世の中には、幻(非真理)を知ろうとしている人は沢山おりますが、真理を知ろうとしている人は僅かしかおりません。殆どの人が、真理を知らぬまま人生を終えているのです。これでは何のために生まれてきたのか分りません。さあ、折角の人生を無駄にしないためにも、真理を知って帰ろうではありませんか。それは、自分のためであり、地球のためであり、宇宙のためでもあるのですから・・・。
真理とは何でしょうか。「真理」の「真」とは、誠なるもの・確かなもの・不動なるもの・不変なるもの・永遠なるもの・完全なるもの・無限なるもの・絶対善なるもの、を意味します。「理」とは、ことわり・法則・鉄則・定め・秩序を意味します。通して解釈すれば、不変不動永遠不滅絶対善なる確かなものが「真理」の意味になります。ならば、変化変滅するこの表現宇宙のすべての物は、非真理ということになるでしょう。 そうです。
この世のどんなモノも、どんな現象も、すべて非真理です。私たちは、この世の無常を嘆きますが、この世のモノは何が無くなろうと、すべて非真理ですから、憂いることも、心配することも、悲しむことも、ないのです。例え、肉親の肉体が無くなっても、自分の肉体が無くなっても、・・・です。
私たちは、真理そのものなのです。なぜなら、私たちの意識は、永遠に無くならないからです。私たちの意識は、不変不動永遠不滅の真理そのものなのです。いや、意識を持つすべてのモノは、真理そのものなのです。だから、
いっておきますが、形の中で生きて働いている意識(生命)が真理そのものだといったのであって、形が真理だといったわけではありません。その点、誤解しないでください。
真理は、姿形が無いので見ることも 触ることもできませんが、今、厳然として宇宙に存在しているのです。意識として、意志として、知恵として、力として、光として、その総合された生命として、・・・。だから、人間を知れば、真理(宇宙生命)の実体が解るのです。
真理について、もう少し深く追求してみましょう。私たちは、「私の右側にリンゴがある!」という言い方をしますが、それは、自分から見た場合で、万人共通の見方ではありません。あなたと向かい合っている人から見たら、リンゴは左側にあるからです。これは、真理ではありません。このようなこともあります。
大根を買いに行き、あなたは、Aの大根が良く見えたのでAの大根を買いました。でも、隣の奥さんは、Bの大根が良く見えたのでBの大根を買いました。この場合、二人にとって、真理は、二つあることになります。でも、これも、真理ではありません。どんな人にも共通なのが真理ですから、人によって違う真理は真理ではないのです。
真理は、見えるものでも、触れるものでも、量れるものでも、示せるものでもありません。真理は、どんな条件下にあろうと、絶対変わらない不変不動永遠不滅の定まったものです。例えば、ここに水と氷があるとします。でも、水も氷も真理ではありません。なぜなら、氷は融けて水になり、水は蒸発して無くなるからです。この場合の真理は、水蒸気です。なぜなら、水蒸気は、永遠に無くならないからです。今も述べたように、不変不動永遠不滅なるものが真理ですから、無くなってしまう水や氷は真理ではないのです。
次のような例えも同じです。
ここに美人がおります。でも、この美人は、いつまでも美人ではありません。段々と年老い、しわができ、醜い姿になり、最後は土に帰ってゆきます。これは、非真理だからです。不変不動永遠不滅なるものが真理ですから、変化し消えて無くなるものは、すべて非真理なのです。
生命(神)は、不変不動永遠不滅なるものです。その生命が全宇宙を差配しているのですから、全宇宙は、真理そのものといっていいでしょう。ということは、私たちも真理そのものということになります。なぜなら、私たちの中に不変不動永遠不滅の生命が宿っているからです。そうです。本当の私たちは、生命そのものなのです。生命が思い、生命が語り、生命が事をなしているのです。
その生命は、五感を超越しているのです。五感で感じるものは、すべて非真理です。五感で感じないものは、真理です。真理か非真理かを見極める簡単な方法は、五感で感じるか感じないかを目安にしてください。ただし、五感で感じなくても非真理のモノはあります。例えば、原子です。素粒子です。でも、これも、現象として何らかの方法で捕らえることはできますから、非真理です。
どうか、真理を見極める目を養ってください。そうすれば、もう、物に溺れることはなくなるでしょう。消えてなくなる非真理(物)を手に入れても、何の意味も無いからです。このように真理とは、永遠不滅不変不動の生命(神・本当の自分)のことをいうのです。
あなたは何が欲しいのですか? お金ですか、物ですか、地位や名誉ですか? 幸せが欲しいのではありませんか。人間は、お金や物があれば幸せが得られると思っていますが、そんな物からは、かりそめの幸せは得られても、永遠の幸せは得られないのです。それを知っている、あなたの魂は、永遠に尽きない、永遠に色あせない、究極の幸せを欲するのです。
人間が、かりそめの幸せを嫌い、永遠の幸せを求めたがる理由は、私たちの意識(生命)が永遠だからです。永遠の意識を持つがゆえに、永遠の幸せの中に入らなくては満足できないのです。また、その意識は飽きがくるため、同じ幸せの中にいては不満が起きるのです。では、永遠に失わない、永遠に飽きない幸せは、どうすれば得られるのでしょうか? それは、自分が永遠の意識であると心の底で知ったとき得られるのです。意識には制限制約がありません。また、生・老・病・死もありません。自由です。無限です。何でも創造できます。その意識が自分であると心の底で思えたとき、心は永遠の幸せの中に入るのです。
大昔から人生は、悟るためにあるといわれてきました。でも、なぜ悟らねばならないのか、その理由が教えられてきませんでした。なぜでしょうか? それは、悟りと幸せを切り離してしまったからです。前述したように、私たちは、永遠に尽きない、永遠に色褪せない、究極の幸せが欲しかったのです。その究極の幸せは、「自分が意識そのものである! 」と心の底で思えたとき、つまり、悟ったとき、得られるのです。悟れば、究極の幸せの中に入れるのです。ということは、悟りも、究極の幸せを得る方便であるということになります。
これまで多くの人たちが、悟るために人生を捧げてきましたが、理由も分からず悟りを目指してきたのです。それは、悟りが究極の幸せにつながっていることを、誰も知らなかったからです。しかし、今、ここで、悟らねばならない理由が明らかになりました。もう、悟るために二の足を踏むことはないでしょう。さあ、悟りの目的が、「究極の幸せを得るためである!」ということをしっかりと認識してください。
宇宙には、物理学と真理学があるのです。物理学とは、分数の組み合わせによって作られた物質世界を研究する学問です。一方、真理学とは、元数1そのものを研究する学問です。物質は消えて無くなる幻ですから、物理学とは幻を研究する学問ということになります。元数1は絶対無くならない真実ですから、真理学とは真実を研究する学問ということになります。では、どちらの学問に力を入れるべきでしょうか? 消えて無くなる物理学でしょうか?、永遠に無くならない真理学でしょうか? 真理学ですね。では、今、人類は、どちらの学問に力を入れているでしょうか?
人類が今もって様々な苦しみに喘いでいるのは、消えて無くなる物理学に力を入れ、永遠に無くならない真理学をないがしろにしているからです。消えて無くなる物理学は、この世限りの学問です。永遠不滅の真理学は、あの世に帰っても通用する学問です。それも物理学のように、沢山の知識を身に付ける必要のない学問です。たった一つの真理が理解できれば、宇宙の謎のすべてが解かる万能の学問なのです。なぜなら、元数1が解れば、すべての分数の謎が解かるからです。元数1とは、本当の自分のことです。宇宙生命のことです。宇宙意識のことです。すなわち、神のことです。ですから、元数1の自分を知れば、もう何も得る必要も、何を知る必要も、何を成し遂げる必要も、なくなるのです。なぜなら、究極の幸せの中に入ったからです。究極の幸せ以外、一体、何がいるというのですか?・・・。「究極の幸せが欲しい!・・究極の幸せが欲しい!・・」とあなたは、何万転生も真理を追求してきたのではありませんか。どうか、究極の幸せについて、深く追求してみてください。「究極の幸せ」この言葉の意味の深さは、無限宇宙よりも深いのです。
何でもそうですが、何もしないで事が起きることは絶対ありません。事が起きるには、起きるだけの原因が必ずあるのです。火を付けたから火事になったのです。水に飛び込んだから溺れたのです。一生懸命 登ったから、頂上にたどり着けたのです。これは、当たり前のことで、何の不思議もありません。原因を作れば、必ず、結果が生まれるのです。それも、良い原因を作れば良い結果が、悪い原因を作れば悪い結果が・・・。それを教えてくれているのが、ウサギとカメの童話です。ウサギは足が速いので、カメを問題にしていませんでした。でも、油断して途中で一休みしたため、カメに追い越されてしまったのです。それは、「一休み」という原因を作ったからです。水戸黄門の歌の一節に、「後から来たのに追い越され、泣くのが嫌ならさあ歩け!」という文句がありますが、これは因果の法則を示唆した良くできた詩だと思います。要するに人に負けたくなかったら、負けないだけの原因を作りなさい! と、この詩はいっているわけです。
「原因と結果の法則」は絶対的法則ですから、いかなる者も逃れられません。法則を犯せば、必ず、痛い目に遭います。人間は法を犯しながら、「なぜ、私はこんなに苦しまねばならないのだ!」と嘆いていますが、責任は、みな、自分にあるのです。火のないところに煙が立たないように、原因の無いところから結果は絶対生まれないのです。それゆえに、私たちは、法を守って生きなければならないのです。この原因と結果の法則こそ、私が一番知って欲しい、守って欲しい、宇宙の理なのです。人類がこの法則を守るようになったら、今すぐにでも地上天国はやってくるでしょう。
裁判寸前にまでいった、こんな嘘のような本当の話があります。別居中のある奥さんが妊娠してしまったのです。その奥さんは、夫に問い詰められ、こう言い訳したといいます。「私は浮気していません。この妊娠は処女解任です!」と・・・。ある宗教の狂信者だけあり、うまい言い訳をしておりますが、もし、それが事実なら原因の無いところから結果が生まれたことになり、因果の法則が成立しなくなります。そんなおかしな話はありません。妊娠した結果があったということは、そうなる原因を作っていたということです。つまり、その奥さんは、浮気していたということです。良くキリスト教でイエスの処女解任の話をしますが、それは、イエスを神秘化するために、でっち上げた作り話です。そんな非科学的なことがあるわけがないのです。イエスは、ヨセフとマリヤの性行為で生まれた、私たちと何ら変わらぬ手順を踏んで生まれた普通の人間です。
覚者であろうと、無謀な生き方をすれば、怪我もするし、病気にだってなるのです。また、覚者だって電気を使い空気や水を汚しているわけですから、応分の自然災害にも遭うのです。大雪で足止めされたことがありましたが、私自身、空気や水や土を汚すなどの原因を作っていたのですから、応分の結果が与えられて当然だったのです。原因を作れば、必ず、結果が付いてくるのです。これは、いかなる者も逃れるわけにはゆかない真理なのです。
“ 因果の法則を気にしていたら何もできませんよ!” という人がおりますが、それでは、あなたは、火の中に手を入れヤケドをしないのですか? と訊きたいです。なぜ、アメリカで、銃による殺人事件が多発しているのでしょうか。それは、銃の所持を許しているからではありませんか? 津波で原子炉が破壊され放射能被害を受けましたが、それは、危険なウランを使っていたからではありませんか? 危険な原因を作れば、それ相応の結果が生まれるのです。これは、当たり前のことです。でも、その当たり前のことを、何の疑問も持たずやっているのが人間なのです。
やればやり返されるのですよ! 奪えば奪い返されるのですよ! 殺せば殺されるのですよ! それも、因果の法則の報復だけでなく、人為的なおまけつきの報復(人為的罰則)も来るのですよ! こんな割の合わないことをどうして人間はするのですか? それは、因果の法則の偉大さを知らないからです。無知だからです。原因と結果は、必ず、一致するのです。宇宙の法則に齟齬は絶対無いのです。どうか法則を守ってください。
笑顔には笑顔が返ってきます。怒りには怒りが返ってきます。親切には親切が返ってきます。意地悪には意地悪が返ってきます。この表現宇宙は、精妙な波動で創られていますので、本来、原因と結果は、すぐにやってくるはずなのですが、波動の粗い今の地球では、原因を作っても、すぐに結果がやってこないため、どうしても、人間は、因果の法則を犯してしまうのです。でも、原因を作れば、必ず、結果がやってきます。宇宙の完全性は、「原因と結果は、必ず、一致する」という、因果の法則の絶対性が支えているのです。もし、因果の法則が錆びついて働かなかったら、宇宙は、たちまち崩壊してしまうでしょう。今まで、宇宙が無事存続してこられたのは、因果の法則が正常に働いていた証しなのです。
この宇宙は、絶対宇宙と相対宇宙の対によって成り立っています。絶対宇宙は原因の世界で、相対宇宙は結果の世界です。相対宇宙で起きた出来事は、すべて絶対宇宙で作られた原因によるのです。これは、私たちの想念行為に例えることができます。私たちの想念は原因次元に属し、肉体行為は結果次元に属するのです。原因である想念は見えませんが、結果である肉体行為は見えます。その見えない想念が始めに働き、後に肉体行為に現れるのです。私たちの周りで起きている事象は、すべて想念の働きによるのです。だから、想念(原因)のあり方が大切になってくるのです。
幸せな人生を歩んでいる人は、良い原因を作った結果としてあります。不幸せな人生を歩んでいる人は、悪い原因を作った結果としてあります。すべて因果応報によるもので、偶然に、幸・不幸になったわけではないのです。一見、やむを得ぬように見える自然災害も、人類の不調和な集合意識が生み出した必然的結果であって、偶然に起きたわけではありません。だから、不幸を全員で平等に分け合っているわけです。不幸を全員で平等に分け合っているという意味は、一人ひとり応分の原因に見合った結果を、一人ひとりが応分に受け取っているという意味です。だから、同じ自然災害にあっても、被害の多い人と少ない人が出てくるわけです。私自身も、応分の結果を受け取っています。
因果の法則を信じられる人は、自分に何か起こっても、決して、人のせいにすることはありません。すべて自己責任として自分を戒めます。でも、信じられない人は、他人に責任を転嫁して逃げております。これは、愚かな人のやる所業で、賢いとはいえません。なぜなら、どんなに責任逃れしても、いつか、必ず、応分の責任を負わねばならないからです。逃げても逃げても、必ず、結果は追いかけてきますので、決して逃れられません。ならば、こちらから、結果を消しに行った方が気楽ではありませんか。消しに行くとは、反省をし、二度と原因を出さない(過ちを犯さない)ようにすることです。これは、賢い人なら分かるはずです。責任逃れする人は、因果の法則の絶対性を知らないからです。
人の不幸は、無知からきているのです。つまり、自分が不幸の種を撒きながら、それに気付かない無知がもたらしているのです。どうか、無知を解消してください。因果の法則の絶対性を知ってください。その者は、もう愚かなことはしなくなるでしょう。
「禍福は、あざなえる縄の如し!」という諺がありますが、これは、因果の法則を通して進化する姿を、あざなえる縄に例えて語ったものです。人間は、過ちを犯します。そして、苦しみます。でも、その苦しみから学び、生き方を正すようになります。そうなると幸せがやってきます。しかし、人間は、増長し、再び過ちを犯します。そして、苦しみます。でも、その過ちから再度学び、生き方を正すようになります。すると、また、幸せがやってきます。こうして、不幸と幸せの間を行き来しながら成長してゆく姿を、「あざなえる縄」のようだといっているわけです。
この宇宙は、悪が勝つようにはできておりません。また、善が勝つようにもできておりません。善悪の消却を通し、完全な善に向かって進化してゆく営みがあるだけです。善悪の消却とは、原因と結果の循環のことを指しており、この循環の営みがあればこそ、表現宇宙は、より完全に向かって進化してゆくことができるのです。
原因と結果の法則は、いってみれば循環する輪のようなものです。その輪は、二つあります。一つは、表現宇宙の内(物質界と幽界との輪廻)を循環する(B)という輪です。もう一つは、絶対宇宙と表現宇宙を循環する(A)いう輪です。私たちは、今、(B)という輪を循環しておりますが、この輪は、私たちの迷妄が作りだした幻の輪で、実際に存在しているものではありません。私たちは、実際に存在していない輪の中を、これまで、何万回も回ってきたのです。確かに、この輪を回ることで色々なことを学び、成長することができました。でも、そろそろ、この輪の外に出たいものです。そのためには、悪い原因を作らないようにすることです。これが輪廻の克服といわれるもので、人生の大きな目的の一つなのです。
もう一つの(A)という循環の輪は、宇宙の脈動運動による輪のことですが、ここでは触れないでおきます。いずれにしても、私たちは、二つの輪を克服するために生まれてきたのです。
本来、この宇宙に善悪はありません。あるのは絶対善のみです。なぜなら、この宇宙は神によって創られた神の御神体だからです。御神体の中に悪があるはずがありません。もしあるなら、神は完全でなくなってしまいます。そんな神がおられるわけがないのですから、この宇宙に悪があるはずがないのです。悪があるように見えるのは、善悪を認める人の思いがあるからです。その思いは、損得を認める感情からきているのです。あの人と付き合ったら私にとって損か得か、この物のやり取りをしたら私にとって損か得か、そこに行けば私にとって損か得か、自分が得する場合は善になり、損する場合は悪になるのです。立場が変われば全く反対になってしまうのが、この世の善悪の正体なのです。だから、私は、この宇宙に本質的な善悪は無いというのです。
例えば、人間は、悪さをする虫を悪と見ます。そう見るのは、その虫が人間にとって都合が悪いからです。確かに、人間の立場に立って考えれば、嫌な虫かもしれません。でも、虫の立場に立って考えてみてください。虫は、自分の使命を果たしているだけです。例えば、蚊を一例に取って見ましょう。蚊は、不潔な水たまりに多く発生しますが、これは、「水はけを良くしなさい! 生活環境を良くしなさい!」という人間に対する警告なのです。蚊は、警告の役目を果たしているだけです。もし、蚊がいなかったら、人間環境は、今以上に悪くなっていたでしょう。完全の中に生かされている虫たちが、理由なく悪さをするはずがないのです。悪さをするには、悪さをする理由が必ずあるのです。もし、あなたの前に悪さをする虫が現れたら、なぜ、現れたのか、良く考えてみることです。必ず、理由が見つかるはずです。たとえば、建物に隙間があるとか・・・、家の中が不衛生になっているとか・・・、家族間に不調和があるとか・・・、理由が解れば、虫の対処の仕方も違ってくるでしょう。
何事でもそうですが、何か事が起きるには、起きる理由(原因)が必ずあるのです。その事が、自分にとって都合が悪いから、悪といっているだけで、起きている事自体は善い事なのです。もし、その事が起きなかったら、過ちに気付かないわけですから、同じ過ちを繰り返してしまうでしょう。これでは、進歩はありません。虫は、悪役を買って出てくれているのです。そんな虫を責めるのは、お門違いというものです。
これは、人間関係においてもいえることです。極端な例ですが、あなたが、Aという人に殴られたとしましょう。殴られた結果があったということは、殴られる原因があったということです。つまり、Aは、殴る原因を持っていたから、あなたを殴ったのです。あなたは、殴られる原因を持っていたから、あなたは、殴られたのです。Aは、因果の法則に基づき、殴る使命を果たしただけです。もし、あなたが、そこから何の教訓も受け取らなかったら、殴られた体験は、無駄になってしまいます。でも、殴られた原因を見付け過ちを正したら、その体験は、あなたを成長させます。という事は、殴られた事は善だった事になり、殴ってくれた人に感謝しなければなりません。
善悪の感情を持っている人のみに、悪があるのであって、持っていない人には、悪は無いのです。つまり、善悪の木の実を食べている人のみに、悪があるのであって、食べない人に、悪は無いのです。この宇宙には、善も悪も無いのです。あるのは、絶対善のみです。つまり、善悪の消却を通して進化する完全があるだけです。それが分かると、人を責めなくなるし自分も責めなくなるでしょう。人を許し自分も許せる寛容の心は、すべての事象(現象)が善い方向に進化する途中の姿であると思えた時に生まれるのです。
真実という文字を分解してみましょう。「真」とは、不変不動永遠不滅の誠なるモノ、絶対崩せないモノ、確かなモノ、を指します。「実」とは、結実したモノ、実ったモノ、つまり、完全なるモノを指します。ですから、通して解釈すると、不変不動永遠不滅の結実した完全なるモノが「真実」ということになります。
では、この表現の世界に、そのようなモノがあるでしょうか。いいえ、一つもありません。なぜなら、この世にあるモノは、すべて消えて無くなる不完全なモノ(幻)だからです。「私は真実を知りたい!」という人がおりますが、この世で真実を知ることは絶対できません。真実を知りたければ、生命を、神を、本当の自分を、知るしかないのです。生命は、神は、本当の自分は、真実なるモノだからです。誤解しては困りますので付け加えますが、ここでいっている本当の自分とは、人間のことをいっているのではありません。人間の中に宿っている、生命のことを、神のことを、いっているのです。
生命(神)の世界には、永遠に色あせない、永遠に失わない、幸せがあります。生命(神)の世界が天国なのです。でも、天国という場所があるわけではありません。幸せな意識状態を天国といっているのです。では、その幸せは、どうすれば味わえるのでしょうか。それは、生命の自分を心の底で知ったとき味わえるのです。
真実を知りなさいとは、「生命の自分を知りなさい! 神の自分を知りなさい! 本当の自分を知りなさい!」という意味で、真実を心の底で知れば、否応なしに幸せな意識状態になれるのです。覚者たちが一様に目指すのは、この真実を知ることです。それが覚者たちが目指す目的であり、迷った人たちを導く指針でもあるのです。
「真実を知ることは幸せを味わうことである」と、私がいうのは、真実の中に幸せがあるからです。真実イコール生命です。真実イコール神です。真実イコール本当の自分です。すなわち、「真実イコール幸せ」なのです。幸せが欲しかったら、どうか、真実を知ってください。それも、心の底で知ってください。その時、あなたは、真の幸せを味わうことができるでしょう。
現れているモノが本当にあるものなのか? 現しているものが本当にあるものなのか? 良く考えてみましょう。何でもそうですが、そこに何かがあるからには、それを生み出した何かが、必ず、あるはずです。つまり、現れているモノの背後には、必ず、現しているものがあるのです。現しているものがなくては、現れているものはあり得ないのです。ということは、現しているものが本当にあるもの、ということになるでしょう。
では、現しているものとは何でしょうか? それは、心です。想念です。だから、心が本当にあるものです。ゆえに、現象に心が動いたら、その人にとって、その現象は真実になるのです。例えば、柳を幽霊と見間違い恐怖した、あるいは、木の切り株を熊と見間違い恐怖した、そのとき、その人にとっては、幽霊も熊も真実だったのです。これは、次のようなことも同じなのです。
私たちは、行動に移さなければ、やったことにならないと思っていますが、心を動かしたときは、やったことになるのです。だから、イエス様は、「汝姦淫するなかれ!」といわれたわけです。それは、「心で犯した罪も、行為で犯した罪も、同罪だから、やってはなりませんよ!」という意味で、イエス様は戒められたわけです。
心でやっても、行為でやっても、同じなのです。なぜなら、想ったことは、必ず、現象として現れるからです。だから、殺人ゲームなどをしてはならないのです。最近、理由なき殺人事件が多発していますが、これは、心の中の殺人を容認している、心の管理のずさんさが招いた結果なのです。あまりにも、人間は、心の管理がずさんすぎます。態度に表さなければ、何を想ってもかまわないと思っているのです。
これは、逆も真なりで、どんなに現象が騒いでも、心を動かさなかったら、その現象は無かったことになるのです。心を動かせば有ることになり、動かさなければ無いことになるのは、心は創造の力を持っているからです。だから、求道者は、不動の心を築こうと、日夜励んでいるのです。覚者が、常に穏やかなのは、すでに不動の心を築き上げているからです。
心を動かしたときが真実である、という意味の重さを知ってください。
神は偶然を知りません。なぜなら、神は偶然を作らなかったからであります。しかし、多くの人間は、偶然を信じ生きています。私の高校生の頃の話しですが、伯父の経営する会社のトラックが、エンジントラブルが原因で踏切事故を起こしたのです。エンジントラブルの原因が不明だったため、警察は、この事故を偶然で処理してしまいました。この例えを持ち出すまでもなく、今日の社会では、原因不明の交通事故も、地震で家が倒壊したことも、鳩の糞が頭に落ちてきたことも、悪友に道でバッタリ出会ったことも、みな、偶然として「仕方が無い!」で済ましています。ならば、どんな出来事も偶然で処理するべきなのに、サイフをすられたことや人に騙されたことは、警察沙汰にしているのです。なぜ、事故は仕方無いで済まし、サイフをすられたことは警察沙汰にするのでしょうか? 本当に偶然を信じているなら、どちらも偶然で処理するのが筋ではありませんか?
偶然は無秩序を意味し、必然は秩序を意味する言葉です。つまり、偶然は因果関係を認めず、必然は因果関係を認める言葉なのです。それを前提に考えれば、偶然を信じている人は、自分に危害を加えた人に罪は問えないことになります。なぜなら、偶然を信じながら人に罪を問うのは矛盾だからです。偶然が本当にあるなら、サイフをすったスリは偶然に悪い環境に生まれ、偶然にスリ仲間に出会い、偶然にスリになったわけですから、偶然に責任を取ってもらわなくてはならないでしょう。でも、今の社会では、自然災害や事故は偶然で処理し、人災は必然で処理し人を罰しているのです。ということは、この社会の人たちは偶然を信じながら、実際は必然を認めているということです。もし、本当に偶然を信じているなら、偶然にスリになった人の乗っている電車に偶然に乗り、偶然にサイフをすられたわけですから、スリに罪を問うのはお門違いというものだからです。スリに罪を問うのは、必然を(因果関係を)認めているからです。つまり、スリ本人に責任(原因)があると思っているから罪を問うのです。だから、この社会には、罪人を取り締まる警察があり、罪人を裁く裁判所があり、罪人を服させる刑務所があるのです。おかしな社会だと思いませんか?。偶然を認めながら、必然的な処理をしているのですから・・・。
何事も偶然に起きるなら、サイコロの目を頼りに生きたらいいでしょう。そこに何の努力も必要ありません。一生を面白おかしく好き放題に生きたらいいのです。でも、神は、そのような無秩序な宇宙はお創りになっていないのです。平安は、どこから来るのでしょうか? 無秩序の中からですか? 秩序の中からですか? もし、この宇宙に偶然があるなら、今、カミナリに打たれて死んでも、隕石に打たれて死んでも、何の不思議もありません。私たちが曲がりなりにも安心して生きられるのは、目に見えない秩序が働いていると、心のどこかで信じているからではありませんか。そうでなければ、一時たりとも笑っていられないはずです。そうです。この宇宙には、ちゃんとした秩序があるのです。秩序とは法則のことです。法則によって秩序だてられている宇宙には、起こるべきにして起こる、成るべきにして成る、必然があるだけです。だから、法則を信じ法則に生きている聖者には、心配や恐怖は無いのです。
母親の胸に抱かれお乳を飲んでいる赤ちゃんの笑顔は、まさに天使の笑顔です。その天使の笑顔は、法則を信じる安寧の心の中から生まれてくるのです。私たち大人も宇宙の法則を心から信じられたら、赤ちゃんと同じように天使の笑顔で生きられるはずです。偶然を認める社会に真の安寧はありません。真の安寧が欲しかったら必然を認め、その必然(因果の法則・心の法則)を犯さない生き方をすることです。そうすれば、誰もが心穏やかに暮らせるでしょう。
私たちは、毎日、消えて無くなる沢山の人たちを見ております。「朝に紅顔ありて、夕べには白骨になりぬ身なり!」という蓮如上人の名句を持ち出すまでもなく、私たちは、毎日、この世の儚さを痛感させられております。この世の物は、実に儚い存在です。いつか、必ず、消えて無くなります。それは、実際には無いからです。これは、唯物論者であっても、否定しないでしょう。しかし、彼らは、意識は、頭脳(肉体)が生み出すといっております。彼らは、物質は存在しないといいながら、思考も、感情も、欲望も、記憶も、物質である脳(肉体)から生まれるといっているのです。実在しない脳から、どうして思考や感情が生まれるのでしょうか。実在しない脳から生まれた思考は、実在しない思考ではないでしょうか。ならば、実在しない思考から生まれた唯物論が、どうして正しいといえるでしょうか。でも、彼らは、脳は実在しないけれど、脳が生み出した意識は実在するというのです。なぜなら、実際にものを、考え、話し、書くことができるからだと・・・。無いものからは、無いものでさえ生み出すことはできないのですよ。ましてや、無いものが有る意識を、どうして生み出すことができるのでしょうか? なぜ、この矛盾に気が付かないのでしょうか?
どうでしょう。実在しない肉体から生まれた意識は実在しないのではないでしょうか? 例え、実在しない肉体から一時意識が生まれたとしても、それは、一時の意識ですから、その一時の意識が、何を考えようと、何を語ろうと、何をしようと、何の意味があるのでしょうか? まさに、夢幻の話です。唯物論者は、その夢幻の一生を送ろうとしているのです。人間は、そんなものではないのです。肉体は無くなっても、意識は絶対なくなることはないのです。なぜなら、意識は、肉体に付属するものではなく、生命(宇宙)に付属するものだからです。無くならない意識を持った人間だからこそ、その考えに、その言葉に、その行いに、価値があり、意味があるのです。実際に存在しないものが、何を考えても、何を作っても、何を残しても、それ自体無いものですから、何の意味も無いのではありませんか? そんな、無い者のいったことが、どうして正しいのでしょうか? 唯物論者自体実在していないわけですから、その実在していない唯物論者のいっている唯物論が正しいわけがないのです。要するに、実在しない者が考えた唯物論は、夢幻のようなものなのです。
無いものがどうして意識できるのでしょうか? 意識できるということは、意識させる力が背後にあるからです。意識そのものがエネルギーなのです。エネルギーは、永遠に無くならないのです。ということは、私たちの意識は、永遠に無くならないということです。だから、無くなる頭脳から意識が生まれるわけがないのです。永遠に無くならない意識は、永遠に無くならない生命から生まれてくるのです。もし、肉体が意識を生み出しているというなら、あなたが、見て感じているものは、肉体限りのものですから、それは、夢幻ではありませんか。無くなる者が無くなるものを見ていること自体無いことですから、それは、幻ではありませんか。無くなる者が無くなるものを一時意識していることに、何の意味があるのでしょうか? だから、私は、いうのです、唯物論を信じている人は、この宇宙に存在しないのと同じであると・・・。
「自分の中に無いものは出しようがない!」これは、真理です。強盗に「金を出せ!」と、どんなに脅されても、無いものは出せません。自分の中に原因が無ければ、結果が出せるわけがないからです。「悪を持たない者は悪を見ることはない!」といわれるのは、自分の中に原因がなければ、結果の出しようがないからです。悪を見るのは、自分の中に悪があるからです。赤ちゃんがドロボーを見て笑っていられるのは、赤ちゃんの中にドロボーという観念がないからです。私たちが、悪を見、恐怖を見、憎しみを見、怒りを見るのは、自分の中に、それがあるからです。これは、良し悪しに関係ないのです。愛を沢山持っている者は、愛を沢山見るのです。喜びを沢山持っている者は、喜びを沢山見るのです。私たちが悟れるのは、私たちが悟りを持っているからです。悟れば神が見られるのも、私たちが神を持っているからです。それは、私たちが神である証拠なのです。テレビが映像として映るのは、テレビから発信した電波と、放送局から発信した電波が同調したからです。Aチャンネルを持っていたから、Aチャンネルの電波が同調してAチャンネルの画像が見れたのです。Aチャンネルを持っていないのに、Aチャンネルの画像が映るわけがないのです。
では、神は、なぜ、このような仕組みをお創りになったのでしょうか? それは、自分の中に、どのような原因を抱えているか知ってもらうためです。私たちは、自分の中に、どのような思い(原因)を持っているか、自覚しないで生きていることが多いのです。そのために、悪しき想いを持ち、悪しきものを受け取り、苦しんでいるのです。私ごとになりますが、私は、人を責める癖を持っていました。でも、長年、それに気づかないでいたのです。真理を知る前は、自分が責められても、人が責められているのを見ても、全部、人のせいにしていました。でも、真理を知ってはじめて、自分に人を責める思いのあったことに気づかされたのです。そして、それは、自分が気づくために自分が意識させたことだったのです。
私たちは、テレビのブラウン管のようなものなのです。自分が発信した電波と同調したものが、自分に見える(現象が生まれる)ようになっているのです。自分の中に無いものは、発信できないのです。発信しなければ、見せられない(意識させられない)のです。ですから、何か見せられたら、なぜ、そのようなものを見せられたか考えてください。見せられた理由が、必ず、見つかるはずです。自分の中に無いものは出しようがないという意味は、原因を持たないところから原因は発信しようがないから、結果は生まれようがないという意味です。
あなたが、今、存在していることは、紛れもない事実ですね。ということは、永遠の自分の存在を証明していることになりませんか?。理由はこうです。
今、あなたが存在していないなら、「0」です。でも、今、存在している事実があるわけですから、今「1」があるということになります。今「1」があるということは、「1」なる、あなたは、永遠に存在し続けるということです。例えば、あなたが、何兆年分の1の確率で誕生したとしましょう。何兆年分の1といえば、微少な確率のように思えますが、無限時間の中においては、無限の確率になるのです。
数式で書けば、
無限時間 × 何兆年分の1= 無限数
です。
この数式が示すように、「1」が存在するということは、無限の存在を意味するのです。だから、あなたは、永遠に存在し続けるのです。今、あなたが存在していないなら、それは、0ですから、
無限時間 × 何兆年分の0 = 0
となり、
あなたの存在は、永遠に0です。現存している「1」があるということは、永遠の存在を示しており、それは、原因なき原因になるのです。今「1」があるそのことが、永遠の「1」を生み出しているのです。
これは、次のように考えれば理解しやすいでしょう。
例えば、今「1」がある事実があるならば、その「1」を産みだした「1」がその前に無くてはなりません。なぜなら、親のない子は無いからです。つまり、原因のない結果は無いからです。ならば、その「1」を産みだした「1」も、また、無くてはなりません。そして、その「1」を産みだした「1」も・・・・こうして、この話は、永遠に弧を描くことになります。永遠に弧を描くということは、行き着く先がないということです。行き着く先がないのは、原因がないからですから、それは、原因なき原因になるのです。原因を見い出せないものは、原因がないからです。永遠のものは、根拠根源がないのです。根拠根源のないものは、原因がないからです。今「1」があるということは、永遠の昔より「1」があったということになり、その「1」は、原因なき原因になるのです。ということは、絶対宇宙には、「1」だけがあり、「0」は、無いという証になるでしょう。「1」だけが存在する、それが原因なき原因の意味なのです。
「0」は、相対宇宙にのみある見せかけの「0」であって、実在するものではないのです。もし、絶対宇宙に「0」があるなら、今、宇宙は存在していないからです。「0」は、絶対宇宙の「1」が生み出した相対的な「0」であって、「0」自らが生み出した「0」ではないのです。「0」は、「0」を生まないのです。「0」は、「1」から生まれるのです。だからといって、「0」を軽視してはなりません。なぜなら、「0」がなかったら、「1」は、無意味な存在になってしまうからです。「1」が存在を誇れるのは、見せかけの「0」があればこそです。これは、電子と陽子の関係で示せるでしょう。陽子が実在するためには、電子が必要なのです。陽子は、陽子だけでは存在の意味が無いのです。電子あってこその陽子なのです。なぜなら、形がなければ宇宙に物語は生まれないからです。物語が生まれなくては、何一つ体験はできません。体験できない宇宙は無に等しいのです。電子あればこそ、表現宇宙が成り立つのです。でも、その電子は、一時の存在です。それは、相対宇宙にだけ存在する、見せ掛けの電子だからです。だから、電子から生まれてくる物質は、一時の存在なのです。この世が無常といわれる理由は、電子から生まれた一時の世界だからです。
このことからいえるのは、今、宇宙が存在している「1」があるということは、宇宙は、永遠に存続し続けるということです。同じように、今、人間が存在している「1」があるということは、人間は、永遠に存続し続けるということです。この「1」の意味の深さを知ってください。
あなた達は、宇宙を完全に知ることは永久にできません。なぜなら、宇宙は無限だからです。もし、知ることができるなら、宇宙は有限になり、その宇宙を創造した、私(神)も有限になってしまうからです。もし、私(神)が有限なら、能力も有限になり、それこそ、私は、地に落ちてしまいます。永遠に知ることのできない宇宙だから、あなた達は、夢と希望を持って真理の道を突き進むことができるのです。求道が永遠に続くといわれる理由は、永久に宇宙を知ることができないからです。
あなたも経験があると思いますが、修学旅行に出かける前や出かけた最初の日は、不思議にウキウキするほど楽しく過ごせるものです。でも、日程を消化し、旅が終わりに近づくにしたがい、楽しさが段々と薄れてゆきます。それは、日に日に旅の終りが近づき、有限の壁が見えてくるからです。旅行は、企画している時や出発前の方が楽しいといわれるのは、その段階では楽しみの可能性が無限大だからです。有限の意識は苦しく、無限の意識は楽しくなるようにできているのです。それは、あなた達の意識が無限だからです。では、宇宙(神)を完全に知ることのできない具体的例を、いくつか掲げてみましょう。
科学者たちは、普遍性や客観性や再現性を宇宙の謎を解き明かす物差しにしておりますが、それは、有限の物質宇宙で使える物差しであって、無限の意識宇宙で使える物差しではないのです。なぜなら、意識の世界においては、普遍性や客観性や再現性などはあり得ないからです。意識の世界には枠が無いのです。可能性が無限大なのです。枠の無い無限の世界を知ることなど、絶対できないのです。無限の宇宙(神)を完全に知ることは、絶対できないのです。もし、できるなら、数字も最後まで読み切れることになり、宇宙は有限の壁の中に閉じ込められ死んでしまいます。死は、有限の中にだけある現象であって、無限の中にはないのです。宇宙が永遠に存続できるのは、無限だからです。永遠なるもの、無限なるもの、完全なるもの、絶対なるもの、を知ることができないのは、宇宙に初めがないからです。初めがないものは、終わりもないのです。終わりがないものは、初めもないのです。そんな永遠の存在を、どうして知ることができるでしょうか? もし、知ることができるなら、それは、有限になり、不完全になります。
どうでしょう! 知り尽くせる宇宙に、どんな魅力があるというのでしょうか? 知り尽くせる神に、どんな魅力があるというのでしょうか? そんな有限な宇宙(神)なら、私の方から遠慮いたします。そんな宇宙は、何も知りたく無いし、何も得たくありません。知ったって、得たって、すぐに消えてしまう幻なのですから・・・。無限の謎を秘めた「永遠・不滅・不変・不動・無窮・無類」の宇宙だから、あなた達は、夢と希望の旗を掲げて突き進むことができるのです。
皆さんは、大きなモノもあって、小さなモノもあるといいますが、この宇宙には、大きなモノも小さなモノもないのです。あるのは、たった一つのモノだけです。ただし、その一つのモノは一つのモノだけでは、一つのモノでいられないのです。もう一つのモノと相対させて、はじめて、一つのモノは一つのモノになれるのです。だから、宇宙は、もう一つのモノ(相対宇宙)を創って、その一つのモノの存在を明らかにしているのです。それも、同じモノを創ったのでは比較できないため、違うモノを創って際立たせて存在を明らかにしているのです。
大だけでは、大はないのです。小だけでは、小はないのです。大は小と比べて大になり、小は大と比べて小になるのです。だから、宇宙は、大を持ってきて小を明らかにし、小を持ってきて大を明らかにしているのです。この宇宙には、もともと大小などないのです。あるのは、たった一つのモノだけです。その一つのモノを大にしたのは、小を持ってきたからです。小にしたのは、大を持ってきたからです。要するに比べたから大小が生まれただけで、別に大小があったわけではないのです。大も小も一つの同じモノなのです。これを神と人間に当てはめてみると、神と人間の関係がはっきり解ると思います。
もともとこの宇宙に大小がなかったように、神と人間もなかったのです。そこには、たった一つのモノがあっただけです。そのたった一つのモノを神と呼んでいるだけです。しかし、たった一つのモノだけでは、一つのモノの存在はあり得ないので、宇宙は、もう一つのモノを持ってきたのです。それが、あなた達人間です。このことからいえることは、初めから神があったわけでもなく、初めから人間があったわけでもないのです。違うモノを相対させたから、神が生まれ人間が生まれただけです。神だけでは神になりえないのです。人間だけでは人間になりえないのです。神と人間を相対させて、はじめて、神は神となり、人間は人間となるのです。もし、神だけなら、神とは思わないでしょう。人間だけなら、人間と思わないでしょう。神と人間を相対させて、はじめて、神であった、人間であった、と解るのです。白板の上に白墨で絵を書いても分からないように、神の上に神を描いても分からないのです。だから、分かるように。宇宙は、人間を持ってきたのです。大が大であるためには、小を持ってこなくてはならないのです。その大を神と呼び、その小を人間と呼んでいるだけです。だからといって、大が小より優れているわけではないし、劣っているわけでもないのです。なぜなら、大がなければ小はないし、小がなければ大はないからです。だから、私は、大と小は同じ価値があるというのです。つまり、神と人間は同等の重さがあるというのです。神が存在しなければ、人間は存在しないのです。人間が存在しなければ、神は存在しないのです。それは、もともと一つのモノだからです。
繰り返します。
この宇宙には、もともと神も人間もいなかったのです。たった一つの存在者がいただけです。小と比べることで大になったように、人間と比べることで神になっただけです。神だけなら、神はないのです。甘いものだけなら、甘いものはないのです。一つのモノだけなら、一つのモノはないのです。このことを、しっかり理解して欲しいと思います。