○インドのヒンドゥー教では、 死者を火葬して、一片の骨も残さず、聖なるガンジス河に流さなければならないと教えています。死人の毛や骨が、この世に少しでも残っていたら、その魂は、天国に行けないと信じているからです。
この教えが正しければ、骨が原子に帰るまで、数万年かかるわけですから、数万年、天国に帰れないことになります。天国は、物質(肉体)に関係ないのです。天国は、いかに、正しい想いを持って生きているかで決まるのです。誤解されては困るので付け加えますが、天国と言う場所があるわけではないのです。天国のような精妙な波動の世界があると言う意味です。
○イスラム教では、火葬すると、火炎地獄に落ちるので、火葬してはならないと教えています。
この教えも間違っています。想念を、悪く使っていたか、良く使っていたか、が、逝く世界を決めるのであって、埋葬の仕方によって、逝く世界が違うのではないのです。
○インドのカラティア族の間では、子供が、親の死肉を食う習慣があったようです。これは、死体を食べる事によって、親と一心同体になれると信じられていたからです。
肉体は、単なる物質です。いずれ、原子崩壊して無くなってしまうのですから、自然に任せておいたら良いのです。その点、微生物が分解する土葬は、自然で一番良い方法かも知れません。でも、日本のように土地の狭い国では、火葬が一番適していると思います。世界には、鳥葬・獣葬・風葬など、色々な葬儀方法があるようですが、できるだけ早く、元の原子に返してやることが、魂の進化のためには良いのです。なぜなら、原子を早く宇宙空間に返してやれば、再生されるチャンスが早まるからです。死体を食べて一心同体になるなど、甚だしい、迷信です。
○百数十年前までは、生贄・殉死(殉葬)・人柱・後追い自殺・人身御供などの悪習がありました。
自然(神)の怒りを収めるために、人柱を立てる・・尊い人のために、殉死する・・死んだ人の義理のために、後追い自殺するなど、意味のない悪習です。
○生前、良いことをしていれば、天国に行け、悪いことをしていれば、地獄に落ちて苦しむと言う教えがあります。
確かに、この考え方は、ある面、正しいでしょう。でも、天国や地獄があるわけではないのです。天国のような・・地獄のような・・波動の世界があると言う意味です。死んだ人の想いが、天国や地獄のような世界を作っているだけです。
○生前の信仰心が、死後の行き先を決めるという教えがあります。キリスト教が、これに当てはまるでしょう。キリストでは、洗礼を受けたキリスト教徒だけが、神の国に行けると教えますが、この教えが正しければ、他宗教の人や無信仰の人は、神の国に行けないことになります。死後の行先を決めるのは、信仰心が、有るか、無いかではありません。その人が、どんな想いを持って生きていたかです。
○生前の身分が、転生輪廻を決めると言う考えがあります。古代エジプトでは、王様だけが、この世に生き返ると信じられていましたので、王様が生き返っても、寂しくないよう、立派なピラミッドを作り、棺の周りを宝物で飾り立てたのです。
この考えが正しいなら、貧乏人や身分の低い者は、生き返れない(転生輪廻できない)ことになります。
○死んだ時の思いが、死後の行き先を決めると言う考えがあります。
確かに、想いは、実現させますから、明るい思いを持って、この世を去ったら、明るい世界に帰り、暗い思いを持って、この世を去ったら、暗い世界に帰らなければなりません。でも、明るい世界や暗い世界があるわけではないのです。自分の思いが、「明るい世界や暗い世界」を作るのです。
○死の直前における遺族の態度が、死者の行く先を決めると言う考えがあります。
この考えが正しいなら、臨終の時に、近親者は、しっかり、泣いてあげねばなりません。泣けば、泣くほど、皆から愛されていると思い、安心して死ねると言うわけです。ですから、中国には、お金で雇われた泣き男や泣き女がいたのです。日本にも、泣き加減によって謝礼が違う、一升米泣きとか三米泣きとか言った風習があったようです。でも、こんなことをすれば、死んだ人が、この世から離れづらくなるだけです。死んだ人は、一刻も早く、逝くべき所に往かねばならないのです。
○死者の生前の行いが、生まれ変わる世界を決めるという考えがあります。悪いことをした者は、地獄界や、餓鬼界や、畜生界や、修羅界に、生まれ変わり、良いことをした者は、人間界に、生まれ変わると言う考えです。
これも、迷信です。一旦、人類に進化した魂は、どんなに、悪事を働いても、動物に生まれ変わることはありません。この宇宙には、進化はあっても、退化は無いのです。死後の世界に、地獄界や、飢餓界や、畜生界や、修羅界などがあるのではないのです。死んだ人の思いが、そのような波動の世界を作るだけです。
○供養すれば、死者が幸せになれるという教えがあります。仏教の供養の催事が、それに当てはまるでしょう。
もし、この教えが正しければ、供養してくれる肉親のいない死人や、供養できない貧乏人は、幸せになれないことになります。
供養には、初七日・四十九日(忌明け)・百か日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌と言った行事があるようですが、これは、生きている人たちの慰めや自己顕示欲にしか過ぎません。日本には、お盆祭りをする習慣などありますが、こんな祭りをすれば返って死んだ人を地上に縛り付けるだけです。
宗教に、入っているか、入っていないか、信仰心を、持っているか、いないか、供養をしているか、していないか、そんなことは、関係ありません。肉親が、どんなに、お経を上げても、どんなに供養しても、どんなに大きな墓を作って飾ったりしても、死んだ人を幸せにすることはできないのです。肉親のただの気休めです。死んだ人が良い想念を持っていれば、幸せになり、悪い想念を持っていれば、不幸になるだけです。
よく、事故の起こった場所に花束を置く習慣がありますが、これも、生きている人たちの自己満足か自己顕示です。死んだ人には、向こうで、やるべきことがあるのですから、ソーッとしてあげるべきです。騒げば、騒ぐほど、死人を惑わすだけです。
○死霊が地上に出ないよう墓の上に大きな石を置いたり、死体に石を抱かせたり、極楽縄や地獄縄と呼ばれる縄でグルグル巻きしたりする風習があるようです。これは、死人を恐れる誤った信仰から生まれたもので、死人が生者に危害を加えることは絶対できません。
○道祖神を祀ったり、お地蔵さんを祀ったりする、信仰があります。
目に見えない力を信ずる人たちは、何かにすがって身の安全を図りたいのです。でも、祀っても何の意味もありません。ただ、気休めにはなるかも知れません。
○「疳の虫退治」や「おまじない」を信仰する人たちがおりますが、
これも、単なる気休めです。幸せが欲しいなら、自力(内側の力)で、なさねばなりません。外側の力を信じ、自分を誤魔化してはなりません。
○世の中には、手相占い、顔相占い、タロット占い、方位占い、星占い、風水占いなど、様々な占いがあるようです。どうして占いが流行るのかと言いますと、一寸先 闇が人生だからです。一秒後 何が起こるのか、今日 何が起こるのか、明日 何が起こるのか分からない不安な人たちが、身を守るために占術に頼るのです。占いは信ずる人には効きますが、信じない人は効かないのです。それは、信じる思いが現象を作るからです。
○他にも、「丑時参りの信仰」とか、「呪いの信仰」とか、「祟を封じる信仰」などがありますが、いずれも、無知が生み出した意味のない信仰だと思ってください。
○息について様々な考えがあるようです。
仏教でも、神教でも、息を吹きかける行為は、無礼な行為とされています。なぜ、無礼な行為か?・・それは、人間を不浄な生き物だと思っているからです。だから、仏教でも、神教でも、祭壇のロウソクの火を息で消す行為を禁じています。不浄な人間が、尊い仏様や神様に息を吹きかけるのは、無礼だと言うわけです。確かに、人間は、汚い言葉を使いますから、口から出る息は不浄かも知れません。でも、本来、人間の息は清いのです。なぜなら、人間は、神の息によって創られた、「神の子」だからです。「息」とは、神のことなのです。ですから、人間の息は、本来、清いはずなのです。覚者が息を吹きかけ、場を清めるのは、「息」そのものが、神の光だからです。
このように、人間は、「息の子」です。つまり、「神の子」です。だから、人間の息は清いのです。事実、神の自覚を持った人の口から出てくる息は、白く輝いています。でも、覚者でなくても、神を想っている人の吐く息は、白く輝いているのです。どうか、神を想いながらロウソクの火を消してください。
では、正しい息の吹きかけ方を教えましょう。
息を「フッ」と吹けば、エネルギーを落とします。「ハアー」と吐けば、エネルギーを高めます。ですから、温める時は、「ハアーハアー」と息を吐き・・・冷やす時は、「フーフー」と息を吹きかけねばなりません。息を吹く「フー」と吐く「ハアー」には、他にも意味があります。「フー」と息を吹くのは「陰」で、否定的な使い方です。「ハアー」と息を吐くのは「陽」で、肯定な使い方です。ですから、否定的な「フッ」で息を吹きかけてはなりません。ただし、「ハアー」と吐いたのではロウソクの火は消せません。では、どうして消すか? 神を想いながら、「フッ」と息を吹きかければ良いのです。
○人間社会には、色々な無礼行為があるようです。ここで無礼行為について考えてみましょう。
尊い物や高貴な人に、足を向けたり、背中を向けたりするのは、無礼な行為とされています。足は波動が低く汚く、背中は否定を意味するからです。ですから、天皇様の前から去る時は、正面を向きながら、後ずさりをします。西洋でも王様や高貴な人の前から去る時は、頭を下げ、後ずさりしながら立ち去ります。このように人間社会には、色々な習わしがあるわけですが、真理を学んでいる皆さんは、気にすることはありません。なぜなら、私たちは「息の子・神の子」だからです。神の世界には、陰も、陽も、下も、上も、無いのです。あるのは、一のみです。一の世界に、不浄や清浄などの差別は無いのです。迷信や旧習に、あまり囚われないでください。ただし、周囲の人たちとの協調性を欠いてはなりませんから、郷に入れば郷に従いという諺があるように、その場の雰囲気を考え適切な行動を取ってください。
締めの言葉・・
○先祖や死んだ人の幸せを願うなら、この世にいる自分たちの幸せな姿を見せることです。お釈迦様は、「お墓を作る必要はない! 供養をする必要もない!」と、ハッキリと言っておられます。供養が美化されていますが、返って死んだ人の迷惑になるだけです。死んだ人に幸せになってもらいたい気持ちは分かりますが、それは、守護霊や指導霊に任せておけば良いのです。確かに、両親やご先祖に感謝することは、とても大切です。でも、その感謝は、一度、心の中でしたら良いのです。私たちが、すべきことは、一生懸命、 社会体験して原子核を増やすこと・・瞑想して原子核を増やすことです。それが、死んだ人に対する一番の供養になるのです。
○神社やお寺で手を合わせれば、心が安らぐと言いますが、それは、神社やお寺でなくてもどこでもできるのです。なぜなら、陰の手と陽の手を合わせれば、場所に関係なく自分の心の中に光が生まれるからです。一般人は、神社やお寺に行った時にしか手を合わせないので、勘違いしているだけです。
○祟を恐れたり、呪いを恐れたりする人たちがおりますが、祟も、呪いも、恐れることはありません。自分が良い想念を持っていたら影響を受けないからです。悪い想念を持っているから、同調して影響を受けるのです。外側のものが、自分を害することは、絶対無いのです。自分の想いが、自分を害するだけです。
○外側の現象界は、結果の世界です。内側の意識界は、原因の世界です。結果は、原因の後に生まれるのです。先にあるのは、原因です。その原因は、あなたの想いです。ですから、想いさえ、しっかり管理していたら、悪いことなど起きようがないのです。どうか、迷信や間違った信仰に惑わされないでください。何が正しくて、何が正しくないか、しっかりと見極めてください。あなたが信じるべきものは、自分の想いだけです。