無いモノが、無いモノを生み出すことは絶対できません。無いモノは、有るモノが生み出すのです。では、無いモノを生み出すことのできる人間は、有るモノということになるでしょう。何せ人間は、ビル・自動車・飛行機・コンピューター・戦争・病気・悩み・苦しみなど、沢山の無いモノを作っているのですから・・・。では、有るモノとは何でしょうか? それは、神であります。ということは、人間は、神であるということになります。でも、神は、戦争や病気や悩みや苦しみなどを作るでしょうか?・・・
運転経歴の浅い者が危険な運転をするように、肉体の運転経歴の浅い者も危険な運転をするのです。同じように神の子であっても、幼いうちは、どうしても醜いものを創ってしまうのです。しかし、幼い子も、いずれ、親になれば美しいモノを創るようになるのですから、幼い子だからと言ってバカにしないことです。
2016.01.03
この宇宙の仕組みを創られた神の凄さは、筆舌にしがたいものがあります。その一つが、「理解力によって宇宙が進展してゆく」という仕組みです。この意味は、あまりにも深いため、理解するのは容易でないかも知れません。
でも、知ってほしいのです。
したがって・・・
このように、理解力が、すべてを決めているのです。このことが、心の底で解ったら、もう、現象の話は勿論、現象の質問もしなくなるでしょう。
2016.01.10
サタン(自我・肉我)の常套手段は、人の気持ちを萎えさせること、落ち込ませること、不安にさせること、心配させることです。そうすれば気弱になりエネルギーが低くなるので、彼らは活動しやすくなるからです。これに打ち勝つには、心を強くすることです。つまり、原子核を増やすことです。原子核が増えればエネルギーが強くなるので、サタンに負けなくなるのです。
原子核を増やすには、厭なことをやることが一番ですが、手短な方法としては、寒い朝、勇気を持って寝床から出ること、勇気を持って冷たい水で顔を洗うこと、勇気を持って寒風の中 散歩すること、勇気を持ってジョギングすること、などが挙げられましょう。勇気を持ってという意味は、強い気持ちでということですが、強い気持ちでやれば不思議に原子核が増えるのです。
手短に心を強くするもう一つの方法は、何事も面倒がらないですることです。つまり、腰軽になることです。たとえば、いちいちしゃがんですること、いちいち踏み台を持ってきてやること、いちいち測りながらすること、いちいち戸を閉めに行くこと、いちいち出向くこと、それも厭わず繰り返すことです。確かに要領は悪いかも知れませんが、要領の悪い方が原子核を増やせるのです。これは、小さなことと思うかも知れませんが、ものすごく、心を強くすることができるのです。
病気は、心の弱い人がなりやすいのです。気にしすぎる人、クヨクヨ考える人、心配性の人、何でも悪く受け取る人、妄念を作り上げる人などは、心の弱い人です。心が弱いのはエネルギーが弱いからであり、また、エネルギーが弱いから心が弱くなるのです。心の強弱とエネルギーの強弱は比例するのです。エネルギーは心であり、心はエネルギーだからです。
今、病気で苦しんでいる人は、ぜひ、心を強くして欲しいと思います。薬を飲んで癒すのは他力ですから根本治癒に結びつきませんが、心を強くして癒すのは自力ですから根本治癒に結びつくのです。これは、肉体的な病気で苦しんでいる人は、勿論、精神的な病で苦しんでいる人にも言えることです。小さなことと思わず、ぜひ、日常生活の中で心を強くして欲しいと思います。
2016.01.17
「何かを認めてやれる者だけが、原因者になれるのです」、だから、神は、表現宇宙を創造し、それを認めることで原因者になろうとしているのです。ということは、今、人間が表現宇宙を認めているということは、人間は、原因者である証ではないでしょうか? つまり、人間が神である証ではないでしょうか?
私たちが存在できるのは、結果を認めて原因者になれる意識を持っているからです。ということは、自分の意識が、宇宙(何かを)を認めたとき、すでに原因者になっているということです。
原因の原因は、意識される前の状態です。しかし、意識される前の状態は、存在の範疇にないので何の意味もありません。だから、自ら幻を創造して幻を認め、原因なき原因者になろうとしているのです。それは、永遠に幻を認め続けなければ、永遠の自分を維持できないからです。
「認められるものが無くては、原因者になれない!、つまり、認められるものがあるから原因者になれる!(認める者が存在できる!)」というのは、実に滑稽な話ではないでしょうか?
2016.01.24
もし、姿形も無く、五感も無く、意識だけの自分なら、あなたは、「自分」のことを何と思うでしょうか? 恐らく自分が解らないでしょう。だから、神は、形を持たせ、自我を持たせ、自分が何なのか解るようにしたのです。でも、私たちは、そのために、本当の自分を見失ってしまいました。形を持つと形に惑わされ、意識の自分を見失ってしまうのです。今、私たちが苦しんでいるのは、形に惑わされ意識の自分を見失ったからです。でも、それさえも、神の愛です。なぜなら、その苦しみが、本当の自分を発見させるからです。
今、私たちは、自分の意識を感じています。感じられるのは、自分が意識だからです。自分が意識でなければ、自分が意識だと感じられないはずです。このことが解った人のみが、自分の意識が全てのモノを創っていることが解るのです。なぜなら、自分の意識が無くなれば、妻も、子も、地球も、宇宙も、すべて消えてしまうからです。
人間も、神も、宇宙も、何もかも、自分の意識の産物なのです。では、その意識の自分とは、一体、何者なのでしょうか?・・・ どこから来たのでしょうか?・・・ どこから生まれたのでしょうか?・・・確かに自我を持ち、自分が意識であることは解りましたが、自分の意識の出処が解らないのです。探っても探っても、自分の意識が、どこから来ているか、源が解らないのです。自分自身、意識でありながら、自分の意識の出処が解らない、こんな、もどかしいことがありましょうか? でも、それで良いのです。解ったら、終着駅に着いたことになるからです。終着駅のある有限の旅は、つまりません。だから、永遠に終着駅の来ない旅、つまり、自分の意識の出処が永遠に解らない旅が楽しいのです。
自分の意識の謎解きは、永遠にできません。永遠に解けないがゆえに、私たちは、幸せなのです。
2016.01.31
絶対という言葉は、対がない!、相手がない!という意味で、一つを意味する言葉ですから、絶対宇宙は、確定された宇宙です。その絶対宇宙は、何もかも揃っている総合された宇宙ですから、無限の創造性と、無限の可能性と、無限の発展性が、秘められているのです。ゆえに、真実の宇宙と言えるでしょう。対して相対という言葉は、対がある!、相手がある!という意味で、複数を意味する言葉です。ゆえに、相対宇宙は、不確定な宇宙です。不確定なるがゆえに、確実な創造性も、確実な可能性も、確実な発展性もない非真実の宇宙、つまり、幻の宇宙なのです。このように言うと、相対宇宙は存在価値が無いように思えますが、存在価値は絶対宇宙と同等なのです。なぜなら、不確定宇宙が無くては確定宇宙の存在意味が無いし、確定宇宙が無くては不確定宇宙が存在できないからです。この二つの宇宙の存在価値を真に高められるのは、不確定宇宙と確定宇宙が相俟って中庸宇宙に姿を変えた時です。私たちの目的は、その中庸宇宙を創ることと、そこに帰ることなのです。
2016.02.07
よく幽界の話を聞きたがる人がいますが、意識の高さ(理解力の高さ)によって進展してゆく階層宇宙のことを、どうしてお話できるでしょうか? オレンジ色と黄色との間には無限の色があるのです。ドとレの間には無限の音があるのです。同様に、表現宇宙にも無限の階層があるのです。その無限の階層の話を、どうしてできるでしょうか?・・・。私たちが知るべき話は、そんな幻の世界の話ではなく、真実の世界の話ではないでしょうか?・・・。
自分の宇宙しか無いと知った者( 唯我独尊(存)の意味を知った者 )は、もう、幽界の話や、過去世の話や、物質化現象の話や、UFOの話などはしないでしょう。なぜなら、実在しない幻の話をしても何の意味も無いからです。
この宇宙で本当に存在するのは、真実の宇宙(自分の宇宙)だけです。なのに、幻の話に惑わされるとは、どういう了見なのか? よく自省してほしいものです。
2016.02.14
今、どんな苦しい環境にあろうと、そんな苦しみなど笑い飛ばしなさい。どうせ夢幻のドラマにしか過ぎないのですから・・・。この世のどんな出来ごとも、みな、消えて無くなる夢幻です。そんな夢幻のために心を痛めるなど愚かです。さあ、真実のために生きましょう! 真実のために生きるとは、本当の自分に生きるという意味です。生命なる、神なる、自分に生きるという意味です。
夢幻に生きている者は、死人なのです。本当の自分に生きている者は、生き人なのです。ぜひ、生き人になってください。
2016.02.21
※ この宇宙で確かなモノは、自分の意識です。この意識だけが、本当に有るモノなのです。その意識が望んでいるモノは、真の幸せです。幻に生きていては、一時の幸せは得られても、真の幸せは得られません。どうか、真実のために人生を使ってください。
この表現宇宙に「ああだ! こうだ!!」と言える宇宙は無いのです。なぜなら、この表現宇宙は、どこまでも不確定な宇宙だからです。ゆえに、普遍性もあり得ないし、再現性もあり得ないし、客観性もあり得ないのです。ただ、その中にあって、一つだけ確かなことがあります。それは、今、自分と思えているモノ(意識・想い)です。これだけは、確かに存在しているのです。しかし、それ以外は、みな、幻です。その自分と思えているモノが、どのような理解力を持ち、どのような確信に基づいて、どのような想念を使うかによって、自分の宇宙の中に自分独自の絵を描くことができるのです。事実、理解力の無いモノ(人間)は、迷った想念を持ち、迷った確信に基づいて(自分を人間として誤解し)、幻の自分の宇宙の中に様々な苦しみの絵を描いているし、理解力のあるモノ(覚者)は、真実の自分の宇宙の中に素晴らしい幸せの絵を描いているではありませんか。このように、真実の自分を知ったモノだけが、究極の幸せが与えられるようになっているのが、唯我独存(尊)の宇宙なのです。これは、「自分の思いだけが唯一真実である」と理解できたモノだけに与えられる褒美と思ったら良いでしょう。
そうなのです。この宇宙で確かなことは、今、自分と思えている自分の意識、つまり、思いであり、その思いから創られた宇宙だけです。その宇宙に、幸不幸があるのでは無く、そのモノの理解力に基づいて産まれる幸不幸があるだけです。しかし、その幸不幸も、そのモノの理解力の成長と共に進化して行くのですから、今の理解力に満足していてはいけないのです。私たちは、常に、理解力を高めてゆく必要があるのです。それは、どこまでも、そのモノの理解力が幸不幸を握っているからです。
まだ、解っていない人がいるようなので警告しますが、現象の中に真の幸せを見つけることは絶対できません。したがって、過去世の話やUFOの話や幽界の話やこの世の現象の話に興味のある者は、小山の大将になることはあっても、大山(お山)の大将になることはありません。しかし、真実を知ろうとしている者は、大山(お山)の大将になれるのです。なぜなら、現象を追いかけているモノは真の自分を発見することはできませんが、真実を追いかけているモノは真の自分を発見することができるからです。さあ、意識を高め、理解力を高め、真の自分を発見しましょう! その者は、もう、唯我独存(尊)宇宙の大山(お山)の大将なのです。
どうか、大山(お山)の大将になって、高い山から下界を見下ろしてください。
2016.02.28
自分の家の中に無いモノは、どんなに家の中を探し回っても見付けることはできないのです。同様に、自分の心の中に無いモノは、どんなに自分の心の中を探し回っても見付けることはできないのです。したがって、家の中に無いモノは出せないのです。つまり、心の中に無いものは出せないのです。真の優しさを表そうと思っても、自分の心の中に真の優しさが無かったら表わせないのです。たとえ、表したとしても、それは、偽善になってしまうのです。同様に、自分の心の中に神が無かったら、神は、現せないのです。では、どうすれば、現せるようになるか? それは・・自分で自分の心の中に作るしかないのです。自分で自分の心の中に作るしかないという意味は、自分で体験して作るしかないという意味です。すなわち、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、楽しいこと、嬉しいこと、感動的なこと、など、様々な人生体験をし、さらに、瞑想して、原子核を増やすしかないということです。体験して築き上げたものだけが、真に自分のものとなり、現せるようになるのです。だから、気の遠くなるような人生体験(輪廻転生)が必要になってくるのです。付け焼き刃では、ホンモノは現せない! ということです。
2016.03.06
キリスト教で言われている「最後の審判」は、世の終わりに魂の選別がなされるという意味らしいですが、この世に最後などあるわけがないですから、信じてはなりません。たとえ、一時、それらしきことがあったにしても、選別は誰かがするのではなく自分自身がするのです。といっても、皆さんは、すでに、自分の理解力でニセモノとホンモノを選別し、ここに来たのですから、改めてする必要はないのです。
本屋さんに行ってごらんなさい。精神世界の本や宗教の本がところ狭しと並べられています。また、インターネットでも、そのたぐいの情報が飛び交っております。その中からホンモノを選ぶのは、砂浜に落としたコンタクトレンズを探すくらい難しいでしょう。なぜなら、殆どが自我で書かれたニセモノの本ばかりだからです。皆さんは、その中から私の本を選んだわけですから、それはそれは大変な選別をしてきたわけです。これは、自分を大いに褒めてやって頂きたい、と同時に、その苦労に報いるためにも、ぜひ、真理を自分のモノにして帰って欲しいと思います。
これは、外側の選別だけではなく、内側のニセモノとホンモノの選別についても言えることなのです。すなわち、自我(サタン)と真我との選別です。ぜひ、外も内も間違いのない選別をやってください。
2016.03.13
あなたの出したモノは、どんなモノであろうと、必ず、あなたのところに返ってくるようになっているのが、宇宙の法則(原因と結果の法則とエネルギー均衡の法則)の仕組みです。世の人々は、人から憎しみを受けたといって腹を立てますが、それは、自分が出していたからです。「私は、そんな覚えはない!」といいますが、原因を出していない人の所に結果が返ってくるわけがないのですから、間違いなく自分が出していたのです。「お~い!」と言った山彦は、必ず「お~い!」と返ってくるのです。つまり、憎しみの「お~い!」と言った山彦は、憎しみの「お~い!」と言う山彦となって返ってくるのです。自分の中にないモノが出せない理由は、自分の倉庫にない在庫品は出しようがないからです。
人の欠点は気づいても、自分の欠点は、なかなか気づかないものです。だから、気づかせるために、自分の欠点を人の欠点として見せられるのです。もし、あなたが、人の欠点を見せられ嫌な気分になったら、それは、自分の欠点を見せられ嫌な気分になったと思ってください。そのように思えれば、欠点を気づかせてくれた相手にも、宇宙の法則にも、感謝できるでしょう。
人の振りみて我が振り直せる仕組みは、自分を成長させてくれる有り難い仕組みですが、これは、誰かが仕組んだのではない、自分が仕組んだのです。
「自分で鏡を作り、その鏡に自分の姿を写して自分の欠点を見つけ、その欠点を修正し自分が成長してゆく」この表現世界は、正に自己完結型の有り難い学習道場であります。
2016.03.20
認める人間がいなければ、認められる神は存在できないのです。だから、神は、認識者である人間を創り、自分を認めてもらっているのです。その意味では、人間と神は相身互いの関係にあると思っていいでしょう。ゆえに、神が上位で人間が下位だと言ってはならないのです。いや、人間と神は同等なのです。つまり、人間 イコール 神、神 イコール 人間なのです。だから、私は、堂々と、「人間は神である! 神は人間である!」と断言するのです。
認識されない存在(神)は、どんなに偉大な存在であっても、存在の意味はないのです。認識されて、はじめて、偉大さが誇示できるのです。しかも、その認識者(人間)は、被認識者(神)自らがなっているのですから、神の立場から見たら人間は被認識者となろうし、人間の立場から見たら神は被認識者となるのです。でも、神と人間は同一者ですから、どちらが認識者になっても被認識者になっても良いのです。
2016.03.27
自分の想念が作らないものは無いのです。自分の想念が作るから、自分に返ってきて、有るようになるのです。この真理は、なかなか理解できないかもしれませんし、信じられないかもしれません。でも、これは、間違いのない真理なのです。良く自分の苦しみを人のせいにする人がいますが、他人から与えられる苦しみなどないのです。すべて自己責任です。
自分は原因者です。他人は結果体です。結果体がどうして原因者に苦しみを与えることができましょうか。もし、できるなら、先に結果があることになり、この宇宙の秩序は無茶苦茶になってしまいます。そんな無秩序な宇宙を神が創られるわけがないのですから、苦しみが来ないよう、常に、良い想念を使わなければならないのです。
繰り返します。
「自分の想念が作るから有る」のです。それは、あなたの内宇宙の出来ごとであると同時に、外宇宙の出来ごとでもあるのです。なぜなら、「想念は実現の母」だからです。あなたの内宇宙は、あなたの想念が握っていると同時に、外宇宙にも影響を及ぼしているのです。それほど、あなたの想念力は凄いということです。
あなたが、良い想念を使っている時は、白い息を吐いているのです。悪い想念を使っている時は、黒い息を吐いているのです。内宇宙を愛しいと思うなら、外宇宙を愛しいと思うなら、そして、地球を愛しいと思うなら、ぜひ、良い想念を使ってください。
2016.04.03
※ 本来、外宇宙はありません。客観的見方をしている人にだけある宇宙です。誤解なきように・・・。
「神を認めないモノは存在しない!」という理由を説明しましょう。
神が一番に望んでいることは、自分の存在を認めてもらうことです。自分だけ自分の存在を認めても、他に自分を認めてくれるモノがいなかったら、自分の存在はあり得ないからです。認めるモノがいて、はじめて認められるものが存在できるのです。
認められるモノが存在できないのでは、認めるモノが存在できないのも道理です。
認めるモノ = 認められるモノです。
認められるモノ = 認めるモノです。
だから、神を認めないモノは、存在しないのです。
神の存在を認められないモノが、自分の存在を主張するのは痴がましいというものです。神を存在させられないモノが、自分だけ存在させようと思うのは矛盾だからであります。
人類が万物の霊長と言われる所以は、神を認められるところまで進化した生き物だからです。しかし、人類の中にも無神論者のような神を認めない人間もいます。ということは、彼らは存在しないことになるのです。なぜなら、前述したように、神を認めないモノは存在しないからです。
人類の中にも、神を認めない人間がいるわけですが、それはまだそこまでの理解力を持っていないからです。神は自分を認めて欲しくて人類を創ったのですから、その役割が果たせなくては存在意味がないのです。私が理解力の大切さを訴えるのは、理解力が無くては、神を認めてやることが出来ないからです。
もしこの宇宙に、神を認める生き物がいなかったら、宇宙の存在も神の存在もあり得なかったでしょう。幸いなことに、あなた達のような神を認めてやれる者がいるから、宇宙も神も存在出来ているのです。神を認めている者が神を存在させ、認められている神が認めている者を存在させているという相身互いの関係にあるのが、人間と神の間柄なのです。だから神を認めない無神論者は、存在しないことになるのです。神を認める理解力を持った時、はじめてこの宇宙にその者が存在するのです。
2016.04.10
この現象の世界は、有るようで無く、無いようで有り、無いようで有り、有るようで無い、「うなぎ」のような掴みどころのない世界です。それは、この現象の世界に確かなものは何一つ無いからです。しっかり掴んでいたつもりが、いつの間にか手からすり抜けてゆくのがこの現象の世界なのです。ということは、自殺しようと悩むほどの世界ではないということです。あなたが 今 見て感じているモノ、あなたが 今 真剣に演じているドラマ、これすべて消えゆく夢幻です。そんな夢幻のために心を痛めるなど愚かです。だからといって、この世界を軽んじて良いといっているわけではありません。なぜなら、この世界で演じているドラマのすべてが、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの味付け材料になっているからです。
私が言いたいのは、そんな夢幻のために神経をすり減らして欲しくないということです。今あなたがやらねばならないことは、本当にあるモノに生きることです。本当にあるモノとは、あなたの意識です。あなたの意識は永遠になくならないのです。その意識を、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せの中に入れることが、人生の最大の目的なのです。家族のこと、仕事のこと、この社会のことは、すべて幸せを得るための方便です。では、どうすれば幸せの中に入れるか? ということですが、それは「人類の夜明2・3・4」の書の中で述べていますので、じっくりと読んで頂きたいと思います。
2016.04.17
付記・・・何が一番大切なの?
一番大切なのは何なのか? 形なのか? 意識なのか? それは、意識ではないでしょうか・・・。なぜなら、形は一時の自分だけれど、意識は永遠の自分だからであります。では、その意識が欲しているいるものは何でしょうか? それは永遠に尽きない、永遠に色褪せない、究極の幸せです。形がなくても、肉体がなくても、究極の幸せがあったらそれでいいのですから・・・。意識が本当の自分なのですから当然でしょう。
人生の最大の目的は、究極の幸せの中に自分の意識を入れることです。あなたが 今 真剣にやっているこの世のことは、すべて究極の幸せを得るための方便であることを知ってください。
「妄念」という字を見てください。「妄」の字は、上に「亡」と書き、下に「女」と書きますが、下の「女」という字は物質のことを意味し、この世の物質のことを表しているのです。上の「亡」は「死ぬ・消える」ことを意味し、これは幻のことを意味しています。「念」という字は、「今」の「心」と書き、自分の今の心の想いを意味しています。通して解釈すれば、妄念という字は、自分の今の心に「幻の物質を想い描く」という意味になります。想念は実現の母といわれるように、物質の妄念を抱けば波動が落ちるわけですから、苦しい人生になるのは当たり前でしょう。だから、覚者は、妄念を抱いてはならないと、口うるさくいうのです。日本の漢字は、実に真理を的確に表現していると思います。
2016.04.24
注)・・・物質とは、単にこの世の物だけのことを言っているのではなく、表現世界の諸々のことを言っているのです。つまり、人間社会の諸々のことを言っているのです。
よく、自分の苦しみを人のせいにする人がいますが、人から与えられる苦しみなど絶対ありません。自分は原因者(光)です。人は結果体(影)です。結果体(影)が原因者(光)に、影響を与えることなど出来るわけがないのです。もし、与えられるなら、先に結果体が有ることになり、この宇宙の秩序は無茶苦茶になってしまいます。
出すから、入るのです。エネルギー均衡の法則が働いている宇宙において、これは、当然のことなのです。何でもそうですが、出さなければ入って来ないのです。凹が生まれるから、凸が入って来るのです。想念を出さなければ、凹が生まれることがないのですから、凸が入って来るわけがないのです。しかも、このエネルギー均衡の法則は、出した凹と同じ質の凸が入って来るようになっているのです。つまり、悪しき想念(凹)を出せば悪しきモノ(凸)が入り、良き想念(凹)を出せば良きモノ(凸)が入って来るのです。苦しみは、あくまでも自分の想念が生み出した結果なのです。このことは、病気に置き換えてみたら分かりやすいと思います。
病気になった結果があったということは、その結果を作った原因が自分の中にあったということです。つまり、悪しき想念(凹)を出していたから、悪しき病気(凸)が返って来たのです。この表現世界は、見えない原因を見える結果として写し出す鏡のようなものなのです。見えない原因とは、心(想念)であり、見える結果とは、この場合 病気です。肉体は鏡なのです。人の心の醜さが、肉体の鏡に病気という姿で写し出されているのです。神は、見えない心(想念)の状態を、見える病気という状態で現し、心の醜さに気づいてもらおうとしているのです。これは、神の慈悲といっていいでしょう。
これは、ゴミについても言えることです。今、地球環境は悪化の一途をたどっていますが、これは、人類の心が汚れているからです。人類の醜い心が、地球環境の悪化という形で現れているのです。醜い心の社会からは、病気も、ゴミも、沢山、生まれるのです。病気の多さとゴミの多さは、その星の進化のバロメーターになっているのです。やがて、人類は、そのことに気付き心を正してゆくでしょうが、その時は、病気も、ゴミも、減ってゆくでしょう。これが、自分が自分に苦しみを与え、その苦しみから過ちを発見し、自分が成長してゆく自己完結型宇宙の仕組みなのです。
2016.05.01
ある時、お釈迦様は、弟子のアルーンに、こんなことを言いつけました。
“アルーンよ! すまないが、あなたの家の近くに落ちている小石を、毎日、一個拾って、私のところに届けてくれないだろうか!?”と・・・。
“はい、分かりました!” 愚直なまでに素直なアルーンは、そう快く返事をすると、何の疑いも持たず、お釈迦様の言われるとおり、毎日、小石を届けたのです。それは、お釈迦様が亡くなられる日まで、四十年間続いたのです。ちなみに、アルーンの住まいとお釈迦様の住まいとの距離は、歩いて片道一時間ほどかかったのですから、結構な距離だったわけです。なぜ、お釈迦様が、アルーンに、このようなことを命じられたのか? アルーンの立場になって考えてみてください。
私が、学びの友に言いたいことは、
それも、疑らないで、素直に、根気よく、やり続けることです。これは、何の変化が起きなくても一生やり続けて欲しいと思います。やり続ければ、間違いなく大きな果実を手にして帰れるでしょう。
2016.05.08
※ この小話の中には、多くの真理が隠されているので、ぜひ、発見して欲しいと思います。
実際に有るものだけが、実際に有るのです。この言葉を、心の底で噛みしめて欲しいと思います。では、実際に有るモノとは何でしょうか? それは、永遠に無くならない本質のことです。その本質のことを、生命とも、神とも、意識とも、エネルギーとも、呼んでいるのです。その本質が、形を生み出しているのです。でも、その形は、実際に有るものではないのです。なぜなら、一時の存在だからです。一時の存在ということは、幻であるということです。幻だから、消えて無くなってしまうのです。見えるモノ、触れるモノは、みな、幻なのです。見えない、触れない、永遠に無くならない本質が、実際に有るモノなのです。ということは、消えて無くなってしまう人は、幻と言うことになるでしょう。そう・・人は幻なのです。
実際に有るものは、本質です。その本質が、想い、考え、言葉を話し、行動しているのです。ということは、今 考え、言葉を話し、行動している人は、実際に有る本質ということになるでしょう。人の形はしていますが、その実体は、本質なのです。だから、あなたは、間違いなく、生命であり、神であり、意識であり、エネルギーなのです。
誰もが、形に惑わされて本当の自分を見失っているのです。さあ、目覚めましょう。あなたは、本当に有る本質なのですから・・・。
2016.05.15
私たちは、宇宙がどうなっているか? 幽界ってどんなところか? 高級霊って何なのか? 宇宙人って何なのか? そんなことを学ぶ必要はないのです。なぜなら、そんなモノは、みな、幻だからです。幻を学んで、一体、何の益があるのでしようか? 私たちは、本当に有るモノだけ学べば良いのです。では、本当に有るモノとは何でしょうか? それは、永遠に無くならない意識です。その意識は、自分が持っているわけですから、自分から学べば良いのです。では「意識の何を学べば良いか?」ということですが、それは、「意識は何を求めているか? 何を欲しているか?」ということを学ぶことです。
私たちの意識は、何を欲しているのでしょうか? それは、幸せではないでしょうか それも、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せを欲しているのではないでしょうか? では、その幸せを得るには何が必要でしょうか? 肉体が必要でしょうか? 形が必要でしょうか? 物やお金が必要でしょうか? 地位や名誉や権力が必要でしょうか? 高等数学を知る必要があるでしょうか? 宇宙人やUFOを知る必要があるでしょうか? 幽界を知る必要があるでしょうか? 宇宙の謎を知る必要があるでしょうか? いいえ、必要なのは、原子核(魂)を大きくすることだけです。原子核(魂)を大きくすれば、自動的に幸せの中に入れるからです。
原子核(魂)を大きくするには、
この三つの方法については、本でも、勉強会でも、詳しく述べているので見て欲しいと思います。
この宇宙で最も確かなことは、本当に有るモノだけが本当に有るという真理です。本当に有るモノとは、永遠に無くならない意識であり、その意識が感じる永遠に無くならない幸せです。意識も、幸せも、永遠に無くならないのです。永遠に無くならないがゆえに、永遠に無くならない幸せは、永遠に無くならない意識に受け取ってもらいたいのです。永遠に無くならない幸せは、永遠に無くならない意識に感じてもらいたいし、永遠に無くならない意識は、永遠に無くならない幸せだけが欲しいのです。
私が外側の現象を嫌うのは、外側のモノからは、決して、幸せは得られないからです。幸せは意識が感じるのですから、意識が、直接、幸せを受け取ったら良いのです。だから、肉体も必要ないし、形も必要ないのです。意識と幸せの間に、何も挟む必要はないということです。このことが解った人は、もう、肉体に囚われることがなくなるし、外側の何モノも欲しがらなくなるでしょう。
2016.05.22
「この宇宙には、たった一つの神しか存在しない!」というのは、絶対真理であります。この絶対真理を念頭に、何かが存在するための絶対条件を考えてみましょう。
「何かが存在するためには、その何かを認めてくれる認識者が絶対必要です。」すなわち、「神が存在するためには、神を認めてくれる認識者が絶対必要です。」この絶対条件も真理です。なぜなら、認めてくれるモノが存在しなくては、認められるモノは存在できないからです。でも、良く考えてみてください、「この宇宙には、たった一つの神しか存在しない!」という絶対真理があるならば、神を認めてくれる認識者が他に存在できないはずです。もし、他に認識者が存在するなら、「この宇宙にたった一つの神しか存在しない!」という真理は崩れ去ってしまうからです。これは、神にとって、実に、困ったことです。なぜなら、前述したように、神が存在するためには、神を認めてくれる認識者が絶対必要だからです。
神は、悩んだ末、次のような苦肉の策をあみだしました。それは、自分の分身を創り、その分身から自分を認めてもらうという方法です。そのためには、分身に自分と同じ能力を持たせ、かつ、客観的立場に立たせる必要がありました。しかも、神の記憶を持ったままでは意味が無いので、分身から記憶を奪う必要がありました。そういうわけで、神は、分身に自分と同じ能力を持たせ、かつ、記憶を奪い、さらに、客観視できる立場にして、表現宇宙に送り出したのです。その時点で、神と分身は同等の立場になったのであります。
人が、なぜ、神なのか? それは、神と同じ能力を持つ認識者だからです。
神(原因者)・・認識する者 →→→→ 人(結果者) ・・認識される者
↓
認識する
神(結果者・被認識者)・・認識される者 ←←←← 人(原因者)・・認識者
↑
認識し返す
人が存在しなくては神が存在できない、神が存在しなくては人が存在できない、この相身互いの関係にあるのが神と人なのです。だから、私は、「人と神は対等である!」というのです。これが、絶対真理を支える絶対真理の必要な理由であります。
2016.05.29
神は見えない。でも、見えない神が信じられてこそ、はじめて、真の信仰者といえるのです。病に犯されていた娘が、こんなことをいっていました。「病気を治してくれたら、私は神様を信じます」と・・・。これでは、神を試していることになり、真の信仰者とはいえないのです。とはいえ、やはり、何か目に見える形で信じたいのが人間でしょう。毎日、瞑想していても、何の変化も起きないようでは、「本当に原子核が増えているのか?」と、疑いたくなるのも無理ないからです。悲しいことですが、私たちは、目に見える変化がなくては、なかなか信じられないのです。でも、社会体験をし、瞑想をし、思索をしていれば、間違いなく、原子核は増えているのです。
このように、真理を実践している人は、実際に、目に見える形で変化が起きているのです。もし、「最近、あなた変ったわね」と、人にいわれたら、原子核が増えた証しですから、大いに喜んでほしいと思います。どうか、何の変化が起きなくても、日々、原子核を増やしてください。あなたは、間違いなく、未来に向けて布石を打っているのですから・・・。
2016.06.05
本当の自分を、つまり、神の自分を自覚すれば、変性変容が起きることは、これまで、何度も述べてきたところですが、この変性変容の程度は、自覚の深さによって違ってくるのです。浅い自覚には、小さな変化が・・・、深い自覚には、大きな変化が・・・神の自覚には、際限がないので、変化も際限なく起き、際限なく続くのです。その意味では、学んでいる皆さんにも、間違いなく変化が起きているはずですが、変化の程度が少ないため、なかなか実感できないのです。でも、原子核を増やす三つの方法を実践していれば、間違いなく変化は起きているのです。その証拠に、最近、学びの友の中に「自分の身で」変化を体験した人が出てきています。これは、私の言っていることの正しさを示す貴重な体験と言えましょう。「自分の身で」という表現をしたのは、我々の身体(環境)は、神の表現媒体として創られたものだから、自分が神の分身だと気付けば、そく、環境(身体)に変化が現れるようになっているからです。
自分が神であると気付くことの大切さ、これは、実際に、我が身で体験した者でないと分からないでしょう。正に、目からウロコの驚きの体験です。その実体験したメールを学びの友から頂いたので、そのままご披露することにしましょう。きっと、他の学びの友の励みになると思います。
=メールを頂いた「Aさん」の体験談=(本人の了解済み)
日々の生活において、「社会体験」「瞑想」「思索」を続けていますが、ずっと、親指の腱鞘炎と右腕の痛みが取れずにおりました。仕事が縫製業で指・腕を酷使する作業が延々と続く為、職業病と半ば諦めていた所もあり、これを「病気」だと思わずにいたのです。それに加え、1週間前から鉄線で体をぐるぐるに巻かれ締め付けられるようなひどい痛みとしびれが起こり、激痛でおかしくなりそうな状態になりました。こんなにも神に意識を向けているのに、なぜ、こんな痛みが起こるのだろうと思索をした所、「真剣に瞑想しなさい!」という答えが返ってきたので、「吾神なり!」のマントラを唱え(想い)ながら真剣に8時間ほど瞑想した所、痛みが少し和らぐと伴に、自分の足りなかった部分にも気づくことが出来ました。
瞑想をして痛みが減るということは、この痛みは元々無い物だと改めて気づき、かとうさんの書かれた「病で苦しんでいる人の為の小冊子・最新のオーディオブック版」を何回も聴きました。寝ている時もずっと流していました。特に、第三章が心に響きました。おかげで、病気に対して間違った認識をしていたことに気づきました。たとえば、神が作られたこの身体は、使えば使うほど強靱・健全になる、使えば使うほどに進化・成長していく、肉体細胞を支配している生命に全託しておけば自然と蘇生・修復してくれる等々・・・本当に目から鱗が落ちる思いでした。私の場合、毎日の仕事で指や腕を使っているから痛くなっても仕方ないと諦めていたこと自体が間違いだったのですね。また、痛みがあるので、ストレッチをしたり運動をしたり、痛みを無くそうと自我の自分が躍起になっていたのも間違いだったのですね。この肉体細胞一つ一つが神の意識核で作られているのだと、ストンと腑に落ちた瞬間、「私のこの意識も神の意識であり、この肉体も神の意識で作られている。あーー私は全て神から出来ているんだーー!!」という想いが込み上げ、感動・感動・感動の波が押し寄せてきたのでした。そして 「なーんだ。私って神以外の何者でもないんだ!」と可笑しくなって一人でクスクス笑ってしまったのですが、次の瞬間ボロボロと涙がこぼれて止まらなくなってしまいました。「私は神だった!」「私は神の意志と意識で出来ている!」この想いが胸の中を熱く・優しく包み込んで涙が止まらないのです。仕事中でしたので、涙を拭うのが大変でした。
今日、この身体を神に全託し、迷いや不安を全て捨て、神の力を心から信じるように切り替えたら、あんなに痛みがあったのにピタッと治まってしまいました。もう、指も腕も痛くないのです。時々電気が走るような感覚もありますが、「幻が騒いでいるねー」と受け流していたらそれもすぐに無くなりました。今は本当に楽なのです。
自分が問題を提起し、自分の想念が痛みを作って自分の過ちに気付かせ解決した、貴重な体験をさせてもらいました。全て自己完結型の宇宙なのですね。今回の体験で、魂が大きく成長出来たと実感しております。日々の原子核を増やす小さな努力は、必ず変性変容をもたらすということも実感できました。かとうさんの教えの通りでした!
これからもこつこつと努力を続けていきます。これから先、仕事で体を酷使しても、もう怖いことはありません。使えば使う程に私の身体は進化・成長して強靱になっていくのですから・・・完全なる神が作った完全な身体ですから100%全託します。
このAさんの体験は、「自分が神である!」と、気付くことによって身に変化の起きた貴重な実例です。気付きと、自覚とは、紙一重なのです。これは、当人の心の微妙な味わいなので、自覚と気付きの違いを判断することは出来ませんが、一つの節目を超えたことだけは確かでしょう。「自分が神である!」と自覚した深さの程度は、本人にも分らないのです。でも、Aさんが体験した身の変化は、普通の意識状態で起きる変化でないことだけは確かです。このように、日々、原子核を増やしていれば、間違いなく変化が起きてくるのです。
神は完全です。偉大な力を持っているのです。私たちは、その神によって創られた分身ですから、病気になるわけがないのです。私たちの身体は、ものすごい許容量と潜在能力を持っているのです。だから、使えば使うほど頑健になるし、使えば使うほど働くようになるのです。こう思ってください。
「完全な神によって運営されている身体は、完全な働きしかできないのだと・・・だから、自分の肉体は、健全・健康・完全なのだと・・・」
2016.06.12
私たちが、真に望んでいるモノは何でしょうか? それは、究極の幸せではないでしょうか? その究極の幸せを得るためには、形から、見えるモノから、現象から、離れなくてはならないのです。なぜなら、見えるモノ、聞こえるもの、感じるモノ、つまり、現象は、みな、幻だからです。幻を追いかけ、どうして、幸せが得られましょうか? しかし、私たちは、気の遠くなる年月、見える世界で生きてきたために、現象に興味を持っていると、どうしても、見える幸せを追いかけてしまうからです。
この宇宙に、どうして、見えるモノと見えないモノがあるのでしょうか? それは、価値あるモノが、何かを知るためなのです。例えば、この社会の人々は、お金や、宝石や、美術品などが、価値あるモノだと思っています。そう思うのは、それらのモノがあれば、幸せになれると思っているからです。でも、本当に、それらのモノが幸せにしてくれるでしょうか? いいや、それらのモノは、幸せの媒体であって、実際に、幸せにしてくれるのは、心なのです。幸せ感というのは、心が受け取って得られるからです。では、お金や、宝石や、美術品に価値があったのでしょうか? 心に価値があったのでしょうか? 心に価値があったのです。お金や、宝石や、美術品は見えますが、心は見えないのです。ということは、本当に価値のあるモノは見えないモノであるということになるでしょう。では、私たちは、何を大切にすべきでしょうか? 見えるモノでしょうか? 見えないモノでしょうか? 見えないモノですね。すなわち、「意識・魂・心・想念」なのです。世の人々は、見えるモノ(現象)に目が狂わされ、このことを忘れているのです。
さて、私たちは、価値あるモノは見えないモノであることを知りました。では、その見えないモノは、この宇宙に幾つ有るのでしょうか? 見えないモノは、一つしか無いのです。でも、言葉にしてみたら、沢山の見えないモノがあるのです。例えば、キリストも、ブッタも、見えない、生命も、無限も、永遠も、愛も、エネルギーも、意識も、魂も、心も、想念も、見えない、その見えない総代表を、私は、神と呼んでいるのです。だから、言葉が違うからといって、見えないモノを違うモノだと思ってはならないのです。宗教戦争してはならない理由は、見えないモノは同じ一つの神だからです。
幸せは見えないのです。神は見えないのです。物質は見えるのです。これで、この宇宙に、どうして、見えるモノと見えないモノがあるのか、また、私が、どうして、現象を嫌うのかも分かったでしょう。本当の幸せは、遠くにある見えるモノの中にあるのではなく、手よりも足よりも近くにある見えない心の中にあるのです。
2016.06.19
注・・・
確かに見えないモノは幸せの大元ですが、その見えないモノは見えるモノと一対になって存在しているのです。つまり、見えるすべてのモノは、一つの見えないモノによって、つまり、神によって存在させられているのです。ということは、すべてのモノの中に幸せがあるということになるでしょう。それは、表を見るか(物質・現象界・幽界を見るか)、裏を見るか(意識・魂・心を観るか)で、幸せにも不幸せにもなるという意味なのです。
「想念は実現の母である!」という言葉を、もう一度、噛みしめて欲しいと思います。
何度も言いますように、想念は、何でも生み出すのです。何でも実現させるのです。その想念を、私たちは持たされているのですから、私たちは、すでに救われているのです。こんな凄い宝物を持たされているというのに、人類は、その宝物を正しく使っていないのです。想念を正しく使ったら、戦争も、事件も、事故も、病気も、災害も、一切、無くなってしまうのです。もう、防災費も、軍事費も、保険をかける必要も、医療費を払う必要も、規則も、法律も、警察も、検事も、弁護士も、裁判官も、刑務所も、何も要らなくなるのです。しかし、悲しいことに、今の人類には、それが解らないのです。「ならば教えればいいじゃないか!」と言うかも知れませんが、こればかりは、教えて解るものではないのです。なぜなら、どんなに良い事を教えても、受け皿がなければ受け取ることができないからです。だから、私は、受け皿の備わった人達に向けて言っているのです。この更新集を見ている人は、その受け皿の備わった人達なのです。
どうか、想念の凄さを再認識してください。そして、あなた達だけでも良いから、想念を正しく使うようにしてください。それが、人類に、地球に、宇宙に、貢献することになるのですから・・・。勿論、正しい想念を使っていれば、自分も、家族も、幸せになれるのは当然です。
2016.06.26
注・・・
近年、台風・豪雨など、水の被害が多くなっていますが、なぜ、多くなっているのでしょうか?
「物質」の象徴的存在として「水」があります。その水の被害が多くなっているということは、人類が、物質に偏っているためである、と受け取れないでしょうか? そうなのです。自然界は、「あなた達は、物質に偏り過ぎていますよ!」と警告しているのです。
ここに一本の糸があったとしましょう。その糸は、本源の宇宙(真実の宇宙・絶対宇宙)においては見えないため、存在しているように思えないのです。でも、見えなくても、思えなくても、その糸は、間違いなく存在しているのです。なぜなら、見えないのが真実の証だからです。真実は、見えないのです。でも、それでは、存在意味が無いので、神は、波動を下げて見える無数の糸にし、表現宇宙に放出したのです。だから、この表現宇宙には、波動の違う無数の糸が存在しているのです。例えば、クオークも、中性子も、陽子も、電子も、分子も、細胞も、名前は違うが、同じ一本の糸です。今後、新しい素粒子が発見され、色々な名前がつけられるでしょうが、どんな名前がつけられようと、みな、同じ一本の糸の現れに過ぎないことを忘れてはなりません。
神も、仏も、生命も、エネルギーも、光も、同じ一本の糸の現れです。キリストも、ブッタも、アラーも、みな、同じ一本の糸の現れです。土も、細菌も、ソマチットも、花も、犬も、人間も、みな、同じ一本の糸の現れです。当然、白人も、黒人も、黄人も、赤人も、緑人も、同じ一本の糸の現れです。だから、形や名前や性質が違うからといって、差別したり敵対したりしてはならないのです。わざわざ、探査機を飛ばして宇宙の塵を拾ってくる必要がないのも、地球の塵も、宇宙の塵も、みな、同じ一本の糸の現れに過ぎないからです。真理について論議してならないのも、どんな論議の対象物も、みな、同じ一本の糸の現れに過ぎないからです。
人類は、名前に囚われ、何が大切なのか見失っているのです。大切なのは、名前を知ることではなく、真実の中身を知ることです。その真実は、一つしか無いのです。すなわち、一本の糸しか無いのです。神しか無いのです。だから、私は、沢山のモノを知る必要はない、たった一つの神を知れば良いと言うのです。
2016.07.03
私たちは、「今」を感じています。この「今」が有る事実は、誰も否定できないでしょう。「今」が大切です! と、私が言うのは、「今」しか無いからです。つまり、「今」が原因点だからです。ということは、「今」は永遠に有り続けるということです。
これは、
この数式が証明してくれているのです。この数式が成り立つのは、原因と結果の法則が、この宇宙を支配しているからです。こういうことです。
「今」が有るのは、過去にも「今」が有ったからです。過去の「今」の原因なしに、「今」の結果は有り得ないわけですから、因果の法則が支配している宇宙において、これは、当然でしょう。ということは、次の未来にも、次の次の未来にも、いや、永遠の未来に「今」が有ることになります。これは、過去・現在・未来が、一つだから言えることなのです。これを、因果の法則における三位一体といいます。しかし、三位一体ではありますが、「今」がすべてなのです。なぜなら、今しか実在しないからです。つまり、今が原因点だからです。では、この「今」を、「あなた」に置き換えてみましょう。
今「あなた」がいるということは、過去に「あなた」がいたからです。ということは、次の未来にも、次の次の未来にも、いや、永遠の未来に「あなた」がいることになります。これは、今「あなた」が存在している事実が有る限り当然なのです。このように「あなた」は、永遠に有り続けるのです。永遠に有り続けるがゆえに、今、正しく生きなければならないのです。なぜなら、今、正しく生きなければ、過去を悲惨な過去にし、未来も悲惨な未来にしてしまうからです。
過去は、変えられないと思っていますが、今、正しく生きることで変えられるのです。なぜなら、今、正しく生きられるのは、過去で学んだ成果ですから、その過去は、良い過去に変わってしまうからです。しかし、あなたが、今、正しく生きなければ、過去で学ばなかったわけですから、その過去は、悲惨な過去で終わってしまうのです。ということは、未来も、悲惨な未来が待っているということです。今、正しく生きることが、いかに大切か、これで分かっていただけたと思います。
何でもそうですが、今、何かが有る、今、何かが起きている、ということは、過去で、その原因を作っていたからです。これは、良いことでも悪いことでも同じです。その今は、未来を作っているわけですから、今、正しく生きることが大切になってくるのです。今、正しく生きれば、あなたは、間違いなく幸せになれるのです。今、正しく生きればという意味は、今、正しい想念を持って生きれば、という意味なのです。これは、因果の法則が保証してくれるのですから間違いないのです。さあ、法則を信じ、今、正しい想念を持って生きましょう。
2016.07.10
※
どんな良いことも、悪く受け取れば、悪くなるのです。
どんな悪いことも、良く受け取れば、良くなるのです。
それは、実際に有る真実のみが有るからそう言えるのです。
真実の中に悪は無いのです。
ならば、どちらに生きた方が賢いでしょうか?
あなたは、肯定人ですか? それとも、否定人ですか?・・・
なぜ聖者(覚者)は瞑想をするのでしょうか? その理由を瞑想という文字から探ってみましょう。「瞑想」の「瞑」とは、左辺に「目」右辺に「冥」と書きますが、左辺の「目」は見るという意味で、右辺の「冥」とは見えないという意味です。だから「瞑」とは、見えないモノを観るという意味になります。ここで「観る」という字を使ったのは、見えないモノを見るには、想いで観るしかないからです。
瞑想の「想」の上辺の「相」とは、真相(実相)のことを意味し、下辺の「心」は言うまでもなく人の心を意味しています。だから「想」とは、「真相」は「心」の中にあるという意味になります。したがって「瞑想」の二文字を通して解釈すれば、「心の中にある真相」を「想いで観る」という意味になります。このように、心の中にある真相を想いで観るのが瞑想なのです。
心の中にある「真相」とは、「神・生命・宇宙」のことですが、その真相を知るには、想いで実感するしかないので、大昔より瞑想が行われてきたのです。
瞑想の極意は、想いでなぞることです。いつも言うことですが、今だけが実在です。その実在の今を「わ・れ・か・み・な・り」の想いでなぞれば、想いは創造の力ですから、神を現すことができるのです。つまり想いで原因を作れば、必ず結果が現れるということです。この瞑想は地球だけでなく、無限の波動圏の中で(宇宙のいたるところで)行われているのです。
瞑想している時は生きており、この世の事を思っている時は死んでいると言われるのは、「神・生命・宇宙」を想っている時は、本当に有るモノに生きているが、それ以外の時は、本当に無いモノに生きているからです。この言葉には、深い、重い、意味が込められているのです。
2016.07.17
※
この宇宙には、実際に有るモノ(真実)のみが有るのです。
この意味の深さを知って欲しいと思います。
知れば、夢から目覚められるでしょう。
この宇宙は、無限ゆえに、無限に知るべきことがあるのです。その無限のほんの一部を知って得意になっている人は、何も知らない人です。覚者が謙虚なのは、永遠に知り得ない宇宙の無限性を知ったからです。
どうか、増長しないでください。あなたの得た知識なんか、ゴミにも当たらない小さなモノなのですから・・・、それも、体験の伴わない知識を得ただけのことなのですから・・・。
2016.07.24
※ 偶然が有るなら、神も偶然に存在していることになるでしょう。そうなれば、我々も偶然に存在していることになるし、何もかも偶然に存在していることになります。そんな、無秩序な宇宙に何の意味があるでしょうか?
やってあげたいから、やってあげるのです。してあげたいから、してあげるのです。そこに微塵の成算も入ってはなりません。純粋に、純粋に、清く、清く、「ただ、世のため人のため!」と思いやってあげることです。その純度が高ければ高いほど、あなたは、神人としての素晴らしい働きができるでしょう。
私たちは、間違いなく、神人なのです。神の代弁代行者なのです。それは、私たちの本性(意識)が、神だからです。どうか、神人として、神の代弁代行役を果たしてください。では、私たちは、どのような代弁代行役を果たせるのでしょうか?
(一)
何をやるにも、神が思い、神が話し、神が行っていると思いやることです。そう思いながらやれば、その思い、その言葉、その行為は、神の表現になります。つまり、その思いは、素晴らしい発明・発見を生み出し、その言葉は、多くの人の心を揺さぶり、その行いは、人の手本となるのです。
(二)
神を想い瞑想することです。
神を想う瞑想は、身体を浄化し、地球を浄化し、宇宙を浄化します。神を想う瞑想は、雑念を一点に集約させ心を穏やかにします。神を想う瞑想は、あなたの欠点を無くします。神を想う瞑想は、原子核を増やします。
このように、純粋に、清く、神の代弁代行役に徹すれば、素晴らしい神の表現ができるのです。さあ、純粋に、清く、神を、想い、話し、行動してください。それは、どこへ行く必要もないし、お金もかかりません。あなたの今の環境の中で、できるのです。その貢献度は、ボランティアーの比ではないのです。
2016.07.31
私は、姿形の無い意識だけの存在です。だから、私は、私を知らないまま、今日まで生きてきました。
一体、意識の私って、何だろう?
一体、意識の私は、何処から来たのだろうか?
一体、いつ、生まれたのだろうか?
いや、私は生まれた覚えがない。だから、死んだ覚えもない。気がついたら、私は存在していたのです。いや、その言い方は、正しい言い方ではありません。「気がついたら」という言い方は、「生まれた時は」と言うことになるからです。私は、私の存在を永遠の昔から知っていたのですから、生まれたという言い方は正しくないでしょう。永遠の昔から、私を知っていたということは、永遠の昔より、私は、いたということですから、いつも、いたということです。そう、私のいない時はなかったのです。私には、初めは、なかったのです。だから、終わりもないのです。私は、ずっと生き通してきたのです。そんな私が、私のことを知らないで、今日まで生きてきたのですから、不思議と言えば不思議な話しです。
では、もう一度、問いかけてみましょう。
一体、意識の私は、何者なのでしょうか?
一体、何処から来たのでしょうか?
しかし、どんなに問いかけても答えは返ってきません。いくら考えても、いくら思索しても、分からないのです。多分、永遠に意識の私のことは分からないでしょう。でも、意識の私のことは分からなくても、これだけは分かっています。私が唯一欲しいのは、幸せであることを・・・。それも、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、究極の幸せが欲しいことを・・・。それで良いのです。なぜなら、幸せ以外、私は何もいらないからです。
2016.08.07
※ 私が知りたいのは、私の意識を生み出したのは「何か」? ということです。どうか、皆さんも、私の意識を生み出した「何か」を探してください。
この宇宙は、均衡を保とうとするエネルギーが支配していますので、均衡が崩れれば、必ず、穴埋めさせられます。例えば、やれば、必ず、やりかえされます。奪えば、必ず、奪い返されます。与えれば、必ず、与え返されます。この宇宙に、一方通行は無いのです。エネルギーは、出した分、必ず、返ってくるようになっているのです。これは、原因と結果の法則が裏支えしているため、間違いなく行われるのです。だからこそ、私たちは、成長してゆけるわけです。
良いことをすれば良いことが、悪いことをすれば悪いことが返ってくるのは、因果の法則からして間違いないわけですが、それだけで終わらないのが、この法則の凄いところなのです。つまり、行ったことには、必ず、悪いリスクと良いリスクが付いてくるのです。例えば、大掃除をすれば、家は綺麗になりますが、その代わり着ているものが汚れたり、腹が空いたり、疲れたりします。これは、悪いリスクです。遊園地帰りの親子が、電車の中でコックリコックリする風景を良く見ますが、あれも、楽しみの後にやってくる悪いリスクの一つです。何かをすれば、必ず、リスクを背負うのです。目に見えないリスクもありますが、それは、分散されて目に見えないか、先延ばしされているかで、いつか、必ず、お返しがあるのです。このように考えてください。
大掃除をすれば、家は綺麗になりますから、これは良いことです。でも、肉体は疲れますから、これは悪いことです。でも、筋肉が強くなりますから、これは良いことです。でも、腹が空きますから、これは悪いことです。でも、原子核が増えますから、これは良いことです。「良いことが悪いことにつながり、悪いことが良いことにつながり、また、良いことが悪いことにつながり、悪いことが良いことにつながる」このエネルギー均衡の法則が、魂を成長させてくれるのです。
神が一番に望んでいることは、魂の成長です。苦楽を交互に体験しながら成長するのは、進化のプロセスなのです。神は、エネルギー均衡の法則を通して、私たちの魂を成長させようとしているのです。
2016.08.14
※ 何でもそうですが、馴れてしまうと、そのモノの良さが分からなくなるのです。だから、増長してしまうわけですが、これは、大変もったいないことです。真理もそうです。私のホームページもそうです。最初に味わった感動も、馴れてしまうと薄れてしまい、反発心さえ起こってくるのです。
私が一番感心するのは、神は、出来ないことをさせて、私達を悟らせようとしていない点です。「今の今、ただ、神を想い続けなさい! そうすれば、神を自覚できますよ!」と、神は言っているのです。全能の神が、私達に出来ないことをさせるわけがないのです。もし、難しいことをしなければ悟れないなら、神は、全能で無くなってしまいます。全能の神なら、子供でも大人でも、女でも男でも、頭の良い人でも悪い人でも、貧しい国の人でも豊かな国の人でも、悟れる仕組みを用意してくれているはずです。
そうです。悟るのに難しい理論も、技も、何も要らないのです。今の今、ただ、神を想うだけです。ただ、続けるか、続けないか、やるか、やらないか、だけです。でも、殆どの人は、忍耐力がなく止めてしまいます。それでは、実が実る前に手放してしまうのですから、果実が得られるわけがないのです。「継続は力なり!」です。何も変化が起きないからといって、諦めないでください。
今の今しか実在しないのです。その今の実在を使って神を想い続ければ、間違いなく神の自覚が得られるのです。神は、こんな簡単な方法を用意してくれているのです。これは、我が子を愛するがゆえの神の計らいです。さあ、今、神を想い続けましょう。
2016.08.21
※「神が我が子に出来ないことをさせるわけがない!」と言うのは、私達の日々の生活においても言えることなのです。神は、私達に、難しい生き方をしなさいとは言っていないのです。今、あなたが思ったことを素直に実行しなさい!、と言っているだけです。たとえ、そのことで、おかしなことになったとしても、それは、成長のために、そうなった必然ですから、決して、失敗したとは思わないことです。どんな道も大道につながっているのです。「光のメロディー・・・真理を求めている人へ捧げる曲(人生の道)」を見てください。あなたの選んだ道は、みな、正しかったのですから・・・。
今まで、どんな凶悪な罪を犯していた者であっても、心から悔い改めたら(良心に生きるようになったら)、全ての罪は許されるのです。”私はもう悪いことを一切やらない! 私は今から良心に生きる!”、と堅く誓った瞬間、今までの自分ではなくなるのです。なぜなら、人間の自分から神の自分に戻ったからです。良心は、神の心です。實在する心です。その心に生きるようになった瞬間、自我の自分は存在しなくなるのです。今まで悪いことをしていたのは、実在しない自我(サタン)の自分だったのです。実在しない自我(サタン)の自分に罪があるわけありませんから、決して、肉体を罰してはならないのです。ということは、この宇宙に罰するモノなど一つも無いということです。
真我人間とは、良心に生きるようになった人間のことです。良心には、一点の汚れも無いのです。よく、心が汚れているといいますが、汚れた心など一つもありません。ただ、心の周りに、ゴミが付着しているだけです。ですから、改心し、ゴミを落とせば、そく、真心に戻るのです。ゴミとは、迷いのことなのです。迷いは、実在するものではありませんから、迷いを取れば、そく、真我の自分に戻れるのです。迷いを取る作業が、反省・懺悔なのです。
私が死刑に反対するのは、改心した、その瞬間に、罪人はいなくなるからです。いない罪人を殺すなど大きな罪です。迷いが罪人を作っているのです。憎むべき相手は、罪人ではなく迷いなのです。ですから、「迷いを憎んで人を憎まず」です。どうか、迷いを取っ払ってください。それは、真理を知ることによって取っ払えるのです。「無知こそ最大の罪である!」と覚者がいうのは、真理を知らなければ、どうしても、迷って罪を犯してしまうからです。どうか、罪人のいないことを知ってください。
2016.08.28
※ 昨日まで体の調子が良かったのに、今日、急に調子が悪くなったという人は、間違いなく、ネガティブな波動にやられています。つまり、サタンにやられているのです。その時は、真理を求める気持ちも弱くなっているはずです。ぜひ、そのことに気付いてください。気付いたら、「サタンよ見破ったぞ! サタンよ退け! サタンよ出てゆけ! 出てゆけ! 出てゆけ!」と、何度も心の中で叫んでください。もし、どこかに痛みがあったら、「想わない! 想わない! 想わない!」と思ってください。「想わない!」と思うだけで結構です。きっと、痛みが和らぐでしょう。体の調子が良くなったら、瞑想してください。
この宇宙には、様々な進化の度合いを持った星が存在しますが、その星が、どれだけ進化した星か判定する基準はあるのでしょうか? あります。それは、その星に住む人たちが、どれだけ高い理解力を持っているかが判定基準です。では、その理解力の高低は、どのようにして判定するのでしょうか。その判定基準は、幸福度です。低い理解力によって創られた世界の幸福度は低く、高い理解力によって創られた世界の幸福度は高いのです。でも、その幸福度は、通常、比べることはできません。それは、当人だけが知る幸福の高さだからです。でも、現象の世界において、その幸福度は、平和という形では見ることはできるのです。心の幸福度は、必ず、形として現れるようになっているからです。幸福度の高い星は、平和なのです。幸福度の低い星は、争い事が多いのです。地球惑星に戦争が絶えないのは、地球人類の幸福度が低いからです。つまり、理解力が低いからです。
私たちは、これまで、何万転生も輪廻を繰り返してきましたが、その輪廻において、どれほど成長したか知る決め手は、やはり、理解力の高さなのです。多く輪廻を繰り返した人の理解力は高く、少ない輪廻を繰り返した人の理解力は低いのです。当然、理解力の高い人の幸福度は高く、理解力の低い人の幸福度は低いでしょう。このように進化の決め手は、理解力であり幸福度なのです。
もし、あなたが、自分の進化度を知りたかったら、幸福度の高低で推測してください。それは、あなただけが知る幸福度です。誰とも比べることはできません。でも、それで良いのです。
このように幸福の平等性は、どこまでも貫かれており、これが、主観宇宙の素晴らしいところであり、神の愛の素晴らしいところなのです。幼い魂も、熟した魂も、神の目から見たら同じなのです。でも、宇宙は、たしかに、進化してゆくのです。それは、意識に飽きがあるからです。飽きる意識を持っている宇宙は、進化し続けるしか無いのです。幸福を得ても飽きがくる意識は、その上の幸福を求めてゆかなくては満足できないからです。この満足できない幸福の欲求が、私たちの魂を進化させてゆくのです。
2016.09.04
※ 神とは幸せのこと・・生命とは幸せのこと・・
チルチルミチルは、幸せの青い鳥を探しに旅に出かけました。でも、いくら探しても、幸せの青い鳥は見つかりませんでした。がっかりして、家に帰ってきたチルチルミチルは、ふとしたことから、幸せの青い鳥を自分の中に見付けます。つまり、チルチルミチルは、幸せは、外の世界にあるのではなく、自分の心の中にあったことを知ったのです。
幸せは、心の平安がもたらすのです。その心の平安は、自分が「神であり、生命である!」、と心の底で思えた時に訪れるのです。人間を自分だと思っている限り、真の平安はやってきません。自分が、永遠に傷つかない、永遠に死なない、永遠に無くならない、神である、生命である、と思えた時に、不動の平安が得られるのです。
神とは、幸せのことだったのです。生命とは、幸せのことだったのです。本当の自分とは、幸せのことだったのです。「人生の目的は、本当の自分を知ることである!」という意味は、「人生の目的は、真の幸せの中に入ることである!」という意味だったのです。
あなたは、真理を学んでいるのに何も成長していないと思っているかもしれませんが、あなたは、間違いなく成長しているのです。なぜなら、今、あなたが、ここに来て、この真理を学んでいること自体、成長している証だからです。
永い転生において、あなたは、この真理に出会うまで、どれほど苦難の人生を歩んできたと思いますか? それはそれは、大変な苦難の人生を歩んできたのですよ。そして、ついに、この真理に出会えたのです。そして、今、その真理を自分のものにしようとしているのです。もし、今、学んでいる真理がマガイモノなら、あなたの過去の人生は失敗の人生になるのです。失敗の人生にしたくなかったら、今の真理を学び続けてください。
あなたは、ここまで導いてくれた、あなたの守護霊を信じないのですか? この真理を選んだ、あなたの眼力を信じないのですか? 自分の守護霊を信じないで、自分の眼力を信じないで、何を信じるというのですか? どうしても信じられないなら、次の数式だけは信じてください。
・・・という数式です。
この数式は、神に失敗はないという数式です。
神が創られた宇宙に失敗は無いのです。この数式は、あなたに失敗が無いことを保証してくれている数式なのです。たとえ、失敗のように見えても、それは、成功のための失敗ですから成功なのです。
さあ、自分を導いてくれた守護霊を信じ、そして、この真理を選んだ自分の眼力を信じ、自覚の境界線を超えてください。
2016.09.11
※ 真理を求めることの難しさ!
私は、新しく来た学びの友に良くこう言います。「勉強会に来なくてもいいから、原子核を増やす三つの方法を実践してください!」と・・・。勉強会に来て、私の話を聴いている時は、波動が高いので、やる気になりますが、波動が落ちると、どうしても、やる気を削がれてしまうものです。何せ、外にも内にも真理を阻むサタンがいるのですからね・・・。
私たちの中には、二人の自分がいるのです。一人は自我の自分、つまり、サタンの自分です。もう一人は真我の自分、つまり、神なる自分です。本当は真我の自分しかいないのですが、周りの悪的波動にやられるとサタンが頭をもたげ邪魔をしてくるのです。それも、光が強くなればなるほど闇も強くなるため、よりサタンが活発化するのです。知花先生は、良くこうおっしゃっておられました。「サタンにやられなかったら、悟るのは案外と簡単なのですよ!」と・・・。それほど、サタンは大敵なのです。何せ、自我の思いを真我の思いにさせられてしまうのですから・・・。それも、気づかない巧妙な思いにして・・・。それほど、真理を得ることは難しいのです。
もし、簡単に真理が得られるなら、とっくに、地球は理想の世になっていたでしょう。簡単に得られないから、今もって喘ぎ苦しんでいる人達が絶えないのです。でも、いつまでも、そんな地球にしておいてはなりません。一日も早く、サタンに脅えることのない地球にしたいものです。
何事も真心を持ってやれば、必ず、相手に伝わります。あなたの心は、全ての人の心とつながっているのです。形を見れば別々ですが、本源においては一つなのです。ですから、真心を持ってやれば、必ず、相手に伝わるのです。
この宇宙には、一つの寛大な心しか無いのです。一つの寛大な魂しか無いのです。つまり、一つの意識しか無いのです。あなたの心は、宇宙の心と一つなのです。ですから、思ったことは、一瞬にして宇宙に伝わるのです。
いくらやってあげても相手に伝わらないという人は、真心を尽くしてやっていないからです。「いいえ、私は、真心を尽くしてやっています!」と、言うかも知れません。でも、どんなに形上、一生懸命やっても、少しでも不純な思いがあれば、相手に伝わらないのです。これは、真理も同じなのです。
不純な動機で、しかも、生半可な気持ちで真理を求めても、神に通じないのです。私の恩師である知花先生は、「心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くし、神を求めなさい!」とおっしゃっておられましたが、神は、純なお方ですから、真心を持って真理を求めなくては、神に伝わらないのです。
どうか、真心を持って事に当たってください。必ず、相手に、神に、伝わります。
2016.09.18
※ これだけは言っておきます!「真剣に真理を求めている人の前に、神は、絶対、石や岩は置かない!」と言うことを・・・。
余計なことを考えないようにしよう! という意味は、余計な情報を発信しないようにしよう!、という意味です。この宇宙は、考えたこと(想ったこと)が実現する仕組みになっています。皆さんも体験あると思いますが、余計なことを考えれば、余計な情報を発信するようになります。余計な情報を発信すれば、余計な情報を受け取るようになりますから、ますます、余計なことを考えるようになります。こうなると、平安な心は維持できません。私達は、情報を多く受け取れば受け取るほど雑念が膨らむようになっているのです。
余計なことを考えなかったら、余計な情報を発信しませんから、余計な情報が入ってこなくなります。つまり、余計な原因を作らなければ、余計な結果はやってこないということです。
世の人々は、余計な情報を発信します。余計な情報を発信すれば、余計な原因を作るわけですから、それに見合った余計な結果がやって来ます。良い情報を発信するのでしたら良いでしょうが、殆どが悪い情報ばかりです。だから、悪い結果がやってきて、自分が苦しめられるのです。家族間の諍い・企業間の諍い・国家間の諍いなど、この世のすべての諍いは、余計なことを考えるから起きるのです。できるだけ余計なことを考えないようにすることです。そうすれば、余計な情報を受け取らなくなりますから、心穏やかになるのです。
みなさんは、何が欲しいのですか? 平安が欲しいのではありませんか? 心穏やかでありたいのではありませんか? 心穏やかでありたいなら、外側の情報をシャットアウトすることです。そして、内側に意識を持ってゆくことです。つまり、神を想うことです。
2016.09.25
※ 意識の不思議な習性
意識は、実に、不思議な習性を持っています。どんな習性かといいますと、動いたモノに向かうという習性です。例えば、何かが動いたら、意識は動いたものに移動するのです。この宇宙が、なぜ、創造されたかといいますと、神の想念が動いたからです。神の想念が動いた時点で、意識が、その動いたものに向かって移動したのです。意識は、エネルギー(素材)そのものですから、動いた想念にエネルギーが移動して、想念通りのモノを創造したわけです。
この意識の習性(原理)を利用したのが瞑想です。瞑想は、想念を動かして行います。例えば、「吾神なり!」と想念すれば、その想念に向かってエネルギーが移動し、想ったモノ(神)を創造するわけです。神は創られませんが、エネルギーが原子核(生命核・魂)を増やすのです。前述したように、意識は、エネルギー(素材)そのものですから、そのエネルギーが想念したモノを創るわけです。
「真理をやり始めたら孤独になった!」という学びの友がおります。
確かに、自分の理解力の中においては孤独に感じます。なぜなら、解って貰える人がいないからです。でも、それは、仕方のないことなのです。また、それで良いのです。
理解力だけは共有できないのです。自分の理解力は自分だけのものです。人と付合せすることができないのが、理解力なのです。だから、誰も自分の理解した世界に入れることはできないのです。それは、当然です。自分しかいないからです。
自分しかいない処に孤独は無いのです。いやむしろ、安心なのです。心が穏やかなのです。満ち足りております。それは、何もかもが自分だからです。すべてが自分だからです。
2016.10.02
※ 私はこれだけのことを知ったから偉いと思っている人は、何も知らない人です。この宇宙には、知るべきことが無限にあるのです。覚者が偉ぶることがないのは、宇宙の深さを知ったからです。「知っても、知っても、知り尽くせないことがある!」と解った覚者は、謙虚にならざるを得ないのです。皆さんも、どうか謙虚になってください。
この宇宙は一つです。一つは全体であり、全体は一つなのです。その一つが自分なのです。だから、誰のための人生でもありません、すべて自分のための人生です。ですから、他人の成長を考える必要はありません。自分が成長したら、それで良いのです。自分が成長したら、他人も成長するからです。
今、起きている出来事は、すべて自分の成長のために起きているのです。ゆえに、苦しいからといって、人のせいにしてはならないのです。すべて自分が連れてきたのです。それは、自分が成長したいからです。
自分のことは、自分が良く知っているのです。自分に、どんな欠点があり、どんな課題を克服しなければならないかは、自分が良く知っているのです。だから、自分の成長に必要な、人を、物を、環境を、自分が用意して連れてきたのです。
この宇宙は、自分が成長するために自分が用意した学びの舞台です。
自分が用意した舞台ですから、その舞台に登場する、人も、物も、環境も、全部、自分が用意したのです。
人のための人生ではなく、すべて自分のための人生であることを知ってください。
2016.10.09
※ 私たちは、間違いなく、日々、成長しております。さあ、眠る前に、こう思ってください。
「私は今日も成長した! 私は今日も成長した! 私は今日も成長した!」と・・・。
翌朝、起きたら、こう思ってください。
「私は今日も成長する! 私は今日も成長する! 私は今日も成長する!」と・・・。
思ったことは、必ず、実現します。それは、時間の中に居るからです。時間の中に居る限り、私たちは、間違いなく成長するのです。
この宇宙は、単純に出来ています。それは、神が「簡素・完結・単純」な思考の持ち主だからです。食べ物でも、栄養価が高く一番美味しいのは、表面の皮の部分です。真理も同じで、表面の浅みに美味しい味(謎)があるのです。科学者が複雑に考えるのは、奥深いところに宇宙の謎があると誤解しているからです。
チルチルミチルは、幸せの青い鳥を探しに旅に出ましたが、探しても探しても見つかりませんでした。疲れ果てて家に帰ってきた、チルチルミチルは、フトしたことから自分の中に幸せの青い鳥を発見します。このチルチルミチルのお話は、「真理は一番身近な処にあるのですよ!」ということを教えてくれているのです。ですから、真理を探る(思索する)場合、単純に考えることです。もし、難しい真理なら、神は、無能な神になってしまいます。なぜなら、難しく創るのは無能だからです。全能の神は、日時計を創るのです。無能な人間は、機械時計を作るのです。無能者は難しい作り方をし、全能者は簡単な創り方をするのです。それが、神と人間の大きな違いです。
どうか、単純に考えてください。つまり、単純に神を「探して、求めて、叩いて」ください。その単純な作業が瞑想なのです。瞑想には、何の理論も、何の技術も、何の修行も、要りません。ただ単純に、神を想い続けることです。やれば、間違いなく扉は開かれます。難しいことがあるとすれば、続けることだけでしょう。
2016.10.16
※ この宇宙は、私の海です。「私! 私! 私!」だけ居る大海原です。その大海原に生み出された無数の波頭は、個性化された私です。個性化された私だから、自分を見失ってしまうのです。でも、どんなに個性化されても、私に違いはないのです。
想念は実現の母です。これは、何度言っても言い過ぎることはありません。思えば、必ず、実現します。それも、強く思えば強く実現し、弱く思えば弱く実現するのです。
世の中には、心にドロドロしたものを持ちながら、世の成功者と言われる人たちがおりますが、彼らは欲念が強いから、この世の物を引き寄せることができたのです。つまり、世の成功者と言われる人たちは、ただ、お金や地位や権力を引き寄せる念力が強いと言うだけで、人格とは関係ないのです。だから、世の成功者を人格者と呼ぶのは、正しくないのです。生命核(魂)を大きくした人が、人格者なのです。ですから、正しくは「命格者」と呼ぶべきでしょう。
「身・口・意」という言葉がありますが、「身・口・意」の真の意味は、何事も思いが先立って実現されるという意味です。思って、言葉になって、行為になるのです。この世は、波動が荒いため、思ってもすぐに実現しませんから、思いが言葉や行為に結びついていると思えませんが、意識界(幽界)は、波動が精妙なため、思ったらすぐ実現するのです。しかし、波動の粗いこの世でも、何度も思えば間違いなく実現します。事実、病気・事件・事故・テロ・戦争・自然災害などは、思いの産物ではありませんか? だから、イエス様は、思いに対しても「汝姦淫するなかれ!」と戒められたのです。「私は何度も思ったが実現しなかった!」という人がおりますが、それは、未だ結果が降りていないだけで、いずれ、必ず、実現するのです。例え、今生、実現しなくても、来生 以降、何らかの形で実現するのです。
「私は思いと裏腹な言葉が話せます」と言う人がおりますが、そんな芸当は絶対できません。裏腹な思いを持っていても、話す瞬間、正常な思いを持ち、正常な言葉を語っているのです。また、「私は言葉は汚いが、心はきれいだ」という人がおりますが、そんなことも絶対ありません。悪い想いを持っているから、悪い言葉が出てくるのです。例え、褒め言葉を語ったとしても、腹の底に悪意を持っていれば、おべんちゃらに聞こえるのです。だから、褒められても嫌な気分になるのです。
この世では、思いの伴わない行為があります。反射運動がそうです。思わなくても体が勝手に動く現象です。何度も何度も身体に覚えさすことによって生まれる条件反射的行為ですが、それは、肉体細胞自体に意識があるためで、アスリートは、この条件反射をうまく運動に利用しているわけです。しかし、これも、身体に何度も覚えさす段階で、思いが関わっているわけですから、やはり、思いがしているのです。
このように、すべて思いが先立っての話なのです。
2016.10.23
※ 身口意
身口意という言葉があります。この身口意の「身」とは行為のこと、「口」とは言葉のこと、「意」とは想いのことです。「身」も「言葉」も五感で捉えられます。でも、「意」は五感で捉えられません。だから、どうしても「意」を軽視してしまうのです。でも、この三つのうちで一番大切なのは、「意」です。なぜなら、身を動かすのも、言葉を話すのも、想いがやっているからです。原因(想い)あっての結果(言葉や行為)です。「想い」は原因次元なのです。「言葉や行為」は結果次元なのです。結果は、原因なしに生まれないのです。でも、人間は、「意」を軽視し、平気で悪い想いを持っています。それは、想念の恐ろしさを知らないからです。私が「想念が全てですよ!」と口うるさく言うのは、「意」だけが、真実だからです。言葉も行為も現象で、真実では無いのです。何が最も大切か、この際、もう一度考えてみてください。
この宇宙には、全く波の無い霊から、波動の粗い物質的霊まで、様々な種類の霊が存在します。本当は、全く波の無い霊しか存在しないのですが、それでは、表現ができないので、神は、波動を下げ、物質的霊を創造されたわけです。私たちは、その全く波動の無い霊(神)から出てきた、霊(神)の子供たちです。ですから、私たちは、霊性の進化を遂げ、波の無い霊(神)の世界に帰って行かなければなりません。
世の中には、沢山の物を集めている人たちや、部屋に鉱物を置いたり、植物を置いたり、猫や犬を飼っている人たちがおりますが、私たちは、そんな波動の粗い物から、一日も早く抜け出さなくてはならないのです。なのに、懐かしいからと言って、波動の粗い鉱物や植物や動物を身近に置いていて良いでしょうか? 部屋の飾り物として置くなら良いでしょう。でも、観賞用として、或いは、ペットとして置くのは、いかがなものでしょうか?
物質は、波動が低いのです。霊は、波動が高いのです。どうか、波動の高い霊(神)を意識して生きてください。私たちは、霊性の進化を遂げるために生まれてきたのですから・・・。
2016.10.30
※「霊」とは、巷間で言われている「祟の霊」とか、「迷いの霊」とか、「動物霊」とか、そんな、幽霊(幽界の霊)ではないのです。「霊」とは、神です。創造主です。生命です。意識です。光です。エネルギーです。
「霊性の進化」とは、神の子である人間が、元の「神の霊」に帰る進化のことなのです。どうか、「霊」を誤解しないでください。
皆さん、よく考えて見てください。どうして自分がいるのですか? どうして相手がいるのですか? 自分がいるからではありませんか? 勿論、自分がいなかったら、自分もいないし、相手がいないのも当然です。一体、自分なしに何があるのですか? 一体、自分なしに何が始まるのですか? 自分抜きでは、何も始まらないのです。ということは、自分が、すべてのモノを生み出しているということです。 つまり、自分が、自分を創り、相手も創っていると言うことです。
“いいえ、自分がいなくても相手はいますよ!”と、あなたは、言うかも知れません。でも、自分がいなかったら、相手がいるかいないか、どうして分かるのですか? 自分がいなくなった瞬間、相手がいなくなっているかも知れないのですよ。
そうなのです。自分抜きでは、何もあり得ないのです。親も、子も、友だちも、地球も、宇宙も、全部、自分が創っているのです。と言うことは、自分が創造主であると言うことです。お釈迦様が言われた「天上天下唯我独存(尊)」の意味を噛み締めてほしいものです。
宇宙の存在を証明できるのは、自分しかいないのです。自分抜きでは、何も証明できないのです。だから、自分が存在していた時には、宇宙が存在していたし、宇宙が存在していた時には、自分が存在していたのです。自分は、宇宙の存在を認めてやれる唯一の存在者なのです。と言うことは、「自分は、神である」ということです。だから、自分と言う字は「神が(自)らを(分)けた」と書くのです。
勝手に、相手がいると思ってはなりません。相手は、自分が創った相手なのです。自分が連れてきた相手なのです。自己完結型宇宙が成り立つのは、自分しかいないからです。1しか無いからです。
(この数式が、自分しかいないことを証明している)
1しか無いなら、自分しかいないなら、すべての物は、自分で創造するしかないでしょう。つまり、自己完結型宇宙に成らざるを得ないわけです。
2016.11.06
※ 永遠の昔より宇宙が存在していると言っても、そのことを認める者がいなくては、単なる観念論にしか過ぎません。ですから、どうしても、意識を持った認定人(判定人)である人間が必要なのです。
真理とは、不変不動永遠不滅なるモノです。何が起きようが、絶対変わりようのないモノが真理です。その真理は、この宇宙に一つしかありません。では、一つしか無いモノとは何でしょうか? それは、意識です。意識は、この宇宙に一つしか無いのです。意識は、絶対無くならない不変不動永遠不滅なる真理なのです。その意識のことを、神とか、仏とか、生命とか、キリストとか、ブッタとか呼んでいるだけです。
対して、非真理とは、必ず、無くなるモノです。どんなに見えても、触れても、必ず、無くなるモノが、非真理です。それは、本当に無いからです。ということは、この世も、幽界も、必ず、消えてなくなりますから、非真理(幻)と言うことになります。今、私たちは、非真理の世界にいるのです。幻の世界にいるのです。
このように、真理とは、永遠に無くならない意識です。ということは、私たちは、真理ということになります。なぜなら、私たちは、意識を持っているからです。私たちは、意識そのものなのです。
「吾真理なり!」
「吾真理なり!」
「吾真理なり!」です。
2016.11.13
※ 私たちは、真理を得るために生まれてきたのです。学校に行くのも、仕事をするのも、家庭を持つのも、すべて、真理を得るための方便です。お金も、財産も、地位も、名誉も、真理を得るための方便です。方便のために悩み、方便のために苦しまないでください。どうか、本当の自分を知ってください。意識の自分を知ってください。それも、頭で知るのではなく、心の底で知ってください。心の底で知ったら、至福感に満たされます。その人は、もう、この世の何も欲しがらないでしょう。
※ どうして消えるの?
あなたの周りから、毎日、沢山の人たちが消えていっています。勿論、あなたも、いつか、必ず、消えてしまいます。人間だけではありません。花も、木も、犬も、猫も、あなたが住んでいる街も、国も、この地球でさえも、いつか、必ず、消えてしまいます。どうして消えてしまうのですか? それは、本当に無いからではありませんか? その本当に無いモノのために、どうして、あなたは、命を削ってまで生きようとするのですか? 本当に有るモノのために生きましょう。本当に有るモノとは、意識です。どうか、本当に有るモノと本当に無いモノの識別をしてください。
私たちは、霊性の進化を遂げてゆかねばならない高貴な霊の子です。その高貴な霊が、グルメに夢中になり、快楽に溺れ、物欲に明け暮れている、実に動物的生き方だと思いませんか? 一般人は仕方ないとしても、真理を学んでいる私たちは、一日も早く、そのような生き方から卒業しなければなりません。では、どのような日常生活が望ましいか、考えてみることにしましょう。
○ 人生の目的を見失わないこと。
私たちは、本当の自分を知るために生まれてきました。この大目的を見失っては、何のために生まれてきたのか分かりません。私たちは、「私は神の子である!」と、心の底で思えるようになるために生まれてきたのです。
○ 今の今を大切に生きること。
「私は神の子である!」と、心の底で思えるようになるためには、瞑想は欠かせません。そのためには、今の今を大切に生きなければなりません。今の今を大切に生きるとは、神を想うこと、生命を想うこと、つまり、マントラを想うことです。日常生活の何をやるにも、「神がやっている!」と思いながらやることです。
○ 原因と結果の法則と陰陽の法則を守ること。
原因と結果の法則と陰陽の法則を守るのは、求道者として当然の義務です。真理を学んでいる者なら、この法則を、常に、胸に秘めて生きなければなりません。
○ 正しい想念を持って生きること。
想念は、実現の鍵です。あなたの成長は、想念次第なのです。
想念については、これまで、クドいほど述べていますので、ここでは触れませんが、今まで学んだことを何度も復習してください。どうか、想念を良いことに使ってください。良いことの一番は、神を想うことです。良い思いを持つことです。すなわち、瞑想をすることです。
○ 家族との生活は、情愛と感情を克服する学びの一環です。つまり、情に流されず、かつ、情を失わずの情と、厳しからず、甘からずの愛を家族を通して学ぶことです。
○ 終わった過去のこと、まだ来ない未来のことをくよくよ考えないことです。先読みしないことです。妄想を抱かないことです。余計なことを考えないことです。
○ 嫌なことから逃げないこと。
与えられた嫌なことから逃げないことです。嫌なことを追いかけなさいと言っているのではありません。やって来たら逃げないでやりなさいと言っているのです。
○ 人事をつくしたら、後は、天に委ねること。
やるだけのことをやったら、くよくよ考えたり、心配したりしないで、待つことです。神は、最善を尽くした者を見捨てるわけはないのです。
今、やらねばならないことを淡々とこなすことです。
○ 中庸の生き方をすること。
この世は、すぐに旅立たねばならない腰掛けの世界です。そんな腰掛けの世界で、命を削ってやることなど一つもないのです。ほどほどに、中庸を守って生きたら良いのです。五十歩百歩の生き方をすることです。
○ 一生懸命 やること。
ただし、やるときには、一生懸命 真心を込めてやることで す。一生懸命 やっていれば、周りの人たちも見習い、一生懸命 やるようになります。一生懸命 やっている姿は、輝いています。その輝いている姿を、周りの者に見せることです。特に、自分の家族の者に見せることです。一生懸命 やれば、原子核は、間違いなく増えます。
○ 腰軽になること。
体を動かせば動かすほど、原子核は大きくなります。つまらないことでも良いですから、体を動かすことです。腰軽は、サタンに勝つ一番の方法なのです。
○ 繰り返すことを嫌がらないこと。
真理というものは、一度や二度で身につくものではありません。何度も何度も、繰り返すことで身につくのです。何度も何度も、読むことです。何度も何度も、聴くことです。何度も何度も、見ることです。何度も何度も、やってみることです。繰り返すことを嫌ってはなりません。面倒かもしれませんが、手間を掛けることです。手間を掛ければかけるほど成長するのです。
○ この世の物を愛玩しないこと。
私たちは、鉱物、植物、動物と進化を遂げ、やっと、自我の持つ人間まで成長してきたのです。それだけ苦しい進化の過程を踏んできたということです。なのに、懐かしがって、鉱物や、植物や、動物などの愛玩物を身近に置いていては、進化の妨げになります。愛玩するのは、懐かしいからです。家の中にそのような愛玩物を置けば波動が落ちるのです。私たちは、一日も早く、波動の低い物質から、波動の高い霊に、上り詰めねばならないのです。
○ その他、日常生活で守らねばならないこと。
以上、望ましい日常生活をピックアップしてみました。どうか、参考にしてください。
注 魂が成長すれば、守るべき内容も厳しくなって行くでしょうが、安心してください。成長した魂にとって、その厳しさも、そう厳しいとは、思えなくなるのですから・・。
2016.11.20
全てが私なのです。この、大宇宙、大自然、鉱物、植物、動物、人間、全てが私なのです。空気、水、土、全てが私なのです。創造物の全てが私なのです。なぜなら、私が全ての創造物を創り、その中に居るからです。
私は、全てのすべて有りてあるものです。私に、恨み言を言う人も、罵声を浴びせる人も、嫉妬する人も、みな、私なのです。
私の中に、私が居るのです。あなたの中に、私が居るのです。すべてのモノの中に、私が居るのです。そして、私の中に、私がおり、私の中に、あなたが居るのです。私の中に、すべてがあるのです。だから、何も、誰も、批判できないのです。すべて私の責任です。
痛みの中に、私が居るのです。苦しみの中に、私が居るのです。悲しみの中に、私が居るのです。勿論、感動の中にも、喜びの中にも、幸せの中にも、私は、居るのです。
私は、自由に何でも創造できるのです。何処にでも行けるのです。
私には、生がないのです。だから、死もないのです。私は、永遠不滅の存在です。無限の存在です。私には、限定が無いのです。だから、私は、自由です。自由なるがゆえに、完全なのです。
私には、失敗はないのです。たとえ、失敗に見えても、それは、成功のための失敗ですから、成功なのです。ということは、どこまでも完全であるということです。私に不完全はないのです。この宇宙が、今日まで存続してこられたことが、それを証明しているのです。
私のいない時はないのです。私のいない宇宙は無いのです。私抜きの宇宙など無いのです。私抜きのドラマなど無いのです。
だから、私が私を愛するのです。
だから、私が私を慈しむのです。
だから、私が私を労るのです。
私の中の私です。
私の内の私です。
私しかいないのです。
2016.11.27
私は、よく言います。過去世の人の業を、あなたが背負うことはない、魂に背負ってもらったらいいと・・・。たしかに、その通りです。でも、実際に、今、苦しいのです。今、痛いのです。放おっておけるでしょうか?
では、どうすれば、過去世の業の苦しみから逃れられるか、実例を参考に考えてみましょう。
・実例1
私は、神経質な母親の想念の悪影響を受け、幼い時からとても胃腸が弱かったのです。大人になっても、その影響は続き、時々、下痢などをしていたのです。でも、ある時、母親の暗示が胃腸を弱くしていたことに気付いたのです。私は、それ以来、下痢が起きても、その下痢を良く受け取るようにしたのです。つまり、「ああ、今、業(暗示)が消えている! 消えている! 消えている!」と思って、業の上乗せをしなかったのです。業というものは、現象(幻)ですから、放っといたら消えて無くなるのです。でも、痛みや苦しみがあるため、どうしても、新たな業を作ってしまうのです。
痛くても、苦しくても、これは、業の消えている状態だと思って心配しないことです。痛んだら、苦しくなったら、「今、業が消えていっている! 嬉しいな! 嬉しいな!」と思うことです。悪く思うことが一番良くないのです。心配や悩みが、一番良くないのです。
・実例2
ある学びの友から、大変嬉しいお便りをいただきました。その学びの友は、自分の息子から暴力を受け悩んでいたのです。その息子さんは、生まれた時から父親になつかなかったらしく、父親の顔を見るとすぐに泣き出したらしいのです。父親も、そんな息子を好きになれるわけがありません。ですから、何かにつけて厳しく当たってきたらしいのですが、そのためか、大きくなるにつれ、父親に暴力を振るうようになったというのです。私は、彼にこうアドバイスしました。
「あなたは、過去世において、その子と敵対関係にあったため、お互いに好きになれない業を持ち合っているのです。その業を解消するには、子供さんから何をされても言われても、甘んじて受けることです。ここが一番肝心なところです。たとえ息子さんからどんな仕打ちを受けても、”ああ! 今、業が消えている。嬉しいことだ! 良いことだ!”と思うことです。決して、腹を立てない、憎まない、恨まないことです。これが、業の上乗せをしないコツです。業の上乗せをしなければ、つまり、悪い原因を作らなければ、悪い結果はやってこないのです。反対に腹を立てれば、業の上塗りをするわけですから、いつまでも、業の輪廻から抜け出すことが出来ないのです。これは、大変努力のいることかもしれませんが、強い意志を持ってやれば間違いなく息子さんは変わります」と、私は、アドバイスしたのです。
彼は、私のアドバイスを聞き入れ実行したわけですが、半年ほどすると息子さんの態度が少しずつ変わってきたといいます。そして、一年たった今は、息子さんと和やかに話せるほどになったというのです。
私たちの想念は、一度に二つのことは思えないように出来ています。良いことも思い、悪いことも思えないのです。この想念の性質を、カルマの解消に利用することです。つまり、常に、神を想うことです。神を想っている時は、悪いことは思えないわけですから、カルマは消えてゆくのです。
この表現宇宙は、白板のようなものなのです。白板に書かれた文字は、時間が経てば消えてゆくように出来ているのです。新たな文字さえ書かなければ・・・。業も同じなのです。新たな業を作らなければ、時間が来れば自然と消えてゆくのです。でも、苦しいと、どうしても業の上塗りをしてしまうのです。
病気の苦しみも、息子の乱暴な態度も、みな、現象です。現象は、実際には無いのです。その実際に無い現象に惑わされ悪想念を抱くから、苦しい結果がやってくるのです。想念は、何でも生み出すのです。想念ほど恐ろしく、また、頼もしいものはないのです。
どうか、悪い原因を作らないようにしてください。そうすれば、間違いなく、今の苦境を乗り越えることができます。「原因と結果の法則は間違いない!」ということを強調しておきたいと思います。
2016.12.04
※ なぜ、業は放っといたら消えるのか? その謎をはっきりさせたいと思います。
業というものは現象であって、実在しているものではありません。人の悪想念が作った現象(幻)です。幻ですから、放おっておいたら消えて無くなるのは当然なのです。でも、何も残さず消えていったのでは、悪想念が苦しみの原因であることに気付いてもらうことができません。そこで、神は、業が消える時に、痛みや苦しみを合図として残してゆくよう仕組まれたのです。でも、人間は、その合図の意味が解らないため、再び、心配したり、恐怖したり、悩んだりして、業の輪廻を生み出しているわけです。この業の輪廻から抜け出すには、痛み苦しみは、業が消える時に残す合図だと思うことです。
痛み苦しみを悪く受け取れば、エネルギーを落としてしまうのです。つまり、否定の思いは(悪いと思えば)、エネルギーを落とすのです。肯定の思いは(良いと思えば)、エネルギーを高めるのです。痛み苦しみは、業が消える合図ですから、良い事として、肯定しなくてはならないのです。
悪い業を消そうと思っても、なかなか消せるものではありません。放っといたら消えるのですから、消す必要はないのです。悪い原因を新たに作らなかったらいいのです。どうか、「この痛みや苦しみは、業の消えてゆく合図だから、良い事だ! 嬉しい事だ! 嬉しい! 嬉しい! 嬉しい!」と思ってください。そうすれば、エネルギーが高まりますから、痛みや苦しみは、消えて行くのです。神は、業を消す、こんな簡単な方法を用意してくれているのですから、それを利用することです。
人は、本来、誰でも幸せに生きられるように創られているのです。あるモノさえ正しく使っていたら・・・。 あるモノとは、想念のことです。神は、私たちに、「想念」という素晴らしい宝物を与えてくれました。この想念を正しく使えば、誰もが幸せに生きられるのです。でも、今の地球人類は、そのことを知らないのです。「無知こそ最大の罪」と言われるのは、知らなければ正しく使うことができないからです。
想念は、誰でも自由に使えるのです。何処に行く必要もありません。誰にも邪魔されません。国の違い・人種の違い・大人子供・男女・貧富の差、一切関係ありません。ただ、どう使うかだけです。
「想念を正しく使いましょう!」
「想念を正しく使いましょう!」
「想念を正しく使いましょう!」
これは、何度言っても言い過ぎると言うことはありません。なぜかと言いますと、私たちは、すぐに、サタンにやられてしまうからです。サタンにやられると、良い想念が持てなくなるのです。
さあ、良い想念を持ちましょう。良い想念を持てば、私たちに苦しみは無いのです。
良い想念の一番は、神の想いです。
「吾神なり!」
「吾神なり!」
「吾神なり!」
これ以上の良い想念はありません。
2016.12.11
※ 地球人類はみな自殺している
今日、日本国内だけでも3万人近い自殺者を出していますが、本当は、死人全員が自殺しているのです。なぜなら、想念を悪用し死を招いているからです。病気の死も、事件や事故の死も、災害の死も、戦争の死も、みな、悪想念によって招いているのです。だから、私は、地球人類は、みな、自殺しているというのです。
“何だ! ただ、神を想い続けていれば、いいだけじゃない!”と、あなたが気付いたら、もう、学びは終わりです。
実に単純な学びです。神は、私たちに、こんな単純な学びをさせているのです。私たちが、今日まで、何万転生もしてきた、この世の学びは、この単純な学びを修業することだったのです。何万転生してきた学びが、この想念のコントロールであったと解った途端、笑ってしまいます。唖然としてしまいます。正に目からウロコが落ちる思いです。
肉体は影ですから、何の力もありません。病気や事故災難を作っているのは、すべて想念です。だから、良い想念を使っている限り不幸はないのです。つまり、神を想い続けている限り悪業は作らないわけですから、不幸はないということです。勿論、自分の欠点も無くなります。原子核が増えますから、自覚の境界線も超えられます。神を想い続ければ良いこと尽くめなのです。だから、私の恩師である知花敏彦氏は、“私たちの最後の学びは、想念のコントロールなのですよ!” と言われたわけです。どうか、想念の学びの重要さを知ってください。
何も難しいことを考える必要はないのです。また、余計なことを考える必要もないのです。ただ、神を想い続けていれば、人生の学びは終わるのです。
さあ! 子供心で、「単純に! 単純に! 単純に! 素直に! 素直に! 素直に!」神を想い続けてください。神を想ったら、良いこと尽くめなのですから・・・。
2016.12.18
※ 神を想い続けていれば、病気にもなりません。家族関係も良くなります。心配も、恐怖もなくなります。勿論、サタンにもやられません。神を想ったら、良いこと尽くめなのです。さあ、子供のように素直な気持で、神を想い続けましょう!
神が苦しみを与えているのではありません。私たちが、自分の想念を悪く使って自分に苦しみを与えているのです。想念を悪く使うのは、長い転生で付けた悪癖なのです。克服しなければならない最大の課題です。でも、神は、自我を持たせた段階で、すでに悪癖を無くす方法を授けてくれていたのです。それは、「想念を良く使うこと! 」と言う簡単な方法です。ですから、本当は、反省さえ必要ないのです。私が反省を勧めるのは、耐え難い苦しみを消す即効性があるからです。でも、自己完結型宇宙の仕組みを知ったら、反省の必要は無くなるのです。反省対象の相手は、実際にはいないからです。痛みや苦しみが来た状態は、すでに、業の消える工程に入っているのですから、業の上乗せをしない限り、黙っていても業は消えてゆくのです。上乗せするから、また、同じ痛みや苦しみがやってくるのです。
宇宙の仕組みは、実に単純です。「悪想念を使って苦しみを生み出したなら、良い想念を使って苦しみを消しなさい!」という単純な仕組みです。この仕組みを利用したら、私たちに、苦しみは無いのです。それどころか、人類に、地球に、宇宙に、貢献できるのです。お金もかかりません。何処に行く必要もありません。ただ、悪想念を使わないようにするだけです。とはいっても、私たちは、どうしても、チラッチラッと悪いことを思ってしまいます。これが厄介な点なわけですが、でも、その時は、神を想えば良いのです。神を想えば「業を作らない、自分の欠点は無くなる、原子核も増える」正に良いこと尽くめです。さあ、神を想い続けましょう。
2016.12.25
※ 人類は、未だに想念の偉大さを知らないで生きているのです。だから、悪想念を使い、自ら苦しみを招いているのです。想念は、何でも生み出し、何でも実現させ、何でも成就させるのです。でも、地球人類は、そのことを知らないため、悪想念を使っては、苦しんでいるのです。
あなたの苦しみは、あなたの想念が作ったのですよ!
あなたの人生は、あなたの想念が作ったのですよ!
もう、そろそろ、気付いて良い頃ではありませんか?