幸せの大きさを、外から量ることはできません。本人が、どれだけ、満足しているか? 納得しているか? が目安です。その意味では、幸せは、一人ひとりが創ると言って良いでしょう。
人生の最大の目的は、真の幸せを得ることです。この第二節では、幸せについて、徹底的に追求して見たいと思います。
人生の最大の目的は、幸せを得るためです。私が、この結論に至ったのは、死んでも自分の意識が無くならないことを知ったからです。
私の人生は、苦しみの連続でした。私は、考えました。こんな苦しみを味わうのは、意識があるからだと・・・。そこで、私は、意識を、どうしたら無くせるか考えました。でも、いくら考えても無くす方法が見つかりませんでした。それは、死後、自分の意識が無くなるイメージが、持てなかったからです。私は、気付きました。「そうか、自分の意識が無くならないからイメージが持てないのだ!」と・・・。それ以後、私は、意識を無くすことを諦め、無くせない意識を、どうすべきか考えました。その結論が、意識を幸せの中に置くことだったのです。永遠に無くならない意識を、苦しい処に置くより、楽しい処に置きたいのは、皆さんだって同じだと思います。
「人生の目的は、唯一、幸せを得るためです。」それ以上の、人生目的はありません。
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世の人々は、山登りをしたり、旅行をしたり、スポーツをしたり、遊園地に遊びに行ったり、映画を見に行ったりします。また、ペットを飼ったり、花や木を育てたり、宝石を身に付けたり、着飾ったり、化粧したりします。なぜ、そのようなことをするのでしょうか? それは、「幸せになりたいからです。」 でも、本当に幸せになっているのでしょうか? いいえ、肉体上の幸せは、すぐに色あせてしまう幸せです。でも、殆どの人が、それを、本当の幸せだと誤解しているのです。それは、本当の幸せの正体を知らないからです。
肉体が幸せを感じることはないのです。幸せを感じているのは、「意識・心」なのです。「意識・心」が受け取らなかったら、幸せは感じられないのです。肉体(脳)は、感覚を「意識・心」に伝達する中継所に過ぎないのです。あくまでも、幸せを感じているのは、「意識・心」なのです。その幸せ程度も、人ぞれぞれ違うのです。なぜなら、人によって幸せの満足度が違うからです。ですから、同じ幸せを味わっているようで、みな、違う幸せを味わっているのです。「幸せを、物やお金の多寡で量れないのは、幸せの感じ方が、人それぞれ違うからです。」
この世の幸せとは、そう言うものなのです。
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何が幸せをくれるのでしょうか? 結婚が幸せをくれるのでしょうか? 家族が幸せをくれるのでしょうか? お金が幸せをくれるのでしょうか? 物が幸せをくれるのでしょうか? 地位や名誉や権力が幸せをくれるのでしょうか? いいえ、そんなモノでは幸せは得られません。もし、そんなモノで幸せが得られるなら、私は、そのすべてを、あなたに差し上げましょう。でも、貰っても、あなたは、決して満足しないでしょう。
幸せは、外から得られるのではなく、自分の「意識・心」が与えてくれるのです。このことを知れば、外側に幸せを貰いにゆくことはなくなるでしょう。
幸せは、誰でも得られます。それも平等に・・・。それは、自分の「意識・心」の中に幸せがあるからです。どこかに、幸せがあるわけではないのです。また、誰かが持ってきてくれるのでもないのです。幸せは、自分が持ってくるのです。
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世の人々は、誰かが、何かが、幸せをくれると思っていますが、誰かが、何かが、幸せをくれることはありません。幸せは、自分の意識が与え、自分の意識(心)が受け取るのです。その意識(心)を、私たちは、持っているわけですから、私たちは、すでに、幸せが与えられているのです。ただ、その幸せを、どのような思いで受け取るかが大切なのです。
どんな小さな幸せも、「感謝の思いで受け取れば」大きな幸せになります。反対にどんな大きな幸せも、「不満の思いで受け取れば」小さな幸せになります。「これが最高の幸せだ!」と言う幸せなど、どこにも無いのです。受け取り方次第で、大きくも、小さくもなるのが、幸せの正体なのです。
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「究極の幸せ」の定義は、
「1、永遠に尽きない幸せである。」
「2、永遠に色褪せない幸せである。」
と言えるでしょう。
理由1は・・
私たちの意識が有限なら、一時の幸せで満足できるでしょうが、私たちの意識は、永遠に無くなることはないのです。永遠に無くならない意識は、永遠に尽きない幸せでなくては満足できないのです。
理由2は・・
私たちの意識は、どんな美しいモノを見ても、どんな耳障りの良い音を聴いても、どんな美味しい食べ物を味わっても、どんな香ばしい匂いを嗅いでも、どんな心地良い物を触っても、飽きてしまいます。贅沢と言えば、贅沢な話ですが、飽きるから、飽きない幸せを求めて努力するのですから、飽きることは、良いことなのです。
留まっている水は、淀み、やがて、腐ってしまいます。幸せも、同じ幸せの中に留まっていては、淀んで腐ってしまいます。だから、次から次へ湧きでる新鮮な幸せが必要なのです。
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「実在」と言う意味は、「本当に有るモノ!、永遠に無くならないモノ!」と言う意味です。と言うことは、私たちの「意識も、幸せも」実在だと言うことです。なぜなら、幸せを感じる私たちの意識が、永遠に無くならないからです。
「意識は、幸せを感じることによって実在できるのです。また、幸せも、意識に感じてもらえるから実在できるのです。」
もし、幸せが非実在なら、意識も非実在になり、宇宙に一つの真実も無くなってしまいます。それでは、宇宙は、消えて無くなるしかありません。宇宙が存在できるのは、あくまでも、幸せがあるからです。意識があるからです。
幸せあっての意識です。
意識あっての幸せです。
だから、私は言うのです。この世の幸せも、幽界の幸せも、夢の幸せも、幻覚の幸せも、意識が感じている幸せは、みな、実在だと・・・。
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今、人類がやっているどんなことも、幸せを得るための方便です。お金や物を得るのも、地位や名誉や権力を得るのも、良い学校に入るのも、良い会社に入るのも、良い家庭を持つのも、山に登るのも、海に潜るのも、スポーツをするのも、絵を描くのも、音楽をやるのも、幸せを得るための方便です。でも、地球人類は、そのことに、まだ、気付いていないのです。だから、方便のために、毎日、四苦八苦して生きているのです。でも、一般の人は、四苦八苦して生きて良いのです。なぜなら、四苦八苦して生きることで、次のような精神力が身に付くからです。
努力心が培われます。
忍耐力が付きます。
集中力が付きます。
緻密さが養われます。
感性に磨きがかかります。
心が強くなります。
これらの学びは、魂の基礎作りに大いに役立つのです。
でも、学びの友の皆さんは、そんな基礎作りは、もう、終わったのですから、方便のために四苦八苦する必要はありません。皆さんが、やるべきことは、肉体維持に必要な社会体験をすること、そして、瞑想をすることです。
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「何が幸せで、何が不幸なのでしょうか?」これは、外見で決められるものではありません。なぜなら、心の中の幸せは、外側からでは分からないからです。確かに、見た目、金持ちの人の方が幸せそうに見えるでしょう。でも、心の中は、どうでしょうか? 金持ち故に経済動向が気になり、金持ち故に政治動向が気になり、金持ち故に遺産相続に悩むなど、心の中は、不安で一ぱいではありませんか? 魂の進化の面から考えても、安楽な環境より、厳しい環境の方が魂を大きくするのですから、貧乏人が不幸せだとは言えないのです。「肉体は苦しんでいるけれど、魂は喜んでいる!」と言われるのは、厳しい環境で、あれば、あるほど、魂は成長するからです。
神が望んでいるのは、あくまでも、魂の進化成長です。見た目、幸せだからと言って、羨まないでください。見た目、不幸せだからと言って、嘆かないでください。外見で決められないのが、幸・不幸の正体なのですから・・・。
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世の中には、お金や、物や、地位や名誉があれば、幸せだと思っている人たちが大勢おりますが、本当に、そうでしょうか?
どうでしょう?
また、こうも言えます。
更に言うなら、
このように幸せと言うものは、お金や物の多寡で決められるものではないのです。と言うことは、この宇宙に「これが幸せだ!」と言える、絶対的な幸せなど無いと言うことです。
幸せは、人の心が生み出すのです。人の心が生み出す幸せですから、比べることは、できないのです。比べられないから、幸せは「公平であり、平等なのです。」神様は、実に、公平な仕組みを作られたものと感心します。
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星の進化度を判断する基準は何でしょうか?
それは、
「魂の熟成度」と
「幸福度」と
「平和度」です。
ただし、魂の熟成度と幸福度は、外から見えないので判断基準に使えません。でも、平和度は、目に見えるので使えます。
争いごとの少ない星は、平和度が高いので、進化度の高い星です。争いごとの多い星は、平和度が低いので、進化度の低い星です。これは、当然のことでしょう。では、この物差しを使って、地球の進化度を測ってみましょう。
今の地球は、争いごとが絶えません。病気も多いです。事件や事故、自然災害も、日常茶飯事に起きています。と言うことは、平和度の低い星だと言うことです。平和度が低いと言うことは、進化度の低い星だと言うことです。当然、幸福度も低いでしょう。
では、この判断基準を使って、あなたの魂の進化度と幸福度を推測してみてください。
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「神と人間の物語の曲」の文の中に・・・「私は、すべてに満ち足りている! 幸せ一杯である!」と言う下りがあります。この文から察すると、神の世界は、幸せいっぱいなのでしょうが、自分しかいない神の世界においては、ただの自己満足にしか過ぎません。そこで、神は、人類を創り、自分の味わっている幸せを、客観的に認めてもらおうと考えたのです。確かに、人類は、神が味わっている幸せを、認めてやれる立場になりました。でも、神が、どんな幸せを味わっているかは、依然として分かりません。なぜなら、幸せは、味わっている当人しか分からないからです。人の味わっている幸せを、自分のものにすることは、絶対できないのです。その事に気づいた神は、仕方なく、人類の喜んでいる姿を見て満足しようと、考え方を変えたのです。
自分だけの喜びでは、心から喜べないのです。誰かと喜びを分かち合ってこそ、心から喜べるのです。これは、一人で見ているテレビドラマは、余り楽しめないけれど、家族と一緒に見れば、心から楽しめるのと同じです。神も同じなのです。神は、今、人類の喜びを、自分の喜びとしているのです。
今後、ますます、人類は、進化してゆくでしょうが、進化の折々、どんな喜びを表現するのか、神は、楽しみにしていると思います。
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人類が幸せを味わうまでは、神の幸せは、絵に書いたボタモチにしか過ぎませんでした。人類が幸せを味わうようになって、はじめて、神も、幸せを味わえるようになったのです。人と神は、一時も離れてはいられないのです。離れた途端、幸せから離れてしまうからです。
手には、表と裏がありますが、どこからが表で、どこからが裏だと言う境目はありません。でも、表と裏は、厳然として存在しています。神と人類も、どこから、どこまでが、人類で、どこから、どこまでが、神だと言う境目は無いのです。表の人類がいなければ、裏の神はいないし、裏の神がいなければ、表の人類もいないのです。どちらが無くても、どちらも無いのです。だから、神は、人類に幸せを味わってもらいたいのです。
「表の人類が、幸せを味わっている時は、裏の神も、幸せを味わっている時なのです。」
「表の人類が、不幸せを味わっている時は、裏の神も、不幸せを味わっている時なのです。」
神は、不幸せを味わいたくありません。だから、人類には、どうしても、幸せを味わってもらいたいのです。
人類が幸せを味わってこその、神の幸せであることを知ってください。
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幸せは、実在です。なぜなら、神意識は、実在であり、その神意識は、幸せだからです。そうです。神意識は、幸せそのものなのです。「幸せ」とは、「神意識」のことなのです。
神は、この宇宙に、幸せ以外、何もお創りになりませんでした。その幸せで満ちている、この宇宙に、不幸せが、あるはずがありません。しかし、地球には、沢山の不幸があります。なぜでしょうか?
それは、
「自分の意識が、神意識であることを知らないからです。」
人間の意識だと思うから、悪想念を持ち不幸を作ってしまうのです。
さあ、自分の意識が、神意識であることを知ってください。知っただけでも、不幸は半減します。もし、心の底で知ったら、もう、あなたに不幸せはないでしょう。
神意識そのものが幸せですから、その神意識を持っている人類が幸せでないはずがないのです。
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この世の幸せは、大きく分けて二種類あります。
一つは、「安堵感や安心感から生まれる幸せです。」
人は、安堵感に満たされると、幸福な気持ちになるものなのです。自然界の生き物たちが、巣を構えるのも、家族を持つのも、人間が、家を持つのも、家族を持つのも、安堵感に満たされたいためなのです。心配や不安や恐怖の中には、幸せは無いのです。
もう一つは、「喜びから生まれる幸せです。」
この喜びには、次のようなものがあります。
このように、この世の幸せは、二種類あるわけですが、いずれも、肉体ある限りの幸せです。私たちが目指している幸せは、そのような虚しい幸せではありません。「永遠に尽きない! 永遠に色褪せない!」幸せです。
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では、「永遠に尽きない! 永遠に色褪せない!」真の幸せは、どのような幸せなのでしょうか?
この世は、変化変滅を繰り返す無常の世界です。その世界にある幸せは、一時の虚しい幸せです。「これが確かな幸せだ!」と思っても、次の瞬間、手の中からすり抜けてゆくのが、この世の幸せなのです。皆さんは、今日まで、そんな虚しい幸せを嫌というほど味わってきたのです。ですから、皆さんは、もう、そんな一時の幸せでは満足できないのです。神様は、そのような人のために、次の三つの確かな幸せを用意してくれたのです。
一つは・・「理解力で味わう幸せ」です。
二つは・・「意識的五感で味わう幸せ」です。
三つは・・「意識が意識で味わう幸せ」です。
この3つの幸せは、「永遠に尽きない! 永遠に色あせない!」真の幸せなのです。
1、理解力で味わう幸せ!
原子核が増え、理解力が高まれば、宇宙の様々な謎が解ってきます。その謎の一端が解った時、筆舌に尽くしがたい喜びを味わうのです。私は、この喜びを、「理解力で味わう幸せ!」と言っているのです。この理解力で味わう幸せは、宇宙が永遠であるがゆえに、「永遠に尽きない! 永遠に色褪せない!」真の幸せと言えるのです。
2、意識的五感で味わう幸せ!
私たちは、成長と共に精妙な波動の身体を纏うようになりますが、その精妙な身体には、意識的五感が備わっており、私たちは、その意識的五感でも、幸せを味わってゆくのです。意識的五感で味わう幸せが、どうして、「永遠に尽きない! 永遠に色褪せない!」幸せかと言いますと、魂の進化と共に纏う身体には、頭打ちがないからです。頭打ちがない身体で味わう幸せだから、「永遠に尽きない! 永遠に色褪せない!」幸せと言えるのです。
3、意識が意識で味わう幸せ!
この幸せだけは、体験した者にしか解りません。
あえて、文字で表すとすれば・・、
ただ・・楽しいのです。
ただ・・嬉しいのです。
ただ・・喜び一杯なのです。
それは・・意識が蕩けてゆくような幸せです。
これ以上、表現できないのが、「意識そのものの幸せ」なのです。そのような意識状態になった時、自分の意識が光ってくるのです。つまり、自分が光ってくるのです。モノや場所に関係ないのです。五感に関係ないのです。
ただ・・意識が嬉しいのです。
ただ・・意識が楽しいのです。
ただ・・意識が喜びに溢れているのです。
このように、「意識そのものの幸せ」は、
何をしなくても!
何を見なくても!
何を聞かなくても!
何を味あわなくても!
何を嗅がなくても!
何を触らなくても!
また、
何を知らなくても!
何を持たなくても!
どこへ行かなくても!
また、
お金や物が無くても、
地位や名誉や権力が無くても、
ただただ、意識が、嬉しいのです。楽しいのです。幸せなのです。
伝えようのない幸せ・・言いようのない幸せ・・
それが、意識が意識で味わう幸せなのです。
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肉体の五官で感じる幸せも、意識的五観で感じる幸せも、理解力で味わう幸せも、条件が必要です。
例えば、肉体の五官で感じる幸せには、次のような条件が必要です。
また、意識的五観で感じる幸せにも、次のような条件が必要です。
そして、理解力で味わう幸せにも、次のような条件が必要です。
でも、「意識が意識で味わう幸せ」には、何の条件も要らないのです。
このように「意識が意識で味わう幸せ」には、何の「条件も要らない幸せ」なのです。この幸せが、究極の幸せなのです。
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では、究極の幸せを得るためには、どうすれば良いのでしょうか? どうするも、こうするもありません。神意識そのものが究極の幸せですから、神意識を持っている、私たちは、すでに究極の幸せを得ているも同然なのです。ただ、私たちは、この世のしがらみを沢山持っているため、究極の幸せが味わえないだけです。
こんなしがらみに縛られていては、心穏やかに瞑想できないため、神意識に触れることができないのです。では、この世のしがらみを取っ払うためには、どうすれば良いのでしょうか? それは、原子核を増やすことです。原子核が増えれば、
そうなると、この世が幻だと言うことが、はっきりと分かるようになりますから、この世のしがらみに振り回されなくなるのです。この世のしがらみに振り回されなくなれば、深い瞑想に入れるでしょうから、神意識に触れることができるのです。
私たちは、究極の幸せだけが欲しいのです。究極の幸せを得たら、後は何も要らないのです。すべての生命体は、「究極の幸せ」を欲しているのです。
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