神の別名は、「不明」です。解らないのが神なのです。神は、無限ですから、解りようが無いのです。私たちは、永遠に解らない神を追い求めてゆくのです。
神を知ることができないのは、感覚にかからない存在だからです。感覚にかからない存在は、外側には知る術がないのです。では、神は永遠に知れないのでしょうか? いいえ、外側には知るすべが無いけれど、内側には知るすべが有るのです。しかし、それも、完全に知ることはできないのです。うっすらと、知ることができるのです。
神は、「自」らを「分」け、表現宇宙を創造しました。表現宇宙に存在する、鉱物・植物・動物・人類は、みな、神の分身なのです。神の分身ですから、分身を探れば、神の一部分を知ることができるのです。しかし、そのためには、思索できる能力を身につけなくてはなりません。その能力は、原子核を増やし、理解力を高めれば、自然と身につくのです。
宇宙は、神秘のベールで覆われています。でも、そのベールは、理解力を、高めれば、高めた分、剥がすことができるのです。
ひとつ理解力を高めれば、ひとつ神秘のベールが剥がされます。
二つ理解力を高めれば、二つ神秘のベールが剥がされます。
このように、宇宙は、理解力を高めることによって、神秘のベールが剥がされるようになっているのです。だから、「理解力を高めることは」、とても大切なことなのです。
神を知りたかったら・・宇宙を知りたかったら・・瞑想して原子核を大きくし、理解力を高めてください。
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神につながるためには、神に意識を向けなくてはなりません。それも、純粋な動機で・・・。神は無欲なお方ですから、欲を持ちながら、神に意識を向けてもつながらないのです。神につながりたかったら、子供のような純真な心で、神に意識を向けてください。
神には、色々な側面があります。
例えば、
「光」も、神の一側面です。
「生命」も、神の一側面です。
「愛」も、神の一側面です。
「無限」も、神の一側面です。
「永遠」も、神の一側面です。
「本質」も、神の一側面です。
「一」も、神の一側面です。
「丸」も、神の一側面です。
神と神の側面は同じですから、神の側面を意識しても、神と繋がります。
物質(物質・お金・地位・名誉・権力)は、波動が低いため、物質に意識を向けていては、絶対、神とつながりません。どうか、波動の高い、神の側面に意識を向けてください。それも、幼子のような純な気持ちで、神の側面に意識を向けてください。そうすれば、間違いなく、神につながることができます。
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「神と人間の物語」の曲の中に、「初め無き始め、この宇宙には、唯一の神が存在していました」という下りがあります。この「初め無き始め」という言葉は、神の永遠性と無限性を示しているとても重要な言葉なのです。初めが無いと言うことは、終わりが無いと言うことです。初めが有ると言うことは、終わりが有ると言うことです。
「初め無きものは、永遠であり、無限であり、完全であり、初め有るものは、無常であり、有限であり、不完全なのです。」
結果が有るということは、結果を生み出した原因が、必ず、有るのです。
神が存在しているのは、結果ですから、その神を生みだした原因が、必ず、有るのです。
では、神を生みだした原因は、何でしょうか・・?
今、神が存在していると言うことは、その神を生んだ、何かが前になくてはなりません。
そして、その神を生んだ神も、その前になくてはなりません。
そして、その神を生んだ神も、その前に・・・と言うことは、この話は、堂々巡りになります。堂々巡りと言うことは、果てがないと言うことです。果てがないと言うことは、無限であると言うことです。無限には、初めが無いし、終わりが無いのですから、神を生んだ原因を探すことは、永遠にできないのです。
神には、原因が無いのです。それは、無限だからです。永遠だからです。完全だからです。だから、神のことを「原因無き原因者」と言うのです。原因無きものは、永遠に知ることができないのですから、「神」を知ろうと思っても、無駄なのです。でも、それで良いのです。永遠に知ることのできない神ゆえに、求めがいがあるのですから・・・もし、神が知れるなら、私は、そんな、有限な神は、知りたくありません。永遠に知ることのできない神だから、夢と希望を持って求道の旅を続けることができるのです。この幸せに感謝しましょう。
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前述したように、神を知ることは出来ません。でも、神の側面なら知ることができるのです。では、神の側面を知りましょう!
このように神の側面は、色々とあるのです。中でも、意識は、神の代表的な側面です。神は意識で、意識は神なのです。その意識は、絶対無くならないのです。だから、神も、絶対無くならないのです。その神なる意識で、宇宙が創られたのですから、宇宙は、神の意識そのものと言えるわけです。その神の意識は、無限の可能性と、無限の発展性と、無限の創造性を持っています。神の意識は、無限の能力を秘めているのです。したがって、神の意識の中には、何でも有るのです。しかし、何も無いのです。なぜなら、神は、何も表現されない意識だけの存在だからです。宇宙には、この神意識だけが有るのです。この神意識だけある宇宙を、絶対宇宙と呼んでいるのです。絶対宇宙ですから、時空がありません。時空がないから、何も表現されないのです。何も表現されなくては、神の存在がありませんから、神は、自らの意識核を放射して、時空を生み出し、表現宇宙を創ったのです。
言葉の整理をしておきましょう。神の意識核を「原子核」と言っております。また、この意識核の集まったモノを、「生命核」とも「魂」とも言っております。「魂」とは、神の意識核の「塊」のことなのです。
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どうして、人は、神なのでしょうか? 皆さん、よく考えて見てください。どうして、自分がいるのですか? どうして、相手がいるのですか? 自分がいるからではありませんか? 勿論、自分がいなかったら、自分もいないし、相手もいないのは、当然です。相手を認める自分がいなかったら、何も始まらないのですよ! 一体、自分なしに何があると言うのですか? 一体、自分なしに何が始まると言うのですか? 自分抜きでは、何も始まらないのです。と言うことは、自分がすべてのモノを創っていることになりませんか? つまり、自分が自分を創り、相手も創っていると言うことです。「いや、自分がいなくても相手はいますよ!」と、あなたは、反論するかも知れません。でも、自分がいなかったら、相手がいるかいないかどうして分かるのですか? 自分がいなくなった瞬間、相手がいなくなっているかも知れないのですよ。
このように、自分抜きでは何もあり得ないのです。親も、子も、友だちも、地球も、宇宙も、全部、自分が創っているのです。と言うことは、自分は、創造主ではありませんか? 神ではありませんか?
お釈迦様が言われた「天上天下唯我独存(尊)」とは、宇宙(天上天下)には、自分しか存在しない! 自分だけが独存(尊)している! と言う意味なのです。
宇宙の存在を証明できるのは、自分しかいないのです。自分抜きでは、何も証明できないのです。だから、自分が存在していた時には、神(宇宙)が存在していたし、神(宇宙)が存在していた時には、自分が存在していたのです。自分は、神(宇宙)の存在を認めてやれる唯一の存在者なのです。と言うことは、「自分は神である」と言う証拠です。だから、「自分」と言う字は、「神が(自)らを(分)けた」と書くのです。勝手に相手がいると思ってはなりません。相手は、自分が創った相手なのです。自分が連れてきた相手なのです。それは、自分が意識だからです。自分の意識が、すべてのモノを創造し、すべてのモノを存在させ、すべてのモノを消滅させているのです。何事も、「自分の意識有って」のモノ種であることを知ってください。
(この数式は、この宇宙に「私」しかいない事を証明している数式です。これは、頭で解ることではありません。原子核を増やし理解力を高めて解ることです。)
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人が神を求めるのは、潜在意識の中に神の火種を持っているからです。ガチガチの唯物論者が、死ぬ間際に、神頼みするようになるのは、彼らにも、神の火種があるからです。「神の火種とは、意識のこと」です。どんな人も、神を否定しきれないのは、みな、意識を持っているからです。
あなたは、自分の意識を捨てられますか? どんなに捨てようと思っても、捨てられないはずです。それは、「あなたの意識が、神の意識」だからです。もし、捨てられるなら、誰よりも一番に、私が捨てたいです。しかし、どんなに捨てたいと思っても、意識だけは捨てられないのです。なぜなら、捨てた途端、宇宙が消えてしまうからです。今まで宇宙が有ったのは、自分の意識が宇宙を認めていたからです。今、宇宙が有るのは、自分の意識が認めているからです。その認めている自分の意識が無くなったら、認められている宇宙が無くなるのは、当然ではありませんか?
宇宙は、永遠に無くならないのです。と言うことは、あなたの意識も、永遠になくならないと言うことです。あなたが神である証拠は、永遠に無くならない意識を持っているからです。だから、私は言うのです。永遠に無くならない意識を持っている、あなたは、紛れもない、神であると・・・。これは、誰が何を言おうと、絶対崩せない真理なのです。
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「私は、神を求めてきましたが、まだ、一度も、神が現れたことがありません!」と言う人がいますが、それは、生半可で神を求めてきたからです。気まぐれで神を求め、どうして、神が現れてくれるでしょうか? 神は、常に、あなたのハートを叩いていたのですよ。でも、あなたは、困った時にしか、神を意識しなかった。そんな気まぐれで、どうして、神が現れてくれるでしょうか? 神に逢いたかったら、四六時中、「神を呼ぶこと」、「神を意識すること」、「神を瞑想すること」です。
世の人々は、毎日、何に時間を使っているでしょうか? 日々の生活のことや、過ぎ去った過去のことや、まだ来ぬ未来のことに、時間を使っているのではありませんか? そんな使い方をして、本当に生きていると言えるでしょうか。この世の事は、みな、幻なのですよ。幻に生きて、一体、何になるのですか?
日々、神を求めている人は、日々、布石を打っているのです。これは、大きな前進です。この世の事に生きている人は、少ししか前進していないのです。どうか、時間あるごとに、神を求めてください。神を求めるとは、「神を呼ぶこと」、「神を意識すること」、「神を瞑想すること」です。その人は、本当に生きている「生人」です。
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「出てきたところが分からなくては、帰るところが分からないだろう!」と、知花先生がおっしゃるのは、自分の出てきたところが分からなくては、帰るところが分からないからです。
私たちの故郷は、幽界などではありません。神界です。私たちは、幽界と現象界を輪廻する内に、自分が何処から出てきたのか忘れてしまったのです。今の地球人類は、幽界が故郷だと思っているのです。幽界は、第二の故郷です。「私たちの本当の故郷は、神界です! 」 さあ、本当の故郷を思い出しましょう。
神界は、現象界や幽界にあるのではありません。あなたの意識の中にあるのです。自分が神であると、心の底で自覚したら、意識の中に神界が開けるのです。自覚するためには、原子核を増やして理解力を高めなくてはなりませんが、それは、社会体験と瞑想によってできるのです。さあ、社会体験と瞑想をして、原子核を増やし理解を高めましょう!。理解力だけが、出てきた故郷に連れ帰ってくれるのですから・・・。
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この宇宙には、たった一つの素材があるだけです。たった一つの素材とは、神のことです。素材そのものが、意思を持ち、理念を持ち、力を持ち、創造物になっているのです。言い方を変えれば、素材は建主であり、設計者であり、建築者であり、材料であり、建築物、そのものなのです。神がモノを創造する場合、神がそのモノになるしかないと言われるのは、神しかおられないからです。神の他に何かがあるなら、他の何かに、そのモノになってもらうことができるかも知れませんが、神しかおられないのですから、神がそのモノになるしかないのです。
つまり、
「素材自らが発意し、素材自らが設計し、素材自らが材料となり、素材自らが建築し、素材自らが建物になるのです。」
一つの素材しか無いとは、そう言う意味なのです。
素材が、どんなに姿を変えても、素材は、素材のままです。神が、どんなに姿を変えても、神は、神のままです。と言うことは、人類は、神、そのものではありませんか? この事実は、いかなる者も崩すことができないのです。 さあ!「私は、神である!」と、堂々と宣言してください。
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世の中には、少しも、近づいていないのに、神の悪口を言う人がおりますが、これは、余りにも軽薄すぎます。近づいていないのに、どうして、神の偉大さが分かるでしょうか? それは、遠くから、チラッと絵を見て、「何だ! 大した絵じゃない!」と、言っているようなものです。批判もするなら、近づいて、良く見てからすべきです。神の偉大さは、神に近づいてみなくては、分からないのです。
神は、偉大なお方です。何一つ欠陥が見つかりません。どこを抓んでみても、どこを叩いてみても、一つの欠点も、一つの狂いも、一つの齟齬も、見つからないのです。それは・・それは・・見事と言うほかありません。そんな神を、人間の理解力で量ることなどできないのです。
このように言うのは、それだけ・・
「神の深遠さと、神の法則の完全さと、神の計らいの凄さを知ったからです。」
それは、もう、ただ、ただ、首を垂れるしかないのです。神の深みを知れば、あなたも、同じことを言うでしょう。
多くの人が神を否定するのは、神を遠くから見ているからです。どうか、神に近づいてください。そして、神を、知って、知って、知り尽くしてください。近づいたら、感嘆の声は上げても、決して、文句は言わないはずです。
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私が、いつも、「神に意識を向けなさい! 神と親しくしなさい!」と言うのは、神に意識を向けている時は、神にエネルギーを送っていることになるからです。神にエネルギーを送れば、エネルギー均衡の法則によって、神から良いエネルギーのお返しがあるのです。これは、「 ありがとう!」と叫べば 、「ありがとう!」が、「馬鹿野郎!」と叫べば、「 馬鹿野郎!」が返ってくる、山彦の原理と同じなのです。
山彦の原理は・・
「良い原因を作れば、良い結果が、悪い原因を作れば、悪い結果が返ってくることを教えているのです。」
では、なぜ、神に意識を向ければ、良いエネルギーのお返りがあるのでしょうか? それは、神の想いは、良いエネルギーだからです。私たちが神を意識している時には、良いエネルギーを出しているのです。良いエネルギーを出せば、良いエネルギーが返ってくるのは、エネルギー均衡の法則からして当然のことなのです。
エネルギーは、常に均衡を保とうと身構えているのです。その働きを利用しない手はありません。さあ、神に向かって良いボール(良い想い・良いエネルギー)を投げましょう。必ず、神から良いボール(良い想い・良いエネルギー)が投げ返されるでしょう。
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私たちが、転生輪廻を繰り返すのは、相対的体験を通して「神人」になるためです。つまり、陰を知って陽を知り、中性である神人を自覚するためです。一箇所に留まっていては、真ん中を知ることができないのです。左(陰・女・物・人類)を体験して、右(陽・男・意識・神)を知り、真ん中(中庸・中性・神人)を知るのです。すべて体験です。体験のみが、真ん中を知らしめてくれるのです。ですから、私たちは、この相対宇宙に出てきて色々なことを体験し、真ん中を知ろうとしているのです。
「真ん中」と言う言葉が出てきましたが、「真ん中とは、神人のこと」です。その神人は、本源の神のミニチュアのような存在です。ですから、能力は、本源の神には及ばないのです。でも、進化し、本源の神に近づいてゆく存在なのです。
本源の神は、何の性質もありません。何の表現もありません。何の凹凸も無いのです。(平坦な波動です。) しかし、何も無いから、何でも有るのです。波が無いから、波が有るのです。「何も無いのは、何もかも有る」からです。神は、総合されたモノなのです。総合されたモノは、表現が無くなるのです。七色が集まれば、白光色になるように、総合されたモノは、無色になるのです。これが、「神の奥深さ」なのです。
神人は、まだ、個性を持った存在です。でも、その神人も、進化を遂げて、無波動の本源の神に近づいて行くのです。でも、どんなに近づいても、本源の神には戻れません。一旦、本源の神から出てきた神の分身は、永遠に、本源の神には戻れないのです。これが、この宇宙の摩訶不思議なところなのです。
宇宙には、知るべきことが無限に存在するのです。知るべきことが無限に存在すると言うことは、宇宙を知ることは、永遠にできないと言うことです。宇宙は、神ですから、神は、永遠に知ることができないと言うことです。でも、一部分は、知ることができるのです。何かつまらないような気がしますが、一部分を知れば、知った分のご褒美が頂けるのですから、それで良いのです。
神の素晴らしさは、天井がないからです。果がないからです。解りようがないからです。どうか、解りようのない、神の一部分を知ってください。知った分、あなたは、神人に近づいてゆけるでしょう。
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神は、姿形がありませんので、何かしようと思っても表現することができません。そこで、神は、自分の想いを具現化する分身(人類)を創造し、地上に遣わしたのです。
「脳」は、神の想いの中継所です。「喉仏」は、神の想いを言葉にする表現器官です。「手」は、神の想いを行為に現す表現道具です。だから、人の想いは、「神の想い」であり、人の言葉は、「神の言葉」であり、人の手は、「神の手」なのです。人が想っているのでも、人が話しているのでも、人がやっているのでもありません。神が想い、神が語り、神がやっているのです。でも、人間は、自分を神だと思っていません。だから、波動の低い想いを持ち、波動の低い言葉を語り、波動の低い行いをしているのです。でも、人間の本性は、神ですから、間違いなく、神が想い、神が話し、神が行っているのです。
「神が想い! 神が語り! 神がやっている!」と意識して、想い、話し、やれば、素晴らしい波動の想いとなり、素晴らしい波動の言葉となり、素晴らしい波動の行為となります。良い家庭を作りたかったら、良い仕事をしたかったら、良い人生にしたかったら、「神が想い!」、「神が語り!」、「神がやっている!」と思い生きてください。
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この宇宙には、たった一様の神しかおられません。そのたった一様の神には、二つの悩みがありました。
一つの悩みは・・・
神は、無限の発展性と、無限の可能性と、無限の創造性を秘めた偉大な能力を持っておりますが、その神には、姿形がありませんので、そのままでは存在していないのと同じなのです。
もう一つの悩みは・・・
今、神が存在していることは、神が認めています。でも、神が神を認めても、存在していることにならないのです。何かに、誰かに、認知されて、はじめて神が存在できるのです。
神は、二つの悩みを解決する方法を考えました。神は、ヒラメキました。自分の分身を創り、その分身に、神の存在を認めてもらえば、二つの悩みは解決できると・・・。これが宇宙の創成の始まりです。
神は、神の意識核を無数に分けて放射しました。つまり、神が、「自」らを「分」けたのです。これが、神の分身である人類が、「自分」になった瞬間です。その意識核には、「私」という記憶はあっても、「自分が誰なのか?」という記憶が無いのです。どうして、記憶を奪ったかと言いますと、神の記憶を持った分身が、神を認知しても、認知したことにはならないからです。
さて、記憶を失った意識核は、自分を知りたくて集まってきます。これが、親和力による意識核の濃縮作業です。集まってきた意識核は、まず、塵となり、鉱物となり、星となります。その星の上に、植物が誕生し、動物が誕生し、人類が誕生します。鉱物・植物・動物は、自我がないので、認知者になれませんが、人間は、自我を持っているので、認知者になれます。神は、自分を認知してくれる人類が誕生したことに満足しました。
神が、「自ら」を「分けた」語源の意味が示すように、神は、自分を客観的に認めて欲しくて、人類を創ったわけですから、認知できる、私たちは、間違いなく、神の分身なのです。だから、人類は、本能的に自分のことを「自分」と呼ぶのです。しかし、今の地球人類は、その「自分」を、人間と誤解しているのです。それは、神の自覚がないからです。
私たちは、神が、「自」らを「分」けて生まれた分身ですから、どんな形の中に入っても、「自分」は変わらないのです。今、あなたは、Aという名の人間の中に入っていますが、以前には、Bという名の人間の中に入っていた時代があったのです。衣装を変え、カツラを変え、名前を変え、役割を変えても、その形に入っている自分は、何も変わっていないのです。つまり、原子核が増えた分、乗り物が大きくなり、能力が増し、役割が大きくなっただけで、自分は、永遠に変わらないのです。私たちは、いずれ、星になり、大宇宙になるのです。でも、どんなに大きくなっても、自分は、変わらないのです。
このように、自分とは、神が、「自」らを「分」けたのです。ですから、私たちは、間違いなく、神なのです。
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あなたは、自分を知っていますか? 誰も、自分のことを知っているつもりですが、自分を知っている者は、この地球上に一人もいないのです。なぜなら、本当の自分は、目に見えない存在だからです。では、どうすれば、自分を知ることができるのでしょうか? それには、神と自分との共通点を探すことです。では、探してみましょう。
神は・・
見えも、触れもしない存在です。
意識を持っている存在です。
想念を持っている存在です。
創造能力を持っている存在です。
無限なる存在です。
永遠なる存在です。
完全なる存在です。
光であり、エネルギーなる存在です。
自由なる存在です。
愛なる存在です。
神の欲しているものは、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せです。
本当の自分は・・
見えも、触れもしない存在です。
意識を持っている存在です。
想念を持っている存在です。
創造力を持っている存在です。
無限なる存在です。
永遠なる存在です。
光であり、エネルギーなる存在です。
完全なる存在です。
自由なる存在です。
愛なる存在です。
本当の自分が欲っしているものは、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せです。
どうでしょう! 同じ共通点を持っているのですから、神でないはずがありません。ただ、未成熟な神の子であると言う点が違うだけです。
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なぜ、自分は、神なのか? 更に、確信を深めましょう!
「神は、偉大なお方であり、かつ、ありふれたお方である!」と言われるのは、神は、あらゆるモノの中におられ、下僕となって働いているからです。
神は、無限なのです。永遠なのです。完全なのです。その神は、どんなモノの中にも、おられるのです。と言うことは、私たちの中にも、神は、おられると言うことです。私たちは、神そのものゆえに、本来の私たちは、完全なはずなのです。でも、今の人類は、たくさん苦しみを抱えています。不完全にしているのは、神の働きを自我で邪魔しているからです。でも、その自我も、神から生まれたのですから、自我も神なのです。
「私たちが、神である理由は、自我を持っているからです。」
自我を悪と考える人がおりますが、自我がなくては、何も認められないのです。認める者がいなかったら、認められる宇宙も、神も、存在できないのです。自我が認めて、はじめて、宇宙も、神も、存在できるのです。それほど、自我は、宇宙にとって、神にとって、掛け替えのない存在なのです。
私たちは、自我を持った神なのです。「自我を持っていることが、神の証」なのです。ただ、私たちは、神だと自覚していない、神なだけです。
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学びの友の中に、まだ、「本当の自分(神の自分)」と「ニセモノの自分」について理解できていない人がいるようですので、ここで復習を兼ね説明したいと思います。その前に解りやすくするために、「本当の自分」に「A」と名を付け、「ニセモノの自分」に「a」と名を付けることにしましょう。
絶対宇宙には、たった一つの「A」の自分がいるだけです。その「A」の自分は、自分が全能の神であることを知っています。でも、悲しいことに、そのことは、「A」の自分しか知らないのです。「A」の自分が「A」の自分を知っていても、自己満足にしか過ぎません。そのことに気づいた「A」の自分は、ニセモノの「a」の自分を創造し、自分を認めてもらおうと考えたのです。
創造された「a」の自分は、「自分がいる! 妻子がいる! 友だちがいる! 宇宙がある! 神っているのかな?」と思える自我を持ちました。自我を持った「a」の自分は、「A」の自分を認知できるようになったわけですから、目的が達成されたことになります。でも、「a」の自分は、自分のことを、まだ、「人間」だと思っているのです。これでは、「A」の自分を認知してやることはできません。今の地球人類の殆どが、「a」の自分のような状態なのです。でも、学んでいる皆さんは、「A」の自分を認識してやれるところまで進化した、偉大な魂です。しかし、皆さんも、まだ、知識段階なのです。知識段階では、認知したことにならないのです。「a」の自分が「A」の自分を自覚して、はじめて、認知したことになるのです。
自覚するとは、「a」の自分が、「A」の自分そのものになることです。つまり、「a」の自分が、「心の底から神である!」と思えるようになることです。でも、その意識状態になるためには、原子核を大きくし、自覚の境界線を越えねばならないのです。
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本当の自分は、神です。なのに、今の地球人類は、人間と誤解して生きています。それは、神の自覚がないからです。神の自覚を持ったら、そく、神です。神になる修行は、必要ないのです。ただ、「心の底で自分は神である!」と思えるようになるだけです。それは、意識の薄皮 一枚 破れば良いだけです。意識の薄皮 一枚 破れば、そく、神の自覚に入れるのです。つまり、人間が卒業できるのです。
あなたは、肉体の「a」さんのままでいたいのですか? 自由な「A」の自分になりたくないのですか? 神の自覚を持ったら、今の自分が失われるのではないか? と心配する人がおりますが、神の自覚を持っても、今の自分は変わらないのです。ですから、心配せず、神の自覚を持ちましょう。
それは、次の二つのことをやれば良いだけです。
社会体験は、すでに、皆さんは、やっているわけですから、何も言うことはありません。付け加えるとすれば、厭なことがやってきても、逃げないでやることです。瞑想は、少々、難しいかも知れませんが、やることは、単純です。社会体験と瞑想を続ければ、意識核(原子核・魂)が、ドンドン増えますので、いつか、必ず、自分は、「生命である! 神である!」という自覚に入れるのです。
神の自覚に入ることが、人生最大の目的なのです。学びの友の皆さんは、今、一生懸命 原子核を集め、神の自覚に近づくべく歩んでいる魂なのです。
-18-
神は、次のような恩情を持っています。
一つは、神に従順な者は、決して、神は見放さないと言う恩情です。
二つは、神の法則に従う者には、幸せが与えられると言う恩情です。
三つは、良いことを「想い 話し 行え」ば、悪いことは起きないと言う恩情です。
四つは、神を想っていれば、業を作らず、かつ、原子核が増えると言う恩情です。
そして、五つは、与えれば、与えられると言う恩情です。
愛を与えれば、愛が帰ってきます。
物を与えれば、物が帰ってきます。
優しくすれば、優しくされます。
「ありがとう!」と言えば、「ありがとう!」が帰ってきます。
微笑めば、微笑みが帰ってきます。
勿論、この反対のことを「想い 話し 行え」ば、反対のことが帰ってきます。神は、温情を持っていますが、非情な部分も持っているのです。非情は、強い愛ですから、温情以上の深さなのです。でも、それも、あなたの「身・口・意」次第なのです。
-19-
神が創られた「原因と結果の法則」は、確かに、峻厳な法則です。「悪いことをしたら、悪いことをした分、苦しみなさい!」、と言う弁解の余地のない法則だからです。でも、心から反省し「二度と過ちを犯さない!」と堅く心に誓った瞬間、苦しみが和らぐ温情的法則でもあるのです。このような、温情的法則を創られたのは、神の心の中に人間的情があるからです。
神は、私たちを苦しめるために、「因果の法則」を、お創りになったわけではないのです。過ちに気づいてもらうために、お創りになったのです。ですから、過ちに気付き、心から反省したら、もう、苦しみを与える必要はなくなるのです。
私たちの中には、神がおられるのです。神がおられるのですから、どんなに、自分を騙しても、騙せるものではないのです。でも、悲しいことに、人間は、自分を騙して生きています。騙せば、騙すほど、苦しくなると言うのにです。でも、その苦しみは、神が与えているのではありません。自分が、自分に与えているのです。
この世界には、人を裁く法律や、人を守る警察がおりますが、本当は、人を裁く法律も、人を守る警察もいらないのです。なぜなら、「因果の法則が、人を、裁き、守ってくれる」からです。その方が間違いないし、公平だからです。どうか、「因果の法則」を守って生きてください。自分で身を守る必要はありません。
-20-
神は、こう言います。「今、やれることを、今、精いっぱいやってください!」と・・・。今、やれば、雪だるま式に原子核が大きくなります。「今の今」が大切です。今、やれば、自乗になって膨らむからです。
「思った時が最善の時!」です。なぜなら、神なる「自分」が、そう思わせたからです。神は、何でもご存知です。その神なる自分が、今、良かれと思ったのですから、最善の時なのです。さあ! 今、実行しましょう。躊躇すれば、大切な時を逸してしまいます。
過去の時は使えません。未来の時も使えません。「今の時」だけが使えるのです。今の一時を無駄にする者は、永遠の時を無駄にしているのです。なぜなら、今の一時だけが、実在しているからです。
今・今・今だけが、永遠に実在するのです。
今・今・今だけが、永遠に続くのです。
今・今・今だけが、あなたを存在させるのです。
この意味の深さを知ってください。
-21-
今、人類は、同じ神の子でありながら、喧嘩し合っています。何と悲しいことでしょう。闘争は、どこまでも、闘争です。闘争は、苦しみと悲しみを生み出すだけです。戦って平和を得たことなど、未だかって、一度も無いのです。これは、神様が、どちらにも味方しない証拠なのです。
「喧嘩両成敗」が宇宙の道理です。だから、喧嘩している者には、等しく、苦しみが与えられるのです。我が子を平等に愛する神様が、ひいきするわけがないからです。あなたの子に、特別、可愛い子がおりますか? みな、等しく可愛いのではありませんか? 神様だって同じです。
神様が一番悲しいのは、子供たちが、喧嘩している姿を見る時です。
神様が一番嬉しいのは、子供たちが、仲良くしている姿を見る時です。
どうか、神様を悲しませないでください。神様は、同じ兄弟姉妹同士、仲良くすることを願っているのですから・・・。
-22-
この宇宙には、私しかいないのです。なぜなら、すべてが「神」だからです。すべてが神だと言うことは、存在しているすべてのモノは、神である、と言う証拠なのです。だから、私は、堂々と「私は、神である!」と言うのです。私がいなかったら、神はいないのです。神がいなかったら、私はいないのです。なぜなら、私が神を認めることによって、神が存在し、神が私を認めることによって、私が存在しているからです。認める者がいなかったら、認められる者は存在しないし、認められる者がいなかったら、認める者は存在しないのです。
この宇宙には、神しかおられないのです。その神は、永遠の昔より存在していたし、今も存在しているし、永遠の未来にも存在し続けるのです。だから、私も、永遠の昔より存在していたし、今も存在しているし、永遠の未来にも存在し続けるのです。神を認める私がいなかったら、神は存在できないのですから・・・。
「私は、神である!」と、堂々と言えるのは、今、「私は」、実際に存在し、神を認めているからです。これ以上、ハッキリした神の証拠はあるでしょうか?
-23-
確かに、神は、宇宙に君臨する絶対的存在者です。宇宙の大王です。宇宙一の偉大なお方です。でも、人間がいなくては、どんな偉大な神も存在できないのです。何度も言うように、認める人間がいるから、認められる神は存在できるのです。右があるから、左があるのです。上があるから、下があるのです。片方だけでは、何も存在できないのです。つまり、神だけでは、神の存在は無いのです。
よく、考えてみてください。自分がいるから、相手がいるのです。また、相手がいるから、自分がいるのです。自分だけでは、相手だけでは、何も成立しないのです。例えば、どんなに売り手がいても、買い手がいなかったら、商売は、成立しないのです。話す人がいても、聴く人がいなかったら、会話は、成立しないのです。だから、私は、皆さんと同じように、会場費を払っているのです。
この例えのように、人間と神は、同等なのです。いや、私は、人間の方が、上だと言いたいくらいです。それほど、人間は、偉大な存在なのです。
さあ!「神を存在させているのは、私だ!」と偉ぶってください。
-24-
そのものとは、何でしょうか? それは、本源本質のことです。言い換えれば、神のことです。神は、すべての「本源本質」なのです。
では、具体的に、本源本質の神とは、どのような存在でしょうか?・・・
神とは・・・
更に付け加えるなら・・・
しかし、これでも、「本源本質の神」を言い尽くしているとは言えません。神は、言葉や文字を超越しているからです。この表現しきれない、「神」が、神の実体であり、宇宙の実体であり、本当の自分の実体なのです。
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なぜ、神が完全かと言いますと、神の思いの中には、完全しか無いからです。完全な思いしか無いと言うことは、神が創られた、すべての創造物は、完全であると言うことです。では、なぜ、人類社会に不完全があるのでしょうか?
確かに、人類社会には、不完全なものが、沢山あるように見えます。でも、それは、製作途中だから不完全に見えているだけです。何でもそうですが、創作途中のモノは、不完全に見えるのです。今の地球人類は、「進化途中の姿」なのです。でも、仕上がった暁には、完成品になるのです。だから、今、醜い姿をしているからと言って、地球人類を卑下してはなりません。完成された暁には、あなたの口から出てくる言葉は、褒め言葉ばかりになるのですから・・・。
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今、地球人類は、進化途中の不完全な姿をしていますが、原子核を増やして成長してゆけば、完成な姿に近づくのです。でも、それは、完成な姿に、近づくのであって、完全な姿にはなれないのです。なぜなら、完全な姿になったら、終わりだからです。
「完全の中に、完全は無い!」のです。「不完全の中に、完全がある」のです。完全は、止まりだからです。終わりだからです。進展しないからです。それは、死です。ハンドルに遊びがなかったら、車の運転ができないように、ガンジガラメでは、動きが取れないのです。
どこまでも、不完全なものが、「絶対完全」なのです。「絶対完全」の意味は、「永遠に不完全である」と言う意味なのです。なぜ、完全になれないのかと言いますと、完全な宇宙からは、不完全なドラマが生まれないからです。不完全なドラマが生まれなくては、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せも生まれないのです。私たちに必要な幸せは、留まりのない幸せです。つまり、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せです。この幸せは、不完全な宇宙からでなくては、生まれてこないのです。どうか、この意味の深さを知ってください。
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この地球では、異質のモノが、「一つに溶け合う」、「合体する」、「融合する」ことを同化と言っていますが、これは、間違った解釈です。この宇宙には、異質のモノはあり得ないのです。同質のモノ同士だから、一つのもの同士だから、同化できるのです。人間は、もともと、生命だから、「生命」と同化できるのです。人間は、もともと、神だから、「神」と同化できるのです。分数二も、分数三も、分数四も、もともと、元数一だから、元数一と同化できるのです。
この宇宙に、異質なモノは、何一つ無いのです。みな、一つの神から出てきた兄弟姉妹同士です。兄弟姉妹同士ゆえに、愛し合うことができるのです。許し合うことができるのです。分かち合うことができるのです。一しかない真理を知る大切さは、次のことからも分かってもらえると思います。
私は、よく、「大きいも、小さいも、無い!」、「重い、軽いも、無い!」と言いますが、それは、一しか無い宇宙においては、当然のことなのです。なぜなら、比べることができないからです。二つある宇宙なら、比べられるので、大小があるでしょうが、一しか無い宇宙においては、大小が生まれるわけがないのです。
もう一つ・・・
意識を一点に集中してみてください。どんなに集中しても、一点の中に収まり切れないはずです。意識を無限に拡大してみてください。どんなに拡大しても、拡大し切れないはずです。それは、一つの意識しか無いからです。一つしか無い宇宙は、無限なのです。無限においては、何も収まり切れないのです。それは、区切れないからです。分けられないからです。分けられないと言うことは、無限しか無い、一しか無いと言うことです。ゆえに、一なる、あなたは、無限の存在なのです。無限なるものは、神ですから、あなたは、神、そのものであり、神は、あなた、そのものなのです。
一つのモノが、一つに同化するのです。人間が、神に同化するのではありません。「神が、神に同化するのです。」このことが理解できたら、あなたは、神と一体になれるでしょう。
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「不動心」とは、心に揺れの無い状態です。その不動心は、神に対する絶対的信頼が生まれた時に創られるのです。絶対的信頼とは、神に対する絶対的な確信です。つまり、
という、神に対する信頼と確信です。
神は、完全です。その神が、不完全なモノを創るわけがないし、悪いモノを創るわけがないからです。どんなモノも、良いものです。どんなことも、良いことです。どんなに、悪いように見えていても、すべて、「進化成長に結びついている」良いことです。
どうか、神を信じてください。信じられれば、信じられるほど、心配・不安・恐怖は、無くなるでしょう。神を信じても、人生です。信じなくても、人生です。どうせ、同じ人生を歩むなら、神を信じ、楽しい人生にしたらどうでしょうか? それが、利口な人の生き方です。
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神人とは、「相対宇宙と絶対宇宙」の中間点に立った人のことを言います。つまり、「神の立場も解り、人間の立場も解る」ようになった人です。神人には、まだ、人間臭い欲望もあり、人間臭い感情もあるのです。神人は、本源の神のような峻厳な愛だけで裁かないのです。時には、厳しく、時には、情をかけ、また、相手の成長を考え、アメとムチで裁くのが、神人なのです。
その神人の原子核は、宇宙大にまで拡大しています。でも、どんなに拡大しても、本源の神には戻れません。もし、本源の神に戻るなら、元の白紙状態になってしまうからです。そんな意味のない宇宙を、神が創るはずがありません。
私たちは、神人になっても、永遠に、進化の旅を続けて行かねばならないのです。何か大変な旅のように思うでしょうが、反対に、楽しい旅なのです。なぜなら、進化の旅すがら、幸せという、ご褒美が頂けるからです。もし、進化の旅に、終りがあるなら、幸せにも、終りがあることになり、それでは、絶望です。永遠に終わらない旅だからこそ、私たちは、希望を持って、旅を続けてゆけるのです。
「神って人間臭いですね!」と、私が言うのは、私と同じ考えを持ち、対処してくれるからです。つまり、人間の欲と情に添った、厳しさと、ご褒美を与えてくれるからです。
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「すべての道は、ローマに通ずる」という諺がありますが、「すべての道は、神の心に通ずる」のです。日本には、茶道・花道・書道・柔道・剣道など、様々な極める道がありますが、どの道を極めても、神の心に通じるのです。例えば、茶道について考えてみましょう。
茶道は、「わび」と「さび」の心を大切にする学びです。「わび」は、「陽の心」を意味し、「さび」は、「陰の心」を意味します。頭を下げて茶室に入るのは、頭の低い人になりなさいと言う「陽の心」の学びです。精神統一して茶筅を左回転させるのも、「陽の心」の学びです。茶釜の音を聞いて頃良い温度を知る湯立は、「陰の心」の学びです。また、茶器の形や模様や色合いを通して自然の美しさを知るのも、「陰の心」の学びです。茶道は、外側(陰)の表現と内側(陽)の心を調和させる学びなのです。
花道も基本的には同じ学びです。中心に生ける花は、「陽の心」を現しています。周りに生ける草木は、「陰の心」を現しています。陰は陽を際立たせ、陽は陰を支える役割です。陰陽の調和が整うことで花道が完成されるのです。自然は、陰と陽のバランスの塊ですが、その自然の姿を、花器の中に、そのまま表現するのが、花道なのです。ちなみに、花器は、宇宙を現し、剣山は、地球を現しています。
剣道も、柔道も、相撲道も、陰陽のバランスを学ぶ道です。スポーツの場合の陰とは、「技と力」」のことです。陽とは「心」のことです。スポーツでは、「心技一体」が重視されますが、それは、技と力と心のバランスが取れて完成されるからです。地球のスポーツは、相対的な勝ち負けを競うゲームですから、相手に勝たなくては意味がないかも知れませんが、本当は、勝ち負けなど、どうでも良いのです。なぜなら、スポーツの本文は、スポーツを通して、神の心を学ぶことだからです。
今の社会には、人間道や社会道という言葉はなくなりましたが、私たちは、人を通して、社会を通して、陰(物質)にも、陽(精神)にも、偏らない調和の取れた生き方を学ぶべきなのです。神は、人類に、「陰陽」のバランスの取れた生き方を望んでいるのです。
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本源におられる大神様には、姿形がありませんので、幸せを味わっていても、その喜びが表現できません。自己満足の喜びでは、神は満足できないのです。そこで、神は、自分の喜びを表現してくれる代役として、人類を創ったのです。人類は、神の分身ですから、人類の喜びの表現は、神の喜びの表現になるわけです。でも、今、人類は、喜びより、苦しみを、多く表現しています。これでは、当て外れです。しかし、神は、人類が幸せの表現ができるまで、じっと我慢して待っています。
あなたは、今、幸せを表現していますか? それとも、苦しみを表現していますか? どちらでしょうか?・・・「神は、人類の喜んでいる姿を見たいのです。」どうか、幸せの表現をして、神を喜ばせてあげてください。神は、心待ちにしているのですから・・・
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名の無いままでは、私は、分かりません。でも、名前をつけた途端、私が、分かるのです。なぜなら、「付けた名前が、私になる」からです。例えば、私に、無限という名前を付けたとしましょう。付けた途端、私は、無限になってしまうのです。生命と言う名前をつけた途端、私は、生命になってしまうのです。「神という名前を付けた途端、神になってしまうのです。」 今、私が、人間だと思っているのは、人間という名前が付けられていたからです。もし、虫と言う名が付けられていたなら、私は、虫だと思っていたでしょう。ただし、虫は、神の分身に、そぐわない形ですから、多分、虫という名前は付けられていなかったでしょう。人間と言う名前が付けられたのは、神の分身にふさわしい形だからです。
神が創られたすべてのモノは、神、自らが、そのモノになったのですから、神の分身です。ですから、本当は、すべてのモノに、神の名を付けるべきなのです。でも、それでは、区別できないので、神は、人間に個別の名前を付けさせたのです。名前には、区別する役割の他に、もう一つの役割があります。それは、そのモノの「目的や、働きや、使命」を表わす役割です。「鉄」の名だけでは、どんな目的を持ち、どんな働きをするのか分かりません。鉄を加工したモノに、スプーンとか、鍋とか、バケツとか、名前をつけたら、目的や働きが、ハッキリします。細かく名前を付ければ付けるほど、目的や働きの具体性が増すのです。ですから、人間にも、山田太郎とか、鈴木花子とか、細かく名前を付け、目的や役割などの具体性を持たせているのです。
では、神は、単に具体性を持たせるために、人間に名前を付けさせたのでしょうか? いいえ、神を知らしめるために、名前をつけさせたのです。例えば、スプーンは、鉄から生まれました。鉄は、原子から生まれました。原子は、クオークから生まれました。クオークは、意識から生まれました。意識は、神から生まれました。このように名前を遡ってゆけば、大元の神に辿り着けるのです。これは、人間にも当てはまることです。なぜなら、すべてのモノは、神の名を付けた、神そのものだからです。このように、名前を遡ってゆくと、神に辿り着けるのです。
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名前は、言葉なのです。「言葉が生まれ、名前が生まれた、名前が生まれ、言葉が生まれた」どちらでも、同じなのです。言葉そのものが、名前だからです。神の名前も、言葉です。「あ」も、「い」も、「う」も、言葉であり、名前です。人類は、名前を色々と組み合わせて具体性を高め、意思の疎通を図っているのです。
地球人類は、たくさんの言葉を持っていますが、それは、具体性を高めなくては、意思の疎通が図れないからです。具体性とは、言葉(名前)や、文字や、絵のことです。進化した星の人たちは、テレパシーで意思の疎通を図っていますが、テレパシーには、「想い・言葉(名前)」のすべてが入っていますので、言葉や文字が、不要なのです。でも、地球人類は、テレパシーが使えないので、どうしても、言葉や文字などに頼らざるを得ないのです。
今、人類は、「言葉や文字を使って、相手を知り、自分を知り、神を知ろうとしているのです。」 私たちは、間違いなく、神ですが、自分が神であると、心の底で知るためには、まずは、言葉(名前)や文字にして具体性を持たせ、言葉や文字から遡って、神を知るしかないのです。具体性が、増せば、増すほど、モノの正体が解り、神が解るのです。
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どんな名前も、神の別名です。
「キリスト」も、神の別名です。
「仏陀」も、神の別名です。
「太郎」も、神の別名です。
「花子」も、神の別名です。
日本人の男性の名に「郎」と言う字が多く使われていますが、「郎」とは、男性を意味し、その男性は、「陽」を意味し、その陽は、更に、「神」を意味するのです。ですから、「太郎」とは、大きな神と言う意味になります。
日本人の女性の名に、「子」という字が多く使われていますが、「子」とは、高貴な人と言う意味です。なぜなら、「子」とは、神のことだからです。だから、昔は、男女を問わず、高貴な人の名に、「子」が使われていたのです。また、「子」は、「個」でもあるのです。それは、すべてのモノが、神の一個の核から生まれたからです。
どんな人も、どんなモノも、「神の一個の核」から生まれた「神の子」です。さあ、すべての人を、すべてのモノを、愛しましょう! みな、同じ神を親に持つ、兄弟姉妹なのですから・・・。
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