宇宙は、広大無辺です。果が無いのです。何処まで行っても行っても、果の無いのが宇宙なのです。私たちは、その果の無い宇宙を、永遠の時をかけ、探って行くのです。でも、宇宙船に乗って、遠くに探りに行くのではありません。自分の意識船に乗って、心の中の宇宙を探って行くのです。なぜなら、私たちの心の中に小宇宙があるからです。小宇宙は大宇宙の中にあり、大宇宙は小宇宙の中にあるのです。だから、小宇宙を探れば、大宇宙が解るのです。
宇宙数学は、私たちに何を教えているのでしょうか? それは、この宇宙には、一つのものしか無く、その一つのものは、永遠の昔より存在していたし、今も存在しているし、未来永劫存在し続ける、と言うことを教えているのです。
宇宙が、無限であり、永遠なのは、誰も否定できません。なぜなら、今、実際に宇宙が存在しているからです。今、宇宙があると言うことは、永遠の昔より存在していたし、永遠の未来にも存在すると言う意味です。宇宙は、無限時間の中にあるのです。無限時間の中にあるから、今、存在しているすべてのモノは、永遠の昔より存在していたし、永遠の未来にも存在することになるのです。
では、その数式を、「自分」に当てはめて考えてみましょう。
「自分」は、今、現に存在しています。と言うことは、自分は永遠の昔より存在していたし、未来永劫存在し続けることになります。今、存在している結果は、過去存在していた原因によります。その過去の結果は、その前の過去の原因によります。その過去の過去の結果は、その前の前の過去の原因によります。こうして、結果と原因は、永遠に輪廻を描くことになるのです。
この数式は、今の「自分」の存在が、永遠の昔より「自分」を存在させ、未来永劫にも「自分」を存在させる証になっているのです。と言うことは、一体、「自分」は、何モノなのでしょうか?
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思索とは、疑問に思ったことを自分の心に問う作業のことです。自分の心の中には、何でもご存知のアカシックレコードがあります。ですから、疑問に思ったことを自分の心に問えば、答えが返ってくるようになっているのです。しかし、そのためには、次の二つの条件を満たしていなければなりません。
一つは、「心が清らかであること・・」
もう一つは、「質問者にとって本当に必要な質問であるかどうか?」です。
アカシックレコードは、清い波動を持った者にしか同調できないようになっているのです。ですから、興味本位の質問や知識欲を満たしたくてする質問では、答えは返ってきません。
この思索は、原子核が多くなれば自然とできるようになります。ですから、思索ができないからと言って焦らないでください。疑問が湧いてきたら自分に問うてください。ただし、答えが、すぐ返ってくるとは限りません。すぐ返ってくる場合もありますが、返ってこないことの方が多いのです。その時は、質問だけしておくことです。必要なら、いつか、必ず、ヒラメキとして返ってきます。
神は、できないことをしなさいと言っていません。「今、できることを、精いっぱい、やりなさい!」と言っているのです。
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この宇宙には、「ホンモノらしき顔をしているニセモノ」と、「ニセモノらしき顔をしているホンモノ」が存在します。つまり、見えるニセモノと見えないホンモノが存在するのです。では、実在するのは、見えるモノでしょうか? 見えないモノでしょうか?
この宇宙は、対になっております。二つで一つなのです。二つで一つですが、どちらかが、ホンモノで、どちらかが、ニセモノなのです。ニセモノは、実際に無い「現実」です。ホンモノは、実際に有る「真実」です。ニセモノの現実は、見えるのです。ホンモノの真実は、見えないのです。つまり、「見える・聞こえる・触れる・味わえる・臭えるモノ」は、すべて、幻なのです。なぜなら、五感そのものが、幻だからです。幻の五感で見聞しても、それは、幻に過ぎないのです。もし、五感が永遠に無くならないなら、私は、五感にかかるモノを真実だと認めましょう。でも、五感にかかるモノは、いつか、必ず、無くなってしまうのです。無くなってしまうものが、真実であろうはずがありません。
真実(真理)とは、何でしょうか? 現実(非真理)とは、何でしょうか? 「真実とは、永遠に無くならないモノ」、「現実とは、必ず、無くなってしまうモノ」です。何千億年・何兆億年存在しようと、無くなるモノは、真実ではないのです。無限時間での一兆億年など、一瞬です。ましてや、私たちの住んでいる地球は、どんなに長く存在しても、数百億年程度です。その地球における人類の文明も、せいぜい、数万年維持できれば良い方です。更に、今の地球人類の寿命は、どんなに維持できても、百数十年程度です。その百数十年程度の命を守ろうとして、競い、闘い、奪い、戦争までしているのが、地球人類なのです。それは、真実と現実の見分けができていないからです。
この表現宇宙も、幻です。地球も、幻です。幽界も、幻です。夢も、幻です。幻覚も、幻です。詐欺師の言葉も、幻です。柳を幽霊と見間違ったのも、幻です。蜃気楼も、幻です。UFOも、幻です。物質化現象も、幻です。この現象の世界(幻の世界)で起きていることは、すべて、幻なのです。
私たちは・・
「何度、幻の世界に生まれ」「何度、幻の世界に生き」「何度、幻の世界に帰って行ったことでしょうか? 」
あなたは、こんな幻の輪廻を、いつまで繰り返すつもりですか?
幻の中で味わう幸せなど、一時です。必ず、色褪せ、失ってしまいます。あなたは、そんな、一時の幸せで満足できますか? 永遠の私たちは、永遠の幸せでなくては、満足できないはずです。その永遠の幸せは、真実を知れば、得られるのです。どうか、真実を知ってください。そうすれば、幻の輪廻から抜け出し、「永遠に尽きない! 永遠に色褪せない!」幸せを手に入れることができるのですから・・・。
私たちは、永遠に無くならない「意識」です。その意識は、「永遠に尽きない! 永遠に色褪せない!」幸せを欲しているのです。どうか、真実と現実を見分ける目を持ってください。
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宇宙は、誰の宇宙でもありません。自分の宇宙です。なぜなら、自分の意識が自分の宇宙を創造しているからです。自分の意識がなかったら、妻も、子も、友達も、地球も、宇宙も、何も無いのです。
こう言うことです。
今、あなたが存在しているのは、紛れもない事実ですね。実際に、今、あなたが存在しているのですから、否定のしようがありません。と言うことは、今、あなたは「1」であると言うことです。今、あなたが存在している状態は、今、あなたは「1」であると言う状態なのです。その「1」は、絶対無くなりようのない「1」なのです。絶対に無くなりようのない「1」とは、何ですか? それは、宇宙ではありませんか? なぜなら、宇宙は、絶対、無くならないからです。と言うことは、あなたは、宇宙である、と言うことです。私が誰の宇宙でもないと言うのは、あなたは、「1だからです」。
この意味を知るのは、容易なことではありません。いいえ、永遠に知ることはできないでしょう。でも、これは、絶対、間違いない、真理なのです。今、解らなくても結構です。ただ、「宇宙とは・・」「自分とは・・」「そう言う存在である!」と言うことだけ知っておいてください。原子核が増えれば、いずれ、解る時がきます。
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どうして自分がいるのですか? どうして相手がいるのですか? それは、自分の意識があるからではありませんか? 自分の意識がなかったら、自分もいないし、相手もいないはずです。自分の抜きの自分もいないし、自分抜きの相手もいないのです。自分抜きでは、何も始まらないのです。ならば、自分がすべてのモノを創っていることになりませんか? つまり、あなたも、家族も、社会も、地球も、宇宙も、自分が創っていることになりませんか?
「いや、自分がいなくても、相手はいますよ!」と、あなたは、反論するかも知れません。でも、自分がいなかったら、相手がいるかいないか、どうして分かるのですか? 自分がいなくなった瞬間、相手がいなくなっているのかも知れないのですよ! 第一、自分がいなくては、そのことさえ認められないのですから・・・。
「自分抜きでは、何もあり得ないのです。」すべて、自分が創っているのです。これは、間違いない真理なのです。と言うことは、「自分は創造主である」と言うことです。何かが存在するしないか証明できるのは、自分しかいないのです。なぜなら、自分しか認めてやれる者がいないからです。だから、宇宙が有った時には、自分がいたし、自分がいた時には、宇宙が有ったのです。自分がいなかったら、宇宙を認めてやれる者がいないのですから、宇宙が存在できるわけがないのです。自分は、宇宙を認めてやれる、唯一の存在者なのです。ならば、自分は何ですか? 神ではありませんか? そうです。自分は、神なのです。だから、「自分」と言う字は、「神が(自)らを(分)けた」と書くのです。
相手が勝手に来たと思ってはなりません。自分が相手を創り、自分が連れてきたのです。外側の物が先に有ると思ってはなりません。自分の意識が先に有り、後で外側の物が創られたのです。
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今、自分は存在しています。これは、紛れもない事実です。と言うことは、自分は、「絶対者である」と言うことです。絶対とは、「1」と言う意味ですから、今、「1・・自分」が存在していること自体が、自分が絶対者である証になるのです。しかし、自分が自分を認めても意味がないので、自分を認めてくれる相手(人類・物)を創って、自分を認めてもらおうとしているのです。
絶対とは、「1」と言う意味です。相対とは、「多」と言う意味です。それは、相対界には、沢山の物があるからです。でも、その沢山ある物も、本当は、「1・絶対」なのです。なぜなら、沢山の物の中に同じ「1・絶対」が宿っているからです。どうか、物の中に「1・絶対」を観てください。「1・絶対」なる自分が、観えるでしょう。私たちの目には、沢山の物があるように見えますが、物の中に宿っている、絶対者(1・自分)を観れば、「1」なる自分しかいないのです。
「1」なる絶対者(自分)が「多」なる物を生み出し、その多なる物の中に絶対者(1の自分)がいるのです。つまり、絶対者(1の自分)は、「一人無限役・・自作自演の一人芝居・・」をしているのです。だから、この宇宙は、「自己完結型宇宙」と言われるのです。それは、自分「1・絶対者」しかいないからです。
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本源宇宙は、絶対宇宙、あるいは、意識宇宙とも言われ、波の無い真っ平らな宇宙です。まっ平らな宇宙ですから、そこには、何も無いのです。ただ、「私」と言う意識だけがあるだけです。その本源宇宙は、無限の可能性と、無限の発展性と、無限の創造性を秘めております。その意味では、「何も無い宇宙でありながら、何でも有る宇宙」と言えるでしょう。
確かに、本源宇宙は、無限の可能性を秘めた宇宙ですが、生命体の全く存在しない宇宙ですから、有っても無きに等しい宇宙なのです。なぜなら、生命体が存在しなければ、何一つ、ドラマが生まれないからです。ドラマの生まない宇宙は、存在意味がないのです。そこで、神は、表現宇宙を創り、そこに、人類を送り込んだのです。私たち人類は、ドラマを演じるために遣わされた役者なのです。
本源宇宙は、背後で、人形を操る黒子のような存在です。対して、表現宇宙は、黒子に操られている人形のような存在です。操る黒子がいなくても、操られる人形がいなくても、人形芝居は成り立ちません。ですから、人形と黒子は、どちらが上で、どちらが下だと言えない対等の関係にあるのです。
「このように、本源宇宙と表現宇宙は、相身互いの関係・・切っても、切れない関係にあるのです。」
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本源宇宙(神)に、自我があるのでしょうか? 無いのでしょうか? これは、実に、興味深い問題です。では、探ってみましょう。
どうして、神は、表現宇宙を創造されたのでしょうか? それは、真の幸せが欲しいためです。この真の幸せが欲しいと言う「希望・願望・あこがれ」は、自我の思いではありませんか? 自我が無くては、願望も、あこがれも、生まれないからです。また、自我が無くては、「表現宇宙を創造したい思いも浮かびませんし、表現宇宙を創造することもできません。」 更に、自我が無くては、「幸せも味わえないのです。」
このように、何もかも、自我あっての話なのです。
私は、本源宇宙(神)に、自我があるかどうか解りません。なぜなら、本源宇宙(神)に、戻ったことがないからです。でも、直感的に、本源宇宙(神)に、自我があると思えるのです。そう思えるのは、私自身が主観宇宙の主だからです。自己完結型宇宙の主だからです。
この宇宙は、生きモノたちで満ち溢れているのです。その生きモノたちは、みな、幸せを欲しているのです。ですから、その生きモノたちを生み出した、本源宇宙(神)に、自我があるのは、当たり前なのです。ただし、人間のような自我ではありません。「主観の主(絶対宇宙の主)だけが知る自我です。」
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表現宇宙のことを、別の名で、相対宇宙、あるいは、物質宇宙とも言っております。表現された宇宙ですから、見え、聞こえ、臭え、味わえ、感じられる宇宙です。でも、五感で感じられる宇宙は、いつか、必ず、消えて無くなります。だから、表現宇宙は、無常の宇宙とも言われているのです。
表現宇宙は・・
表現宇宙には、自我を持った進化途中の人類が、無数に存在します。ですから、表現宇宙には、自我人間を制御する様々な法則があります。
主な法則に、「原因と結果の法則」と「陰陽の法則」があります。この法則を、私は、「十字の法則」とも言っております。その他にも、「循環の法則」「エネルギー均衡の法則」「エネルギー不滅の法則」「同類共鳴の法則」などありますが、すべて、宇宙の秩序を保つ上で必要な法則です。人類は、この法則に制御されながら、進化の階段を登って行くのです。
表現宇宙は、常ならぬ世界でありますが、としても、大切な世界です。表現世界がなくては、絶対世界が無いからです。だから、表現物(人)と表現者(神)は、対等なのです。つまり、絶対宇宙と相対宇宙は、対等なのです。
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宇宙は、たった一つの本質によって創られています。その一つの本質とは、「意識」、すなわち、「神」のことです。神は、「本質」であり、「意識」なのです。その本質(意識)が、宇宙に素晴らしい絵を描いているのです。
宇宙に存在する、あらゆるモノは、神の本質から生まれた子供たちです。クオークも、陽子も、中性子も、電子も、分子も、ソマチットも、細胞も、菌も、虫も、鉱物も、植物も、動物も、人間も、神の本質から生まれた子供たちです。子どもたちですから、どんなモノを探って行っても、神の本質(意識)に辿り着くのです。
今、人類は、巨大な加速器を作ったり、宇宙に探査機を飛ばしたりして、宇宙の謎を解き明かそうとしていますが、そんな手間をかけなくても、意識を探れば、解明できるのです。
宇宙は、「縦の糸」と「横の糸」で編まれているのです。縦の糸とは、意識です。横の糸とは、物質です。表現宇宙は、縦の糸と横の糸の組み合わせによって出来ているのです。ですから、縦の糸を探れば横の糸が解明でき、横の糸を探れば縦の糸が解明できるのです。ただし、今の科学者のやり方では、いくら探っても、時間の浪費、お金の浪費です。なぜなら、瞑想を取り入れていないからです。縦の糸を探るには、瞑想して、原子核を増やし、理解力を高めねばならないのです。理解力が、高まれば、高まった分、宇宙の謎に迫ることができます。
横の糸を探っている、今の科学者は、白い服は着ていますが、真の科学者ではありません。でも、瞑想している、皆さんは、白い服は着ていませんが、真の科学者です。
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この表現宇宙には、大宇宙と小宇宙が存在します。なぜ、神は、大宇宙と小宇宙を創られたのでしょうか? それは、自分の存在を認めてもらう人類が必要だったからです。こう言うことです。
初めも無い、終わりも無いのが、「大宇宙」です。
「大宇宙は、アルファー(α)にして、オメガ(ω)なのです。」
大宇宙には、誕生が無いので、死も無いのです。
でも、これでは、宇宙の成り立ちが説明できませんので、神は、初めが有り、終わりの有る、小宇宙を創り、そこに、人類を誕生させたのです。人類は、自我を持っているため、宇宙(神)の存在を認めてやることができるのです。何か矛盾しているように思えますが、このように考えてください。
大海は、一つしかありませんが、その大海の中で、無数の渦が、現れては消えています。その渦に当たるのが、「小宇宙」なのです。人類の魂は、そこから、生まれたのです。
渦(小宇宙の生成消滅)は、新鮮さを吹き込む原動力です。渦が、誕生消滅を繰り返すことによって、大宇宙は、永遠の命を得ているのです。いわゆる、脈動運動と言われる循環の働きです。小宇宙の一脈動運動は、数百億年から数千億年かけて行われ、大宇宙に、新鮮で、トリッキーなドラマを生み出しているのです。その一躍を担っているのが、私たちの悟りなのです。
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宇宙が永続できるのは、完全な意識が宇宙を差配しているからです。意識が完全でなければ、今、宇宙は存在していないのです。宇宙が存在している証は、意識が完全だからです。では、意識は、なぜ、完全なのでしょうか? 「それは、意識が必然を生み、必然が完全を生み出しているからです。」
人は、偶然を信じていますが、この宇宙に、偶然があったら、宇宙は、一瞬たりとも存在できません。必然しか無いから、宇宙は、永続できているのです。この表現宇宙は、必然(意識)によって、存在させられ、必然(意識)によって、進化の道を歩まされているのです。ですから、何か起きたら、どうして起きたのか、疑問を持ってください。疑問を追求すれば、起きたことが、みな、進化成長に結びついていることが解ります。
偶然を信じている人は、成長が遅いのです。必然を信じている人は、成長が早いのです。なぜなら、偶然を信じている人は、疑問を持ちませんが、必然を信じている人は、疑問を持つからです。また、偶然を信じていては、いつも、不安な気持ちで生きなければなりません。でも、必然を信じていれば、安心して生きられるのです。私たちが、曲がりなりにも、安心して生きられるのは、必然の中で生かされているからです。
意識が生み出した必然の中には、必ず、進化成長につながる意味が隠されていることを知ってください。
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絶対宇宙(本源宇宙)には、唯一の意識(宇宙意識)が存在します。この意識を、私は、神と呼んでおります。でも、神という名に囚われてはなりません。神と呼ぶのが恐れ多いなら、「生命」でも、「無限」でも、「創造主」でも、「宇宙意識」でも、「宇宙」でも、「私」でも良いのです。要するに、意識と意志を持ち、しっかりとした目的意識を持って、宇宙を差配しているのが神なのです。ここで神という名を使わせてもらうのは、人類が古来より、あこがれ、畏怖し、崇め、すがってきた対象物が、神の名だからです。その神には、三つの悩みがありました。
「私は、偉大な能力を持っている。でも、その能力は、私の思いの中にあるだけで、実現化されていないのだ! これで良いのか?」
そうです。どんなに偉大な能力を持っていても、表現しなければ、空想になってしまうのです。どんなに素晴らしい論理を持っていても、表現しなければ、空論になってしまうのです。どんなに素晴らしい絵の構想を持っていても、描いて見せなければ、意味がないのです。
「自分だけが、自分の存在を知って、一体、何になるのだろうか? 自分しか存在しない宇宙に、一体、どんな意味があるのだろうか? いや、自分しかいなければ、自分の存在は、無いのではないだろうか? 誰かに認められて、はじめて存在意義が出てくるのではないだろうか?」
そうです。一しか無ければ、一は無いのです。自分しかいなければ、自分は無いのです。なぜなら、自分が自分を見る(知る)ことなどできないからです。あなたは、自分を直に見たことがありますか? 鏡に写して見たかも知れません。あるいは、写真に撮って見たかも知れません。でも、それは、間接的に見たのであって、直に見たわけではないのです。未だかって、直接、自分を見た人は、一人もいないのです。ましてや、神は見えない存在ですから、神の自分を見ることなど、できるわけがないのです。このように、絶対の中にいては、絶対は分からないのです。一の中にいては、一は分からないのです。自分の中にいては、自分が分からないのです。
「今、私は、幸せいっぱいである。でも、この幸せは、一体、いつまで続くのだろうか? 昔は、今以上に幸せだったのに、今は、それほど幸せとは思えない。どうも、幸せに慣れ、幸せの味が薄れてきたようだ。このままだと、今の幸せも、失ってしまうのではないだろうか?」
そうです。意識の一番の弱点(強点かもしれません)は、飽きてしまうことです。皆さんも、体験があると思いますが、どんなに面白い映画も、何度も見れば飽きてしまうものです。どんなに楽しい遊園地の乗り物も、何度も乗れば飽きてしまうものです。幸せも、同じ幸せの中にいては飽きてしまうものなのです。これは、永遠の意識を持つ者にとって大問題です。
このように、神には、三つの悩みがあったのです。神は、考えました。どうしたら、三つの悩みを無くすことができるか? と・・・。
「もう一つの自分(相対宇宙)を創ろう! そうすれば、三つの悩みは、すべて解決するはずだ!」
神は、このような理由から、もう一つの自分(私・人間)を創ることにしたのです。すなわち、相対宇宙(表現宇宙・物質宇宙)を創ることにしたのです。
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神は、自らの意識を放射して、表現宇宙を創りました。このことを、科学者たちは、「ビッグバーン!」と表現し、ギリシャ神話では、「パンドラの箱を開けた」と表現しています。
放射した神の意識は、光であり、エネルギーであり、本質であり、神ご自身です。その神の意識は、波動を下げて、色光となりました。さらに、波動を下げて、意識核となりました。意識核には、質量があるため、意識核が放射された時点で、時空が生まれます。時空の誕生・・これが、表現宇宙の誕生です。さらに、意識核は、波動を下げ、原子となりました。
「神が、物を創造する場合、神、自らが、その物になるしかない!」と言われるのは、原子そのものが、物の本質であり、神だからです。神は、理念の主であり、本質そのものなのです。ですから、物を創造する場合、神、自ら、その物になることができるのです。その意味では、この表現宇宙(相対宇宙)は、神、ご自身で構成されていることになるでしょう。つまり、表現宇宙そのものが、神、ご自身であり、そこに創られた様々な物も、神、ご自身であると言うことです。このように、神は、自らを素材として用い、表現宇宙を創造されたのです。
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太陽は、「三身(位)一体の構造」になっています。私たちが見ている原始太陽の背後に、霊太陽(幽界の太陽)があり、更に、その奥に、本源の太陽があるのです。太陽が、今日まで、輝き続けて来られたのは、本源の太陽から、霊太陽へ、そして、原始太陽へと、エネルギーが注がれてきたからです。ただし、本源の太陽のエネルギーは、あまりにも波動が精妙なため、間に調整してくれる霊太陽がなくては使えません。ですから、本源の太陽→霊太陽→原始太陽と言う順番で置かれているのです。霊太陽が途中で波動調整してくれていたから、原始太陽は、今日まで、輝き続けてこられたのです。もし、科学者が言うように、水素の核融合反応だけで輝いているなら、とっくに、太陽は、燃え尽きていたでしょう。
神は、一様ですから、本源の太陽も一つしかありません。でも、表現宇宙には、無数の原始太陽と無数の霊太陽があるのです。どうしてあるのかと言いますと、「元数1」から「無限の幻数と無限の分数」が生まれたように、「本源の太陽」から「無限の霊太陽と無限の原始太陽」が生まれたからです。それは、宇宙のあらゆる創造物の中に、神の意識核が素材(元素・原子)となってあるからです。当然、私たちの中にもあります。だから、瞑想が進み、原子核が増えると、霊太陽が見えるようになってくるのです。ただし、本源の太陽は、誰も見ることはできません。また、霊太陽も、自覚の境界線の寸前まで来た人にしか見えません。それも、自覚の境界線の外からは見えても、自覚の境界線の中に入れば、見えなくなります。自覚の境界線の中に入れば、霊太陽そのものが自分になるわけですから、見えなくなるのは、当然だからです。このように、宇宙には、三位一体となって輝いている三つの太陽があるのです。
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この宇宙には、たった一つのモノしか存在しません。理由は、主観視しかできないからです。主観視しかできないなら、一つのモノしか存在しないのは当然でしょう。と言うことは、この宇宙には、「自分しか存在しない」ことになります。なぜなら、「今、現に自分が存在している事実が」あるからです。自分の他に、何かが存在するなら、二つのものが存在するので、一つのものしか存在しないと言う真理は崩れますが、自分しか存在しないのですから、一つのものしか存在しない真理は間違いないのです。そう言えるのは、自分しか存在しないからです。自分しか存在しないなら、相手がいないわけですから、何も見えないのは当然でしょう。また、自分が自分を見ることができないわけですから、何も見えないのも当然でしょう。あなたは、いぶかっていますが、あなたは、自分を直に見たことがありますか? 一度も見たことがないはずです。
このように、何も見ることができないのが、この宇宙の実体なのです。だから、私は言うのです。「私は、何も見えません!」と言えるようになった人は、本当の自分を知った人だと・・・。どうか、「私は、何も見えません!」と言える人になってください。
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私たちは、見える物が本当に有ると思っていますが、見える物は、本当は無いのです。なぜなら、見える物は、必ず、消えて無くなるからです。本当に有る物なら、絶対に無くなることはありません。本当に無い物だから、消えて無くなるのです。
この宇宙の実体は、「見えないモノが、ホンモノ」で、「見える物は、みな、ニセモノ」なのです。なぜなら、見えないモノが、見える物を生み出しているからです。つまり、見えない原因が、見える結果を生み出しているからです。私たちの肉体は、結果体です。結果体である肉体は、この世を見聞するために必要な乗り物ですから、必要なくなれば、消えて無くなるのです。Aさんも、Bさんも、消えて無くなりました。あの有名人も、この有名人も、消えて無くなりました。それを、私たちは、毎日、見ています。でも、そのことを、誰も深く考えようとしないのです。
あなたは、「見える物が見える物を生んだ」のを見たことがありますか?。見える物は、見えないモノから生まれたのです。つまり、物質は、見えない原子から生まれたのです。赤ちゃんは、見えない精子と卵子から生まれたのです。どんな物も見えない世界から出てきて、見えない世界へ帰るのです。どうか、何がホンモノで、何がニセモノか、識別してください。
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この宇宙には、唯一、宇宙数学があるだけです。どのような数学かと言いますと、「1」を、どんなに、いじくり回しても、「1」は、「1」にしかならないと言う数学です。つまり、「何を+しても、-ても、×ても、÷っても、「1」にしかならない!」と言う数学です。この宇宙数学の意味は、「1しか無い! 1以外何も無い! すべては1である! その1は、神である! と言う1」なのです。この宇宙数学が心の底で理解できたら、どんなモノも、神であり、自分であると言う自覚に至るのです。
「1」は、すべての大元なのです。だから、私は、「元数1」と言っているのです。すべてのモノの中には、「1」があるのです。でも、その「1」は、見えないのです。それでは、「1」の存在がありませんので、「1」は、自分の身を分け、分数(原子番号・自分・人)を創ったのです。ですから、すべてのモノの中には、分数が存在するのです。どんなに、分数をいじくり回しても、(+ても、-ても、÷ても、×ても)「1」のままであり続けるのは、すべての分数の中に「1」が存在するからです。客観的に見たら沢山の分数が有りますが、主観的に見たら「1」しか無いのです。どんなに分けても「1」は、「1」だから、「1」から離れることは絶対できないのです。分かりやすく言えば、「1」の中には、もう一つの「1」があるのです。「1」は、「1」だけでは存在できないのです。認識される「1」と認識する「1」が存在して、はじめて、「1」が存在できるのです。人間と神も同じです。認識する人間が存在して、はじめて、認識される神が存在できるのです。
被認識者(神)と認識者(人)は、一対で存在するのです。被認識者と認識者は、切り離せないのです。だから、本当は、主観視しかできないのです。客観視できるのは、認識者(人)と被認識者(神)が独立して存在する場合ですが、1しかない宇宙で、独立などありませんので、主観視しかできないのです。つまり、神の立場でしか観られないのです。今、人間が客観的に見ているのは、幻覚(想像している)を見ているのです。
この宇宙には、一様の被認識者(神)しか存在しません。しかし、それでは、被認識者(神)の存在はあり得ないので、神は、認識者(人)を創り、その認識者(人)に認知してもらうことで、自分の存在を確かなものにしているのです。だから、「分数と元数1は、同格」なのです。つまり、「人間と神は、同格」なのです。
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宇宙は、良いこと尽くめです。それは、神の意識によって、すべてのモノが創造されているからです。神の意識は、光であり、エネルギーであり、大調和であり、大愛であり、絶対善であり、絶対正義ですから、そこには、一点の悪もないのです。すべて善しです。すべて良しです。すべて好です。その神意識によって、「魂も、心も、想念も」創られたのですから、本来、私たちに、悪などないはずなのです。しかし、人間社会には、沢山の悪があります。それは、自分を肉体だと誤解した人間が、悪想念を使って悪を作っているからです。
作った悪想念は、宇宙空間に漂い、いつか、必ず、悪想念を放った人の所に帰ってきます。痛みや苦しみとして・・・黙って帰ったのでは、悪想念を放ったことに気付かないので、神は、気付かせるために、痛みや苦しみを用意したのです。ですから、痛み苦しみは、良いことなのです。
「宇宙が良いこと尽くめなのは、どんな、苦しみも、痛みも、成長につながっているからです。」
痛み、苦しみは、成長剤のようなものなのです。
神は、私たちを、成長へ 成長へ、進化へ 進化へ、と引っ張ってくれているのです。どうか、苦しみや痛みを、悪と受け取らないでください。成長に必要な善だと受け取ってください。そのように受け取ったら、悪は善に変わります。
「宇宙が良いこと尽くめなのは、悪は善ならしめるための悪だからです。」
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モノの見方には、二つの見方があります。一つは、ネガティブな見方です。もう一つは、ポジティブな見方です。ネガティブな見方は、「原因と結果の法則(客観的)」側から見た見方です。ポジティブな見方は、「計画 (主観的)」側から見た見方です。どちら側から見ても、同じ結果になりますが、ポジティブな見方をした方が得でしょう。なぜなら、自分の宇宙を汚さないですむからです。一般人は、ネガティブな見方をして、業の上塗りをしていますが、それは、悪を善と見なすことができないからです。
学んでいる皆さんは、ポジティブな見方をしましょう。この宇宙に、悪や不完全など無いのですから・・・。あるのは、善のみ、完全のみです。このことを心の底で知れば、ポジティブな見方ができるようになります。
そのためには、原子核を大きくしましょう。大きくすれば、自然とポジティブな見方ができるようになります。
原子核を大きくする方法は、社会体験と瞑想です。
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人それぞれ世界観を持っています。でも、その世界観は、その人の理解力が生み出したその人独自の世界観です。この宇宙に、普遍的な世界観があるわけではないのです。なぜなら、人それぞれ理解力が違うからです。
「Aさんの世界観は、Aさんの理解力が生み出したAさんだけの世界観です。」
「Bさんの世界観は、Bさんの理解力が生み出したBさんだけの世界観です。」
人ぞれぞれ理解力が違うわけですから、共通の世界観などあるわけがないのです。同じ景色を見ていても、一階で見ている人と、五階で見ている人と、十階で見ている人の景色は、みな、違うのです。だから、自分の世界観を人に押し付けてはならないのです。その人には、満足できる世界観も、他の人には、満足できない世界観かも知れないからです。
このように、理解力によって世界観が変わってしまうのは、外側に共通の世界が無いからです。世界は、内側に・・その人の意識の中に・・理解力としてあるのです。しかも、その理解力は、刻々と進化成長しているのです。だから、昨日、満足していた世界観が、今日は、陳腐化してしまうのです。
私たちは、時々刻々、進化の階段を昇っているのです。ですから、一秒前の世界観と一秒後の世界観が違うのは当然のことなのです。
このように世界観は、理解力によって、刻々と変わって行くのです。
-21-
絶対の中に居ては、絶対は解らないのです。だから、神は、絶対宇宙を分け、相対宇宙を創られたのです。つまり、神を分け、人類を創られたのです。神だけでは、神が解らないのです。人類を相対させ、神を解ろうと言うわけです。
本当に有るのは、「神人」です。「神人」とは、神と人間を心の底で知った「人」のことです。つまり、自覚の境界線を超えた「人」のことです。
-22-
「見えないモノは真実で、見えるモノは非真実です。」 このことは、何度いっても、言い過ぎることはありません。では、ここで、復習してみましょう。
見えるモノを生み出しているのは、見えない真実です。見えない真実が、見える宇宙を生み出しているのです。真実がなくては、何もあり得ないのです。でも、見えない真実では、存在意味がないのです。そこで、神は、見える相対宇宙を創造し、そこから見えない真実を認識しようと考えたのです。しかし、人類は、見えるものに惑わされ、見えない真実を見失ってしまいました。今、人類が苦しみに喘いでいるのは、真実を見失ったからです。
どんな美しいものを見ても、どんな素晴らしい音楽を聴いても、どんな美味しい食べ物を味わっても、どんな香ばしい匂いを嗅いでも、どんな気持ちの良い感触を味わっても、みな、幻です。そんな幻で、幸せになれるわけがないのです。幻からは、幻の幸せしか得られないのです。真の幸せは、五感を超越した真実の世界にあるのです。
巷の霊能者の口車に乗ってはなりません。どんな神秘的なモノを見せられても、どんな物質化現象を見せられても、どんな幽界の話を聞かされても、幻です。例え、あなた自身が、幽界人の話を聞き、幽界人を見たとしても、幻です。幻だから見え、幻だから聴こえ、幻だから感じるのです。それは、肉体そのものが幻だからです。
見えるモノに興味を持っている間は、真実を発見することはできません。つまり、自覚の境界線を超えることはできません。どうか、「私は、何も見えません! 何も聴こえません! 何も感じません!」と、言える人になってください。
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この宇宙に、完全しか存在しないという真理は、動かしようのない事実です。もし、不完全が存在するなら、神は、完全でなくなってしまうからです。と言うことは、完全な神によって創られた、「私も」、「あなたも」、「どんな物も」、完全であると言うことです。この宇宙は、「完全でなければ、存在できないのです。」完全イコール存在なのです。存在イコール完全なのです。完全だから存在していられるのです。
「でも、本当に完全しかないなら、どうして、地球上に不完全なモノがあるのでしょうか?」と、あなたは、疑問に思うかも知れません。いいえ、どんなに不完全に見えても、それは、完全なのです。あなたが思っている不完全は、完全たらしめるための不完全ですから、それは、完全なのです。
では、なぜ、完全しか無いのでしょうか?・・それは、神の想いの中に、不完全は無いからです。
「どんなに不完全に見えても、不完全を辿ってゆくと、みな、完全につながっているのです。」
だから、今、不完全に見えている人間も完全なのです。
完全に向かう途中の姿を見て、不完全と言わないでください。どんな絵も、描いている途中は不完全なのです。でも、完成した暁には、素晴らしい絵になるのです。いずれ、人間界の絵も、完全な絵になる時が来るのです。
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実在とは、実際に有るという意味です。真実という意味です。永遠に無くならないという意味です。非実在とは、実際に無いという意味です。幻という意味です。消えて無くなるという意味です。ですから、消えて無くなる、「地球」は、「人類」は、「万象万物」は、幻です。
人間が、悩んだり、心配したり、恐怖したりしているのは、五感のトリックに引っかかり、幻を本当だと思っているからです。五感で感じる、痛み、苦しみは、進化成長に必要な薬のようなものです。痛い苦しみがなくては、真剣に生きようと思わないからです。真剣に生きなければ、成長できないのです。だから、神は、私たちに、五感を持たせたのです。でも、この痛み苦しみは、あくまでも、トリックに引っかかっている状態で、真実ではないのです。一般人は、トリックに引っかかっても仕方ありませんが、学びの友の皆さんは、そろそろ、トリックを見破らねばなりません。見破るためには、見える物と見えないモノの識別をしっかりすることです。
「つまり、何がホンモノで、何がニセモノか、ハッキリと見定めることです。そして、見える物はニセモノで、見えないモノがホンモノであることを、心の底に落とすことです。」
心の半分くらいまで落とせたら、もう、見えるモノのために、命を削る生き方はしなくなるでしょう。
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この宇宙には、秩序を束ねる法則が幾つかあります。その一つに「原因と結果の法則」があります。良い原因を作れば、良い結果が、悪い原因を作れば、悪い結果がやってきます。
つまり・・
この「原因と結果の法則」は、完璧な科学的法則ですから、絶対、狂うことはありません。山に向かって「オーイ!」と叫んでみてください。「バカヤロー!」とは返ってきません。「オーイ!」と叫んだら、寸分も狂わず「オーイ!」と返ってきます。壁を拳で叩いてみてください。壁から叩き返されます。こんな分かり切った法則を、どうして、人は守ろうとしないのでしょうか?
私は、何もしていないのに、こんな痛い目にあったと、世間の人は言いますが、原因を作ったから、痛い目にあったのです。何もしないで、痛い目にあうことは、絶対ありません。もし、あったら、この宇宙は、一瞬にして消えてしまいます。目に見えないから信じられないのでしょうが、「因果の法則」は、間違いなく働いているのです。どうか、「原因と結果の法則」を信じ、守ってください。
「原因と結果の法則」は、完璧です。どんなに逃げようとしても、逃げおうせるものではありません。ですから、賢い人は、法則に逆らうような生き方はしません。どうか、「原因と結果の法則」を守って生きてください。
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法則の一つに、「エネルギー均衡の法則」があります。この宇宙は、エネルギー均衡の法則によって、秩序立てられているのです。エネルギーは、出した分、入るようになっているのです。例えば、10出したら10返り、100出したら100返るのです。エネルギーを先取りしないでください。先取りすれば、いつか、必ず、返さなければならなくなります。痛みとして・・苦しみとして・・悲しみとして・・。 ですから、ギャンブルで儲けようとか、 宝くじに当たろうとか、欲を持ってはなりません。
エネルギーが欲しいなら、先に出しましょう。それも、良いエネルギーを出しましょう。そうすれば、出した分、良いエネルギーが返ってきます。それが正しいエネルギーの使い方であり、正しいエネルギーのもらい方です。
「与えよさらば与えられん!」は、間違いのない真理です。与えれば、与えられるのです。奪えば、奪われるのです。愛すれば、愛されるのです。憎めば、憎まれるのです。これは、エネルギー均衡の法則が働いている宇宙においては、常識中の常識です。
「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり!」です。横に振れた針は、必ず、中心に戻るのです。欲張って得ても、いつか、必ず、返さなければならなくなるのが、「エネルギー均衡の法則」です。エネルギーは、必ず、均衡が保つようできているからです。
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宇宙の法則の中に「中庸の法則」がありますが、この法則の目的は、偏りを是正することにあります。
お金や物を、多く集めれば、危険を招くのは、お金も、物も、エネルギーの塊だからです。財産家に波風が立つのも、中東で争い事が起きるのも、エネルギーの偏りから生じているのです。エネルギーは、集まれば、集まるほど、危険物になるのです。
この宇宙が、今日まで、無事、存続してこられたのは、エネルギーが、均衡に保もたれて来たからです。もし、偏っていたなら、とっくに、宇宙は、無くなっていたでしょう。人類は、宇宙を見習わねばなりません。このままエネルギーを偏らせていたら、痛みや苦しみは、ますます、激しくなります。今でも、相当、激しい痛みや苦しみが来ているのです。どうか、気づいてください。
肉体を維持するのに、沢山のお金や物は必要ないのです。どんなに、お金を儲けても、物を集めても、死ねば、みな、置いて帰らねばならないのですから・・・。
釈迦が説いた中道の意味を、よく噛み締め、偏りのない生活をしたいものです。それには、真理を知ることです。真理を知れば、中庸の大切さが分かります。
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偏りは、苦しみを生み出します。それも、偏れば、偏るほど、苦しみも多くなります。「何事も、そこそこに・・・。」 これが、神が望んでいる中庸です。
中庸に生きてください。ただし、この中庸は、「原子核の量における中庸ですから、人、ぞれぞれ違います。」ですから、人の中庸を、自分の測りにしないでください。人には、人の中庸があり、あなたには、あなたの中庸があるのですから・・・。
幼い魂の中庸は、自分の肉体的苦しみを通して、中庸の大切さを学びます。
中熟した魂は、自分の肉体的苦しみと、家族の苦しみを通して、中庸の大切さを学びます。
魂が熟してくると、自分の肉体的苦しみは、減りますが、精神的苦しみが、多くなります。
神は、魂の熟成度に比例した、中庸の学び方をさせてくれているのです。
今、自分は、魂の熟成度に応じた中庸を守って生きているか見極めてください。
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人間社会には、沢山の苦しみや悲しみがありますが、なぜあるのか、誰も深く考えようとしません。それは、自分で招いた、苦しみや悲しみだと思っていないからです。苦しみが、誰からか、何からか、与えられることはないのです。なぜなら、自分が原因者だからです。自分が受けた苦しみは、自分が原因を作ったのです。原因と結果は一つなのです。苦しい結果を味わったと言うことは、その前に、自分が苦しい原因を作っていたからです。結果だけがやってくることは無いのです。
苦しんでいる状態は結果です。この結果は、原因なしにやってきたのでしょうか? あなたが苦しんでいると言うことは、あなたが苦しみを作った当事者(原因者)だからです。すべて、自分が与えた苦しみです。自分が与えた苦しみなら、自分で取り除くしかありません。では、どうしたら取り除けるのでしょうか?
「それは、良い想いを持ち、良い言葉を使い、善い行いをすることです。」
つまり、「身・口・意」を正しく使うことです。
今、苦しんでいる人は、誰の苦しみか?、誰が作った苦しみか?、誰の責任か?、よく考えてみてください。
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なぜ、私たちは、無常の世で泣笑して生きなければならないのでしょうか? 皆さんには、愚問かもしれませんが、確信を深めるために再度考えてみましょう。
殆の人は、偶然に生まれ、偶然に事故に遭い、偶然に病気になり、偶然に死ぬと思っています。もし、そうなら、どうして、倫理や道徳を守る必要があるでしょうか? どうして、哲学や宗教を学ぶ必要があるでしょうか? どうして、努力する必要があるでしょうか? 良いことをしても偶然、悪いことをしても偶然、努力しても偶然なら、いい加減な生き方をしたら良いではありませんか?
偶然とは、「無秩序」と言う意味です。必然とは、「秩序がある」と言う意味です。無秩序とは、「無法則!」と言う意味です。秩序があるとは、「法則がある!」と言う意味です。法則があるから、宇宙は、今日まで、無事存続してこられたのです。もし、法則がなければ、とうに、宇宙は、消滅していたでしょう。今、私たちが笑っていられるのは、法則に生かされているからです。もし、無法則に生かされているなら、一時も、笑っていられないでしょう。
私たちが、この世で泣き笑いして生きているのは、必然の中で生かされていることを知るためです。つまり、法則を守れば、喜び多い人生が、法則を犯せば、苦しみ多い人生がやって来ることを知るためです。
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世の人々は、生命保険や火災保険などに入ります。また、災害から身を守るために、色々な防御対策をします。なぜ、そのようなことをするのかと言いますと、偶然を信じているからです。一寸先闇が人生ですから、少しでも安心したくて防御対策をするのです。でも、よく考えてみてください。生命保険や火災保険に入ったからと言って、命や家が保証されるわけではないのです。また、防潮堤を高くしたからと言って、地震が起きなくなるわけではないのです。保険で命も家も保証されるなら、どうぞ、保険に入ってください。防潮堤を高くして地震が起きなくなるなら、どうぞ、防潮堤を高くしてください。でも、そんなことはあり得ないのです。事故災難から逃れられる確率が高くなると思って防御対策をするのでしょうが、それは、確率論を信じているからです。偶然を認めている人が確率論を信ずるなど、矛盾と言うものです。どちらにしても、何事も偶然に起きるなら、どんな防御をしても無駄です。ただの気休めです。たとえ、身を守るために頑丈な金庫に身を潜めていても、心配でそんな事をするわけですから、内側の病気によって命を縮めるでしょう。外側からも、内側からも、守れないと言うことです。
私たちが住んでいる、この世界は、必然の世界なのです。必然の世界と言うことは、秩序のある(法則のある)世界だと言うことです。
「秩序のある(法則のある)世界ですから、法則を守って生きたら、何一つ防御する必要は無いのです。なぜなら、法則が守ってくれるからです。」
もう、防潮堤を作る必要も、建物を補強する必要も、軍隊を作る必要も、保険に入る必要もありません。法則を守らないから、事故災難に遭い、病気にもなるのです。それは、誰のせいでもありません。すべて自己責任です。
法則を守って生きれば、法則が守り、法則が裁いてくれるのです。今、人類が痛い目に遭っている、事故、災難、病気は、法則による裁きなのです。今、人間は、二重の裁きを受け、二重の罰を受けているのです。一つは、原因と結果の法則による裁きです。もう一つは、人為法(法律)による裁きです。このような二重の裁きを受けているのは、地球のような幼い星だけです。「法則に生きれば、法則が守ってくれる!」地球人類は、このことを一日も早く知るべきです。
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あなたの今日までの人生は、すべて必然によって運ばれてきたのです。あなたは、今日まで、一度だって必然の道から外れたことはなかったのです。つまり、「必然によって、生まれ!」「必然によって、生かされ!」「必然によって、体験させられ!」「必然によって、成長させられ!」てきたのです。そして、いずれ、「必然によって、老い!」「必然によって、病になり!」「必然によって、死ぬ!」のです。
必然とは、「成るべきにして成る! 当たり前にして成る!」と言う意味で、すべて進化成長に結びついている喜ぶべき必然です。それは・・、必然は、進化の本源から生まれた道理だからです。ですから、あなたが、今日まで、良かれと思って、想ったことも、言ったことも、やったことも、みな、必然で良かったのです。なぜなら、あなたの原子核の量において、良かれと思ったことを想い、良かれと思ったことを言い、良かれと思ったことを行ったからです。
あなたの人生が、誰かに作られたことがありましたか? 自分の思い通りの人生を作ってきたのではありませんか? だから、どんなに悲惨な人生も、みな、自己責任です。決して、人を、憎んだり、恨んだりしてはなりません。
どんなに、人に諭されても、自分の思い通りにしか生きられないのが人間なのです。なぜなら、原子核の量を急に増やすことができないからです。
「今の思いを高度な想いにするには、原子核を増やすしかないのです。原子核が増えれば、増えた分、思いの内容が高度になります。思いの内容が高度になれば、想いも、言葉も、行為も、高度になり、人生は好転するのです。」
良い人生にしたいなら、原子核を増やし、思いの内容を高度にすることです。それは、二つのことをすれば良いのです。つまり、社会体験と瞑想をすれば良いのです。
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世の人々は、どうして、不安な毎日を過ごしているのでしょうか? それは、偶然を信じているからではありませんか? 偶然を信じていては、心穏やかに生きられるわけがありません。いつ、雷に打たれるか? いつ、頭に看板が落ちてくるか? 心配しながら生きねばならないからです。
人生に偶然はありません。すべて、必然によって運ばれている人生です。必然によって運ばれているがゆえに、私たちは、安心して生きられるのです。安心して生きられないのは、偶然を信じているからです。でも、どんなに偶然を信じていても、私たちは、間違いなく、必然によって、進化成長へと運ばれているのです。なぜなら、「時間」の中に生かされているからです。「時」は、「神の意識」なのです。「間」は、「空間・肉体・物質」なのです。神の意識は、進化へ、成長へ、良い方向へ、真善美へ、と引っ張ってくれているのですから、その神意識を持っている、私たちが進化成長せざるを得ないのは、当然なのです。
この宇宙に、必然しかないのは、神そのものが必然から生み出された存在だからです。その必然から生まれた神が、意識(時)と空間(肉体・物質)を生み出したのですから、その中で生かされている、私たちが進化成長するのは、当たり前なのです。
何一つ、思い悩むことはありません。自分の思い通りに生きたら良いのです。それが、必然から生まれた者の生き方です。ただし、次の二つのことだけは、やってください。
「一つは、真心を込めて社会体験すること、
もう一つは、真心を込めて瞑想することです。」
この二つのことをやっていたら、進化の階段を踏み外すことはないでしょう。
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ある人は、こう言います。「こんな苦しい人生に、一体、何の意味があるのだろうか?」と・・・とんでもありません。意味のない人生など無いのです。もし、あなたの人生に何の意味もなかったら、こんな、悲惨なことはありません。どんな、苦しい人生も、悲しい人生も、みな、成長の糧になっているのです。なぜなら、この宇宙で起きていることは、すべて進化成長に結びついている必然だからです。と言うことは、どんな、苦しい人生も、良いことだと言うことです。全能の神が、どうして、我が子に無駄なことをさせるでしょうか? 「無駄な人生など無い!」と、堂々と言えるのは、どんな事も、すべて進化成長に結びついているからです。
神は、我が子を、一日も早く、目覚めさせたいのです。目覚めさせるためには、どうしても、痛み、苦しみが必要なのです。ですから、痛み、苦しみは、神の愛だと思ってください。どうか、神の苦衷を察してやってください。
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