ぬことは、良いことだと・・・。
どうでしょう? カゴの中の鳥は、幸せですか? 苦しいのではありませんか? 私たちは、カゴの中の鳥のように、不自由な肉体の中に、何十年間も、閉じ込められ、生きてきたのです。老いると言うことは、死ぬと言うことは、その肉体から開放され、自由になると言うことです。どうか、老いることを、死ぬことを、恐れないでください。むしろ、喜んでください。だからと言って、自殺はしないでください。なぜなら、計画を途中放棄して帰ることになるからです。それでは、生まれてきた意味がありません。どうか、計画を全うして帰ってください。計画を全うして帰るとは、寿命が来る日まで、自分の思い通りに生きなさい、と言う意味です。ただし、真理を学んでいる、皆さんは、二つのことは、やってください。
年のはじめに、「おめでとうございます!」と言うのは、帰る日が近づいて、「おめでたい!」と言う意味です。どうか、老いることを、死ぬことを、悪いことだと思わないでください。
神には、姿形がありませんので、自分の存在を明かすことができません。存在を明かすためには、何らかの方法で、明かさねばならないわけですが、手っ取り早い明かし方が、思いです。でも、思いも見えませんから、明かすことはできません。そこで、神は、存在を明かす手段として、言葉を編み出したのです。これが、「言葉は神なりき!」と言われる由縁です。言葉は、神を明かす、一番端的な表現道具なのです。
今の地球は、情報真っ盛りの時代ですが、それは、情報が多くなれば、言葉の使い方が勉強できるからです。でも、魂が成熟してゆくと、あまり、情報は、必要なくなります。だから、熟成した星では、言葉が少なくなってゆくのです。その証に、学びの友は、大分、言葉が少なくなっているはずです。では、ここで、正しい言葉の使い方を、真理に照らして、考えて見ることにしましょう。
今、必要なことだけ話すことです。余計なことを話せば、余計な言葉が返ってきます。そうなれば、トラブルも多くなります。また、言葉が多くなれば、連想が多くなるので、雑念も多くなります。これは、瞑想する者にとって、大敵です。
心が満たされないから、言葉が多くなるのです。つまり、心が寂しいから、言葉が多くなるのです。どうか、心の寂しさを、神で満たしてください。心が満たされれば、余計なことを話さなくなります。
見える結果体は、幻です。でも、私たちにとっては、見える幻は、とても大切なのです。もし、幻(結果)が見えなければ、原因追求しようと思いませんから、反省もしないし、悪いところも直そうとしないでしょう。それでは、また、同じ悪いこと(悪い結果を招く)をしてしまいます。交通事故を起こしても、結果が見えなくては、原因追求しようと思わないでしょうから、また、同じ、交通事故を起こしてしまうと言うことです。
写真が、ありがたいのは、起きたこと(結果)の良し悪しが、目で見られるからです。この表現世界は、 写真のようなものなのです。(実際に無い、結果の世界は、写真で撮れるが、実際に有る、原因の世界は、写真で撮れない。)
見えない原因の良し悪しは、見える結果になって、初めて分かるのです。だから、見える結果は、成長するためには、とても大切なのです。
原因と結果の関係は、自我と真我との関係に、当てはめてみると良く解ります。
自我の自分は、結果の自分です。真我の自分は、原因の自分です。
真我(原因)の自分だけでは、「自分」の存在は無いのです。
勿論、結果の自分だけでも、「自分」の存在はありません。
それでは、「自分」が存在していないのと同じです。
自我(結果)の自分が、真我(原因)の自分を認め、はじめて、「自分」を存在させることができるのです。
そう考えると、自我(結果)の自分の存在が、何と有難いことか・・・・それが、どんなに嫌な自我(結果)の自分だろうが、感謝しなくてはなりません。
自我(結果)の自分を愛している人は、真我(原因)の自分を愛しているのです。
真我(原因)の自分を愛している人は、自我(結果)の自分を愛しているのです。
愛するとは、意識することなのです。愛するとは、想うことなのです。
自我(結果)が、真我(原因)を意識し、真我(原因)が、自我(結果)を意識することが、「自分」を愛することになるのです。これが、「自分が自分を愛するよう仕向けた」自己完結型宇宙の素晴らしい仕組みなのです。
ここで言っている、「自分」とは、本当の自分のこと・・・つまり、神人の「自分」のことです。
学んでいる皆さんの中に、昔の幼い自我の思いでやったことを、悔やんでいる人がいるようですが、そんな過去のことで、悔やまないでください。
私たちは、時間の中にいるのですから、刻々と成長しているのです。ましてや、真理を学んでいる皆さんは、瞑想をしているわけですから、今の自我の思いは、昔の自我の思いに比べたら、格段の差で高度になっているのです。
確かに、過去、幼い思いによって、苦しい体験をしたかも知れません。でも、その苦しい体験が、真理に顔を向けさせたのですから、それは、良かったのです。
過去のことを悔やんで、自分の宇宙を汚すことほど、大損なことはありません。どうか、そんな愚かなことはしないでください。私だって、幼い時には、くだらない思いを持ち、くだらないことをしたのです。でも、それで、今の自分に成長できたのですから、くだらないことを、やったことは、無駄ではなかったのです。神は、完全です。その完全な神が、私たちに、無駄なことをさせるわけがないのです。
あなたが、過去に置いた黒石は、今、真理を学んでいることで、すべて、白石に変わったのです。大切なのは、過去を悔やむことではなく、今の今を真実に生きることです。
※ 過去を悔やんでいる人たちは、苦しみを作っています。また、未来を憂いている人たちも、苦しみを作っています。今の今、真実に生きている人たちだけが、幸せを創っているのです。ですから、今の今に生きている人は、生き人です。過去や未来に生きている人は、死に人です。
世の中には、不幸災難に見舞われ、苦しんでいる人たちが大勢おります。確かに、見た目には、可愛そうに見えるでしょう。でも、不幸災難は、決して悪いことではないのです。このことは、真理を学んでいる人の前で言えることで、一般人の前で言ったら怒られますので、気を付けてください。では、なぜ、不幸災難が悪いことではないのか? 少し難しいかも知れませんが、理由を述べたいと思います。
私たちの本性は、肉体ではありません。形ではありません。人間ではありません。永遠に生き通す、意識です。生命です。魂です。このことを前提に読んでください。
なぜ、何か(不幸災難)が起きたのでしょうか? それは、意識させる必要があったから、起きたのです。と言うことは、意識されないところで、何かが起きることは、絶対あり得ないと言うことです。この点に、注目してください。
仮に、意識しないところで、何か(不幸災難)が、起きたとしましょう。では、それは、誰のために、何のために、起きたのでしょうか? 意識しないところで起きたことに、意味があるでしょうか? また、意識しないところで起きたことは、起きたことになるでしょうか? それは、例え、起きていても、起きていないのと同じではありませんか? 認める意識者がいなければ、認められる何かが、起きようがないのですよ! と言うことは、人のいないところ(意識しない所)で、何か(不幸災難)が、起きることは、絶対あり得ないと言うことです。と言うことは、意識の前で起きたことは、すべて、意味のある必然だと言うことになります。これは、起きたことの意味を受け取ってもらいたくて、意識の前で起きたのですから、当然です。では、起きたことに、どんな意味があるのでしょうか? それは、意識に、疑問を持ってもらいたくて起きた、と言う意味です。では、意識に、どんな疑問を持ってもらいたいのでしょうか?
今、私たちの前で、刻々と何かが起きています。その起きたことを、私たちは、今、意識しています。その意識は、なぜ、こんな事が起きたのかと疑問を持ちます。疑問を持てば、疑問の謎を解こうと追求するでしょうから、疑問の謎が解けます。謎が解ければ、進化成長できます。このように、私たちは、進化成長するために、意識させられているのです。と言うことは、起きたことは、すべて、必然だと言うことになります。起きたことに意味(目的)がなかったら、偶然ですが、意味(目的)があって起きたのですから、必然なのは、当然でしょう。
起きた、苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、すべて、進化成長に必要な必然です。だから、不幸災難は悪いことではない! と、私は言うのです。今まで、私たちは、沢山の不幸災難に遭って、進化成長してきたのです。
※ どうして、意識の前でしか起きないのでしょうか? それは、意識されて、はじめて、起きたことになるからです。意識されなくては、起きていても、起きていないのです。起きたのは、意識が存在していたからです。その起きたことは、意識に、何らかの影響(疑念・不審・疑惑・疑問・訝しさ)を与えるのです。影響を与えると言うことは、意味があったと言うことです。では、どんな意味があったのでしょうか? それは、影響を受けた意識は、すべて、進化成長して行く、と言う意味です。疑問や疑念を持った意識は、疑問の謎解きをするので、必ず、進化成長するのです。
神は、地球に光を降ろしたくて、降ろしたくて、常に媒体を探しています。でも、地球人類は、一向に、神に顔を向けようとしません。これでは、光を降ろしたくても、降ろせないのです。どうか、学んでいる皆さんだけでも、媒体になってやってください。そのためには、神に意識を向けることです。神に意識を向けるとは、プラグをコンセントに差し込むこと、つまり、瞑想することです。神は、電気ですから、プラグを差し込んだ途端に、電流が流れ、電球である、私たちは、光りだすのです。
真理を手書きすることも、プラグをコンセントに差し込むことの一つです。真理を手書きしている時は、天の光を地に降ろしている状態なのです。
どうか、瞑想してください。どうか、真理を手書きしてください。神は、喜んで光を降ろしてくれるでしょう。
※ 神に会いたかったら、「私を、世のため、人のために、お使いください!」と、祈ってください。神は、喜んで使ってくれるでしょう。使ってくれると言う意味は、神に会えるという意味です。皆さんが、神の媒体になっている時は、神に会えている状態なのです。その時、細胞が震えます。自分が光り出します。気持ちが良くなります。
神様の願いは、すべての存在物を、永遠に尽きない、永遠に色あせない、幸せの中に連れて行くことです。では、どのような方法で連れて行ってくれるのでしょうか? それは、体験です。体験すれば、原子核が増えます。原子核が増えれば、進化成長します。進化成長すれば、自然と真の幸せの中に連れて行ってくれるのです。体験は、宝なのです。
例えば、日々、やっている、子育ても、介護も、家事も、仕事も、スポーツも、芸術も、音楽も、学業も、みな、進化成長させてくれます。鳥の糞が頭に落ちてきたことも、犬に吠えられたことも、蚊に刺されたことも、足をくじいたことも、電車が遅れたことも、みな、進化成長させてくれます。痛いことも、痒いことも、寒いことも、暑いことも、みな、進化成長させてくれます。当然、地震も、台風も、雷も、病気も、事件事故も、進化成長させてくれます。一見、関係なさそうな、カエルが鳴くことや、セミが鳴くことや、蜂の巣を作ることや、蜘蛛の巣を作ることも、「風が吹いたら桶屋が儲かる!」の譬えで、みな、進化成長させてくれます。この地球で、この社会で、体験したことのすべてが、原子核を増やしてくれるのです。体験は、幸せに近づく原理なのです。この原理が信じられたら、どんな、苦しいことも、辛いことも、喜んで受け入れられるようになるでしょう。
これまで、体験したことを、一つひとつ紐解いてみてください。良い体験も、悪い体験も、みな、進化成長に結びついているはずです。私が、すべて良し、すべて善し、すべて好し、と言うのは、どんな体験も、進化成長させてくれるからです。これは、一般人には、理解できなくても、学んでいる皆さんなら、理解できると思います。どうか、体験は、宝であることを信じてください。信じられたら、どんな体験も、ありがたくて、ありがたくて、仕方なくなります。
※ なぜ、必然には、意味があるのでしょうか? それは、目的を持っているからです。どんな目的を持っているのか? それは、進化成長させる、と言う目的です。だから、必然で固められている、この宇宙では、どんなモノも、進化成長して行けるのです。
私たちは、常々、光の恩恵を受けています。光がなければ、何も見えません。何も育ちません。何も行動できません。それよりも、何よりも、心が楽しくないのです。光ほど、有り難いものはないのです。では、光って、何でしょうか? 光は、どこから生まれてくるのでしょうか?
光は、意識なのです。光が感じられるのは、意識が光だからです。意識がなくては、光は無いのです。意識 = 光 なのです。その意識は、神ですから、光は、神なのです。この宇宙は、その神の光(意識)で満ち溢れているのです。その光の性質は、楽しいのです。嬉しいのです。喜びいっぱいなのです。光に満たされると、幸福な気分になるのは、光の性質が楽しくできているからです。
「笑う門には福来たる!」と言う諺がありますが、これは、光の性質から言って、当然のことなのです。笑い声の絶えない家(門)には、福がやってくるのです。なぜ、笑えば福がやってくるかと言いますと、笑いが、光を呼び寄せるからです。その笑いは、苦しい心からは、生まれません。楽しい心から、生まれるのです。では、心を楽しくするには、どうすれば、良いのでしょうか?
この他にも、心を楽しくする方法はありますが、それは、皆さんが考えてください。
どうか、神を想ってください。良いことを想ってください。光をイメージして(想って)ください。原子核が増え、同時に、福もやって来ます。
※ 心が曲がると、口も曲がるし、技も曲がるし、ボールも曲がるし、作った野菜も曲がるし、世話した花や木も曲がるし、飼っている犬も凶暴になるのです。すべて、心次第です。
心を上手に使ってください。上手に使えば、必ず、福がやってきます。
この表現宇宙に、「元々、このような姿の宇宙がある!」と言った、宇宙が存在するわけではないのです。人類の理解力に比例して、生み出された、宇宙があるだけです。もし、この表現宇宙に、元々、このような姿の宇宙があったなら、結果が、先にあったことになり、宇宙は、無茶苦茶になってしまいます。
あったから、創られたのではなく、創ったから、あったのです。
この表現宇宙には、人類の理解力に比例して、美しくなって行く(高度になって行く)、宇宙があるだけです。人類の理解力は、時々刻々と、進化成長して行くわけですから、表現宇宙も、時々刻々と、進化成長して、美しくなって行くのです。人類の理解力の成長に、限りがありませんから、表現宇宙も、限りなく、美しくなって行けるわけです。
この地球に、元々、醜いモノや、美しいモノが、あったわけではないのです。人類の理解力が、醜いモノや、美しいモノを、作っただけです。確かに、今の地球人類は、美しいモノより、醜いモノを、多く作っています。でも、どんなに醜いモノを多く作ろうと、それは、間違いではないのです。ただ、地球人類は、今の理解力によって、精いっぱいのモノを作っているだけです。
この地球に、間違いも、失敗も、悪も、ありません。理解力の乏しい、幼い魂が、存在するだけです。それは、間違いでも、失敗でも、悪でも、ないのです。魂が成長して行けば、自然と美しい地球を創るようになるのです。どんな優秀な画家も、未熟な時代には、醜い絵を描くものです。でも、勉強して、技を身につければ、美しい絵を描くようになるのです。地球人類も、同じです。途中の醜い絵を見て、間違いだ!、 失敗だ! 、悪だ!、 と、言わないでください。なぜ、クドクド言うのかと言いますと、元々、何かがあったのではなく、人類の理解力が、何かを創っていることを知って欲しいからです。
※ あなたの人生も、同じです。元々、苦しい人生があったわけではないのです。理解力の幼さが、想念を苦しいことに使い、苦しい人生を作っただけです。学んで、理解力を高めれば、良い人生を作ることができるのです。
※ 良い宇宙を創るのも、良い人生を作るのも、すべて、私たちの理解力です。
※ 宇宙が、無限なのは、人類の理解力が、無限だからです。
病を消す、業を消す、こんな簡単な方法があったのです。
【病を消す】
今、出ている症状(痒い・痛い・苦しい状態)は、病気が消えて行っている状態ですから、放っておいたら、病気は治るのです。ただ、また掴むから、治らないだけです。神様は、この宇宙に、「原因と結果の法則」と言う、素晴らしい仕組みを作ってくださいました。その仕組は、宇宙(白板)に書いた字や絵は、放って置いたら、自然に消えて行くと言う仕組みです。つまり、作った原因は、結果として現象化(痛い・苦しい)されますが、放って置いたら、現象(痛い・苦しい)は、消えてしまうのです。この法則があるから、私たちは、救われるのです。でも、私たちは、痛い、苦しいが、やってきたら、心配したり、恐れたり、悩んだりします。だから、治らないのです。例え、痛い、苦しいが、やってきても、「今、病気が消えていっている! 消えていっている! ありがたいことだ! ありがたいことだ!」と思えば、原因を作らないわけですから、病気は、治るのです。
【業を消す】
過去世の業を消すのも同じです。例え、今、苦しいことが起きていても、「ああ、今、過去生の業が消えて行っている! 今、過去生の業が消えて行っている! ありがとうございます! ありがとうございます!」と、思ってください。それも、苦しいことが来るたびに、「今、過去生の業が消えて行っている! 今、過去生の業が消えて行っている! ありがとうございます! ありがとうございます!」と、思ってください。そう思っている時は、悪い想いは持てませんから、業の上乗せをしないで済むのです。同時に、二つ思えないのが想念の性質ですから、その性質を利用することです。
さあ、いつも、「ありがとう」とか、「嬉しい」とか、「楽しい」とか、良い思いを持ってください。その時、悪い思いは、持てないのですから、段々と、悪いことは、起きなくなるのです。 一番良い思いは、神を想うことです。
難しい技術は、要りません。いかに、悪い想念を持たないようにするか、だけです。そのためには、常に、良い想念を持つよう、心がけることです。
※ 痛み、苦しみを、半減させる、二つの方法があります。
※ 一番大切なのは、自分の原子核(魂)を大きくすることです。病気も、業も、魂を大きくするために必要な方弁ですから、魂が大きくなれば、病気も、業も、消えてゆくしかないのです。どうか、二つのことを、やってください。
※ 肉体(この世の現象)が、自分で悪くなることはありません。肉体には、何の力もないからです。肉体が、病気を作ると思えば、心配しますが、想念が、病気を作ると思えば、嬉しくなります。なぜなら、自分の想念で、病気が治せると思うからです。想念は、自由に使えます。どうか、想念を良く使って、病気を治してください。想念の持ち主である、あなたが、あなたの主治医なのです。
※ ひどい外傷を負ったときには、やはり、病院には、行かねばなりません。でも、少々の傷なら、気にせず、放って置いたら、生命力が治してくれます。どこまで、生命力に任せるかは、中庸の学びです。
あなたの前で、何かが起きた! それは、誰のために、起きたのですか?、何のために、起きたのですか? それは、自分の進化成長のために、起きたのではありませんか?
自分の意識の前で起きたことは、すべて、自分の進化成長のために起きた必然なのです。未だかって、自分の意識以外の前で、何かが起きたことはないのです。自分の意識の前でしか起きようがないのは、自分が認識して、はじめて、起きるからです。それは、自分が主観の主(創造主)だからです。
だから、起こっているのじゃない! 自分が起こしているのです。
見せられているのじゃない! 自分が見せているのです。
私が嬉しいのは、どんなことも、私(自分)の進化成長のために起きている、と言う、必然です。
※ 宇宙も、地球も、社会も、家族も、恋人も、私(自分)の進化成長のために、存在し、私(自分)の進化成長のために、生まれてきたのです。こんな嬉しいことがありましょうか・・・。
神は、全能です。その神が、私たちの中に、おられるのですから、絶対、ごまかしが効かないのです。神は、あなたが、何を思っているのか、何をやりたいのか、すべて、ご存知なのです。
私たちは、何のために生まれてきたのでしょうか? お金や、物や、権力を、得るためですか? あるいは、この世の楽しみを、謳歌するためですか? 魂を大きくするためではありませんか? 今、あなたは、日々、何のために生きていますか?
真理を学んでいるのに、なぜ、苦しいことが、来るのか? 苦しんでいる人は、考えてみてください。神に真剣に顔を向けていないからではありませんか? つまり、片手間で、真理を求めているからではありませんか? 今のあなたの苦しみは、”真剣に真理を求めなさい!” と言う、警告なのです。神は、成熟した魂のあなたに、それほど、厳しい、真理の求め方を望んでいるのです。今、幸せな人生を歩んでいるからと言って、怠けていたら、必ず、しっぺ返しが来ます。その時、泣きを見ないためにも、真剣に真理を求めましょう!
どうか、神が望んでいる「真剣さ」に、気づいてください。真剣に真理を求めているか、どうかは、神なる、あなたが、一番良く知っているのですから・・・。
さあ、”私は、今日、只今から、真剣に真理を求めます!” と、一大決心してください。もう、あなたの行く先に、石や岩は、置かれないでしょう。
※ 「真理も、やりたいが、この世の楽しみも、謳歌したい!」と、思っている人は、リスクを覚悟でやってください。
「楽あれば、苦あり」です。必ず、リスクを背負うようになっているのが、宇宙の仕組みです。
だからと言って、「楽しんでならない!」と言っているわけではありません。中庸を守りながら、楽しんでください、と言っているのです。
最近、家に閉じこもっている人が多くなっているようですが、彼らの想っている事と言えば、心配、恐怖、憂い、取越苦労、怒り、恨み、憎みなど、殆ど、悪い想いばかりです。何もしないで家にいれば、想う事と言えば、そんな悪い事ばかりなのです。悪いことを想えば、周りの悪い波動が同調してきますので、悪い波動に憑依され、精神的にも、肉体的にも、不健康になるのです。ですから、家に閉じこもっている人で、健康的な人は、一人もおりません。外で働いている人は、家に閉じこもっている人より、ネガティブな思いを持ちませんので、精神的にも、肉体的にも、健康なのです。ただし、外で働いている人も、いつも、暗い思いを持っていたら、家に閉じこもっている人と同じになります。
健全な精神と肉体を保つには、明るい思いを持つことです。想念は、何でも実現させる偉大な力を持っているのです。賢い人は、その想念を良いことに使って、幸せになり、愚かな人は、その想念を悪いことに使って、不幸せになっているのです。それは、すべて、想念の持ち方次第なのです。
念仏行を勧めている宗教がありますが、これには、一理あるのです。例えば、普段は、悪いことばかり想っている人も、「波阿弥陀!」とか「何無妙法蓮華経!」の題目を唱えている時は、悪いことは想えません。悪いことを想わなければ、悪い原因(悪い業)を作らないわけですから、良い人生になるのです。これは、題目の文言に、神秘力があるのではなく、唱えている時は、悪いことを想えない(業を作らない)からです。その意味では、「ありがとう!」でも、「嬉しいな!」でも、「楽しいな!」でも、良い想いなら、何でも良いのです。
私が、神を想いなさい、と言うのも、神を思っている時は、悪い想いが持てないからです。特に、学びの友は、神の概念が、深く、厚く、大きくなっていますから、神を想えば、原子核が増え、かつ、業を作らない、と言う、二重の功徳が得られるのです。
人生を良くするも、悪くするも、想念次第です。もし、地球人類が、良い想念ばかり、出すようになったら、そく、地球は、理想社会になるでしょう。私は、このことを、全人類に訴えたいのです。
「幸せになるのに、何もする必要はない! ただ、想念を正しく使えば良いだけであると・・・」
これは、宗教でも、何でもありません。良いことを想えば、良いことが返ってくる。悪いことを想えば、悪いことが返ってくる。これは、「原因と結果の法則」ですから、科学です。それは、想念が、やっているのです。だから、私は、想念の偉大さを、教育の場で教えて欲しい、と願うのです。そうすれば、もう、犯罪防止に、お金をかける必要も、防衛費に、お金をかける必要も、医療費に、お金をかける必要もありません。嘘だと思うなら、まずは、やってみることです。やって、ダメでも、元々ではありませんか? これは、誰にも迷惑はかからないのですから・・。何も損することがないのですから・・・。
※ 地球環境の悪化は、人類の心(想念)の反映です。
社会環境の悪化は、人の心(想念)の反映です。
家庭環境の悪化は、家族の心(想念)の反映です。
競技成績の悪化は、アスリートの心(想念)の反映です。
事故・災難・病気の増加は、人の心(想念)の反映です。
気をつけたいものです。
※ 世の乱れを嘆く必要はありません。自分が成長したら、そんな、厭なものは、見なくなるのですから・・・。厭なものを、見なくなる、と言う意味には、2つの意味があります。
神は、私たちを、五感(目・耳・舌・鼻・肌)の誘惑によって、進化成長させようとしています。中でも、厄介な誘惑は、舌と肌です。舌と肌は、欲望を掻き立て、私たちを、真理から離れさそうとします。この欲望に勝つのは、容易なことではありません。多くの求道者が、真理から離れて行くのは、五感の惑わしに負けたからです。
神様は、意地悪な、お方で、カツオブシを目の前において、私たちを、惑わそうとしているのです。でも、この惑わしに勝ったら、大きく成長できるのですから、神様を意地悪な方だと思わないでください。反対に、私たちを、成長させるためにしてくれている、と思って、感謝してください。
五感の誘惑によって、欲望が湧いてくる、悪意が湧いてくる、この悪しき想いを、好敵手だと思ってください。また、誘惑する肉体(五感)も、好敵手だと思ってください。好敵手が、強ければ、強いほど、私たちは、大きく成長できます。ぜひ、好敵手に勝って、原子核を増やしてください。
※ 耳を貸さない人に、真理を伝えることはできません。また、嫌がる人を、真理に誘うこともできません。でも、そんな人たちも、いつか、必ず、真理に目覚める時がやってきます。その時のために、私は、真理の明かりを、灯し続けたいと思います。
皆さんは、人間ではありません。形の中で生きて働いている、生命(意識)です。その生命(意識)が、肉体を自分と思い違いすることで、人間と言う、想いグセを付けてしまったのです。この思いグセのことを、業と言っているのです。
私たちは、何万転生も、人間をやってきたために、人間の業をつけてしまったのです。コマーシャル漬けになっていると、コマーシャルの言葉が、自然と浮かんでくるように、人間漬けになっていると、人間グセがついてしまうのです。このクセを取るには、想念を利用することです。つまり、何度も、何度も、反対の想念を持つことです。反対の想念とは、生命の自分の想いのこと(マントラの想いのこと)です。
神様は、私たちに、偉大な想念を与えてくださいました。この想念を、どう使うかで、幸せにも、不幸せにもなるのです。何も難しいことはありません。ただ、どのような想念を持って、日々、生きるかだけです。それは、自分の自由意志で、できることなのです。
※ 瞑想は、悪い思いグセを取る、一番の方法です。それは、ただ、生命(皆さんのマントラ)を想い続けるだけです。さあ、瞑想して、人間グセを取ってください。
※ 想念を悪用すれば、地獄、想念を善用すれば、天国、それは、自分次第です。
※ 学びの友の中に、悪想念を無くそうと、苦労している人がおりますが、意識して、無くそうと、思わなくても良いのです。原子核が増えれば、自然と、悪想念が持てなくなるのですから・・・。それは、神の性質に、近づいたからです。
人生は、すべて自分の想いの作品です。今日までの人生は、みな、自分の想いで作ってきたのです。学校に入ったのも、会社に就職したのも、自動車を買ったのも、結婚したのも、みな、自分の想念でやってきたのです。と言うことは、想わなければ、何も起きない、何も生まれない、つまり、何の作品も作られないと言うことです。では、本当に、そうなのか、実検してみましょう。
クシャミや、アクビや、オナラが出そうになった時、あるいは、痒みや、痛みなどが起きた時、あるいは、嫌な思いが湧いてきた時、”想わない! 想わない! 想わない!”、と思ってください。消えて行きます。“消えてゆく! 消えてゆく! 消えてゆく!“、と思っても消えて行きます。初めは、効果が分からないかも知れませんが、コツが掴めたら、ハッキリと分かります。
あなたの思いは、どんなことにもに効果があるのです。それも、想いの力が、強ければ、強いほど、効果が大きくなります。それは、神と同じ想念を持っているからです。想念は、実現の力です。もし、身体に何か起きたら、あるいは、嫌な思いが湧いてきたら、”想わない! 想わない! 想わない! ”、あるいは、“消えてゆく! 消えてゆく! 消えてゆく! ”、と思ってください。消えてゆきます。どうか、試してみてください。
「何も想わなければ、何も生まれない! 想ったら、何でも生まれる」、この想念力の凄さを、身近で感じてもらいたくて、このようなことを書いたのです。どうか、想念力を信じ、瞑想してください。必ず、神の自覚が得られます。
※ 人の言う事を、気にしたら、有ることになり、気にしなかったら、無いことになります。それは、気にした自分の思いが、作ってしまうからです。
人間は、悪いことを思いがちです。ですから、この世には、沢山の苦しみがあるのです。でも、この苦しみは、悪いことではないのです。理由は、こうです。
人間は、過去世の業を背負って生きていますから、何かと言うと、すぐ、悪いことを思ってしまいます。悪いことを思うと、当然、苦しみがやってきます。でも、苦しみがくれば、原因を追求し、悪い所を直しますので、成長します。でも、また、悪いことを思うので、また、苦しみがやってきます。苦しければ、原因を追求し、悪い所を直しますので、また、成長します。(悪いことを思った時は、黒石を起き、原因を追求し、悪い所を直した時は、白石を置いている。) このように、私たちは、黒石-白石-黒石-白石と、交互に置きながら成長してゆくのです。だから、悪いことは、悪いことではないのです。ただし、一般人は、原因を追求しないので、黒石が置かれたままになっているのです。だから、また、同じ苦しみがやってくるのです。
本当は、白石を置こおが、黒石を置こおが、魂は、成長しているのです。なぜなら、体験したことは、すべて、魂の成長の糧になっているからです。これが、黒石を起きながら、原子核が大きくなる、進化の仕組みの素晴らしさです。
この宇宙に、無意味なことは、一つもありません。無意味に見える悪も、進化成長の糧になっているのです。だから、悪は、悪ではなく、善なのです。このことを知れば、気持ちが、明るくなります。気持ちが、明るくなれば、光が入ってきます。どうか、どんなことも、良く受け取って、光を頂いてください。
※ アスリートが、勝とうと、必死に戦っている時は、成績が伸びず、楽しもうと、戦っている時は、成績が上がります。これは、欲を持つと、光を閉ざし、楽しもうと思うと、光が入ってくるからです。何事も、楽しむことです。社会体験も、瞑想も、楽しみながらやることです。
あなたを傷つけるモノは、この宇宙に、一つもありません。ですから、何も恐れることは無いのです。恐れるモノがあるとすれば、あなたの想念だけです。
この宇宙に、実在しているのは、唯一、自分の想念だけです。その想念は、何でも作ることができ、何でも壊すことができる、偉大な力を持っているのです。しかも、その想念は、自分の自由意思で、自由に、いつでも・どこでも・どうにでも、使える、とても便利なものです。とても便利で、偉大な力を持っているがゆえに、慎重に使わなくてはならないのです。
今、あなたが、体験している、苦しいことは、昔、自分が使っていた悪想念の結果です。悪想念の結果として現れているのですから、掴まなければ(放っておけば)、苦しいことは、消えてゆくのです。掴んで離さないから、いつまでも、苦しみが無くならないのです。一般人が、悪想念を使って、苦しむのは、学びのためですから、仕方がないとしても、皆さんは、学び終わったのですから、もう、苦しむ必要はないのです。
皆さんは、人生を、いかようにも、良くできる、素晴らしい想念を持っているのです。それは、何処へ行く必要もありません。誰の力を借りる必要もありません。お金も必要ありません。どうか、自分の想念を使って、良い人生にしてください。
※ この宇宙に、恐ろしいものなど、何一つありません。もし、怖ろしいものがあるとすれば、あなたの(自分の)想念だけです。
※ 良い人生にするには、神を想うことです。良い想念を使うことです。
※ 悪想念を使ってならない、と言われても、長年のクセで、どうしても、悪いことを想ってしまいます。でも、瞑想すれば、同時に、2つのことが想えないのですから、悪い想念を使わないですむのです。
※ あなたは、愚痴って、自分を責めていますが、愚痴っている時は、悪い原因を作っているのですから、いつまでも、苦しみは、無くならないのです。自分を責めないでください。自分を許してやってください。
苦しい人生が、あったればこそ、今、真理を学ぶようになったのですから、苦しい人生は、良かったのです。愚痴をこぼす時間があるなら、自分を責める時間があるなら、どうぞ、瞑想してください。
学びの友の中で、このようなことを言う人がおりました。「真理を知らない時は、そこそこ、楽しく生きられたけど、真理を知ってからは、楽しく生きられなくなった!」と・・・その気持、私にも、良く分かります。私にも、そういう時代があったのですから・・・悩むほど苦しかったら、止めても良いのですよ! でも、止められますか? ここまで、成熟した魂は、止めたら、かえって苦しくなるはずです。
この真理の道だけは、絶対避けて通れない道なのです。なぜなら、我が家に帰る道は、この道しかないからです。ならば、せっかく、道(真理)に出会ったのですから、前に進んでおいた方が、利口ではないでしょうか? 世の中には、ホンモノの道を探して、ウロウロしている、魂が、沢山いるのです。それに、比べたら、ホンモノの道に出会った、あなたは、幸せではありませんか? それは、過去生において、布石を打っていたからです。今生も、布石を打っておきましょう。
どんな魂も、自覚の境界線を超えねばならないのが定めです。逃げて、避けて、通れる問題でないことを知ってください。
※ 私は、思うのです。
「肉体って、か弱いなあ!」
「肉体って、汚いなあ!」
だから、せめて、心だけでも、強くなりたい! 心だけでも、美しくなりたい! と・・・。
「法則に任せる」とは、「人事を尽くして、天命を待つ」と言う意味です。「人事を尽くす」とは、今、やるべきことを、真心を込めてやることです。
やった後は、何も考えず、法則に任せること・・・つまり、天命を待つことです。良い原因を作れば、良い結果が得られます。この原因と結果の法則は、完璧な科学ですから、間違いなく、働いてくれます。でも、結果を望んではいけません。徳を積むことです。つまり、原因を積み重ねることです。
自我で、「ああだ! こうだ!」と考えても、何もなりません。私たちが、やるべきことは、人事を尽くすことです。人事を尽くせば、法則が、必ず、自覚の境界線を超えさせてくれます。どうか、法則を信じて、2つのことを、やってください。
※ 瞑想している時は、同時に、2つのことを思えません。
つまり、余計なことを考えないし、余計なことを話さないし、余計なことをしませんから、人事を尽くしていることになるのです。
私は、時々思うのです。
「あの人の魂が、私の魂でなくて、良かったなあ! もし、あの人の魂が、私の魂だったら、こんな惨めなことはない!」と・・・。
私の魂は、人に奪われることはありません。
誰かと交換することもできません。
勿論、売り買いすることもできません。
私の魂は、永遠に、私の魂であり続けるのです。
こんな嬉しいことないのではありませんか?
ここまで、魂を大きくしてくれた、過去生の自分よ、ありがとう!
知って欲しいこと
やって欲しいこと
以上、やってください。そうすれば、あなたの人生は、万々歳です。
※ 神様は、真理に、顔を向けるようになった人に、導き手として、光の兄弟を派遣します。皆さんは、今日まで、光の兄弟によって、導かれてきたのです。
※ 神を信じられる人は、幸せな人です。神を信じられない人は、気の毒な人です。なぜなら、神を認める人だけが、神に認められるからです。と言うことは、神を認めない人は、宇宙に存在していないことになります。何と悲しいことでしょう・・・。
この宇宙には、本当に有るモノだけが、有るのです。その本当に有るモノには、何の色も着いていないのです。良く使えば、白になり、悪く使えば、黒になるだけです。つまり、良く使えば、幸せになり、悪く使えば、不幸せになるだけです。どう使うかで、白(良く)にも、黒(悪く)にも、変化すると言うわけです。では、本当に有るモノとは、何でしょうか?
本当に有るモノとは、「力・エネルギー」のことです。つまり、宇宙の力・神の力です。その「力・エネルギー」には、善悪のレッテルが貼ってないのです。使い方次第で、善にもなり、悪にもなる、「力・エネルギー」です。
人類には、その「力」が、想念と言う形で与えられているのです。ですから、人類は、その想念力を使って、何でも作れるのです。良いモノも・・・悪いモノも・・・それも、自由意思で・・・。それだけ、宇宙(神)は、人類の自由意志を尊重していると言うわけです。だから、想念の使い方が重要になってくるのです。今、人類が苦しみに喘いでいるのは、想念を悪用しているからです。つまり、想念の使い方が下手だからです。
あなたが持っている、想念は、料理に使えば、善になり、人殺しに使えば、悪になる、包丁のようなものです。どうか、正しく使ってください。使い方次第で、幸せにもなり、不幸せにもなるのですから・・・。
※ 「人事を尽くして、天命を待つとは」・・・今、自分がやれることを、精一杯やって、後は、法則に委ねて待つ、と言う意味です。賞罰は、人が与えるのではありません。間違いのない、法則が与えるのです。
「真剣に・純粋に」真理を求めている者を、神は、決して、悪いようにはしません。私は、このことを、解ってもらえるまで、何度も言い続けます。
誰も、苦しみなど与えていません。自分のネガティブな想念が、自分を苦しめているだけです。
よく、
このような人は、決して、幸せにはなれません。私は、不幸せだと言う人の想念を見てみると、全員が全員、悪想念を持っている人たちです。
神が創られた宇宙に、不幸せなどないのです。不幸せにしているのは、人類の想念です。病気は、勿論、事故、災難、自然災害も、すべて、人類の悪想念によって、引き起こされているのです。それほど、私たちの想念は、すごい力を持っていると言うことです。それは、そうでしょう! 私たちは、神の分身なのですから・・・。
幸せになりたかったら、想念を良いことに使ってください。一番良いのは、神を想うことです。神を想えば、原子核が増えます。悪い業を作りません。家庭に、社会に、地球に、宇宙に、貢献できます。それは、ただ、神を想えば良いだけです。「家庭を変えたい! 社会を変えたい! 世界を変えたい!」と、デモって歩く必要はありません。家にいてできるのです。
※ 本来、この宇宙に、「これが善だ! これが悪だ!」と言った、決まり切った善悪や、「これが苦しい! これが楽しい!」と言った、決まり切った苦楽もないのです。なぜなら、善悪は、条件次第(場所・時代・人・環境、など)で変わり、苦楽も、受け取り方次第で変わるからです。でも、それを知るには、体験が必要なのです。なぜなら、体験しなければ、ただ、善悪の表面や苦楽の表面だけを見て、自分を、苦しくしたり、甘えたりしてしまうからです。確かに、今、苦しい体験をしているかも知れません。でも、その体験の背後に、必ず、魂の成長があるのです。善悪も、苦楽も、魂を大きくするためにあることを信じ、今の苦境を乗り越えてください。
※ 無意識に悪想念を持つのは、止めようもありません。でも、できるだけ、少なくしてください。そのためには、手の甲にでも、赤印を付けておいてください。そうすれば、気づき、神に思いを向けることができるでしょう。
私が、皆さんを変えるのではありません。私の言ったことを、皆さんが実践し、皆さんが皆さんを変えるのです。では、何を実践したら良いのでしょうか?
それは、次の2つのことをすることです。
この二つは、誰もやってくれません。自分でやるのです。だから、自力です。
1の社会体験は、すでに、皆さん、やっていますから、何も言うことはありませんが、あえて付け加えるとすれば、今、やるべきことを、真心を込めてすること、それも、厭なことが来ても逃げないですることです。
2の瞑想は、雑念が湧いて、なかなか、集中できないかも知れませんが、普段から正しい「身・口・意」のクセをつければ、集中できるようになります。
正しい「身・口・意」のクセとは、
1の思いを正しく管理していたら、瞑想のしやすい環境が与えられます。
どうか、1と2を実践し、原子核を大きくしてください。原子核が大きくなれば、自分の意識が変わりますので、外側の環境も変わってきます。「自分を変えるのは、自分である!」と言うことを信じ、ぜひ、2つのことをやってください。
※ 人を誘ってはなりません。人に誘われてくるようでは、真剣に真理を求めているとは、言えないからです。
※ 神は、真剣に真理を求めている者を、決して、悪いようにはしません。
成功者の伝記を読むと、偉大なことを成し遂げた人ほど努力しているようです。これは、この世の成功者だけでなく、真理の成功者にも、言えることだと思います。私が、努力を好むのは、努力すれば、原子核を増やすことができるからです。
一生懸命、努力してこそ、何事も成し得るのです。神だって、一生懸命、努力して、宇宙を創造されたのです。
鉄も、打てば、打つほど、強くなるのです。
あんも、練れば、練るほど、艶を増すのです。
玉も、磨けば、磨くほど、輝きを増すのです。
努力すれば、成るのは、原因と結果の法則が実現させてくれるからです。神は、努力する者のために、原因と結果の法則を一番の宝物として与えてくれたのです。
努力は、宝です。努力は、進化の柱です。努力が、いかに大切かは、努力している人ほど、実感しているものです。どうか、努力を惜しまないでください。
※ 努力すれば、成るのは、「動」けば、成る法則(原因と結果の法則)が、実現させてくれるからです。つまり、「心」が努力して、想念を「動」かし、「想念」が努力して、体を「動」かし、実現させてくれるのです。
何を信じなくても、自分の想念だけは、信じてください。なぜなら、自分の想念だけが、実在だからです。他のモノは、どんなに、見えても、聞こえても、触れても、みな、消えてしまう、幻です。しかし、想念だけは、永遠に無くならない、実在なのです。でも、その想念は、誰でも持っている、ありふれたものですから、空気や水のように、どうしても、軽んじてしまうのです。空気や水を軽んじては、生きられないように、想念を軽んじても、良い人生が作れないのです。
悪いことを想えば、悪いことが実現し、良いことを想えば、良いことが実現するのです。人生は、想念次第なのです。どうか、想念を良く使ってください。良い想念の一番は、神(マントラ)を想うことです。
※ 想念は、両刃の剣のようなものです。悪く使えば、人を傷つけ、自分を傷つけ、地球を傷つけます。良く使えば、人を喜ばし、自分を喜ばし、地球を喜ばします。
※ 不幸は、闇の思いから生まれ、幸せは、光の思いから生まれます。幸せになりたかったら、明るい想念を持つよう、心掛けましょう。
最も大切なことは、良い準備をしておくことです。良い準備をしておくとは、良い原因を作っておく、と言う意味です。今、苦しんでいる人は、良い準備をしていなかったからです。良い準備さえしていれば、誰でも、幸せになれるのです。では、良い準備(良い原因)には、何がいるのでしょうか? 物やお金がいるのでしょうか? 地位や名誉や権力がいるのでしょうか? いいえ、何もいりません。いるのは、良い想念だけです。
世の人々は、良い準備もしないで、幸せを願っていますが、それは、予約しないタクシーを待っているようなものです。来ないタクシーを待つことほど、苦しいことはありません。タクシーに乗りたかったら、予約しておくことです。つまり、準備をしておくことです。原因を作っておくことです。そうすれば、間違いなく、タクシーは来ます。これは、当たり前のことです。
原因を作っていたから、結果が来たのです。「成せば成る! やれば成る!」、これは、科学です。
※そのような、想いしか持てない!
そのような、判断しかできない!
そのような、納得の仕方しかできない!
そのような、理解しかできない!
それは、まだ、器(魂)が、小さいからです。今、地球で争いが絶えないのは、小さな器の人が多いからです。
一リットルの器に、十リットルの水は、入らないのです。十リットルの水を入れたかったら、器を大きくするしかないのです。器を大きくする方法が、社会体験と瞑想なのです。
あなたが、どんなに、人間だと思っていようと、あなたは、間違いなく、神なのです。なぜなら、あなたには、次のような、神の証があるからです。
あなたは、肉体ではないのですよ! 人間ではないのですよ! 個人ではないのですよ! あなたは、紛れもなく、神なのです。
神は、一様です。この宇宙には、一しかないのです。ならば、今、あなたが、存在していること自体が、あなたが、神である証ではありませんか? 一つしか無いと言うことは、今、存在しているすべてのものは、その一の現れである、と言うことですから、あなたは、間違いなく、神なのです。ただ、形を見て、人間だと誤解しているだけです。誤解が解けたら、あなたは、神として、自由に、宇宙に飛び出して行けるのです。
あなたは、そのような、素晴らしい存在なのです。
※ 外側のモノ(現象・幻)に、誘惑された時、こう想ってください。「私は、何のために、生まれてきたのか?」、「人生の目的は、何か?」と・・・きっと、冷水を浴びせられたように、誘惑から逃れることができるでしょう。
どうして、物質は悪なのでしょうか? いいえ、悪ではありません。善を学ぶための教材ですから、善です。この宇宙に、悪など無いのです。なぜなら、どんな物質も、神の素材で創られているからです。もし、物質が悪ならば、神は悪になってしまいます。
神は、表現宇宙を創るにあたり、自分の意識の波動を下げ、物質の素である「核」を生み出したのです。波動を下げ、核を生み出さなくては、物質が創造できないからです。波動が低いと言うことは、エネルギーが低いということ、光が弱いと言うことです。光が弱い状態は、気持ちの悪い状態、苦しい状態、痛い状態、なのです。光が弱ければ、悪的なモノが、はびこるのです。今、地球で、多くの悪が、はびこっているのは、物質文明が旺盛すぎて、波動を低めているためです。
確かに、物質は、苦しみの要因になっていますが、幼い魂の多い地球人類にとっては、必要不可欠な物質でもあるのです。なぜなら、物質に溺れることによって、真実を発見することができるからです。
でも、学びの友の皆さんは、もう、そのような学びは、卒業しているのですから、一日も早く、物質から離れることです。幼い時代には、物質の学びは、必要ですが、皆さんのような、熟した魂には、もう、必要ないのです。
※ 物質は、波動の低くい闇の状態ですから、物質文明には、悪しきモノが、はびこるのです。物を多く持てば、持つほど、波風が立つのは、闇が、悪しきモノを呼び寄せるからです。
今、地球人類は、物質文明に酔いしれていますが、いずれ、その虚しさに気づき、精神文明に舵を切り替えることでしょう。
ここに、ある「モノ」が、あったとしましょう。その「モノ」に、価値を与えるのは、誰でしょうか? それは、受取人ではないでしょうか。どんなに有り難い「モノ」であっても、受取人が、有り難いと思って、受け取らなかったら、その「モノ」に、価値は生まれないのです。どんなに良い品物を作っても、買い手(受取人)がいなかったら、価値は生まれないのです。よく、畑で野菜を腐らせる農家がありますが、あれは、受取人(買い手)がいないからです。
これは、真理も、同じなのです。ただし、真理の場合は、受取人がいても、真理が理解できなかったら、価値は生まれないのです。だから、私たちは、原子核を大きくして、理解力を高めなくてはならないのです。それまでは、目の前に真理があっても、無価値なのです。今、人類の目の前に厳然として、真理が存在していますが、理解力がないため、宙に浮いている状態なのです。
このように、モノの価値も、真理の価値も、受取人が納得し受け取って、はじめて、生まれるのです。
※ 認めない価値は無いのです。例えば、一億円、持っていても、持っていると、認めなければ、使えないので、価値は生まれないです。どんなに有り難い真理も、理解力が乏しかったら、その真理は、無価値になってしまうのです。真理に、価値が生まれるのは、受取人が、真理を理解し、受け取った時です。
この世は、仮相の世界です。日々、世の移り変わりを見ている、あなたは、それを、実感しているはずです。なのに、仮相と思えない。それは、肉体が、あなたを、惑わせているからです。
今、あなたが、苦しんでいるのは、夢幻のモノを追いかけ過ぎているからです。苦しみたくなかったら、この世のモノとの関わり合いを、できるだけ少なくすることです。では、関わり合いを少なくするには、どうすれば、良いでしょうか? 一番良いのは、瞑想です。瞑想している時は、この世のことが想えません。この世のことを想わなければ、この世のモノが寄ってこないので、関わり合いが少なくなるのです。
想念は、何でも実現させます。私たちは、その想念を持っているのですから、有効に利用しなくては、損です。有効に利用する方法は、本当に有るモノを想うことです。本当に有るモノとは、神のこと、本当の自分のこと、すなわち、あなたのマントラのことです。
ここまで、成長してきた、あなたは、もう、この世のモノは、何もいらないはずです。幸せだけが欲しいはずです。それは、瞑想によって、得られるのです。利口な人は、そのような生き方をします。ぜひ、瞑想し、幸せを得てください。
※ あなたは、肉体人間ではありません。
あなたは、光り輝く、神です。生命です。意識です。常に、そう想いながら生きてください。多く思えば、思うほど、あなたは、変わります。なぜなら、本当に、あなたは、神だからです。生命だからです。意識だからです。
※ 世界に知れ渡った、アスリートが、コマーシャルに出ます。出た途端、世界の顔が、一企業の顔になってしまいます。これは、大損です。なぜなら、大きな自分が、小さな自分に、成り下がってしまうからです。偉大な魂も、人間と名乗れば、大きな自分が、小さな自分に、成り下がってしまうのです。
意識は、誰のものでもあり、誰のものでもありません。
意識は、一つであり、全体であり、無限だからです。
一つゆえに、何か一つでも消えたら、すべてのモノが消えるのです。
砂一粒、無くても、宇宙絵が完成されないのは、砂一粒が全体だからです。砂一粒にして、そうですから、あなたが消えたら、宇宙が消えるのは、当たり前なのです。
あなたは、全体であり、一つであり、無限なのです。
意識を持っている、人類が存在するから、真理が存在し、神が存在し、光が存在し、物質が存在し、時空が存在し、幸せが存在するのです。
こう言えるのは、認める者(人類)が、いなければ、認められるモノ(真理・神)が、存在できないからです。
意識は、すべての大本です。本源です。その意識を、人類は、持っているわけですから、人類が、すべてのモノを生み出しているのは、当然のことなのです。
意識 イコール 人類 なのです。人類 イコール 意識 なのです。
「人類が存在するから、宇宙が存在する」と言う真理を腹の底に落としてください。
※ 意識の正体は、解らなくても、意識そのものには、成り切ることはできます。なぜなら、あなたは、意識そのものだからです。ただ、今のあなたは、肉体を自分だと思い違いしているから、意識に成り切れないだけです。思い違いを解けば、そく、意識そのものに成り切れるのです。思い違いを解く道具が、瞑想なのです。
※ この世のことを意識している時は、幻の世界に生きていることになり、瞑想し、神を意識している時は、真実に生きていることになります。と言うことは、想念は実現の母ですから、この世のことを意識している時は、無いものを作っていることになり、瞑想している時は、有るものを創っていることになるのです。
※ 私の勉強会の動画を見て、波動を受け取れる(感じられる)ようになった人は、よほど、波動を落とさない限り、サタンにやられることは無いでしょう。どうか、一日一回でも、勉強会の動画を見てください。または、光の音声を聴いてください。その人は、もう、真理から離れることはありません。
偶然の「偶」という字の意味は、「無茶苦茶・思いがけず・当たりばったり・計らずも・たまたま・計画性が無い・無法則」と言う意味です。
必然の「必」は、「必ず・きっと・間違いなく・確かに・きっちりと・ぜひとも・揺るがず・有法則」と言う意味です。
「然」と言う字の意味は、「起きる・成る・流れ・道・方向・力・動き・働き」と言う意味ですから、通して解釈すれば、「偶然」とは、「無茶苦茶に起きる・思いがけなく起きる・当たりばったりに起きる・計らずも起きる・たまたま起きる・計画性もなく起きる・無法則に起きる」という意味になります。必然とは、「必ず起きる・きっと起きる・間違いなく起きる・確かに起きる・きっちりと起きる・揺るがず起きる・法則どおり起きる」と言う意味になります。
この宇宙は、きっちりとした、「必然の法則」の下に管理されておりますから、偶然など、あるわけがないのです。もし、偶然があるなら、今、宇宙は、存在していません。今、あなたは、存在していません。 今、宇宙が存在し、今、あなたが存在していること自体、「必然の法則」によって、管理されている証拠なのです。法則とは、秩序を意味しますから、どんなことも、必然で起きているのです。つまり、成るべきにして、起きているのです。
神は、「必然の法則」によって、私たちを、進化成長させようとしているのです。だから、「悪いことを思ったから、悪いことを語ったから、悪いことをしたから」と言って、自分を責めてはなりません。必然で思い、必然で語り、必然でした、良いことなのですから・・・。
この宇宙には、間違いも、失敗も、悪いことも、無いのです。なぜなら、進化成長に結びついている、間違いであり、失敗であり、悪いことだからです。と言うことは、あなたが、思った悪いことも、語った悪いことも、した悪いことも、良いことだと言うことです。
※ なぜ、起きたことが、必然なのか? それは、自分しかいないからです。自分しかいないのですから、何かを起こそうと思ったら、自分で起こすしかありません。自分が起こそうと思って、起こしたのですから、必然なのは、当たり前です。
※ 死ぬと、分かっているのに、人は、どうして、生まれてくるのでしょうか?
それは、何か学ぶべきこと・・やるべきこと・・が、あるからではないでしょうか?
では、学ぶべきこと、やるべきこととは、何でしょうか?
それは、自分の本性を知ること、そして、原子核を増やすことです。
これは、表現宇宙では、必然事項となっていますから、死ぬと分かりながら生まれてくるのです。
必然には、意味があるのです。それは、「どんなことも、進化成長のために起きている!」、と言う意味です。進化成長のために起きている、必然ですから、どんなことも、良いことなのです。
例えば、
「事故に遭った、病気になった、人に騙された」ことも・・
「頭に鳩の糞が落ちてきた、ズボンに泥水をかけられた、石につまずいた」ことも・・
「悪いことを思った、悪いことを語った、悪いことをした」ことも・・
「悩んだ、心配した、恐怖した、」ことも・・
みな、良いことなのです。どんなに無意味と思えることも、みな、進化成長に結びついているからです。
今は、解らなくても、自覚の境界線を超えれば、解ります。
学びの友の皆さんは、「人間は、魂であり、生命であり、意識であり、神である!」と言っても、信じてくれます。
また、「地球は、意識と意思を持った生き物である!」と言っても、信じてくれます。
でも、「鳥たちが、鳥向けの言葉と人間向けの言葉の使い分けをしている」と言ったら、信じてくれるでしょうか?
一般の人に言ったら、冷たくあしらわれてしまうでしょうが、あなた達なら、少しは戸惑っても信じてくれるでしょう。なぜなら、皆さんは、神が、鳥たちを差配していることを知っているからです。でも、一般人は、そんなこと、信じませんから、聞き耳を持たないのです。これは、魂の熟成度の差ですから、彼らを蔑んではいけません。彼らも人生体験を積んでゆけば、いずれ、信じられるようになるのですから・・・。
幼い魂は、波動の高い話は理解できないのです。でも、それだから、生きていられるのです。もし、彼らが、一瞬でも、下から上が見えたら、恐らく、惨めさのあまり、生きていられないでしょう。彼らが、曲がりなりにも、安心して生きていられるのは、下から上が見えないからです。
魂の上の者は、下の者の愚かさが見えても、指摘するようなことはしません。指摘しても、彼らには、解ってもらえないからです。だから、彼らと、私たちは、共存してゆけるのです。私が、このようなことを平気で書けるのは、読んでも、彼らには、理解できないからです。
「知らないことの有り難さ!・・・ 知らないことの罪深さ!・・・」、学びの友の皆さんは、このことを知っておいてください。
※ 「知らぬが仏」と言う諺がありますが、正に、知らぬことは、有り難いことです。でも、恐ろしいことでもあるのです。なぜなら、やってならないことを、知らぬがゆえに、平気でやるからです。
現状に変化が起きた時、疑問に思ってください。どれほど、成長したか?、神は試しているのかも知れません。
また、こうも考えてください。
新たな変化は、「真剣に真理を求めていますか?」という、問いかけかも知れません。ここまで成長した皆さんは、もう、片手間で真理を求める時代は、終わったのです。神は、「真剣に、階段を上がりなさい!」と、言っているのかも知れません。とは言っても、魂の計画は、みな、それぞれ違うわけですから、全員に当てはまるとは限りません。でも、神我の自分に聞けば、どのような意味のある変化か分かると思います。
「この度の変化は、何を試しているのか? 私は、今の求め方でいいのか?」 一度、神我に、問うてみてください。
私たちは、日々、惰性で過ごすことが多いため、現状で満足してしまうのです。だから、神は、マンネリを打破させるために、刺激を与えるのです。変化の刺激は、考える良い機会なのです。
魂が成長すると、学びの内容も、高度になることを知ってください。
※ 喜びの強さも、悲しみの強さも、感動の強さも、魂の熟成度に沿うように変わってきます。あなたの魂が、さらに、成熟すれば、今の喜びも、悲しみも、感動も、まだまだ、高度なものになるでしょう。これは、誇って良いことです。
このような仕組を創られた、神に感謝しましょう!
神は、能動的な存在です。これが良いと思ったら、すぐに行動に移すのが、神です。私たちは、神の子ですから、神と同じように、能動的にならねばなりません。ウジウジしていては、原子核を増やすチャンスを逸してしまいます。それどころか、一般人にも遅れを取ってしまいます。
どうか、積極的な行動をする人になってください。
良いと思って、直ぐに行動を起こせば、原子核が自乗的に増えるのです。これは、神が創ってくれた、素晴らしい仕組みです。学びの友の皆さんが、スピードアップして、原子核が増えるのは、そのためです。たとえ、積極的にやって、失敗したように見えても、それは、成功のための失敗ですから、成功なのです。すべて必然で、良いことです。だから、積極的にやれば、必ず、進化成長するのです。
どうか、行動的な人になってください。行動的な人は、大きく成長します。
それは・・向こうへ帰ったら、はっきりと分かります。
とは言っても、やはり、中庸は、守ってください。いくら、積極的が良いからと言って、人の家に土足でヅカヅカと入るようなことだけはしないでください。
求道者は、常識人でなくてはなりません。どうか、自分の原子核の量に見合った中庸を守ってください。
※ 学びの友のやるべきことは、瞑想することです。クヨクヨ考える暇があるなら、悩む暇があるなら、心配する暇があるなら、瞑想することです。すべて、瞑想が解決してくれます。こんな有り難いことが有りましょうか?
モノには、表と裏が、必ずあります。表だけのモノもなければ、裏だけのモノもありません。その証に、あなたの手を真ん中から切ってみてください。どんなに、切っても、切っても、表と裏は、離れません。一センチの厚みのものを、一ミリに切り、一ミリの厚さのものを、更に、0点一ミリに切っても、表と裏は、あり続けます。この表と裏は、永遠に、あり続けるのです。ですから、表だけの手もなければ、裏だけの手もありません。表と裏があって、はじめて、手があるのです。
今、私たちは、肉体を持っています。この肉体は、表なのです。表の肉体が有ると言うことは、今、言ったように、必ず、裏があります。その裏のことを、私は、神と言ったり、生命と言ったり、意識と言ったりしているのです。その神は、見えません。でも、間違いなく、神は、存在しているのです。
裏の手がなくては、表の手がないように、裏の神がなくては、表の人間はいないのです。
本当に有るものとは、何でしょうか? 表が有って、裏が有って、はじめて、「手」が有ると、心の底で思えた時に、本当に有るものが生まれるのです。つまり、人間が有って、神が有ると、心の底で思えた時、はじめて、神人が生まれるのです。神人が、本当に有るモノなのです。でも、本当に有る神人は、形がないので観えません。ですから、理解力で、神人を観るしかないのです。
このように、本当に有るものは、表と裏の関係を、心の底で理解した時に、生み出されるのです。この心の底で理解できた人のことを、「理解眼の開かれた人」と言うのです。このことを、理解するのは、容易ではありませんが、ぜひ、理解してください。それは・・自分の手が教えてくれます。
※ この宇宙に有る、確かなものは、幸せだけです。幸せだけが、実在だからです。この宇宙に存在している生命体は、みな、幸せだけを欲しがっているのです。
あの当時は、あのような、幼いことしか、考えられなかったのです。
あの当時は、あのような、幼いことしか、話せなかったのです。
あの当時は、あのような、幼い行いしか、できなかったのです。
それは、まだ、原子核が少なかったからです。原子核が少なければ、幼い考え、幼い話し、幼い行為しかできないのです。それは、自分の責任ではありません。幼さゆえの過ちですから、自分を責めてはなりません。その当時は、その当時で、やれることを、精いっぱいやって、生きてきたのです。でも、今のあなたは、違っております。なぜなら、当時より、原子核が増えているからです。
「時は、原子核なり」です。「一日の長」です。人を成長させようと思っても、できませんが、時間は、人を成長させてくれます。それが、解った人は、人を責めないし、自分も責めません。
今、私たちが、やるべきことは、今、やれることを、精いっぱいやることです。今やれること・・・それは、社会体験と瞑想です。
※ 私の小学生時代、一年間、休まず学校に通ったら、皆勤賞がもらえました。一日、休んでも、精勤賞がもらえました。あの当時のことですから、大したご褒美はもらえませんでしたが、鉛筆やノートなどを頂きました。でも、嬉しかったものです。
真面目に学んでいる人に、ご褒美が与えられるのは、当然ではありませんか。真理も、同じです。真面目に学んでいれば、必ず、ご褒美がいただけます。それは、原子核が増えると言う、ご褒美です。このご褒美は、本人が与えるのです。それは、原因と結果の法則が与えると言う意味です。
「あの当時の私は、親にも、妻にも、子供にも、ひどいことをしていました。また、人を憎み、世を憎み、自分に都合の悪いことは、すべて人のせいにしていました。また、欲望に負け、人として恥ずかしいこともしていました。そんな、私でしたから、当然、苦しみがやってきました。それでも、私は、目覚めなかったのです。そんな、ある日、キツイ苦しみがやってきました。そこで「バチが当たった!」と思い、やっと目覚めたのです。
自分を弁護するようですが、あの当時の私は、あのような生き方しか、できなかったのです。それは、真理を知らなかったからです。だからと言って、「原因と結果の法則」から逃れられるものではありません。私は、その代償を、苦しみで償ったのです。
これは、後で分かったことですが、あの苦しみは、目覚めに必要な警告だったのです。欲望のままに生きていた当時、何度も警告を受けていたのですが、それが警告だと気づかなかったのです。いいえ、薄々気づいていたのですが、改心する勇気がなく、警告を無視していたのです。悲しいことですが、人は、我が身で苦しみを体験し、はじめて、改心するものなのです。私が、その良い証です。
真理を学んでいる今の私は、心穏やかです。心の中に昔のような曇天はありません。晴れ晴れしています。もう、何のわだかまりもありません。真理に導いてくれた守護霊様、本当にありがとうございました!」
人は、誰でも、悪を犯し、痛い目に遭っているものです。大切なのは、その痛い目から、何を学ぶかです。学んで成長したら、悪は善になるのです。黒石が白石になると言うことです。
※「バチが当たった!」という思いの中には、二つの思いが込められています。
一つは、神の存在を認める思い、もう一つは、反省の思いです。
ですから、「バチが当たった!」と思える人は、結構、魂の熟した人なのです。
宇宙は、一であり、無限です。ゆえに、一の中には、一のモノしか無いのです。ですから、一の中の何を探し出しても、同じ、一のモノです。宇宙が、二つ有るなら(有限なら)、他の宇宙の中に、別のモノがあるかも知れませんが、一つの宇宙しかないわけですから、あるのは、同じ、一のモノなのです。だから、わざわざ、遠くに探査機を飛ばして、石を持ち帰ることはないのです。足元に転がっている石も、何億キロ先の小惑星の石も、同じ石なのですから・・・。
何でも、二つで一つです。
手の中に、裏と表が同居しているように、
明るさの中に、光と闇が同居しているように、
人間の中にも、神が同居しているのです。
このことが、心の底で解ったら、自分が、「一である」、「神である」と、自覚できるようになるのです。どうか、色々な角度から、一に光を当て、一の正体を知ってください。一の裏には、必ず、神がおられるのですから・・・。
学びの友の最大の課題は、このことを、いかに、心の深いところで知るかです。
※ あなたのいない、一秒ってありますか?
あなたのいない、一日ってありますか?
あなたのいない、一年ってありますか?
誰が、一秒を作ったのでしょうか?
誰が、一日を作ったのでしょうか?
誰が、一年を作ったのでしょうか?
あなたでは、ありませんか?
あなたがいなかったら、一秒は無いのですよ!
あなたがいなかったら、一日は無いのですよ!
あなたがいなかったら、一年は無いのですよ!
ならば、あなたは、何なのですか?
主観者では、ありませんか?
宇宙の主では、ありませんか?
すなわち・・神では、ありませんか?
想念したものは、どんな想念であっても、宇宙空間に青写真として残ります。その青写真は、いつか、必ず、想念した人の所に、お荷物として帰ってきます。病気も、事件・事故・災難も、想念した人の苦しいお荷物です。でも、その苦しいお荷物は、悪想念が消えてゆく姿でもあるのです。
不幸というものは、元来、この宇宙には、無いのです。人類の迷いの想念が、一時、生み出した、幻の不幸にしか過ぎないのです。一時の幻ですから、放っておいたら、必ず、消えてゆくのです。本当に有ると思って、手放さないから、いつまでも、あるのです。
病気・事件・事故・災難は、すべて、悪い在庫品が掃けてゆく姿です。今、あなたが、すべきことは、悪想念を持たないようにすることです。悪想念を持たなければ、悪い在庫品を増やさないので、悪い在庫品は無くなってゆくのです。
どうか、悪想念を持たないようにしてください。悪想念を持たないためには、瞑想をすることです。瞑想すること・・それが、幸せになる秘訣です。
※ 肉体のことは、生命力(真我)に任せ、あなたは、瞑想をしましょう。そうすれば、生命力が、肉体を健康にしてくれます。肉体のことを、クヨクヨ考え、心配するから、病気になるのです。
※ 雑念に悩まされている人は、何か雑念が湧きそうになったら、「想わない! 想わない! 想わない!」と思ってください。
肉体の現象 (痛み・痒み・痺れ・クシャミ・咳・辛さ・シンドさ・胸悪さ・息苦しさ・など)に、悩まされている人は、そのような現象が生まれそうになったら、「想わない! 想わない! 想わない!」と思ってください。雑念も、現象も、消えてゆくはずです。
雑念や現象が、消えたら、自分のマントラ(光・神・生命)を想い続けてください。瞑想してください。
※ 私たちが、纏っている肉体は、確かに、汚く、か弱く、不自由かも知れません。でも、その肉体がなくては、何も学べないのです。だから、肉体は大切です。
人生の目的は、その肉体を使って、何を学び、何を残すかです。
上面だけを見ないでください。上面の奥を見てください。どんなモノにも、面の奥があるのです。面の奥が無ければ、上面は無いのです。二つで一つなのです。見えるモノの背後には、必ず、見えないモノがあるのです。唯物論者は、そのことが理解できないため、「肉体有る限りの人生だ!」と言うのです。
肉体有る限りの人生なら、人は、何のために生きねばならないのでしょうか? 肉体有る限りの人生なら、例え、何を作っても、何を得ても、何を残しても、何を学んでも、残らないのですから、無意味です。
あなたは、「生まれてきたからには、死ぬわけにゆかないから生きる!」と言うのですか? そんな無目的な人生に、何の意味があるのでしょうか? 生まれてきたからには、生まれてきた目的があるのではありませんか? 生きることによって、「何かが残るから!」、生まれてきたのではありませんか?
唯物論者は、思考の停止した死人です。自分の存在を否定している人です。そんな死人にならないでください。どうか、奥の奥が見られる人になってください。奥の奥が見られる人は、自分を殺すようなことは言いません。
あなたは、今生、肉体を持つことによって、どれほど、辛い、苦しい、悲しい、体験をしたことでしょう。あなたは、もう、「こんな肉体を持つのは、懲り懲りだ!」と思っているのではありませんか? でも、肉体を持ったお蔭で、ここまで、成長してこられたのですから、今生、肉体を持って生まれてきたことは、大成功だったのです。せっかく、肉体を持って生まれてきたのですから、もう少し、厭な体験をして帰ってください。
このように言うのは、厭な体験を、すれば、するほど、原子核を増やして帰れるからです。だからと言って、わざわざ、厭なことを貰いに行きなさい、とは言っていません。やってきたら、逃げないで乗り越えてください!、と言っているのです。
どうか、厭なことがやってきても、成長のための体験だと思って、乗り越えてください。乗り越えたら、あなたは、また、一段大きくなっているでしょう。
※ 厭なことの少ない人と多い人との、どちらが成長するでしょうか? 厭なことの多い人ですね!
だから、幼い魂は、厭なことを想って、厭なことを多く引き寄せ、厭なことを多く体験するのです。
大人になった魂は、あまり、厭なことを想わなくなりますから、厭な体験も少なくなるのです。と言うことは、それだけ、瞑想しやすい環境が整うと言うことです。
※ 体を、こまめに動かす人は、サタンに、やられづらいのです。なぜなら、体を動かせば、宇宙エネルギーが入ってくるからです。どうか、こまめに、体を動かしてください。動かせば、サタンに、やられないばかりか、原子核も、大きくできるのですから・・・。
あなたが、今、嫌な人に出会っているのも、今、厭な環境にいるのも、過去の自分の悪想念が引き寄せた結果です。でも、その結果は、時間が消してくれているのですから、嫌な人だと思わず、厭な環境だと思わず、「過去の自分の悪想念が、今、消えているのだから、良いことだ!」と思ってください。「嫌な人だ! 厭な環境だ!」と思っているから、いつまでも、嫌な人も、厭な環境も、無くならないのです。過去のことは、忘れてください。今の今、何を想うかが、大切なのです。
「嫌な人の中に・・厭な環境の中に・・」、光をイメージしてください。そうすれば、嫌な人も、嫌でなくなるし、厭な環境も、厭な環境でなくなります。あなたの見方が変われば、人も、環境も、変わるのです。
嫌な人も、厭な環境も、みな、ゆめ幻です。そんな、ゆめ幻のために、自分の心を汚すことほど、損なことはありません。さあ、どんなことも、良く受け取ってください。
「自分の成長のために、必要な人だ!、
自分の成長のために、必要な環境だ!、
自分の成長のために、必要で起きたことだ!」と・・・。
あなたが、すべきことは、今、やるべきことを、真心を込めてやること、そして、瞑想をすることです。この二つのことを、やっていれば、間違いなく、あなたは、成長します。
※ 病気を作っているのは、自分の想念です。過去に抱いた悪想念が、今の病気にしているのです。
病気から、抜け出す方法は、病気に、エネルギーを与えないことです。難しいかも知れませんが、痛みや苦しみが来たら、「今、病気が、消えている! 消えている! 消えている! 良いことだ! 良いことだ! 良いことだ!」と思ってください。そうすれば、ネガティブなエネルギーを与えないので、病気は、快方に向かうのです。
病気のことは、考えないことです。そのためには、瞑想することです。
※ 宇宙に書いた、絵や文字は、相手にしなければ、刻々と消えて無くなるのです。ですから、悪い事が起きても、あまり、動揺しないこと・・あまり、心配しないこと・・難しいかも知れませんが、相手にしないことです。相手にしなければ、エネルギーを与えないので、悪いことは、起きなくなります。
人それぞれ、世界観を持っています。同じ世界観を持っている人は、一人もいません。なぜなら、理解力によって、世界観が違ってしまうからです。と言うことは、世界は、外側にあるのではなく、人それぞれ、理解した思いの中にあることになるでしょう。
世界観には、見方によって、客観的世界観と主観的世界観があります。客観的世界観で見た場合、その世界には、波動の違う世界が無数に存在し、そこに、沢山の人や物が存在することになります。ですから、客観的な見方をしている人には、人や物や環境が、実際に存在することになるので、どうしても、争いごとが起きるのです。しかし、主観的世界観で見た場合、その世界に存在するものは、すべて、自分の進化成長に、都合の良いものばかりになります。なぜなら、自分の進化成長に、必要な、物・人・環境を、自分が用意するからです。勿論、そこで起きたことは、みな、自分が起こさせたことです。
外側に世界があるように見えますが、それは、誤解なのです。なぜなら、自分しか存在しないからです。客観的世界があると思っている人は、自分の想念で、客観的世界を作ってしまうのです。その客観的世界は、もともと、あったのではなく、今の自分の理解力が作った、自分独自の世界なのです。
客観的世界観を持っている人も、理解力が増せば、今、見て感じている世界は、消えて、新たな世界が見えてくるようになります。それも、理解力が増した分の高度な世界が見えてくるようになります。そうなると、昔の客観的世界観は、幼稚になってしまうのです。
このように、世界は、外側にあるのではなく、自分の理解力が、内側に世界を創るのです。このことは、自覚の境界線を超えなくては解らないかも知れませんが、世界とは、そういうものである、と言うことだけ、知っておいてください。
「どうして、相手がいるのですか? それは、自分がいるからではありませんか?」・・・。
あなたは、どうして、自分がいると思えるのですか? それは、自分がいるからではありませんか? 自分がいなかったら、自分が認められないので、自分はいないのです。自分が自分を認め、自分を存在させている、と言うことです。と言うことは、自分の中に、二人の自分がいることになるでしょう。そうです。あなたの中には、二人の自分がいるのです。では、二人の自分とは、どのような自分なのでしょうか?
一人の自分は、自我の自分です。もう一人の自分は、真我の自分です。
真我の自分がいなかったら、自我の自分はいません、また、自我の自分がいなかったら、真我の自分もいません。真我の自分が、自我の自分を創り、自我の自分が、真我の自分を認め、真我の自分を存在させているのです。自我の自分と真我の自分は、相身互いの関係にあると言うことです。しかし、実際に存在しているのは、原因者である、真我の自分の方です。真我は、実在しますが、自我は、真我が創った、幻の自分にしか過ぎないのです。だからと言って、自我を軽んじてはなりません。自我は、幻の自分ではありますが、自我が真我を認めて、真我を存在させているのですから、自我と真我は、同等の価値があるのです。
どうか・・自我を大切にしてください。肉体を大切にしてください。家族を大切にしてください。社会を大切にしてください。地球を大切にしてください。表現宇宙を大切にしてください。
※ 友達のAさんは、あなたが、認めているから、存在しているのです。あなたが、いなかったら、Aさんは、認められないのですから、Aさんは、存在しないのです。また、Aさんから見たら、Aさんが、あなたを認めているから、あなたは、存在しているのです。もし、Aさんがいなかったら、あなたは、認められないのですから、あなたは、存在しないのです。
この宇宙には、一様の自分(真我の自分)しか、存在しません。でも、一様の自分では、自分が存在できないので、分身を創って、自分が自分を認め合っているのです。
現世利益が欲しくて、真理を求めている人は、真の求道者とは言えません。
現象が欲しくて、真理を求めている人も、真の求道者とは言えません。
知識を頼りにしている人も、真の求道者とは言えません。
勿論、義理や人情で、真理を求めている人も、真の求道者とは言えません。
真の求道者とは、人生を賭して「本当の自分に目覚めたい!」と思っている人のことです。そのような人は、外側のものを頼ろうとせず、自分の理解力を頼りにします。
真理の扉は、理解力によってのみ、開かれるのです。理解力が高まれば、先見の明がつき、判断力が高まるため、視野が広がります。視野が広がれば、色々な気付きが生まれます。その気付きは、自分の意識の中から生まれる、ヒラメキで、これは、天から降りてくるのです。
外から教わるのは、外側の幻のことだけです。内から教わるのは、内側の真実(真理)のことです。どうか、理解力を高め、内側から真理を得てください。その理解力を高めるのは、自力による、社会体験と瞑想です。どうか、2つのことをやって、理解力を高めてください。
※ 気付きやヒラメキは、原子核を増やしたら与えられる、ご褒美です。原子核を増やすのは、自力です。理解力を高めたかったら・・ 気付きが欲しかったら・・ どうか、自力で原子核を増やしてください。
神様は、時空の中に、素晴らしい絵(表現宇宙)を描かれましたが、その絵は、神様の満足心から生まれた絵でした。私たちも、神様を見習い、自己満足心で人生を描きたいものです。
神様が描かれた絵は、美術品です。人間が描いた絵は、芸術品です。
神様は、自己満足度100%の絵を描かれたのです。誰の目も気にしない! 何の囚われも拘りもない! ただ、自分が「納得する・・満足する・・」絵を描かれたのです。だから、美術品なのです。人間が描いた絵には、色々な汚れが入っています。例えば、自分を良く見せたいという顕示欲、お金を儲けたいと言う金銭欲、名を上げたいという名声欲、などです。だから、人間が描いた絵は、波動の低い芸術作品になるのです。
真の美術品は、自己満足度100%から生まれるのです。職人バカと言う言葉がありますが、真の職人さんは、金儲けしたい、と言う思いも、名を上げたい、と言う思いもありません。ただ、自分が満足する絵が出来上がるまで作り続けるのです。彼らは、自己満足度100%の絵を描きたいのです。でも、最近は、そういう職人さんは、少なくなりました。殆どの職人さんは、色々な汚れの入った絵を描いています。特に、お金が絡む資本主義社会においては、自己満足度の純度は、落ちる一方です。
私は、美芸に携わっている人にも、一般の人にも、言いたいのです。本当に良い作品(人生)を作りたいなら、神様のような、自己満足度100%で作ってくださいと・・・。
このように言うのは、自分が主観者だからです。この宇宙には、自分しかいないのです。だから、自分が満足する絵を描いたら良いのです。雑音を出す外側の人たちは、幻ですから、何を言われようと気にしないことです。
ただし、どんなに自己満足する絵(人生)を描いたら良いと言っても、人が嫌がるような絵(人に迷惑をかける人生)を描いてはなりません。自己満足する絵(人生)を描くにも、条件があるのです。
一つは、真善美を犯さない描き方(生き方)・・
二つは、中庸を犯さない描き方(生き方)・・
三つは、宇宙の法則を犯さない描き方(生き方)です。
神様が描かれた、自己満足100%の絵は、この三つを満たしている絵ですから、素晴らしい作品になっているのです。私たちも、この三つを守って、絵(人生)を描いたら、素晴らしい絵(人生)が、出来上がることでしょう。
※ 神様と同じように、私たちも、自己満足度100%の生き方をしたら良いのです。人の目を気にせず、明るく、楽しく、生きれば、人とのトラブルも、事故 災難 病気 なども、一切、起きなくなります。自己満足度100%の状態は、光100%の状態ですから、光のあるところに、不幸は入ってこられないのです。
自己満足の絵では、自分は喜ばせられても、人を喜ばすことができない、と思うかも知れませんが、人の目を気にして作った絵より、返って、人を喜ばせることができるのです。何一つ欲の入っていない、純度100%の絵は、自己満足度100%の神様の絵と同じですから、素晴らしい波動の絵になるのです。つまり、自己満足度100%の楽しい生き方をしたら、周りの人たちも、喜ばせることができるのです。
※ どんなに真理を学んでいる者同士でも、自覚の境界線を超えるまでは、時には、トラブるを起こすことがあるのです。でも、一般人と違う点は、そのトラブルを成長につなげている点です。ある学びの友が言っていました。
「あのトラブルのおかげで、色々な気付きが得られ成長することができました。だから、今は、相手に感謝していますと・・・。」
また、こうも言っていました。
「私が成長するくらいだから、相手の学びの友も成長しているはずだと・・・。」
神様は、何と素晴らしい仕組みを、お創りになられたことでしょう。どんな悪い事も、すべて成長につなげてくれている、この有り難さ! 感謝あるのみです。
私たちは、波動の高い天におりました。そこでは、波動の高いものは体験できても、波動の低いものは体験できません。それでは、真の幸せが味わえないので、私たちは、波動の低い体験をするために、わざわざ、記憶を失い、地上界に降りてきたのです。記憶を失った状態は、自我の無い状態です。これでは、何も認められないので、地上界に降りてきた意味がありません。ですから、自我を持つために、鉱物から植物へ、植物から動物へ、動物から人類へと、進化のプロセスを踏んだのです。私たちの中に、鉱物・植物・動物の習性が残っているのは、そのような、進化のプロセスを踏んできたからです。特に、動物時代の習性は、色濃く残っています。未熟な魂が、物欲や性欲に溺れるのは、動物時代の習性が強く残っているからです。これを、私は、第1段階の動物人間の習性と言っています。その魂も、人間社会で揉まれるうちに、第二段階の人間的習性を身に付けるようになります。つまり、物欲・金欲・地位や名誉欲・権勢欲・自己顕示欲などの人間的欲望を持つのです。今の地球人類の多くは、動物の習性と人間の習性を併せ持った、動物人間の状態なのです。
でも、この状態は、決して悪いことではありません。私たちの目的は、あくまでも、霊性の進化を遂げるためですから、波動の低い、人間体験を数多くすることは、必要なのです。ですから、V字の左側の時代は、人間的欲望に溺れて、様々な苦しみを体験するのです。苦しい体験をするうちに、人間的欲望の虚しさを知ります。知った魂は、V字の右側に入ってきます。V字の右側に入ってきた魂は、霊性の進化を遂げる方向へ、自然と舵を切るようになります。つまり、人間的欲望から自然と離れるようになるのです。学びの友の皆さんが、あまり、欲望を持たなくなったのは、それだけ、霊性の進化が進んだからです。欲望を、強く持つか、持たないかは、霊性の進化のバロメーターだと思ってください。霊性の進化を目指している者に、地位や名誉や権力などは、不要です。お金も、物も、必要最低限あれば良いのです。
※ 物質の世界は、汚いです。醜いです。鈍重です。不自由です。
霊の世界は、綺麗です。美しいです。精妙です。自由です。
私たちは、物質人間ではないのです。 霊です。
もう、そろそろ、霊の自分に戻りましょう。
※ 私たちは、すでに、肉体と言う、動物を飼っているのです。その上、まだ、他の動物を飼うつもりですか?
私たちは、一日も早く、動物から卒業し、霊性の進化を遂げねばならないのです。
※ 今の地球人類は、動物と同じ営みをしています。食べて出す・・セックスする・・眠る・・すべて、動物的習性です。私たちは、一日も早く、霊性の進化を遂げ、動物的習性から抜け出さねばならないのです。
この宇宙には、ホンモノらしき顔をしているニセモノと、ニセモノらしき顔をしているホンモノが存在します。
つまり、見えるニセモノと、見えないホンモノが、存在するのです。
では、本当に実在するのは、見えるモノでしょうか? 見えないモノでしょうか?
この宇宙は、対になっております。二つで一つなのです。
二つで一つですが、どちらかが、ホンモノで、どちらかが、ニセモノなのです。
ニセモノは、実際に無い、現実です。ホンモノは、実際に有る、真実です。
ニセモノの現実は、見えるのです。ホンモノの真実は、見えないのです。
つまり、「見える・聞こえる・触れる・味わえる・臭えるモノ」は、すべて幻なのです。
なぜなら、肉体に付属する、五感そのものが、幻だからです。
幻の五感で、幻を見聞きしても、それは、幻にしか過ぎないのです。
もし、五感にかかるモノが、永遠に無くならないなら、私は、五感にかかるモノを追い求めなさいと言います。でも、五感にかかるモノは、一時、存在しているだけで、いつか、必ず、無くなってしまうのです。
無くなるモノを追いかけ、心が満足するはずがありません。
真実(真理)とは、何でしょうか? 現実(非真理)とは、何でしょうか?
真実とは、永遠に無くならないモノ、現実とは、必ず、無くなってしまうモノです。
何千億年・何兆億年存在しようと、無くなるモノは、真実ではないのです。
宇宙の無限時間での、一兆億年など、一瞬です。
ましてや、私たちの住んでいる地球は、どんなに長く存在しても、数百億年程度です。
その地球における人類の文明も、せいぜい、数万年維持できれば良い方です。
更に、今の地球人類の寿命は、どんなに維持できても、百数十年程度です。
その百数十年程度の命を守ろうとして、競い、闘い、奪い、戦争までしているのが、地球人類なのです。
それは、真実と現実の見分けができていないからです。
この表現宇宙は、幻です。
地球も、幻です。
幽界も、幻です。
夢も、幻です。
幻覚も、幻です。
詐欺師の言葉も、幻です。
柳を幽霊と見間違ったのも、幻です。
蜃気楼も、幻です。
UFOも、幻です。
物質化現象も、幻です。
この世の現象は、すべて幻なのです。幻の世界で起きていることは、すべて幻なのです。私たちは、生まれて、死ぬまで、いや、死んだ後も、幻の中で生きて行くのです。そして、また、幻の中に生まれ、幻の中で生き、幻の世界に帰って行くのです。あなたは、こんな幻の輪廻を、いつまで繰り返すつもりですか?
幻の中で味わう幸せは、一時です。必ず、色褪せ、無くなってしまいます。あなたは、そんな一時の幸せで満足できますか? 永遠の私たちは、永遠の幸せを掴まなくては、満足できないはずです。その永遠の幸せは、真実を知れば得られるのです。どうか、真実を知ってください。そうすれば、幻の輪廻から抜け出し、「永遠に尽きない! 永遠に色褪せない!」幸せを掴むことができるのですから・・・。
私たち、そのものが、永遠に無くならない「意識」なのです。ただ、その自覚がないだけです。どうか、真実と現実を見分ける目を持ってください。
※ 二兎追うものは、一兎も得ず・・虻蜂取らず・・この二つの諺を持ち出すまでもなく、二つのものを追いかけては、一つも得ることはできません。ですから、まずは、形の世界の様子を知りましょう。その後、見えない世界の様子を知れば良いのです。
「鉄は熱いうちに打て!」と言う、諺がありますが、この諺には、2つの意味があります。一つは、「人は柔軟性のある若い時に鍛えた方が良い、或いは、時期を逸しないうちに実行すべきである」と言う意味・・・もう一つは、「早い時期に反対の体験をした方が、魂が良く育つ」と言う意味です。
輪廻転生において、「男・女・男・女・男・女」と、交互に、性別を変えて生まれてくるのは、熱いうちに鉄を打った方が、効果が大きいからです。私たちは、なぜ、こんな体験をさせられるのだろうか? と疑問に思うことがあるかも知れませんが、みな、前生の反対の体験をさせられているのです。
例えば・・
勿論、良いことも同じです。
この反対の体験は、記憶が薄れてからでは、効果が薄いので、記憶の濃い、次生でなされることが多いのです。
人を、責めたり、なじったり、してはなりません。私たちは、国を変え、性別を変え、立場を変えながら、転生を繰り返してゆくのですから、今の立場が優位だからと言って、人を、責めたり、なじったりしたら、必ず、来生、逆の立場に立たされます。
どうか、立場が優位であればあるほど、自分を戒めてください。
※ 人間は、過去に、こだわり過ぎます。過去は、閉ざされたページです。「過去を清算せよ!」という、国がありますが、過去を、どう清算せよ、と言うのでしょうか?。お金で清算することを、清算と言うなら、ただ、お金が欲しいだけではありませんか?。戦争した人たちは、もう、とっくに、死んでいないのです。どうして、戦争もしていない子孫が、責任を負う必要があるでしょうか?
精算できる過去など、あるわけがないのです。もし、あるとすれば、今、仲良くすることです。そうすれば、戦争で犠牲になった人達も、きっと報われるでしょう。いつまでも、いがみ合っていては、亡くなった人達は、浮かばれません。事実・・彼らは、仲良くして欲しいと、口々に言っています。向こうへ帰ったら、波動が高くなるので、寛容な心が持てるようになるのです。
彼らに報いるのは、靖国神社に、お参りすることでも、慰霊碑に、花束を捧げることでもありません。お互い仲良くすることが、彼らに報いることになるのです。
※ 国の威信?・面子?・プライド?・・それって、何ですか? 単なる自己満足ではありませんか? そのために、戦争までする。こんなことをしているのは、幼い地球人類だけです。どうか、大人になってください。
※「辱めを受けた! 自尊心を傷つけられた!」と、怒る人がおりますが、争わないですむなら、皆が、幸せになるなら、私は「人の股をくぐります! 人の足をなめます!」。
この世は、幻なのですよ。肉体は、幻なのですよ。神の心は、あっても、人の心など、無いのです。傷つけられる、人も無ければ、傷つけられる、心も無いのです。
外側のモノは、
どんなに、美しく見えても、
どんなに、醜く見えても、
どんなに、楽しく見えても、
どんなに、苦しく見えても、
どんなに、心地良く感じても、
どんなに、痛く感じても、
現象ですから、みな、幻です。
でも、その幻によって、心がダメージを受ければ、みな、真実になるのです。
柳の木を幽霊と見間違えて、心臓がドキッとした時、柳の木は、真実になるのです。
木の切り株をクマと見間違えて、心臓がドキッとした時、木の切り株は、真実になるのです。
このように、現象であっても、心がダメージを受けた時、現象は、真実になるのです。私たちは、五感を持っているため、どうしても、外側の現象の影響を受けてしまうのです。でも、これは、決して悪いことではないのです。なぜなら、外側の現象のお蔭で、進化成長できるからです。現象を軽んじてはならないと言うのは、外側の物が内側のモノ(魂・心)を進化成長させるからです。
現象だからと言って、病気を軽んじないでください!。必要なら、病院に行き、薬も飲み、手術も受けることです。特に、重い外傷は、外科的治療は必要です。私は、真理をやっているから、医者にかからないと言う人は、真理を、生半可に、かじった人です。どうか、「現象と真実は」同等の重みがあることを知ってください。
※ 確かに、現象を軽んじてはなりませんが、現象に惑わされ過ぎてもなりません。
特に、ここまで、魂の大きくなった、皆さんは、現象など、笑い飛ばしてしまいなさい。何せ、私たちは、外側の影響を受けない、神なのですから・・「自分は神である!」と、心の深いところで想えたら、病気などは、もう、他人事です。神の世界に、病気など無いからです。
あなたは、無限の生命力を持った、神なのですよ!
ですから、病気になど、絶対ならないのです。
※ 悪い想いは、持たないことです。想念は実現の母ですから、悪い想いを持ったら、悪いことが、実現するのです。いつも、良い想いを持ってください。
良い想いの一番は、神(あなたのマントラ)です。
良い想いを持っている時は、悪い想いは持てません。
良い人生にする秘訣は、常に、神を想い続けることです。
「私は意識です!」・・と、堂々と言えるのは、今、私と思えている意識を持っているからです。でも、意識は、見えませんから、私の意識の正体が解らないのです。一体、私の意識は、何処から来ているのでしょうか? 私の意識は、何なのでしょうか? 一体、私は、誰なのでしょうか? 解りません?
私が解らない?
どうして、このような想いが湧いてくるのか解らない?
どうして、こんな言葉が出てくるのか解らない?
どうして、こんなことをするのか解らない?
私が解らない?
どうして、憎しみが湧いてくるのか解らない?
どうして、愛おしくなるのか解らない?
どうして、こんな感情が湧いてくるのか解らない?
私が解らない?
どうして、悲しくなるのか解らない?
どうして、嬉しくなるのか解らない?
どうして、こんな想いが湧いてくるのか解らない?
解らない尽くめの、私です。でも、それで良いのです。もし、私が解ったら、私(自分)が消えてしまうからです。私たちは、永遠に解らない私(自分)と一緒に、永遠に、生きてゆくのです。
※ 神を求め続ける大切さを知らない人は、真理を知らない人です。
※ 神の別名は、「不明」です。神は、不明なのです。不明なモノに、「神」と名付けただけです。ならば、不明な私の意識は、神では無いでしょうか? そうです。不明な私の意識は、「不明な神」なのです。
※ 神を深く知ると、もう・・神に降参するしかありません。なぜなら、神に逆らっても、勝てないことが分かるからです。まさに、「バンザイです!」 、「お手上げです!」、 白旗を揚げるしかありません。
神を知らない人は、痛い、苦しい、と言いながら、神に手向っています。手向かえば、手向かうほど、苦しくなると言うのに、・・・です。
でも、魂(原子核)が成熟するまでは、仕方のないことかも知れません。
サタンは、まだ、幼いから、悪さをしていることが、自分たちの居場所を少なくしていることに気づかないのです。闇が、濃くなれば、なるほど、光は、強くなるのです。つまり、サタンが、悪さをすれば、するほど、私たちは、強くなるのです。だから、サタンは味方だと言うのです。
神が創られた完全な宇宙に、悪が悪で終わることは、無いのです。もし、悪が悪で終わるなら、神は、完全でなくなってしまいます。悪いことの背後には、必ず、良いことが連なっているのです。サタンが、このことを知ったら、サタンは、悪さをしなくなるでしょう。でも、幼いサタンは、このことを知りませんので、悪さをして、自分たちの居場所を増やそうとしているのです。悪さをすれば、するほど、自分たちの居場所が少なくなると言うのに・・・です。
サタンが生き残りたいなら、大人しくしていることです。そうすれば、居場所は少なくなっても、生き残れるでしょう。でも、このことは、サタンに、内緒にしておいてください。サタンが、このことを知って、悪さをしなくなったら、私たちは、強くなれないのですから・・・。
悪を恐れないでください! サタンを恐れないでください!
どんな悪いことも、成長につながっている、と思ってください!
私たちが、今日ここまで、成長してこられたのは、サタンの悪さの、お陰なのですから・・・。
※ 求道者の玄人と素人の見分け方
世の中には、無名な時は、良い成績を残しますが、名前が知れるにしたがい、段々と成績を落とすアスリートがおります。これは、エネルギーロスが多くなったからです。エネルギーロスは、意識を外側に向けた時に起きるのです。
例えば、
このように、意識を外側に向けると、エネルギーロスを起こすため、良い成績が残せなくなるのです。
意識は、「エネルギーであり光」なのです。この表現世界は、エネルギー(光)が強ければ、良いことが起き、弱ければ、悪いことが起きるようになっているのです。先が見え、勝ったと思った瞬間、逆転されるのは、未来に(外側に)、意識を向け、エネルギーロスを起こしたからです。これは、学びについても言えることです。
未来のことをクヨクヨ考える人がおりますが、明日があるかどうか分からないのですよ! あるかどうか分からない明日のためにエネルギーを使う、こんな大損ありません。「明日」あるかどうかの保証は、誰にもないのです。でも、「今」の保証は、確実にあるのです。確実に保証されている「今」のために、エネルギーを使いましょう。
今だけが実在です。今だけがあるのです。今だけに生きられるのです。と言うことは、今だけしか学べないと言うことです。明日、学べる保証はないのです。なぜなら、明日、地球が無くなるかも知れないからです。明日、肉体が無くなるかも知れないからです。どうか、確実に保証されている、今に生きてください。
※「求めよさらば与えられん!」・・これは、真理です。
※ この世のことを色々と考えることも、境界線を超えたいと考えることも、外側に意識を向けることになるので、エネルギーロスを起こします。瞑想する時は、何も考えず、ただ、ただ、神(マントラ)に、想い(エネルギー)を集中させることです。
皆さんの今日までの人生ドラマは、自分が筋書を書き、自分が演出をし、自分が監督をし、自分自身が演じてきたのです。
この学びの場に来る筋書きを書いたのも、皆さん自身です。だから、皆さんは、名作家であり、名演出家であり、名監督であり、名演技者であると言うのです。
自作自演の人生ドラマです。そのドラマの内容は、みな、進化成長に結びついているのです。だから、苦しい人生だったからと言って、失敗だと思わないでください。失敗どころか、大成功です。なぜなら、苦しい人生が、今のあなたにしたからです。
※ 人生は、夢幻です。あなたは、今、夢幻の中で、「泣き笑いしながら・・それも、必死になって・・」生きているのです。でも、その夢幻の人生が、あなたを成長させてくれるのです。
※ あなたが生まれてきたのは、
結婚するためでも!
子供を設けるためでも!
金持ちになるためでも!
名を挙げるためでも!
ありません。
本当の自分を知るために、生まれてきたのです。
どんなに、この世の宝物を得ても、この世限りです。
でも、自分を知った宝物は、永遠なのです。
究極の学びは、想念を正しく使えるようになることです。
想念を正しく使えば、「究極の幸せ」の中に入ることができるからです。
世界が、何かが、誰かが、「究極の幸せ」の中に連れて行ってくれるのではないのです。自分の想念が、究極の幸せの中に連れて行ってくれるのです。
表現されたモノは、みな、幻なのです。そんな幻が、究極の幸せの中に連れて行ってくれるわけがありません。究極の幸せの中に連れて行ってくれるのは、自分の想念だけです。
やることは、単純です。ただ、ポジティブな想いを持てば良いだけです。
つまり、
明るい想いを持つこと・・
前向きな想いを持つこと・・
建設的な想いを持つこと・・
肯定的な想いを持つことです。
一番良い想いは、神を想うことです。
宇宙のどんな生命体も、究極の幸せを欲しているのです。だから、彼らは、常に、良い想いを持つよう心掛けているのです。
※ 私たちが、やるべきことは、簡単です。単純です。難しいことは、何一つありません。ただ、動くだけです。ただ、想う(瞑想)だけです。やれば、間違いなく、自覚の境界線に近づくことができます。
どうして、言葉が必要なのでしょうか?
どうして、名前が必要なのでしょうか?
どうして、文字や絵が必要なのでしょうか?
それは、「何か」が有ると認識しただけでは、有ることにならないからです。
なぜなら、認識した「何か」に、何の具体性もないからです。
認識した「何か」に、具体性を持たせて、はじめて、「何か」が有ることになるのです。具体性を持たせるためには、言葉や名前や文字や絵が必要なのです。
「何か」を認識した状態・・具体性のない状態
「何か」を思った状態・・少し、具体性の出来た状態
「何か」を言葉にした状態・・具体性が出来た状態
「何か」に名前を付けた状態・・更に、具体性が出来た状態
「何か」を文字や絵にした状態・・更に、更に、具体性が出来た状態
例えば、「何か」を、認識したとしましょう。この状態では、具体性がないので、その「何か」は、存在していません。
その認識した「何か」を「丸い星」だと「思った」としましょう。しかし、思っただけでは、具体性がないので、その「丸い星」は、まだ、存在していません。
「丸い星」と言葉にしたら、具体性ができたので、その「丸い星」は、存在することになります。
更に、「丸い星」と名を付けたら、なお、具体性ができたので、存在感が増します。
更に、「丸い星」を文字や絵にしたら、更に、更に、具体性ができたので、益々、存在感が増すのです。
この表現世界は、波動が荒い世界なので、「思い」だけでは、相手に伝わらないのです。「思い」を相手に伝えるためには、具体性の有る「言葉(名前)や文字や絵に」する必要があるのです。
※ 言葉と名前は、同じです。例えば、「丸い星」と言葉にしたとしましょう。
その「丸い星」と言う言葉は、すでに、名前なのです。
名前は、具体性を持った言葉であり、言葉は、具体性を持った名前なのです。
その意味では、名前を付けた途端に、言葉が生まれたと言ってもいいし、言葉が生まれた途端に、名前が生まれたと言ってもいいのです。
※ この表現宇宙には、「音」が存在しますが、「音」は、「響き」であり、「波動」なのです。その音(響き・波動)は、言葉であり、名前なのです。「ア・イ・ウ・エ・オ」の音(響き・波動)そのものが、言葉であり、名前になっているのです。
「認識・思い」は、音になっていませんので、言葉にも、名前にも、なっていません。それでは、その「認識・思い」は、存在していないことになるのです。認識(思い)を、言葉(音・響き・波動)にして、はじめて、認識(思い)が、存在したことになるのです。
※ 意識の世界で使われている、テレパシーは、想いの籠もった言葉です。ですから、寸分も狂わず、自分の想いが相手に伝わるのです。意識の世界に言葉が要らない理由は、テレパシー(想い)そのものが、「言葉(音・響き・波動・名前)」になっているからです。
※ 「ここに何かが有る! あそこに何かが有る!」と言う認識だけでは、その何かは、存在していないのです。その何かに、名前をつけ(言葉や文字に表現して)、はじめて、何かが存在していることになるのです。名のない何かは、存在していないのと同じなのです。だから、どうしても、名前が必要なのです。
※ 神が人類になったのですから、「神の名」を「人類の名」に置き換えたら良いのです。神の名 イコール 人類の名 なのです。人類と言う名前(言葉)は、人類が、神であることを、教えてくれる、名前なのです。
※ 神は、人類に、すべてのモノに、「名」を付けさせました。なぜ、「名」を付けさせたかと言いますと、「名」付けられたモノが、すべて、神であることを知ってもらいたいためです。しかし、人類は、「名」付けた「名」に惑わされ、神が不明になってしまったのです。私たちは、「名」を遡って、神を知らなければならないのです。
※ 名前が持つ使命は、他のモノと区別するためと、そのモノの役割や目的を知るためです。
例えば、鉱物の名だけでは、漠然としていて分かりませんが、「石」とか、「銅」とか、「鉄」とか、名前を付ければ、分かります。
更に、「鉄」を加工したモノに、ナイフだとか、鍋だとか、スプーンだとか、名前を付ければ、そのモノの役割や使命が、はっきりと分かります。
この物質世界は、片方は、満足させられても、もう片方は、満足させられない世界なのです。なぜなら、同一空間に、2つの物が同居できない世界だからです。
ここに、一軒の家があったとしましょう。その家に、二人の人がやってきて、住もうとしました。でも、小さな家なので、二人は住めません。そこで、家の奪い合いになりました。力のない者は、負けて、寒空に追い出され、力のある者は、勝って、家でぬくぬく過ごすことができました。
それが、この物質の世界なのです。でも、そのような世界だから、成長できるのですから、有り難い世界なのです。良いものばかりある世界なら、私たちは、ひ弱に育ってしまうでしょう。
神の完全性は・・悪が善に結びついており、不完全が完全に結びついており、不幸が幸せに結びついており、苦しみが進化成長に結びついているからです。
※ ある政治家は、万民に良いと思って、ある政策を実施しました。でも、その政策を実施したために、都合の悪い人たちが出てきました。しかし、反対に、旧来の政策で苦しんでいた人たちは、都合が良くなったと喜んでいます。万民に良い政策など、この世にはないのです。でも、それで良いのです。なぜなら、万民に良い政策なら、進化成長できないからです。
この世界で、うかつに、良し悪しを口にできないのは、都合の良い人と都合の悪い人がいるからです。
※ 不幸せな人とは、全く、神を信じられない人のことです。
幸せな人とは、心から、神を信じられる人のことです。
私たちは、毎日、人の死を、見せられています。また、状況が、刻々、変わってゆくのも、見せられています。にもかかわらず、全員が全員、四苦八苦して生きています。それは、この世が本当に有ると思っているからです。
「人が死んだり状況が変わったりするのは、この世が幻である証拠なのです。」
本当に有る世界なら、人が死ぬことも無いし、状況が変わることも無いからです。でも、殆どの人が、そのことに気付いていないのです。
この世が幻の世界なら、五十歩百歩の生き方をしたら良いのではありませんか? どんなに苦労して、お金を集めても、みな、置いて帰らねばならないのですからね。このように言うのは、皆さんが、熟した魂だからです。幼い魂は、四苦八苦して、魂を大きくすることが必要ですが、皆さんのような、熟した魂は、そこを卒業したのですから、もう、四苦八苦して生きる必要はないのです。だから、いい加減に、生きなさい! と言っているわけではありません。何事も、真心を込めてやってください。真心を込めてやれば、原子核を増やすことができるのですから・・・。
「知る」には、二通りの「知る」があります。一つの知るは、頭で知った知るです。この頭で知った知るは、単なる「知識」です。もう一つの知るは、頭で知ったことを身体で体験し、「体験知」に変えた「知る」です。頭で知った知るは、体験の無い知るですから知恵になっていません。ですから、頭で知った「知る」は、原子核をあまり増やさないのです。でも、「体験知」に変えた知るは、知恵になっているので、原子核を大きく増やすのです。
「体験」と言う字の意味を考えてみましょう。この字の意味は、「体」で「経験する」と言う意味です。体を動かして経験すれば、より、原子核を増やすのです。年寄りが知恵者だと言われるのは、年の数ほど、身体で体験し、知恵に変えてきたからです。若者は知識を得ても、まだ、体験が少ないので、知恵者になっていないのです。
今、多くの人が人生の荒波に揉まれ苦しんでいますが、それは、知識を知恵に変えている、真っ最中の姿なのです。つまり、原子核を増やしている、真っ最中だと言うことです。
※ 「一度、知ったことは、二度と、知ることができません!」
なぜなら、知れば、原子核が増え、理解力が高まるため、同じような知り方ができなくなるからです。このことは、知る前のあなたの背丈と、知った後のあなたの背丈は違うため、二度と同じ景色が見られない、と言う例えで、解ってもらえると思います。その時の背丈で知ったことは、その背丈限りの知ったことなのです。
※ 知ることは、とても大切です。なぜなら、知れば、過ちを犯さなくなるからです。でも、知っても、過ちを犯す、幼い魂がおります。それは、知ったことを疑っているからです。その者は、過ちを犯して、痛い目にあって、疑いを晴らすしかないのです。でも、それで、良いのです。なぜなら、過ちを犯すことによって、原子核を増やすことができるからです。
需要と供給は、常に一致していなければなりません。でも、それを主導するのは、需要者の方です。なぜなら、この宇宙には、需要者しかいないからです。よく考えてみてください。供給は、需要が決めるのです。需要者側が望み、供給されるのです。それは、需要者が、供給物を創るからです。つまり、認識者(需要)が、認識されるもの(供給)を創るからです。
受け取る側が、主体者なのです。ですから、受け取り方次第で、価値が変わるのです。
例えば、郵便物が配達されても、受け取る人がいなかったら、その郵便物は、無かったことになります。たとえ、受け取っても、受け取る人が満足しない郵便物は、すぐに、ゴミ箱ゆきになってしまいます。受け取る人が満足して、はじめて、その郵便物に価値が生まれるのです。満足しなかったらと言う意味は、その郵便物が何なのか理解されない郵便物は?と言う意味で、理解されない郵便物は、無価値になってしまうのです。だから、私は、「受け取る側が大切ですよ!」と言うのです。郵便物を、良くも、悪くもするのは、つまり、活かすも、殺すもするのは、受け取り側次第だと言うことです。私が「何でも良く受け取りなさい!」と言うのは、良く(理解して)受け取らなければ、悪い郵便物になってしまうからです。つまり、受け取る側に理解力がなければ、その郵便物は意味のない郵便物になってしまうからです。ですから、需要者側の能力(理解力)、あるいは、対応力が、とても大切になってくるのです。今の社会は、供給者の方が主導権を握り、需要者側が踊らされている不思議な社会なのです。だから、畑で作物を腐らす、無駄なことが頻繁に起きるのです。
この宇宙には、主観者しかいないのです。主観者しかいないのですから、配達される郵便物の中身は、主観者の都合の良いモノばかりのはずです。でも、自我は、そのことが解りませんので、折角、価値のある郵便物を無価値にしてしまうのです。つまり、成長のために与えられた郵便物(痛み、苦しみ)を、無駄にしてしまうのです。無駄にするならまだしも、悪く受け取り、悪業さえ作ってしまうのです。何と悲しいことでしょう!
主観者(需要者・認識者)しか存在しないのですから、人を満足させようと考えなくても良いのです。自分が成長すれば良いのですから、自己満足で良いのです。(いない人を成長させようとするのは、矛盾である) 私は、自分の成長のために、勉強会でお話しているのです。また、光のメロディーも、自分が満足したくて作っているのです。作ってくれている人は、みな、私だからです。
※ どんなことにも「意味」がある。それは、その中に、神の思いの味が含まれているからです。神は、私たちに、進化成長してもらいたいのですから、何が起きても、その中に、進化してもらいたい、神の思いの味が入っているのです。「意」とは、神の想いです。「味」とは、神が、何を、どう、望んでいるかの味です。
幸せとは、意識状態です! 意識状態ですから、体験した本人にしか分かりません。特に、これから説明する、第三の幸せは、文字や言葉で伝えようのない幸せです。どんな幸せかと言いますと、「意識が意識で味わう幸せです。」
私は、これまで、二つの幸せについて、お話してきました。
一つは、理解力で味わう幸せ・・もう一つは、意識的五感で味わう幸せです。
でも、この二つの幸せを味わうためには、条件が必要でした。
しかし、「意識が意識で味わう幸せ」には、条件がないのです。
なぜか解らないけれど、
「ただただ、嬉しいのです!」
「ただただ、楽しいのです!」
「ただただ、幸せなのです!」
この条件なしの幸せこそが、究極の幸せなのです。
ただし、この幸せを味わうためには、心の底で「自分は神である!」と言う自覚が必要です。なぜなら、神意識そのものが、究極の幸せを備えているからです。自我意識も、神意識ではありますが、今の私たちは、神意識の糸の下の方に意識を落としているため、心の底で神だと思えない状態なのです。ですから、今の私たちは、幸せに満ちた神意識を味わえないのです。味わうためには、どうしても、神の自覚が必要なのです。どうか、原子核を増やし、自覚の境界線を超えてください。超えたら、幸せに満ちた神意識を味わえるでしょう。
※ 学びの友の一人が、こんな素敵なメールを送ってくれましたので、皆さんにも、ご披露したいと思います。
「寝たっきりの母が、私が葛粉で作った羊羹を食べながら・・・
“ 幸せ~~ 幸せ~~ ”と何度も言ってくれました。
“ ありがとう!“は、頻繁に言ってくれていましたが、“ 幸せ~~ ”は、初めてでした。
私は、その母の言葉を聞いて、無性に嬉しくなりました。そして気付いたのです。” ありがとう!” は、相手に対して言う言葉ですが、” 幸せ ”は、自分に対して言う言葉だと・・・そして、その” 幸せ ”は、” ありがとう!”の何十倍も嬉しいのだと言うことを・・・。
この宇宙には、1なる自分しかいないから・・・母が” 幸せ~~ ”と言っているのを聞いて、1なる自分も、”幸せ”を感じたのですね・・・。
“ 幸せ ”という言葉は、あくまでも、主観的言葉なのですね・・・。」
※ この表現世界は、次から次へと変化する、無常の世界です。その世界に、確かなモノが有るとすれば、それは、幸せだけです。なぜなら、幸せは、実在だからです。この宇宙に存在している、全ての生命体は、幸せだけを欲しているのです。