霊とは、エネルギーのことです。すべての生き物は、この霊というエネルギーによって、生かされ、動かされ、働かされているのです。私たちが、息をし、脈を打ち、思い、考え、話し、行動できるのは、すべて霊というエネルギーの働きによるのです。私たちは霊の器なのです。霊の乗り物なのです。
霊は祟るもの、とりつくもの、悪さをするもの、恐ろしいもの、というイメージを持つ人が多いと思いますが、それは、無知な宗教家や霊能者によって、霊が曲解され伝えられてきたためです。霊は恐ろしいものではありません。また、神秘的なものでもありません。霊は本源にして本質です。宇宙の根本的支柱を成しているものです。それは、すべての大元を意味します。ですから、この宇宙に存在するもので、霊とつながっていないものは何一つないのです。私も霊とつながっています。あなたも霊とつながっています。万象万物すべてが霊とつながっているのです。霊とつながらなくては不毛なのです。霊イコール万象万物です。霊イコール私です。霊イコールあなたです。現れているもの、現れていないもの、すべて霊です。どうか霊を曲解しないでください。
将棋に「成金」という言葉がありますが、成り金は歩駒が金駒に身分を上げた状態です。霊が物質に成った状態はこの反対で、金駒が歩駒に身分を落とした状態です。しかし、身分を落しても、金の自覚を失わなければ金の働きはできるのです。ただ、残念なことに私たちは、歩駒に慣れ親しんでいる内に金の自覚を失い、金でありながら歩の働きしかできない情けない存在に成り下がってしまったのです。でも、どんなに自覚を失っても、私たちの本性は、金(霊)ですから、依然として、金(霊)の能力は持ち続けているのです。
この宇宙には、霊しか存在しません。霊が、すべての物の中に宿って生きて働いているのです。すべての物の中に霊が宿っているということは、すべては霊そのものであるということです。空気も霊です。水も霊です。石も霊です。花も木も霊です。犬も馬も霊です。もちろん、人間も霊です。霊が、どんな形に化身しても霊は霊であり、形に化身したからといって霊で無くなることはないのです。何に化身しても霊は霊ですから、霊として見ること、霊として感じること、霊として生きることです。この宇宙には霊しか無いのですから、何を見ても霊だと思えば正解なのです。その理解力を持つか持たないかで、光る者となるかならないか決まるのです。
物質と霊は絶対不可分です。絶対不可分ということは、物質と霊は切り離せないということです。一つのものであるということです。同じものであるということです。ならば、物質は霊であり、霊は物質ではありませんか。ということは、今、あなたは、霊を見ているのではありませんか。ただ、霊だと思っていないだけ・・・、霊を見ているのに物質だと勘違いしているだけ・・・。
この宇宙には、霊しか無いのです。ならば、見える物 見えないもの、すべて霊ではありませんか。形ある物 形ないもの、すべて霊ではありませんか。ただ、形に付けられた名前に惑わされ、霊を物質だと思い違いしているだけです。あなたは、今、何を見ていると思っているのですか? 物質ですか? 霊ですか? 今、あなたは、霊を見ているのですよ! 見ているのに、見ていないと思っているだけです。霊だと思えば、それは、霊なのです。ただ、それだけのことなのです。
この世には、霊界について書かれている書物が沢山あります。でも、その書物に書かれている内容の殆どは幽界についてです。幽界は見えるので、書物にすることができるのです。私たちの住んでいる物質界にも沢山の書物がありますが、見える世界だから書物にできるのです。でも、霊界は見えませんから、書物にすることはできないのです。見える幻の世界(物質界と幽界)が、なぜ、書物にできるかといいますと、沢山の物と沢山の人たちが存在し、その沢山の物や人が絡み合い様々な物語を生み出しているからです。でも、霊の世界には、神(生命)のみしか存在しませんから物語は生まれないのです。物語が生まれなくては、書物にできるわけがありません。
物質界とは、私たちが、今、住んでいる地球のことです。幽界とは、地球圏を取り巻いている波動の違う世界のことです。霊界とは、時空を超越した絶対界のことです。意識界ともいいます。天ともいいます。どうか、物質界と幽界と霊界の違いを知ってください。そうすれば、心ない霊能者たちに騙されることは無いでしょう。
この宇宙に、霊界という特別な場所があるわけではありません。霊そのものが霊界なのです。その霊は、宇宙の至るところに存在していますので、至るところに霊界があるということです。ならば、霊を宿している すべての物は霊界になりませんか。空気も水も石も木も花も動物も人間も、霊界ではありませんか。ということは、地球そのもの表現宇宙そのものが霊界だということです。そうです。今、私たちが住んでいるここが霊界なのです。今、私たちは、霊界の中にいるのです。そして、霊界は、今、私たちの中に存在するのです。霊そのものが霊界だから、そのような言い方ができるのです。しかし、その霊は見えません。見えなくては存在の意味がないので、霊自らが物質に化身して自分をアピールしているのです。だから、物質界こそが霊界なのです。見えるこの世界こそが霊界なのです。ただ、見える側面を見るか、見えない側面を観るかで、霊界と呼ぶか物質界と呼ぶか変わるだけです。
誤解してはいけませんので付け加えますが、見えない霊そのものが霊界ですが、見えない霊を霊界だといっても、見えなくては「世界」と呼ぶわけにはいかないので、見える物に化身した物質界を霊界だといっているのです。どうか、私のいいたいことをご理解ください。
物質が霊で無かったら、物質は物質でいられないのです。物質と霊が同じものだから、物質は物質でいられるのです。逆も真なりで、霊が物質でなかったら、霊は霊でいられないのです。なぜなら、見えなくては存在意味が無いからです。どんなに偉大な存在でも、表現されなくては存在しないのと同じなのです。
宇宙には、霊から離れたものなど一つも無いのです。このことは、波頭と大海に例えることができるでしょう。私たちは、大海に浮き沈みする、波頭のような存在なのです。私たちは、その浮き沈みする波頭を見て、「私だ!」「あなただ!」といっているだけです。でも、一つ一つの波頭は、大海の一部であり全体であるはずです。個我であると同時に大我であるはずです。一つ一つの波頭は小さくて無力ですが、大海につながれば全体を揺るがす大きな力となれます。一滴の海水は何もできませんが、大海と融合すれば大きな力となれるのと同じです。
波頭として外側にいれば、雨風にもてあそばれ様々な苦しみに喘がねばなりません。同じように、私たちも、物質界にいれば自然の法則にもてあそばれ、様々な苦しみに喘がねばならないのです。でも、霊として、大海として、内側に帰れば安泰です。だから、私たちは、一日も早く、霊に、大海に、帰るべきです。大海に帰れば安泰でいられるのですから・・・。こういえるのも、霊と物質は、一体だからです。一つのものだからです。
物質を否定する人は、正しくものを見ていない人です。正しくものを見ている人は、物質を霊として観ますので、物質を否定しないのです。否定する代わりに、すべてのものを霊として観るのです。正しくものを見なさいという意味は、実際に有るものを観なさいという意味です。霊は見えませんが、現に実在しているのです。その見えない霊が、見える物となった状態を物質と呼んでいるだけですから、物質が霊なのは当然でしょう。ただ、見える側面を見るか、見えない側面を観るかだけの話です。
恐ろしいもので、見える物質の側面を認めると、物質は、水を得た魚のように元気になり、様々な災いをもたらすようになるのです。それは、私たちの想いが、物質に力を与えてしまうからです。だから、決して物質を認めてはならないのです。かといって、否定してもならないのです。否定すれば、物の本質を否定することになり、神を、宇宙を、私を、否定することになるからです。だから、私たちには、物質を認めず、かつ物質を否定しない生き方が求められるのです。そのためには、霊に対する理解力を持つことです。
この宇宙に否定するものなど、一つもないのです。それは、宇宙には、たった一つの霊しか無いからです。一つしか無い霊を否定すれば、宇宙を否定することになり、神を否定することになり、更に、自分を否定することになるからです。否定できるのは、霊が二つ以上ある宇宙だけです。でも、そんな宇宙は、どこにも無いのですから、否定論は無用なのであります。
宇宙は、霊の海です。霊の外に何も無いのです。見える物 見えないもの、すべて霊です。もし、あなたが霊を見たければ、鏡に自分を写して見ればいいのです。いや、それよりも、周りの物を見て霊だと思えばいいのです。霊だと思えば、すべて霊なのです。私たちは、形に名前を付け、花だ、虫だ、猫だ、人間だ、といっておりますが、霊しか無いのですから、どんな物を見ても霊だと思えばいいのです。形に付けられた名前に惑わされ、霊を霊で無くしているだけです。こういっても、まだ、あなたは霊である自分を認めないのですか? もし、あなたが霊で無かったら、あなたは今この宇宙にいないのですよ!
・霊だからこそ、今あなたはこの宇宙に存在できるのです。
・霊だからこそ、今あなたは生きていられるのです。
さあ、自分が霊であることを認めましょう。そして、“ 私は霊である! ”と大宣言しましょう。認めれば即そうなるのです。いや、なるのではなく、もともと霊、生まれながらにして霊、そのままにして霊だから、なるもならないもないのです。ただ、認めればいいだけです。
そうです。霊になるのに、何の修行も何の努力もいらないのです。努力がいるとすれば、霊と思えるようになる努力がいるだけでしょう。心の底で自分を霊だと思えるようになったら、その人は変わります。その人は、人類を変える人です。地球を変える人です。
“迷える霊” という人がおりますが、霊は、迷うことはありません。なぜなら、霊は、全能の神であり、生命であり、エネルギーであるからです。全能の神が、どうして迷うでしょうか。迷っているのは、人間です。人間として死んだ者は、慣性の法則によって死んだ後も、同じ人間の思いを持って生きるのです。生きている時に霊を正しく理解していないから、死んだ後、さ迷うのです。だから、私たちは、生きている内に霊を正しく理解しなくてはならないのです。霊は、崇めるものでも祀られるものでもありません。世間では、お墓に霊を祀って拝んでいますが、霊は、無限ですから小さなお墓に祀れるわけがないのです。お墓に祀っているのは、カルシウムです。カルシウムを祀って、一体、何になるのでしょうか・・?
このような話をするのは、多くの人が霊を誤解して受け取っているからです。霊は、怖いものでも、祟るものでも、悪さをするものでもありません。霊は、エネルギーですから、人に祟るわけがないのです。霊能者のいっている霊は、幽体のことです。エーテル体のことです。くれぐれも、宗教家や霊能者のいうことに惑わされないようにしてください。
霊は、人間に憑くものでも、祟るものでも、怖いものでもありません。霊は、神です。生命です。エネルギーです。光です。愛です。理念です。意識です。意思です。意志です。その霊は、無限なる存在です。普遍なる存在です。不変なる存在です。永遠不滅なる存在です。絶対善なる存在です。完全なる存在です。この宇宙を存続させている、本源にして本質です。だから、姿形がありません。
私たちは、霊によって生かされているのです。いや、霊そのものが私たちなのです。なぜなら、息の源、脈の源、言葉の源、思いの源が、霊だからです。今、私たちが生きていられるのは、霊が内在しているからです。今、自分と思えるのは、霊が内在しているからです。言葉は霊の想いの表現道具であり、肉体はその活動媒体です。この宇宙に、霊で無いものは何一つないのです。あなたは、今、霊の中にいるのです。そして、霊は、今、あなたの中におるのです。私たちは、毎日、霊を観ているのです。霊を触っているのです。霊を食べているのです。霊を排泄しているのです。霊と語り、霊と戯れ、霊を愛し、霊を親とし、霊を妻(夫)とし、霊を子とし、霊を友とし、霊と共に生きているのです。どうか霊の誤解を解いてください。
大霊の中に私がおり、私の中に大霊がいるという意味は、大霊そのものが私だから、大霊の中に私がいられるのです。また、私が大霊だから、私の中に大霊がいられるのです。だから、私の中に私がいることができるし、私の中に私がいることができるのです。つまり、大霊の中に大霊がいることができるし、大霊の中に大霊がいることができるのです。
私と私は一つのものですから、私の外に出ることはできないのです。大霊は一つのものですから、大霊の外に出ることはできないのです。私の外は無いのです。大霊の外は無いのです。すなわち、すべてのものが私だから、常に私は私の中にいるのです。すべてのものが大霊だから、常に大霊は大霊の中にいるのです。この意味が心底で理解できたら、外に何かを求めるようなことはしなくなるでしょう。
この宇宙には、完全なものしか実存できません。なぜなら、実存していること自体が完全の証だからです。実存は完全の証であり、完全は実存の証なのです。だから、私たちは、実存するもののみを考え、実存するものに生きなければならないのです。
実存するものは、永遠に無くならない完全なるものです。実存しないものは、いつか消えて無くなる不完全なるものです。だから、無常なるものを追い求めていては、完全な生き方はできないのです。永遠に無くならないものを求めてこそ、完全な生き方ができるのです。では、永遠に無くならないものとは、何でしょうか? 完全なものとは、何でしょうか? それは、霊的なものです。霊は、永遠不滅、完全無欠、永遠に常在するものです。それに対して、お金や、物や、地位や、名誉などは、みな、消えて無くなる無常なものです。その無常なる物を追い求めてきたがゆえに、私たちは、苦しんできたのです。すべての不幸は、実在しないもの、不完全なものを追い求めてきた結果です。
霊こそ実存するもの、完全なるもの、それが、私たちの探し求めるべき永遠の宝物です。無常なるものを見ず、実際に有るものに目を向けましょう。永遠なる霊を、完全なる霊を求めましょう。
物質と霊は、二つで一つです。霊と物質は、一対になって完全な働きができるのです。もし、霊と物質を分離してしまったら、どちらも存在意義を失ってしまうでしょう。といっても、実際に存在しているのは、霊の方です。
見える物と見えない霊は同じものです。でも、私たちは、どうしても見える物に惑わされ、見えない霊を無視しがちです。もし、あなたが見える物を物質として見ているなら、あなたは霊と物質を分けて見ていることになり、正しくものを見ていません。見える物を霊として見ているなら、物質と霊を一つとして見ていることになり、正しくものを観ていることになります。もともと無い物質を、どうして分けて見るのでしょうか。霊しかいないのに、どうして分けられましょうか、ということです。そう思うのは、物質もあり霊もあると思っているからです。見える物に心が奪われ、見えない霊を見失っているからです。
もう一度、見直しましょう。
物質は霊です。霊は物質です。物質と霊は、二つで一つです。でも、実在しているのは霊のみです。実在している霊が、幻の物質を生み出しているだけです。でも、その幻の物質が無かったら、霊の存在は無いのです。相身互いなのです。だから、物質と霊は対等なのです。しかし、対等ではあるけれど、実存しているのは霊の方です。お釈迦様のいっている、「色即是空・空即是色」の意味を深く噛みしめてください。物質と霊の味の違いが解るでしょう。もし、その意味が深く理解できたら、あなたは変わります。もう苦しむことはありません。
宇宙には、たった一つの霊があるだけです。そのたった一つの霊が、万象万物に化身しているのです。ならば、すべてのものは霊ではありませんか。
物質など初めから無いのです。ただ、霊が形を取っているだけ・・・その形に物質という名前を付けただけ・・・だから、どこにも物質など無いのです。この宇宙には、たった一つの霊しか存在しないのです。その霊が形を取ったら、どうして物質になるのでしょうか? 霊が形を取っても、それは、霊ではないでしょうか? 一つのものが形を取ったら、なぜ二つのものになってしまうのでしょうか? 霊が形を取っているだけですから、すべて霊と呼べばいいのです。人にいいふらす必要はありません。自分だけの秘密として、“ 吾は霊なり!” と想いましょう。その想いが、あなたを霊まで引き上げてくれるのです。あなたは、その時、霊として振る舞えます。霊として生きられます。どうか、霊を深く知ってください。
物質が物質を生むことはありません。また、物質が霊を生むこともありません。物質が物質を生まない理由は、「無」は「無」を生まないからです。「影」は「影」を生まないからです。物質は影ですから、実際に無い影が物質を生むわけがないのです。また、物質が霊を生まない理由は、「無]が「有」を生まないからです。「影」が「光」を生まないからです。幻(影)である物質が、どうして本物(光)を生むでしょうか。「無」は「何も」生まないのです。「有」が「無」を生み、「有」が「有」を生むのです。(厳密にいえば、「有」は有りて有るものだから、「有」を生むことはない)
本当に有る霊が、物質を生むのです。なのに人間は、あたかも物質が物質を生むものだと誤解しております。特に、物理学者は、"何も無い真空宇宙から生命が生まれることは無い! " といい切ります。もし、それが真実なら、宇宙に生命の誕生は無かったでしょう。真空宇宙は、何も「無」いのではありません。それどころか、生命で充ち溢れているのです。宇宙は、生命の海なのです。エネルギーの海なのです。霊の海なのです。生命の海であるがゆえに、そこから様々な生き物が生まれてくるのです。
この世が浮世と呼ばれる理由は、宇宙空間にポカリと地球が浮いているからです。私たちの目には、暗がりの空間に青く輝く地球が浮いているように見えますが、本当は空間の方が輝いていて、地球の方が薄暗いのです。なぜなら、宇宙空間は波動の高い霊の海で、地球は波動の低い物質の塊だからです。波動の高い霊は輝いて見え、波動の低い地球は暗く見えるのです。しかし、暗くても、地球が霊であることに変わりはありません。ただ、波動が高いか低いかだけの違いで、本質的には同じものだからです。
人間の肉体も同じです。今の私たちの肉体は波動が低いので暗くみえますが、本質的には霊ですから、霊眼(心眼・理解眼・本質眼)の開かれた人の目には、地球も私たちの肉体も輝いて見えるのです。自分のことを霊だと思っている人は、霊人です。自分のことを肉体だと思っている人は、浮世人です。あなたは浮世人ですか、それとも霊人ですか?・・・
見えないものがホンモノで、見える物はニセモノだといいましたが、なぜ、見えない状態のときはホンモノで、見える状態になったらニセモノになるのでしょうか。見えないものが見える物になっただけなのに、なぜ、ニセモノと決めつけるのでしょうか。見える物の実体が見えないものなら、見える物になっても見えないホンモノではありませんか。本当は見える物もホンモノなのです。それを霊として観るならばです。しかし、人間はその目を失い、ホンモノをニセモノにしてしまったのです。人間の誤った概念が波動を下げ、霊を不自由な物質にしてしまったのです。
霊と物質は一つのものです。絶対不可分です。絶対不可分という意味は、霊と物質は同じものだから分けられないという意味です。一つのものをどうして分けられましょうか。ただ、形を取っているか、取っていないかだけの違いではありませんか。もし、霊と物質が別モノというなら、空気と氷は別モノといわねばなりません。コップとガラスは別モノといわねばなりません。そんなおかしな話しはありません。だから、霊と物質は同じものなのです。
その霊は宇宙に一つしかありませんから、すべての物は霊から生まれた霊の子供たちということになります。どんなに形が違っていても、みな、兄弟姉妹です。だから、私も、あなたも、万象万物も、みな、兄弟姉妹です。さあ、物質と霊を区分けするのを止めましょう。同じものとして見ましょう。そうすれば、もう兄弟喧嘩をすることはなくなるのですから・・・。
霊は、姿形がありませんから、そのままでは日陰の身のままです。それでは存在の意味が無いので、霊は自分の身代わりとして物質を作ったのです。物質は、霊の顔なのです。アピールの道具なのです。手が人間の一側面であるように・・・、足が人間の一側面であるように・・・、耳が人間の一側面であるように・・・、鼻が人間の一側面であるように・・・、微生物も、鳥も、花も、海も、山も、人間も、地球も、霊の一側面なのです。ですから、一側面を見て、全体を判断してはならないのです。
盲人の一人が象のしっぽを触り、象とはムチのようなものであるといいました。もう一人の盲人は象の耳を触り、象とはウチワのようなものであるといいました。もう一人の盲人は象の足を触り、象とはドラム缶のようなものであるといいました。みな一部分を見て、全体を見ていないがために犯した過ちです。私たちも、この盲人と同じように、霊の一部分を見て過ちを犯しているのです。正しく霊を見るためには、物質と霊を切り離さないことです。一つのものとして観ることです。物質そく霊、霊そく物質として観ることです。
何事も素直に見ることが大切です。たとえば、ここにリンゴがあったとします。リンゴがあるということは、リンゴを産みだした何かが背後に必ずあるはずです。何も無い所から、ポカリとリンゴが産まれるはずがないからです。卵が先か鶏が先かの論議が堂々巡りになるのは、「初めに種有りき!」が前提条件になっているからです。種は不要なのです。宇宙そのものが種だからです。宇宙は霊的素材(種)で満々ているのです。見えない霊的素材が、すべての物の生みの親なのです。子供に、“物は何から生まれますか?” と訊いてみてください。多分、「見えないものから生まれます」というでしょう。大人だけが屁理屈をいうのです。
そうです。霊は全ての創造物の本源本質です。いわゆる種です。どんなモノも霊によって創られているのです。霊なしに、この宇宙は成り立たないのです。霊は、すべてのすべて、有りてあるものなのです。あなたも霊の化身です。私も霊の化身です。万象万物すべて霊の化身です。すべての形の素材となっているのが霊ですから、何を見ても霊と思えばいいのです。霊と感じればいいのです。想いそのものが霊だからです。霊が想ったものは霊なのです。霊だけが創造できるのです。霊的素材そのものが、あなたであり私であるということです。
私たちは、物質のことを知っているつもりですが、本当に知っているのでしょうか? では、ここで、地球の常識とは違う物質の別の顔を紹介したいと思います。物質の別の顔を知れば、より霊の深みを知ることができるでしょう。
物質とは、
実在とは永遠に無くならないものを意味しますから、無くなってしまう物質は本当に有るものでは無いのです。その意味では、私たちの肉体は必ず消えて無くなりますから、本当に有るものではありません。一時の存在です。無常なるものです。だから「肉に生きるは死である!」といわれるのです。また、肉に生きる者には、四つの苦しみがあります。
一つは生きる苦しみ、二つは老いる苦しみ、三つは病む苦しみ、四つは死ぬ苦しみです。物質には、必ず「生・老・病・死」の四苦があるのです。また、物質は、火で焼くことも、水で溺れさすことも、刀で切ることも、爆弾で破壊することもできます。でも、霊は「生・老・病・死」がありませんし、焼くことも、溺れさすことも、切ることも、爆破することもできません。霊は、永遠に安泰なのです。だから、霊は、無くなって行く物質を観察することができるのです。物質は見られる立場のもの、霊は見る立場のもの、この関係は永遠に変わることはありません。要するに、物質は、泡を掴むような、雲を掴むような、空しい存在なのです。だから、この物質の世界のことを、非真実の世界とか、色界とか、浮世とか、現象界とか、幻の世界とか、呼ばれているのです。「朝に紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」と詠んだ、蓮如上人の詩は、まさに、至言です。朝、紅顔の若者が夕べに白骨になるなどは、交通戦争といわれる現代社会では、決して珍しいことではありません。金槌でモノを叩けば、粉々になってしまうのです。どんな強靭なモノでも、バーナーで焼けば燃えてしまうのです。ましてや人間のか弱い肉体など、風の前のチリ同然です。一風吹けば、飛んで消え去ってしまう儚い存在です。このように物質は、無常なものなのです。
霊とは、神なる私のことです。巷間でいわれている霊を鵜呑みにしないでください。霊とは、この宇宙に遍満する神なる私のことです。私は、これまで、様々な切り口から霊について述べてきましたが、ここで、もう一度、再確認してみたいと思います。
物質と霊を一つとして観られた途端、細胞が震えてきます。内的光が見えてきます。あなたは、その時、自分が霊だと本当に思えるでしょう。これは何も不思議なことではありません。なぜなら、あなた達はもともと霊だからです。これから霊になるのではないのです。あなた達は、私によって平等に創られた霊の子なのです。霊の子だから、霊だと想えれば霊に返り咲けるのです。特別な人などおりません。特別な霊などありません。覚者も一般人も、同じ霊の子です。覚者を特別扱いしないでください。覚者を遠くの存在だと思わないでください。さあ、「すべては同じ霊の子である!」という理解力を高めましょう。そうすれば、そくあなたは霊として生きられるようになるのです。