この宇宙には、不可思議な謎が数多く存在しています。中でも最も不可思議な謎が、意識の謎なのです。意識の謎は、どんなに探っても探っても解明できないのです。私たちは、その解明できない意識を持っているのです。と言うことは、永遠に自分が解らないと言うことです。この節では、その不思議な意識の謎に迫ってみることにしましょう。
「私の意識」、「私の意識」、「私の意識」・・・この「私の意識」って、一体、何なの? 誰なの? 何者なの? 何処から生まれたの? 何処から来たの? 何処に帰るの? ・・・・。この疑問は、尽きることがありません。疑問を、膨らませれば、膨らませるほど、私を悩ませます。どんなに知りたいと思っても、知ることができないのです。でも、知らなくて良いのです。知った途端、「私の意識」が消えてしまうからです。なぜ消えるのか? それは、・・知った途端、私の意識は有限の存在になってしまうからです。有限とは、限りがあると言う意味です。終りがあると言う意味です。つまり、死があると言う意味です。「私」は、死にたくありません。だから、「私の意識」は、不明のままで良いのです。
ちなみに、神の別名は「不明」です。それは、永遠に神を知ることができないからです。不明なモノは、すべて、神の名で表示されるのです。
だから、意識も、命も、光も、力(エネルギー)も、宇宙も、私も、神と呼ぶのです。そうです。私は、「不明な神」なのです。
知れるモノは、有限なのです。知れないモノは、無限なのです。有限になりたくなかったら、死にたくなかったら、永久に「私の意識」を知らなくて良いのです。
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「意識」とは何でしょうか? それは、私と思える「力」です。何かを認識できる「力」です。「意識の力」があるから、私と思え、「意識の力」があるから、何かが認められるのです。では、その「意識の力」は、何処から来たのでしょうか? 何処から生まれたのでしょうか? 「意識の力」の源は何でしょうか? これは、宇宙の永遠の謎なのです。ただ、こうは言えます。
「意識の力」は、すべての産みの親なのです。では、その「意識の力」に、名前を付けましょう。「X」でも構いません。「?」でも構いません。「不可思議な存在」でも構いません。「意識主でも」、「創造主でも」、「宇宙の主でも」構いません。「それでも!、あれでも!、これでも!」構いません。どうにでも呼び名が付けられるのが、「意識の力」なのです。なぜなら、「意識の力」は、宇宙の至るところに遍満しているからです。
このように「意識の力」は、摩訶不思議な存在なのです。その摩訶不可思議な「意識の力」を、神と呼んでいるのです。摩訶不可思議な存在ですから、これ以上「意識の力」の詮索は止めましょう。
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今の人類は、全員が全員、肉体を自分だと思って生きています。でも、私たちは、肉体ではありません。意識です。人間が、モノを考え、言葉を話し、文字を書き、物作りができるのは、意識を持っているからです。では、その意識は、科学者が言っているように、脳から生まれたのでしょうか? 科学者は、脳が意識を生み出していると言っています。だから、彼らは、肉体が無くなれば、意識が無くなると思い、人は死んだらお終いだと結論づけてしまうのです。
意識は、永遠に無くならないのです。永遠に無くならない理由は、意識は、肉体に属するものではなく、「宇宙に属する」ものだからです。「意識は宇宙そのものであり、宇宙は意識そのものなのです。」肉体は、単なる意識の乗り物(表現媒体)にしか過ぎないのです。どんな頑健な肉体も、意識がなくては動かないのです。
皆さんは、人の死を見ていると思いますが、意識が抜けた肉体は、単なる抜け殻なのです。抜け殻が、あなたですか? 腐って無くなる肉体が、あなたですか? よく、考えて欲しいものです。
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意識が二つ有るわけではありません。この宇宙には、たった一つの意識が有るだけです。そのたった一つの意識を別けて使っているのが、人間なのです。
このように考えてください。意識は、一本の糸のように境目が無いのです。意識を糸の上の方に持ってゆけば、「神意識」になり、糸の下の方に持ってゆけば、「人間意識」になるだけです。私たちは、糸の下の方に意識を持っていって「人間意識」にしているのです。
神と繋がりたかったら、糸の上の方に意識を持っていってください。「糸の上の方に意識を持ってゆく作業が瞑想」なのです。瞑想は、糸の境目を無くす、唯一の方法なのです。どうか、瞑想して、意識を上の方へ持っていってください。そうすれば、そく、神と繋がります。ゆっくり、繋がるのではありません。そく、繋がるのです。それは、一つの意識の糸しか無いからです。
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私たちは、体を持っていますが、その体は、勝手に動くのでしょうか? いいえ、動きません。あなたは、話そうと思って、口を動かします。どこかに行こうと思って、足を動かします。口や足が勝手に動くことはありません。言葉を話すのも、手を動かすのも、足を動かすのも、すべて意識がやっていることなのです。その証拠に、意識が無くなった途端、体は動かなくなります。動かないどころか、体は腐って消えてしまいます。では、意識は、どうなったのでしょうか? 体は死んでも、意識は絶対無くならないのです。「意識は永遠不滅」なのです。
私たちは、永遠不滅の意識なのです。しかし、今の地球人類は、肉体を自分だと思い、肉体のために四苦八苦して生きているのです。争い事が絶えないのも、肉体を自分だと思っているからです。
「肉体は、単なる意識の乗り物(表現媒体)にしか過ぎません。」生きているのは、肉体ではなく意識です。と言うことは、意識が、ご主人で、身体は、下僕だと言うことです。人類は、もう、そろそろ、そのことに気づいて良いころです。
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自我意識は、原子核(魂)が、ある一定量集まれば、自然と生まれるようにできています。それは、原子核一つひとつに「小さな認識力」が備わっているからです。でも、数が少なければ、認識力が小さいため自我意識が生まれないのです。
原子核が一定量集まると、認識力が強まるので、自分の存在や相手の存在が認識できるようになります。この状態を、「自我を持った、或いは、相対感覚を持った!」と言います。私たちは、五感を持っていますが、それは、相手と自分の区別をつけるためです。痛いから、肉体が自分だと思えるのです。もし、自分の手をつねっても痛くなかったら、肉体を自分だとは思えないでしょう。それでは、自我意識は、生まれないのです。感覚を通して自分を認識し、感覚を通して他人を認識するのです。
鉱物や植物に、自我意識が無いのは、原子核の量が少ないこと、と、五感を持っていないからです。感覚を持った動物になると、自己防衛する自我意識が生まれますが、でも、まだ、自分も認識できない未完成の自我意識です。しかし、人類のように原子核が膨大に集まると、はっきりとした自我意識が生まれるのです。
このように、自我意識は、「原子核の量と五感」が生み出す、特別な意識なのです。
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鉱物や、植物や、動物は、自我意識を持っていません。では、神は、どうして、彼らに自我意識を与えなかったのでしょうか? それには、二つの理由があります。
理由1、情の面から見た場合・・
鉱物や植物は、何十億年も、ジッと動かないで、魂の基礎作りをしてきました。また、動物も、厳しい自然環境の中で、魂の基礎作りをしてきました。彼らには、人類のような物作りできる器用な手や足が与えられていません。そんな、彼らに、自我意識を与えたら、長期間、苦しまねばならなかったでしょう。それでは、可愛そうなので、神は、彼らに、自我意識を与えなかったのです。でも、彼らの背後には、神がおられ、生きるに困らないようコントロールしているのですから、自我など、いらないのです。
理由2、役割の面から見た場合・・
地球には、キッチリとした役割があります。それは、地球圏に存在する、すべての魂を、地球の寿命が尽きるまでの間に、自覚の境界線を超えさせることです。そのためには、地球環境を維持してゆく必要があるのです。もし、未成熟な、鉱物や、植物や、動物に、自我意識を与えたら、恐らく、地球環境を破壊してしまうでしょう。それでは、地球の役割は果たせないのです。では、鉱物や、植物や、動物は、何のために存在させられているのでしょうか?。それは、人類を助けるためです。地球に役割があるように、人類にも使命があるのです。一つは、地球に理想の世を建設する使命です。もう一つは、自覚の境界線を超える使命です。この二つの使命を果たすためには、彼らの助けがなければできないのです。
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生まれたばかりの赤ちゃんは、自分を認識することができません。それは、まだ、自我が生まれていないからです。長ずると自我が生まれ、自分を認識できるようになります。そうなると、他人の存在も、地球の存在も、宇宙の存在も、認識できるようになり、神っているのかな? と言う思いも持てるようになります。
「この自我は、今生の肉体から生まれた自我ですから、来生まで、持ち越すことはできません。と言うことは、肉体を持つ度に、新しい自我が生まれると言うことです。」
では、死んだ肉体の自我は、どうなってしまうのでしょうか? 心配いりません。肉体を脱いだ後も、自我は失いません。失わないのは、肉体の下に別な体を持っているからです。体を持っているうちは、自我は失わないのです。しかし、新しく生まれる時には、別な肉体を持つわけですから、前生の記憶は消され、前の肉体の自我は、消えて無くなってしまうのです。ですから、新しく肉体を持つと、新しい自我で人生を歩まねばならないわけです。
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生まれたばかりの赤ちゃんに、自我が無いのは、肉体を使った体験が、まだ無いからです。肉体を使って体験すると、意識と肉体の乖離が埋まるため、肉体が、自分だと思えるようになるのです。思えるようになった時が、自我を持った時なのです。
さて、自我を持った人間は、肉体を自分と思いながら、人生を歩みます。そして、色々な人生体験を通して、魂を大きくし、一生を終えます。その肉体の自我は、その肉体限りの自我で、来生に持ち越されることはありません。来生は、来生で、新しい自我を持ち、新しい人生を歩むのです。でも、自我は、新しくなっても、自分は変わらないのです。前の肉体で自分と思っていた自分と、今生の肉体で自分と思っている自分は、変わらないと言うことです。
それは・・
「自分」は、永遠に引き継がれてゆく、命生(魂)の自分だからです。どんなに肉体が変わろうが、命生の自分は、変わらないのです。ですから、自分が無くなると思わないでください。自分は、命生(魂)であると思ってください。
よく、「前に、こんな事をした覚えがある」と言う「デジャブ」の体験をする人がおりますが、これは、命生に刻まれた、過去生の記憶が薄っすらと蘇ってきたためです。このデジャブの現象は、命生(魂)が、永遠に引き継がれていると言う証拠であり、自分(命生・魂)は、永遠に変わらないと言う証拠でもあるのです。
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この宇宙には、たった一つの神意識しかありません。その神意識を、あなたは持っています。私も持っています。すべての人類が持っています。 いいえ、人類だけではありません。石も、菌も、虫も、空気も、水も、土も、すべてのモノに神意識があるのです。と言うことは、すべてのモノは、神であると言うことです。
意識のないモノは、一つもないのです。なぜなら、この宇宙は、意識によって出来ているからです。意識から産まれたモノは、みな、同じ意識の子供たちです。形は違っても同じ意識で創られたのですから、みな、兄弟姉妹同士なのです。だから、兄弟姉妹同士、喧嘩してはならないのです。
こう、心に刻みましょう!。
「私は、一つしかない神意識によって創られたがゆえに、私は、神である!」と・・・。
「すべてのモノは、一つしかない神意識で創られたがゆえに、すべてのモノは、神である!」と・・・。
「神であるがゆえに、私は、すべてのモノであり、すべてのモノは、私である!」と・・・。
このように、私も、あなたも、すべてのモノも、一つの神意識で括れるのです。
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意識を一本の糸で示せるのは、人間意識と神意識は同じ意識だからです。同じ意識なら、神の自覚を持つのは、そう難しいことはないと思います。なぜなら、意識を入れ替える必要がないからです。ただ、人間と誤解している想いを、神の想いに変えれば良いだけです。
私たちは、気の遠くなる年月、人間と誤解して生きてきたために、人間の自覚を持つようになっただけなのです。私たちは、もともと、金なのです。ただ、金に泥が付いているだけです。泥を取れば、そく、金になるのです。私たちは、もともと、神なのです。神が人間と言う泥を付けているだけです。人間の泥を取れば、そく、神に返り咲けるのです。
人間の誤解を解くためには、「自我と真我を遮っている意識の壁を」破ることです。それは、瞑想でできるのです。雨滴を見てください。硬い石に穴を開けているではありませんか? 私たちも、何度も、何度も、神を想い続ければ、意識の壁を破ぶることができるのです。どうか、「根気よく神を想い続けてください!」必ず、意識の壁は破られます。
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「意識」の謎を知ることは、永遠にできません。知った途端、意識が消えてしまうからです。意識が消えると言うことは、私が消えると言う意味です。それでは、宇宙に物語が生まれません。物語が生まれなくては、幸せも生まれないのです。だから、意識の謎を知らなくて良いのです。
意識は、永遠に無くなることはありません。意識は、永遠の昔から有ったし、今も有るし、未来永劫有るのです。意識は、「アルファー(α)にしてオメガ(ω)」なのです。「アルファーにしてオメガ」だから、無くなりようがないのです。意識は、永遠不滅なのです。その意識を、私たちは、持っているのです。ゆえに、私たちも、永遠不滅なのです。私たちは、意識そのものなのです。意識そのものだから、私たちの意識が無くなったら、宇宙が無くなり、宇宙が無くなったら、私たちの意識が無くなるのです。これは、宇宙 = 人類 = 神 である証拠なのです。
神が存在していた時には、人類は存在していたのです。宇宙が存在していた時には、神人は存在していたのです。人類は、いずれ、誰でもが、神人になるのです。それは、意識を持っているからです。「意識」あればこその「宇宙」です。「意識」あればこその「神」です。「意識」あればこその「私」です。「意識」ほど不思議なものはありません。
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「意識」は、私から一度も離れたことはありません。「私」も、意識から一度も離れたこともありません。
「私から離れた意識もなければ、意識から離れた私もないのです。」
「私は意識そのものであり、意識は私そのものなのです。」
と言うことは、
「神は意識ですから、私から離れた神もいなければ、神から離れた私もいないことになります。」
その意識は、一つしかありませんので、私を創造する場合、意識、自らが、私になるしかありません。つまり、神、自らが、私になるしかないのです。もし、二つも三つも意識があるなら、他の意識に、私になってもらえるかも知れませんが、一つの意識しかないわけですから、一つの意識が、私になるしかないのです。だから、意識は、常に、私と共にあったわけです。その意識と対面したければ、ただ、意識すれば良いだけです。意識が意識を意識すると言う意味です。一つの意識しか無いわけですから、そうするしかないのです。
私と意識は、いつも一緒です。一時も離れたことがないのです。私と意識は、夫婦よりも、親子よりも、固い絆で結ばれているのです。それは、手よりも、足よりも、近い、心の中に存在しているからです。
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私たちには、感謝しなければならないモノが一つあります。それは、意識です。意識がなくては、何も始まらないのです。「意識があるから、何かが有るのです。」意識がなかったら、何も有りようが無いのです。意識有っての物種なのです。私たちは、その意識を持っているのです。と言うことは、私たちが、すべてのモノを創っていると言うことです。世の人々は、外側に何かが有ると思っていますが、外側に何かが有るのではなく、あなたの意識が、外側のモノを創っているのです。つまり、あなたの意識が、家族を存在させ、友人を存在させ、地球を存在させ、宇宙を存在させているのです。あなたの意識が無くなったら、何もかもが消えてしまうのです。
あなたの意識を存在させているのも、あなたの意識です。あなたの意識あってのあなたの意識であり、あなたの意識あってのあなたの意識なのです。あなたの意識とあなたの意識は、切っても切れない関係にあるのです。どちらの意識が無くても、どちらの意識も存在できないのです。それは、「あなたの意識があなたの意識を創り、あなたの意識があなたの意識を創っている」からです。あなたの意識とあなたの意識は、何と不思議な関係にあるのでしょうか?
嬉しいことも、楽しいことも、苦しいことも、悲しいことも、みな、あなたの意識が創っているのです。幸せも、不幸も、みな、あなたの意識が創っているのです。だから、あなたは、意識に感謝しなければならないのです。
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宇宙には、たった一つの意識しかありません。そのたった一つの意識のことを、「宇宙」と言ったり、「神」と言ったり、「魂」と言ったり、「心」と言ったり、「想念」と言ったりしているのです。でも、名を分けてしまうと、ややっこしくなるので、ここでは、「意識」という一つ名で説明することにします。
「意識は、すべての大元」です。どんな「モノ」も意識の創作物です。と言うことは、人類も、意識の創作物と言うことになるでしょう。同じ意識から生まれた創作物ですから、どんな人類も同じ仲間です。意識が二つも三つもあるなら、別な人類もいるかも知れませんが、一つの意識しか無いのですから、一種類の人類しかいないのです。だから、地球上に存在する色違いの人類は、みな、兄弟姉妹です。人類だけではありません。鉱物・植物・動物も、一つの意識によって創られた兄弟姉妹です。兄弟姉妹ですから、仲良くしなければならないのです。
足蹴りしている石も、踏み潰している草花も、嫌っている菌も、嫌な虫も、みな、兄弟姉妹です。どうぞ、兄弟姉妹、仲良くしてください。
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神には、姿形がありません。表現されないのが、神なのです。それでは、自分の存在が無いので、自分の意識を分けて、分身を創り、分身を通して自分を認めてもらおうとしているのです。神は、創造力を持った本質(素材)ですから、何でも創造することができるのです。人類は、その神によって創られた、とびっきりの傑作品です。とびっきりの傑作品なのは、神と同じ意識を持っているからです。しかも、その意識は、自分を認められ、神を認められる、自我意識です。この自我意識は、鉱物や、植物や、動物には無い、特別な意識です。神は、人類に、その自我意識を使って、自分を認めて欲しいのです。
人類は、今、自分を認め、家族を認め、地球を認め、宇宙を認めておりますが、まだ、神を認めてないのです。「神っているのかな?」と疑心暗鬼な状態なのです。神にとって、そんな人類が、何とも歯がゆいのです。
一般人は、仕方がないとしても、この本を読んでいる皆さんは、神を認めてやれるまでに成熟した魂ですから、どうぞ、神を認めてやってください。神は、喜んでくれるでしょう。私には、その「喜びの表情」が何となく解るのです。
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神意識は、真であり、善であり、美です。神意識の中には、一点の偽りも、一点の悪も、一点の醜いモノも無いのです。なぜなら、神意識そのものが「真・善・美の塊」だからです。私たちは、その神意識を持っています。だから、私たちは、偽りを嫌い、悪を嫌い、醜いものを嫌うのです。
私たちは、自我意識と神意識を持っていますが、自我意識は、肉体を保持したい思いが強いため、どうしても、欲望や感情を膨らませ、「真・善・美」を汚してしまうのです。でも、自我意識の中には、「真・善・美のひな形」が備えられているのです。だから、「真・善・美」を汚すと心が痛むのです。私たちの心は、神意識から生まれた心ですから、トコトン真善美を汚すことはできないのです。
この宇宙には、「真」だけがあるのです。「善」だけがあるのです。「美」だけがあるのです。どうか、あなたの心の中にある「真・善・美のひな形」を、自我意識で汚さないでください。
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どうして、「自分」と思えるのでしょうか? それは、「自我の自分」があるからではありませんか? 「自我の自分」がなかったら、「自分」と思えないはずです。では、その「自我の自分」は、どうして生まれたのでしょうか? どこから生まれたのでしょうか?
本来、この宇宙には、たった一つの「神我の自分」しか存在しません。でも、たった一つの「神我の自分」では、客観的に認められないので「神我の自分」の存在はないのです。それでは、「神我の自分」は困るので、「神我の自分」を株分けし「自我の自分」を創ったのです。ですから、株分けした時点で、「神我の自分」と「自我の自分」の二つの「自分」ができたのです。
「自我の自分」は、肉体の自分が認識できます。妻や子や友達も認識できます。地球や宇宙も認識できます。でも、まだ、「神我の自分」が認識できていません。それは、「自我の自分」が、「自分」のことを肉体人間だと思い込んでいるからです。この段階は、「自我の自分」が表面に出すぎて、「神我の自分」が潜在している状態なのです。つまり、「自我の自分」と「神我の自分」が分かれていない状態なのです。それでは、「神我の自分」を認めてやることはできないのです。
あなたは、今、「自分」のことを「人間」だと思っていますか? 「神」だと思っていますか? 「人間」だと思っているなら、「自我人間」です。神だと思っているなら、「神我人間」です。でも、落胆しないでください。原子核が大きくなれば、「神我の自分」を「自分」だと思えるようになるのですから・・・。
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本来、この宇宙には、たった一つの「真我の私」しか存在しません。でも、一つの「真我の私」だけでは、「真我の私」は、存在できないのです。もう一つの「自我の私」が、「真我の私」を認めることによって、はじめて、「真我の私」が存在できるのです。「自我の私」の意識と「真我の私」の意識は、同じ意識ですが、「真我の意識」だけでは、客観視できないため、止むを得ず意識を二つに分けたのです。「真我意識」が「自」らを「分」けたので、「自分」と言う言葉ができたのです。
表だけでは、表の存在はありません。表が存在するためには、必ず、裏がなければならないのです。雑巾にも、手にも、必ず、裏と表があるように、表だけの雑巾もなければ、表だけの手もないのです。また、裏だけの雑巾もなければ、裏だけの手もないのです。一つが二つに分かれて、雑巾も、手も、存在できるのです。「真我の私」だけでは、「真我の私」は、存在できないのです。「自我の私」が「真我の私」を認めて、はじめて、「真我の私」が存在できるのです。この神の苦衷を察してやってください。
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あなたは、永遠に自分を知ることはできません。「私は自分のことを良く知っていますよ!」と、言う人がおりますが、それは、肉体の自分を知っているのであって、本当の自分を知っているわけではないのです。でも、知らないのは、あなただけではありません。宇宙人も、覚者も、天使も、この宇宙に存在する誰もが、自分を知らないのです。しかし、知らなくて良いのです。知った途端、自分が消えてしまうからです。自分を知ったと言うことは、自分が有限であることを知ったわけですから、自分を殺したことになるのです。それは、自分の意識の幕引きですから死です。意識のある間は生きているのです。意識が無くなったら死なのです。「私たちが、未だかって、死んだことが無いのは、意識が途絶えたことが無いからです。」
自分を知ってはなりません。いや、知ろうとしても、知れないのです。だから、私たちは、安心して、希望を持って、真理の旅を続けることができるのです。今まで、意識の途絶えたことがないように、これからも、意識の途絶えることはありません。私たちの意識は、永遠に生き通すのです。
それが、私たちなのです。
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意識には、誕生も死もありません。永遠の昔より存在していたし、今も存在しているし、未来永劫 存在し続けているのが意識なのです。初めなき始めより存在し、終わりなき終わりまで存在し続ける、不可思議な存在が意識なのです。探っても、探っても、探りようのない存在が、意識なのです。探りようがないのは、意識に生死がないからです。生死がなければ、生歴が無いので、素性が分からないのです。素性が分からなければ、知る手がかりが無いので、何も分からないのです。
私たちは、その解らない意識を持っているのです。と言うことは、私たちも、解らないと言うことです。
そうです。私たちは、永遠に自分を知ることができないのです。分かっている事と言えば、意識を持っている事と、意識が無くならない事だけです。何と、心もとないことでしょう。でも、それで良いのです。もし、分かったら、自分が消えてしまうからです。
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私の意識が、どこから来たのか? どこから生まれたのか? どんな存在かは、永遠に解りません。と言うことは、「私の意識」は、永遠に解らないと言うことです。でも、解らなくて良いのです。もし、解ったら、私も、宇宙も、一瞬にして消えてしまうからです。なぜ、消えるのでしょうか?
意識を知った状態は、
最後を知った状態です。
終わりを知った状態です。
無限を知った状態です。
永遠を知った状態です。
しかし、無限を知り得るでしょうか? 永遠を知り得るでしょうか? 知り得るなら、無限でも、永遠でも、無くなってしまいます。有限は、「終りがあり、死がある」と言う意味ですから、意識を知った途端に、自分が死んでしまうのです。つまり、消えて無くなってしまうのです。
無限も、永遠も、知りようがないのですから、自分の意識も、知りようがないのです。あなたは、無限の自分を、有限の自分に、引きずり下ろしたいのですか? 引きずり下ろしたくないですね。だから、自分の意識を知らなくて良いのです。
神を永遠に知ることができないように、自分の意識も永遠に知ることができないのです。
「解けない謎は、解けないままにしておきましょう!」
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私たちが、日々、見て感じている世界は、原子核(魂)の量によって、違ってくる世界ですから、同じ世界を見ているようで、人、それぞれ、違う世界を見ているのです。でも、自我人間には、その違いが解りません。それは、同じ土俵の中で相撲を取っているからです。しかし、原子核(魂)が増え、理解力が高まれば、違いが解ってくるのです。それは、土俵の外から見るようになるからです。
原子核の量が増えれば、見方が変わるのは、「現実感が薄れてくるからです。」現実感が薄れれば、自分の意識に変化が起きるのです。例えば、「見方や感じ方」、或いは、「受け取り方や納得の仕方」が変わってくるのです。そうなると、今まで、憎んでいた人が、なぜか、憎めなくなります。今まで、厳しいと思っていた環境が、なぜか、厳しく思えなくなります。それどころか反対に、愛おしい人にさえ思え、穏やかな環境にさえ思えるようになるのです。この意識の変化は、原子核が増えれば、誰にでも起こる不思議な現象です。学びの友の中に、自分を変えたいと焦っている人がおりますが、焦らないでください。地道に原子核を増やせば、自然と自分の意識状態が変わり、環境も変わってくるのですから・・・。今、あなたが、やるべきことは、ただ、自分の原子核を増やすことです。
-23-
宇宙は、永遠に知ることができません。それは、宇宙が無限だからです。無限を知ろうなど、とんでもありません。では、諦めるしかないのでしょうか? いいえ、その子を通してなら知ることができます。その子とは、人類のことです。では、人類を知れば、なぜ、宇宙を知ることができるのでしょうか? それは、人類は、意識を持っているからです。
意識は、宇宙なのです。宇宙は、意識なのです。だから、意識を持っている人類を知れば、宇宙を知ることができるのです。では、自分の意識を知りましょう! しかし、自分の意識も知ることができないのです。なぜなら、自分の意識の源が分からないからです。源が分からなくては、知りようがないのです。でも、知れなくて良いのです。なぜなら、「自分の意識を知ることができないと解ったことが、宇宙を知ったことになるからです。」
自分の意識を知ることは、永遠にできません。と言うことは、宇宙も、永遠に知ることができないと言うことです。この宇宙は、解らない尽くめなのです。それは、自分の意識が永遠に解らないからです
-24-
「知る事」について考えてみましょう。
「知っていては、知る事ができません。知らないから、知る事ができるのです。知った事は、二度と知る事ができないのです。」
なぜなら、一秒前に知った事は、一秒後には陳腐化しているからです。それは、自分の意識が、時々刻々と進化しているからです。つまり、起点になる自分の意識が、時々刻々と進化しているからです。
あなたは、今、宇宙のどこにいるか知っていますか? 地球のどこにいるかは、知ることができるでしょうが、大宇宙のどこにいるかは、知ることができないのです。それは、無限大の宇宙の中に起点がないからです。無限大の宇宙の中で、何かを知るには、起点になる何かが必要なのです。その起点になる何かが、銀河系宇宙であり、太陽系宇宙であり、地球であり、鉱物であり、植物であり、動物であり、人類であり、「知った諸々の事」なのです。「知った諸々の事」と相対させる事により、何かを知る事ができるのです。だから、宇宙には、様々な起点となる知るべき物が置かれているのです。
-25-
何かが有るからには、何かを生み出す素材がなくてはなりません。素材無しに、何かが生まれることはないのです。では、その素材とは、何でしょうか? それは、神意識です。神意識は、素材なのです。しかも、素材でありながら、創造の意思を持ち、創造の力を持っているのです。ですから、何かを創ろうと思ったら、そく、そのモノになることができるのです。その神意識と同じ意識を、私たちは、持っているのです。だから、私たちは、何でも創ることができるのです。創り方は、神と同じです。つまり、そのモノを創ろうと言う想いを持てば良いだけです。想いが、モノ作りの原理です。私たちは、その想いを持っているのです。
このように、私たちは、偉大な想念を持っているわけですが、その想念の大元は、神意識なのです。つまり、神意識が、「魂を」生み、「心を」生み、「想念を」生み出しているのです。
神=意識です。意識=素材です。素材=神です。
意識=魂です。意識=心です。意識=想念です。
私たちの意識は、神であり、魂であり、心であり、想念であり、素材なのです。私たちが、神なのは、神と同じ意識を持っているからです。
-26-
真実とは、何でしょうか?
真実は、見ることも、聴くことも、肌で感じることもできません。でも、真実は、私たちの中に厳然として存在しています。「意識として」・・と言うことは、私たちは、真実そのものだと言うことです。ならば、私たちは、どのように、生きるべきでしょうか? 当然、真実に生きるべきです。
真実に生きるとは、肉体を自分として生きるのではなく、意識を自分として生きることです。
つまり、
「今、想っているのは、意識である!」
「今、言葉を話しているのは、意識である!」
「今、行動しているのは、意識である!」
と思いながら生きることです。
真実は、意思を持っています。計画性を持っています。創造の力を持っています。目には見えないけれど、現実を操っている能動的な存在が真実なのです。肉体は、真実から力を貰わなくては生きられませんが、真実(意識)は、自分の力で生きているのです。
それは、
「エネルギー」だからです。
「光」だからです。
「力」だからです。
その真実(意識)のことを、神と呼んだり、仏と呼んだり、生命と呼んだり、しているのです。
-27-
「時は、金なり!」と言われますが、「時は、人なり!」なのです。なぜなら、人の意識が、「時」を生み出しているからです。
こう言うことです。
意識は、絶対無くなることはありません。その絶対無くならない意識を持っている人だけが、「時」を感じることができるのです。「時」が存在しているのでは無く、「時」を感じる人の意識が存在するから、「時」が存在するのです。「時」が、永遠に続くのも、永遠に無くならない人の意識が存在するからです。と言うことは、「人の意識が時を創り」、「人の意識が表現宇宙を創っている」ことになるでしょう。「時と宇」と「間と宙」は、切り離せないのです。人の意識が「時」を創り、人の意識が「宇宙」までも創っているのです。
復習しましょう。
時間の「時」とは、意識のことです。時間の「間」とは、人のこと・・肉体のこと・・物質のこと・・表現宇宙のこと・・です。人は、時間であり、宇宙なのです。人の中には、常に「時間と宇宙」があるのです。だから、人は、小宇宙と呼ばれているのです。
「人は神なり!」、「人は宇宙なり!」と言えるのは、人は、「時間」そのものだからです。
-28-
私が、まだ、真理を知らなかった時代、「自分の意識があるから、悩んだり、苦しんだりするのだから、自分の意識が無くなれば、どれほど幸せか!」と思いました。でも、絶対無くならない、「自分の意識」を知ったのです。自分の意識は、「エネルギー」だったのです。エネルギーは、「エネルギー不滅の法則」によって、絶対無くなることはないのです。もし、エネルギーが無くなるなら、その時点で、宇宙は、消滅してしまうのです。宇宙は、絶対消滅することはないのですから、私たちの意識も、無くなることがないのです。
確かに、気絶という状態はあります。私の幼いころの体験ですが、野球のバットが私の顔に当たり、一瞬、意識を失ってしまったことがありました。でも、これは、一時、エネルギーが途絶えただけで、意識が失われたわけではないのです。では、意識(エネルギー)は、なぜ、無くならないのでしょうか? この謎は、永遠に解らないでしょう。宇宙には、解らないことが沢山ありますが、意識(エネルギー)が、無くならない謎も、その一つなのです。
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なぜ、意識は、飽きるようにできているのでしょうか? それは、意識が、永遠不滅だからです。永遠不滅なモノは、みな、飽きがくるのです。誤解されては困りますので言い添えますが、不完全な意識だから飽きるのではなく、完全な意識だから飽きるのです。もし、飽きなかったら、満足して、そこに留まってしまうでしょう。それでは、向上心が湧かないので、進化の道が閉ざされてしまうのです。神様が人類に飽きる意識を持たせたのは、進化成長の道を、どこまでも歩んでもらいたいからです。
地球に「努力」という文字や言葉があるのは、進化成長に必要な文字や言葉だからです。文字や言葉は、創造の力であり、源なのです。それは、意から生まれた力だからです。私たちは、意と言葉と体を使って進化してゆかねばならないのです。そのためには、努力は必要なのです。
現状に満足している人は、努力しません。それでは、その段階に留まってしまい成長できないのです。人間が進化成長できるのは、飽きる意識を持っているからです。どうか、人類に飽きる意識を持たせた、神の意図をご理解ください。
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人間は、自分のことを知っているつもりですが、本当の自分を知っている人は皆無です。「私は自分を知っていますよ!」と言う人は、肉体の自分を知っているのであって、本当の自分を知っているわけではないのです。
私たちは、肉体では無いのです。なぜなら、肉体は、必ず、消えて無くなるからです。消えて無くなる肉体が、自分であるはずがありません。本当の自分は、永遠不滅の意識なのです。生命なのです。魂なのです。これを知らず死んでは、死んでも死にきれないでしょう。
では、自分を知りましょう。
「なぜ、あなたは、人間なのですか?」と訊くと、「どうしてそんな質問するのですか?」、と多くの人が首を傾げます。人間であることが当たり前になっていて、そんな疑問さえ浮かばないのが、今の人間なのです。でも、よく考えてみてください。あなたは、いつから、人間になったのですか? 気が付いたら人間だったのではありませんか? あなたは、「人間になりたい!」と、誰かに頼んで人間になったのですか? 頼んでもいないのに、人間だったのではありませんか? こんな押し付けがましいことがありましょうか? では、誰が、あなたを人間にしたのでしょうか? また、どうして、人間になったのでしょうか? 何も人間でなくても、猫でも、犬でも、鳥でも、蝶でも、花でも、木でも、石でも、良かったはずです。なのに、なぜか、人間だった?・・・。
自分の意識を「私! 私! 私! 私!・・・・」と、追いかけてみてください。意識の源が掴めますか? いくら追いかけても、掴めないのではありませんか? では、その掴めない意識を持っている自分は、何なのでしょうか? 神ではないでしょうか? なぜなら、神しか意識を持っていないからです。
人間にならねばならなかった理由は、人間の意識は、「神の意識」だからです。人間がいなかったら、神もいないのです。神がいなかったら、人間もいないのです。「誰が人間にしてくれと頼んだのか?」と文句を言ったところで、「自分が人間にしたのですから、誰にも文句は言えないのです。」あなたがいなかったら、自分もいないけれども、宇宙も、神も、存在しないのです。
今、あなたは、人間になった覚えがないと文句を言っていますが、神の自分に目覚めたら、人間であったことに感謝できるでしょう。
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あなたは、自分を直に見たことがありますか? 見たことがないはずです。自分を直に見た人は、未だかって一人もいないのです。それは、太陽の中にいては、太陽が見られないように、自分の中にいては、自分が見られないからです。一つの中にいては、一つが解らないのです。自分の中にいては、自分が解らないのです。本当の自分を見るためには、自分を二つに分けて外から見るしかないのです。つまり、相対させ、はじめて、自分が見られるのです。だから、神は、私たちに、「自我意識」を持たせたのです。
「真我意識がなくては、自我意識がありません。また、自我意識がなくては、真我意識もありません。」真我意識と自我意識は、二つで一つなのです。二つの意識は、相身互いの関係にあるのです。でも、二つの意識が独立しているわけではありません。意識は、宇宙に一つしか無いのです。意識は、一本の糸なのです。ただ、糸の上に意識を持ってゆけば真我意識になり、糸の下に持ってゆけば自我意識になるだけです。
繰り返します。
自我意識の自分が真我意識の自分を認め、真我意識の自分を存在させているのです。また、真我意識の自分が自我意識の自分を創り、自我意識を存在させているのです。このように、自我意識と真我意識が互いに支え合って存在しているのです。私たちの中に、二人の自分がいることを忘れないでください。
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私たちの中には、自我意識の自分と真我意識の自分の二人の自分がいるわけですが、殆どの人は、自我意識の自分に主導権を握られています。ですから、今、地球では、事件、事故、災難が、後を絶たないわけです。では、どうすれば、真我意識の自分に主導権を握らすことができるでしょうか? それは、常に良い想いを持ち続けることです。
良い想いを持っている時は、自我の自分は奥に引っ込んでゆきますので、自我に主導権が握られることはありません。その状態を続けるためには、良い想いを持ち続けることですが、それは、神を思い続けたら良いのです。
私たちは、常に、心の中で自我の自分と真我の自分が戦っているのです。悪いことをして良心が痛むようになった人は、自我の自分に勝った人です。悪いことをして平気な人は、自我の自分に負けている人です。学びの友の皆さんは、もう、自我の自分に負けないと思います。まだ、負けているなら、原子核を増やし、一日も早く、自我の自分に勝てるようになってください。
原子核が増えれば、自我意識の自分と真我意識の自分が融合します。その者は、もう、自我の自分に負けることはありません。その人は、神人と呼ばれるに相応しい人でしょう。
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意識の謎は、どんなに、探っても、探っても、探れ切れない奥深さがあります。ですから、少しずつ、解きほぐしてゆくしかないのです。解きほぐし方は、神を想い、原子核を増やすことです。原子核が増えれば、増えた分、意識の謎が解きほぐされてくるのです。
仏と言う言葉がありますが、この言葉には、2つの意味があります。
一つは、「仏は、人である」と言う意味です。その仏は、神のことですから、人は、神であると言う意味にもなるのです。
もう一つは、「仏とは、意識の謎が解けて(ほどけて) くる」と言う意味です。宇宙の謎が解ければ、意識の謎も解けて(ほどけて)くるのです。
この大宇宙には、意識の糸が縦横に絡み合って張り巡らされているのです。その糸を解きほぐすには、時間をかけ、少しずつ、少しずつ、解きほぐすしかないのです。求道の旅を永遠に続けなければならない理由は、意識の謎を解きほぐすには、永遠の時が必要だからです。でも、どんなに時をかけても、意識の謎を解きほぐすことは、永遠にできないのです。でも、それで良いのです。解きほぐせない意識の謎を探ってゆく旅が、楽しいのですから・・・。
(「仏」の左辺の「イ」は人と言う意味で、右辺の「ム」は宇宙を示している。仏と言う文字は、人は宇宙である事を示しているのである。宙は仏であるから、人は仏であると言うことです。)
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