真理の光は、宇宙に燦然と輝いています。しかし、残念なことに、その光がまだ地球上で輝いていないのです。それは、地球人類が、人間として生きているためです。人間として生きているうちは、真理の光は輝かないのです。
真理の光は、生命の中に輝いているのです。その生命は、一人ひとりの心の中に存在するのです。だから、地球人類が、心の中に生命を見つけたとき、真理の光が輝くのです。さあ、生命を見つけ、我がものとしてください。その時、あなたは、光り輝くことでしょう。
この宇宙には、一なるものしか存在しません。一なるものしか存在しないということは、その一なるものは、私であるということです。なぜなら、私は、今、現に存在しているからです。現に存在している私が一なるものでなかったら、一なるものしか存在しないという真理は嘘になるのです。一なるものしか無いから、現に存在している私は一なるものなのです。 一 = 私 です。 もし、私の外に何かがあるなら、二つのものがあることになり、一なるものしか存在しないという真理は崩れ去ってしまいます。一なるものしか無いということは、私しか無いということであり、それは、神であるということです。なぜなら、一なるものは神の別名だからです。ということは、私は、神であるということです。
この宇宙に大小が無いのも、一なるものしか存在しないからです。もし、大小があるなら、二つのものがあることになり、それでは、一なるものしか無いという真理は嘘になります。だから、小さなものは大きなものであり、大きなものは小さなものなのです。一なるものの中には、大も小も無いのです。そこにあるのは、無限のみ、完全のみです。一なるものは無限なのです。一なるものは完全なのです。それが一なるものの実体なのです。無限は、一なるものの別名なのです。完全は、一なるものの別名なのです。そして、それは、また、神の別名でもあり、私の別名でもあり、宇宙の別名でもあるのです。だから、私は、一なるもの、完全なるもの、無限なるもの、神なるもの、宇宙なるもの、と断言できるのです。もし、私が一なるものでなかったら、私は一瞬たりとも存在できないでしょう。ということは、宇宙は消え去ってしまうということになります。どうか、自分を消さないでください。宇宙を消さないでください。一なるものしか無いという真理は不変不動です。これだけは動かしようがないのです。どうか、一 = 私 であるという真理を心に刻み込んでください。
なぜ、宇宙は無くならないのでしょうか? それは、宇宙を存在させている本質そのものが無くならないからです。本質は、永遠に無くならないのです。ただし、本質が永遠であるためには、それを認める判定員がいなくてはなりません。しかも、その判定員も、永遠の存在でなくてはならないのです。なぜなら、判定員が途中で無くなってしまうようでは、本質の永遠性を判定できないからです。では、その判定員は誰でしょうか? それは、人間です。なぜなら、人間は永遠に無くならない意識を持っているからです。ただし、その意識を持つ者は、一様でなくてはなりません。なぜなら、判定員が二つも三つも存在していては、答えが二つも三つも出てくるからです。例えば、土地の境界線を測るには起点が必要ですが、その起点が二つも三つもあっては、境界線を正しく定めることができません。同じように、二つも三つも意識があっては正しい判定ができないのです。だから、意識を持つ者は、唯一の存在者でなくてはならないのです。ということは、人間は唯一の存在者であるということになります。
永遠の意識を持つ人間のみが、永遠の本質の存在を認めてやることができるのです。それができるのは、本質と同じ土俵の上に乗っているからです。同じ次元の存在だから、正しい判定ができるのです。ということは、判定員である人間そのものが、本質そのものであるということになります。そうです。宇宙=本質=人間 なのです。なぜ、宇宙は無くならないか? もう、お解りになったことと思います。人間が永遠に無くならないから、宇宙は永遠に無くならないのです。また、宇宙が永遠に無くならないから、人間も永遠に無くならないのです。
真理とは、神のことです。生命のことです。愛のことです。空のことです。無限のことです。さらに、光のことであり、エネルギーのことであり、本質のことであり、本当の私のことです。私たちは、真理そのものなのです。なぜなら、私たちを形作っている本質も、その形に内在している生命核も、真理そのものだからです。私たちは、真理の塊のようなものなのです。真理そのものだから、心の底で真理そのものだと想えれば、自分が変わるのです。観念的に変わるのではなく、現実的に 実際的に 変わるのです。すなわち、心身ともに変性変容が起きてくるのです。
その真理のことを、別名、法則ともいっているのです。法則は真理そのものなのです。その法則は、どんなものにも平等に働いてくれます。だから、どんなにへつらっても、媚びても、法則を犯せば罰せられるのです。それは、覚者も免れません。なぜなら、誰の心の中にも真理が組み込まれているからです。真理が思っているのです。真理が語っているのです。真理が行っているのです。身口意そのものが真理そのものなのです。
真理を生活の一部にしている人は偉大な魂です。なお、真理を生活の中に生かしている人は、その上をゆく偉大な魂です。真理に生きている人は、その上の上を行く極上の魂です。どうか、真理に生きてください。その人は、究極の幸せを受け取ることができるでしょう。
この宇宙に一なるものしか存在しないという真理は、動かしようのない事実です。
ならば、この宇宙に自分しか存在しないことになりませんか? なぜなら、今、私は現に存在しているからです。今、何かが存在しているということは、その何かは一なるものの現れなのです。何せ、宇宙に一なるものしか存在しないのですから・・・。だから、私は堂々と、自分しか存在しないと公言するのです。もし、私もあり、何かもあるなら、二つのものがあることになり、一なるものしか存在しないという真理は崩れてしまうからです。私が、私の他に何もないと言い張るのは、自分の他に何かを認めれば、一なるものしか存在しないという真理を否定すると同時に、自分の存在も否定してしまうことになるからです。
このように、この宇宙に一なるものしか存在しないということは、自分しか存在しないということであり、それは、すべてのものは、自分であるということなのです。すべてのものは、一なるものの現れだからです。なぜ、駆けっこで、一番になりたいと思うのでしょうか? 競走馬は負けそうになると、相手のしっぽに噛み付くといわれます。それほど一番になりたいのです。それは、自分が二番になったら、他の存在を認めなければならなくなるからです。一つの存在者は、一つでありたいのです。一番でありたいのです。それは、自分しか存在しないことを本能的に知っているから、一番を望むのです。では、この真理を、神に置き換えて考えてみましょう。
この宇宙に神しか存在しないという真理は、動かすことのできない事実です。ということは、私は神であるということです。なぜなら、今、私は現に存在しているからです。もし、私が神でないならば、この宇宙に神しか存在しないという真理は嘘になります。この宇宙に神しか存在しないということは、自分しか存在しないということであり、それは、すべてのものは、自分であるということなのです。ならば、山は私です。川は私です。鉱物は私です。植物は私です。動物は私です。地球は私です。星は私です。宇宙は私です。有りてあるもの、すべては、私です。これは、一なるものしか存在しない宇宙においては当り前のことであって、何の不思議もないのです。私は神ですよ、あなたは神ですよ、すべては神ですよ、と堂々といえるのも、この宇宙に神しか存在しないからです。すなわち、私しか存在しないからです。
天とは、実在界のことです。五官には感じないけれど、実際に存在する世界です。そこには、時間も空間もありません。一にして無限の世界です。そこには、何もないのです。ただ一つの意識があるだけです。だから、天という場所があるのではありません。意識の発祥地を天と呼んでいるのです。私たちは、意識を持っています。意識を持っているということは、天を持っているということです。意識は、誰でも持っているわけですから、誰でも天を持っているということになります。これは、人間だけではありません。あらゆる生き物に意識があるわけですから、あらゆる生き物の中に天があることになります。天とは、恐れ多い存在でも、神秘的な存在でもありません。どこにでも転がっている、ありふれた存在です。しかし、天に入るためには、自分が天そのものになっていなくてはなりません。なぜなら、知識で知っても、実際に、そのものになっていなくては、その境地の存在者にはなれないからです。その境地になった者だけが、天の住者になれるのです。すなわち、究極の幸せを味わえるのです。その幸せの境地は、今、人間が味わっている幸せとは違い、永遠に尽きない、色褪せない、喜びの境地です。だから、人から与えられるものではありません。自分の理解力が与えるのです。納得力が与えるのです。
地とは、非実在界のことです。有るように見えるけれど、実際にはない幻の世界のことを地と呼んでいるのです。その世界には、時間と空間があります。有限の世界です。表現の世界です。見える、聴こえる、臭える、味わえる、触れる世界です。五感で感じられる世界が地なのです。そこには、多くの物があり、多くの人間がおります。だから、固有の名前があります。多くの人間がいるから、様々な人との出会いがあり、様々な人との付き合いがあります。だから、そこに様々なドラマが生まれるのです。でも、そのドラマは、刻々と変化し消えてゆきます。それは、幻だからです。地とは、幻のドラマの生まれる世界のことなのです。
地は、実際に無い幻の世界といいましたが、そんな幻の世界が、なぜ、必要なのでしょうか? それは、天を存続させるためです。一つだけでは、何も存在できないのです。右だけでは右はないのです。上だけでは上はないのです。絶対だけでは絶対はないのです。相対させてこそ、絶対が有るのです。
影と光は二つで一つです。陰と陽は二つで一つです。物質と霊は二つで一つです。元数と分数は二つで一つです。天と地は二つで一つです。人間と神は二つで一つです。すべては、二つで一つなのです。一つの真実を明かすためには、もう一つのニセモノの存在が必要なのです。それが、地なのです。
地が無ければ、天はないのです。天は地によって存在させられているのです。どんなに私は偉大だといったところで、認める地がなければ、天の存在はないのです。人間は、その地の役割を果たしているのです。だから、人間と神は同等の重さがあるのです。神が偉大であるなら、人間も偉大であるということです。
この宇宙には、一対となった一つのものしか無いのです。それが、天であり、地なのです。神であり、人間なのです。だから、私は、神なのです。あなたは、神なのです。天と地とは、このような関係にあるのです。
光の中に闇は絶対入ることはできません。その証拠に、電燈のついた部屋に闇が侵入してきた試しがありません。これは、当たり前のことのように思われますが、大変な真理が隠されているのです。人間は、暗闇があるといいますが、暗闇があるのではなく、光の無い状態が暗闇なのです。それは、もともと、この宇宙に暗闇など無いからです。暗闇は、人間の迷いが生み出した幻なのです。だから、迷いが無くなれば、そく、光に覆われるのです。私たちが光の想いを持ったら、もう何も恐れることはなくなります。なぜなら、闇の産物である病や災厄は、光に満たされた人の中には入ってこられないからです。私たちが様々な苦しみに喘いているのは、悪しき想いを持ち、神の光を遮っているからです。光は実在しますが、闇は実在しないのです。今も述べたように、闇は単なる光の無い状態だからです。だから、光で満たされたら、闇である病や災厄は入ってくることはできないのです。今、暗闇の状態でも、光が入ってくれば、そく、闇は消えてしまうのです。少しずつ消えるのではなく、光で満たされたら瞬時に消えるのです。
どうか、心を光で満たしてください。その者は、もう、病や災厄に悩まされることはないでしょう。これは、運命にも関係していることなのです。運命を悪くしているのは、本人が心の中に闇を作っているからです。本来、闇など無いのですから、悪い運命などあるわけがないのです。自分が悪想念を持ち、悪い運命にしているだけです。どうか、明るい想いを持つようにしましょう。間違いなく、運命は好転するでしょう。
会社をやっていた頃、私は、得意先との付き合いで、度々、麻雀をすることがありました。真理をやる前は、敗けたり勝ったりしていたのですが、真理をやりだしてからは、途中で勝ち負けがあっても、終盤になると必ず勝ち負けがゼロになるのです。それが、やる度そうなるのですから不思議です。後で分かったことですが、これは、守護霊が、エネルギー均衡の法則を肌で実感させるために体験させてくれたことだったのです。エネルギーは偏ると、危険物に早変わりするのです。だから、危険を回避するために、凸から凹へエネルギーが流れ出し、均衡が保たれるようになるのです。例えば、宝くじで大金が当たったとしましょう。これは、一度に沢山のエネルギーが入ってきたことになりますから、明らかに偏った状態です。均衡を保つためには、何らかの形でエネルギーを出さなければならないわけですが、それが、病気であったり、事故であったり、災害であったり、家庭崩壊だったり、会社の倒産であったりするわけです。今生、精算しきれない場合は、来生に持ち越されるわけですが、いずれにしても、いつか、必ず、入った分量のエネルギーを出さなければならなくなるのです。
このように、エネルギー均衡の法則に齟齬はないのです。集めてもどうせ、痛みや苦しみで放散させられるのですから・・・。ならば、わざわざ、エネルギーを集める愚かなことはしないことです。それよりも、与えることです。与えれば、必ず、与えられます。それは、先程も述べたように、出した凹に向かってエネルギーが入ってくるからです。何でもそうですが、出があって入りがあるのです。隙間を作らなくては入って来られないからです。徳を積むとは、先に与え、隙間を作ることを意味し、それは、エネルギーを貯金していることと同じなのです。貯金したエネルギーは利子に利子を呼び、大きなエネルギーとなって返ってくるのです。賢い者は、このエネルギーの法則を逆手に取っているのです。どうか、与えてほしかったら、まず、自分の方から与えてください。腹いっぱいでは、どんなに、おいしい食べ物も、おいしくありません。お腹がすいていれば、何を食べても、おいしいのです。与えられる幸せより、与える幸せの方が大きい! という意味を噛み締めてください。
良心は、「善」い「心」とも書きます。良心は、善なる完全なる神の心なのです。神の心(良心)は、ひたすらに完全を貫き通しているのです。ただ、ひたすらに完全を貫き通す意志は、神の愛そのものなのです。その愛は、どんなしがらみにも動じません。どんなに媚びへつらっても揺らぎません。ただ、真っ直ぐに善を貫き通すだけです。だから、神は、愛そのもの、完全そのもの、といわれるのです。私たちが、どんな悪い想いを持とうが、どんな悪い言葉を使おうが、どんな悪い行いをしようが、その結果、どんな苦しいことが起きようが、完全へと運ばれてゆくのです。それは、神の愛あればこそです。だから、私たちは、安心して生きられるし、夢と希望が持てるのです。
良心に逆らえば、苦しまねばならないのは、良心そのものが、愛そのものだからです。そこに、何の事情も挟んでくれません。弁解も言い訳も通じません。良心に逆らった分の苦しいお返しが来るだけです。これが、峻厳な愛の対応の仕方です。反対に、良心に忠実であれば、愛のお返しがあるのです。それは、進化というお返しです。成長というお返しです。やった分、必ず、お返しが来ます。良心に従順であればあるほど、進化という大きなご褒美が貰えるのです。これが、神とのもう一つのキャッチボールです。良いボールを投げたら、良いボールが投げ返されるのです。純真でありなさい、純朴でありなさい、子供のような心でありなさい、というのは、神の心(良心)を汚せば、自分自身が苦しむからです。さあ、良心に逆らわず生きましょう。その者は間違いなく、進化というご褒美が貰えるでしょう。
こんな悪夢を見たことはありませんか? 悪者に追いかけられ、心臓が止まりそうなほど恐怖している。しかし、“ これは、夢だ! 私は、今、悪い夢を見ているのだ!” と気付いた瞬間、恐怖が去ったという体験が・・・。今、私たちは、これと同じ夢を見ているのです。人生は夢物語りなのです。今、私たちが、見ているもの、聞いているもの、感じているもの、すべてが夢なのです。肉体を自分だと錯覚すれば、五感から入ってくる出来事がみな本当と思えて仕方ないのです。でも、生命が自分だと思えれば、この世が幻だということが分かるのです。生命は、傷つきません。病気になりません。年取りません。死にません。しかし、肉体が自分だと思えば、どうしても、生・老・病・死 に苦しまねばならないのです。
私たちが、一秒一秒 感じている時間は、意識がなぞっている結果です。意識が途切れれば、時間も途切れてしまうのです。なぜなら、原因が無ければ結果はあり得ないからです。原因の大元は意識ですから、すべて自分の意識の中の出来事なのです。現実の世界も夢の世界も、自分の意識が、あればこそ感じられるのです。意識は、本当の自分です。五感は、偽物の自分です。本当の自分である意識が、幻を見て本当に有ると錯覚し、脅え恐怖しているのです。つまり、五感によって意識が悪夢を見せられ、恐怖しているというわけです。それは、肉体が自分だと思っているからです。五感と意識が別だと思えれば、この夢から覚めることができるのです。夢から目覚めれば、すべての悩みや苦しみから解放されます。どうか、一日も早く夢から目覚めてください。
人間の本質は、目に見えない生命エネルギーです。その生命エネルギーは、そのままでは自分の存在を明かすことができないため、人間を創り、その中に宿って自己表現しようとしているのです。働いているのは、冷蔵庫ではありません。電気です。働いているのは、人間ではありません。生命エネルギーです。すべて、生命エネルギーがやっていることなのです。私たちは、人間ではありません。生命エネルギーです。
その生命エネルギーは、生まれもしなければ、死にもしない、永遠に生き通しの存在なのです。だから、死に脅えることも、恐怖することもないのです。永遠に生き通すものは、生まれもしなければ、死にもしないのです。生まれるということは、死ぬということです。死ぬということは、生まれるということです。生まれるのは、実在しないからです。死ぬのは、実在しないからです。ならば、人間は、実在しないことになりませんか? なぜなら、人間は、必ず、生まれて死ぬからです。人間が実在しないと私がいうのは、人間は、必ず、生まれて死ぬからです。生死があるのは、幻の世界のみです。すなわち、有限の世界のみ生死があるのです。無限の生命エネルギーの世界には、生死はないのです。人間が実在しない理由が、ご理解いただけたでしょうか?
人間は、人間を知らないで生きております。自分を知らないで、平気で生きているのが人間なのです。では、人間とは、何でしょうか? 人間とは、「人」の「間」と書きます。「人」という字の意味は、人と人とが支え合い生きる生き物という意味です。「間」という字の意味は、「関係」を意味します。通して解釈すれば、人と人との関係を保ちながら生きる生き物が「人間」ということになります。いわゆる、社会的生き物が人間なのです。だから、決して、自分一人で生きていると思ってはなりません。相手がいなければ、自分は生きられないのです。また、自分がいなくても、相手は生きられないのです。なぜなら、支え合う相手がいなければ、人は、こけてしまうからです。その支え合う生き物同士が手を取り合い、この地球に素晴らしい世界を築くことが人間に課せられた使命なのです。
人間のもう一つの使命は、魂を育てる使命です。どんな生き物も群生を保って生きているのは、群魂を育て大いなる魂にバトンタッチするためです。人間も同じで、人間同士が支え合って魂を大きくし、寛大な魂にバトンタッチするためです。だから、人間は、魂の保育器だといわれるのです。今、人間は、自由意思を持ってドラマを演じ、魂を大きくしている真っ最中なのです。それは、鉱物・植物・動物のような操り人形ではできないのです。自由意思を持つ人間だから、一つとして同じ筋書きのないドラマが演じられるのです。それが、神の分身である人間の偉大な所なのです。このように、人間には、地球上に理想の世を築く使命と、寛大な魂を育てる二つの使命があるのです。
あなたは、その使命をどこまで果たしましたか? 向こうへ帰って地団駄を踏まないよう、できるだけ使命を果たして帰りましょう。
宇宙意識は、エネルギーそのものです。私が「識エネルギー」と呼ぶのは、意識そのものがエネルギーそのものだからです。この識エネルギーは、本源的エネルギーで、第一のエネルギーとも、天のエネルギーとも、呼ばれています。しかし、この第一のエネルギーは、余りにも精妙なため、そのままでは、表現宇宙で使用できないのです。そこで、宇宙意識は波動を下げ、表現宇宙で使用できるようにしたのです。それが、第二のエネルギーと呼ばれる、宇宙エネルギーなのです。一般的にいわれている宇宙エネルギーとは、この第二のエネルギーのことを指し、宇宙空間は、この第二のエネルギーで満たされているのです。しかし、この第二のエネルギーも精妙なため、そのままでは、使いものになりません。そこで、使えるようにするため、媒体役として人間を送り出したのです。ですから、人間は、宇宙エネルギーの媒体役を担う大切な役割があるわけです。でも、今の地球において、その媒体役を担える人は、あまりおりません。なぜなら、生命の自覚を持つ人間が、今の地球には少ないからです。そこで、宇宙意識は、さらに、波動を下げ、第三のエネルギーを生み出したのです。それが酸素というエネルギーです。(第二と第三のエネルギーは、地のエネルギーとも呼ばれている。)この酸素は、呼吸によって、誰でも受け取ることができるわけですが、利用の仕方によって様々な効用があるのです。
その主な効用は、次のようなものです。
一、活力源(エネルギー)として
二、血液の浄化として
三、保性力として
四、再生力として
五、本質として
六、光として
七、知恵として
このように、酸素には、様々な効能力が秘められているわけですが、これは、意識の高さに応じて使えるようにした、宇宙意識の配慮の賜物なのです。この酸素は、物理的にも様々な使い道があるのです。例えば、電気に変えることができます。光に変えることができます。力に変えることができます。今は、知られていませんが、まだまだ、沢山の使い道があるのです。
この酸素エネルギーは、波動は下がってはいますが、もともと、本源的エネルギーですから、効能力は、そのまま保持しています。だから、意識の高い者は、その効能力を最大限に生かし利用することができるわけです。
カモのお母さんが、沢山の卵を産みました。その卵が無事ヒナに返りました。でも、そのヒナの中に一羽だけ、素行のおかしな異端児が混じっていました。でも、お母さんガモは、「お前はアヒルの子なのよ!」といいます。兄弟達も、お前はアヒルだといい、自分も何の疑いも無くアヒルだと思い、皆と同じようにガアガア啼き地を這いずり回っていました。
ところが、ある日、自分がカモだったことを知ります。さらに、親兄弟もカモだったことも知ります。(長い年月、アヒルとして生きてきたために、空を飛べなくなったのです。)そのことを親兄弟に切々と訴えるのですが、彼らは信じてくれません。そして、相も変わらず、地を這いずり回って生きております。
異端児とは、お釈迦様であり、イエス様であり、知花先生のことです。私たちは、覚者のいうことを信じないで、今も人間として生きているのです。お釈迦さまも、イエス様も、知花先生も、私たちも、同じ手順を踏んで生まれた何も変わらぬ人間です。ただ、私たちには生命の自覚がなく、覚者には生命の自覚があるだけです。私たちも生命の自覚が持てれば、今すぐにでも、生命として生きられるようになるのです。もし、アヒルが、心の底でカモだと知ったら、大空を自由に飛び回ることでしょう。私たちも、心の底で生命だと知ったら、宇宙を自由に闊歩することでしょう。今、私たちは、人間と思い違いすることで、アヒルのように地を這いずり回る生き方をしているのです。
天国も実在し、地獄も実在するのでしょうか? いいえ、天国は実在しますが、地獄は実在するものではありません。なぜなら、神は、完全なものしか創らなかったからであります。もし、地獄があるなら、神は完全でなくなり、この宇宙は、消滅しなければなりません。消滅しないのは、この宇宙は、完全だからです。でも、多くの宗教家は、地獄も実在し、天国も実在すると説きます。もし、本当に地獄が実在するなら、実在とは、永遠のことですから、一旦、地獄に落ちた者は、永久に地獄で苦しまねばなりません。幸い、地獄は実在しませんので、悔い改めれば地獄から抜け出すことができるのです。地獄などありません。地獄は、私たちの心の中にだけある妄想です。ネガティブな想いの中に・・・不完全な想いの中に・・・悪的想いの中に・・・地獄があるだけです。だから、地獄は意識状態だといわれるのです。
私たちの想念は、何でも作りだす力を持っています。想念は、偉大な創造の力なのです。人間は、その偉大な力を悪用して地獄を作っているだけです。地獄は人の迷いが作った妄想で、実在するものではないのです。しかし、天国は実在します。といっても、天国という場所があるわけではありません。地獄が意識状態であるように、天国も、また、意識状態なのです。ある宗教では、「天国には、エメラルドやルビーで造られた宮殿があり、そこで、天使達がハープを奏で歌い踊り楽しんでいる」と教えておりますが、例え、そんなところがあったとしても、どうして、そんなところが天国なのでしょうか?
あなたは、素晴しい景色を、永遠に素晴しいと心に止めておくことができますか? 素晴しいドラマを、永遠に素晴らしいと心に止めておくことができますか? 素晴しい絵を、永遠に素晴らしいと心に止めておくことができますか? 素晴しい匂いを、素晴しい味を、素晴しい感触を、永遠に素晴らしいと心に止めておくことができますか? 絶対できないはずです。必ず、飽きがくるはずです。陳腐化するはずです。私たちの意識は、必ず、飽きがくるようにできているのです。もし、飽きないなら、それは、苦しみの何ものでもないでしょう。いや、地獄そのものでしょう。でも、幸いなことに飽きがくるから、私たちは、苦しみに喘がなくてすむのです。
この宇宙は、止まることを知りません。永遠に循環を続けています。それは、飽きたくないからです。新鮮さが欲しいからです。どんなに美しい形も、どんな美しい景色も、どんな素晴しい色や音や匂いや感触でも、長く接していたら、必ず、飽きがくるのです。だから、この表現の世界に、天国はあり得ないのです。天国とは、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、幸せな意識状態を指すのです。だから、天国は意識状態だというのです。この意味の深さを噛み締めてください。
「身を捨ててこそ渡る瀬もあり」という諺があります。ある一人の戦士が、敵に追い詰められてしまいます。後ろは流れの激しい川、前は敵、絶体絶命です。“ どうしよう!” と躊躇する戦士の頭上に、沢山の矢が飛んできました。戦士は、意を決して川に飛び込みました。飛び込んでみると、見ためほど川の流れは激しくありません。敵があれよあれよと見ているうちに、向こう岸にたどり着き助かったのです。このように、意を決して飛び込めば、案外と助かるものなのです。でも、人間は、目の前の肉体が惜しいばかりに、それが、できないのです。我が身かわいさのあまり、身を危険にさらすことができない気持ちは良く分かります。でも、それが、大きな落とし穴なのです。どんなに物質に頼っても、物質が物質を助けることはできないのです。なぜなら、物質は、結果次元のものだからです。どうして、結果が結果を助けることができるでしょうか? 結果を助けるには、原因を良くするしかないのです。原因とは、想いのことです。でも、人間は、その想いが信じられないのです。それは、目に見えず、肌で感じられないからです。だから、どうしても、目に見え、肌で感じる物質に頼るようになるのです。
人間は、目前に死が近づかない限り、心(神)に身を委ねることができないのです。絶体絶命に追い込まれなくては、神(心)に顔を向けようとしないのです。あなたは、今日まで、人生において色々なことを試みました。でも、人生を良くすることができなかった。今のあなたは、絶体絶命に追い込まれた戦士のような立場です。もう、川に飛び込むしかないのです。どうでしょうか? 意を決して川に飛び込んでみては・・・。川に飛び込むとは、心(神)を信じるということです。心(神)に委ねるということです。すなわち、神に意識を向けて生きるということです。もしかしたら、戦士のように助かるかもしれませんよ!
肉体の自分は、必ず、死にます。でも、意識・生命・心・神の自分は、永遠に生き通します。朽ち果てるものに生きるか、永遠のものに生きるか、どちらが賢い生き方か、あなたなら分かっていただけると思います。
これまで、何度も述べてきましたように、この宇宙は、生命の海です。一つの生命の海の中から、様々な生命体が生まれ、この表現宇宙を活気づけているのです。その生命体は、互いに支え合い補い合うことによって生き長らえております。根は、たった一つです。一つの命の根から、様々な生命体が生まれ、この宇宙に素晴らしい絵を描いているのです。正に、この表現宇宙は、素晴らしい芸術作品です。しかし、人間は、自分が生命体の分身であることを知りません。だから、身勝手な生き方をして、この世に醜い絵を描いているのです。
飛行機に乗って街を見下ろしてみてください。実に、ゴチャゴチャとして、まとまりがありません。道も、公園も、建物も、無秩序に置かれています。また、色もバラバラで統一が取れていません。だから、人間界から出ている波動は鈍重なのです。でも、自然界は違います。整然と秩序が保たれ、一幅の美しい絵となっています。実に、波動が精妙なのです。例えば、ヒマワリ畑を見ても、同じ方向に顔を向け微笑んでいます。木は、天に向かって一直線に伸びています。山も、川も、湖も、海も、四季折々違った顔を見せております。これは、神の想いが、彼らを秩序ある方向へ誘っているからです。でも、人間は、好き勝手な生き方をして秩序を乱しております。だから、人間の住んでいる街は醜いのです。でも、その人間も、一つの命から枝分かれした生命体であることに変わりはありません。根っこは一緒なのです。これを例えれば、宇宙は、大樹のようなものです。その大樹の幹から枝分かれしている小枝は、植物であり、動物であり、人間です。そして、小枝に茂っている葉は、私たち一人ひとりです。正に、生命の樹そのものです。
生命の樹は、宇宙生命体の象徴的姿だと思います。樹そのものが宇宙生命の体なのです。その樹の幹から吸い上げられる水は、エネルギーそのものといって良いでしょう。そのエネルギーが、枝葉の命を支えているのです。だから、「生命の樹」を「生命の気」ともいうのです。「気」とは、エネルギーのことです。
「情けは人の為ならず!」という諺がありますが、それを実感した体験がありますのでここで紹介しましょう。ある日、地下鉄で電車待ちをしていたところ、日雇い労働者風の人がやってきて、「すいませんが五百円恵んでください!」というのです。何に使うのか訊いたところ、働きにハローワークまで行きたいのに電車賃が無いというのです。そこで、私は「必ずハローワークに行ってくださいね!」と念を押し、五百円渡せば良いのに情けをかけ千円渡したのです。その人は平身低頭して電車に乗りました。隣の町で用事を済ませ駅の近くまできたところで、パチンコ店から出てきたその労働者とバッタリと出会ったのです。私が問いかけると、その労働者はバツの悪い顔をしながら、「ちょっとだけ、パチンコしようと思って・・・」そう口ごもると黙ってしまったのです。どうやら、全部負けてしまったらしいのです。私は、その時つくづく、人に情けをかけては駄目だなぁと思ったのです。これは、彼も悪いが、罪を作るきっかけを与えた私も悪いのです。
世の中には、これと似たことをしている人たちが沢山いるのです。その人たちは良かれと思ってやっているのでしょうが、案外と罪作りなことをしている場合が多いのです。人を甘やかす行為は、真の人助けとはいえません。だから、恵む場合も、良く考えてやることです。情けもかけるなら、魂の成長を考えてやることです。魂の成長になる情けとは、峻厳な愛の情けです。つまり、厳しく接することによって魂を成長させる「愛」の「情」のことです。だから、「人情」ではなく、「愛情」をかけなさいといわれるのです。人の情は、どうしても甘やかしてしまいます。特に、肉親の情は、人を駄目にしてしまいます。厳しいことをいうようですが、本当に、その人を愛するなら、魂を成長させる愛情をかけることです。
因果の法則の最も素晴らしい点は、心から悔い改めれば、罪が消えてしまうという温情的な仕組みです。神は、私たちを苦しめるために、因果の法則をお創りになったわけではないのです。生き方を正すために創られた因果の法則ですから、過ちに気付いて生き方を改めれば、あえて苦しませる必要はないのです。しかし、私たちは、過ちに、なかなか気付くことができないし、気付いても、なかなか改めようとしないのです。だから、神は、止むを得ず、苦しみや悲しみを与えているのです。
因果の法則の特筆すべき点は、悪い波動には悪い波動が共鳴し、良い波動には良い波動が共鳴し合うという仕組みと、全く反対の波に出会うと波が打ち消されてしまうという、波の干渉の仕組みです。この仕組みは、神の慈悲だと私は思っています。もし、この波の干渉が無ければ、一旦、出した悪的波動は、痛みや苦しみによって消さない限り、いつまでも、私たちを悩ませることでしょう。しかし、過ちに気付き生き方を正したら、波の干渉により、痛みや苦しみを受けずに済むのです。なぜ、神は、温情的かといいますと、心から悔い改めた者のお尻を叩くような仕組みを創っていないからです。神は、非情な親ではありません。人の親がそうであるように、神も、我が子を苦しめたくはないのです。だから、心から反省し、二度と過ちを犯さないと堅く良心に誓えば、苦しむ必要がなくなるのです。因果の法則から逃れる術は無いという人がおりますが、そんなことはないのです。悔い改めた者を痛めつけて、何の益があるというのでしょうか? 神は、そんな理不尽な仕組みを、お創りになるはずがないのです。さあ、心から悔い改めてください。その者は、もう苦しむ必要はないのです。
良く世間には、人をおとしめようとする者がおります。でも、その者は、自分をおとしめていることに気付いていないのです。例えば、人をおとしめるためには、まず、自分の心の中で色々な策略を思い巡らせなければなりません。その者は、その策略によって自分をおとしめているのです。悪しきことを思い巡らせること自体、自分を汚しているからです。おとしめる策略そのものが、自分であれ、人であれ、汚しているからです。おとしめるという意味は、汚すという意味なのです。これが、人をおとしめんとする者は、自分をおとしめているという本当の意味なのです。憎しみの思いも、恨みの思いも、怒りの思いも、どんな汚れた思いも、自分の中から出てくるのですから、自分を汚さないで人を汚せるわけがないのです。汚物を外に出すには、出口(自分の口)を汚さなくてはできないからです。
逆も真なりで、人を愛するには自分を愛さなくてはできません。人を清めるには自分を清めなくてはできません。愛も清らかな思いも、自分の中から出てくるわけですから、自分の中に無いものは出しようがないのです。自分の倉庫に良い在庫品が無くては、良い品物は出せないのです。その意味では、愛深い人は沢山愛のある人であり、憎しみ多い人は沢山憎しみのある人である、ということになるでしょう。人は自分です。自分は人です。この宇宙には自分しかいないわけですから、人を汚せば自分が汚れ、人を清めれば自分が清められるのです。すなわち、自分を汚せば人を汚し、自分を清めれば人を清めるのです。
本来、憎しみも、恨みも、怒りも、自分が作らなければそんなものは無いのです。なぜなら、この宇宙に汚れたものなど一つも無いからです。あるのは清いもののみ、すなわち愛のみです。愛は実際にあるので与えることはできますが、憎しみは実際にないので与えることはできないのです。人から憎しみをもらったという人は、自分が作るからあるのであって、自分が作らなければ、そんなものは無いのです。自分が作らなければ無いという意味は、外側からどんな憎しみがきても、自分が受け取らなければ、影響は受けないという意味です。世間には、人に騙され老後の貯えを奪われている人がおりますが、自分の中に汚れた思い(欲望)があるから騙されるのです。自分の中に汚れた思いがなければ、騙されることはないのです。また、人のコソコソ話を悪く受けとって、憎悪の念を膨らませている人がおりますが、これも自分の中に汚れた思いが無ければ、そんな妄念を作ることはないのです。すべて自己責任です。同じ波動を持っているから共鳴し、騙したり騙されたりするのですから、おとしめる人もおとしめられる人も同罪なのです。だから、人におとしめられたからといって、人のせいにしてはならないのです。もし、おとしめられたり騙されたりしたら、よく自分の心を見つめて反省してみることです。
この世には、光文学と闇文学があります。因果律に基づいて書かれた小説を光文学といい、因果律を無視して書かれた小説を闇文学といいます。闇文学を書いている作家はサタンの支配を受けていますので、文脈は、重く、暗く、内容も矛盾に満ちており、肉体的にも不健康です。自殺に追いやられた作家の殆どは、サタンの支配を受けて心を乱した結果です。このような作家の書いた小説は、読んだ人の心を暗いものにします。決して有名作家だからといって傾倒しないでください。反対に光の指導霊に導かれている作家の文脈は、明るく、爽やかで、内容も理路整然としており、また、肉体的にも健康です。したがって、そのような作家の書いた作品は、読者の心を爽やかにします。小説も読むなら、光文学を読むようにしましょう。後味の悪くなるような闇文学は、毒になっても薬になることはありません。ぜひ、心が爽やかになるような小説を選んで読んでください。
サタンなど、どこにもいません。サタンは自分の思いが作った自分自身です。つまり、サタンは、自分の妄念の中にのみいるのです。心配、恐怖、イライラ、憎しみ、恨み、怒り、嫉妬、ねたみ、肉欲、物欲、権勢欲などの悪的想いは自分が作ったサタンです。その自分が作った悪的想いと外側の悪的波動が同調し、災いを呼び込んでいるのです。私たちは、外側から災いを受けていると思っていますが、災いの原因は、すべて自分の想念にあるのです。人間は自分で災いの種を撒きながら、人のせいにして苦しんでいるのです。
宇宙が整然と運ばれているのは、原因と結果の法則が隅々に行き届いているからです。悪いことを想えば悪いことが起り、良いことを想えば良いことが起るのは、この法則によるのです。自分が苦しい原因を作っているから、苦しい結果がやってくるのです。良い原因を作っていたら、苦しむことはないのです。すべて自分の想念次第です。だから、想念のコントロールが大切になってくるのです。今まで自分を苦しめていたのは、みな自分の妄念です。
すべて自分の想念のせいです。このことを知ったら、もう外側のものに腹を立てたり、怯えたりすることもなくなるでしょう。恐れるべきは自分の妄念です。さあ、良き想念波動を出しましょう。
私たちは、見える物が、本当に有ると思っています。でも、見える物は、本当に有るのでしょうか? いいえ、見える物は、本当には無いのです。なぜなら、見える物は、必ず、消えて無くなるからです。では、なぜ、見える物は、消えて無くなるのでしょうか? それは、実際に無いものだからです。本当に有るものなら、絶対に無くなることはありません。本当に無いから、消えて無くなるのです。その実際に無い物を得んがために、人間は、毎日、あくせく働いているのです。何とも不思議だと思いませんか。でも、誰も不思議だとは思っていないのです。この宇宙の実体は、見えないものが本物で、見える物は、みな、偽物なのです。見えないものこそ、絶対実在なのです。なぜなら、見えないものが、見える物を生み出しているからです。見えない原因が見える結果を生み出しているからです。結果は原因から生まれるのです。私たちは、ものをあべこべに見ているのです。
私たちの肉体は、幻の世界を見聞するために作られた乗り物です。幻の世界にいる間だけ必要な乗り物ですから、いずれ、消えて無くなるのです。あの おじいさんも、この おばあさんも、消えて無くなりました。あの有名人も、この有名人も、消えて無くなりました。それを、私たちは、毎日、見ています。でも、そのことを誰も深く考えようとしないのです。だから、沢山の物やお金を欲しがったり、戦争をしたりするのです。もし、この世の物が偽物だと知ったら、そのような愚かなことはしなくなるでしょう。
確認しましょう。
見える物は、見える物からは生まれません。見える物は、みな、見えないものから生まれるのです。あなたは、見える物が、見える物から生まれたのを見たことがありますか。物質は、見えない原子から生まれたのですよ。赤ちゃんは、見えない精子と卵子から生まれたのですよ。どんな物も、見えない世界から出てくるのです。そしていつか、必ず、見えない世界へ帰るのです。それは、本当に無いものだからです。しかし、生命は、本当に有るものですから、決して無くなることはありません。その無くならない生命が、本当のあなたなのです。どうか、本当の自分と偽物の自分の識別をしてください。
人類が、競い合い、奪い合い、争い合って苦しんでいるのは、真実と現実の見分けが付かないためです。もし、真実と現実の見分けが付けば、この地球上から一切の争い事は無くなってしまうでしょう。では、現実とは何でしょうか?・・真実とは何でしょうか?・・・
この世のモノは、見えます。聞こえます。臭います。味わえます。触れられます。でも、時間が経てば変化し消えて無くなります。これが、今の地球人類における現実の基準です。ですから、この基準に合わない夢や幻覚は、非現実扱いされているわけです。物質化現象も、この基準に合いませんから、今の地球では現実扱いされていません。当然、幽界も現実扱いされていません。では、他の星ではどうでしょう。例えば、惑星Rでは、夢も、幻覚も、物質化現象も、幽界も、現実扱いされています。これは、理解力の高低から生まれる、現実の基準の違いなのです。ということは、今後、地球人類の理解力が増せば、夢も、幻覚も、幽界も、物質化現象も、いや、妄想も、空想さえも、みな、現実扱いされる時がやってくるということです。
進化した惑星Rでは、地球人類の思っている現実は、みな、幻として処理されているため、彼らの星では争い事など起きようが無いのです。幻を奪い合っても意味のないことを、彼らは知っているからです。そろそろ地球人類も、現実も、夢も、幻覚も、幽界も、物質化現象も、同じ幻だということに気付いてもらいたいものです。私が現実についてクドクドと述べるのは、地球人類は現実を真実と思い込み、様々な争い事を生み出しているからです。現実は真実ではないのです。消えて無くなる幻です。そんな幻のために、命のやり取りをすることほど愚かなことはありません。
真実とは、不変不動永遠不滅のものです。それは、言葉や文字で表すことのできないものです。なぜなら、私たちの感覚にかからないものだからです。でも、確かに存在するのです。意識として、意志として、理念として、知恵として、力(エネルギー)として、光として、愛として、命として、法則として、そして、本当の私として・・・それが、真実の正体です。本当の私たちは、真実そのものなのです。私たちは、その真実を追い求めるべきです。真実に生きるべきです。
このように、現実とは、消えて無くなるもの、真実とは、永遠に無くならないものをいうのです。地球人類がこの違いを心の底で知ったなら、もう、幻を奪い合うような愚かなことはしなくなるでしょうし、妄想で自分を苦しめるようなこともしなくなるでしょう。どうか、現実と真実を見分ける目を養ってください。現実(幻)で心を痛めることほど愚かなことはないのですから・・・。といっても、現実を軽んじなさい、といっているわけではありません。それどころか、重みをもって受け取って欲しいのです。なぜなら、現実が深く理解できたら、真実も深く理解できるようになるからです。私たちは、今、現実を知ることによって、より深い真実を知ろうとしているのです。でも、多くの人は五感に惑わされ、現実の虜になっているのです。まさに、本末転倒とはこのことです。どうか、現実と真実の識別をしっかりしてください。識別ができたら、もう、現実に惑わされることはないでしょう。
世の中には、否定的な言葉を好んで使う人がおりますが、その人はその場の波動を極端に落しています。言葉は、神なりきです。言葉ほど大切なものはないのです。その大切な言葉をネガティブに使っている人が、世の中には多いのです。この世に不幸が絶えないのは、言葉を悪用して使っているためです。神は嬉しくなるような、楽しくなるような、明るい言葉が好きなのです。明るい言葉には、高いエネルギーが含まれていますので、人を幸せにするのです。反対に暗い言葉は、エネルギーが低いため人を不幸せにするのです。それを知らない人間は、愚痴や不平不満など暗い言葉を使ってエネルギーを落とし、苦しんでいるのです。エネルギーは光ですから、エネルギーが高ければ、良いことが寄ってくるのです。
実社会においても成績の良い人は、明るい言葉や肯定的言葉を多く使っています。成績の悪い人は、暗い言葉や否定的な言葉を多く使っています。人に好かれる人は、エネルギーを高める言葉を多く使い、人に嫌われる人は、エネルギーを低める言葉を多く使っているのです。成績を上げたかったら、人に好かれたかったら、幸せになりたかったら、エネルギーの高まる明るい言葉や肯定的な言葉を多く使うようにしましょう。
具体的には、
といっても、歯の浮くような褒め言葉や、明らかにお世辞と分かるような言葉は使ってはなりません。純粋な動機に基づいた、肯定的な言葉、ポジティブな言葉を使いましょう。「はい! そうですね! いいですね! よろしいですね! そうですとも!
いいですとも!」という言葉は肯定的言葉の代表です。ぜひ、皆が笑顔になるような言葉を使ってください。言葉だけではありません。体全体で肯定的な態度を示すことも大切です。例えば、首を横に振ってはなりません。首を横に振ればエネルギーを拡散させるため、エネルギーを落としてしまうのです。笑顔を湛え、頷くことです。そうすれば、エネルギーが高まります。
根暗な人は、言葉の使い方が下手なのです。というより、想いの持ち方が、下手なのです。言葉の前にあるのが想いですから、明るい想いを持っていれば、明るい言葉しか出てこないのです。暗い想いを持っているから、暗い言葉が出てくるのです。よく、人のいうことを悪く取り、腹を立てる人がおりますが、これほどエネルギーを低めることはありません。また、これほど体内に毒を溜めることはありません。これでは病気になっても仕方がありません。何事も良く受け取れば、自分を苦しめることはないのです。これは、誰の責任でもありません。みな、自分の責任です。また、自分を卑下してもなりません。よく、自分を虐める人がいますが、その人は自分に甘え、人に甘えているのです。ようするに、誰かに同情してもらいたいのです。
世の成功者といわれる人は、想いの使い方が上手なのです。想いの使い方が上手だということは、言葉の使い方が上手だということです。言葉の使い方が上手だということは、行為を表現するのも上手だということです。この宇宙には、均質なエネルギーが満ち満ちており、そのエネルギーは誰でも平等に使えるようになっているのです。どのように使うかは、その使う人に任されているのです。肯定的に使えば幸せが、否定的に使えば不幸せが、それは、エネルギーを良いことに使ったか、悪いことに使ったか、それだけのことなのです。使い方が下手だから、人生を苦しくしているのです。どうかエネルギーを上手に使ってください。それは、想いと言葉を上手に使えば、誰でもできることなのです。
ここに、卵を前にして「一日も早くヒナに返してください!」と祈っている親鳥と、自分でヒナに返そうと、一生懸命、卵を抱いている親鳥がいたとしましょう。さあ、卵を返すのは、どちらの親鳥でしょうか?
当然、一生懸命、卵を抱いている親鳥の方ですね。非科学的生き方とは、神頼みしている親鳥の生き方です。科学的生き方とは、一生懸命、卵を抱いている親鳥の生き方です。非科学的生き方には、自分が入っていません。科学的生き方には、必ず、自分が入っています。実際に変化させられるのは、自分の想いと言葉と行為であり、それは、自分抜きではあり得ないのです。神頼みは、実在しない力に頼っているわけですから、変化させられるわけがないのです。実在しないものに頼り、身を危険にさらしている例えをご紹介しましょう。
ここに、信号機を頼りに運転しているドライバーと、自分の目で確かめ運転しているドライバーがいたとしましょう。信号機を頼りに運転しているドライバーは、左右を見ず青信号だけ確認し交差点を通過します。自分の目で確かめ運転しているドライバーは、信号付近で速度を落とし、左右を確かめた上で通過します。さあ、どちらが安全で、どちらが危険でしょうか。後者の方が安全で、前者の方は危険ですね。なぜなら、自分は信号を守って運転していても、相手が守って運転してくれる保証はないからです。また、信号機に故障が無いともいえないからです。交差点で良く事故が起きるのは、信号を頼り切っているせいなのです。
科学的生き方とは、本当に有るものに生きる生き方です。自分の意識は、本当に有るものですから、間違いを犯すことは絶対ありません。でも、信号機は、本当に無いものですから、間違いを犯すのです。(故障することもあるし、見間違いすることも有る。)
真理も同じです。外側の形を頼りに生きている人は、実在しない物に生きているわけですから、原子核を増やすことができないのです。内側の自分の意識を頼りに生きている人は、実在するものに生きているわけですから、原子核を増やすことができるのです。確かに、他力に頼るのは楽です。自分は何もしなくてもいいのですからね・・・。でも、神は、そんな怠け者に都合の良い仕組みなど、お創りになるわけがないのです。地球に努力という字があるのは、努力する必要があるからです。必要の無い字を、神が用意されるわけがないのです。科学的生き方とは、常に自分を入れた生き方です。非科学的生き方とは、自分抜きの生き方です。どうか、実際にある自分の力を頼ってください。他力からは何も生まれないことを知ってください。
「身・口・意」という言葉があります。この「身・口・意」の「身」とは行為のこと、「口」とは言葉のこと、「意」とは想いのことです。昔から「身から出た錆び」とか、「口は災いの元」といった戒めの言葉はありますが、「意」を戒める言葉は見当たりません。人間は見える形の部分しか重視しないため、どうしても見えない「意(想い)」を軽視してしまうのです。でも、一番大切なのは、見えない「意」、すなわち想いです。身を動かすのも、言葉を話すのも、すべて、見えない想いがやっているからです。原因(想い)あっての結果(言葉や行為)です。でも、人間は「身・口・意」を軽んじ、平気で悪しき想いを持ち、悪しき言葉を語り、悪しき行いをしています。これは、因果の法則の恐ろしさを知らないからです。
神殿や仏閣に行くと、門前に仁王像や閻魔像や金剛力士像などが置かれていますが、目的は信者を魔から守るためだといわれています。でも、本当の目的は、因果の法則を守らすための像なのです。あの恐ろしい表情は、「因果の法則を守りなさい!」という威嚇なのです。あなたは子供の頃に、「嘘をつけば閻魔様に舌を抜かれますよ! 悪いことをすれば火炎地獄に放りこまれますよ!」と脅されたことがありませんか。仁王像も閻魔像も金剛力士像も、因果の法則を守らせる威嚇の役割を果たしているのです。
因果の法則が守られなくては、この世は、真っ暗闇になってしまいます。今の地球は、真っ暗闇とまではいいませんが、相当暗いです。それは、多くの人が因果の法則を犯しているからです。今や、門前の像は象徴的な存在になってしまいましたが、もう一度、原点に帰り、像たちの存在意味を噛み締めてください。