皆さんは、何が欲しいのですか? 学者の皆さんも、政治家の皆さんも、教育者の皆さんも、一般人の皆さんも、何が欲しいのですか? お金ですか? 物ですか? 地位や名誉や権力ですか?
それは、幸せではありませんか?
お金や、地位や、名誉や、権力があれば、幸せが得られると思うから、そういうものを必死になって追い求めるのではありませんか。でも、よく考えてみてください。幸せは、お金や物で得られますか?・・・地位や名誉や権力で得られますか?・・・得られるなら、大王様は、みな、幸せになっているはずです。でも、いつの時代の大王も、「虚しい!、空しい!、むなしい!」といって、この世を去ります。これまで、幸せをあの世に持ち帰った、大金持ちも、権力者も、大王もいないのです。なぜなら、幸せは、お金や、物や、地位や、名誉や、権力で得られるものではないからです。幸せは、意識状態なのです。では、本当にそうなのか、実験してみましょう。
ここに、お金や、財や、地位や、名誉があれば、幸せが得られると主張する、若者(A)と、心が、得る手段であると主張する、若者(B)がおりました。二人は、幸せについて論争しましたが、いくら論争しても、結論が得られません。そこで、どちらの主張が正しいか試すために、Aには、使い切れないほどのお金と権力を与え、Bには、日々、生きられるだけのお金と、真理を与えました。二人は、それぞれ、自分の信条に基づいた人生を歩みはじめます。この二人が、五十年後、再会しました。その時の二人は、80才くらいになっているはずです。
さて、生き生きとした顔で現れたのは、Aでしょうか? Bでしょうか? そして、この二人の口から出てくる言葉は、どのような言葉でしょうか? 想像してみてください。
2016年1月1日更新
思いついた時が、最良の時です。
思いついた時に、やりましょう!
腰軽になりましょう!
明るく、明るく、朗らかに・・
何ごとも良く受け取り・・
神を想い・・光を想い・・
日々、生活しましょう!
悩むことなどありません。
どっちに転んだって、この世は、夢幻なのですから・・・。
私たちは、自分のことを肉体だと思っています。その肉体を自分だと思っている自分は、小さな肉体を自分の住処として生きているのです。その自分の意識が成長し、地球を体として持つようになったら、地球を自分だと思って生きるようになるのです。更に意識が成長し、太陽系を自分の身体として持つようになったら、太陽系を自分だと思って生きるようになるのです。更に意識が成長し、銀河系を自分の体として持つようになったら、銀河系を自分だと思って生きるようになるのです。しかし、どんなに体が大きくなっても、自分は、何も変わらないのです。
私たちは、神の意識核を集め、鉱物・植物・動物・人間へと成長してきましたが、自我を持つようになった人間以降の自分は、単に大きな体を纏うようになっただけで、自分は、何も変わっていないのです。違う点といえば、意識核が大きく成長した分、理解力が増し創造能力が大きくなった点です。だから、“自覚の境界線を超えたら自分が無くなるのではないか?” といった心配はしないでください。
今、人類は、肉体人間を自分として生きていますが、やがて、地球を体に持ち、太陽系を体に持ち、銀河系宇宙を体に持ち、大宇宙を体に持つところまで進化して行くことでしょう。しかし、どんなに大きな体を持つようになっても、自分は、何も変わらないのです。つまり、私たちは、今の意識状態を保ちながら自分を感じているのです。
2016年1月15日更新
今、痛み、苦しんでいる人たちに進言したいと思います。その痛みや苦しみは(事故・災難・病気など)、自分が過去に放った悪想念の結果であると・・・。でも、そう悲観することはありません。なぜなら、その痛みや苦しみは、業の消えている状態だからです。業は、放って置いたら消えてゆくのです。業が消えてゆくのは、業自体は生きてはいないからです。業を作り、業を生かしているのは、人の想念なのです。その想念を絶てば、業は力を失い、消えてゆくしかないのです。業の消滅を、次のように考えたら、そう悩むこともないでしょう。
たとえば、今、自分の倉庫(心)に、100個の在庫品(業)を抱えていたとしましょう。今日、10の痛み苦しみがやってきたら、10個の在庫品(業)が、はけたと思えばいいのです。たとえ、一度に、50個の痛み苦しみが、やってきたとしても、50個分の在庫品(業)が、はけたのですから、それは、良いことなのです。注意点は、新たな在庫品(業)を抱えないようにすることです。多くの人が痛み苦しみから抜け出せないのは、業の上塗りをするからです。
たしかに、痛み苦しみがくれば、どうしても業の上塗りをしてしまうものです。でも、それに、打ち勝たねば、いつまでも、業の輪廻から抜け出せないのです。では、打ち勝つためには、どうすればいいのでしょうか?・・・。
それは、「この痛みや苦しみは、業の消えている状態だから、有り難いことだ!」と、思うことです。つまり、痛みや苦しみが、やってくる度に、「一つ業が消えて行った! ああ、また一つ業が消えて行った! 有難うございます! 有難うございます!」と、思うことです。そのように思えば、痛みや苦しみは、半減します。
事故・災難・病気などの不幸は、過ちを気づかせる警告ですから、気づいて、生き方を正したら、業は消えてゆくのです。業の上塗りさえしなければ・・・。この業の上塗りさえしなければ、ということが、とても大切なことなのです。
業の上塗りをしないためには、今の今を正しく生きることです。今の今を正しく生きるとは、良いことを想い続けることです。その良い想いの一番が、神を想うことなのです。
2016年2月1日更新
○ 認識者が存在しない場合は、被認識者も存在しないから、宇宙は存在しない。
すなわち、
(被認識者)×(認識者)=(宇宙・・神)
( 0 )×( 0 )=( 0 )
です。
ただし、これでは、宇宙は「無」になってしまうので、この状態はあり得ません。
○ 認識者が存在する場合は、被認識者も存在することになるから、宇宙は存在する。
すなわち、
(被認識者)×(認識者)=(宇宙・・神)
( 1 )×( 1 )=( 1 )
です。
認識者と被認識者は一対で存在するので、認識者(1)が存在する限り、被認識者(0)ということはあり得ないのです。
被認識者の(1)は、仮数(分数・幻数・陰・相対)であり、認識者の(1)は、実数(元数・真数・陽・絶対)です。
宇宙の(1)は、中数の(1)であり、中性・中庸の宇宙という意味です。
したがって、この中数の(1)は、実数の(1)より、はるかに進化した、偉大な(1)となっているのです。生ぬるい湯に浸かっていた時の神の子と、荒野に出て鍛えあげられた神の子の、どちらが強い神の子になっているかは、言わずもがなでしょう。
では、被認識者が複数存在する場合、宇宙はどうなるのでしょうか。被認識者の数だけ宇宙は存在するのでしょうか?。
いいえ、どんなに、被認識者が沢山存在していても、一つしか宇宙は存在しません。なぜなら、被認識者は、認識者(1)から生まれた分身だからです。
すなわち、
(被認識者)×(認識者)=(宇宙・・神)
( 2 )×( 1 )=( 1 )
であり、
(被認識者)×(認識者)=(宇宙・・神)
( 100 )×( 1 )=( 1 )
なのです。
2も100も分数で、実数1の分身です。
客観的に見たら、被認識者の数だけ宇宙が存在するように思われますが、被認識者と認識者は一対で存在するので、宇宙は、一つしか存在しないのです。客観視できるのは、被認識者と認識者が独立して存在する場合ですが、そんな見せかけは、永遠にはあり得ないので、宇宙は、一つしか存在しないのです。
この宇宙には、一様の認識者しか存在しません。しかし、それでは、認識者の存在はあり得ないので、被認識者を創り、その被認識者を通して認知してもらうことで、認識者の存在を確かなものにしているのです。
仮数は、実数から生まれた幻で、実在している数字ではありません。ということは、認識者しか存在しないことになり、それは、1であるということになります。だから、人間は神であり、神は人間なのです。
2016年2月15日更新
運命とは「命」を「運」ぶと書きます。「運命は変えられない!」という人がおりますが、私たちは、命の当人ですから、自分で運命をどうにでも変えることができるのです。ただし、この世に生を受けると、どうしても迷いの糸を絡ませてしまうため、自分で運命を変えられない状態にしてしまいます。それも、一生や二生の糸の絡みあいではないので、元の状態に戻すには、相当の時間と手間がかかります。ですから、「運命は変えられない!」という誤解を招いてしまうわけです。では、絡みあった糸を解きほぐすには、どうすれば良いのでしょうか? それは、法則に違わない生き方をすることです。法則とは、良心のことですから、良心に沿った生き方をしていれば、糸の絡みは解きほぐされ、良い方向に運命が展開して行くのです。運命が良くなった状態とは、糸の絡みが少なくなった状態を言うのです。それは、誰かがするのではありません。自分の力でするのです。私たちは、生命ですから、それができるのです。具体的には、家庭を中心に社会体験をすることです。瞑想をすることです。思索をすることです。
「仏」という字は、解ける(ほどける)という意味ですが、これは、絡みあっていた迷いの糸が解ける(ほどける)という意味です。迷いの糸が解ければ、知恵が増します。判断力が増します。理解力が高まります。気づきが起きます。環境が良くなるので、より、自由になります。だから、運命は間違いなく良くなります。今、運命が良くないと悩んでいる人は、ぜひ、原子核を増やしてください。原子核を増やせば迷いの糸が解けるため、間違いなく運命は好転してゆきます。
2016年3月1日更新
私が神に頭を垂れる一番の理由は、神が創られた必然性の完璧さです。しかも、この必然性は、すべて自分の成長に結びついた必然なのです。この宇宙で展開されているできごとを、良く観察してみてください。すべて進化のための必然であることが分かります。親和力によって塵が集合し新星が誕生するのも必然、月食や日食が起きるのも必然、木星や土星が枯れた星になるのも必然、人類が経済活動をして地球資源を食い潰すのも成長のための必然です。宇宙の出来事で、成長に結びつかない必然は一つもないのです。ですから、あなたに、もし、何かが起きたら、これは、自分の成長のために必要な必然だと考えてください。
この宇宙に偶然と言うのは、一つもないのです。雪が降ったのも必然です。車がスリップ事故を起こしたのも必然です。電話が話し中なのも必然です。あなたが腹を立てたのも必然です。今、そう思えないのも必然です。そう思えたのも必然です。人に騙されたのも必然、騙したのも必然です。欲に誘われ、やってはならないことをやったのも必然です。でも、その必然は、みな、良いことだったのです。なぜなら、どんな必然も自己成長に結びついていた必然だからです。それは、誰かが与えたのではありません。与えたのも自分、体験したのも自分、その体験によって成長したのも自分、全部、自分が与えたのです。すなわち、自分の成長に必要な必然を自分が与え、その必然によって、自分が目覚め、自分を成長させてゆくという、自己完結型宇宙における必然なのです。これは、この宇宙に一つのモノしか無いから、つまり、自分しかいないから、自己完結型の学びにならざるを得ないわけです。でも、それも、必然なのです。もし、あなたが、自己完結型の必然性を心の底で理解できたら、もう、あなたに一抹の不安も無いでしょう。
2016年3月15日更新
あくせく働いているあなた、一体、何が欲しくて、あくせく働いているのですか?・・・、お金が欲しくて?・・・、物が欲しくて?・・・、地位や名誉が欲しくて?・・・、そうじゃないでしょう。幸せが欲しいからではありませんか?
世の人々は、お金で幸せが買えると思っております。だから、朝早くから夜遅くまで、躍起になって働いて、お金を稼いでいるのです。でも、未だかって、お金で幸せを買った人は一人もいないのです。もし、お金で幸せが買えるなら、大王や大金持ちは、みな、幸せになっているはずです。でも、大王も大金持ちも、みな、「虚しい! 虚しい! 虚しい!」と言ってこの世を去ります。
幸せは、肉体が感じるのではなく、意識が感じるのです。幸せとは、意識状態なのです。だから、私たちは、形(肉体)に囚われる必要はないのです。形を持たなくても、幸せは得られるのです。どうでしょう。肉体を持っていると不自由ですよね。煩わしいことも、沢山ありますよね。移動するには、乗り物に乗せねばならないし、臭くなるから、風呂にも入れねばならないし、お腹がすくから、食べ物も食べさせなくてはならないし、第一、肉体は、か弱いから、病気になるし、怪我もします。でも、本当の私たちは、そんな不自由で、か弱い、肉体ではないのです。本当の私たちは、自由奔放な生命意識なのです。生命意識ですから、お金も、物も、地位も、名誉も、必要ないのです。必要なのは、「本当の自分は生命意識である!」と思えることだけです。どうか、肉体から出て、意識で、幸せを満喫してください。
2016年4月1日更新
私たちは、紛れもなく、生命(神)なのです。でも、どうしても、そう思えない、それは、気の遠くなる年月、様々な体の中で生きてきたからです。そのため、私たちは、体を持っていなくては、自分だと思えなくなったのです。では、体を持ちましょう。どんな体を? それは、生命体という体です。意識体という体です。私たちは、これまで、鉱物・植物・動物など、様々な体を纏って生きてきましたが、それらの体は、いずれも、見える体でした。でも、生命体という体は、見えません。意識体という体は、見えません。でも、見えなくても、間違いなく自分の体なのです。それは、見えない体という体です。見える体だけが体ではないのです。宇宙では、見えない体こそ、本当の身体なのです。神が宇宙を自分の身体として生きているように、私たちも、生命を自分の体として生きることができるのです。なぜなら、意識したものが自分の体になるからです。知花先生が、私たちは、意識している通りのもので、それ以上でも以下でもないと、おっしゃられたのは、意識が体を生み出すからです。意識は、何でも作れるのです。どんな物の中にも入れるのです。長年、形の中で生きてきたため、形が無くては、自分だと思えなくなっただけです。どうしても、体がなくては、自分だと思えないなら、こう思ってください。見えない生命体という体を纏ったのだと・・・。意識が認めれば、見えなくても自分の体になるのです。私たちは、鉱物の身体を纏っていたときには、鉱物だと思っていたのです。植物の身体を纏っていたときには、植物だと思っていたのです。動物の身体を纏っていたときには、動物だと思っていたのです。今、人間の身体を纏って、人間と思っているように・・・。生命体も、意識体も、見えませんが、それは、見えない体を持った生き物なのです。その生き物の中に入ったら、即、自分の身体になるのです。
私たちは、見えない意識体なのです。見えない生命体なのです。見えない意識体が、何かを纏い、見える自分になっただけです。すなわち、花の中に入って花になり、猫の中に入って猫になり、人間の中に入って人間になっただけです。私たちは、人間の中に入り、人間だと錯覚している生命なのです。花の中に入り、花だと錯覚していたように・・・。猫の中に入り、猫だと錯覚していたように・・・。生命体の中に入って、生命だと錯覚したらいいのです。いいえ、生命こそ、本当の私たちなのです。
人間の身体を纏っていれば、様々な厄介なことが起きます。例えば、移動するのに、乗物が入用になります。汚れるので、風呂にも入れなければなりません。腹がすくので、食物も食べさせなくてはなりません。そうなると、排泄しなくてはなりません。また、寒さから身を守るために、着物を着せなくてはなりません。家も必要になります。でも、意識体なら、そんなことをする必要も、そんな物も必要なくなるのです。さあ、生命体を自分の身体にしましょう。それは、自分の本性に目覚めれば、即、そのようになるのです。
2016年4月15日更新
この宇宙に、一なるモノしか存在しないという真理は、動かしようのない真理です。 ならば、この宇宙に、自分しか存在しないことになりませんか? なぜなら、今、私は、現に存在しているからです。今、何かが存在しているということは、その何かは、一なるモノの現れなのは当然でしょう。何せ、宇宙には、一なるモノしか存在しないのですからね。だから、私は、堂々と、私しか存在しないと公言するのです。もし、私もあり、何かもあるなら、二つのモノがあることになり、一なるモノしか存在しないという真理は崩れてしまうからです。私が、私の他に何もないと公言するのは、自分の他に何かを認めれば、一なるモノしか存在しないという真理を否定すると同時に、自分の存在も否定することになるからです。さらに言えば、この宇宙に、一なるモノしか存在しないということは、自分しか存在しないということであり、それは、すべてのモノは、自分であるということになるのです。なぜなら、すべてのモノは、その一なるモノの現れだからです。
では、この真理を、神に置き換えて考えてみましょう。
この宇宙に、神しか存在しないという真理は、動かしようのない真理です。ということは、私は、神であるということです。なぜなら、今、私は、現に存在しているからです。もし、私が、神でないならば、この宇宙に、神しか存在しないという真理は崩れてしまい、宇宙は消え去ってしまうでしょう。この宇宙に、神しか存在しないということは、自分しか存在しないということであり、それは、すべてのモノは、自分であるということなのです。ならば、細菌は、私です。虫は、私です。花は、私です。鳥は、私です。馬は、私です。山は、私です。川は、私です。海は、私です。地球は、私です。宇宙は、私です。すべては、私です。これは、一なるモノしか存在しないという宇宙においては、当然のことであって、何の不思議もないのです。「私は、神ですよ!」と、堂々といえるのも、この宇宙に、神しか存在しないからです。すなわち、私しか存在しないからです。
2016年5月1日更新
六月の第三日曜日が父の日、五月の第二日曜日が母の日と、決められているようですが、本当は、毎日が、父の日であり母の日なのです。なぜなら、お父さんやお母さんには、日々、感謝してもしきれない恩があるからです。お父さんとお母さんが、いなかったら、今の自分は、あり得ないのです。物を送る必要はありません。心の中で「お父さん、ありがとう! お母さん、ありがとう!」と想えば、それで良いのです。どうしても感謝の気持ちを形で表したいなら、白抜きの「愛」の一文字の中に「ありがとう! ありがとう! ありがとう!」と、たくさん書いた色紙を贈ってください。「ありがとう!」の文字を赤や青など数色で書くと絵模様となりますので、どんな高価な絵より価値ある贈り物となるでしょう。その場合、心から「ありがとう! の想いを込めて書いてください。それも、「ありがとう!」の字数が多ければ多いほど良いでしょう。想いは実現の力です。きっと、あなたの想いが、お母さんやお父さんに届くでしょう。どうか、試みてください。
この感謝の気持ちは、天の父にも、地の母にも、表して欲しいと思います。天なる父は、母なる大地を創造し、そこに、種を撒きました。その種が実り、人となったのです。私たちは、天と地が生み出した、愛の結晶、愛の子供たちなのです。だから、天の父と地の母に感謝するのは当然でしょう。どうか、天の父と地の母に「ありがとう!」の感謝の想いを届けてください。
2016年5月15日更新
私たちの本性は、見えない生命なのです。でも、どうしても、そう思えないのです。それは、気の遠くなる年月、様々な形の中で生きてきたために、形がなくては生きていると思えなくなったからです。
形の中で生きることだけが、生きることではないのです。いやむしろ、形の無いモノの中で生きることが生きることなのです。覚者が「肉に生きるは死なり、肉に死んでこそ真に生きるモノとなる!」というのは、形を持って生きていると「生・老・病・死」があるし、不自由だからです。でも、私たちは、どうしても、形が無くては生きていると思えないのです。では、形を持ちましょう。どんな形を? それは、見えない形です。こう思ってください。見える形もあるけれど、見えない形もあるのだと・・・。その見えない形をしているのが、生命体なのです。神が見えない宇宙を自分の身体として生きているように、私たちも、見えない生命を自分の身体として生きたら良いのです。それは、「汝の見るもの受け継がん!」と言われるように、思ったモノが自分の身体になるからです。どうか常識を変えてください。見える形もあるけれど、見えない形もあると言うことを・・・。その見えない形をしているのが、生命体であり、本当の私たちなのです。
身体を持っていれば、様々な物が必要になります。例えば、食べ物が要ります。着る物が要ります。家が要ります。でも、生命体なら、そんな物は要りません。さあ、融通無碍なる生命体を自分として生きましょう。そうすれば、もう、何も要らないのですから・・・自由自在に生きられるのですから・・・。
2016年6月1日更新
神が創られた、必然性の働きの目的は、すべて、私たちの成長のために用意したものです。その必然性の働きは、必然性の働きによるのです。そして、その必然性の働きも、また、必然性の働きによるのです。どこまでも、必然性の働きによるのです。それは、すべての必然が、完璧で無くてはならないからです。
この宇宙で起きている出来ごとを、良く観察して見てください。すべて、私たちを成長させるために起きている必然であることが分かります。その働きに、一つの無駄も、齟齬も、間違いもないのです。だから、もし、あなたに何か起きたら、その出来ごとが、何を含み持った必然なのか考えて見てください。すべて、自分を成長させるために起きた必然であることに気付かされるでしょう。
一例・・・
「あなたが、風邪を引いたのも必然、
その風邪が、隣の同僚に感染ったのも必然、
その同僚が、一週間会社を休んだのも必然、
そのために、自分が、毎日、深夜まで、残業させられたのも必然、
そのために、自分が、重い病気になったのも必然、
その病気によって、人生の思索をさせられたのも必然、
そのお陰で、真理に目覚めたのも必然です。」
私の人生を振り返ってみても、すべて必然によって運ばれてきたことが分かります。
二例・・・
「北海道の片田舎に、日本男子として生まれたのも必然、
その片田舎で、子供時代、天真爛漫に過ごしたのも必然、
隣町の高校に入学したのも必然、
その町の役所に就職したのも必然、
その職場で有給休暇が沢山取れたのも必然、
その沢山の休暇を利用し大阪に遊びに行ったのも必然、
そのお陰で大阪の人と結婚したのも必然、
また、大阪に引っ越したのも必然、
そこで、人生の荒波にもまれたのも必然、
それによって、妻子を亡くしたのも必然、
そんな苦悩の中から、真理に目覚めたのも必然です。」
三例・・・
「昨晩、同僚と飲みに行ったのも必然、
そのために、妻に頼まれていた買い物を忘れたのも必然、
翌朝、雪が降ったのも必然、
忘れていた買い物を車で買いに出掛けたのも必然、
帰り道に犬を避けるために急ブレーキーをかけスリップ事故を起こしたのも必然、
そのために、大怪我をして入院したのも必然、
その入院中に、人生を省みられたのも必然、
そのお陰で、真理に目覚めたのも必然です。」
紹介した、三つの例えは、解りやすいですが、例えば、電話の話し中も必然、メールのやり取りで諍いを起こしたのも必然、投資話に乗って人に騙されたのも必然、犬に吠えられ肝を冷やしたのも必然、石に躓いて転んだのも必然、電車でスリに財布をすられたのも必然・・これらの必然は、真理に関係ないように見えますが、突き詰めてゆけば間違いなく自分を成長させるために起きた必然なのです。
この宇宙に偶然と言うのは、一つもないのです。「神は完全である」と、私が、断言するのは、どんな出来ごとも、すべて魂を成長させるために起きた必然だからです。だから、私は、必然の完璧さに頭を垂れるのです。どんな、苦しい出来ごとも、悲しい出来ごとも、すべて自分を成長させるために起きた必然なのです。それは、全部、自分がしているのです。すなわち、自分で自分に苦しい人生を与え、その苦しさによって、自分が目覚め、真理を探求して、自分を成長させて行くという、自己完結型宇宙が、そうしているのです。自分しかいない宇宙だから、自分を成長させるためには、自分が自分に課題を与え、その課題を自分が克服して自分が成長してゆく、自己完結型にならざるを得ないわけです。勿論、それも、必然です。あなたの人生が、必然によって運ばれていることを知り、それが、みな、自分の成長に結びついていると解ったら、どんな課題に出会っても、不安を抱くことはないでしょう。なぜなら、その課題が、克服出来るか、出来ないか、知っている自分が、自分に与えた課題だからです。「不動心になった人」とは、この理解のいった人のことなのです。
2016年6月15日更新
見える、聞こえる、触れる、味わえる、臭える、すなわち、五感にかかるものは、すべて、幻です。なぜなら、五感そのものが幻だからです。幻の五感で幻を見聞きしても、それは、幻に過ぎないのです。もし、五感が永遠になくならないなら、私は、五感にかかるものを真実だと認めましょう。でも、五感は、一時存在しているだけで、いつか、必ず、無くなってしまうのです。無くなってしまうものが、真実であろうはずがありません。
真実とは、何でしょうか? 現実とは、何でしょうか? 真実とは、永遠に無くならないモノ、現実とは、必ず、無くなってしまうモノです。何千億年・何兆億年存在しようと、無くなるモノは真実ではないのです。宇宙は、無限時間の中にあるのです。無限時間の中での一兆億年など、一瞬なのです。ましてや、私たちの住んでいる地球は、どんなに長く存在しても、何百億年程度です。その地球の中における人類の文明も、せいぜい、数万年維持できれば良い方です。更に、人の命は、どんなに維持できても、百数十年程度です。その百数十年程度の命を守ろうとして、競い、闘い、奪い、戦争までしているのが人類なのです。それは、真実と現実の見分けができないからです。
この表現宇宙は、幻です。
この世の現象は、すべて、幻なのです。幻の世界で起きていることは、すべて、幻なのです。私たちは、生まれて死ぬまで、ずっと幻の中で生きているのです。いいえ、死んだ後も幻の中で生きているのです。そして、また、幻の中に生まれ、幻の中で生き、幻の世界に帰って行くのです。あなたは、こんな幻の輪廻を、いつまで繰り返すつもりですか?
幻の中で味わう幸せは、一時です。必ず、色褪せ失ってしまいます。あなたは、そんな一時の幸せで満足できますか? 永遠の私たちは、永遠の幸せでなくては満足できないのです。その幸せは、真実を知れば得られるのです。どうか、真実を知ってください。そうすれば、幻の輪廻から抜け出し、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの中に入ることができるのですから・・・。
私たちは、永遠に無くならない「神・生命」なのです。すなわち、永遠に無くならない「意識」なのです。その意識は、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せを欲しているのです。どうか、真実と現実を見分ける目を持ってください。
2016年7月1日更新
私たちが、寂しいと思うのは、分離観念を持っているからです。自分と他のモノとの間に溝を作り、一人になっているから、寂しいと感じるのです。でも、どんなに一人だと思っても、私たちは、一つのモノと一緒にいるのです。一つは、私たちを含めた沢山のモノの集まりなのです。つまり、一つは、無限のモノの集まりなのです。一つは、無限なのです。無限は、一つなのです。
一つのモノしか無いとは、自分を含めた沢山のモノと一緒だという意味です。なぜなら、すべてのモノは、無限の現れだからです。すなわち、自分の現れだからです。だから、本当は、寂しいわけは無いのです。どうか、すべてのモノは、自分だと思ってください。そう思えば、寂しくありません。事実、あなたは、今、一つのモノと一緒にいるのですから・・・。永遠の昔より、一つのモノと一緒だったし、今も、一つのモノと一緒だし、未来も、一つのモノと一緒にいるのです。あなたは、一つのモノから離れたことがないのです。その一つのモノは、あなた自身です。すなわち、あなたの意識です。言い換えれば、神です。生命です。一つのモノは、あなたの分身なのです。どうか、あなたの着ているモノに話しかけてやってください。あなたの乗っている車に話しかけてやってください。あなたの周りにあるモノに話しかけてやってください。きっと、喜んでくれるでしょう。
一人で晩酌をしたくなるのも、寂しさを紛らわすためです。赤暖簾を潜りたくなるのも、夜の街を徘徊したくなるのも、寂しさを紛らわせるためです。でも、そんなことをしても、寂しさは無くなりません。それよりも、すべてのモノは、自分の分身だという思いを強くすることです。
一つは無限なのです。無限の中に二つは無いのです。もし、ここから、ここまで、私で、ここから、ここまでが、あなたで、と、二つに分けてしまえば、それは、有限になるのです。それでは、宇宙は有限になってしまいます。そんな宇宙は、あり得ないのですから、一つは、あくまでも無限なのです。ということは、今、存在している、あなたは、その一つのモノであり、無限ではありませんか。沢山のモノがあるように見えますが、それは、すべて、同じ一つのモノであり、無限なのです。だから、寂しいわけがないのです。
もし、寂しくなったら、
私は、すべてのモノである!
すべてのモノは、私である!
と思ってください。
この宇宙に、一様の神しかおられません。だから、神様は、寂しいだろうと思うかもしれませんが、一様の神は無限ですから、寂しいことはないのです。あなたも、一であり、無限の存在ですから、寂しいはずはないのです。
2016 年7月15日更新
私たちは、一体、何を信じて生きたらいいのでしょうか? お金?、 物?、財産?、地位?、名誉? それとも、天皇?、総理大臣?、科学者?、宗教家?、学校の先生?、会社の社長?、お父さん?、お母さん?、兄弟姉妹?、友達?・・・。いいえ、私たちが信じるべきものは、想念です。なぜなら、実在するのは、想念のみだからです。この宇宙で、確かなことは、想念のみが実在するという真理です。私たちは、その想念を持っているのです。私たちは、今日まで、その想念を使って、何から何まで実現させてきたのです。
事実、
想念を使って、友達を得、
想念を使って、伴侶を得、
想念を使って、学校に入り、
想念を使って、会社に入り、
想念を使って、収入を得、
想念を使って、自動車や家を得、
また、
想念を使って、病気になり、
想念を使って、事故に遭い、
想念を使って、災害に遭う、など、
人生の全てを、想念によって作り上げてきたではありませんか。
今、人類が、政治・経済・宗教・テロ・戦争、環境問題などの苦しみに喘いでいるのも、正に、その想念を悪用してのことなのです。それは、想念の働き、想念の性質、想念の力量などを知らないからです。人類は、自分たちの想念で、自分たちを追い詰めていることに気付いていないのです。それは、想念の力を信じていないからです。
一般人に言っても分かって貰えないでしょうから、せめて、学んでいる皆さんだけでも、想念の偉大さを信じてください。どうか、想念を良いことに使いましょう。きっと、実りある人生を送れることでしょう。
2016年8月1日更新
「あなた」は、神なのです! 意識なのです! あなたの意識が、今、あなたを感じていること自体が、神である証だからです。これは、天地が、ひっくり返っても間違いないことなのです。さあ、「私は神である!」と宣言しましょう。
ここで「あなたは、」という言葉を使ったのは、「あなたを」、人間として見たからです。でも、本当のあなたは、神ですから、「私は」という言葉に置き換えなくてはならないのです。
この宇宙に、「二人称」など無いのです。つまり、「あなた!」なんて無いのです。この宇宙には、「一人称」だけが有るのです。つまり、「私」だけが、「神」だけが、有るのです。
2016年8月15日更新
※ 神である根拠!
私が神である根拠は、
この数式が証明しているのです。(1を私に置き換えてください。)
この宇宙に存在しているのは、神のみです。神しか存在しないなら、神は1であるということになります。これは、絶対崩せない真理です。
では、今、存在している私は、誰なのでしょうか? 神しか存在しない宇宙に、今、私が存在しているということは、私は神ではありませんか? 何せ、この宇宙に存在しているのは、神しか存在しないのですから・・。ということは、私は1であるということになり、その1は神ですから、私は、当然、神であることになるでしょう。
無限とは、「限り」が「無い」という意味です。では、限りの無いモノは、宇宙に幾つあるでしょうか? それは、1つしか無いはずです。もし、無限が二つも三つもあるなら、それは、無限でなくなってしまうからです。良く考えてみてください。ここから、ここまでが、あなたで、ここから、ここまでが、私だと分けられる宇宙は有限になりませんか? 分けられない宇宙だから無限なのです。それも、永遠に無くならない1つの無限宇宙です。なぜなら、宇宙は、無限時間の中に存在するからです。
つまり、
この1は、永遠に無くならない1なのです。この数式が成り立つのは、今、現に1があるからです。今、1がある限り、その1は永遠に存在するのです。このことを次の視点から考えてみましょう。
今、1があるのは、前(過去)に、1があったからです。なぜなら、今、1を作った原因が過去になくては、今の結果の1はあり得ないからです。では、その前の1は、何が生み出したのでしょうか? その前に1があったからではありませんか。そして、その前に1があったのも、その前に1があったからです。つまり、永遠の昔より1があったから、今の1があるということです。ということは、今、1があるということは、今後も、永遠に1はあり続けるということです。
これを、私に置き換えてみましょう。
今、私が存在しているのは、過去に、私が存在していたからです。では、その前の私は、何が生み出したのでしょうか? その前の私が生み出したのではありませんか? そして、その前の私も、その前の私が生み出したはずです。つまり、永遠の昔より私が存在していたから、今の私が存在し、今後も、永遠に存在し続けるということです。このように断言できるのは、原因と結果は、絶対切り離せないからです。つまり、過去・現在・未来は、切り離せないからです。だから、私は、今、人間がいるということは、永遠の昔より、人間がいたし、永遠の未来にも、人間がいると断言するのです。それは、1しかいないからです。1しか無いから、原因と結果は、一つであり、切り離せないのです。1の中には分離はないのです。
これは、1しか無いなら、今しか無いという根拠にもなるのです。1の中には、過去・現在・未来は、一つとしてあるのです。それは、過去も、その1であり、今も、その1であり、未来も、その1だからです。今がある限り、過去と未来は、アナログ的につながっているわけですから、同じ延長線上の1です。
今があるのは、過去があったからです。過去があれば、必ず、今があるのです。今があれば、必ず、未来もあるのです。つまり、今という結果があるのは、過去に原因があったからです。その過去の原因は、必ず、未来の結果を生むのです。その未来の結果は、さらに未来の原因となり、さらに未来の結果を生むのです。これを因果の法則における三位一体といい、この宇宙に貫かれている崩しようのない真理です。しかも、この三位一体は、永遠に途切れることはないのです。なぜなら、宇宙は、無限であり、永遠だからです。
復習しましょう。
今がある限り、今は永遠にあり続ける
今、1がある限り、1は永遠にあり続ける
今、私がある限り、私は永遠にあり続ける
今があるのは、過去に今があったからです。
今、1があるのは、過去に1があったからです。
今、私があるのは、過去に私があったからです。
ということは、未来にも、今があり、1があり、私があるということです。
この宇宙が無限であり永遠なのは、今のみがあるからです。
この宇宙が無限であり永遠なのは、1のみがあるからです。
この宇宙が無限であり永遠なのは、私のみがあるからです。
私たちが知るべきことは、1しか無いということです。1しか無いということは、私しか無いということであり、その私は、永遠にあり続けるということです。なぜなら、今、私は、現に、存在しているからです。今、私が、現に、存在している限り、私は、過去・現在・未来に亘って、存在し続けるということです。ならば、私は、何でしょうか? 宇宙であり、神ではありませんか?
2016年9月1日更新
一体、私は、何なの? 誰なの? どこから来たの? どこへ行くの? 私は、私を知りたい・・・。 私が何者なのかを知りたい・・・。
でも、どんなに探っても、私を知ることができない? なぜ、知ることができないのだろうか? それは、私が、いつ誕生したか分からないからです。私は、生まれた覚えがないのです。だから、死んだ覚えもないのです。気がついたら、私は、いたのです。だから、私は、誕生日を知らないのです。
私は、永遠の昔からいたのです。そして、永遠の未来にもいるのです。私に生死が無いから、生い立ちが分からないのです。生い立ちが分からないから、素性も分からないのです。生い立ちも、素性も、分からない私を、どうして知ることができるでしょうか?
では、私は、私を永久に知ることができないのでしょうか? そうです。私は、私を永久に知ることができないのです。でも、それで良いのです。なぜなら、私を知った、その途端、私は無くなってしまうからです。知ったということは、そこまで、という意味です。終わったということです。終わりは、終結・完結・有限を意味します。有限という意味は、個である、という意味です。個は、必ず、無くなるのです。私は、そんな無くなる存在になりたくありません。だから、私は、私を知らなくて良いのです。知らなければ、無限の存在でいられるからです。無限の存在者であれば、無限の幸せが体験できるのですから・・・。
ここで言っている私とは、肉体の私ではありません。魂の私です。生命の私です。神の私です。誤解なきように・・・。
2016年9月15日更新
時間の「時」とは、意識のこと、エネルギーのことです。また、意識は神しか持っていませんから、「時」は、神でもあるのです。すなわち、絶対宇宙そのものが「時」なのです。一方、時間の「間」とは、空間のこと、物質のことです。物質は、表現宇宙のことですから、私たちが住んでいるこの相対宇宙が「間」なのです。
さて、この「時」と「間」は、切り離しては存在できません。二つが一つに合わさって、はじめて、「時間」は存在できるのです。だから、時間は、表現宇宙だけにある特殊なモノなのです。私たちは、肉体(間)を持ち、意識(時)を持っていますので、私たちは、「時間」そのものであるということです。ゆえに、私たちは、「小宇宙」と呼ばれるのです。この時間の中にいる限り、私たちは、何をしなくても熟成することができるのです。よく「何事も時間が解決する」と言われますが、時間は、何でも熟成させる力を持っているのです。私たちが、この表現宇宙に肉体を持って出てくるのは、時間の中で魂を熟成(進化成長)させることができるからです。
時間は、読むことができません。読んだ瞬間過ぎ去ってしまうからです。空間がある限り、今・今・今・今・・・・の時を刻々と生み出しています。時は尽きることがないのです。だから、時は無限なのです。無限ということは、時は永遠に続くということです。
次の式を見てください。
この数式は、「今」しかないことを示す基本中の宇宙真理です。「今」しかないということは、「1」しか無いということです。なぜなら、無限が二つに分けられるなら、有限になってしまうからです。無限は分けられないのです。分けられないから、「1」なのです。
今、私たちは、「今」という時を感じています。この「今」がある事実は、誰も覆すことはできないでしょう。でも、この「時」は、見えないし触れないから感じることも掴むこともできません。辛うじて「時」を感じられるのは、「時」をなぞれる意識だけです。意識がなくては「時」もないのです。私が「時」は意識であるというのは、意識だけが「時」を感じる(なぞる)ことができるからです。言い換えれば、時は意識がなぞることによって生まれてくると言ってもいいでしょう。そして、人間が「時間」であると言うのも、「時」が意識であり、「間」が肉体であるからです。だから、「時間」を持つ人間だけが、瞑想できるのです。人間そのものが、時間そのものだから、瞑想が有効なのです。
瞑想が有効なのは、意識(想念)は創造の力であり、その意識によって時をなぞることができるからなのです。時は、アナログなのです。デジタルでは、時を捕まえることはできないのです。なぜなら、「今」と思った瞬間、もう、過去になっているからです。過去と今と未来をなぞれる意識のみが、アナログの時を捕まえることができるのです。物語が生まれるのは、アナログの時の中で意識がなぞれるからです。ということは、意識は、過去・現在・未来の橋渡し役をしていることになるでしょう。つまり、今という「時」は、「間」がある限り、永遠にあり続けるということです。時間とは、そういう性質のものなのです。
2016年10月1日更新
※ 命の時間は、平等です。セミの命は短いと思うかもしれませんが、それは、外側(形)を見ているからです。命の時間は、みな、平等なのです。なぜなら、その生き物の時間の濃さは、どんな命の中でも同じだからです。
人間が感じている時間単位は、人間の意識が作り出した時間単位で、すべての生き物に共通した時間単位ではないのです。意識は、一瞬の時の中で無限の体験が出来るのです。だから、時の短さや長さは、命にとって関係がないのです。
セミが、ひと夏の短い命の中で体験する時の濃さは、人間が100年かけて体験する時の濃さと同じなのです。その命が体験している中身は、時の短さや長さで測れるものではないからです。だから、カゲロウの数日の短い一生も、セミのひと夏の短い一生も、人間の100年の一生も、命にとっては同じなのです。カゲロウもセミも短い時の中で人間と同じ濃さの体験をしているのです。カゲロウやセミだけではありません。一瞬に消え去る素粒子も、短い時の中で人間と同じ濃さの体験をしているのです。つまり、すべての生き物たちは、平等な時の濃さを体験し、魂を熟成させているということです。
勿論、熟した魂は高度な内容の体験をするし、未熟な魂は低度な内容の体験をします。でも、その命にとって、時の濃度(量)は、みな、同じなのです。
この「一つしか無い!」という意味が心の底で解ったら、すべての謎が解き明かされるのです。つまり、この宇宙の仕組、神の仕組み、本当の私(自分)の正体が解るのです。
一つとは、「他は無い!」「多は無い!」「それしか無い!」「又・亦・復複・は無い!」「分けられ無い!」すなわち、「絶対」であると言う意味です。
そこから導き出される答えは、「今、私たちが見ているすべてのモノは、その一つのモノである」と言う答えになるでしょう。一つのモノしか無いなら、どんなに形が違っていても、その一つのモノであるはずです。と言うことは、私は、その一つのモノであると言うことになります。なぜなら、今、私は、現に存在しているからです。と言うことは、私の目に見えているもの、すべてが、私であると言うことになります。何せ、一つのモノしか無いのですから・・・。
この宇宙には、様々な名前の付いているモノがありますが、一つのモノしか無いなら、名前が違っていても、一つのモノであるはずです。と言うことは、「神」も、一つの名前で表されて良いでしょう。そうです。神は「1」なのです。「1」は、神なのです。神は、「1」の別名です。神は、「1」で表されるのです。
だから、すべてのモノは、神なのです。ならば、人間も、神ではありませんか? だから、「私も、あなたも、神なのは」当然なのです。人類同士、争ってならないのは、みな、同じ神だからです。だから、「神の名」で争わないでください。「神の取り合い」をしないでください。何もかもが、神なのですから・・・。どうか、神の名に惑わされないでください。すべては、神なのですから・・・。
この宇宙は、一つの宇宙なのです。一つの宇宙の中に、たった一つの宇宙が有るのです。一つの中に全てが有ると言う意味です。
すべては、一つだから、何一つ違うものは無いのです。
このことが心の底で解ったら、死も、生も、一つであることが解るので、あなたは、心穏やかに生きられるでしょう。それは、この宇宙に「一つの意識しか無い」からです。
2016年10月15日更新
※ 繰り返すことの大切さ!
学びの友にこれだけは言っておきたい、繰り返すことを嫌ってはならないと!・・・。
真理の学びは、一度や二度で定着するものではないのです。何度も、何度も、繰り返すことによって定着して行くのです。
ですから、
何度も、何度も、読むことです。
何度も、何度も、聴くことです。
何度も、何度も、探ることです。
何度も、何度も、想うことです。
真理というものは、求める人の真剣度によって得られるモノが違うのです。
あなたは、どれほど真剣に真理を求めていますか?
経済的に豊かになりたいから?・・。
病気を治したいから?・・。
家族の幸せを願って?・・。
そんな、ご利益主義で真理を求めても、得られるモノは少ないのです。ましてや、真理を駆け込み寺として使ったり、あるいは、慰め道具として使ったりしていては、自分を変えることなどできないのです。趣味としてやるなら、それで良いかもしれません。でも、本当に自分を変えたいなら、真剣にやって欲しいものです。神は、親身になって、私たちを幸せの世界へ導こうとしているのですから、私たちも真剣に求めなくてはならないのです。
よく、「邪魔が入って真理が求められない!」という人がおりますが、真剣に真理を求めている者の前に、どうして、神は、障害物を置くでしょうか? 気紛れな求め方をしているから、神(真我の自分)は、障害物を置くのです。真剣に神を求めれば、必ず、環境が変わります。変わらないのは、真剣度が足りないからです。「自分は本当に真剣に真理を求めているのか?」一度、自分に問いかけてみてください。
と言っても、苦しい求め方をしてはなりません。神は、苦しんでまで真理を求めなさいとは言っていないのです。今の環境の中で精一杯の求め方をしたら良いのです。魂の熟成度が、みな、違うのですから、求め方も違って良いのです。ただ、その中にあって、どれ程の真剣さが込められているか? それを問うているのです。人生の目的を見据えられた人なら、自ずと真剣度が違ってくると思います。
理解力は、そう簡単に増すものではありません。真理を求め続け、原子核が大きくなれば、自然と理解力が増します。そうすれば、私の言っていることの意味が解るようになります。どうか、焦らないでください。一歩一歩前進してください。
2016年11月1日更新
神が望んでいること・・・それは、今、やらなければならないことを真心を込めてやること、そして、余った時間を有効に使って瞑想することです。神は、それ以上のことを望んでいません。
※ 一生懸命やる
私はよく「真心を込めて、やってあげなさい!」と言います。この「真心を込めて、やってあげなさい!」の意味は、「一生懸命、やりなさい!」という意味なのです。一生懸命やっているときは、不純な思いは、一切、入っていません。この純粋な思いで、やってあげることが、「真心を込めてやる!」の意味なのです。社会においても、家庭においても、一生懸命やることです。これは、瞑想にも当てはまることなのです。つまり、神を想う中に、不純なものが、一切、入っていない状態が、真心を込めて瞑想している状態なのです。「経済的に豊かになりたい! 病気を治したい! 家族を幸せにしたい! 自覚の境界線を超えたい!」そんな不純な思いで、やっていては、真心が篭もらないのです。なぜなら、不純な思いそのものが雑念だからです。雑念は、波動が低いのです。そんな低い雑念で瞑想していては、思いが、神に届かないのです。一生懸命やっている状態は、光が支配している状態なのです。一生懸命やっている人の姿を見ると感動するのは、光を見せられるからです。一生懸命やっているときの瞑想は、光が支配している素晴らしい瞑想になっています。何かが欲しいから瞑想するのではありません。瞑想したくて、瞑想をするのです。
何事も続けなければ成就しません。何も変化が現れなくても続けることです。一生かけて、やり続けることです。短期間で結果を求めてはなりません。欲望的雑念は大敵です。雑念を無くすには、連続的祈り(重ねる瞑想)が効果的です。どうか、純粋な気持で瞑想してください。
注意・・
真理を学び疑心暗鬼になっている人は、サタンにやられていることに気付いてください。
自己完結型宇宙とは、この宇宙に「1しか存在しない!」「私しかいない!」という数式から導き出される理論です。
私は、この数式の深みを知って欲しいのです。
今、「1」があり、私がいるということは、紛れもない事実ですね。ということは、過去にも、1があったし、私もいたということです。過去に、「1」が、私が、いなければ、原因を作らないわけですから、今、「1」があることもないし、今、私がいることもないからです。ということは、未来にも、「1」があるし、私もいるということです。今の「1」が、今の私が、未来の原因を作っているからです。無限時間の中に、「1」があり、私がいるということは、永遠の昔にも、永遠の未来にも、「1」があるし、私もいるという証なのです。この数式は、それを示しているのです。このことが心の底で理解できたら、なぜ、自己完結型宇宙の理論が成り立つのかも解ってもらえると思います。自分しかいないなら、自分で自分を成長させるしかないのは当然でしょう。つまり、自分が成長するために必要な、人・物・環境は、自分で用意するしかないということです。そうならざるを得ないのは、もともと、主観宇宙(唯我独存)の主だからです。
自分の周りに存在する、人・物・環境は、みな、自分が連れてきたのです。その人は、みな、自分のために演技してくれている役者さん達です。彼らは、時には嫌なことを言い、時には嫌なことをしますが、それは、自分が頼んで演技してもらっているのです。だから、決して、役者さん達を罵ったり怒ったりしてはならないのです。また、その役者さん達の成長を望む必要もなければ、責任を感じたりする必要もないのです。なぜなら、役者さん達も同じ自己完結型宇宙を持っているからです。つまり、役者さん達から見たら、私は、役者さん達の宇宙に連れてこられた演技者なのです。彼らは、私を通して成長するのです。このように、自己完結型宇宙は、自分も、相手も、それぞれの宇宙の中で成長させる仕組みなのです。
2016年11月15日更新
形の有る状態は終わりの有ることを意味し、無い状態は終わりの無いことを意味します。形の有るモノは、消えるのです。形の無いモノは、消えないのです。誕生したモノは、必ず、消えるのです。誕生しないモノは、絶対、消えないのです。初めが有るということは、終わりが有ることを意味しますから、それは、生と死のある限定された状態です。限定は有限なのです。無限定は無限なのです。つまり、形が有ったら、その形が限定してしまうから、それは、有限になってしまうのです。形が無いのは、何の限定もないから、それは、無限になるのです。有限は、必ず、消えますから、無い状態なのです。無限は、消えませんから、有りの状態なのです。だから、形の無いのが、何でも有りの状態であり、形が有るのは、何も無い状態だと言うわけです。
形の世界が、苦界だと言われるのは、限定された不自由な世界だからです。形のない世界が、天国だと言われるのは、限定されない自由な世界だからです。限定(有限)は、苦しいのです。無限定(無限)は、楽しいのです。私たちは、形の有るモノが幸せをくれると思っていますが、形の有るモノからは、幸せは、絶対、貰えないのです。なぜなら、前述したように、形の有るモノは、必ず、消えて無くなってしまうからです。幸せは、永遠に無くならない意識が、永遠に無くならないモノの中で体験する味わいです。だから、「形の無いのが幸せ!」というわけです。
すでに創られた世界は、限定された世界ですから、何も生み出せない絶望の世界です。何も創られていない世界は、無限定の世界ですから、何でも生み出せる希望の世界です。だから、形の有る世界は不幸せな世界で、形の無い世界は幸せの世界だと言うのです。つまり、形が有るということは、無いということですから、不幸せで、形が無いということは、有るということですから、幸せなのです。だから、私は、形の世界(物質界・幽界)を嫌い、形の無い意識(神・生命)の世界を好むのです。次のような例えで考えれば、なお、解ってもらえるでしょう。
画家の思いの中に絵の構想があるとします。その思いの中の絵の構想は、無限の可能性と発展性のある生きた状態です。でも、描かれてしまえば、可能性も発展性もゼロになってしまいます。そこには、一時の幸せ感はあっても、永遠の幸せ感はありません。つまり、描かれる前の絵の構想は、無限の可能性と発展性を秘めた楽しい状態ですが、描かれた後の絵は、可能性も発展性もゼロになってしまう虚しい状態というわけです。
真の幸せは、形の無いモノの中から生まれてくることを知ってください。
2016年12月1日更新
世の人々は、
「あの人は、私に、こんな酷いことをした! こんな意地悪なことをした! こんなことをして私を騙した!」
「あの国が、こんな酷いことをした! こんな問題を押し付けた! こんな危険なことをした!」
「病気や事件や事故や自然災害によって、私は、苦しめられている!」
「矛盾多い社会が、私を苦しめている!」
「こんな酷い権力者によって、私たちは、苦しめられている!」
と、泣きごとをいいます。でも、良く考えてみてください。それは、人が、社会が、国が、自然が、しているのではなく、自分がしているのです。
こう言うことです。
この宇宙には、主観宇宙である自分の宇宙しか無いのです。自分の宇宙しか無いなら、どうして、外側のモノが、自分に苦しみを与えましょうか? 全部、自分が与えたのです。それは、自分が成長したいからです。
自分の欠点は、自分が良く知っているのです。だから、自分が自分に課題を与え、成長させようとしているのです。あなたは「苦しい! 苦しい!」と言いますが、その苦しいドラマの筋書きは、自分が書いたのです。また、そのドラマを演じる役者も、自分が連れて来たのです。そして、演出まで、自分がしているのです。そのドラマに出てくる人たちは、あなたが書いた筋書きどおり演じてくれているのです。だから、人を、憎んでも、恨んでもならないのです。その役者さんは、あなたのために憎まれ役を演じてくれているのですから・・。
このように、自分が仕組んだドラマの中で、成長してゆくようにできているのが自己完結型宇宙なのです。それは、誰が仕組んだのでもない、自分が仕組んだのです。相手が「嫌な」芝居をしてくれなくては、自分の中にある「嫌な」欠点に気付けないからです。人の振り見て、我が振り直せるのは、自分の欠点を見せてくれる人がいるからです。
よく、「人に騙された!」といって泣き言を言う人がおりますが、自分の中に人を騙したい思いがあるから騙されるのです。責める人、怒る人、騙す人、憎んだり、恨んだりする人を見て、腹が立ったり、嫌な気分になるのは、その嫌なモノが自分の中にあるからです。嫌なモノを見せてくれる人は、自分なのです。自分の欠点に気付くために、自分が自分に見せているのです。このように、自己完結型宇宙の学びは、全て、自分が計画しているのです。
更に、こういうことも言えます。
役者さん達も、それぞれ主観宇宙を持っているのです。役者さん達から見たら、私は役者さん達が連れてきた役者なのです。彼らは、私を通して成長するのです。役者さん達が成長すれば、私は要らなくなるわけですから、私は役者さん達の前から消えて無くなるのです。また、私が成長すれば、役者さん達は要らなくなるわけですから、私の前から役者さん達は消えて無くなるのです。自己完結型宇宙は、そういう仕組みになっているのです。
2016年12月15日更新