今、手探り状態で進んでいるのが、地球人類の現状です。それは、あまりにも闇が深くて前が見えないからです。でも、闇が深いということは、夜明けが近いということでもあります。そうです。もうすぐ地球に希望の夜明けが訪れます。人類の未来への道は明るいのです。それは、人類が何のために存在しているか知れば、おのずと開かれる道だからです。さあ、今できることを精いっぱいやって、夜明けの訪れるのを待ちましょう。
進化とは、読んで字のごとく「進」んで変「化」するという意味です。では、宇宙の進化のメカニズムは、どのようになっているのでしょうか?
この宇宙には、二つの宇宙が存在します。一つは本源の宇宙、もう一つは表現の宇宙です。本源の宇宙は、光の宇宙とも、絶対宇宙ともいわれ、永遠に存続する宇宙です。一方、表現宇宙は、影の宇宙とも、相対宇宙ともいわれ、いつか、必ず、消えてなくなる宇宙です。影の表現宇宙は進化し続けますが、光の本源宇宙は完全ですから進化しません。では、なぜ、表現宇宙は進化し続けるのでしょうか。それは、表現宇宙に存在する人類が進化し続けるからです。では、人類は、① どこに向かって、② どのように、③ どこまで、進化し続けるのでしょうか? それは、① 本源に向かって、② 宇宙生命と一体になるまで、③ 永遠に、進化し続けるのです。その進化の旅は、果てしなく続きますから、表現宇宙も、また、果てしなく進化し続けるでしょう。表現には限界が無いのです。言葉一つとってみても、行為一つとってみても、無限の表現の仕方ができます。ましてや、原子の組み合わせは無限ですから、無限の表現ができるわけです。このように、表現宇宙は、無限に表現できるがゆえに進化し続けるのです。
人類の最終目標は、本源の生命と一つになることですが、これは、生命の自覚に終わりが無いため永遠に続くのです。生命の自覚には、これで終わりという終着点が無いのです。もし、終りがあるなら、神は、生命は、宇宙は、有限になってしまいます。そんな有限な宇宙が有るわけはないのですから、私たちは、自覚の旅を永遠に続けねばならないのです。
これまで、人類は、気の遠くなる年月をかけ、やっと自分は人間であるという自我を持つところまで進化してきたのです。でも、まだ、生命の自覚を得るところまで至っていないのです。人類は、まだ、道半ばなのです。道半ばどころか、やっと進化の階段の一歩を踏み出したところで、これから本格的に進化の階段を上って行くのです。でも、その旅は、決して苦しい旅ではありません。いやむしろ、喜び多い旅といっていいでしょう。それも、進化の階段を上るごとに増す喜びの旅です。さあ、希望を持って旅を続けましょう。私たちは、今、生命の本源に帰るべく進化の階段を上っている真っ最中なのです。
恐竜の絶滅は、地球環境の激変から起きたという説と、隕石の激突によって起きたという二つの説があるようですが、本当の理由は、人類の魂の進化上、必要なくなったから絶滅したのです。生き物たちの盛衰は、すべて人類の魂の成長に関係しているのです。これは、病気の盛衰とも一致するのです。
これまで、人類史において、ペスト・天然痘・チフス・コレラ・ハンセン病など、数々の疫病が流行してきましたが、これは、政治の貧困や物質文明の貧弱が生み出した人為的なものでした。今日、ガンやエイズなどの病が流行したり、生活習慣病が流行したりしているのも、精神文明の貧弱が生み出した人為的なものです。つまり、物質文明が貧弱な時代には、それを警告する病気が流行するし、精神文明が貧弱な時代には、それを警告する病気が流行するのです。これは、人類を目覚めさせるための警告ですから、決して悪いことではないのです。今後も、必要な時代に必要な病が流行することでしょうが、これは、目覚めてもらうためで虐めるためではありません。人類が目覚め、魂が成長すれば、不必要な病気は無くなっていくでしょう。また、不必要な生き物たちも減っていくでしょう。特に、生き物たちが減るのは、生き物たちの群魂が人類の魂に収斂されるためですから、これは、大いに喜んで良いのです。
人類は、これまで地球の資源を食いつぶし成長してきましたが、それは、地球そのものの成長でもあったわけです。地球は、人類の進化に沿うように、やがて、枯れた星になっていくでしょう。一握りの牛糞から沢山の生き物たちが誕生し、その生き物たちが牛糞のエネルギーを食いつぶして魂を成長させていくように、人類も地球のエネルギーを食いつぶして魂を成長させていくのです。地球も、生き物たちも、すべて人類に身を捧げているのです。身を捧げている間に、どれほど多くの悟り人を出すかが、人類に課された使命なのです。
すべての生き物たちは、誕生・生成・成長・維持・消滅しております。でも、そこで体験した諸々は、みな、人類の魂に引き継がれているのです。神は、不要な生き物を誕生させないし、不要なことも体験させないし、不要な消滅もさせないのです。地球は、今、生き物たちの絶頂期にありますが、人類の魂が熟成するにしたがい、やがて、徐々に下降線を描きながら数を減らして行くでしょう。私たちは、一人で成長してきたのではありません。沢山の生き物たちの涙ぐましい後押しがあって、ここまで成長してきたのです。そのことを、決して忘れてはならないでしょう。
今、地球人類は、物質文明に酔いしれていますが、これは、喜ぶべきことなのでしょうか? 悲しむべきことなのでしょうか? ある人はこういいます。“このように物質文明が発達したのは、魂が進化したお陰である” と・・・。確かに、華やかな物質文明は、かりそめの幸せを提供してくれますから、文明の進歩と生命の進化を結び付けたくなるのも無理はありません。でも、文明と魂の進化とは全く関係ないのです。その証拠に、このように文明が発達しているにもかかわらず、いまだに動物以下の生き方をしている人たちが沢山いるではありませんか。今、物質文明を自慢している人たちは、イエス様の前で携帯電話の使い方を自慢しているようなものです。携帯電話の使い方は、魂が幼くても教えてもらえばできるのです。しかし、真理の学びは、そうはいかないのです。だから、文明の華やかさだけで、魂の成熟度を量らないでください。いやむしろ、真の文明と真反対にあるのが物質文明なのです。では、真の文明の判断基準は何でしょうか?
判断基準の一つは、自然との和合度です。もう一つは、心の平安度つまり幸福度です。この二つが揃って、はじめて真の文明といえるのです。では、今、人類は、自然と和合できているでしょうか? 心は平安でしょうか? 自然破壊が進み、心の不安も増しているのではないでしょうか。ということは、今の地球の文明は真の文明でないことになります。そうです。今、地球人類は、物質文明を真の文明だと錯覚しているのです。では、なぜ、人類は、そのような文明の道を歩むようになったのでしょうか? それは、左脳を頼りに生きてきたからです。
私たちには、二つの脳が存在します。一つは、物質的なものを好む左脳です。もう一つは、精神的(霊的)なものを好む右脳です。今日の物質文明は、その左脳から生まれた文明なのです。この左脳からは、真の幸せは得られないのです。なぜなら、左脳は地と直結しているため、左脳を多く使えばエネルギーを低下させてしまうからです。反対に右脳は天と直結しているため、右脳を多く使えばエネルギーが高まるのです。この宇宙は、エネルギーが高ければ高いほど幸福度が増す仕組みになっていますから、エネルギーを低下させる左脳文明では、真の幸せは得られないのです。文明の本分は、究極の幸せに少しでも近づくことです。それは、右脳を使わなくては適わないのです。
文明と文化・科学と化学の関係を追究して行くと、面白いことが分かってきます。どちらも、良く似ているのです。つまり、「文明と文化」・「科学と化学」が表裏の関係にあることが分かり、さらに、「文明と科学」・「文化と化学」が同じ傘の内にあることが分かるのです。では、どのように似ているのでしょうか?
文明の「文」という字は、文人・文才・文学など、学識や学問のことを意味しているように思われがちですが、本当は「真の幸福」を意味している字なのです。なぜなら、真の幸福は「心」の極みから生まれ、その心は「文」の極みから生まれるからです。「明」という字は明らかにするという意味ですから、通して解釈すれば「文明」とは、「真の幸福を明らかにする」という意味になります。文明とは「真の幸せの追究」である、ということをまず知ってください。
では、文化とは何でしょう? 「化」とは、真実が化けた世界、現れた世界、現象界、つまり、この世のことを意味します。「文」とは、今も述べたように幸福のことですから、通して解釈すれば文化とは、「この世における幸福の追究」という意味になります。確かに、この世のものは、一時の幸せは与えてくれます。でも、のど元過ぎれば熱さを忘れるのごとく、すぐに色あせてしまいます。そんな幸せが、真の幸せであるはずがありません。でも、心の幸せは、色あせないし永続します。ですから、私は、「文明の幸福は真の幸せの追究で、文化の幸福は一時の幸せの追究」という分け方をするのです。だから、私は、文明と文化は表裏の関係にあるというのです。
科学の「科」とは、実際に有るもの、真実なるもの、現している原因体を意味します。化学の「化」とは、実際に無い物、非真実なる物、現れている結果体を意味します。その意味では、科学は真実を追求する学問で、化学は非真実を追求する学問ということになるでしょう。つまり、実際に有る生命の世界(心の世界)を追究する学問が科学で、実際に無い表現の世界(物質の世界)を追究する学問が化学になるわけです。
このように考えると、科学と化学と文明と文化は表裏の関係にあり、科学と文明と化学と文化は、同じ傘の内にあることが分かっていただけると思います。人類は、今、化学と文化の方向へ舵を取っておりますが、やがて、その誤りに気付き、科学と文明の方へ舵を切るようになるでしょう。なぜなら、化学や文化は、この世の幸福に近づける役割は果たしても、真の幸福に連れて行く役割を果たしてくれないからです。真の幸福に連れて行ってくれるのは、唯一、科学と文明です。化学や文化を追いかけている限り、人類は、永久に本当の幸せを得ることはできないでしょう。
この宇宙には、常に安定の中にある絶対宇宙と、常に不安定の中にある相対宇宙の二つの宇宙が存在します。今、私たちは、後者の不安定な宇宙で安定の大切さを学んでいるわけですが、では、なぜ、そのような学びが必要なのでしょうか? 理由は、表現宇宙が間違いのない進化の軌道を描くためには、人類の偏らない生き方が不可欠だからです。
どうでしょう。今、人類は、性の偏り、食の偏り、快楽の偏り、富の偏り、思想の偏り、など、すべての面において偏った生き方をしていませんか? そのために、精神の荒廃が進み、肉体の荒廃が進み、社会の荒廃が進み、自然の荒廃が進み、地球は荒むだけ荒んでしまいました。では、なぜ偏ると、そのようなおぞましいことが起きるのでしょうか?
このように、何でも偏ると危険物になるのです。今、頻繁に自然災害が起きているのも、人類が物質に偏った生き方をしているためです。人類が物質に偏ると、自然界も追随するように偏りを見せるのです。それは、自然界が同じ行動を取ることで、人類に過ちを気付かせることができるからです。要するに、自然は、反面教師になってくれているのです。しかし、人類は一向に、こだわりと偏りの濃縮文明から離れようとしません。それどころか、ますます濃縮文明の色を濃くしております。
濃縮文明とは、こだわりと偏りの文明のことです。こだわりと偏りが増せば楽しみの味が増すので、どうしても濃縮文明を求めるようになるのです。その典型的例が、スポーツです。今、どんなスポーツも、何々杯とか、何々レースとか、様々なこだわりを作って戦っています。それも、名誉を得るためと賞金獲得レースです。賭け事もそうですが、こだわりを沢山作れば作るほど勝負は面白くなるのです。今、人類が謳歌している楽しみを、良く観察してみてください。偏りとこだわりをエスカレートさせていることが分かります。例えば、スナック菓子など、味の濃い食べ物が多く出回っております。遊園地の乗り物も、興奮度を極限にまで高めております。旅行も世界一周旅行など、大々的になっております。目でスポーツを楽しみながら、スナック菓子を食べ、さらに、耳で音楽を聴くといった、五感を最大限に使った楽しみ方をしております。これは、一つの感覚器官だけで満足しきれないほど快楽に麻痺してしまった、人間の恐ろしい姿です。特に恐ろしいのは、興奮剤を使って楽しむ若者たちの行動です。麻薬患者が絶えない現代社会は、まさに濃縮文明そのものといっていいでしょう。確かに、偏らせれば偏らせるほど楽しみの濃度が増しますから、こだわりたくなる気持ちは分からないでもありませんが、それが人類を滅亡へと運んでいるのです。
楽しみも求めるなら、偏らない穏やかな楽しみを求めましょう。喜びの味は薄いかもしれませんが、その方が危険は少ないし長持ちするのです。濃縮されたものは、エネルギー均衡の法則によって、必ず、分散させられます。赤の反対色は青です。白の反対色は黒です。快楽の反対色は苦しみです。どうか、偏らない生き方をしてください。
足を使わなかったら、歩けなくなってしまいます。脳を使わなかったら、物が覚えられなくなってしまいます。食べ過ぎたら、肥満体になってしまいます。食べなかったら、やせ細ってしまいます。これは、想いにおいても同じです。想いが物質に偏れば、精神が蔑ろにされ、地球は破壊されてしまいます。想いが精神に偏れば、物質が蔑ろにされ、地球の進化は遅れます。どちらに偏っても、神の計画は狂ってしまうのです。人類は、神の意図を受け、この地球上に理想の世を築くために遣わされました。その人類が、今、偏った生き方をして自然界を狂わしているのです。近年の動植物の異常行動、菌類の暴走、異常気象などは、みな、人類の偏った生き方に対する警告です。人間の意識が物質に偏ると、自然界は反面教師となって偏りを見せるようになるのです。それは、人間に過ちに気付いてもらいたいからです。つまり、自然界は、人類に、「あなた達は、間違った生き方をしていますよ! 生き方を正して下さい! 過ちに気付いて下さい! ・・・」と警告しているのです。
エネルギー均衡の法則に、誰も逆らうことはできないのです。逆らえば、痛い目を見るだけです。偏りは大敵です。偏りは危険を生むのです。さあ、自然の警告に耳を傾け、偏らない生き方に方向転換しましょう。まだ間に合います。
自然界は、春・夏・秋・冬という、調和のとれた四季を生き物たちに用意してくれています。生き物たちは、その四季に寄り添って生きることで、生存が保障されています。すなわち、春、目覚めの息吹が与えられ、夏、働く活力が与えられ、秋、実りを持って冬の休息に入り、次の四季に向けて生き物たちは力をため込みます。四季の日差しは順調で、寒暖も狂いなくやってきます。梅雨の時期には必要な雨が降ってくれ、また、陸風も海風も順調です。このように、自然界は、生き物たちが無事生きられるよう配慮してくれているのです。しかし、どうでしょう。最近の気候は、どこか狂っていませんか? シトシトと降るはずの梅雨が、局地的に激しく降るようになりました。台風も巨大化しています。竜巻も頻繁に起きています。雷も多くなっています。北海道の北東部の海上で、台風並みの暴風雨が頻繁に発生するようになりました。世界の気象を見ても、一方では大雨が降り、一方では日照りが続く、といった気象異変が多く起きています。なぜ、このように、異常気象が多くなったのでしょうか? それは、地球の汚れを洗い流さねばならないからです。シトシトと雨が降り、そよ風程度に風が吹いたのでは、汚れは落とせないのです。でも、どんなに汚れを落としても、次から次へと汚すのですから追いつかないのです。異常気象だけではありません。毎日のように地震が起きています。火山の働きも活発になりました。動物たちの異常行動も目に余ります。菌類の暴走も脅威です。なぜ、自然は、このように、狂ってしまったのでしょうか。人類は、自然界を導く指導的な立場にあるにもかかわらず、その役割を果たしていないのです。果たしていないどころか、逆に自然界を狂わすような生き方をしているのです。近年の自然界の異変は、すべて人類に対する警告です。このまま偏った生き方を続ければ、地球は、黙ってはくれないでしょう。人類は、一日も早く生き方を正さなくてはなりません。地球は、待ってはくれません。
東の先端、日いづる国、それが日本です。日本国の旗印は、日の丸です。日の丸は、太陽の象徴です。原子太陽は霊太陽の前面の顔ですから、その顔を持っている日本は霊的な国なのです。これは、神国という意味ではなく、波動の高い人たちが多く住んでいる国という意味です。霊的な国であるがゆえに、重要な役割があるのです。
地球の進化度は、まだ、幼い段階ですが、進化の節目という意味で捕えれば、地球は、今、その節目の時期に当たっているのです。地球は、これから変化の時期に入ります。それを引っ張って行くのが日本人です。日本人は、魂の先輩として、世界をリードして行く立場にあるのです。特に、この書を見ているあなたは、その立場にある人です。といっても、何か特別なことをしなさい!、といっているわけではありません。神を想う時間を、できるだけ多くすればいいのです。神の自覚を高め、人間癖をできるだけ取ればいいのです。それも普段の生活の中で、無理なくやればいいのです。自分の心の中でやればいいのですから、人に迷惑をかけることもないし、何処に行く必要もないし、また、お金を使う必要もありません。正しく想い、正しく語り、正しい行為をすればいいのです。正しく想う一番は、「神を想う」ことです。身構える必要はありません。自然体で、やってください。どうか、神を想い続けてください。それが、地球に貢献することになるのです。
“最近、ますます、自然災害が拡大しているように思えてならないのですが?” という人がおりますが、間違いなく自然災害の規模は拡大しております。その良い証しに、最近では、「記録を取り始めて一番の何々です。」という気象予報士の言葉が珍しくなくなりました。特に、日本列島に自然災害が集中しております。毎年、台風が日本を襲います。地震も頻繁に起きています。豪雨や竜巻なども日常茶飯事になっています。世界で最初に原子爆弾が落とされたのも日本です。なぜ、日本人は、これほど、痛い目に合うのでしょうか? それは、日本に熟した魂が 沢山 生まれているからです。どうでしょう?
何も分からない子供のお尻を叩くより、分かった子供のお尻を叩いた方が気付いてもらえるのではありませんか? これは、賢い人なら、薄々気づいているはずです。
人間は、自然災害から身を守るため色々な対策を講じていますが、自然は、それを上回る規模で迫っております。例えば、東北では、これまで、何度も大きな津波に襲われ、その都度、防潮堤を高くしてきましたが、5メートルの防潮堤を作れば8メートルの津波が押し寄せ、10メートルの防潮堤を作れば15メートルの津波が押し寄せました。例え、20メートルの防潮堤を作っても、自然界は30メートルの津波で迫ってくるでしょう。そうしなかったら、災害の意味に気付いてもらえないからです。
自然は、何の意思も持っていないように、人間は思っていますが、とんでもない! 自然は、人間以上に、しっかりとした意思を持ち、人間を導いているのですよ! ただ、言葉を持たないから、身振り手振りで(行動で)示しているだけです。私だって、言葉が話せないなら、行動で示します。その行動が、自然災害なのです。自然災害は、すべて人類に対する警告なのです。人類は、自然界の警告を受け入れ、一日も早く生き方を正さなくてはなりません。それは、もう、一刻の猶予もないほど切羽詰まっているのです。
ノアの方舟現象とは、天が人類に警告する様々な現象のことです。天から啓示をうけたノアは、「もうすぐ洪水がやってくるから、逃げる準備をしておきなさい!」と警告して歩きました。でも、「何を、たわごとをいってるんだ!」といって誰も取りあってくれません。仕方なく、ノアは、方舟を作って、そこに植物や動物や家族を乗せ、その日の来るのを待っておりました。やがて、大洪水がやってきました。人々は、水に呑まれましたが、ノアたちは、無事に難を逃れることができたのです。この話は、今の地球にも当てはまることなのです。今、人類は、自然界から様々な警告を受けております。病気の多発、異常気象の多発、鉱物・植物・動物の異常行動、民族間の争い、経済の混乱、これ、すべて、人類に対する警告です。でも、人類は、その警告に一向に耳を貸そうとしません。これだけ、多くの警告を受けているというのに、いまだに、好き放題な生き方をしているのです。
便利・快適・快楽を追い求める物質文明が、地球を危険にさらしているのです。人間は、経済発展! 経済発展! と口癖のようにいっていますが、これ以上、豊かにならなくてもいいのです。そこそこの豊かさで、そこそこの快適さで、そこそこの便利さでいいのです。どんな楽しみも、喉元過ぎれば同じなのです。それは、夢を見ているような虚しいものなのです。どうか、目覚めてください! 極度の物質文明は危険こそあれ、そこからは何も得られないことを・・・。「人類の夜明1・2・3・4」の書、及び、光のメロディー集は、人類を救うために用意したノアの方舟です。この船に乗れば、間違いなく理想の世界へ連れて行ってくれるのです。どうか、「人類の夜明」の書を羅針盤にして、地球人類の未来を切り開いてください。さあ、ノアの方舟に乗ってください。
何度も述べてきたように、この宇宙には、一つの命しかありません。一つの命しかないということは、すべてのものは、一つの命につながっているということです。だから、一つのものが動けば、すべてのものに影響を与えないではおかないのです。つまり、私が動けばあなたに影響を及ぼし、あなたが動けば私に影響が及ぶのです。
今、地球上では陰と陽に別れ、命の綱引きをしております。陰とは、人間意識を持った人たちのこと、陽とは、生命意識を持った人たちのことです。今、地球上では陰の意識を持った人たちが多いため、命の綱が大きく陰に傾いております。このまま行けば、陰の勝利は間違いないでしょう。陰が勝利すれば、地球はどうなるでしょうか? 今の進化の階段で、足踏みせざるを得ないでしょう。そうなっては大変なので、今、宇宙から援助の手が差し伸べられています。でも、人頼りにしていてはなりません。地球人類自らが立ち上がり、今の苦境を乗り越えなくてはならないのです。私が瞑想を勧めるのは、一人でも多くの人に光の戦士になって欲しいからです。
一本の綱を引きあっているのですから、陰から陽に立場を変えれば、二倍の味方が得られることになります。黒石が白石に変われば、倍の面積が得られるわけですから、失地回復も夢ではなくなるのです。敵になるか味方になるかで、展開は大きく変わるのです。どうか、一人でも多くの人が味方になってください。そうすれば、地球に素晴らしい夜明けがやってくるのは間違いないのです。
私たちの目の前には、永遠に続く道があるように見えます。でも、それは錯覚です。私たちの目の前にある道は、いずれ消えて無くなる虚しい道です。例えば、今、自分が歩んでいる姿を、後ろから見ている人がいるとします。しかし、その人の視界から、突然、自分の姿が消えてしまう時がやってきます。その人は、こう思うでしょう。彼は一体どうなったのだろうか? 落とし穴の中に消えたのだろうか? それとも、左に90度曲がったのだろうか? と・・・。その人は、消えた場所に走り寄り、忽然と消えた自分を探します。しかし、どこにも見当たりません。これが、この世の定めなのです。
あなたは、他人事のように思っているかもしれませんが、これは、自分自身の切実な問題なのです。人は、必ず、死ぬのです。死なない人など、一人もいないのです。その証に、あなたは、毎日、自分の周りから何人もの人が消えてゆくのを見ているではありませんか。あなたの祖父母はどうでしょう。あなたの両親はどうでしょう。あなたの叔父や叔母はどうでしょう。隣人はどうでしょう。「朝に紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」と蓮如上人が詠んだように、人間なんて儚い存在です。どんな元気な人も、いつどうなるか分からないのが人生なのです。
知花先生は、こんなことをいっておられました。“ あなたに、いつ、お迎えが来るのか知っているのですか ” と・・・。そうです。私たちに、いつ、お迎えが来るかは誰も知らないのです。今日、来るのか? 明日、来るのか? 一年後か? 十年後か? 五十年後か? 分かりませんが、でも、その日は間違いなくやってくるのです。これは、人間だけではありません。地球だって同じです。今日、突然、落とし穴に落ちるか、あるいは、突然、90度の曲りカーブに誘い込まれるか分からないのです。でも、人間は、いつまでも、この世が続くと思っているのです。「年の初めのためしとて、終わりなき世のめでたさを!」という「一月一日」の歌詞を、本当に信じているのです。あなたの周りから知人が消えていったように、地球だって、いつ、消えるか分からないのです。私は、ネガティブにいっているのではありません。ノホホンと生きていては悔いを残すから、生きている内にやるべきことをやっておきなさいといっているのです。「やるべきことをやる」とは、生命の自分をできるだけ深く知ること、生命に生きること、時間の許す限り瞑想することです。そして、正しい「身・口・意」の実践をすることです。すなわち、正しく想い、正しい言葉を使い、正しい行為をすることです。そして、間違った生き方をしていたなら反省し、生き方を正すことです。どうか、その日になって悔いを残さないよう、毎日、少しずつ、やっておきましょう。
私たちは、誰でも、いつか、必ず、出てきたところへ帰るのです。それは、恐ろしいところではありません。光り輝く素晴らしい世界です。そこが、私たちの故郷です。さあ、その日のために、今、できることを精いっぱいやっておきましょう。
小さな島のある村に、嫁入り前の若い十人の女が住んでおりました。ある日、その村の長老が、十人の女を呼びつけこういいました。「近々、お前さんたちにお婿さんが迎えに来ることになっているから、ランプを磨いて用意して待っていなさい」と・・・。というのも、迎えに来るお婿さんの乗った船は、暗い夜に来るため、明かりを灯していなくては岸に近づくことができないからです。賢い五人の女は長老のいいつけを守り、さっそく、ランプを磨いて油を注ぎ用意して待っていました。でも、愚かな五人の女は、「今すぐ来ないのだから!」といって何もせず、ボールゲームをして遊びほうけていました。ところが、ある日突然、お婿さんがやってきたのです。賢い五人の女は、すぐに明かりを灯し無事に船に乗ることができましたが、愚かな五人の女はランプを灯すのに時間がかかったため、船に乗ることができませんでした。
真理というものは、普段からコツコツと積み上げていなくては、身に付くものではないのです。急にやっても、それは、付け焼刃というものです。それでは、お婿さんが来ても間に合いません。賢い者は、いつ来ても良いよう、準備して待っているものです。いつ船が来ても乗れるよう、普段から準備をしておきましょう。ぜひ賢い女になってください。
家を建てる場合、まず、施主が建設会社に要望を出します。次に、建築会社は、施主の要望に基づいた青写真を設計事務所に描いてもらいます。最後に、建築会社が、青写真通りの家を建てます。どのような創造物も、要望と、青写真と、創造行為の三者が一体となって生まれるのです。
今、地球は、物質文明 真っ盛りですが、それは、人の心が便利・快適・快楽を望んでいたからです。つまり、人類は、物質文明という家を建築会社に要望し、それに沿った青写真が描かれ、その青写真通りの家が、今、地球上に建てられているというわけです。確かに、華やかに飾られた家は魅力的に見えます。でも、見かけの良い家は欠陥も多いのです。今、地球という家に、戦争・犯罪・事件・事故・自然災害・病気などが多発しているのは、華やかな文明ゆえの欠陥なのです。多くの矛盾を抱え、多くの苦しみや悲しみに喘いでいるというのに、人類は一向にこの文明を手放そうとしません。このまま手放さなかったら、一体、地球という家は、どうなってしまうでしょうか?
これまで、この地球上に、数知れない文明の興亡がありましたが、みな、今日と同じ物質文明の繁栄を辿ったのち滅亡して行ったのです。極度な物質文明は、エネルギーを低下させるため長続きしないのです。これは、地球の歴史が証明している動かしがたい事実です。でも、安心してください。人類は、その苦しみの中から、やがて、物質文明の間違いに気付きます。今、地球上では、物質文明の青写真を描く人たちと、精神文明の青写真を描く人たちの間で、綱の引き合いをしております。もし、精神文明の人たちが勝てば、素晴らしい理想の世へ突入することでしょう。でも、物質文明の人たちが勝てば・・・・??? この勝敗の行方は、人類の目覚めにかかっているのです。今、人類は、精神文明へ舵を切るか、このまま物質文明を続けるか、その岐路に立っています。どうか一人でも多くの人たちが、精神文明の綱引きに参加してください。地球の運命は、心ある、あなたたちの双肩にかかっているのですから・・・。
今、多くの人類は、ぐっすりと眠りこけ夢を見ている真っ最中です。肉体という夢を・・・個人という夢を・・・人間という夢を・・・人生という夢を・・・それも、楽しい夢ばかりならいいのですが、殆どが、苦しい悲しい夢ばかりです。特に、生・老・病・死という夢は、人間を火炎地獄の中に放り込んでいます。どうでしょう、夢は実際に有るものですか? 幻ではありませんか? そんな幻の夢を人類は、気の遠くなる年月、見続けてきたのです。でも、人類は、いまだに、自分が眠っている事に気づいていないのです。このまま放っておいたのでは、いつまでも苦しい夢を見続けなければなりません。では、どうしたら、夢から目覚めさせることができるのでしょうか。それは、目覚めた者が起こしてやるしかありません。幸いなことに、知花敏彦師をはじめ、多くの覚者が真理の普及に努めてきたお陰で、一部の人たちが、生命の自分に目覚めはじめました。今は、まだ、数少ないですが、やがて、多くの人が目覚めることでしょう。それは、進化の座標時間で示せば、午前四時の直前まで、やってきたことを意味します。ということは、もう、夜明けが近いということです。
知花先生は、このようにいっておられました。「私が亡くなった後、私の教えを引き継いだ人たちの手によって真理の火が燃え広がり、多くの者が目覚めるであろう」と・・・。そうです。やがて、多くの人たちが、生命の自分に目覚めることでしょう。神の計画は万全です。一つの齟齬もありません。もうすぐ、地球は、新しい日の出を迎えます。もう、夜明けは目前なのです。
本来、この表現世界は楽しい世界のはずなのです。でも、なぜか、この地球上には多くの苦しみや悲しみがあります。それは、人類が想念を苦しいものに使っているからです。あなた達の想念は、苦しみにも喜びにも、どちらにも使えるのです。でも、あなた達は、その想念を、今、苦しみに多く使っているのです。では、人類は、なぜ、苦しみに使うのでしょうか? それは、自分を人間だと思っているからです。自分を人間だと思えば保身を第一に考えるので、どうしても想念を苦しみに使ってしまうのです。
もし、生命を自分だと思えたら、想念を楽しいものに使うでしょうから、この地球上に天国が作られるのも夢ではなくなるのです。私は、それを願い、あなた達を地球に送ったのです。では、地球人類が生命の自分に目覚めたら、どのような世界が生まれるのか、他の目覚めた星を例にとり、お話することにしましょう。
その星には、病気はありません。事故もありません。戦争もありません。自然災害もありません。勿論、人と人とのいさかいなど一切ありません。ですから、その星には、武器など一つもありません。戦争とか、人殺しとか、争いといった言葉さえ、その星には無いのです。ですから、そんな言葉を使っても、その星の人たちには理解できないのです。説明しても、なぜ、人が人を殺すのですか? と、いぶかしげに首を傾げます。彼らの想念には、悪しきものが一切ないのです。
彼らは、重力を自由に操り、空中を自在に飛び回っております。情報のやり取りは、殆どがテレパシーです。欲しい物は何でも空中から取り出します。ですから、食べ物も、衣類も、住居も、自分で好きなように作ります。彼らは、食べたいときに食べ、寝たいときに寝ます。働きたいときに働き、休みたいときに休みます。ですから、その世界に、労働という言葉はないのです。労働ではなく、楽働なのです。「労」する「働」きなどあるわけがないからです。「労働」という字を使うほど、まだ、地球人類は幼いのです。本来、動くことや働くことは、楽しいことなのです。彼らは、必要な物を必要な量だけ必要なとき生産します。その物作りも、刃物で切ったり、叩いたり、熱を加えたり、曲げたり、するようなことはしません。想念によって作るのです。その星に住む人類の意識が高まれば、星そのものの波動が上がるので、想念によって自在に物を操ることができるようになるのです。あらゆる物が、人の想念に従って変化してくれるのです。
こんなこともあります。着ている人が嬉しい時には、着ている衣類が軽くなったり、振動したり、淡い光を放ったりします。また、住人の喜びに反応し、家がきしんだり、淡い光を放ったりします。人の意識の高揚が進めば進むほど、物の振動数が上り精妙化するため、表現の自由が拡大していくのです。また、彼らの星では、鉱物界・植物界・動物界の生態の働きが地球とは違います。生き物の数も、種類も、大きさも、形体も、性質も、寿命も違います。山はなだらかな形をし、そこに繁茂する木々は濃い緑に覆われ、天に向かって真っすぐに聳え立っています。湖は豊かな水を湛え、川はゆっくりと蛇行し、下々に変わらぬ量の水を注いでいます。風は朝な夕なに穏やかに吹き、雨は必要に応じ夜静かに降ります。大気の循環も、海流の循環も、同じ流れの道を保ち正しく行われています。まさに自然界は、リズムあふれた調和ある働きをしてくれているのです。
この星の娯楽は、いろいろありますが、その一つに宇宙旅行があります。彼らは、UFOに乗って宇宙を自由に駆け巡っています。その世界の修学旅行は、人工衛星探訪・衛星探訪・惑星探訪です。彼らの星では、次なる役割に備え、子供のころから宇宙に飛び出し、身をもって宇宙の仕組みを学んでいるのです。ここで、実にユニークな娯楽があるので紹介しましょう。それは、思念シアターといわれる、今でいう映画館です。思念シアターといわれるように、この映画は五感で鑑賞するのではなく意識で鑑賞するのです。では、シアターの中に入ってみることにしましょう。中に入ると、中央にプラネタリウムで見られるような奇妙な機械が見えてきます。それを囲むように、沢山の席が用意されております。そこに座ると目の前に、ニューと台座が出てきます。その台座には沢山のボタンが付いており、一つひとつのボタンが七色に点滅しております。このボタンが、演じたい役柄のメニューボタンなのです。メニューボタンを押すと、前から聴診器のようなものが伸びてきて、額の中心に当てがわれます。赤いスタートボタンを押すと、淡い緑色の光が全身を包み込み、同時に全細胞を震わす音響が心を溶かしはじめます。やがて眠気を催し、自然と目が閉ざされます。といっても、意識はしっかりとしています。やがて眉間の裏側に、ギラギラとした光が見えてきます。その光に意識を集中していると、その光が次第に迫ってきて、やがて、その光の中に自分が呑み込まれてしまいます。呑み込まれた世界は、色鮮やかな意識の映像の世界です。まるで霊夢を見ているような感覚です。物語が始まります。その物語の主役は自分です。物語の筋書きは大筋決められていますが、筋書きに自分好みの色付けをできるのが、この思念映像のユニークなところです。面白いことに、その物語を主観的に見ることができると同時に、客観的にも見られるのです。ようするに、主役を演じている自分と、観賞している自分の二人の立場になって見られるのです。そのドラマで味わう感動は、地球のものとはまるで違います。心に染み入る静かな感動、すがすがしい感動、やる気をもたらす感動、夢と希望を与える感動、活力を生み出す感動、それは言葉で表現できない感動の連続です。ですから、思念シアターから出てきた人たちの顔は、誰もが喜びに満ちております。
ここで語ったことは、星の進化過程においては、まだ、下の方です。形を持った生命体を受け入れている惑星は、まだ、幼い段階なのです。進化した惑星では、もう形を持った生命体は存在しなくなります。進化した惑星の人類は、意識体となって宇宙を自由に飛び回り、衛星や惑星をコントロールする重要な役目を担うのです。さらに進化すると、恒星の重心に入って恒星そのものをコントロールすると同時に、身内の惑星をコントロールする役割を担うようになります。さらに進化すると、太陽系の重心へ、銀河系の重心へと役割が拡大し、最終的には、宇宙意識の中心に帰り、全宇宙をコントロールするようになるのです。
このように、あなた達 神の子は、進化に相応した重要な役割を担うことになるのです。それが、この宇宙における進化の旅の軌跡なのです。それは、苦しい旅ではありません。楽しい旅です。私は、この宇宙に、楽しい旅しか用意していないのです。今、地球上に苦しい絵が掲げられているのは、人類が幼いがゆえに描いた稚拙な絵で、これは、仕方のないことなのです。でも、どんなに地球人類が幼くても、偉大な神の子に違いないのですから、いずれ成長すれば素晴らしい絵を描くようになるのです。
ここで述べたことを信じるか信じないかは、皆さんにお任せします。でも、想念の偉大さを知った人なら、当然のことと受け止めてくれるはずです。なぜなら、この宇宙は想念によって進展してゆく想念の宇宙だからです。