目覚めるとは、何も見えなくなることです。何も聞こえなくなることです。何も感じなくなることです。目で何かを見ていたり、耳で音を聴いていたり、肌で何かを感じているうちは眠っているのです。その意味では、五官で色々なものを感じている私たちは、今、眠っている真っ最中というわけです。表の表の顔は裏なのです。裏の裏の顔は表なのです。真実の扉が開かれるのは、その謎を解き明かした時です。さあ宇宙を知り、本当の自分を知り、夢から目覚めましょう。
この宇宙は、たった一つの本質によって創造されました。そのたった一つの本質のことを、神と呼んでいるのです。神は、すべての本源にして本質なのです。だから、宇宙そのものが、神なのです。宇宙は、神であり、神は、宇宙なのです。宇宙は、神のご身体なのです。でも、神の名に囚われる必要はありません。神と呼ぶのが恐れ多いなら、生命と呼んでも、霊と呼んでも、無限と呼んでも、光と呼んでも、エネルギーと呼んでも、何と呼んでもいいのです。なぜなら、何と呼ぼうと、全て神の本質によって創造されたモノだからです。
そうです。
神は、全てのすべてなのです。だから、私は、神は何処にでも転がっているありふれたお方である、というのです。宇宙は、そのありふれた神で満ち溢れているのです。私たちは、今、その宇宙の中にいるのです。そして、宇宙は、今、私たちの中にあるのです。いや、すべての存在物は、今、宇宙の中におり、すべての存在物の中に、今、宇宙があるのです。
宇宙(神)は、すべての本源本質ゆえに、意識と意志と理念を持っているのです。だから、宇宙(神)が、何かを創造する場合、自分が、そのものになることができるのです。宇宙が宇宙を創っているということです。神が神を創っているということです、ゆえに、そこに何かが存在しているなら、それは、間違いなく、宇宙であり、神であるということです。そこに、鉱物・植物・動物が存在しているということは、それは、みな、宇宙であり、神であるということです。ならば、人間が、宇宙であり、神なのは、当たり前ではありませんか。
もう一度いいます。
この宇宙には、神の外、何も存在しないのです。すべてが神であるといい切れるのは、存在している、すべてのモノの中に、神なる本質が内在しているからです。だから、私たちは、間違いなく、神であり、宇宙なのです。
私抜きで、何事も、はじまりません。私は、「その宇宙」において、唯一の存在であり、主役だからです。なぜなら、私の意識は、主観的意識だからです。この主観という見方が、「その宇宙」を理解する上において、とても大切なことなのです。主観という意味は、一つの立場から観る世界観や宇宙観のことです。だから、その立場(主観)に立てる者は、一様しかいません。唯一の宇宙しか存在しない理由は、その立場に立てる主観者は一様しかいないからです。その宇宙を存在させているのは、唯一、その主観者であるということです。
その主観者が、私なのです。あなたなのです。ということは、その主観者は、人類の数ほど存在することになるでしょう。また、同時に、人類の数ほど宇宙が存在することになるでしょう。なぜなら、主観者は、内側に一様しかいないけれど、外側には人類の数ほど存在しているからです。「その宇宙」と表現したのは、「その主観者の観る宇宙は」という意味で、唯一の主観者を意味しているわけではありません。つまり、唯一の主観者は一様しかいないけれど、「その主観者」は、人類の数ほど存在しているという意味です。
私たちは意識を持っていますが、それは、あくまでも主観的なものです。主観者が認めなければ、何も存在しない理由は、主観者が認めて、はじめて、認められるものが存在できるからです。認める者がいなければ、宇宙はおろか、何も存在できないのです。その認識は、あくまでも、主観的なものですから、主観的意識を持つ私たちが、唯一の創造主であるといえるのです。つまり、主役であるといえるのです。主観者抜きで、何事も、はじまらないのは、主役抜きでは、何の物語も生まれないからです。神とは、この主観者のこと、すなわち、主役のことをいっているのです。だから、私は神です。あなたは神です。その意味では、この表現宇宙に無数の主役(神)が存在すると同時に、唯一の主役(神)しか存在しないことになるでしょう。先ほどもいったように、その主観者は、外側には無数に存在するけれど、内側には一様しか存在しないからです。
この宇宙には、たった一つの偉大なる宇宙意識しか存在しません。その意識は、人間の意識でもあるのです。なぜなら、人間は意識を持っているからです。この宇宙には、たった一つの宇宙意識しかないわけですから、人間の意識が宇宙意識なのは当然でしょう。人間の意識は宇宙意識であり、宇宙意識は人間の意識なのです。だから、人間がいなければ、表現宇宙(物質宇宙)は、あり得ないのです。人間がいなければ、表現宇宙を認識する者がいないわけですから、表現宇宙が存在できるわけがないからです。表現宇宙は、人間が認識することによって存在できているのです。つまり、人間の意識は原因体であり、表現宇宙は結果体なのです。原因体である人間の意識がなければ、結果体である表現宇宙は、あり得ないのは当り前でしょう。しかし、残念なことに、人間は、百人が百人とも自分のことを肉体(結果体)だと錯覚しております。本当の自分は、大いなる原因者(宇宙意識)なのに、形を自分と錯覚し、小さな自分にしているのです。
意識は、意識している通りのもので、それ以上のものでも以下のものでもありません。だから、私たちは、花にも、鳥にも、雲にも、星にも、大宇宙にもなれるのです。なのに、あなたは、なぜ、小さな肉体の中に自分を閉じ込めるのですか? なぜ、大いなる自分を、小さな自分にしてしまうのですか? 私たちは、偉大なる宇宙意識なのですよ! 私たちは、その意識を持っているわけですから、何にでもなれるし、何でも創造できるのです。私たちは、建築主であり、設計家であり、建築家であり、素材であり、建築物そのものなのです。原因体である、私がいなければ、結果体である、妻(夫)も、子供も、会社の上司も、友達も、恋人も、花も、猫も、犬も、月も、地球も、宇宙も、何もあり得ないのです。
だから、遠慮なく大宣言すれば良いのです。
生命とは、神とは、宇宙とは、原因者とは、この宇宙に、たった一つしかない、私の(あなたの)意識のことなのです。
見えないものは一つしかないといえば、“ そんなこと当たり前ですよ!” といわれそうですが、これは、当たり前で済まされる問題ではないのです。なぜかといいますと、見えないものが一つしかないということは、その見えないものは自分であるということになるからです。その根拠を示しましょう。
なぜなら、その見えない一つのものは、絶対に無くならないからです。無くならないものは、無限であり、永遠であり、完全なのです。また、見えないものが一つしか無いということは、その見えないものは、全てのすべてということになり、その見えないものは、私であり、あなたであり、万象万物であるということになります。そうです。
ということは、私たちは、いつも、その一つの見えないものを観ていることになります。その一つの見えないものと語り合っていることになります。その一つの見えないものとお付き合いしていることになります。そうです。私たちは、毎日、自分と語り合い、自分とお付き合いしているのです。なぜなら、私は あなた だからです。あなたは 私 だからです。だから、私は、私の物は あなたのもの、あなたの物は 私のものというのです。もし、あなたが誰かを 恨み 憎み 怒っているなら、それは、自分を 恨み 憎み 怒っていることになるのです。もし、あなたが誰かを愛しているなら、それは、自分を愛していることになるのです。何せこの宇宙には、見えないものは一つしかないのですからね・・・。つまり、私しかいないのですからね・・・。真実とは、このように、この宇宙に一つしかない見えないものを指していうのです。つまり、私のことを指していうのです。
十字架は、横の線と縦の線が十字に交差した形をしていますが、この形は、宇宙の法則を示しているのです。すなわち、十字の縦の線は、原因と結果の法則を示しており、横の線は、陰陽の法則を示しているのです。この二つの法則を、私は、大宇宙を支える「十字の法則」と呼んでおります。十字架は、正に、宇宙の象徴なのです。では、この二つの法則は、どのような働きをしているのか見てみることにしましょう。
宇宙には、絶対宇宙と相対宇宙にまたがる縦の大循環運動と、相対宇宙内における縦の小循環運動と、相対宇宙内における横の循環運動の三つの循環運動があります。縦の大循環運動とは、相対宇宙を、生み、維持させ、消滅させている脈動運動のことで、これを、私は、宇宙の輪廻と呼んでおります。これは、絶対宇宙の働きを動脈運動と考え、相対宇宙の働きを静脈運動と考えれば分かりやすいかもしれません。勿論、その働きを支えているのは、因果の法則です。
縦の小循環運動とは、相対宇宙内で行われている、物質界と幽界の輪廻のことです。私たちは、この縦の小循環を繰り返すことによって、進化成長を遂げてゆくわけです。勿論、これも、因果の法則が裏支えしているのはいうまでもありません。相対宇宙内における横の循環とは、陰陽の法則のことで、いわゆる、物質とエネルギーの循環のことです。この循環の働きによって、相対宇宙に様々な生き物が誕生してくるのです。このように、宇宙は、二つの縦の循環運動と一つの横の循環運動に支えられ、永遠の存続を可能にしているのです。
さて、因果の法則と陰陽の法則は、原子一個の中にも、砂一粒の中にも、地球の中にも、大宇宙の中にも、人間の中にも、組み込まれております。原子も、人間も、大宇宙も、似ているといわれるのは、同じ、十字の法則によって支えられているからです。人間は、十字架そのものなのです。手を横に広げてみてください。十字架に似ていますね。頭の方が原因で、足の方が結果です。左手の方が陰で、右手の方が陽です。そして、胸の中心付近が、第二の聖点になっています。第二の聖点を中心にして、原因と結果が縦に循環し、さらに、陰と陽が横に循環して、人間を健全な方向へ導いているのです。だから、この循環が崩れたら、たちまち、病気になったり、災難に遭ったり、死に至ったりするわけです。この宇宙は、実に、単純、簡潔、相似に創られています。一つを知れば全体が解るのは、その単純さゆえです。だから、人間を知れば、宇宙を知ることができるわけです。宇宙を知りたかったら、十字の法則を知ってください。人間を知ってください。
さて、小宇宙である人間には、七つのチャクラーがあります。
この七つのチャクラーには、大きく分けて三つの役割があります。
のどから上の五・六・七のチャクラーは、天の役割を司っております。のどから下の三・二・一のチャクラーは、地の役割を司っております。真ん中に位置する第四のチャクラーは、天のエネルギーをスパークさせる役割と、地のチャクラーの開発を促す役割を司っております。その意味では、第四のチャクラーは、天と地の両方に属するチャクラーといっていいかもしれません。個別の主な役割としては、第七のチャクラーは、神の理念(想い)を降ろす役割を担っております。第六のチャクラーは、波動の増幅装置の役割を担っております。第五のチャクラーは、天と地の橋渡しをする役割と、神の想いを振動(音声・響き)に変える役割と、第四のチャクラーと第六のチャクラーを結びつける役割の三つの役割を担っています。だから、第五のチャクラーのことを、〇点とも、接点とも、第一の聖点とも呼んでいるのです。第三のチャクラーは、形を生み育てる役割を担っております。第二のチャクラーは、地のエネルギー(第三のエネルギー・酸素)を燃焼させる役割を担っています。第一のチャクラーは、本能を揺り動かし、地のエネルギーを循環させる役割を担っています。このように上の方のチャクラーは霊的な働きをし、下の方のチャクラーは物質的な働きをしているのです。さて、チャクラーには、下から上に向かって赤・橙・黄・緑・青・紫・白と七つの色が着いていますが、下の方は振動数が低く、上の方は振動数が高いのです。この振動数は、七つの複合体(人体の七層)と深い関係があり、さらに、音階とも深いつながりがあります。例えば、赤は{ド}と、橙は{レ}と、黄は{ミ}と、緑は{ファ}と、青は{ソ}と、紫は{ラ}と、白は{シ}と、いった具合に音階と同調しているのです。この音階のコードを高めてゆくと無音となり、最終的に想念の色にたどり着きます。また、色階の波動を高めてゆくと無色となり、これも、想念の色にたどり着きます。想念の色とは、白のこと、白光のこと、幸福の色のことです。まさに、白色は、永遠に飽きない幸福を生み出す色なのです。先ほど、五・六・七のチャクラーは天に属し、三・二・一のチャクラーは地に属すると述べましたが、その意味では、青と紫と白は、天上界(神界・霊界)の色で、黄と橙と赤は、地上界(物質界・幽界)の色といってもいいでしょう。また、中間に位置する緑は、天地のバランスを保つ色ですから、両方の世界に属する中庸の色といってもいいかもしれません。緑を見ると心穏やかになるのは、そのためです。この七つのチャクラーは、原子の中にも、人間の中にも、地球の中にも、大宇宙の中にも、存在していて、相互に関係を保ちながら一糸乱れぬ連動した働きをしているのです。一つひとつ単独で働いているのではなく、すべてのチャクラーと同調しながら、絶対宇宙から相対宇宙へ、相対宇宙から絶対宇宙へ、エネルギーを循環させているのです。
ある人から、こんな質問を受けました。「自我人間がどんなに、“ 吾生命なり!” と瞑想しても、自我人間そのものが幻だから、幻の自我人間が幻の自我人間を目覚めさせることなどできないのではないでしょうか?」と・・・。確かに、この人がいう通り、自我人間は実在しませんから、実在しない自我人間が瞑想しても、目覚めることはできないでしょう。でも、良く考えてみてください。その「吾生命なり!」と想わせている力は、どこからきているのでしょうか。神(生命)からではありませんか。ならば、その想いには、神の力が秘められているのではないでしょうか。思考が肉体から生まれているなら、そのような力は無いかもしれませんが、神からきているのですから、その力によって目覚めることは可能なはずです。よろしいですか。どんなに人間だと想っても、その想いは神からきているのですよ! ただ、想いの中身と強さによって、実現力に違いが出てくるだけです。つまり、想いの中身が濃く強ければ強い実現力となるし、薄く弱ければ弱い実現力になるということです。でも、どんなに薄く弱い想いでも、それなりの実現力はあるのです。「想念は実現の母」といわれる理由は、自我人間の想いにも、それなりの実現力があるからです。これは、こういう事と同じなのです。
唯物論者は、神を否定しますが、その否定する力は、どこからきているのでしょうか。神からではありませんか。神の力なしに唯物論は説けないのですよ! 彼らは、唯物論を説く力が、神からきていることを知らないのです。でも、知らなくても、神の力によって唯物論が説かれていることは間違いないのです。実在しない自我(肉体)が、どうして考えることができるでしょう。どうして言葉を話すことができるでしょう。今、思っているのは、今、語っているのは、紛れもない神なのです。ただ、神でありながら、人間だと思い違いしている神がいるだけです。
何も無いところからは、何も生まれないのです。実際にある神から、幻も真実も生まれるのです。「あなたが、どんなに人間と思っても、神である事実は変わらない!」と、私がいうのは、その人間と思わせている力そのものが神からきているからです。あなたを存在させているのは、神の力によるのですよ!。
人間と思わせている思いは、真実から生まれたのです。真実から生まれた思いを否定すれば、真実を否定することになるのです。つまり、神を否定することになるのです。 神を否定するということは、自分を否定するということです。ということは、自分を殺しているということです。でも、安心してください。幻は幻を殺せないのです。幻には何の力も無いからです。殺せるのは実際に有る真実だけです。その真実は、幻さえも否定しないのですから、幻のあなたを殺すことは絶対ないのです。
繰り返します。
幻からは幻は生まれないのです。幻は真実から生まれるのです。真実を否定すれば、自分を否定するという矛盾に気付いてください。
唯物論者は肉体から思いも言葉も生まれると信じていますから、平気で神を否定するのです。肉体は永遠ですか? 消えて無くなるのではありませんか? 消えて無くなる肉体が、どうして真実でしょうか?。幻ですね! その幻の肉体に、思いも言葉もあるわけがないのです。そんな幻から生まれた唯物論が、どうして正しいのでしょうか。唯物論者に、“ 肉体(脳)は実在しますか?” と問うと、口ごもりながら実在しないといいます。そういいながら、その実在しない肉体から生まれた唯物論が正しいと思っているのですから、こんな滑稽なことはありません。幻の脳から、どうして思考が生まれるでしょうか。脳は実在しないといいながら、その脳から生まれた唯物論が正しいと信じる矛盾に、彼らはどうして気付かないのでしょうか。もし、物質である脳から思考が生まれるなら、コンピューターから思考が生まれるといわねばなりません。そんなことはあり得ないわけですから、物質である脳から思考が生まれることはないのです。脳もコンピューターも物質です。物質には、一点の知恵も力も無いのです。物質は消えて無くなる幻です。実際に無いから、真実なるものではないから、消えて無くなるのです。
宇宙は、人の理解力に相応して展開して行く意識の創作物です。この宇宙に、こんな宇宙がある、あんな宇宙がある、といった出来上がった宇宙があるわけではないのです。一人ひとりの理解力によって生み出された、意識の創作宇宙があるだけです。だから、地獄という世界があるわけでも、天国という世界があるわけでもないのです。自分の理解力に基づいて創られた自分の世界があるだけです。その世界を地獄の世界にするか天国の世界にするかは、どのような理解力に基づいた思考を持つかで決まるのです。つまり、地獄のような苦しい思考を持てば、地獄の世界を創るし、天国のような楽しい思考を持てば、天国の世界を創るわけです。これが理解できない限り、私たちは、不自由な物質の世界に封じ込められ、様々な、苦しみや悲しみに喘がねばならないのです。
確かに、外側には、沢山の世界が有るように見えます。誰かが、何かが、創った世界が有るように見えます。でも、その世界は、人間が生み出した幻の世界で、実存している世界ではないのです。私たちは、体験しなければ、宇宙の実体が把握できないため、自ら幻の世界を創って、そこで学んでいるのです。迷った人間に必要なのは体験です。体験を通してしか、目覚めることができないのです。
人間は、一人ひとりオリジナルな宇宙を持っています。そのオリジナルな宇宙は、本人の理解力に基づいて創られた独自の宇宙ですから、その宇宙に他人が住むことはできないのです。なぜなら、人それぞれ理解力が違うからです。宇宙は、一人ひとりのものなのです。一人ひとりが、その宇宙の当事者なのです。その当事者は、あなたの主観宇宙に、あなた一人しかいないのです。主観宇宙を創っているのは、主観者である当人ですから当然でしょう。だから、あなたは、あなたの宇宙の主なのです。大王なのです。天上天下唯我独存なのです。
誰もが、共通の宇宙があると思っておりますが、この宇宙には、共通の宇宙などあり得ないのです。あるのは、その人の理解力が生み出した主観宇宙だけです。要するに、この地球に70億の人間がいるとすれば、70億人分の主観宇宙があるということです。確かに、客観的に見たら、一つの宇宙を客観視している70億人の共通宇宙があるように見えるかもしれません。でも、その客観視しているのは主観者ですから、客観的宇宙(共通の宇宙)などあるわけがないのです。先ほど述べた、オリジナルな宇宙観は、分離観を持った迷い人の宇宙観であって、悟り人の宇宙観ではありません。悟り人の宇宙観は、全一体の宇宙観ですから、そこには、たった一つの究極の宇宙があるだけです。悟れば、一つの宇宙に収斂されてしまうわけですから、一つの宇宙しか存在しなくなるのは当然だからです。というよりも、一つの自分になってしまうわけですから、一つの宇宙しか存在しなくなるということです。
宇宙のカラクリの見事さは、一つのものを二つに見せかける巧妙な技法です。
例えば、
宇宙は相対させることで、一つの真実を明かそうとしているのです。一つのものを二つに見せかけねば、真実を知ってもらうことができないので、神は相対観念を通して私たちの意識を研いているのです。どうでしょう? 小さなものがあるから、大きなものがあると解るのではありませんか? 右があるから、左があると解るのではありませんか? 上があるから、下があると解るのではありませんか? 一つだけなら、一つは解らないのです。ホンモノだけなら、ホンモノは解らないのです。どうか、この意味の深さを知ってください。
私たちは、そこにモノがあると認識します。なぜ、認識できるかといいますと、そのモノの中に自分がいるからです。これまで何度も述べてきたように、私たちの本性は、宇宙生命という本質です。その本質は、モノを形作っている大元ですから、私がそのモノを認識した途端、私という本質がそのモノになるのです。なぜなら、私の意識そのものが本質そのものだからです。意識は、モノを生み出す製造機の役割を果たしているのです。意識すれば、何でも生み出されるのは、意識そのものが本質だからです。その意識が私ですから、私が認識すれば、私の本質が、そのモノを創造してしまうのです。要するに、私の意識が、この宇宙を創っているということです。ということは、私そのものが、宇宙であるということです。宇宙は、私の本質で創られている、私そのものなのです。
そこにモノがあるということは、私という本質がそのモノの中にいるということです。私という本質がそのモノの中に宿って、そのモノを創っているから、私はそのモノが認識できるのです。もし、私がそのモノの中にいなければ、そのモノはあり得ないわけですから、そのモノを私が認識できるわけがないのです。私があなたを認識しているということは、あなたは私であるということです。私が花を認識しているということは、花は私であるということです。私が宇宙を認識しているということは、宇宙は私であるということです。その本質は、宇宙に一つしか無いのです。一つの本質が、様々なモノに化身して自分を表現しているのです。だから、沢山のモノがあるように見えるけれど、その中身は一つなのです。一つしかない本質から、二つも三つも別なモノが創られるわけがないということです。だから、その一つのモノを知れば、宇宙のすべてのモノを知ることができ、自分も知ることができるわけです。
神が一様といわれるのは、その一つしか無い本質が神だからです。私たちは、沢山の形を見せられることにより、沢山のモノがあるようなトリックに引っかかっているのです。沢山のモノがあると思えば、私があり、あなたがあり、ということになるので、他人を自分のように愛せなくなるのです。一つしか無いと思えば、あなたは私であり、私はあなたである、という一体感になれるので、他人を自分のごとく愛せるようになるのです。そこに、どうして争い事が生まれるでしょうか。すべては一つであるという真理が、地球を平和な星にするのです。私たちは、一つを沢山に見せかけるトリックに引っかかり、今、様々な争い事を生み出しているのです。どんなに沢山のモノを見せられても、それは、一つのモノの現れですから、決して、自分と切り離してはならないのです。
確認しましょう。
私が宇宙を認めたから、宇宙は存在できるのです。私が宇宙を認識する限りにおいて、素材である私が宇宙そのものとなっていなくては、宇宙を認識することができないのです。要するに、そこに、物が、世界が、宇宙が、存在しているということは、私が、その物を、その世界を、その宇宙を、認めたということです。認めたということは、素材である私が、その物となって、その世界となって、その宇宙となって、そこに居るという意味です。だから、物は、世界は、宇宙は、私の意識が創造しているといえるのです。意識そのものが、生命そのものであり、素材そのものであり、私そのものだからです。
認めている私と、認められている私は同じ私なのです。見ている私と、見られている私は同じ私なのです。私が人間を認めているということは、人間は私であるということです。認めている私は、認められている人間そのものだからです。認められている人間は、認めている私そのものだからです。私が生命を認めているということは、生命は私であるということです。認めている私は、認められている生命そのものだからです。認められている生命は、認めている私そのものだからです。
一なるものが、二にも三にもなることはないのです。一なるものは、どこまでも一なるものです。宇宙に一なる素材(生命)しか無いという絶対真理は、私しかいない、私の世界しか無い、私の宇宙しか無い、つまり「天上天下唯我独存(尊)」を意味しているのです。すべてを一なる目で見ることができたら、天上天下唯我独存の意味が理解でき、このトリックを見破ることができるでしょう。一つのモノしか無いのに、沢山のモノがあるように見せかける巧妙なトリックが、今まで、本当の自分を見失わせてきたのです。騙されてはなりません。どんなに沢山のモノがあるように見えても、それは一つのもの(本質・生命)の化身です。その一つのものが私ですから、私の外に何も無いということです。
存在とは、存在の心です。存在させている意識です。私という意識です。その意識は、本質であり、生命です。その私という意識は宇宙に一つしかないわけですから、すべての物は私の意識によって存在させられているといえるのです。何を見ても、何を感じても、みな、私の意識の現れだと心から思えたら、もう、このトリックに引っかかることはないでしょう。
「理解されないものは存在しない!」というのは真理です。例えば、私が、ある人に、あるお話をしたとしましょう。もし、その話が理解できたら、その人は、私の宇宙に存在することになります。でも、理解できなかったら、その人は、私の宇宙に存在しないことになるのです。これは、非常に理解しづらいことかもしれませんが、もし、あなたが、このことが理解できないなら、あなたは、私の宇宙に存在しないことになります。私の宇宙に存在しないということは、あなたは、いないということです。こういうことです。
例えば、今、Aチャンネルで世紀の話題が放映されているとします。この場合、Aチャンネルを持っている人には、その世紀の話題は存在しますが、Bチャンネルしか持っていない人には、その話題は存在しないことになります。当然、Aチャンネルを持っている人と、Bチャンネルを持っている人との話題は、かみ合わないでしょう。無理やり話題を合わそうとすれば、混乱してしまうだけです。上からは下が見えても、下から上は見えないとは、このことなのです。
波動の違うAチャンネルとBチャンネルは、同調できないのです。同調できなければ、Aチャンネルの世紀の話題は、Bチャンネルでは無いことになるのです。つまり、Aの理解力を持つ人には、世紀の話題はあっても、Bの理解力を持つ人には、その世紀の話題は無いのです。ということは、その人は自分の宇宙に存在しないということです。だから、私は、存在しない人と議論してはならないというのです。議論すれば、お互いの宇宙を混乱させてしまうからです。
例えば、神が理解できない人にとっては、神は存在しないことになり、また、その人も存在しないことになるのです。なぜなら、理解できない意識は、存在意味が無いという意識の否定になるからです。理解されないものは無いのが、この宇宙の根本原理ですから、理解できない人は、その宇宙に存在しないことになるのです。良く考えてみてください。理解できない人の前に何があっても、それは、存在しないのではありませんか。
裏返せば、あなたの存在しない宇宙に何があっても、それは、無いということです。それは、あなたにとって存在意味がないからです。あなた、あっての世界なのですよ! あなた、あっての宇宙なのですよ! ということは、先程から述べているように、あなたの理解できないものは、何があっても無いということです。理解できない人の前に何があっても、それは無いのです。
この話は、理解できる人には重い響きとして受け取って頂けるはずです。
人間の身体を縦に二つに別けると、首から上の部分と首から下の部分に別けられます。首から上の部分は絶対宇宙を現し、首から下の部分は相対宇宙を現しています。横に二つに別けると、体の左半分が陰の宇宙を現し、右半分が陽の宇宙を現しています。首のくびれた部分は、絶対宇宙と相対宇宙をつなぐ架け橋になっていて、そのくびれを通して表現宇宙の様々な営みが生まれてくるのです。(このくびれは、第一の聖点とか接点とか〇点とか、あるいは針の穴とか呼ばれている。)ある聖者は、宇宙をヒョウタンに例えていますが、まさに、ヒョウタンと人間と宇宙は良く似ております。例えば、ヒョウタンは、くびれを利用して、同じ量の水を出したり入れたりしています。人間も宇宙も、このくびれを通して、絶対宇宙から相対宇宙へ、相対宇宙から絶対宇宙へ、均等にエネルギーを循環させているのです。似ているのは、それだけではありません。機能的にも、能力的にも、また、表現においても、ヒョウタンと人間と宇宙は良く似ているのです。では、人間と宇宙が、いかに似ているか、宇宙を一本の糸に例え説明してみたいと思います。
絶対宇宙には、たった一本の糸が存在します。その糸は、別名、元数1とか、白光とか、宇宙意識とか、神とか、呼ばれている宇宙の主であり大元です。その一本の糸は、一本の糸のままでは、自分の存在が明かせないため、無数の糸に別けて放射し表現宇宙を創造したのです。(無数の糸とは、分数・元素・原子番号のことです。)いわゆる、無数の糸は、一本の糸の分身となったわけです。でも、この無数の糸は、自分が何者なのか記憶を失っています。私は、いったい何者なのだろうか? 糸は考えます。でも、分かりません。そこで、糸たちは、自分を知るために集まってきます。
無数の糸たちは、集まることによって自分が何なのか、少しずつ知りはじめます。そして、ついに、自分たちが、一本の糸であったことに気付きます。でも、絶対宇宙に帰るためには、無数の糸のままでは帰れません。なぜなら、帰るためには、一本の糸に戻らなくては、聖点のくびれを通ることができないからです。そこで、無数の糸たちは、長い時をかけ、一本の糸に編み込んでゆきます。これが、糸の編み込み作業、生命核(魂)の濃縮作業です。糸を編み込んで行く途中で、様々なドラマが生まれるわけですが、これが、私たちの演じる人生ドラマの数々です。こうして、一本の糸に編み終えた糸は、聖点のくびれを通って、故郷である絶対宇宙に帰って行くのです。イエス様が「悟るのは、針の穴を通るよりも難しい!」と比喩的に語った所以です。
今の私たちは、無数の糸のような存在なのです。今、私たちは、人間社会において、様々なドラマを演じ合っていますが、これは、無数の糸を一本の糸に編み込む作業と考えたらいいでしょう。人類は、やがて、一本の糸に編み終え、針の穴を通って、故郷である宇宙生命に帰ってゆくことでしょう。一から出たものは、一に帰るのが定めです。これは、否応なしなのです。
「見えるものは非実在で、見えないものは実在である! 」ということを心底で理解できたら、もう、あなたは、何も学ぶ必要はありません。完全に、目開きになります。ということは、宇宙のすべてが解った、ということになります。そうなると、変性変容が起きてきます。あなたは、いぶかしげな顔をしていますが、見えないものが実在である、ということは、今まで身を持って体験してきたのではありませんか?
例えば、
宇宙法則は見えますか? 空気は見えますか? エネルギーは見えますか? 想いは見えますか? 言葉は見えますか? 愛は見えますか? これだけ、見えないものの恩恵を受けているというのに、あなたは、どうして見えないものを否定するのですか? 宇宙法則は、見えないのです。でも、見えない法則によって、私たちは、生かされているのです。このことを、私は、知って欲しいのです。
「見えないものこそ、絶対実在である!」ということを心の底で知れば、目は、大きく開かれ、あなたは、間違いなく変わります。さあ、目覚めてください。目が覚めるということは、何も見えなくなるということです。目に何かが写っている間は、眠っているのです。ですから、毎日、いろいろなものを見ている、あなたは、今、夢の中にいるのです。どうか、目覚めてください。目覚めたら、“ 私は、何も見えません!” というようになるでしょう。
絶対宇宙には、唯一の意識体(宇宙意識)が存在します。これを私たちは神と呼んでおります。でも、神という名に囚われる必要はありません。神と呼ぶのが恐れ多いなら、「生命」と呼んでも良いのです。「無限」と呼んでも良いのです。「創造主」と呼んでも良いのです。「宇宙意識」と呼んでも良いのです。「宇宙」と呼んでも良いのです。「私」と呼んでも良いのです。要するに意識と意志を持ち、しっかりとした目的意識を持って、宇宙を差配している存在が神なのです。ここで、神という名を使わせてもらうのは、古来より人類が、あこがれ、畏怖し、崇め、すがってきた対象物が、神の名であったからです。
その神には、三つの悩みがありました。
{※ 神は完全ですから、神に悩みがあるわけがありません。説明上必要なので、このような表現を使いました。その点誤解のないようにしてください。}
一つは次のような悩みでした。
「私は偉大な能力を持っている。でも、その能力は、私の思いの中にあるだけで、実現化されていないのだ! これで良いのか?」
そうです。どんなに偉大な能力を持っていても、表現しなければ、ただの自己満足にしか過ぎません。どんなに素晴らしい理念を持っていても、表わさなければ、単なる空論で終わってしまいます。どんなに素晴らしい絵の構想を持っていても、描いて見せなければ、嘘になるのです。これが一つ目の悩みでした。
二つ目の悩みは、次のようなものでした。
神は、絶対宇宙における唯一の存在者ですから、そこには、自分しかおりません。神は、思いました。
「自分だけが自分の存在を知っていて、いったい、何になるのだ? 自分しか存在しない宇宙に、いったい、どんな意味があるのだろう? いや、自分しか、いなければ、自分の存在は無いのではないだろうか? 誰かに認められて、はじめて存在意義が出てくるのではないだろうか?」
そうです。一しか無ければ、一は無いのです。自分しかいなければ、自分は無いのです。なぜなら、自分が自分を見る(知る)ことなどできないからです。あなたは、自分を、直接、見たことがありますか? “ 鏡に映して自分を見ました、あるいは、写真に撮って自分を見ました ” といわれるかもしれませんが、それは、間接的に見たのであって、直接、見たわけではありません。いまだかつて、直接、自分を見た人は、一人もいないのです。白板に白墨で書いても分からないのです。雪の中に白ウサギがいても分からないのです。このように、絶対の中にいては、絶対は分からないのです。一の中にいては、一は分からないのです。自分の中にいては、自分が分からないのです。
最後の悩みは、次のようなものでした。
「確かに、今、私は、幸せいっぱいである。でも、この幸せは、一体、いつまで続くのだろうか? 昔は、今以上に幸せだったのに、今は、それほど幸せとは思えない。どうも幸せに慣れ、幸せの味が薄れてきたようだ。このままだと、今の幸せも、いつか消えてしまうのではないだろうか?」
意識の一番の弱点(強点かもしれません)は、飽きてしまうことです。皆さんも体験があると思いますが、どんなに面白い映画も、何度も見れば飽きてしまうものです。どんなに楽しい遊園地の乗り物も、何度も乗れば飽きてしまうものです。幸せも、同じ幸せの中にいては飽きてしまうものなのです。これは、永遠の意識を持つ者にとって大問題です。
神は、この三つの悩みをどう解決すべきか考えました。
「そうだ! もう一つの自分(相対宇宙)を創ろう! そうすれば、三つの悩みはすべて解決するはずだ!」
神は、このような理由から、もう一つの自分(私・人間)を創ることにしたのです。すなわち、相対宇宙(表現宇宙・物質宇宙)を創ることにしたのです。(自分とは、神「自」らが、自分を「分」けたという意味です。)
神は、相対宇宙を創るに当たり、自らの意識を四方八方に放射しました。(これをビッグバーン、あるいは、パンドラの箱現象ともいう。)その放射した意識は、光であり、エネルギーであり、本質であり、神ご自身です。その意識は、波動を下げ、色光となりました。さらに、波動を下げ、意識核となりました。さらに、波動を下げ、原子となりました。原子には、質量があるため、原子化された段階で、時間と空間が生まれます。これが、時空の誕生、すなわち、表現宇宙の誕生です。
「神が物を創造する場合、神自らがその物になるしかない!」といわれる理由は、この宇宙に神しか存在しないからです。神は、理念の主であり、本質そのものですから、物を創造する場合、自らその物になることができるのです。ということは、この表現宇宙(相対宇宙)は、神ご自身で構成されているということです。言いかえれば、表現宇宙そのものが、神ご自身であり、そこに創られた様々な物も、神ご自身であるということです。こうして、全能の神は、自らを素材として使い、この表現宇宙を創造されたわけです。
【一つ目の目的の達成】
宇宙をご覧ください。あまねき輝く銀河の群れ、多彩な色光を放ち宇宙を浮き彫りにしている恒星たち、見事なまでに散りばめられた惑星や衛星たち、その合間をかいくぐって遊ぶ彗星たち、また、青い星々に誕生した数知れない生き物たち、寸分の狂いも無く運行する星の動きの妙技、ああ、神は、何と素晴らしい絵を表現宇宙に描かれたことか・・・。この素晴らしい絵を一目見ただけでも、全能の神の偉大さが分かろうというものです。
こうして、神の一つ目の目的は達成されました。ただ一つ憂いがあるとすれば、神が放射された意識核の記憶が希薄になった点でした。自分が何ものか覚えていないのです。「私」という記憶はあっても、私がいったい誰なのか分からないのです。
「私は、なに者なのだ!? 私は、いったい誰なのだ!? 分からない!?」 意識核は、戸惑います。意識核に記憶が無ければ、意識核の集まりである、生命核(魂)に記憶がないのは当然です。だから、その生命核を宿している人間にも、神の自覚がないのです。でも、神は、そうなることを織り込み済みで表現宇宙を創ったのです。それは、意図あってのことでした。もし、人間に神の自覚があったら、自分相手に一人芝居はできませんから、この表現宇宙に感動のドラマは生まれなかったでしょう。後で説明しますが、感動のドラマが生まれなくては、神の最終目的は達成されないのです。
【二つ目の目的の達成】
神は、織り込み済みで意識核の記憶を奪いました。しかし、神は、記憶を蘇らせる方法も忘れませんでした。それは、意識核自らに、記憶を蘇らせる仕組みを持たせたことです。
(エントロピー縮小の仕組み)
まず、親和力によって、意識核自らが集まってきて宇宙空間に塵が生まれます。その塵が集まって、星が誕生します。星の誕生、すなわち、鉱物の誕生です。その鉱物の中心に、意識核の集合体である生命核(魂)が宿ります。(形が創られると中心に生命核「魂が」宿るのは、宇宙の約束事「法則」である。) やがて、本質の力によって、数知れない植物が繁茂し、星は緑で覆われます。当然のごとく、植物の中心に生命核が宿ります。次いで、動物が誕生します。動物が増えるのも、神が与えてくれた、本能力によるものですが、その中心に同じように生命核が宿ります。そして、最後に人類が誕生します。そこには、当然、鉱物・植物・動物から受け継いだ生命核を宿しております。このようにして、記憶を失った数知れない意識核が、生き物の中に生命核として濃縮されてゆくのです。生き物の誕生は、生命核を濃縮する作業そのものであるわけです。
生命核が濃縮され、ある量に達すると、失っていた記憶が一部蘇ります。つまり、“ああ、私は人間なのだ! 宇宙がある! 妻や子や友達がいる!” と、自覚できるようになるのです。これを自我が備わった生命体といい、進化の第一段階を卒業したことを意味します。宇宙を認識できるということは、神(自分・私)を認識できるということですから、これは、神が意図していた二つ目の目的が達成されたことになります。
【三つ目の目的の達成】
さて、神は、二つの目的は達成しましたが、最終目的である「永遠に尽きない幸せ! 永遠に色あせない幸せ!」を得る目的は、まだ、達成できていません。そこで、神は、私たちにドラマを演じさせる舞台を与えたのです。それが、地球(惑星)という舞台です。これまで、地球上で、どれほどの数のドラマが、また、どんな筋書きのドラマが、生まれたことでしょうか? まさに、人間が生み出したドラマは、次から次へと注ぎ込まれる新鮮な水のようなものです。そのドラマの数々が、永遠に尽きない、永遠に色あせない、幸せを生み出してくれるのです。三つ目の目的が達成されるのは、そのドラマを神の世界(絶対宇宙)に持ち帰ることです。では、そのドラマを神の世界に持ち帰るには、どうすれば良いのでしょうか?
この表現宇宙には、前述したように無数の意識核が浮遊しております。意識核が浮遊している間は、時空は、そのままの状態で存在し続けます。それでは、ドラマを持ち帰ることはできません。ドラマを持ち帰るには、時空を縮めなければならないのです。その役割を担っているのが、人類の悟りなのです。悟った生命核(魂)には、膨大な意識核が濃縮されているわけですが、その意識核を神意識の一点(パンドラの箱)に帰すことが人類の最終目標なのです。
地球人類の生命核(魂)は、これまで、鉱物・植物・動物が集めてくれた意識核を受け継ぎ、さらに、自らも集め、やっと、“ 自分は人間である! ” と自覚できるところまで成長してきました。でも、まだ、神だと自覚できるところまで至っておりません。ということは、地球人類は未熟な魂の段階にあるということです。生命核がある一定量集まると、否応なしに、“ 自分は神であった!” という自覚に至ります。これを自覚の境界線を超えた生命体といい、進化の第二段階を卒業したことを意味します。この段階に至った人の魂には、膨大な量の意識核が濃縮されているのです。つまり、表現宇宙を縮小させる(時空を縮める)力が秘められているのです。まだ、地球は幼いため悟り人は少ないですが、いずれ多くの人が自覚の境界線を超え、進化の第二段階を卒業するでありましょう。
ビッグバーン以来、表現宇宙は、膨張を続けてきました。その表現宇宙が、成長し、ある境を越えると、膨張にストップが かかり安定の時期に入ります。それが、脈動運動の分岐点です。それを過ぎると、ゆっくりと収縮に転じるようになります。その収縮は、次第にスピードを増し、やがて、スピードの極に達します。その頃には、多くの人類が悟りの収穫時期を迎えております。つまり、自覚の境界線を超え、神意識の一点に帰る準備を終えているのです。やがて、表現宇宙は、一気に収縮を始めます。急激に時空が縮まり、神意識の一点に、私たちの生命核(魂)も、相対宇宙も、呑み込まれて行きます。これが一脈動運動の最期の姿です。
宇宙は、今まで脈動運動を続けてきたし、今も続けているし、これからも永遠に続けるでありましょう。水は、流れているから清いのです。流れなければ、淀んで腐ってしまいます。これは、死を意味します。永遠に尽きない、色褪せない、幸せを得るためには、次から次へと注ぎ込まれる新鮮な水が必要なのです。その水に当たるのが、人間が持ち帰るドラマの数々なのです。この宇宙の創成物語は、人類存在の意味を示す物語でもあり、究極の幸せへ導く物語でもあるのです。
あなたたちは、みな、それぞれ自分の宇宙を持っております。その宇宙の管理責任者は、あなたたち自身です。喜び多い宇宙にするか、苦しみ多い宇宙にするかは、自分の宇宙をどう管理するかで決まるのです。自分の宇宙をどう管理するかとは、どのような想念を持つか・・? という意味です。苦しんでいる人は、自分の想念を、憎しみや、恨みや、怒りなどの悪しきことに使っています。想念を悪しきことに使えば、悪しきことが返ってくるのが「因果の法則」ですから、苦しむのは、当然なのです。自分の宇宙を幸せな宇宙にしたかったら、常に、善い想いを持つことです。
この想念の管理は、自分の宇宙だけでなく、全宇宙にも及ぶ大変重要な問題なのです。もし、皆が、悪しきことに想念を使ったら、一体どうなるでしょうか?。間違いなく、自分を破壊し、地球を破壊し、宇宙をも破壊してしまうでしょう。それほど想念には、偉大な力が秘められているのです。それゆえに、一人ひとりが正しく想念を管理する責任があるのです。一人ひとりの人生の行方は、当然、一人ひとりの想念が握っています。でも、地球の行方も、宇宙の行方も、一人ひとりの想念が握っているのです。どうか、想念を悪しきことに使わないでください。苦しむのは、あなたたちだけでなく、全ての生き物たちが、いや、地球も、宇宙も、苦しむのですから・・・。
何でも生み出すことのできる想念は、宇宙そのものです。その想念を、あなたたち一人ひとりが持っているのです。どうか、想念の管理をしっかりとしてください。一人ひとりの宇宙の管理人は、もとより、全宇宙の管理人も、あなたたち一人ひとりなのですから・・・。