言葉には、陰の言葉と陽の言葉があります。陰の言葉は、人間社会で使われている具象的な言葉です。対して、陽の言葉は、「 神! 生命! 意識! 無限! 永遠! 」と言った抽象的な言葉です。陽の抽象的な言葉は、枠が無いので意識が拡大しやすいのに対し、具象的な言葉は、枠が有るため意識が固着しやすいのです。具象的言葉の中でも、特に、否定的な言葉や頭に濁音の付く言葉は良くありません。
瞑想は、波動の精妙な世界とコンタクトを取る必要があるので、抽象的なマントラが有効なのです。理由は、陰の言葉は、波動が粗いのに対して、陽の言葉は、波動が精妙だからです。
抽象的言葉が、いかに凄いか、また、具象的言葉が、いかに虚しいか、私は、もう一段、 心の深いところで知りました。どうか、抽象的な言葉を有効に使ってください。「ただ、抽象的な言葉を想うだけで良いのです。」 想えば、波動が上がり、間違いなく、原子核が増えます。また、「喜びと、潤いと、活気」をもたらします。
思いは、見えません。それでは、どんなに素晴らしいことを思っていても、思っていないのと同じです。どんなに素晴らしい絵の構想を持っていても、描いて見せなくては、空想にしか過ぎないのと同じです。現してこその絵の構想です。だから、どうしても、表現(結果)が、必要なのです。幸せも、同じです。どんなに幸せだと思っていても、表現されない幸せは、無いのです。
たしかに、神は、素晴らしい幸せを味わっているかも知れません。でも、その幸せは、表現されない幸せですから、無いのです。神は、そのことに気づきました。そこで、神は、自分が味わっている幸せを表現してくれる人類を創ったのです。
今、人類は、チッポケな幸せを味わっています。確かに、小さな幸せかも知れませんが、神は、その小さな幸せを、神、ご自身の喜びにしているのです。つまり、人類が幸せを味わい、喜んでいる姿は、誰でもない、神、ご自身の姿なのです。
今、人類が味わっている小さな幸せも、進化するに従って、段々と大きな幸せになってゆきます。そうなれば、幸せの喜びの表現も、豊かになってゆくでしょう。その豊かになってゆく喜びの様を、神は見たいのです。人類が幸せに、なれば、なるほど、神の幸も、増してゆくからです。
※ うなぎのような掴みどころのない宇宙で、唯一、確かなものは、幸せです。幸せだけが、実在だからです。後のモノは、すべて幻です。だから、どんな生命体も、みな、幸せを欲しているのです。
あんな大人しい人が、なぜ、あのような恐ろしい殺人事件を犯すのだろうか? そんな疑問のわく凶悪事件が、最近、ますます、増えています。これは、「憑依幽霊」による仕業です。「憑依幽霊」と言う言葉を使うのは、「霊」は、「神」ですから、悪さをしませんが、「幽」は、迷った魂ですから、悪さをするのです。でも、「幽」では、意味が通じないし、「霊」だと、誤解されるので、「幽霊」と言う言葉を使ったのです。
明るいポジティブな想いを持っていたら、そのような幽霊に憑依されることはないのです。ネガティブな想念を持っているから、同じ想念を持った幽霊に憑依されてしまうのです。ですから、憑依幽霊の責任ではなく、悪想念を持った人の責任です。医者は、憑依幽霊を認めませんから、頭の狂った人は、精神病患者として、臓器疾患は、病人として扱われるのです。肉体は、神が作られた傑作品ですから、本当は、病気になることはないのです。病気にしているのは、あくまでも、その人の悪想念です。だから、私は、想念病だと言っているのです。病気の殆どは、憑依病なのです。憑依幽霊は、寂しいのです。苦しいのです。たくさん鬱憤を持っている可愛そうな存在なのです。だから、人に憑依し、鬱憤を晴らそうとしているのです。
凶悪な憑依幽霊は、頭の方に憑きますので、憑かれた人は、精神病になります。目とか耳とか鼻とか口とか顔の部分の病気、喉の部分の病気、胸や心臓の部分の病気、胃や膵臓や肝臓や腎臓の部分の病気、腰や腸や陰部の部分の病気、膝や足の部分の病気と言ったように、上から下に降りてくるに従って、憑依度は軽くなります。
身体の上部は、波動が高いので憑依されづらいのですが、身体の下部は、波動が低いので憑依されやすいのです。その意味では、身体の上部を病んでいる人は、下部を病んでいる人より、悪い想念を多く持っていることになります。波動が高まると、憑依霊は、下の方に降りてきますので、病んでいる部分が上から下へ移ってきます。更に、波動が高まり身体の中にいられなくなると、憑依幽霊は足の先から出てゆきます。
憑依されないためには、明るい、ポジティブな想いを持ち続けることです。一番良い想いは、神(マントラ)です。ただし、神を想っていても、ネガティブな想いが、少しでも残っていれば、腰から足にかけて憑依幽霊が居座ることがありますので、その部分が重く感じたり、違和感を感じたりします。でも、気にしないでください。瞑想を続けていれば、いずれ、出てゆきます。
憑依されていると、本人が自覚していても、なかなか、自分で無くせるものではありません。勿論、他人が無くせるものでもありません。なぜなら、その人の思いが変わらない限り、憑依幽霊は出て行かないからです。それほど、憑依幽霊を無くすことは大変なのです。でも、家族の皆さんが、できるだけのことをしてあげてください。一番良いのは、憑依されている人のお世話を、真心を込めてしてあげることです。そうすれば、真心にほだされ、憑依幽霊は出てゆくかも知れません。
学びの友の皆さんは、エネルギーが高いので、瞑想しながら、背中や頭に手を当ててあげたら良いでしょう。右の手の平で、右回りに、丸(円)を描くように、さすってあげたら、なお良いでしょう。私の動画を見せるのも良いでしょう。でも、本人が嫌がるのに、強引にやっては、逆効果になりますので注意してください。
今、地球は、迷った憑依幽霊によって、数知れない凶事が起きています。このままでは、地球は、憑依幽霊に乗っ取られてしまうかも知れません。さあ、地球は、どうするでしょうか?
地球において、水の洗礼は、これまで、度々、行われてきましたが、火の洗礼は、まだ、数回しか行われていません。でも、これ以上、地球が荒らされたら、地球は、火の洗礼を考えるかも知れません。水の洗礼は、「肉体」の浄化作業ですが、火の洗礼は、「魂」の浄化作業なのです。火の洗礼を受けたくなければ、瞑想することです。それは、私たち学びの友だけができるのです。どうか、瞑想してください。
※ 憑依で苦しんでいる学びの友に一言・・・
何よりも、あなたが成長することが一番なのです。そのために、苦しい学びの教材を、あなたが用意したのですから・・・。そうです。家族も、あなたの周りの人たちも、社会も、世界も、あなたの進化成長のために、あなたが用意したのです。あなたが用意したのですから、どんなことが起きようと、悩まないこと、悪いことを想わないこと、です。
今、あなたが、やるべきことは、瞑想をすることです。
※ 瞑想の有り難さが解った人は、幸せな人です。
「人類は、原罪を背負って生きている!」と言う宿業説を唱える人がおります。また、「人類は、もともと悪の性質を持っている」と言う性悪説を唱える人がおります。なぜ、そのような説が生まれたかと言いますと、悪を犯さないでいられないようできているのが肉体だからです。では、肉体を持った人類が悪いのでしょうか? 肉体を持たせた者が悪いのでしょうか? 肉体を持たせた者ですね。では、肉体を持たせたのは、誰でしょうか? それは、神です。これが、神が、原因無き原因者と言われる謂われなのです。
肉体を持った人類は、罪を犯します。それが、人類が作った最初の原因(業)です。当然、苦しい結果がやってきます。苦しいがゆえに、悪い原因を作ります。すると、また、苦しい結果がやってきます。苦しいから、また、悪い原因を作ります。こうして、人類は、業の輪廻の渦に巻き込まれて行ったのです。しかし、神は、業から抜け出す方法を、ちゃんと用意していたのです。それが「原因と結果の法則」です。
苦しい輪廻を繰り返すうちに、人類は、法則の存在を知ります。知った者は、法則を守るようになりますから、悪い原因を作らなくなります。作らなくなった途端、今まで作って置いていた黒石(悪い結果)のすべてが、白石(良い結果)に変わるのです。なぜなら、神が人類に持たせた肉体は、進化成長に必要な白石だったからです。「原因無き原因」は、良い原因だったと言うことです。
最初に白石が置かれているのですから、私たちは、ゆっくりと成長し、覚醒めたら良いのです。焦ることはありません。どこかの生で目覚めれば、過去に置いた黒石は、すべて白石に変わるのですから・・・。これが、神のオセロゲームの妙技なのです。
※ 何かが、誰かが、波を起こさなければ、何も始まりません。それでは、何のドラマも生まれません。ドラマが生まれなければ、何の体験もできないので、進化成長できません。だから、神は、想いの波を起こし(パンドラの箱を開け)、物質(人間)を創ったのです。それが、表現宇宙の始まりなのです。
※ 刻々と変わって行くのが、無常の世界ですから、今の状況を、そう深刻に考えることはありません。今、あなたが、やるべきことは、人事を尽くすことです。つまり、社会体験と瞑想をすることです。
この宇宙で起きている、どんなことも、必然で起きているのです。偶然で起きることは、絶対ありません。もし、偶然で起きるなら、今、宇宙は、存在していないでしょう。宇宙が、今日まで、延々と存続して来られたのは、必然によって運ばれてきたからです。このことを念頭に、あなたが思ったこと、あなたが語ったこと、あなたがしたことについて考えてみましょう。
あなたは、今日、悪いことを思いました。悪いことを語りました。悪いことをしました。それは、偶然で思い、偶然で語り、偶然でしたのでしょうか? いいえ、必然で思い、必然で語り、必然でしたのです。なぜなら、前述したように、この宇宙に、必然、以外あり得ないからです。でも、あなたは、悪いことを思い、悪いことを語り、悪いことをしたわけですから、あなたは、「因果の法則」によって、裁かれるでしょう。それも、必然だからです。でも、その裁きが、あなたを成長させてくれるのですから、それは、良いことだったのです。
誰もが、自分が、思ったこと、語ったこと、したことを、偶然だと思っています。でも、あなたは、必然で思ったのです。必然で語ったのです。必然でしたのです。その必然は、すべて、進化成長に結びついている必然です。ですから、思ったこと、語ったこと、したことを、すべて、良いことだと思ってください。
この宇宙に、間違いなどありません。悪いことなどありません。どんな間違いも、どんな悪いことも、みな、進化成長に結びついている必然です。何と有り難いことでしょうか?
この仕組みを創った神の何と慈悲深いこと・・・ただ、ただ、頭が下がるばかりです。
※ どうせ、死ぬのに、人は、どうして、生まれてくるのでしょうか? それは、死ぬから、生まれてくるのです。死ななかったら、生まれることはありません。だから、私たちは、一日も早く、死なない自分にならなくてはならないのです。つまり、死ぬ人間から、死なない神人にならなくてはならないのです。でも、そうなるためには、死ぬ人間の体験をしなくてはならないのです。だから、私たちは、死ぬと分かっていながら、生まれてくるのです。
死ぬのも、必然です。生まれるのも、必然です。死ぬことによって、生まれることによって、進化成長できるからです。
一体、宇宙の何を、知ることが大切なのでしょうか? 見える物質でしょうか?、見えない本質でしょうか? 見えない本質ですね! なぜなら、見える物は、みな、消えて無くなる幻だからです。 幻を知ったって、何の意味もありません。私たちは、永遠の存在ですから、永遠に無くならない本質を、知らねば意味がないのです。そうは言っても、見えなくては、何の判断材料もありませんから、神は、見えない本質を写し出す鏡を用意し、そこに、見える幻を写し出しているのです。その鏡が、表現宇宙なのです。
宇宙は、ある博士が論じているような、一面的な宇宙(物質宇宙)ではないのです。見える宇宙の背後に、見えない本質の宇宙があるのです。ですから、見える表現宇宙を知れば、見えない本質の宇宙のことが解るのです。と言うことは、見える人間を知れば、見えない本質が解ると言うことです。
あなたは、本当の自分を知っておりますか? 肉体の自分しか知らないのではありませんか? それでは、本当の自分を知ったことにはならないのです。どうか、本当の自分を知ってください。それは、見えない本質を知れば解るのですから・・・。では、見えない本質とは、何でしょうか? それは、神のことです。神は、全ての本質なのです。神なる本質が表現宇宙を創造し、神なる本質が創造物そのものになっているのです。つまり、神なる本質が人間を創造し、神なる本質が人間になっていると言うことです。だから、人間は、神そのものなのです。その神なる本質は、宇宙に一つしかありません。
本質 = 1= 神 = 宇宙 = 本当の自分・・なのです。
このことは、今の地球人類の原子核の量では、理解してもらえないかも知れませんが、皆さんなら、理解してもらえると思います。
※ 今の自分の理解力で、宇宙を、決めつけてはなりません。また、推測してもなりません。今のあなたの理解力は、今のあなたの原子核の量のもので、最高点のモノではないからです。いいえ、最高点どころか、まだ、しっぽさえも掴んでいないのです。
宇宙には、知るべきことや解らないことが、無限に存在するのです。どうか、謙虚になってください。
※ 下から上は、見えません。上から下は、見えます。そのことが解った人は、今の自分の位置が分かりますので、謙虚になります。解らない人は、自分が最高点にいると思うので、増長するのです。
この社会には、沢山の占いがあります。たとえば、手相占い、顔相占い、タロット占い、方位占い、星占い、風水占いなど、上げれば切がありません。どうして、こんなに占いが流行るのでしょうか? それは、人生 一寸先が闇だからです。私たちは、一秒後、何が起こるのか、今日、何が起こるのか、明日、何が起こるのか、一年後、何が起こるか、分からないので不安なのです。だから、不安を解消したくて、占術に頼るのです。
確かに、現象の世界は、風水の力や星の運行力によって影響を受けております。また、手相や顔相に、その人の性格や気質が表れますので、それを読み取ることで、アドバイスはできます。でも、そんな占いに頼らなくても、想念を正しく使っていたら、不安がることはないのです。なぜなら、「原因と結果の法則」が守ってくれるからです。
風水の力や星の運行力を信じる人は、自分の想念で引きよせ、影響を受けているだけです。でも、信じない人は、そんな影響は受けないのです。
外側の現象界は、結果の世界です。内側の想念は、原因の世界です。結果は、原因の後に生まれるのです。ですから、原因である想念さえ、しっかり管理していたら、悪い結果が起きるわけがないのです。
明日のことを、煩わないでください。未来のことを、心配しないでください。今、正しい想念を持つことです。良い想念の一番は、神を想うこと(マントラを想うこと)です。瞑想することです。
※ 風水の力も、星の運行の力も、現象なのです。でも、私たちの意識は、真実です。真実が、どうして、現象の影響を受けましょうか? 受けるのは、現象に意識を合わせるからです。
私たちの心臓は、自分の意思に、お構いなく、自動的に動きます。でも、呼吸は、自分の意思で、自由に、吸ったり吐いたりできます。なぜ、神は、心臓と同じように、呼吸も自動的にできるようにしなかったのでしょうか?
自然界の生き物たちの心臓も、自動的に動きます。でも、呼吸は、自由意思を持っていないので、自動的にさせられているのです。これが、人類と他の生き物たちの違う点です。なぜ、神は、そのような違いを創ったのでしょうか?
自然界の生き物たちは、自由意思が無いので、生かされるままに生きるしかありません。だから、自然界には、病気も、事故災難も、無いのです。(人間界の波動を受けている生き物たちだけに、病気や事故災難がある。) でも、人類は、自由意思があるため、欲望や感情のままに生きて、病気や事故災難を引き寄せています。生かされるままに生きれば、幸せな人生が送れるというのに、自分の都合の良い生き方をして、不幸せな人生を送っているのです。
自然界の生き物たちには、生かされるままに生きると言う、一つの選択肢しかありません。でも、人類は、自由意思があるため、二つの選択肢があるのです。1つは、生かされるままに生きると言う選択肢です。もう一つは、好き勝手に生きると言う選択肢です。神様は、人間に、二つの選択肢を与え、どちらを選べば、幸せになれるか学びなさいと言われているのです。今、人類は、自由意思で、好き勝手な生き方をして苦しんでいますが、そのうち、生かされるままに生きる尊さに気づくでしょう。今、人類は、その学びをしている真っ最中と言うわけです。
人間の心臓は、神が動かしてくれていますので、神に任せていたら、ちゃんとやってくれます。でも、呼吸は、自由意思でできますので、好きな時に吸い、好きな時に吐けます。しかし、自由意思でできるからと言って、息を止めたのでは、死んでしまいますし、吸い過ぎても、死んでしまいます。今、人類が好き勝手に生きている状態は、息を止めている状態か、吸い過ぎているかの状態なのです。これでは、いずれ、死んでしまいます。どんなに自由意思を持っていても、生かされるままに生きなければ、必ず、死を招くのです。
人類には、進化する大きな目的があります。他の生き物たちは、人類の進化を後押しする仲間です。その仲間から、人類は、学ばねばなりません。だから、神は、人類と他の生き物たちの違いを創ったのです。人類は、一日も早く、その事に気づかねばなりません。
どうして、神が、自動的に呼吸できるようにしなかったか? 解ったと思います。もし、自動的に息ができたら、好き勝手に生きている、愚かさに気づかないでしょう。人類は、まだ、そのことに気づいていませんが、いずれ、気づく時がきます。その時、生かされるままに生きるようになるのです。
新時代の令和を、それに気づく、第一歩にしたいものです。
※ この宇宙には、生かされるままに生きる生き方(心臓の生き方)と、自由意思で勝手に生きる生き方(呼吸の生き方)の、二通りの生き方があります。自然界の生き物たちは、自由意思が与えられていませんので、前者の生き方をしています。しかし、人類は、自由意思が与えられていますので、後者の生き方をしています。前者の生き方をすれば、幸せになれますが、後者の生き方をすれば、不幸せになります。その証に、人間界に、不幸はあっても、自然界に、不幸はありません。人類は、今、自由意思を使って、後者の生き方をし、不幸せになっているのです。でも、これは、進化のために必要な体験で、決して、悪いことではありません。後者の生き方をしているうちに、これでは、幸せになれない事に気づきます。覚者は、そのことに気づいた人です。
神は、人類に、心臓と呼吸の仕組みを通して、どのように生きれば、幸せになれるか、知りなさい! と言っておられるのです。
「覚悟してやってください!」の本当の意味は、「悟ることを目的にやってください!」と言う意味です。それも・・人生をかけて・・真剣に・・です。
あなたは、どれほど長い転生をかけ、本物の真理を探し続けてきたと思いますか? それは、それは、気の遠くなる転生をかけ、探し続けてきたのですよ! そして、今生、ついに、本物の真理を探し当てたのです。このチャンスを逃してはなりません。
さあ!、真の求道者なら覚悟してやってください。「私は真理に人生をかける」と・・・ぜひ、人生の目的を貫徹して帰ってください。
あなたは、この世の何かをするために、生まれてきたのではないのですよ! あなたは、自分の原子核を大きくするために、生まれてきたのです。目的と手段を取り違えないでください。
※ 私は、「何事も中庸を見極めやってください!」と言います。それは、良いことも、出すぎると悪いことになるし、引っ込み思案も、良くないからです。この世のことは、何を成しても、幻です。そんな幻のことで言い争って、自分の宇宙を汚しては、大損です。
どうか、中庸を見極めた上で事に当たってください。「どこまでが中庸か?」、その眼を養うのも、学びの一つなのですから・・・。
※ 身は汚くても、心だけは美しくありたいものです。
なぜなら、身は幻でも、心は真実だからです。
※ 何でも否定したがる人、或いは、何でも悪く受け取る人、或いは、何でも反対する人は、心のネジ曲がった人だと言われます。この心のネジ曲がりは、長い転生を重ねれば、誰でも持つ欠点ですから、恥じることはありません。ただ、「ああ そうか!、自分には、そのような欠点があるのか!」と言うことだけ、認識しておいてください。後は、2つのことをやれば、欠点は、自然と無くなってゆくのですから・・・。
世の人々は、神仏や先祖が、私たちを守ってくれると思っています。
もし、神仏や先祖が、守ってくれるなら、
どうして、大聖堂が火事になるのですか?
どうして、仏壇のローソクの火で火事になるのですか?
どうして、墓参りの行き帰りで交通事故に遭うのですか?
占いが、あなたを守ってくれるのではないのです。
星が、あなたを守ってくれるのではないのです。
方角が、あなたを守ってくれるのではないのです。
お守りが、あなたを守ってくれるのではないのです。
守ってくれるのは、想念です。 原因と結果の法則です。
良い想念を持てば、幸せになるのです。悪い想念を持てば、不幸せになるのです。
人生を、良くするのも、悪くするのも、あなたの想念の持ち方次第です。どうか、迷信に惑わされないでください。
※ 私たちのボディーは、神の代弁代行を果たすために与えられました。ですから、ボディーを、自我のために使っては、盗みの罪を犯すことになるのです。
代弁代行の目的の一つは、原子核を大きくすることです。もう一つは、この地球上に理想の世を創ることです。自我のためにボディーを使うのは、最低限で良いのです。
どうか、神の代弁代行役を果たすために、ボディーを使ってください。そうすれば、エネルギーが、ドンドン入ってきます。少々、厳しく働いても疲れません。勿論、病気などなりません。自我の欲望のために使うから、疲れたり、病気になったりするのです。
※ 真剣に、神を求めてください。真剣に、神を意識してください。真剣に、神を想ってください。その者は、間違いなく、神様から、ご褒美が頂けます。
(想念は実現の母ですから、あなたの想念が、ご褒美を与えると言う意味です。想念は、神様からの贈り物ですから、神様が、ご褒美を与えたことになるのです。)
「私には、こんな欠点がある! 私は、こんな悪い性格を持っている!」と落ち込むことはありません。あなたが、どんなに良いことをしようと、どんなに悪いことをしようと、それは、体験ですから、あなたは、間違いなく、成長しているのです。魂を大きくする体験に、善悪はないのです。良いことをして、どんなに良い成績を残そうと、悪いことをして、どんなに悪い成績を残そうと、成績は残りませんが、体験で大きくなった魂は、永遠に残るのです。
何万転生の間に付けた、心の垢や癖というものは、そう簡単に取れるものではありません。いいのです。取ろうとしなくても・・・2つのことをやっていれば、いずれ、必ず、取れるのですから・・・。
繰り返し言います。
自分の欠点に落ち込むことはありません。あなたが、想った事、語った事、行った事は、すべて、良い体験です。体験は、宝なのです。さあ、落ち込む暇があるなら、2つのことをやって、魂を大きくしましょう。
※ 人生の目的は、この世の成績を残すことではありません。
体験によって、魂を大きくすることです。
本当に有る、一(絶対)そのものを示す言葉などありません。でも、それでは、黙っているしかないので、私は、相対的言葉を使って、本当に有る、一(絶対)を説明しようとしているのです。「本当に有る、一(絶対)だけが、本当に有るのですよ!」と言ったところで、それでは、説明したことにはならないからです。
本当に有る、一(絶対)を示すには、多(相対物)を相対させて示すしか方法がないのです。本物を示すには、偽物を相対させて示すしか方法がないのです。一(絶対)そのものを示す言葉がないから、反対の言葉を使って、一(絶対)を示そうとしているわけです。私の苦衷を察してください。
私は、良く言います。言葉の裏には、反対の意味があるのですよ、と・・・。
つまり、
「良いよ!」の反対には、「悪いよ!」が・・
「嫌い!」の反対には、「好き!」が・・
「光」の反対には、「闇」が・・・。
これも、本当に有るものを示す一つの方法なのです。反対のものを相対させれば、反対の意味が分かるからです。
とは言っても、相対させて、一(絶対)の存在は示すことはできても、一(絶対)そのものを示すことはできません。つまり、一(絶対)の存在を示すことはできても、一(絶対)そのものの正体は、依然として不明なのです。
一(絶対)は、表現されないので、一(絶対)の正体を、言葉や文字で示すことはできないのです。当人が理解して納得するしかないのです。だから、一(絶対)は、理解した者だけにあるのです。と言うことは、一(絶対)は、理解力が生み出したモノとも言えるでしょう。でも、その理解力は、一(絶対)が生み出したのですから、やはり、一(絶対)は、もともと有ったのです。
本当の自分の意識(一・絶対意識)を知ることはできないけれど、今、自分と思える相対意識(自我意識)がある限り、本当の自分(一・絶対意識)は、間違いなく、存在しているのです。でも、その自我の自分がある限り、本当の自分には戻れない!、帰れない!、ということも確かなのです。
※ 真我の自分の意識を知るには、自我の自分の意識で知るしかないけれど、いかに知ろうとしても、永久に知ることはできません。神を知ることは、永久にできない! 宇宙を知ることは、永久にできない! つまり、本当の自分を知ることは、永久にできない! と言うことです。
※ 「幸せ!」と思えるのは、その背後に「不幸!」と思える思いがあるからです。
「嫌だ!」と思えるのは、その背後に「良い!」と思える思いがあるからです。
人を「憎」めるのは、その背後に人を「愛」する思いがあるからです。
「私は、こんな悪い思いしか持てない!」と、自分を責めないでください。相対的思いがなければ、絶対的思いは生まれないのですから・・・。
※ これまで、人類が得た見識など、無限宇宙の見識から比べたら、チリみたいなものです。ですから、今の自分の見識で物事を量ってはなりません。
何でも知っていると思っている人は、何も知らない人です。何も知らないと思っている人は、宇宙の深遠さを知った人です。どうか、謙虚になってください。
※ 相対的言葉を使って、真我を示そうとしている自我の自分が、真我の自分の存在を可能にしているのです。つまり、客観者の自分が、主観者の自分を示そうとしている行為自体が、主観者を生み出しているのです。客観者の自分がいなければ、主観者は生まれないと言う意味です。
「私の意識」、「私の意識」、「私の意識」・・・この「私の意識」って、一体、何なの? 誰なの? 何者なの? 何処から生まれたの? 何処から来たの? 何処に帰るの? ・・・・。この疑問は、尽きることがありません。疑問を、膨らませれば、膨らませるほど、私の心を悩ませます。どんなに知りたいと思っても、決して、「私の意識」を知ることができません。でも、それで良いのです。知った途端に、「私の意識」が消えてしまうからです。なぜ、消える? 知った途端、私は、有限の存在になってしまうからです。有限とは、限りがあるという意味です。終りがあるという意味です。つまり、死があるという意味です。「私」は、死にたくありません。だから、「私の意識」は、不明のままで良いのです。
ちなみに、神の別名は、「不明」です。それは、神を知ることが、永遠にできないからです。ゆえに、「不明」なモノは、すべて、神の名で表わされるのです。
命も、「不明」です。
光も、「不明」です。
エネルギーも、「不明」です。
宇宙も、「不明」です。
だから、命も、光も、エネルギーも、宇宙も、神と呼ぶのです。と言うことは、「不明」な、私の意識も、神と呼ぶしかないでしょう。
そうです。私は、「不明」な神です。「不明」ですから、私の意識を、永遠に知ることができません。でも、私は、間違いなく、存在しています。今、「私」と思えることで・・・。
知れるモノは、有限なのです。知れないモノは、無限なのです。死にたくなかったら、有限になりたくなかったら、永久に「私の意識」を知らなくて良いのです。
※ あるモノの一方面から光を当てれば、後ろに一方面の影が生まれます。
角度を変えて光を当てれば、変えた角度の影が生まれます。
360度角度を変えて光を当てれば、360度角度の違った影が生まれます。
これは・・一方面から光を当てれば、一方面の神の側面が解り、360度角度を変えて光を当てれば、360度の神の側面が浮き彫りになると言う意味です。
でも、神は、無限の角度を持つ存在ですから、無限の角度の神の側面が浮き彫りになるのです。
だから、私は、角度を色々と変えて、神の側面を説明しているのです。
私たちが、物を買うのは、日々の生活を豊かにしたいからでしょうが、使わず、寝かせていたのでは、意味がありません。物には、みな、意識があるのです。その物は、私たちに使ってもらいたいのです。私たちは、物を通して学び、また、物は、私たちを通して学んでいるのです。買っても使わなければ、体験できないので、何も学べないのです。もし、不要な物があるなら、使ってもらえる人に上げてください。どうしても、不要な物は、有効利用できないか考えてみてください。例えば、着物なら、雑巾に加工して使えます。食べ物でも、猫や犬が食べられるよう料理すれば使えます。他の不要な物も、代用品として利用できないか考えてみてください。代用品として利用すれば、新しい物を買う必要がなくなりますので、ますます、整理がつきます。それよりも、何よりも、使ってあげた物が喜んでくれます。また、そのようなことをすれば、物と向き合うことになりますので、物も、自分も、成長できるのです。物と向き合っている時は、自分の心と向き合っている時なのです。それは、反省にも、気づきにも、つながるのです。
未熟な魂は、物を通して成長するので、沢山、物は必要ですが、皆さんのように、魂が成熟してくると、余り物を必要としなくなるのです。まだ、沢山、物を持っているなら、少しずつ整理していってください。勿論、家族のある人は、家族のことを考え、整理してください。どの程度整理するかも、中庸の学びの一つです。
人にない技を身につけると、あるいは、人にない物を持つと、試したくなり、使ってみたくなるものです。幼い魂に危険物を持たせてならないのは、使ってしまうからです。
そうです・・・。すべて、心です。心が、肉体を動かしているのです。人間は、このことを深く考えようとしません。だから、心を粗末にするのです。
この事実を、しっかりと認識すべきです。
真に国民の幸せを考えるなら、心のメカニズムを解明し、正しい心の使い方を、国民に周知させるべきです。これは、国策として、真っ先に取り組まねばならない重要課題です。源流を清めれば、黙っていても、下流が清まるように、原因である、心を清めれば、社会は、黙っていても、平和になるのです。
何事も、「心」が関係していることを、科学者にも、教育者にも、政治家にも、知って欲しいと思います。
※ 戦争の悲惨さや、災害の恐ろしさを伝える、語り部がおりますが、これは、反対に戦争の因・・災害の因・・になるのです。なぜなら、想念は、何でも実現させるからです。ネガティブなことは、想わないこと、話さないこと、行わないことです。過去は、終わったのです。想うなら、建設的なこと、前向きなこと、ボジティブなこと、を想うことです。
苦しめば、苦しむほど、魂が成長するのは、間違いありません。なぜなら、苦しみの中には、魂を成長させる、色々な要素が含まれているからです。でも、本来、この宇宙は、楽しみながら成長できるようになっているのです。でも、楽しみながら成長するためには、真理を深く知らなくてはなりません。なぜなら、真理を知らない者は、想念を悪用し、苦しみを作ってしまうからです。真理を深く知った者は、想念を悪用しませんから、苦しみはやってきません。苦しみがやってこなかったら、楽しみながら成長できるのです。
真理を知らない幼い魂は、苦しみながら成長するしかありませんが、皆さんのように、真理を深く知った魂は、楽しみながら成長できるのです。これは、「原因と結果の法則」から言って、当然のことなのです。
さあ! 楽しみながら成長してください。ただし、2つのこと(社会体験と瞑想)は、やってください。やれば、間違いなく、原子核が増えます。増えたら、増えた分、考え方も、生き方も、高度になります。そうなれば、ますます、楽しみながら成長できるようになります。
※ 師は、常に自分の中におられます。自分が自分に教えるのです。難しいことはありません。ただ、2つのことを、やり続ければ良いだけです。それは、何処へ行く必要もありません。
どうか、自分の足で歩いてください。人を頼っていてはなりません。
※ 外側のモノは、内側の自分が創っていると、腹の底で思えた時、自他一体になれ、唯我独存(尊)の境地になれるのです。唯我独存(尊)の境地になった時、神人になったと言うのです。
この宇宙には、「無色透明の一つの本質」があるだけです。すなわち、「無色透明の一つの意識」、「無色透明の一つの光(力・エネルギー)」、「無色透明の一つの命」、「無色透明の一つの魂」、「無色透明の一様の神」が存在するだけです。
私たちは、「苦楽」があると思っていますが、「表から見たら苦」になり、「裏から見たら楽」になる、本質があるだけです。つまり、「渦を、上から見たら、左回りの渦になり、下から見たら、右回りの渦になる」、或いは、「包丁を料理に使えば、善になり、人殺しに使えば、悪になる」、本質があるだけです。
この宇宙には、「一つの無色透明の本質」しか無いのです。その一つの無色透明の本質には、「良し悪し」のレッテルは貼られていないのです。「どう見るかで? 、どう受け取るかで?」、レッテルが変わるかだけです。それは「見る人が、受け取る人が」、決めるのです。だから、私は、「何事も良く見なさい! 何事も良く受け取りなさい!」と言うのです。
このように、この宇宙には、何色にも染まっていない無色透明の本質が、一つあるだけなのです。その本質を、良い色にするか、悪い色にするかは、私たちが「どう見るか?、どう受け取るか?」で、決まるのです。
※ 神は、無色透明の本質です。神の世界には、善悪も、良し悪しも、美醜も、男女も、高低も、左右も、大小も、軽重も、無いのです。有るのは、何色にも染まっていない本質(力)が、一つ有るだけです。「何色にも染まっていない本質が一つ有る」と言う意味は、神は、中道である。中庸である。中性である。真ん中であると言う意味です。神には、差別がないのです。偏りがないのです。平等なのです。
※ 何色にも染まっていない一つの本質は、「力」なのです。「働き」なのです。その力と働きは、想念に、素直に従ってくれるのです。良い想念を使えば、良い力として働き、悪い想念を使えば、悪い力として働いてくれるのです。働きだけ考えると、自由意思が無いように見えますが、善悪を見極めて、「因果の法則」を行使する力を持っている働きですから、やはり、自由意思があるのです。
※ 宇宙は、受け取り方次第で変わるのです。それは、私たちの想念が、宇宙を創っているからです。
この表現世界は、魂を成長させるために、神が用意したトリックの世界です。トリックの世界ですから、何一つ、ホンモノはありません。ですから、本当は、心を痛めることなど、何もないのです。でも、悲しいことに人間は、トリックに引っかかり、悩み、苦しみ、恐怖しながら生きています。
では、どうしたら、トリックの世界から抜け出すことができるのでしょうか? それは、次のことを、常に自分に思い聞かせることです。
自分は、永遠に死なない、「意識なのだ!」、「命なのだ!」、「魂なのだ!」と、常に自分に思い聞かせ、死ぬ自分と死なない自分の識別をしっかりしてください。しっかり識別できたら、トリックから抜け出すことができるでしょう。
※ 真理を求める心が萎えたら・・或いは、迷い心が生じたら・・
きっと、冷水を浴びせられたように、迷い心が吹き飛んでしまうでしょう。
本当の私は、姿形が無いので、そのままの状態では、私は分かりません。でも、形を取り、その形に名前を付けた途端、私が分かるのです。なぜなら、形に付けた名前が、私になるからです。
私に無限という名前を付けたとしましょう。名付けた途端、私は無限になってしまうのです。
生命と言う名前を付けたとしましょう。名付けた途端、私は生命になってしまうのです。
神という名前を付けたとしましょう。名付けた途端、私は神になってしまうのです。
あなたが、今、人間と思っているのは、形に人間の名が付いていたからです。もし、形に虫と言う名が付いていたなら、あなたは、虫と思っていることでしょう。虫が人間のように、考えても、話しても、行為しても、何の不思議もないからです。
名前は、単に、具体性を示す言葉にしか過ぎません。私たちは、今、人間と思っていますが、人間と言う名だけでは、具体性がないので、人間と言う名に、更に、太郎とか花子とか名を付け、具体性を高めて自分を誇示しているのです。さらに、花子の名の元は、何なのか探れば、細胞の名であり、分子の名であり、原子の名であり、クオークの名であり、意識の名であり、最終的に神の名に辿り着くのです。
このように、名前を付け具体性を高めることで、そのモノの奥に隠れている本性、つまり、神に迫ることができるのです。
※ 私たちは、絵(鉱物・植物・動物・人間)が、最初にあり、後から名が付いたと思っていますが、本当は逆で、思いが先にあり、後で名が付いたのです。その名前は、言葉なのです。「言葉が生まれ、名が生まれた、名が生まれたから、言葉が生まれた」、どちらでも、同じなのです。言葉そのものが名前だからです。
※ 地球人類は、沢山の言葉を持っていますが、それは、多く具体性を持たせなくては、モノの中身が理解ができないからです。具体性とは、言葉(名前)や、文字や絵のことです。
進化した星での伝達手段は、テレパシーですが、テレパシーには、「思い・言葉(名前)、文字や絵」のすべてが入っているのです。でも、地球では、テレパシーが使えないので、どうしても、言葉や文字などの伝達手段が必要なのです。思いの波動を感じれば済むのに、それができないから、言葉や文字で伝達するしかないわけです。
※ 名前(言葉)や、文字や絵は、どんな役割を持っているのでしょうか? それは、伝達手段としての役割です。でも、それよりも、もっと大切な役割があります。それは、神を知らしめる役割です。名前は、具体性を示しているのです。
「人類と言う名」も、「日本人と言う名」も、「分子と言う名」も、「原子と言う名」も、「クオークと言う名」も、「意識と言う名」も、神を具体的に示した名前です。神と言う名は、抽象的なので、細かく名前をつけ、具体性を高めているのです。
この宇宙には、「不明なモノ」が、沢山あります。
例えば、
宇宙も、「不明」です。
意識も、「不明」です。
命も、「不明」です。
魂も、「不明」です。
心も、「不明」です。
掲げれば、切がありませんが、本当は、たった一つ、不明なモノがあるだけなのです。そのたった一つの不明なモノを、「神」と呼んでいるのです。神と言う名は、不明なモノの総称なのです。不明なモノは、すべて、神の側面なのです。私が神の側面を多く語るのは、神の側面を多く知れば、神の具体性が増し、神の正体が薄っすらと解ってくるからです。私は、更に、具体性が増すように、神の側面に、もう一つ、「力」を加えてみました。
さあ、どうでしょう?、不明な神が、少し解ってきたのではありませんか?。すべての事象に、力という言葉を使ってみましょう。神が身近になると思います。
では、その力を生み出している力は、どこから生まれてきたのでしょうか? 力の正体は、何でしょうか? 解りません? 力も不明なのです。私たちは、その不明な力から、生まれ、生かされ、動かされ、働かされ、存在させられているのです。ですから、私たちも、不明なのです。でも、不明で良いのです。「自分は不明な存在である!」と解れば、自覚に近づくことができるからです。
※ なぜ、自分を知ることが出来ないかと言いますと、自分を創ることが出来ないからです。自分を創れる者だけが、自分を知ることが出来るのです。でも、未だかって、自分を創ったモノはいません。万能の神でさえ、自分は創れないのです。だから、私たちが、自分を創れないのは、当然です。と言うことは、神も、私たちも、永遠に自分を知ることが出来ないと言うことです。
※ 本当に有るモノが、本当に有るモノを、創ることはできないのです。
本当に有るモノが作れるのは、本当に無いモノだけです。
と言うことは、自分が、自分を、創れないと言うことです。
※ 自分を知ることは、永遠にできません。でも、間違いなく、自分は存在しています。それは、自分と思えるからです。
※ 自分を知らないで生きている、私って、何んて、おかしな、私でしょうか?! 私って、誰?・・ 何処までも、姿を見せない、私って、何者?・・ 何んて、薄気味の悪い、私なのでしょうか!
※ 何かが、存在しているからには、その何かを産み出した、親が、必ず、いなければなりません。親のいない子は、無いからです。では、神を産んだ親は、誰でしょうか? それは、原因なき原因です。神は、原因なき原因から産まれたから、神を知ることはできないのです。
矛盾とは、矛を持ち、盾を構えている状態を言います。矛を持ちながら、盾を構えるのは、矛盾なのです。つまり、相手を攻撃する構えをしながら、自分を守る構えをするのは、矛盾なのです。なぜなら、攻撃されることを前提に防御しているからです。これは、攻撃されるのを望んでいるようなものなのです。望めば(需要を作れば)、与えられる(供給される)のが、原因と結果の法則ですから、望んだ通りになるのです。
駅のホームに掲げられている広告で、一番多いのは、病院の看板です。これは、病人が沢山きてくれることを望んで宣伝しているようなものですから、矛盾なのです。
国は、医学の進歩のために、沢山のお金をかけていますが、これも、病人が多くなることを前提にやっているわけですから、矛盾なのです。本当は、病気などないのですから、病気のことなど考えない方が良いのです。病気のことを考えれば、需要を作ってしまうわけですから、供給されるのです。考えることは、思うことですから、思えば、与えられるのです。(想念は実現の母)
だから、病気になりたくなかったら、病気のことは、考えないことです。
この宇宙は、需要者側(認める者)が主導者で、供給者側(認められる者)は、従属者なのです。何でもそうですが、認めるから、認められる物が、生まれるのです。あくまでも、需要者側が主体者です。
※ 人類は、幾つもの矛盾を抱え生きています。でも、そのことに気づいている人は、一人もいないのです。
例えば・・
今、人類は、無い病気を・・無い悪人を・・無い戦争を認め、無くそうとしていますが、無いものを、認めれば、認めるほど、有るものにしてしまうのです。これは、盾なのです。なぜなら、需要(思っている)を作っているからです。でも、人類は、そのことに気付いていないのです。
真理も同じです。
※ あなたが、望まなかったら(需要を作らなかったら)、何も生まれません。今、あなたに、苦しみがあるとしたら、それは、あなたが、望んだからです。あなたが、望みながら、苦しみたくないと思うのは、矛盾なのです。
※ あなたの意識の前で、悪いことが起きたり、悪い物を見せられたりするのは、あなたが、望んでそうしたからです。なのに「悪いことが起きた! 悪いものがある!」と、腹を立てるのは、矛盾なのです。
本源の神の宇宙には、何も有りません。しかし、何でもある宇宙でもあるのです。
私たちが存在している、この表現宇宙は、「意・口・身」によって創られました。つまり、神は、表現世界を創ろうと言う「意(思い・意思)」を持ち、「口(言葉)」を使って、「身(波動・響き)」を生み出し、表現宇宙を創ったわけです。「意」は、創ろうと言う、思い(意思)であり、「口」は、言葉であり、「身」は、「波動・響き」です。この「意・口・身」は、自我から生まれたものです。と言うことは、創造主である神に、自我が有ることになります。神は、自我がないと言われますが、そんなことはありません。神は、自我そのものなのです。なぜなら、自我が無くては、思い(意思)が持てないからです。思いが持てなくては、表現宇宙は創れません。だから、神は、自我を持っているのです。ただし、自我が生まれるのは、表現宇宙を創造した時だけです。その前は、無波動の状態なのです。無波動の状態と言う意味は、何もない状態と言う意味です。しかし、いつでも発動できる、何でも思える、状態でもあるのです。これが、本源の宇宙は、何も無い宇宙だけれど、何でも有る宇宙であると言う意味なのです。
私たちも、自我を持っています。その自我で、思っています。自我で、言葉を話しています。自我で、行為をしています。一体、私たちと神は、どこが違うのでしょうか?
表の見える物を見ている時は、その裏の見えないモノ「無色」も見ているのです。
音楽を聴いている時は、その裏の「無音」も聴いているのです。
食べ物を味わっている時は、その裏の「無味」も味わっているのです。
臭いを嗅いでいる時は、その裏の「無臭」も嗅いでいるのです。
感触を感じている時は、その裏の「無感触」も感じているのです。
大元がなかったら、色も、音も、味も、臭いも、感触も、生まれないのです。
私たちは、感覚にかからないモノを、理解力で受け取るしかないのです。感覚にかからないモノを、理解力で受け取ることによって、「ああ、そうか! 感覚にかからないモノの背後には、神が存在しているのだ!」と言うことを知るのです。 感覚にかからないモノは、神の側面であり、その側面は、理解力でしか受け取れないのです。つまり、感覚にかからない原因なき原因者(神)は、理解力でしか、感得する(知る・納得する・受けとる)ことができないのです。
※ 本当に有るモノ(絶対的なモノ)には、反対はありません。本当に無いもの(相対的なモノ)に、反対なモノが有るのです。それは、一つの中に、相手はいないからです。でも、相手がいないと自分の存在がないので、相手(相対世界)を作り、自分自身を創り続けているのです。
※ 何でもそうですが、こうだと決めつけてはなりません。なぜなら、こういう人だと決めつければ、自分の想念で、そのような人を作ってしまうからです。宇宙(人・社会・世界)を、こうだと決めつければ、そういう宇宙(人・社会・世界)を、自分の想念で作ってしまうのです。それは、自分で自分に催眠術をかけているようなものです。
今日は、「魂は一生の内に三段階成長できる」、という言葉の意味を説明したいと思います。よく、参拝一礼とか、万歳三唱とか、三三九度とか、三つ子の魂百までもとか、三の数字の絡む言葉を使いますが、この三という数字は、無限を意味する数字なのです。それは、1を3で割っても、割り切れないからです。ということは、「魂は一生の内に三段階成長できる」という意味は、「魂は一生の内に無限に成長できる」と言う意味になるのです。もし、皆さんが、「一生の内に三段階までしか成長できない」という意味で受け取っているなら、そんな考え捨ててください。そんな限定的な思いを持っていては、本当に三段階までしか成長できなくなります。私たちは、想念の使い方次第で、いくらでも、成長できるのです。
もう一つ、注意したいのは、”自分は、こんな狭い心を持っているから、こんな悪い性格を持っているから、こんな悪いことをしたから、自覚の境界線を超える資格が無いのでは?” と、思わないことです。天使とて、地獄に落ちると言われるくらい、この表現世界は、厳しいのです。熟した魂であっても、目覚める前は、一般人と同じように、悪い思いを持つし、悪い言葉を吐くし、悪いことをするのです。私も、目覚める前は、人間のクズだったのです。そんな、私でも、自覚の境界線を超えられたのですから、皆さんが、超えられないはずはないのです。悪いことをするのと、魂の大きさとは、関係ないのです。一度、大きくなった魂は、たとえ、人殺しをしたって、小さくなることはないのです。自覚の境界線を超えられるかどうかは、あくまでも、魂の大きさです。理解力の高さです。理解力の高さが、自覚の境界線を超えさせるのです。
自分を成長させるのは、自分の努力で、いくらでもできるのですから、限定的思いを持たないことです。
私が、地球人類に、声を大にして言いたいのは、想念の偉大さを、知って欲しいと言うことです。私たちの一想い一想いの想念が、人生環境を、社会環境を、世界環境を、自然環境を、良くも悪くもしているのです。それは、私たちの想念が、神と寸分も違わない力を持っているからです。
あなたは、
想念を使って、車を手に入れたのではありませんか?
想念を使って、嫁さんを手に入れたのではありませんか?
想念を使って、お金を手に入れたのではありませんか?
いや、病気も、事故災難も、家庭の不和も、人との諍いも、みな、自分の想念で作ったのです。私は、そんなモノ作った覚えがない、と言われるかもしれませんが、あなたの憎しみ・恨み・怒り・心配・恐怖・イライラの想いが遠因となって、そのような不幸を作ったのです。
神の世界には、何も存在しないのです。
何も存在しないのは、神が想念を動かしていないからです。
想念を動かさなければ、何も生まれないのです。
それでは、自分の存在がないので、神は、想念を動かして、表現世界を創り、そこに、自分の分身である人間を送られたのです。
そのとき、持たされたのが、神と寸分も違わない想念だったわけです。
ただし、一つだけ神の想念と違う点は、「一時も何も思わないでいられない!」と言う違いです。
でも、その想念が、私たちを成長させてくれるわけですから、その想念を持たされたことは、有り難いことなのです。
あなたは、いつも、何を思っていますか? 良いことですか?、悪いことですか?
あなたは、良い想念が持てなくて、悩んでいるのではありませんか?
人生の目的は、この想念を、正しく使えるようになることなのです。
もし、何も思わなかったら、何一つ、苦しみは、生まれないでしょう。しかし、喜びも、幸せも、生まれないでしょう。勿論、私たちの存在もありません。それどころか、一瞬にして、表現世界は、消えてしまうでしょう。幸いなことに、何も思わないでいられないから、私たちも、表現世界も、安泰なのです。それほど、私たちの想念は、偉大な力を持っていると言うことです。
私が、想念の偉大さを、知って欲しいと言うのは、想念の使い方次第で、人生を、どうにでも、変えることができるからです。人生万端、想念次第です。何もかも、想念次第です。どんな問題も、想念で解決できるのです。どうか、想念の偉大さを、知ってください。
皆さんは、見えないモノを軽んじていますが、見えないモノの実体を知ることは、とても大切なことなのです。なぜなら、見えないモノの実体を知れば、幸せに近づくことができるからです。
それでは、見えないモノの実体を探ってみましょう。
なぜ、見えないのでしょうか? それは、波動が精妙で、私たちの視覚で捕らえられないからです。反対に、見えるモノは、波動が荒いので、視覚で捕らえられるのです。私たちが住んでいる、この表現宇宙は、波動の組み合わせによって出来ている、摩擦の世界なのです。波動が、摩擦を生み出し、その摩擦が、見えるモノを生み出すのです。見えるということは、摩擦があるという意味であり、見えないということは、摩擦がないという意味なのです。ということは、見えるモノの沢山ある世界は、摩擦の多い世界だということです。摩擦のある世界は、抵抗があるので、いつか、必ず、消えて無くなります。つまり、摩擦のある世界は、有限の世界なのです。しかし、摩擦のない世界は、永遠に無くなりませんから、無限の世界なのです。では、摩擦のある世界と摩擦のない世界のどちらが、幸せ多い世界でしょうか? それは、当然、摩擦のない世界です。
なぜなら、摩擦のある世界では、次のような厄介事が起きるからです。
さらに、
このように、摩擦(凹凸・波動)のある世界では、様々な波風が生まれますので、苦しみが多くなるのです。摩擦がなければ、引っかかりも、衝突も、争いも起きませんので、摩擦のない世界は、苦しみがないのです。
要するに、悩み、苦しみが、生まれる世界は、不完全で、
悩み、苦しみが、生まれない世界は、完全であると言うことです。
見えるモノ・一時のモノ・有限のモノは、不完全なのです。
見えないモノ・永遠のモノ・無限のモノは、完全なのです。
だから、私たちは、見えないモノを、大切にしなければならないのです。
では、神は、なぜ、このような摩擦の多い世界を、わざわざ、創られたのでしょうか? もう、お解りのことと思いますが、摩擦の多い世界では、様々な体験ができるからです。魂は、体験を通して、大きく育つのです。ですから、摩擦の多い世界は、魂の成長のためには、どうしても、必要な世界なのです。でも、皆さんのような、熟した魂には、もう、このような、苦しい世界は、必要ありません。さあ、今、皆さんが持っている、見えるモノと見えないモノの見識を変え、一日も早く、摩擦の多い世界から、卒業しましょう。
※ 何が幸せをくれるのでしょうか? 物やお金でしょうか? 地位や名誉でしょうか? いいえ、意識です。意識が、幸せをくれるのです。なぜなら、意識が、幸せを感じるからです。その意識は、実在です。ということは、その意識が感じている幸せも、実在ということです。幸せだけは、どんな幸せであっても、実在なのです。
例えば、
夢の中で味わっている幸せも、
この世で味わっている幸せも、
幽界で味わっている幸せも、
自覚の境界線を超え、節目節目で味わう幸せも、
みな、実在なのです。
実在という意味では、
どんな幼い魂が感じている幸せも、
どんな高度な魂が感じている幸せも、
平等なのです。
勿論、幼い魂が味わっている幸せも、高度な魂が味わっている幸せも、比べることができませんから、幸せにおいても、平等なのです。このように、実在においても、幸せにおいても、神の公平性は、保たれているのです。
真理を深めてゆくと、外側のものは、すべて幻で、実在しているモノでないことが解ってきます。そうすると、その人は、瞑想の時、外側のモノから離れようと意識するようになります。でも、意識すれば、意識するほど、外側のモノが気になり、いつまでたっても、外側のモノから離れられません。
外側のモノを意識している状態は、実際に無い、幻のモノを作っている状態なのです。つまり、肉体を意識している状態は、実際に無い、幻の肉体を作っている状態なのです。なぜなら、意識は、何でも作ってしまうからです。とはいっても、五感がある限り、どうしても、肉体を意識してしまいます。では、どうすれば、肉体から意識を離すことができるのか?・・・それは、意識を内側の一点に集中させることです。
私たちが、五感で感じているモノは、すべて、外側の幻です。その外側の幻で、一番近くにあるのが、自分の肉体です。私たちは、その肉体を、いつも、意識で感じているのです。意識で感じているわけですから、意識を肉体から離せば、肉体は、消えてしまうはずです。では、意識を肉体から離すには、どうすれば、いいのでしょうか? 一番簡単な方法は、背中の奥の奥の一点に、意識を置くことです。背中の奥の奥の一点に、意識を置くと、次第に、外側のモノが消え、肉体感覚さえもなくなります。どうして、そのようなことが、起きるかといいますと、実在しないモノは、意識しなければ、消えて無くなる仕組みになっているからです。外側のモノは、一時、描かれた絵のようなモノですから、意識しなければ、消えてしまうのです。でも、実在しているモノは、意識しなくても、消えないのです。意識そのものが、実在そのものだからです。
私たちは、外側のモノが実在していると、誤解しているのです。それは、五感があるためです。五感が、実在しているような誤解を生んでいるのです。実在しているのは、自分の意識だけです。その実在している意識に、意識を集中するのが、瞑想なのです。意識が意識を意識するのです。意識が意識を瞑想するのです。意識そのものが、神だからです。だから、神が神を意識するのです。神が神を瞑想するのです。このことを、知花先生は、次のように、おっしゃっておられました。「神を礼拝するには、己が神そのものと成って礼拝せよ!」と・・・。つまり、「自分が神そのものに成って、神を瞑想しなさい!」というわけです。
※ 瞑想は、想念力に頼っています。想念は、何でも実現させる力を持っているからです。その想念の力を、瞑想に利用しているだけです。だから、想えば良いのです。ただ、それだけです。
人が何を言おうが、自分が楽しければいいのです。こう言うと、“エゴイストだ!” と思うかも知れませんが、真理を深く知った人なら、私の言っていることが、解って頂けると思います。
私たちは、意識そのものなのです。その意識は、宇宙に、一つしかありません。一つしか無いということは、私たちは、宇宙そのものであるということです。では、その意識は、何を欲しているのでしょうか? 物でしょうか? お金でしょうか? 地位や名誉や権力でしょうか?
いいえ、自分の心が、
平安になること!
楽しくなること!
愉快になること!
嬉しくなること!
爽快になること!
すなわち、幸せになることを欲しているのです。
世の人々は、躍起になって、この世のモノを追いかけていますが、それは、幸せを得る一つの方便であって、そんなモノが無くても、幸せになれるのです。なぜなら、幸せは、肉体が感じるのではなく、意識が感じるからです。
意識は、実在しています。幸せも、実在しています。ですから、実在している意識は、実在している幸せを欲するのです。その幸せは、誰かが、与えてくれるのでも、何かが、与えてくれるのでもありません。自分が、自分に、与えるのです。では、どのように、自分に、与えるのでしょうか? それは、自分が意識そのものであると、心の底で知った時、自動的に与えられるのです。どうか、自分が意識であることを、心の底で知ってください。知れば、その幸福感は、全宇宙に波及して行きます。それは、前述したように、宇宙そのものが、私たちだからです。
よく、考えてみてください! あなたは、何が欲しいのですか? 幸せだけが、欲しいのではありませんか? その幸せは、外から得られますか? 何かモノから得られますか? 誰かから得られますか? 何も、誰も、与えてくれないのです。あなたが、"自分を、どう思うか" で与えられるのです。
繰り返します。
あなたは、意識そのものなのです。
その意識は、楽しいことが好きなのです。嬉しいことが好きなのです。
つまり、幸せが好きなのです。
※ 肉体は、あなたではありません。意識が、あなたです。
肉体は、意識の乗り物です。
意識は、いつか、必ず、肉体から降りるのです。その意識が、持って帰れるのは、幸せだけです。
見えるモノは、非実在です。見えないモノは、実在です。見えるモノは、表面だけの(中身のない)モノですから、非実在なのです。しかし、見えないモノは、奥の深い(中身のある)モノですから、実在なのです。
また、見えるモノは、何の発展性も、何の可能性もない、死に絵です。見えないモノは、無限の発展性と無限の可能性のある、生き絵です。その意味では、人間は、見えるモノですから、死に絵なのです。神は、観えないモノですから、生き絵なのです。だから、人間は、非実在で、神は、実在だというわけです。ただし、人間の中に宿っている意識は、実在します。人間の形は、殻ですから、非実在ですが、その中に宿っている意識は、中身ですから、実在するのです。
私が「人間は、神である!」と断言するのは、人間の中に宿っている意識は、神だからです。形は、結果です。意識は、原因です。原因と結果は、切り離すことが出来ませんから、神は、人間であり、人間は、神である、と言うことになるわけです。「人間は、神である!」こんな、確かなことを、どうして、人間は、信じようとしないのでしょうか?
※ 幸せや、善は、実在しますが、不幸や、悪は、実在しません。なぜなら、実在しない人間が作った、不幸や悪だからです。でも、幸せや、善は、実在するのです。それは、実在する神が創った、幸せや善だからです。
宇宙は、単純に出来ています。子供でも解るように、易しく創られているのが、宇宙なのです。その証拠に、神は、一番必要なモノほど、私たちの身近に置いてくれています。
例えば、空気・水・土・労働力の順で、身近に置いてくれています。また、肉体は、それよりも近くに置いてくれています。更に、近いのは、魂です。そして、その魂が、発信する想念です。この想念が人生を作っているわけですから、最も身近な存在と言えるでしょう。その想念が、幸せをくれるのです。しかし、世の人々は、外に出て、お金を稼ぎ、外から、幸せを買おうとしています。それは、幸せが、何処にあるのか知らないからです。神が、一番必要なモノを、身近に置いてくれているように、幸せも、一番身近なところに置いてくれているのです。それも、お金もいらず、何処へ行く必要もなく、「ただ、神を想うだけで良い!」と言う簡単な方法で・・・。
難しく考えないでください。今、あなたが、やらねばならない事は、
この二つをやっていれば、あなたは、幸せになれます。これは、今日まで、自分の想念によって、人生を作ってきた、実績が証明しているのですから、間違いないのです。
悪い思いを持つ自分を責める人がおりますが、自分を責めてはなりません。なぜなら、たとえ、悪い思いを持ったとしても、それは、今の原子核の量によって思ったことですから、それは、必然であり、良いことだからです。事実、その人は、悪い思いを持つことによって、痛い目にあい、成長してきたではありませんか? ということは、その思いは、良い思いだったと言うことです。私が、 “あなたの選択した人生の道は、みな、良い道なのですよ!” と言うのも、今のあなたの原子核の量で選んだ、必然の道だからです。たとえ、その道が苦しい道であったにしても、苦しみが成長を促すのですから、それは、悪い道では無かったと言うことです。悪い必然など無いのです。必然は、みな、良いことなのです。必然は、成長を促す法則だからです。
“私は、容姿も醜く、こんな性格で、こんな欠点を持っている、何もできない人間です!” と、自分を責める人も同じです。たとえ、どんなに醜く、能力的に劣っていても、その肉体環境は、魂を成長させるために与えられた、必然の環境ですから、自分を卑下してならないし、惨めになってもならないし、責めてもならないのです。私たちは、失敗の中から、学び、苦しみの中から、強くなり、悪い環境の中から、美しい花を咲かせるのです。そう思えれば、どんな人にも、どんなモノにも、どんな環境にも、また、自分にも、感謝できるでしょう。
※ なぜ、必然は良いことか? それは、必然は、完全から生まれてくるからです。もし、必然が悪いことなら、神は、不完全な宇宙を創ったことになり、神は、不完全になってしまいます。そんな神がいるわけないのですから、必然は、どこまでも、完全で良いことなのです。
「なぜ、私(自分)は、存在しなければならないのですか? 何も、私が存在しなくても良かったはずです。誰が、私を存在させてくれと頼んだのですか? 私は、そんなこと頼んだ覚えもないし、お願いした覚えもないのに、どうして、私が存在しなければならないのですか? 存在しなければならない義務でもあるのですか? この宇宙に、私がいなくても、何の問題もないはずです。なのに、今、私は、存在させられています。いや、気が付いたら存在していたのです。そのために、苦しい人生を送らなければならない、こんな理不尽な押し付けないのではありませんか?」と、あなたは、文句を言うかも知れません。そうですよね。自分が存在していなければ、何の苦しみも、悲しみも、体験しないで済んだのですからね。でも、良く考えてみてください。もし、あなたが、いなかったら、この宇宙がありますか? あなたが、いるから、宇宙があるのですよ! それは、あなたが、宇宙の創造主だからです。あなたが、いなければ、何も始まらないし、何も生まれないのです。これは、今、始まったわけではないのです。永遠の昔から、そうだったのです。宇宙は、永遠に存在していたわけですから、あなたも、永遠に存在していたのです。ということは、あなた、そのものが、宇宙そのものであるという意味です。このことは、あなたのような熟した魂なら解るはずです。
私も、真理を噛じり始めの頃、あなたと同じ疑問を持ちました。自分を存在させてくれるなど、お節介だと・・・自分の意識がなかったら、何も苦しまないで済んだのにと・・・。ですから、私は、「自分の意識を無くしてください!」と、神様に頼んだ時期があったのです。でも、「お前がいなかったら、宇宙は存在できないではないか、宇宙はお前で、お前が宇宙なのだから!・・・」との、神様からの返答でした。それで、私は、意識の無くなることを諦めたのです。
意識は、絶対無くすことができないのです。これだけは、神様の勝手な押し付けだと言ったって、どうしようもないことなのです。あなたは、自分の意識の無くなった後の事を考えられますか? 絶対、考えられないはずです。これは、あなたの意識が、意識の当体であり、意識の源であり、意識の大元だからです。すなわち、原因無き原因者だからです。あなたの意識が、あなたの意識を生み出したのです。この宇宙に、あなたしかいないからです。絶対無くならない意識なら、どうすれば、良いのですか? 幸せの中に入るしか無いではありませんか・・・。そうです。苦しみたくなかったら、幸せの中に、自分の意識を留めるしかないのです。その留める方法が、神の自覚に入ることなのです。
注意・・この「私は」、肉体の私ではなく、意識の私のことを言っているのです。誤解のないように・・・。
「吾神なり!」を、想い続けていれば、どんな問題も解決するのです。「ありがとう!」を、想い続けていれば、幸せになれるのと同じです。なぜなら、「吾神なり! ありがとう!」を、想いながら、同時に、悪い想いを持てないからです。「吾神なり!」の言葉に、問題解決する力があるのではなく、「吾神なり!」の言葉自体が、良い波動を持った言葉であり、「 吾神なり!」を、想っている時は、同時に、悪い想いが持てないからです。問題を解決する、こんな簡単な方法があったのです。皆さんは、難しく考え過ぎなのです。何か難しいことをしなければ、問題が解決しないと思っているのです。
人生は、想念次第で、どうにでもなるのです。良く考えてみてください。
今まで、何が人生を作ってきたと思いますか?
肉親ですか?
隣人ですか?
学校ですか?
会社ですか?
お金ですか?
地位や名誉ですか?
社会ですか?
国ですか? ・・・。
すべて、自分の想念が、作ってきたのではありませんか?
旅行に行きたいと想い、旅行に行ったはずです。
自動車が欲しいと想い、自動車を手に入れたはずです。
嫁さんが欲しいと想い、嫁さんを手に入れたはずです。
すべて、自分の想念の成果です。
モノだけではありません。病気も、事故も、自然災害も、みな、自分の想念が作ったのです。あなたは、“私は、そんな不幸など、作った覚えがない!”と言うかも知れませんが、あなたの、憎しみの想いや、恨みの想いや、怒りの想いや、心配・恐怖・イライラなどの想いが、遠因となって作られたのです。想念は、何でも作るのです。それは、神と同じ想念を持っているからです。自分の想念で、不幸を作ったのであれば、幸せも、自分の想念で作れるはずです。それは、良い想念を持てば、すべて、問題解決するという意味なのです。
良い思いの一番は、神を想うことです。
神を想っていれば、あなたの人生は、間違いなく、良い方向へ変わって行きます。
それは、神を想っている時は、悪想念を持てないからです。
「ありがとう!」の思いは、確かに、波動の良い思いですが、でも、「ありがとう!」を、思っている時は、悪い想いが持てないというだけで、何かを作るわけではないのです。
しかし、「神を想い続けていれば」、
どうか、想念を有効に使ってください。あなたの人生は、想念次第なのですから・・・。
※ 思ったことは、必ず、実現する。思わないことは、絶対、実現しない。この意味の深さを噛み締めてください。
世の中には、ボランティアーをやったり、寄付をしたりして、人助けしている人たちが大勢おりますが、心から、“人助けしたい!”と、思ってやっている人が、どれほど、いるでしょうか? つまり、純粋な動機で人助けしている人が、どれほど、いるでしょうか? そこに、何らかの成算が、入っていないでしょうか? 例えば、人に良く見られたいとか、犯した罪の償いのためにとか、生きがいのためにとか、(心の空白を埋めたいため)自分の名を知らしめたいとか、自己満足のためとか、・・・。
殆どの人は、自己満足のために、やっているのではないでしょうか? 私は、これを批判するつもりはありませんが、「安易な人助けは罪になる!」ということだけは、心に留めていて欲しいと思います。では、なぜ、安易な人助けは罪になるのか、真理の目から考えてみましょう。
人助けする場合、本当に、その人のためになっているか? よく考えてせねばなりません。近年では、災害が起きると、各地から被災地に、沢山の救援物資が送られてきます。時には、あまり、多すぎて、処分に困るほどです。勿論、被災地の人たちは、喜んでおりますが、本当に被災人の為になっているのでしょうか? このように言うのは、あまり、やり過ぎると、自力で立ち直る意欲を奪いかねないからです。たしかに、切羽詰まっている場合は、助けてやらねばならないでしょう。でも、どの程度まで助けてあげるか?、見極めが大切なのです。
なぜ、苦しいことが、起きるのでしょうか? 自分が、苦しい原因を作っていたからではありませんか? 事件や、事故や、自然災害の苦しみも、病気の苦しみも、貧困による苦しみも、みな、自分が原因を作っていたから起きたのです。なのに、安易に苦しみを取っては、そのことに気付かないではありませんか? それでは、成長が望めません。だから、安易な人助けは罪だと言うのです。では、マザーテレサのやっていた人助けは、悪かったことか? ということになるわけですが、どんなに動機が良くても、人の成長を考えず、人助けしていたなら、それは、良いとは言えないでしょう。ただし、こういうことは言えます。
たとえば、不純な動機で人助けしたとしても、それは、助けた人の今の原子核の量において、助けたいと思ってした必然ですから、それは、良いことなのです。助けられた人から見たら、どんなに安易な助けられ方であっても、助けられるべきにして、助けられた必然だからです。助けられるべきにして、助けられた必然には、ちゃんとした意味があり、また、安易な助けられ方の中にも、ちゃんとした意味があるのです。それは、どんな助けられ方の中にも、ある部分を成長させる材料が含まれているからです。
世の中には、なぜ、助けられる人と助けられない人がいると思いますか? それは、その背後に、原因と結果の法則が働いているからではありませんか?
助けられた人は、
助けてくれる人に出会ったのも、必然、
助けられる環境にいたことも、必然、
助けられる時代に生まれてきたことも、必然です。
一方、助けられなかった人も、
助けてくれる人に出会えなかったのも、必然、
助けられない環境にいたことも、必然、
助けられない時代に生まれてきたことも、必然です。
マザーテレサは、今の自分の原子核の量(魂の熟成度)によって、人助けしたいと思って、人助けしたわけですから、それは、必然的行為として、良いことであり、それによって助けられた人も、助けられるべきにして、助けられた必然ですから、それは、良かったのです。必然は、みな、良いことなのです。
必然によって運ばれている宇宙に、悪い人助けなど無いのです。とは言え、原因と結果の法則を無視した人助けは、できるだけ、避けるべきでしょう。動機が大切なのは、法則を犯さないためです。人助けするなら、相手の成長を考え、やり過ぎない配慮のもとに、やりたいものです。
※ 安易な人助けは、罪になると言う話は、安易に病苦を取っては、成長の妨げになると言う話に通じています。簡単に病気を治したのでは、その人から成長材料を奪ってしまうからです。また、これは、人にお節介を焼く事とも通じている話なのです。世の人々は、良かれと思って、お節介を焼くのでしょうが、お節介を焼くことで、人から成長材料を奪っている場合が、往々にしてあるのです。
お節介焼きの心理状態は、自分が、お節介を焼いて欲しいからです。これは、人に教えたがる人の心理状態と、似ています。自分の中に教えて欲しい思いがあるから、人に教えようとするのです。これは、人を頼る癖をつけてしまい、良いこととは言えません。何ごとも、努力して、厳しいことをして、成長してゆかねばなりません。その意味では、厳しいことをさせてやることが愛です。努力させてやることが愛です。いらぬ手助けは、人を堕落させます。たとえ、どんなに、動機が良くても、やり過ぎは、成長の妨になるわけですから、中庸を見極め、助けてやることが大切です。その中庸の見極めも、魂の熟成度によって違うわけですから、助け方も、みな、違ってくるということです。
奇数と偶数があります。この二つの数字は、交互に置かれていますが、これは、補完し合うためです。この宇宙は、相反するモノが、補完し合いながら、成長してゆくようにできているのです。
熟語として普通は、左側に、「善・悪」の「善」とか、「美・醜」の「美」とか、「幸・不幸」の「幸」、と言った良い意味の字を置くのに、なぜ、ここでは、左側に悪い意味の字を置いたかと言いますと、左側は、実際に無いモノで、右側は、実際に有るモノだからです。左側の世界(陰の世界・物質の世界)は、実際に無い世界なのです。右側の世界(陽の世界・意識の世界)は、実際に有る世界なのです。 物質の世界は、一時、存在している、ニセモノで、意識の世界は、永遠に、存在している、ホンモノなのです。だからと言って、物質の世界を軽んじるわけにはゆきません。なぜなら、物質の世界が無くては、意識の世界の存在意味が無いからです。その意味では、物質の世界と意識の世界は、同等の価値があると言っていいでしょう。
物質の世界と意識の世界は、互いに補完し合いながら存在価値を高め合っているのです。しかし、物質には、何の力もありません。ですから、ホンモノを存在させるために、ホンモノが、ニセモノを装って、活躍しているのです。つまり、神を存在させるために、神が、人間を装って、活躍しているのです。
二つは、一つであり、 一つは、二つでなくては、一つになれないと言う、何とも不思議な関係にあるのが、物質宇宙(相対宇宙)と意識宇宙(絶対宇宙)の関係なのです。つまり、人間と神が補完し合いながら存在を保っている、不思議な関係にあるのが、物質宇宙と意識宇宙なのです。
学びの友の中に、真理を学んでいれば、自覚の境界線が超えられると、勘違いしている人がおりますが、真理が、自覚の境界線を超えさせてくれるのではありません。
真理を、実践することによって、自覚の境界線が超えられるのです。
真理は、あくまでも、道理を示しているだけです。実践の伴わない真理は、単なる絵に書いたボタモチです。それは、毎週、日曜日、キリスト教会に行って、賛美歌を歌っているようなものです。私の本を読んで、私の話を聴いて、満足しているのは、賛美歌を歌って、満足しているようなものなのです。
真理の実践とは、原子核を増やす、三つの方法のことを言っているのです。つまり、社会体験をすること、瞑想をすること、思索をすることです。
この三つの方法は、実際に、エネルギーを動かしているわけですから、間違いなく、前に進むのです。
歩くから、景色が変わるのです。座っていては、景色は変わらないのです。景色が変わらないということは、成長しないということです。あくまでも、自力です。自力で成してこそ、扉が開かれるのです。私は、努力の大切さを言っているのです。何かを成し遂げるには、努力が必要なのです。
くどいようですが、繰り返し言います。
真理が、自覚の境界線を超えさせてくれるのではありません。
真理を、実践することによって、自覚の境界線が超えられるのです。
くれぐれも、誤解なきように・・・。
※ 瞑想できる、有り難さ! 瞑想できる、幸せさ!
瞑想できるところまで、進化してきた自分を、どうか、褒めてやってください!
私たちは、本当に幸せなのですから・・・。
1を知れば、10を知ると言われますが、そんな半端なものではありません。 1を知れば、無限数を知ることができるのです。なぜなら、無限数は、1の分化したものだからです。この宇宙には、1から分かれた、無限数の原子番号が有るのです。つまり、元数1から分かれた、無限の分数が有るのです。無限の分数は、元数1から分かれたものですから、分数の一つを知っただけでも、元数1を知ることができるのです。
今、この地球では、百十数個の元素が発見されていますが、宇宙には、無限に近い数の元素があるのです。その一つ一つの元素は、元数1から出てきた、同じ仲間ですから、一つの元素を知れば、元数1の正体が解るのです。鉱物・植物・動物・人間は、その元素の組み合わせによって作られたモノですから、鉱物を知っても、植物を知っても、動物を知っても、人間を知っても、元数1の正体を知ることができるのです。
今、科学者は、見えないモノに、様々な名前をつけておりますが、どんな名前をつけても、出処は、1ですから、その本性は、みな、同じ元数1、つまり、神なのです。どうか、名前に惑わされないでください。どんなモノも、元数1から出てきた、同じ神の子なのですから・・・。
この宇宙に、神でないものは無いのです。どうか、全ての兄弟姉妹を愛してください。あなたと、同じ神の子なのですから・・・。すなわち、自分なのですから・・・。
※ 1が、二つも、三つも、あっては、無限でなくなります。
一つしか無いから無限なのです。
無限が、二つも、三つも、あっては、無限でなくなります。
一つしか無いから無限なのです。
だから、1は、無限であり、無限は、1なのです。
つまり、どんな数も、1であり、無限なのです。
これが、私が、1であり、無限である、と言える根拠です。
ある人は、言います。「真理を、知れば、知るほど、自覚の境界線が遠のく」と・・・。そうなのです。この宇宙は、探っても、探っても、届かないほど、奥が深いのです。それは、宇宙は、無限だからです。無限を、どうして、知ることができましょうか?
あなたは、「これ以上無い、幸せな意識体験をした!」と思うかも知れません。でも、それは、ほんの一端の体験です。なぜなら、宇宙は、無限だからです。私が、「人は、永遠に悟ることができない!」と言うのは、宇宙は、神は、本当の自分は、無限だからです。どこまで探っていっても、掴めないのが、宇宙なのです。神なのです。本当の自分なのです。ですから、「私は悟った!」と言わないでください。どんな覚者も、永遠に悟れない、真理なのですから・・・。
宇宙の奥深さを知った者は、
それは、主観宇宙の確信を得たからです。つまり、自己完結型宇宙の確信を得たからです。
でも、宇宙の奥深さを知らない者は、
それは、まだ、主観宇宙の意味を知らないからです。つまり、自己完結型宇宙の意味を知らないからです。だからと言って、その人を批判してはなりません。なぜなら、その人の原子核の量によって思った事ですから、それは、必然だからです。
一挙に、成長する者などいないのです。少しずつ、少しずつ、成長するのです。私も、そうだったのです。あなたも、そうだったのです。その人も、そうなのです。ですから、温かい目で、見守ってやりましょう。
注意・・ 学び始めの頃は、誰もが、「明日にでも、自覚の境界線が超えられる!」と思うものです。でも、学びが深まれば、簡単でないことが分かってきます。それは、学べば、学ぶほど、真理の奥深さが観えてくるからです。だからと言って、諦めないでください。なぜなら、風呂桶に、どれくらい、お湯が溜まっているかは、誰も分からないからです。明日、百本目の刀が得られるかも知れないのですよ! ですから、希望を持って、真理を学び続けましょう。
人間は、時間に拘ったり、年齢に拘ったり、性別に拘ったり、職業に拘ったり、慣習や風習に拘るなど、沢山の拘りを持ちます。拘れば、拘るほど、自分を窮屈にするのに、人は、どうして、拘りを持つのでしょうか?
「人間の一番不可思議なところは、拘りを持つことである」と、ある覚者は、言っていますが、これは、自我人間の特徴の一つで、他の生き物にはない部分です。では、一体、この拘りは、どこから、来るのでしょうか?
自分の身を守る、自己保存欲の拘りは、仕方がないとしても、慣習や風習など、他の拘りは、うまく立ち回れば、あるいは、人の目を気にしなければ、拘らなくても良い拘りです。では、人間は、なぜ、拘りを持つのでしょうか?
それは、心が満たされていないためです。心が満たされていないと、空白を埋める何かを探そうとするのです。でも、その空白を埋めてくれるモノが、何か解らないのです。だから、じれったいのです。歯がゆいのです。もどかしいのです。その鬱憤を、拘りで晴らそうとするのです。
真理を学び、自分の本性を知った者は、拘りを持つことが少なくなります。それは、心の空白が埋まったからです。ですから、覚者は、一切、拘りを持たないのです。
※ 拘りは、囚われであり、自己保存欲の一つです。そんな拘りに囚われては、自分を不自由にします。どうか、拘りを捨ててください。この世の拘り事など、実際には、無いのですから・・・。
瞑想の仕組みの根底にあるのは、私たちが持っている、想念です。この想念は、神の意識から生まれたモノですから、神と同じ創造力が付与されているのです。「想念は実現の母」と言われるのも、想念したことは、何でも実現するからです。その想念の力を利用して成し遂げようというのが、瞑想なのです。
私たちは、常に、何かを思っています。私たちは、何も思えないでいられないようにできているのです。と言うことは、常に、瞑想している、と言うことです。瞑想とは、想うことなのです。何か想っている時は、瞑想していることになるのです。と言うことは、この世界で、瞑想していない人は、一人もいない、と言うことです。皆さんは、毎秒、毎秒、瞑想しているのです。ただ、私たちは、そのことに、気付いていないだけです。
今の今だけが、実在です。その今の今を感じられるのは、私たちの意識です。意識が、想念を生み出し、その想念が、物事を成就させているのですから、私たちは、その想念を使って、今日まで、人生を作ってきたのです。
事実、私たちは、
学校に入りたいと想って(瞑想して)、入ったではありませんか。
お金を儲けたいと想って(瞑想して)、お金を儲けたではありませんか。
自動車が欲しいと想って(瞑想して)、自動車を手に入れたではありませんか。
伴侶が欲しいと想って(瞑想して)、結婚したではありませんか。
このように、私たちは、瞑想によって、何でも得てきたのです。
ならば、神を想って(瞑想して)、神の自覚を得ることもできるのではないでしょうか?
想った事は、何でも実現するのが、想念の力ですから、その力を利用しないでは、もったいないです。さあ、瞑想し、神の自覚を得ましょう。
※ この地球で、真の瞑想をしている人は、殆どいません。それは、瞑想の意味を知らないからです。瞑想は、無・空になることではありません。また、気持ち良くなることでもありません。神の想いを深め、神の自覚を得ることです。この「自覚」の意味が理解できないため、真の瞑想ができないのです。
理解できなくても良いですから、想念の力を信じて、神を想い続けてください。きっと、「ああ、そうか!」と、解る時がきます。
※ 私たちは、何と幸せなのでしょう! なぜなら、瞑想できるからです。鉱物や、植物や、動物は、瞑想できません。でも、私たちは、瞑想できます。これは、凄いことなのです。どうか、瞑想できるところまで、進化してきた、自分を褒めてやってください。
運命とは、「命」を「運ぶ」と書きます。命を運んでいるのは、誰でもありません。自分の想念です。良い想念を使えば、運命は良くなります。悪い想念を使えば、運命は悪くなります。なぜ、そのようなことが起きるかと言いますと、良い想念は、光を呼び、悪い想念は、闇を呼ぶからです。事実、人類は、悪い想念を使って、病気や、事件や、事故や、自然災害など、呼び寄せているではありませんか。これは、光は良いモノを実現させ、闇は悪いモノを実現させている、分かりやすい実証例なのです。あなたが、今の苦しい運命を好転させたいと思うなら、どうか、良い想念を使うよう心掛けてください。
私は、最近、よく、想念のお話しをしますが、それは、想念ほど、頼もしく、また、恐ろしいモノはないからです。人生は、想念次第なのです。いや、魂の進化は、想念次第なのです。それほど、想念は偉大なのです。どうか、良い想念を使うよう心掛けてください。そうすれば、もう、あなたの運命は、保証されたも同然です。
※ 命は、永遠です。ですから、運命は、永遠の命の歴史を通して考えなくてはなりません。今生の運命は、前世の運命を背負っているのです。前世の運命は、前々世の運命を背負っているのです。前々生の運命は、その前の世の運命を背負っているのです。だから、アナログ的な運命の見方が必要になるのです。
今生、運命が良いからと言って、喜んでいてはなりません。今の自分の一刻一刻の想念が、運命を決めていると言う、自覚を持って、想念を使ってください。
「出入り」という言葉はあっても、「入出」という言葉はありません。
「出発」という言葉はあっても、「発出」という言葉はありません。
「呼吸」という言葉はあっても、「吸呼」という言葉はありません。
何事もそうですが、先に出があり、後で入りがあるのです。電車でも、エレベーターでも、先に人が出て、後で人が乗るのです。そのことを、知っている熟した魂は、「出」を重視します。知らない未熟な魂は、「入」を重視します。だから、未熟な魂は、物を多く集めようとするのです。物を多く集めれば、当然、ゴミを多く出すでしょう。ゴミの多い社会が、幼い社会だと言われるのは、幼い魂は、物を沢山集めるからです。それは、心が満たされていないからです。心に空白を抱えている幼い魂は、どうしても、物を多く集めようとするのです。
宇宙の整然とした働きをご覧なさい。エネルギー均衡の法則によって、見事にバランスが取れています。人間社会は、どうでしょうか? エネルギー収支のバランスが完全に崩れています。その良い証しが、病気・事件・事故・自然災害などの多発です。物質文明が進めば、エネルギーが低くなるため、災厄が多くなるのです。
これは、思いの使い方も同じです。私たちは、どんな思いを出し、どんな言葉を出し、どんな行為を出しているでしょうか? 出した思い、出した言葉、出した行為には、必ず、回答(結果)が返ってくるのです。良い思い、良い言葉、良い行為には、良い結果が、悪い思い、悪い言葉、悪い行為には、悪い結果が・・・。これは、一ミリの狂いもありません。今、人間が苦しんでいるのは、悪い思い、悪い言葉、悪い行為を出しているからです。苦しい人生にしたくなかったら、「出すもの」を良くしてください。つまり、良い思い、良い言葉、良い行為を出してください。その人は、幸せな人生を歩むことが出来るでしょう。
必然とは、当然という意味です。なるべきにしてなると言う意味です。この宇宙は、必然によって、運ばれているのです。なぜ、必然によって、運ばれているかと言いますと、原因あっての、結果だからです。結果があったと言うことは、結果を生み出した原因があったと言うことです。原因のない結果は、あり得ないのです。原因と結果は、一つなのです。切り離せないのです。必然しかない理由は、原因と結果は、切り離せないからです。
もう一つ、知って欲しいのは、必然とは、秩序ある状態を言います。偶然とは、無秩序の状態を言います。秩序が保たれるのは、法則があるからです。必然は、法則なのです。
「何もしないのに返ってくる、何もしないのに起きる、何もしないのに現れるのが、偶然であり、無秩序の状態であり、法則のない状態です。何かしたことが返ってくる、何かしたことが起きる、何かしたことが現れるのが、必然であり、秩序のある状態であり、法則のある状態です。」
あなたが、石に躓いて怪我したのも、必然です。頭に鳩の糞が落ちてきたのも、必然です。スリにすられたのも、必然です。あの人との出会も、この人との出会も、そのモノとの出会も、あのモノとの出会も、必然です。この苦しみも、あの悲しみも、この喜びも、あの感動も、必然です。何もかも、必然の産物なのです。ですから、法則も、必然の産物なのです。これまで、宇宙が永続してこられたのは、必然の法則の下に、秩序正しく運営されてきたからです。もし、必然の法則がなかったら、この宇宙は、とっくに、消滅していたことでしょう。すべて「法則が・必然が」宇宙を支えてきたのです。
あなたが、
すべて、神の思し召しによって運ばれている必然です。なぜ、必然が、神の思し召しかと言いますと、どんな苦しいことも、どんな悲しいことも、どんな厭なことも、みな、進化成長へ引っ張ってくれている必然だからです。神は、私たちを成長させたいのです。ですから、安心して、今、やるべきことを、真心を込めてやることです。そうすれば、間違いなく、あなたは、最終目標に到達できるでしょう。これが、必然の宇宙における進化の歩みなのです。
どんな困難な問題も、真心を込めてやれば、必ず、解決できます。神は、そのように、宇宙を創っているのです。真心とは、神の心のことです。その同じ心を誰もが持っているのですから、真心を込めてやれば、相手に伝わらないはずはないのです。家庭内の問題も、隣人との問題も、仕事での問題も、どんな困難な問題も、真心を込めて当たれば、解決できないことはありません。
これは、真理の学びにおいても同じです。今、やるべきことを、真心を持ってやること、瞑想も、真心を込めてやること、思索も、真心を持ってやることです。そうすれば、真理の扉は、必ず、開かれます。真心は、岩をも砕くのです。すなわち、真心は、天の岩戸も開くのです。そのためには、強い意志がいります。強い決意がいります。努力と忍耐がいります。何でもそうですが、何かをやり遂げるには、努力が必要なのです。楽して得たものは、ホンモノではありません。苦難の中から得たものが、ホンモノなのです。
人生の目的は、魂(原子核)を大きくすることです。困難なことは、魂(原子核)を大きくするための教材ですから、やり遂げれば、間違いなく、原子核は増えます。原因あれば、結果ありです。どうか、強い気持ちを持って、困難なことに挑戦してください。あなたは、間違いなく、変わります。あなたが、変わった分、周りの環境も変わります。
※ 治療が難しいと言われている、精神病患者(憑依霊)でも、真心を持って、お世話すれば、快方に向かうと、私は信じています。みな、同じ神の心を持っているのですから、真心を持って接すれば、通じないはずはないのです。
人の涙は、情から生まれた、汚れた涙です。神の涙は、愛から生まれた、清い涙です。同じ涙ですが、込められているモノが、全く違うのです。では、その違いは、一体、何でしょうか?
人の涙には、何らかの成算が入っています。たとえば、自分を哀れんで流す、自己憐憫の涙、人の目を気にして流す、自己顕示の涙、感情を掻き立てて流す、作り涙、人の気を引く、お芝居の涙、など、不純な涙が多いのです。この宇宙には、悲しみの涙とか、苦しみの涙とか、怒りの涙とか、悔しみの涙とか言った、汚れた涙など無いのです。あるのは、独りでに出てくる、魂の喜びの涙だけです。その涙の中には、何一つ、不純な思いが入っていないのです。だから、清いのです。美しいのです。その涙に触れた途端、どんな汚れも、流れ落ちる、清純な涙です。
私たちは、そんな涙を流したいものです。
私には、嬉しいことが、8つあります。
1つは、私は、消えて無くなる肉体では無く、永遠不滅の生命意識である、と言う嬉しさ・・・
2つは、この宇宙には、本当に有るものだけが有る(真のみが有る)、と言う嬉しさ・・・
3つは、この宇宙は、善と正義によって、守られている、と言う嬉しさ・・・
4つは、この宇宙は、美と灑によって、飾られている、と言う嬉しさ・・・
5つは、この宇宙は、永遠であり、無限であり、完全である、と言う嬉しさ・・・
6つは、この宇宙は、必然の法則(因果の法則)によって、進化成長へ運ばれている、と言う嬉しさ・・・
7つは、自分の人生は、自分の想念によって、どうにでもできる、と言う嬉しさ・・・
そして、8つは、これが、私の最も嬉しいことですが、私の行く先には、永遠に尽きない、永遠に色あせない、幸せが待っている、と言う嬉しさです。
私たちは、きっちりとした、秩序の中に生かされています。ですから、法則を守って生きていれば、誰でも幸せになれるのです。こんな素晴らしい宇宙に生かされている、私たち、何と幸せなのでしょう!?
私たちが、やるべきことは、今、できることを、精一杯やることです。つまり、真心を込めて、家事をすること、真心を込めて、仕事をすること、真心を込めて、神を求めること、すなわち、瞑想することです。
世の中には、お金や、物や、地位や、名誉や、権力などを、追い求めている人と、精神的なモノを、追い求めている人の、二通りの人種がおります。なぜ、そのような人種が生まれるかと言いますと、物質の世界が本当に有ると信じている人が、物質的なモノを追い求めるのも、当たり前ですし、また、意識の世界が本当に有ると信じている人が、精神的なモノを追い求めるのも、当たり前だからです。つまり、信じられるモノを追い求めるのも、当たり前、信じられないモノを追い求めないのも、当たり前だからです。確信の持てないモノを、「追い求めなさい!」と言う方が、おかしいのです。
一般人も、真理を求めている人も、誰もが、今の原子核の量の自我の思い通りに生きているのです。それは、必然の生き方しかできないからです。必然の生き方しかできないのは、今の原子核の量の思いしか持てないからです。思えないことを、やれるわけがないのです。だから、自我の思い通りに、生きたら良いのです。例え、その思いによって、痛い目にあったとしても、その痛い目が、魂を成長させてくれるのですから、それは、良いことなのです。完全な神が、無駄なことを思わせるわけがないし、やらせるわけもないのです。すべて、意味あって、思わせ、意味あって、やらせているのです。どうか、そのことを信じ、今の原子核の量の自我の思い通りに生きてください。ただし、次の二つのことだけは、やってください。
この二つを、やっていれば、必ず、原子核が増えます。増えた分、自我の思いが、真我の思いに、近づきますから、良い思いが持てるようになり、良い行いができるようになります。これが、神が考えられた、最良の進化の方法なのです。
※「外側の何も変わらなくても、自分の意識が変われば良い!」
この短い言葉の中には、掴んでも、掴みきれない、無限の意味が込められているのです。どれほど、深い意味が込められているかは、原子核が大きくなり、理解力が増せば、増した分の深みを、自分から教わるでしょう。その時、あなたは、驚愕するはずです。
※ 真理を学び続けている人は、心の深みで、確信を得たからです。途中で学びを止めてしまった人は、心の深みで、確信を得ていなかったからです。私が、神キチガイと言われるまでに、神を求めるのは、そこまで、原子核の量が増え、確信を深めたからです。私と同じように、原子核が増えれば、誰だって、神キチガイになるのです。これは、あたり前のことであって、何も不思議なことではないのです。いずれ、地球人類の誰もが、神キチガイになる時代が来るでしょう。
「私は、若い時、こんな悪いことを思っていた! だから、今までも、悪いことが起き、これからも、起きるのではないか?」と、心配する人がおりますが、あまり深刻に考えないでください。なぜなら、今まで 起きていた、悪いことは、業の消えていっている姿だからです。もし、悪いことが起きたら、「ああ、今、業が、消えていっている! 消えていっている! 良いことだ! 」と、思ってください。心配して、業の上塗りをする方が良くありません。さあ、今の今を、ポジティブな思いで生きてください。それは、難しいことではありません。ただ、神を想ったら良いだけです。
想念は、実現の母です。あなたは、これまで、悪いことを思っていたから、不幸がやって来たのです。その悪い思いを、良い思いに変えたら、もう、不幸がやってくることがないのです。
良い思いの一番は、神を想うことです。
心配しても、何の益にもなりません。心配する時間があるのなら、神を想うことに、時間を使ってください。その時間は、建設的な時間になります。生きている時間になります。どうか、心配しないでください。あなたの宇宙を、良くも、悪くも、するのは、あなたの、思い一つなのですから・・・。
※ 人類が苦しんでいるのは、法則を、使い切っていないからです。この宇宙には、「原因と結果の法則」と言う、素晴らしい法則があるのです。その法則を、人類は、正しく使っていないのです。良い思いを持てば、良い原因を作っているのですから、良い結果が来るのです。こんな素晴らしい法則の下に生かされているのに、人類は、その法則を悪いことに使い、良いことに使っていないのです。
※「私は、心配性だ! 私は、人を愛せない! 私は、ダメな人間だ!」なんて、自分を責めないでください。原子核を増やせば、自然と自分の欠点は無くなるのですから・・・。
何をしなくても、今の時を、今の自分を、今の世界を、今の宇宙を、感じている時は、原子核を増やしているのです。なぜなら、感じている状態は、意識している状態、意識している状態は、原子核を増やしている状態だからです。意識すれば、必ず、原子核が増えるのです。それは、意識すれば、原子核が集まるようにできているからです。何を意識しても、原子核が増えるのですから、神を意識している、私たちは、日々、どれほど、沢山の原子核を増やしていることでしょう。
“私は、瞑想がうまくできないから、原子核が増えない!” と、思わないでください。意識している事自体、原子核を増やしているのですから・・・。
意識を持っている、あなたに、無駄な日々はありません。
意識を持っている、あなたに、無駄な人生はありません。
どうか、自分の人生に自信を持ってください。
よく、「自我丸出し!」とか、「自我人間だから仕方がないよ!」など、自我を悪く言う人がおりますが、これは、自我の意味の知らない人の言う言葉です。自我は、決して、悪いモノではありません。いやむしろ、必要不可欠なモノです。なぜなら、自我が無くては、自分の存在が無いからです。
自我とは・・・
自分を認めている、自分の事です。
相手を認めている、自分の事です。
つまり・・
妻子を認めている、自分の事です。
地球を認めている、自分の事です。
宇宙を認めている、自分の事です。
相手が認められるのは、自我があるからです。自分を認める、自我があればこそ、自分が存在でき、相手も存在できるのです。これは、当たり前のことであって、何の不思議もありません。
あなたは、今日まで、自我の思いに添って生きてきました。自我の思いに添って生きてきたがゆえに、苦しかったことが、沢山あったでしょう。でも、その苦しみが、あったればこそ、真理につながったのですから、それは、良かったのではありませんか? そうです。今日まで、自我で選んで来た、あなたの人生は、みな、良かったのです。
私たちは、自我の思いに添って生きるしかないし、また、自我でしか生きられないのです。なぜなら、猫の前に鰹節を置いたら、必ず、食べるのです。これは、当たり前のことです。私たちの人生も、同じです。自我で生きるのは、猫が鰹節を食べるようなもので、誰でも食べるのです。これは、神が許している、必然なのです。ですから、自我で生きるのは、悪いことではないのです。
どうか、安心して、今の自分の思いに添った生き方をしてください。
ただし、次の2つのことだけは、やってください。
この2つのことを、やっていれば、原子核が増えるので、自我の思いが、真我の思いに近づいてゆきます。そうすれば、学びやすい環境が与えられます。当然、これまで以上に、原子核が増やせるでしょう。
神は、私たちに、出来ないことをしなさいとは言っていません。出来ることをしなさいと言っているのです。それが、自然な生き方だからです。
「人生の道」の曲を見て、今日まで歩んできた、自分の人生を振り返ってみてください。きっと、勇気がわくはずです。私の歩んできた人生に、間違いはなかったと・・。
なぜ、余計な情報を発信してならないかと言いますと、余計な情報を発信すれば、余計な情報が入ってくるからです。余計な情報が入ってくれば、当然、余計なことを考えるでしょう。余計なことを考えれば、余計な連想をします。それも、一旦、連想が始まれば、止めどもなく連想するのです。その連想の中身は、大方が悪いことばかりです。想念は、実現させますから、当然、悪いことばかりが起こるでしょう。つまり、原因と結果の法則によって、悪い結果がやってくるわけです。
人間は、全員が全員、妄想によって、自分を苦しめているのです。でも、そのことに、誰も気付いていないのです。”私は、なぜ、こんな苦しい目に合わねばならないのだ!”と、人間は、嘆きますが、それは、自分が妄想していたからです。
私たちは、肉体を持っていますので、肉体を維持するために、必要なことは、やらねばなりません。でも、今、必要なことを考え、今、必要なことを話し、今、必要なことをすれば良いのです。余計なことを考えるから、余計なことをしなければならなくなるのです。どうか、余計な情報を発信しないでください。そうすれば、余計なことを考えないで済みます。余計なことを考えなければ、苦しみは、やって来ません。今、あなたが、やるべきことは、今、生きるに必要なことを、精いっぱいやること、そして、瞑想することです。
念を押します。
この二つをやっていれば、自覚の境界線に近づくことを、私は、保証します。
※ 想わなければ、何も生まれないのが、宇宙の仕組みです。当然、何の悩みも、何の苦しみも、何の不幸も、生まれません。しかし、楽しみも、喜びも、幸せも、生まれません。これでは、生きていると言えるでしょうか?
皆さんは、想わなければ、不幸せを体験せずに済むけれど、幸せも体験できない、と言うことを、どう思いますか? 「想念を持っていれば、不幸を作るから、想念なんか要らない!」と言うのですか、それとも、「不幸は体験するけれど、幸せも体験できるから、持っていたい!」と言うのですか?
「生きている」とは、何でしょうか? 苦楽を体験することが、「生きている」と言う意味ではありませんか? つまり、幸不幸を体験することが、「生きている」と言う意味ではありませんか? 何の体験もできないようでは、「生きている」とは、言えないはずです。
この宇宙に、悪いことなど、一つもありません。なぜなら、どんなに悪いように見えていることも、すべて、進化成長に結びついている、良いことだからです。
意味のないことは、起きないのです。
不必要なことは、起きないのです。
進化成長に結びつかないことは、起きないのです。
起きていること自体が、必然であり、良いことだからです。
この宇宙は、すべて、必然によって、運ばれているのです。その必然は、進化成長に必要な必然ですから、何が起きても、良いことなのです。ですから、今、自分に起きている、苦しみを、悪と受け取らず、成長のための必然として、良く受け取ってください。
“あのことがあったから、今の自分が有るのだ!、本当に良かったな!”と、思える自分になってください。
この宇宙に、悪いことなど、一つも無いのですから・・・そう思えたら、心穏やかになるでしょう。
※ 幸福だけ欲しいと、だだをこねている人は、下り道だけ欲しいと、だだをこねている人です。幸福だけ欲しいと、だだをこねている人は、相手なんか認めないと、だだをこねている人です。その人は、自分をやめてください。自分をやりたいなら、相手を認めてやることです。なぜなら、相手は、自分が創っているからです。
一つでは、一つはないのです。二つあるから、一つがあるのです。自分があるから、相手があるのです。相手がいらない(不幸せなどいらない)と、だだをこねている人は、自分がいらないと言っているようなものです。
バリアフリーで育った子は、いざと言う時、身を守れないのですよ!
楽したいと言う思いが湧いてきたら、サタンにやられていると思ってください。
私たちは、気の遠くなる進化の旅を続け、やっと、自我を持つ人間へと成長してきました。この進化の旅は、霊性の進化の旅だったのです。霊性の進化とは、鈍重な波動から、精妙な波動へ、自分を昇華させることですが、そのためには、これまで付けてきた、鉱物臭さ、植物臭さ、動物臭さ、人間臭さを、取り去らねばなりません。取り去るためには、できるだけ、物質的なモノから離れる必要があるのです。
具体的には、
このように言うのは、波動の低いモノに意識を傾けていては、霊性を高める妨げになるからです。
霊性を高めるのに、難しいことをする必要はありません。
次の二つのことをすれば良いだけです。
社会体験とは、肉体を維持するために、今、やらなければならないことを、真心を込めてやることです。瞑想は、言うまでもありません。神を想い続けることです。この二つをやってれば、間違いなく、霊性が高められます。高められた暁には、私たちは、幸せの境地に入れるのです。
それは、
霊は、神です。生命です。光です。幸せの大本です。霊は、幸せの別名なのです。それは、自分と切り離されているモノではないのです。
※ 霊性の進化の大きな節目の一つは、自我を持つ人間に進化することで、私たちは、そこを超えました。次の大きな節目は、神の自覚を持つ神人へ進化することです。そのためには、人間臭さから、一日も早く、抜け出さねばなりません。
夕時になると、家々の窓から明かりが、夕餉の臭が、漏れてきます。誰もが、ホッとする一時です。でも、それを懐かしがっていてはいけないのです。この世は、一夜泊まるホテルのようなモノです。そこに、長居は、禁物なのです。どうか、これまで付けてきた、鉱物臭さ、植物臭さ、動物臭さ、人間臭さを取ってください。
苦しいことがやってくると、殆どの人が、その苦しみに負けて、業の上塗りをしてしまいます。これでは、いつまでたっても、苦しみから抜け出せません。では、業の上塗りをしないためには、どうすれば、良いのでしょうか?
皆さんは、まだ、自分の想いの凄さを知りません。
皆さんの想いは、
何でも作るのです。
何でも生み出すのです。
何でも成就させるのです。
想いほど恐ろしく、また、素晴らしいモノはないのです。
こう言っても、皆さんは、まだ、他人事のように思っています。
即、今のあなたの人生に関わってくることなのですよ!
“何も想わなかったら、何も生まれない!”
この言葉が、どれほど、深い意味を持っているか、知ってください。もし、心の底で知ったら、あなたは、”やったぞ!”と、ガッツポーズをすることでしょう。
私が、何を言わんとしているのか、解りますか?
私は、今、凄いことを言っているのですよ!
私は、今、皆さんに、宇宙一の宝物を与えようとしているのですよ!
繰り返し言います。
“何も想わなかったら、何も生まれない!” のです。
良い事も・・・悪い事も・・・、どうか、この意味の深さを、知ってください。
※ “想わなかったら、何も生まれない!” しかし、私たちは、一時も、何も想わないではいられないのです。想わないでいられないなら、何を想うべきですか?
「光は神なりき!」と言われていますが、なぜ、光は、神なのでしょうか?
それは・・神と同じ能力を持っているからです。
このように、光は、神と同じ能力を持っているのです。
だから、“光は神なりき!”と言われるのです。光は、神の別名なのです。
※ 光は、オールマイティーですから、光が強くなれば、間違いなく、人生は好転します。
では、光を強くするには、どうしたら、良いでしょうか?
簡単なことです。想念を良く使うことです。つまり、どんなことも、良く受け取り、悪想念を抱かないことです。悪想念を抱かないようにするためには、時間の許す限り、神を想うことです。たった、これだけで、人生は好転するのです。
○が万能なのは、神と同じすべての要素が備わっているからです。
この宇宙には、○のみがあるのです。私たちの住んでいる相対宇宙にも、○はありますが、その○は、多面の○です。しかし、絶対宇宙の○は、一面の○なのです。これが、表現宇宙の○と絶対宇宙の○の大きな相違点です。でも、多面の○だからこそ、表現宇宙に無数の表現物が生まれてくるのです。絶対宇宙に表現物がないのは、一面の○しかないからです。しかし、一面の○だからこそ、万能なのです。
このように、○は、万能なのです。万能ゆえに、○は、神なのです。
※ 表現物の中で、一番、調和の取れているのが、○と言う形です。一番、波動の良い形が、○なのです。だから、○を思うだけで、○を語るだけで、○を見るだけで、幸せな気分になるのです。その証に、○を描いてみてください。気持ちが良くなります。手で空中に、○を描いても、思いで描いても結構です。それも、できるだけ、ゆっくり描いてください。心が和むはずです。心が穏やかになるはずです。心が落ち着くはずです。
真理に目覚めた途端、積極的な人になるのは、潜在していた神の本能が働き出したからです。真理に目覚めた人は、なぜか知らないけれど、動きたくなるのです。これは、動けば、原子核が増えることを、本能的に知っているからです。
この宇宙は、動けば、動くほど、進化成長するよう創られているのです。その証拠に、宇宙の運行や、自然界の働きや、生物の動きを、見てください。星雲も、恒星も、惑星も、彗星も、空気も、水も、土も、菌も、虫も、鳥も、魚も、どんな生き物も、みな、動いています。それも、楽しく・・・ウキウキと・・・自我はなくても、彼らは、動けば、原子核が増えることを、本能的に知っているからです。自我のないモノでさえ、そうなのですから、真理に目覚めた者が、動くようになるのは、当然でしょう。でも、人間の中には、動くのを嫌っている者がおります。これは、動くことの重要さを知らないからです。知らなければ、どうしても、楽な生き方を選んでしまうのです。
一万円持っていても、持っていることを知らなければ、使えないのです。パソコンを持っていても、使い方を知らなければ、使えないのです。「無知こそ最大の罪!」と言われるのは、知らなければ、原因を作ろうとしないからです。
でも、私たちは、原子核を増やす方法を知ったのです。それも、絶対、間違いない方法を・・・。 なのに、あなたは、どうして、やろうとしないのですか? 信じられないからですか? やって、嘘なら、引き返したら、いいではありませんか? やりもしないで、嘘だと、決めつけるのは、賢い人とは言えません。どうか、積極的な人になってください。「犬も歩けば棒に当たる!」の諺を信じ、ぜひ、動いてください。動いて(体験して)損することなど、絶対ないのですから・・・。
※「犬も歩けば棒に当たる」の諺の意味は、犬もフラフラ歩いていると、棒に当たって、転ぶものです。でも、転んだら、必ず、何かを拾って起き上がるものです。何かを拾うとは、体験すると言う意味です。体験は、間違いなく、人を成長させるのです。だから、諺は、「フラフラでもいいから動きなさい!」と言っているのです。
最近、数人の皆さんから、“素晴らしい意識体験をしました!”、と言うご報告を頂いております。これは、嬉しいことなのですが、誤解すると、道を遠回りしかねないので、ご注意申し上げます。
霊能者たちが、次のような意識体験をしたと言っております。
周りの人たちが、自分に思えてきて、抱きつきたくなったとか、
自分が、宇宙大に拡大し、宇宙そのものになったとか、
すべてのモノが、神に思えきて、愛おしくなったとか、
神の光に満たされ、言いようのない至福感を体験したとか・・・
中には、青龍の背に乗って、天に昇ったと言う人もおります。
他にも、
自然の息遣いが感じられるとか、
樹液の流れが感じられるとか、
自分の胸の中で、宇宙が回転しているのが見えるとか、
まるで、覚醒剤を飲んで、ハイになったような意識体験をしているのです。このような意識体験は、感情を揺ぶるため、涙が止めどもなく出てくるのです。私も、奇想天外な意識体験を数多くしておりますが、これは、有る意識ゾーンに入った時に起きる現象で、これを、仏教では、アラヤシキ(阿頼耶識)の境地に入ったと言っております。でも、意識に、そのような、ゾーンが有るわけではありません。すべて内側の(自分の)、想念感情が創った現象です。これは、「自分しか存在しない!、主観宇宙しかない!」と、思っている人には、解って頂けると思います。
私たちの想念は、何でも創るのです。その自分で創った現象を、悟りと誤解してしまう人が多いので、私は、現象を良く思わないのです。世の中には、悟ったと誤解し、宗教の指導者になっている人がおりますが、これは、人を惑わすことになるので大変危険です。皆さんは、熟成した魂ですから、そのようなことはしないと思いますが、増長すると、そうならないとも限らないので注意してください。私たちが得るべきモノは、あくまでも、自覚です。この自覚は、現象とは、関係ないのです。(自覚の意味が、心の底で解ったら、そのような現象に、惑わされることはなくなる。)
宇宙は、無限です。神は、無限です。その宇宙を、その神を、知ることは、永遠にできないのです。素晴らしいモノを掴んだと思っても、その先に、それ以上の素晴らしいモノが、見えてくるのが、宇宙の深淵さだからです。ですから、素晴らしい意識体験をしたからと言って、「これが、悟りだ! これが、最高だ!」と、誤解しないでください。誤解すれば、意識を限定するので、成長が止まってしまいます。水をさすようですが、世の中には、そのような意識体験をしている人は、沢山いるのです。
ある人は、このようなことを言っておりました。“私は、最高の絵の構想を持って、描いていたつもりだったが、描き終わた途端、色褪せてしまった!”と・・・。私たちは、一刻一刻、成長しているのですから、今、最高と思っていることも、次の瞬間、虚しくなるのは、当然なのです。でも、虚しくなるのは、自分が成長している証ですから、それは、良いことです。
私たちは、永遠に到達できない(悟れない)道を、永遠に歩んで行くのです。でも、永遠に到達できないがゆえに、素晴らしいのではありませんか? ここで終わり、と言う宇宙に、何の魅力がありますか? 終着点のない宇宙だからこそ、希望が持てて、楽しいのです。手の届く幸せは、幸せではないのです。永遠に手の届かない幸せだからこそ、幸せなのです。その幸せは、理解力と自覚が、与えてくれるのです。ゆえに、大切なのは、現象ではなく、理解力と自覚です。
どうか、誤解しないでください。原子核を増やして、理解力と自覚を高める、正しい真理の求め方をしてください。それは、二つのことを、やればいいのです。
※ 先日、「食後、瞑想してはいけないのですか?」と言う質問を受けました。そのようなことはありません。ただ、食後、瞑想すると、眠くなるので避けた方が良いかもしれません。でも、眠くならないなら、やっても良いのです。
私たちは、宇宙エネルギーで満たされると、心穏やかになるようにできているのです。食べ物の中にも、宇宙エネルギーが入っているわけですから、食事すると、心穏やかになり、眠くなるのは、当然なのです。
この社会では、処世術に長けている人が出世でき、処世術の下手な人は出世できないようですが、不思議なことに、賢い人ほど、処世術が下手なのです。彼らは、おべんちゃらも言えない、胡麻をすることもできない、へつらうこともできない、うまく立ち回ることもできない、およそ、出世とは、縁遠い生き方をします。なぜでしょうか? それは、この世の何を得ても喜べないからです。何とつまらない人と思うかもしれませんが、でも、そのような生き方をしている人の方が賢いのです。なぜなら、心が穏やかに生きられるからです。
世の人々を見てください。毎日、物や金や地位や名誉を得るために、戦々恐々として生きています。ライバルとの闘い、得意先との競争、ノルマ達成など、寝る時間を惜しんで働いています。このような生活が、賢い人の生き方でしょうか?
私たちに、必要なのは、物や金や地位や名誉ではありません。心の穏やかさです。心穏やかに生きるのに、処世術など必要ないのです。だから、賢い者は、出世欲を持たないのです。
賢い人は、
このような、生き方をしている人は、神に近いので、原子核を増やすチャンスが巡ってくるのです。
私が望んでいる今は、今の今です。過去の今でも、未来の今でもありません。今の一時の今なのです。しかし、その今の一時は、すぐに、過去の一時になってしまいます。でも、すぐに、今の一時はやってきます。と言うことは、今の一時は、永遠に続く、今の一時であると言うことです。それは、今しか無いと言う意味です。「今・今・今・今・・・」だけが、永遠に存在すると言う意味です。
では、その今の一時を使えるのは、何でしょうか? それは、想念です。想念だけが、今の一時を使えるのです。なぜなら、想念だけが、時をなぞれるからです。想念以外、時を使うことは、絶対できません。それは、想念意識そのものが時だからです。時が意識そのものだからです。意識 = 時 なのです。時 = 意識 なのです。ですから、想念意識だけが、時をなぞれるのです。このことだけは、知っておいてください。
では、その想念意識を使えるのは、誰でしょうか? それは、人間なら、誰でも使えます。金持ちであろうが、貧乏人であろうが、白人であろうが、黒人であろうが、男であろうが、女であろうが、大人であろうが、子供であろうが 頭が良かろうが、悪かろうが、想念だけは、平等に使えるのです。
では、その想念を使うのに、何か特別な技術がいるのでしょうか? いいえ、何の技術もいりません。ただ、想えば良いだけです。ただし、想いの内容を考え使ってください。なぜなら、想念したことは、何でも実現するからです。実際、私たちは、今日まで、苦しい人生も、楽しい人生も、自分の想念で作ってきたではありませんか? でも、地球人類は、残念なことに、未だに、そのことに気付いていないのです。だから、自分(想念)で、苦しみを作りながら、人のせいにしたり、偶然のせいにしたりして、嘆き悲しんでいるのです。これでは、いつまで経っても、成長できません。病気も、事故災難も、家庭内の不幸も、みな、自分の想念が作ったのです。
「想念は実現の母!」です。どうか、このことに気付いてください。
「宇宙は有限である!」と言う人がおりますが、宇宙の奥に何か壁でもあるのでしょうか? もし、あったとしても、その壁の向こうは、どうなっているのでしょうか? また、壁があるのでしょうか? もし、あったとしても、その壁の向こうは、どうなっているのでしょうか? また、壁があるのでしょうか? どんなに壁を作っても、この話は、永遠に続くのです。だから、宇宙は無限なのです。それでは、宇宙は無限である、と言う前提のもとに話を進めましょう。
あなたは、Aさんを殴りました。
それは、殴らなければならない原因があったからです。
では、その原因は、何でしょうか?
Aさんに殴られたから?、嫌なことをされたから?、嫌なことを言われたから?
理由は、どうあれ、殴る原因があったから、あなたは、Aさんを殴ったはずです。
さて、Aさんを殴った原因は、Aさんを殴ったことで消えています。
殴られたAさんの原因も、あなたに殴られたことで消えています。
ですから、お互い、殴り殴られたことで、原因と結果の法則は、終息しています。
では、Aさんは、どうして、あなたに殴られるようなことをしたのでしょうか?
何の理由もなく、するはずがありません。
あなたが、Aさんに、何か嫌なことをしたから(原因を作ったから)、Aさんは、あなたに嫌なことをしたはずです。
でも、その嫌なことをした、Aさんは、その前に、あなたから、嫌なことをされたから、嫌なことをしたはずです。
でも、その嫌なことは、その前の前に、あなたから、嫌なことをされたから、したはずです。
こうなると、嫌なこと(原因と結果)が 、永遠に、めぐることになり、終息点はありません。
では、どうして、最初に、嫌なことが生まれたのでしょうか?
つまり、最初の原因は、どうして、生まれたのでしょうか?
それは、原因なしに生まれたのです。なぜなら、宇宙は、無限だからです。無限宇宙には、最初が無いわけですから、原因が無いのです。これが、原因無き原因の謂われなのです。と言うことは、あなたは、原因なしに、Aさんを殴ったことになります。この原因なしに殴った、例え話が、原因無き原因の存在する理由なのです。もし、事の起こりに、原因が必要なら、この宇宙に、何も生まれなかったでしょう。何も生まれなかったら、どうして、私たちは、学べるでしょうか? 学べない宇宙に、何の意味があるでしょうか?
私たちは、成長してゆかねばなりません。そのためには、体験して学ぶ必要があるのです。だから、体験できる宇宙を創る、原因無き原因者が必要なのです。でも、その原因無き原因者は、神であろうが、誰であろうが、良いのです。つまり、誰が最初に殴ったかなど、どうでも良いのです。ただ、私たちは、体験し、学び、成長できれば良いのですから・・・。
この世で起きている、すべての事象は、法則どおり、寸分の狂いもなく、展開されて行きます。そこに、一切の、偶然も、奇跡も、例外も、特別も、ありません。ただ、法則どおりに、粛々と進められて行くだけです。ですから、法則どおり、生きていれば、私たちに、苦しみはないのです。情け容赦なく、法則どおり、展開してゆく宇宙は、まさに、神の峻厳な愛の現れです。冷たいように思えますが、それが、一番、間違いのない、進化の方法だからです。もし、人間のような情をかけたら、宇宙は、大混乱に陥ってしまうでしょう。とは言っても、神は、一つだけ、恩情を示されました。それは、「二度と罪を犯さない!」と、堅く心に誓った時に許される恩情です。神は、ご存じです。「肉体を持っている限り、罪を犯すのは仕方がない!」と・・・。だから、神は、悔改めた者に、恩情を示されたのです。
私たちは、進化成長するために、生まれてきました。この世の厳しいドラマは、進化成長のために、自分が用意した課題ですから、乗り越えられない課題など、一つもないのです。ただし、漫然と生きていては、乗り越えられません。
次の二つのことだけは、やってください。
※ 社会体験とは、今、やらねばならないことを、真心を込めてやることです。瞑想とは、神を想うことです。この二つを、やっていれば、あなたの生活環境は、間違いなく、良い方向へ開けてゆきます。今のあなたの環境が変わらないのは、まだ、その環境で、学ぶ必要があるからか?、真剣にやっていないか? の、どちらかです。
銃社会と言われるアメリカで、銃撃事件が起きる度に、銃規制問題が取り沙汰されますが、一度だって、法制化されたことがありません。人間は、自分の身を守るために武器を手放せないでいますが、本当は、自分で身を守る必要など無いのです。なぜなら、法則(因果の法則)が、身を守ってくれるからです。法則を犯せば、痛い目にあいます。法則を守れば、幸せになります。つまり、法則を犯せば、法則によって罰せられ、法則を守れば、法則によって守られるのです。でも、人間は、そのことを知りませんから、軍備の増強をして、身の安全を図ろうとするのです。確かに、銃を持っていれば、身の安全が図れるような気がします。でも、全く反対なのです。なぜなら、相手も、身の安全を図ろうとして、銃を持つようになるからです。「北風と太陽」と言う童話があります。
この童話は、北風と太陽の、どちらが、旅人の上着を脱せることができるか、勝負する話ですが、まず、北風が、旅人に風を吹きかけ、強引に上着を脱がせようとします。でも、吹きかければ、吹きかけるほど、旅人は、身を固くして脱ごうとしません。北風は、諦めます。
次に、太陽が挑戦します。太陽は、旅人に陽の光を優しく注ぎます。暑くなった旅人は、たまらなく、上着を脱ぎます。力づくで脱がせようとした、北風の方が負け、優しく陽の光を与えた、太陽の方が勝ったのです。
この童話が示すように、強引に脱がせようとすれば、相手も防御を固め、開襟を見せれば、相手も開襟を見せてくれるのです。抑止力として核兵器が必要だと言いますが、均衡を保つには、倍の核兵器が必要になるため、危険も、間違いも、倍になるのです。人間は、感情の生き物ですから、間違って、使わないとも限らないのです。事実、感情の抑えられない人たちが、凶器を使って、様々な惨事を起こしているではありませんか? 凶器がなければ、そんな惨事は、起きないのです。
確かに、因果の法則は、人の目に見えづらいだけに、信じられないかも知れません。でも、信じられなくても、間違いなく、因果法則は、身を守ってくれるのです。いずれ、地球人類は、銃で身を守らなくても、法則が守ってくれることを知るでしょう。人類は、それを知るために、今、痛い目にあっているのです。
繰り返します。
身の安全を図りたいなら、法則(因果の法則)を守ることです。そうすれば、法則が身を守ってくれます。それは、誰に頼む必要もないし、お金もかかりません。こんな素晴らしい、セキュリティーシステムがあると言うのに、どうして、人類は、使おうとしないのでしょうか?
さあ、法則を信じ、法則を守ってください。法則を守っていれば、何もしなくても、身の安全が図られるのですから・・・。
先日、特に用もないのに、わざわざ、車を運転して、清里まで行ってきました。私は、なぜ、そのような行動を取ったのでしょうか? それは、常々、清里に行きたいと思っていたからです。皆さんも、体験あると思いますが、なぜか知らないけれど、やりたくなる、したくなる、行きたくなる、と言った気持ちが起きるのは、普段、そう言う思いを持っていたからです。一回や二回、思っても、行動につながりませんが、何度も思っていたら、行動につながるのです。私が、普段の思いが大切だと言うのは、常々、思っていたことが、肉体上に、行動上に、環境上に、現れてくるからです。戦争も、テロも、盗みも、人殺しも、自殺も、病気や、事故や、災難や、災害も、普段の思いの現れです。
人生は、すべて、想念次第なのです。想念次第なら、想念で、人生を、どうにでもできるのですから、こんな安心なことはありません。しかし、殆どの人が、人生に不安を抱いています。それは、想念を信じないで、運や偶然を信じているからです。この宇宙に、運や偶然など、微塵もないのです。あるのは、想念によって作られる、必然のみです。
普段、思っていたことが、行動に現れると言うことは、普段、思っていたことが、人生に現れると言うことですから、普段の想念を良くよく注意して使わなくてはなりません。どうか、良い想念を持つよう、心掛けてください。そうすれば、もう、保険に入る必要も、銃を持つ必要も、ありません。
注・・・普段、“私は、誰よりも、意識(理解力)が高い!”と、思っている人は、何かの拍子に、言葉や態度に出るものです。本当に、意識(理解力)の高い人なら、そのような思いは、持ちません。
世の中には、威厳を見せ、話をする指導者や、威厳を頼りに、話を聞く人がおりますが、内容で勝負できない指導者は、威厳を見せて、人を引きつけるしかありません。また、聞く方も、理解力がなければ、威厳や、名声や、現象などを頼りに、話を聞くしかありません。これでは、空っぽのものを、食べ合っているので、何も身に付きません。でも、偉く(威厳)見せなくては、話を聞いてくれないし、また、聞く方も、理解力がなければ、威厳を頼りに、聞くしかないのです。幼い魂は、偉く見せかける人(先生・肩書・名声など)の話は、聞くけれど、そうでない人の話は、聞かないのです。それは、この社会で「名のある人は偉い!」と言う、概念が独り歩きしているからです。先生の名が、大切なのではなく、その人が話す内容が、大切なのではありませんか?
本来なら、威厳など、見せる必要はないのです。反対に、親しく接するべきです。覚者が、“私とあなた達とは、何も変わらないのですよ!” と言うのは、親しく接すれば、 “私でも悟れる!” と、思ってもらえるからです。
皆さんのように、理解力の高い魂には、もう、威厳も、名声も、現象も、必要ありません。私が、皆さんと、親しく接するのは、「皆さんと、私とは、大して変わらない!」と言うことを知ってもらいたいからです。だからと言って、人の家に、土足で、ヅカヅカと入る、非常識なことはしないでください。真の求道者は、常識人なのですから・・・。
※ 節目を超えた人の心は、無限大です。どんなことも受け入れる、大きな心を持っています。ですから、常識人です。誰とでも、親しく付き合います。決して、自分を偉く見せません。偉く見せるどころか、頭の低い人です。どうか、気軽に付き合ってください。