皆さんは、今、大変な学びをしようとしているのです。なぜなら、永遠の生のことを学ぼうとしているからです。永遠の生のことを学ぶわけですから、一筋縄では行きません。忍耐がいります。努力がいります。強い意志がいります。でも、決して苦しい学びではありません。学びが進めば、進んだ分のご褒美が頂ける学びだからです。
どうか、心に希望の明かりを灯し学び続けてください。きっと、「続けて良かったなあ!」と喜べる日がやってくるでしょう。
人の世に沢山の苦しみがあるのは、人間として生きているからです。人間として生きれば、この世の苦悩が付き纏うのは止むを得ないのです。例えば、肉体維持のために、お金や物がいります。お金を稼ぐためには、良い学校に入り、良い会社に勤めなくてはなりません。そうなると、様々な苦しみが生まれるのです。これは、人間として生きるからです。でも、神の分身であることを心の底で知り、神の分身に生きるようになったら、もう、苦しみはありません。
学びの目的は、「神の自覚に近づくこと・・最終的には、神の自覚を得ること」です。神の自覚に近づけば、人間的 苦しみは薄れます。更に、神の自覚が得られれば、もう、人間的 苦しみはありません。学びに入る前に、まず、このことを伝えておきたいと思います。
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求道者の学びの手順は、次の通りです。
1、本当の自分を知ること!
自分とは、神が「自」らを「分」けたのです。神が「自」らを「分」けて創った分身ですから、「自分は神」なのです。まずは、このことを知ることです。
2、思想化すること!
知識は、単なる知識ではありません。何度も、何度も、繰り返せば、知識は、思想化され、心の底に落ちてゆきます。心の底に落ちた知識は、やがて、自覚に結びつくのです。
3、自覚すること!
求道者の最終目標は、神の自覚に入ることです。それは、マントラを想い続けることで成就できます。難しいことはありません。ただ、想い続けるだけです。
このように、学びの手順は、1から入り、2に移行し、3で終わるのです。
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真理は、底なし沼のように奥が深いのです。何万転生もかけなくては、心の底に落ちないのが真理なのです。求道の旅が厳しいと言われるのは、やることは単純でも、やり続ける根気と努力が半端ではないからです。
何の変化が起きなくても、やり続けてください。「やり続ければ、必ず、扉は開かれます。」それは、宇宙の法則(原因と結果の法則)が保障してくれるからです。法則は、絶対、嘘をつきません。良い原因を作れば、必ず、良い結果が生まれます。そのためには、やり続けることです。努力することです。
私が求道者に願うこと・・それは、「やり続けて欲しい! 努力して欲しい!」と言う願いです。もし、求める気持ちが萎えたら、石に穴をあける雨滴を見て心を奮い立たせてください。
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「求道者だから、この世の楽しみをすべて捨てる!」、と言った苦しい真理の求め方はしないでください。美味しいものを食べたかったら、食べたら良いのです。旅行に行きたかったら、行ったら良いのです。テレビを見たかったら、見たら良いのです。今の自分の思い通りに生きてください。
確かに、自分を律したくなる気持ちは良く分かります。でも、神は、苦しんで真理を求めなさいとは言っていないのです。むしろ、「楽しみながら真理を求めてください!」と言っているのです。ただ、途中で怠けて歩かないから、怠けた分、取り戻さなくてはならなくなり、苦労するだけです。亀のように着実に歩いていたら、苦労せずにゴールテープを切ることができるのです。
難しい理論や技術など、一切いりません。必要なのは、「続けること」だけです。このことは、これから、何度も言い続けます。どうか、焦らず、怠らず、真理を求め続けてください。
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この世が幻だと知った求道者には、一般人のような深刻な悩みはありません。でも、求道者には、別な悩みがあるのです。
一つは、求めても求めても手応えがない時に生まれる焦りです。
二つは、求める気持ちを萎えさせる自我(サタン)の抵抗です。
三つは、周囲の人たちの邪魔(環境)です。
でも、この悩みは、決して悪いことではありません。むしろ、喜ぶべき悩みです。なぜなら、悩めるまでに成長したからです。神は、小学生に大学生の問題は与えません。また、大学生に小学生の問題も与えません。神は・・越えられないハードルは与えないのです。
神を信じ、目の前にあるハードルを越えてください。必ず、越えられます。
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多くの宗教団体は、「ご本尊に手を合わせれば、健康になりますよ!」とか、「仏像を拝めば、幸せになれますよ!」、と言った、ご利益を餌にして信者を集めます。一般人が、ご利益宗教に走るのは、努力しなくて良いからです。しかし、どうでしょう? 努力せず、真理が得られるでしょうか? もし、努力せず、真理が得られるなら、この世は、怠け者で一杯になってしまいます。全能の神が、そんな怠け者に都合の良い仕組みを創るはずがありません。
自分で卵を抱き、卵をヒナに返すのです。自分でオールを漕ぎ、船を彼岸に到着させるのです。他力信仰を勧める指導者を信じてはなりません。真理を得るのは、あくまでも、「自力」です。
真の指導者は・・・
このように、真の指導者は、一から十まで、真理に徹しています。
あなたの周りには色々な指導者がいると思いますが、良く吟味して選んでください。
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他力信仰やご利益信仰がいけない理由は、自分の神性を傷付けてしまうからです。私たちは、鈍重で、汚く、無能な人間ではないのです。偉大な能力を秘めた神の分身です。その分身がチッポケなご利益を欲しがっては、偉大な神性を傷付けてしまうのです。
自分の中には、二人の自分がいるのです。一人は「真我の自分」です。もう一人は「自我の自分」です。自我の自分は、肉体を大切にしたがりますので、どうしても、この世のご利益を欲しがるのです。でも、私たちの本性は、神です。神が、この世のご利益を欲しがるなど大笑いです。真の求道者なら、「真理のご利益」を欲しがってください。
どうか、自分の本性を知ってください。自分の本性を心の底で知ったら、偉大な能力が蘇ってきます。その者は、もう、この世のご利益など欲しがらなくなります。
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真実は、外側の物質の世界にはありません。真実は、内側の意識の世界にあるのです。ですから、外側の人たちを、どうこうしようと考えないでください。内側の自分の意識を、どうこうしようとだけ考えてください。だからと言って、「物質の世界を軽んじて良い!」と言っているわけではありません。物質の世界も非常に大切です。なぜなら、物質の世界と意識の世界は、二つで一つだからです。どちらが無くても、どちらも存在できないのです。第一、肉体が無くても、この世の物が無くても、真理を学ぶことができません。ですから、肉体も物も大切です。でも、それは、必要最低限度で良いのです。
世の人々は、この世のことに四苦八苦して生きていますが、この世のことは、方便であって目的ではないのですから、この世のことは、五十歩百歩でやってください。
人生の目的は、あくまでも、「真理を学ぶ」ことです。どうか、この世のことは、二の次に、真理を学ぶことを最優先にしてください。
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この世には、様々な苦しみがありますが、これを単なる苦しみとして受け取るか、試練として受け取るかで、苦しみの辛さがまるで違ってくるのです。苦しみとして受け取れば、絶望です。試練として受け取れば、希望です。神は、私たちの親です。その親が、我が子に意味のない苦しみを与えるわけがないのです。どうか、「この苦しみは自分を大きくしてくれる!」と良く受け取ってください。良く受け取れば、どんな苦しみも乗り越えられます。
良く受け取れば、光が強くなるので苦しみが和らぐのです。悪く受け取れば、光が弱まるので苦しみが増すのです。光を強くするか、弱くするかは、あなたの受け取り方次第で変わってくるのです。
どうか、どんなことも良く受け取る癖をつけてください。この宇宙に見せかけの悪は有っても、本当の悪は無いのですから・・・。
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この社会には、人格者と言われる人たちが、大勢おりますが、本当に、その人たちは、人格者なのでしょうか? このように言うのは、真の人格者は、同時に、「命格者」でなくてはならないからです。
人格は、肉体の一生において培った点ですから、その 生 限りで無くなってしまいます。でも、命格(核)は、魂の歴史において培った線ですから、永久に引き継がれて行くのです。一生一生の点が、命格(魂)の線になっているのです。その意味では、一生一生の点である人格形成は、とても大切です。
では、今の社会で言われている人格者たちは、命核者に相応しい人たちなのでしょうか? その人たちの心の中はどうでしょうか? 純な動機で人の世話をしているのでしょうか? 悪想念を抱いていないでしょうか? 良心に忠実に生きているでしょうか?
真の人格者は、人前での人格者ではなく、良心の前での人格者でなくてはならないのです。良心の前で正直に生きている人こそが、真の人格者であり真の命格者なのです。どうか、点である人格を極めながら、同時に線である命格も極めてください。そのためには、やはり、真理を学ぶ必要があるのです。
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真の求道者と偽者の求道者の違いを教えましょう。
真の求道者は・・・
偽者の求道者は・・・
このように、真の求道者と偽者の求道者には、大きな違いがあるのです。
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真理は、一生や二生で得られるものではありません。永遠の生をかけて、求め続けねばならないのが、真理なのです。なぜなら、宇宙は、永遠であり、無限だからです。探しても、また、探しモノが出てくるのが、宇宙の深遠さなのです。ですから、簡単に手に入る真理と思ってはなりません。いや、永遠に手に入らないのが真理だと思ってください。だからと言って、大変な旅だとも思わないでください。楽しみながら、希望を持ちながら、続けられる旅です。それは、求道の旅すがら「幸せと言うご褒美」が頂けるからです。
私たちが欲しいのは、真理でも、なんでもないのです。「幸せだけが欲しいのです。」理論など、どうでも良いのです。この世のことなど、どうでも良いのです。宇宙のことなど、どうでも良いのです。神のことなど、どうでも良いのです。ただ、幸せだけがあれば良いのです。この書を読み深めるにつれ、今、述べたことの意味が解ってくると思います。
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地球人類は、何十億年もの時をかけ、鉱物・植物・動物・人間へと進化を遂げてきました。特に、学びの友の皆さんは、神を自覚する寸前まで進化した偉大な魂です。それだけに、宇宙に対して責任があるのです。その責任ある魂が、欲のために、感情のために、自尊心を守るために、役割を放棄して良いでしょうか? あなたには、地球人類を牽引する重要な役割があるのですよ!
今の地球人類は、完全に道を逸脱しています。その逸脱した道を修正できるのは、学びの友の皆さんたちだけです。難しいことをしなさいと言っているわけではありません。「簡単なことをやってください!」と言っているのです。
簡単なこととは・・
社会体験を、真心を込めてやることです。
瞑想を、真心を込めてやることです。
この二つのことを、今のあなたの環境の中で精一杯やれば良いのです。それが、地球のために、宇宙のためになるのです。
真理を求める気持ちが萎えたら、「縁生の友たちよ!」の曲を見てください。心が折れそうになったら、「私は負けない!」の曲を見てください。きっと、気持ちを奮い立たせることができるでしょう。
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宇宙は無限です。神は無限です。真理は無限です。宇宙には、知るべきことが無限にあるのです。無限にあるのですから、一生や二生で得られるものではないのです。いや、永遠の生をかけても得られないのが真理なのです。覚者は、そのことを知っていますので、気長に法を説き、気長に求道者の成長を待っているのです。
少々、真理をカジッたからと言って傲慢になる人がおりますが、それは、真理の奥深さを知らないからです。彼らが辿り着いた所は、真理の門前です。まだ・・屋敷の門も潜っていないのです。相当、学んだ皆さんでさえ、屋敷内に一歩踏み入っただけです。
どうでしょう? 屋敷の奥が見えますか? あまりにも、奥深くて、愕然としているのではありませんか? 諦めては困るので言い添えますが、「やった分のご褒美が頂けるのも、真理の素晴らしさです。」1やれば1のご褒美が、5やれば5のご褒美が、10やれば10のご褒美が頂けるのです。
どうか、焦らず、でも、怠らず、着実に歩んでください。真理の旅は、永遠に続くのですから・・・。
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この宇宙は、「原因と結果の法則」によって進化成長するようになっていますから、努力(原因を作る)しなければ、真理は、絶対得られません。私が他力を嫌うのは、原因を作らなければ、結果が得られないからです。
「原因と結果の法則」は、私たちの中に組み込まれているのです。他人が磨いた技で、自分が成長できないのは、他人の原因を自分の結果にできないからです。ですから、技が欲しかったら、自力で技を磨くしかないのです。努力なしに、何も得られないことを知ってください。これは、当たり前のことです。
もう一つ、待っていては、何も得られないことも知ってください。真理は、能動的なものです。こちらから働きかけねば、得られないのが真理なのです。ただ、口を開けていて、どうして、食べ物が口に入ってくるでしょうか?
「働かざる者、食うべからず!」です。「為せば成る、為さねば成らぬ何事も!」です。どうか、能動的に働きかけてください。働きかければ、必ず、得られます。
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真理は、自力で得るしかありません。それは、一人ひとりが、主観者であり、主体者だからです。
「Aさんの宇宙には、Aさんしか入れないのです。」
「Bさんの宇宙には、Bさんしか入れないのです。」
Aさんの体験は、Aさんだけの体験です。Bさんの体験は、Bさんだけの体験です。人の体験を自分の体験にできないのは、当人しかいないからです。だから、人を頼っていては駄目です。確かに、「崖の上に美味しい果物(真理)が実っていますよ!」と、人に教えることはできるでしょう。しかし、実際に崖によじ登り果物を取って食べるのは当人なのです。
どんな覚者の話を聞いても、どんな覚者の本を読んでも、覚者と同じ境地になることはできません。あくまでも、本人が体験して得る境地です。だから、「自力なのです。」 自力は、科学です。他力は、非科学です。
非科学とは、「幻の科学」、「消えてしまう科学」と言う意味です。
科学とは、「真実の科学」、「永遠に残る科学」と言う意味です。
私たちは、永遠の存在ですから、永遠の科学を学ばなくては意味がないのです。
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生半可な求め方をした人には、ニセモノの真理が与えられ、真剣な求め方をした人には、ホンモノの真理が与えられます。これは、「原因と結果の法則」からして当然のことです。神は、怠け者にホンモノの真理を与えるような温情は持っていないのです。なぜなら、怠け者にホンモノの真理を与えたら、宇宙を破壊してしまうからです。あくまでも、真剣に求める者に与えられる、ホンモノの真理です。それを支えているのが、「原因と結果の法則」なのです。
「神は、厳しい法則(原因と結果の法則)をもって、私たちを成長させようとしているのです。」
生半可で与えられるホンモノなど、この宇宙に、何一つないのです。もし、あるとしたら、それは、消えて無くなる幻だけでしょう。真理は、永遠に無くならないホンモノです。ホンモノは、真剣に求める者だけに与えられるのです。
どうか、真剣に真理を求めてください。
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もし、簡単に真理が得られると言う指導者がいるなら、疑ってかかってください。どこかに、必ず、落とし穴があるはずです。今の地球には、人を惑わす偽指導者が、ウヨウヨいるのです。そんな偽指導者に騙されないよう、再度、ホンモノの指導者とニセモノの指導者の見分け方を教えましょう。
自力を説く指導者は、ホンモノですが、他力を説く指導者は、ニセモノと思ってください。成果(結果)は、原因を作った者に与えられるのです。やりもしないで、結果が与えられることは、絶対ありません。これは、どんな星においても、どんな幽界においても、どんな高度な神界においても、変わらぬ常識です。
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「この真理は絶対間違いない!」と確信したら、テコでも動かない求め方をしてください。躊躇していてはダメです。扉が開くまでドンドン叩き続けてください。叩き続ければ、神(真我の自分)は、根負けして扉を開いてくれます。真理を得るために、難しいことをする必要はありません。必要なのは、根気だけです。
「根気」の「根」とは、根っ子のことです。「気」とは、エネルギーのことですから「根気」とは、根に張り付いたエネルギーと言う意味になります。このエネルギーは根に張り付いていますから、使っても、使っても、涸れることはないのです。そのエネルギーを使って、真理を求め続ければ、成さぬことはないのです。
「継続は力なり!」です。やり続ければ、必ず、成就します。これは、「原因と結果の法則」が保証してくれるので間違いありません。
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私は、よく言います。「私のところで学んでいる人たちは、みな、成長していますよ!」と・・・そうです。「良い樹には、良い実が実り、悪い樹には、悪い実が実るのです。」 その樹が、良い樹か、悪い樹か、判断するには、その樹で、学んでいる人たちの成長を見れば分かるのです。
「人類の夜明」の本は、理解力の無い者にとっては、ただのボタ山にすぎませんが、理解力の有る者にとっては、宝の山なのです。実際に、「人類の夜明」の本を読んだ者は、良い実を付けています。これは「人類の夜明」の本に書かれてあることが、間違いない真理である証なのです。ぜひ、「人類の夜明」の本を読んで良い実を付けてください。繰り返して、読めば、読むほど、良い実を付けることができるでしょう。
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「知識人は悟れない!」と言われるのは、知識に溺れると自由な発想ができなくなるからです。悟りは、知識では無いのです。真理は、言葉や文字を超越しているのです。ですから、覚者は、何かに例えて法を説くのです。
「真理は無限ですから、真理には無限の意味が込められているのです。」その無限の意味を受け取るのは、あくまでも、「本人の理解力」ですから、理解力のない者は、目の前に宝物があっても持ち帰れないのです。
ある求道者が、知花先生に、こんなことを言っていました。「そんなこと何度も言わなくても分かっていますよ!」と・・・。でも、本当にその人は、解っているのでしょうか? 解っていないから、先生は、何度も言うのではありませんか? 覚者が、何度も言うには、言うだけの理由があるのです。
言葉や文字は、伝達手段として作られた道具ですが、その道具の中に、思いは、いくらでも込められるのです。特に、覚者の言葉には、深い意味が込められているのです。どうか、覚者の言葉を、注意深く、何度も、何度も、探ってみてください。あなたの理解力が増した分の、真理の深みが発見できるはずです。
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「私の人生は失敗だった!」と、悔む人がおりますが、悔む根拠は、何でしょうか? 悔む根拠など、何も無いのです。それは、「同時に、二つの人生を歩むことができないからです。」
例えば、別な人生を歩めたとしても、果たして、今、以上の人生になっていたでしょうか? もしかしたら、今、以上に苦しい人生になっていたかも知れないのですよ? 同時に、二つの人生が歩めるなら、良い人生か、悪い人生か、比べられるかも知れませんが、二つの人生は歩めないのです。 と言うことは、「悔む根拠などない!」と言うことです。
失敗の人生だと思ってはなりません。いいえ、むしろ、成功の人生だと思ってください。なぜなら、「今、真理を学んでいること自体が成功の証だからです。」もし、失敗の人生だったら、今、あなたは、真理を学んでいなかったでしょう。
今日まで、あなたが歩んできた人生は、大成功だったのです。これからも、自分の選んだ人生の道を信じ、歩き続けてください。
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この表現世界には、「本当に良いことも」、「本当に悪いことも」ありません。なぜなら、良いことも、悪いことも、「残らない」からです。残るのは、体験によって大きくなった「原子核(魂)」だけです。
この表現世界に、本当に良いことも、本当に悪いことも、無いと言うのは、
「良いことも、悪いことも、条件次第で入れ替わるからです。」
このように、条件次第で変わるのが、良いことであり、悪いことなのです。条件によって変わるのは、良いことも、悪いことも、絶対的なものでは無いからです。しかし、「体験したことだけは、絶対的なものとして、魂に刻まれ残るのです。」
体験は、宝です。体験だけが、成長させてくれるのです。アリが忙しく動くのも、子供が忙しく動くのも、体験して原子核を大きくしたいからです。私たちは、今日まで、動いて、体験して、魂を大きくしてきたのです。これからも、動いて、体験して、魂を大きくしてください。
-23-
体験なしに偉大な事を成し得た人は、未だかって一人もおりません。偉大な事を成し得た人ほど、多くの体験をしているものです。私が「体験は宝!」と言うのは、「体験だけが魂を成長させてくれるからです。」
一番、手軽な体験の場は、家庭内における家族との触れ合いです。家族同士は、言いたいことを言い、やりたいことをやれる、関係にありますから、喧嘩もすれば、仲良くもできます。だから、互いに欠点を見せつけ合い学べるのです。家庭環境は、魂を成長させる手軽な体験道場なのです。
本格的な体験は、社会へ出て様々な人と触れ合うことです。「人」と言う字を見てください。左の「ノ」と右の「ヽ」が支え合っていますね。「人間」と言う字を見てください。「人」の「間」と書きますね。この字が示すように、私たちは、人と支え合い、触れ合いながら成長してゆくようできているのです。
自分一人で成長できないのは、相手がいなくては、体験できないからです。
相手あっての体験なのです。相手あっての成長なのです。私たちが相対世界に生まれてきたのは、相対的体験を通して成長するためなのです。家庭や社会は、その体験をさせてくれる有り難い体験道場なのです。
どうか、体験の大切さを知ってください。
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どんな宗教も、良いことを言います。
例えば、
人に優しくしなさいとか・・、
人の物を盗んではなりませんよとか・・、
人を、傷つけたり、殺したりしてはなりませんよとか・・、
でも、口で諭して良くなるものでしょうか? 良くなるなら、こんな殺伐とした地球になっていないはずです。あなたは、知識だけで泳げるようになりますか? 知識だけで自転車に乗れるようになりますか? 何事もそうですが、体験なしに身に付くことはないのです。
「人間は、身をもって体験しなければ、成長できないようにできているのです。」
だから、私たちは、肉体を持って生まれてきたのです。
肉体ほど有り難い環境はありません。「痒い! 痛い! 苦しい! 寒い! 熱い!」の感覚があるから、私たちは、真剣に生きようとするのです。もし、五感がなかったら、この世が幻だと思い、真剣に生きようとしないでしょう。真剣に生きなければ、真剣な体験ができません。それでは、魂は成長できないのです。魂の成長には、どうしても、厳しい体験が必要なのです。それも、厳しければ、厳しいほど、魂は、大きく成長するのです。どうか、体験を嫌わないでください。
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あなたは、何十億年もの時をかけて、真理の基礎を築き、真理の柱を立て、真理の壁を作り、真理の屋根を立ち上げ、やっと、真理の建物を完成させる寸前まできたのです。もし、この真理が間違いだったら、今まで苦労して築いてきた建物を、すべて壊さなければならないのです。
「あなたが選んだ真理の眼力は、未熟だったのでしょうか?」
「あなたの守護霊は、間違った指導をしていたのでしょうか?」
あなたは、自分の眼力を信じないのですか? 自分の守護霊を信じないのですか? 自分の眼力を信じないで、自分の守護霊を信じないで、一体、何を信じると言うのですか? 確かに、自分の中にも外にも、沢山のサタンがいますから、惑わされるのも、無理はないかも知れません。でも、思い出してください。この真理に出会い感動したあの時のことを・・・。
良いのです。苦しかったら出て行っても・・・。でも、帰ってきたくなったら、いつでも、帰ってきてください。門は、いつでも、開かれています。「過ちては改むるに憚ることなかれ!」です。恥じることなどありません。いや、かえって勇気ある魂だと、私は敬服します。
-26-
あなたは、私に感動の涙を流させてくれました。あなたも、一緒に涙を流してくれました。いいえ、私やあなた だけではありません。沢山の人たちが、今も涙を流しています。その感動の涙は、嘘の涙だったのでしょうか? 私たちが流した、あの感動の涙は、嘘の涙だったのでしょうか?
真理で流した感動の涙は、目を腫らしません。この世の情で流した涙は、目を腫らします。あの時に流した感動の涙は、あなたの目も私の目も腫らしませんでした。それは、間違いない真理だったからです。
何が大切なのでしょうか?
自尊心を守ることでしょうか?
真理を得ることでしょうか?
真理を得ることですね・・・。自尊心は、この世限りのモノですが、真理は、永遠のモノです。さあ!・・永遠の真理のために人生を使おうではありませんか?
-27-
迷いから目覚めるには、「バチが当たったと!」思える苦しい体験が必要なのです。悲しいことですが、人間は、痛みや、苦しみを、体験しなければ目覚めないのです。ですから、神は、目覚めに必要な刺激剤として「原因と結果の法則」を用意したのです。苦しければ、どんな人でも反省します。反省は、神の光を呼び込むので自分が変わるのです。それも、心に汚れを多くつけた人ほど変わります。反省は、心の汚れを取る洗浄剤のようなモノです。ぜひ、反省をお勧めします。「人類の夜明2」の中に詳しく反省の仕方が書いてありますので、ぜひ、読んでください。
「バチが当たったと思える人は、幸せな人です。」
それは、神の存在を認めるまでに成長した魂だからです。
「バチが当たったと思えない人は、不幸な人です。」
それは、まだ、神の存在を認めるまでに成長してない魂だからです。どうか、一日も早く、「バチが当たって良かった!」と、思える人になってください。
-28-
人間は、価値をお金で換算しようとしますが、真理の価値を、お金で換算できるでしょうか? できません! なぜなら、真理の価値は、無限だからです。この世のモノは、有限ですから、お金で換算できますが、真理は、無限ですから、お金で換算できないのです。私たちの意識が有限ならば、この世のモノの価値を認めましょう。でも、私たちの意識は、永遠に無くならないのです。永遠に無くならない意識は、無限の価値を持った真理を求めなくては意味がないのです。永遠の意識が、有限のモノを求めるのは、矛盾だからです。
繰り返します。
真理が無限の価値を持っているのは、私たちの意識が永遠に無くならないからです。永遠の意識は、永遠のモノに寄り添い、無限の価値を生み出してゆくのです。どうか、「意識の永遠性と価値の永遠性」について深く考えてみてください。きっと、私が言わんとすることが解ると思います。
とは言っても、どんなに有限なモノであっても、無価値ではないのです。なぜなら、魂は、有限なモノを通して成長するようにできているからです。だから、私は、この世の物も軽んじてはならないと言うのです。「神が創られた宇宙に、無駄なモノは、何一つ無いと!」言われるのは、「どんなモノも進化成長に寄与しているからです。」
-29-
どんなに、沢山の物やお金を集めても、どんなに、地位や名誉や権力を得ても、死ねば、みな、置いて行かねばなりません。その置いて行かねばならないモノを、奪い合っているのが人類なのです。それは、本当の自分を知らないからです。自分が肉体だと思っている人は、どうしても、この世のモノを欲するのです。これは、仕方がありません。カツオブシを前に食べない猫がいないように、この世の華やかなものを見せられ飛びつかない人はいないからです。猫を責められないように、私たちも人を責められないのです。でも、いつまでも、そうであってはなりません。私たちは、一日も早く、本当の自分を知り、カツオブシに惑わされない自分に成長しなければならないのです。
どうか、原子核を大きくしてください。魂を大きくしてください。大きくすれば、欲望と感情に振り回されない自分が築けます。当然、自分の使命もハッキリと見えてきます。特に、あなたのような熟した魂には、重要な使命があるのです。
一つは、「本当の自分を知る使命です。」
二つは、「地球に理想の世を建設する使命です。」
どうか、本当の自分を知ってください! そして、地球に理想の世を建設する先駆者としての使命を果たしてください!。
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私たちは、どのような姿勢で真理を求めるべきでしょうか? 考えてみましょう。
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私たちの意識の中には、万能のコンピューターが備わっていますから、「なぜ? なぜ?」と、自分の意識に問いかければ、必要な場合には、必ず、答えが返ってきます。知花俊彦師が、自問自答しなさいと言われたのは、自分の心の中に万能のコンピューターがあるからです。
この世のコンピューターを使うには、お金がかかりますが、自分の心の中のコンピューターを使うには、お金はかかりません。また、誰の許可もいらないし、何処へ行く必要もありません。いつでも、自由に使えます。ですから、大いに利用することです。
利用の仕方は簡単です。「ただ、自分の心に問いかければ良いだけです。」ただし、興味本位の質問や知識欲を満足させるような質問は避けてください。「今の自分に必要な質問だけしてください。」本当に必要なら、朝方の目覚めかけの時とか、お風呂でくつろいでいる時とか、散歩している時とかに、ヒラメキとして答えが返ってきます。やり初めの頃は、正しい答えか分からないかも知れませんが、やり続けていれば分かるようになります。ぜひ、挑戦してみてください。
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肉体を自分だと思っている限り、不自由な生き方しかできません。今、人類は、肉体を自分と限定し、不自由な生き方をしているのです。でも、本当の自分は、肉体ではありません! 人間ではありません! 個人ではありません! 宇宙を自在に闊歩できる、「意識です!」、「魂です!」、「生命です!」、「神です!」、肉体を自分だと思うから、地を這って生きなければならないし、「生・老・病・死」にも、苦しまねばならないのです。「自分は意識である!」と、思えたら、そく、自由が得られ、すべての苦しみから開放されるのです。
知花俊彦師は、こうおっしゃっておられました。
「肉に生きるは死である。肉に死んでこそ真に生きる者となる!」と・・・。肉に死ぬとは、肉体の執着を捨てると言う意味です。この世のモノの執着を捨てると言う意味です。そのためには、本当の自分を知らねばなりません。どうか、本当の自分を知ってください。それも頭で知るのではなく、心の底で知ってください。心の底で知ったら、自由な生き方ができるようになります。
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師と仰いでいた者が亡くなると、あたかも、求道の旅が終わったかのような振る舞いをする人がおりますが、求道の旅は、そんな軽薄なものではありません。求道の旅は、永遠に続けられるものです。それも、自分の心の中で永遠に・・・。
いつまでも、外側の師を頼っていてはなりません。自分の中には「内なる師(神・真我)」がおられるのですから、自分を頼ってください。でも、どうしても、外側の師に逢いたいなら、
「イエス様を呼んでください!」
「お釈迦様を呼んでください!」
「知花先生を呼んでください!」
「私を呼んでください!」
あなたの中には、これまで、自覚の境界線を超えた、すべての聖者がおられるのですから・・・。
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