意識=本質です。本質の「本」は「大本」のことです。本質の「質」は「成している素材」という意味です。したがって、意識とは、「大本を成している素材」という意味になります。宇宙の大本を成している素材は意識なのです。神の大本を成している素材は意識なのです。ということは、意識を持っている私たちは、宇宙そのものであり、本質そのものであり、神そのものであるということになります。だから、私たちは、自分の意識を深く知り、しっかりとした意識の管理が必要になってくるのです。なぜなら、自分の意識のあり方が、そく自分の宇宙に反映されてくるからです。
人間が神であるというと、“ えっ! ” と驚きの声を上げる人がおりますが、驚きの声を上げるのは神の実体を知らないからです。神は、神秘的な存在ではありません。恐れ多い存在でもありません。神とは、生命のこと、原子核のこと、元数1のこと、エネルギーのこと、本質のこと、すなわち、意識のことです。神は、意識そのものなのです。その意識によって、すべてのものが創造されているのです。ならば、人間が意識なのは当たり前ではありませんか。
形が創られる場合、意識から離れて形が創られることはありません。創られた物と創り主である意識は、絶対不可分なのです。ということは、どんな形の中にも意識が、内在しているということになります。ならば、すべての物は、意識そのものではありませんか。唸りをあげる風も、しぶきを上げる海も、遠吠えを上げるオオカミも、陽気にさえずる鳥も、みな、意識であり、神であります。人間が意識であると平気でいえるのも、意識から離れた人間はいないからです。人間と意識は裏表一体なのです。決して切り離すことができないのです。ただ、表の顔と裏の顔があるだけです。つまり、表を見れば人間の顔で、裏を観れば意識の顔であるということです。人間は二重面相なのです。でも、その意識の顔は見えないのです。意識の顔が見えないがゆえに、人間は意識を無視してしまうのです。見える人間の顔がホンモノか、見えない意識の顔がホンモノか、どうか識別してください。
意識は見えません。触ることもできません。でも、その意識は、間違いなく実在しています。それは、この表現宇宙に様々なモノが存在していることが、意識の存在を証明しているからです。意識なしにモノは存在できないのです。モノが有るということは、意識が必ず有るということです。意識が有るということは、モノが必ず有るということです。この二つは、絶対切り離すことができないのです。なぜなら、認める意識がなくては、認められるモノは存在できないからです。認める意識があって、はじめて、認められるモノは存在できるのです。このことを前提に、有る無しについて考えてみましょう。
私たちは、目や肌でモノを感じ、有ると思っていますが、有ると思えるのは、感覚が意識に伝え、そのモノの存在を認めているからです。もし、感覚にかからなかったら、誰も、そのモノの存在を認めないでしょう。では、感覚にかからないものは、本当に無いのでしょうか? いいえ、モノの有る無しは、感覚に かかる かからないに関係ないのです。感覚に かかっても無いし、感覚に かからなくても有るからです。つまり、意識は、見えも 触れもしなくても 実際に有るし、モノは、見えて 触れても 実際には無いからです。では、有る無しを決める根拠は何でしょうか? それは、永遠に無くならないものか、無くなるものか、が決め手です。永遠に無くならないものは有るのです。消えて無くなるものは無いのです。意識は、永遠に無くなりませんから実際に有り、モノは、消えて無くなりますから実際には無いのです。人間は、形の世界で生きてきたために、意識で「有る無し」を決めるのではなく、形で「有る無し」を決める概念を作ってしまったのです。だから、人間は、今もって真実を見失っているのです。
では、「有る無し」を決めるのは誰でしょうか? それは、永遠の意識を持つ人間です。永遠のモノを判定するためには、永遠の意識を持つ判定員が必要であり、その役目を担っているのが人間なのです。永遠の意識を持つ人間が永遠の目で認めるから、永遠のモノが判定でき、永遠のモノ(宇宙)が存在できるのです。人間は、その永遠のモノを判定する審判員なのです。もし、人間がいなかったら、本当に有るものか無いものか判定できないわけですから、宇宙は存在できなくなってしまうのです。永遠のものを計測するには永遠の測りが必要であり、その測りが人間だということです。ということは、「人間が宇宙の存在を握っている」、ということになるでしょう。それほど、人間は、偉大な存在なのです。
この表現世界には様々な物がありますが、それらの物は、実際に有るのでしょうか。いいえ、どんな物も、時がくれば、必ず消えて無くなります。消えて無くなるのは、実際には無いからです。今、太陽の光に照らされ、ここに影ができています。しかし、太陽が雲に隠れ影が消えて無くなりました。では、今まであった影は何だったのでしょうか? 幻だったのです。実際に無いから消えてしまったのです。この世の物は、光によって写し出された影のようなものなのです。影だから、光が遮られれば消えて無くなるのです。光は実在しますが、写し出された影は実在しないのです。でも、私たちは、その影を、実際に有ると勘違いしているのです。この世に写し出された影は、光の現れとして、一時存在しますが、永遠に存在するものではないのです。しかも、影一つ一つに、光一つ一つがあるわけではないのです。一つの光が「私を、あなたを、万象万物を」写し出しているのです。だから、すべての影は、同胞といえるわけです。その同胞同士が喧嘩し合うとは、おかしな話ではありませんか。もともと無い影同士が喧嘩し合うなんて、愚かだと思いませんか?
私たちは、一時も早く、ニセモノとホンモノを見分ける理解力を持たねばなりません。そうしない限り、この地球に争い事は無くならないでしょう。ニセモノは物質です。ホンモノは本質(意識・神)です。そのニセモノとホンモノは、二つで一つなのです。その二つで一つなるものが、人間であり神なのです。人間という形と本質という神が、寄り添いながら、今、真実を探しているのです。
意識は、この宇宙に、たった一つしかありません。それは、神という意識です。神は、意識の別名なのです。この宇宙には、神という名の意識が一つあるだけなのです。その意識は、すべての物を形作っている大元です。その意識は、意思を持った生き物ですから生命ともいい、生きて働いているのでエネルギーともいうのです。その意識は見えません。見えないけれど、すべての物の中にあって、思い、考え、語り、行動指令を出しているのです。まさに、意識は、形を背後で操る黒子のような存在です。
その意識は、今、絶対界(意識界)に一点として存在し、同時に、相対界(物質界・表現世界)に無限として存在しているのです。つまり、相対界に「多」なる物として存在し、絶対界に「一」なる意識として存在しているのです。では、なぜ、「一」なる意識が、沢山の物の中に存在できるのでしょうか? この辺りが非常に理解のしづらいところですが、このように考えてください。「一つの光が無数の影を作り、その影と光が表裏一体になっている」と・・・。影は無数にありますが、光源は一つしかありません。この宇宙には、このように、意識(光・実在)は、一つしか無いけれど、形(影・非実在)は、無限に存在するのです。
「多」なる物とは、原子のことで影を意味します。「一」なるものとは、光のことで意識を意味します。「光と影は表裏一体、意識と物は表裏一体、一と無限は表裏一体、本質と原子は表裏一体」、だから、その原子で造られている私たちも、一にして無限の存在なのです。その意識は、永遠不滅で、決して無くなることはありません。意識は、生まれもしなければ無くなることもないのです。だから、私たちも、生まれもしなければ無くなることもないのです。意識である私たちが無くなれば、宇宙も消えて無くなってしまうからです。「私たち=意識=本質=宇宙=一=神」この真理を心の底で理解してください。
意識は見えません。意識はエネルギーですから見えないのです。その意識は一つしかありません。一つしか無いということは、意識は無限であるということになります。
「 一 = 無限 」なのです。また、無限は完全の別名ですから、意識は完全であるということになります。また、完全の別名は絶対善ですから、意識は絶対善であるということになります。私たちの世界には、性善説と性悪説があるようですが、本来、性善説はあっても、性悪説などないのです。なぜなら、意識(本質・神)は、絶対善であり、絶対正義であり、完全だからです。もし、性悪説が本当なら、意識(本質・神)は不完全ということになり、この宇宙は一瞬たりとも存在できなくなってしまいます。意識(本質・神)が、善なるがゆえに、私たちは、安心して生きられるのです。
キリスト教では、「人間は罪の子である」と教えているようですが、罪の子が、どうして神を拝むのでしょうか。罪の子なら悪魔を拝むはずです。なぜなら、罪は悪魔の所業だからです。もし、人間が罪の子なら、学校で道徳を学ぶ必要も、宗教をやる必要もないではありませんか。善の子だから、神を拝み、道徳を学び、宗教もやるのです。確かに、この世界には、悪を働く人たちが沢山おります。でも、それは、人間の本性が悪だからではなく、自分が何なのか知らないからです。本当は、ダイヤモンドなのに、泥の付いた石を自分だと誤解し、石として生きるから悪を犯すのです。誤解を解けば、泥を落とせば、ダイヤモンドに早変わりするのです。つまり、善人になるのです。どんなに泥を塗りたくっても、本質は、決して変わることはないのです。本質の本性は、絶対善であり、絶対正義であり、完全ですから、この世に悪人など一人もいないのです。いるのは、迷った善人たち(迷った神たち)だけです。
表現宇宙は、意識で埋め尽くされた意識の大海原です。その意識の大海原から、様々な生き物が生まれてくるのです。なぜ、意識の大海原から生き物が生まれるかといいますと、意識は命の本質だからです。科学者は、真空からは何も生まれないといいますが、真空こそ、生命の故郷なのです。真空が物の素材そのものだからです。ということは、科学者がいうような真空でないことになります。真空という字を分解してみましょう。「真」とは、実際に有るものを意味します。「空」とは、エネルギー、生命、生き物、を意味します。通して解釈すれば、「真空」とは、実在する生き物という意味になります。すなわち、真空そのものが生き物であるという意味です。この宇宙そのものが生き物であるという意味です。宇宙が生き物であるがゆえに、理念を持ち、計画性を持ち、宇宙に素晴らしい絵を描くことができるのです。私たちは、その生き物の中に今いるのです。そして私たちの中に今その生き物がいるのです。言い換えれば、その生き物そのものが私たちだということです。だから、本来なら人間も、この地球上に素晴らしい絵を描くことができるはずなのですが、今の地球上には醜い絵が描かれています。それは、本当の自分を知らない人間が、好き勝手に絵を描いているからです。さあ、本当の自分を知りましょう。自分の本性に目覚めましょう。目覚めたら、そく、地球上に素晴らしい絵を描くことができるのですから・・・。
“ 生き物とは何ですか?” と訊くと、誰もが、形あるものを生き物といいます。でも、本当は、形の無いものが生き物なのです。なぜなら、生きているのは、見えない意識(本質・神・生命)だからです。形が生きることは絶対ないのです。形には、一寸の力も、一カケラの知恵も、一明の光も無いのです。形は、幻なのです。だから、人間も幻です。人間が生きているというのは、錯覚なのです。肉体の中で生きて働いている意識こそが、人間の正体なのです。ゆえに、人間は、意識そのものなのです。どうか、形に惑わされないでください。形は、意識の乗り物にしか過ぎないのです。
この宇宙の実体は、見えないものが生き、見える形は生きていないのです。つまり、見えないものが実在で、見える形は非実在なのです。形が実在なら形に生きても仕方ありませんが、人間は、形と意識が一体となった二重生命体ですから、形と意識の両方に生きなければならないのです。具体的には、何を思っていても、何を見ていても、何をやっていても、今 意識が思っている!、今 意識が見ている!、今 意識がやっている!、と思いながら生きることです。肉体の自分が、思っている、見ている、やっている、と思ってはなりません。肉体を動かしている意識が、思っている、見ている、やっている、と思い生きることです。慣れるまでは大変でしょうが、慣れたら無理なくできるようになります。ぜひ、挑戦してみてください。やっている内に、見えない意識が本当の自分である、と思えるようになってくるはずです。
神の意識は、光です。その光によって、この表現宇宙は創られました。ということは、この表現宇宙は、光の海であるということになるでしょう。そうです。この表現宇宙は、意識の海、光の海なのです。その光の大海原に浮いているのが地球です。そして、その地球の中に住んでいるのが私たちなのです。
地球は、神の想い(光)が投影された影ですから、自分で、動くことも 働くこともできないのです。当然、その中に存在している人間も影ですから、自分で、動くことも 働くこともできません。光あっての影ですから、光が閉ざされれば、地球も人間も消えて無くなってしまうのです。それは、実在しない影だからです。実在とは永遠なるものをいいますから、無くなってしまう、地球や人間が実在するわけがないのです。
地球にも人間にも、二つの側面があるのです。一つは影の側面、もう一つは光の側面です。影は無常なるものですが、光は永遠なるものです。私たちは、無常なる影の側面だけ見て、永遠なる光の側面を見ていないのです。ということは、名前だけ見て、中身を見ていないということです。どうでしょう、名前は実在しますか? 形に実体が無いように、名前にも実体がないのです。実体のないものを、どうして分析できますか? 分析するなら、実体のある意識を分析しましょう。意識には、実体があるのです。それは、私という実体です。生命という実体です。宇宙という実体です。神という実体です。永遠に無くならないという実体です。完全であるという実体です。絶対善であるという実体です。無限であるという実体です。愛であるという実体です。どうか、この実体の意味を噛み締めてください。
形は意識から離れて存在することはできません。また、意識も形から離れて存在することはできません。
形と意識が絶対不可分であるように、天と地も、生命と人間も、絶対不可分です。もし、形と意識を強引に切り離したら、その時点で時空は消え、表現宇宙は、消滅してしまうでしょう。宇宙が存続していられるのは、二つが一つに結びつき調和されているからです。だから、形と意識は絶対切り離せないし、天と地も絶対切り離せないし、生命と人間も絶対切り離せないのです。ということは、一つであるということです。この宇宙に、二つのものは、あり得ないのです。もし、あるなら、あなたは、その時点で消えてしまうからです。宇宙に一つのものしか実在しないという真理を、心の底で理解してください。それが理解できたら、あなたは、そく、宇宙そのものになれるのです。本質そのものになれるのです。生命そのものになれるのです。神そのものになれるのです。意識=本質=宇宙=生命=神=人間だからです。
形=本質=意識=生命です。形の中に本質である生命を観ることができたら、私たちは、光る者となれます。でも、心の目で観なくては、光る者となれません。本質という生命は、心でしか観えないからです。
本質と形は、裏表の関係にあるのです。二つで一つなのです。形が形を生むことはないのです。形の生みの親は、あくまでも本質である生命です。肉体があるということは、その背後に、必ず、本質があるということです。何かがある背後には、その何かを存在させている本質が、必ず、あるのです。生命という本質が無くては、いかなる形も生まれないのです。このことが心の底で理解できたら、途端に私たちは光り出すのです。
形(物質)を見れば、心がざわめきますが、本質を観れば、途端に心が安らぎます。なぜ、形を見れば、心がざわめき、本質を観れば、心が安らぐかといいますと、形は波動が低く、本質は波動が高いからです。波動の高いものを観るか、低いものを見るかで、心に大きな変化が起きてくるのです。では、どうすれば、本質を観ることができるのでしょうか・・? それは、理解力を持ってモノを観ることです。そのためには、理解力を高めなくてはなりません。理解力を高め、本質を心の底で受け止めることができれば、見えない本質が観えるようになってくるのです。この目が開かれたことを、心眼が開かれたとか、本質眼が開かれたとか、理解眼が開かれたとか、いわれているのです。この眼が開かれたら、精神的にも、肉体的にも、変性変容が起きるのです。つまり、自分が変わるのです。どうか、心眼=本質眼=理解眼を開いてください。
人間は、人間の形をした意識です。私たちは、形に惑わされ、意識の自分を見失っているのです。もし、自分のことが意識だと心の底で思えたら、途端に自分が変わるのです。観念的に変わるのではなく、現実的に、実際的に、変わるのです。つまり、生・老・病・死から解放されるのです。なぜなら、意識は生まれもしない、老いもしない、病にもならない、死にもしないからです。私たちは、真理を観念的なものと考えていますが、真理は科学です。その手で掴めば、人生が全く変わってしまう現実的なものです。実際に自分の身に変性変容が起きる確かなものです。これは、お釈迦様もイエス様も、口が酸っぱくなるほど説いてきた真実です。でも、その教えは、心ない人たちの手によってこの世から葬り去られてしまいました。私はそれを掘り起こしに来たのです。人間の本質は意識です。人間の本質は生命です。人間の本質はエネルギーです。人間の本質は神です。本質をどのような名で呼ぼうが、人間はたった一つの意識によって創られた、意識の創造物なのです。意識は命の源です。すべての創造物の根源です。それが、この宇宙の実体なのです。どうか、もう一度、意識というものを見直してください。
神は完全です。完全であるということは、どんなことにも意味があるということです。もし、意味がなかったら、神は無駄なことをしていることになり、神は不完全になってしまいます。神が完全なるがゆえに、この宇宙で起きているすべてのことに意味があるのです。ということは、意識したことの中には、必ず意味があるということです。例えば、あなたの目の前に虫が現れたとしましょう。意味のないことは起きないのですから、虫が現れたからには、必ず意味があるはずです。
例えば、「家の中が不衛生になっていますよ! 家に隙間がありますよ! 家族が不調和ですよ!」と、虫は教えてくれているのかもしれません。あるいは、どう虫を処理するのか、心の動きを見ているのかもしれません。意識の高い人は、虫を紙でそっと包み家の外に出すかもしれません。意識の低い人は、殺してしまうかもしれません。物理的なことを気づかせようとしているなら、物理的な対処をすれば、虫は、もう現れないでしょう。しかし、心の動きを見ているなら、答えは人様々です。なぜなら、意識の高さによって対処の仕方がみな違い、学びの内容も、それぞれ違うからです。でも、そこから何かが発見できたら、その人は大きく成長できるのです。
原因(理由)なく意識させられることはないのです。意識した結果があったということは、必ず意識させられた原因があったということです。それは、意識させられたことの中に、克服しなければならない課題があったからです。ですから、もし、何かを意識させられたら、その何かの中にどんな課題が隠されているか考えるべきです。
例えば、テレビで詐欺事件を意識させられたとしましょう。もし、怒りがこみ上げてきたり、責める思いが湧いてきたら、自分の中に人を騙す思いがあるからだと、気付いてください。気付かなかったら、今度は自分が騙されることで気付かされるでしょう。残念なことですが、私たちは騙されなくては、自分の中に騙す思いのあることに気づかないのです。
殆どの人は、自分の課題が何か分からず生きています。それでは成長しないので、神は、「人の振り見て我が振り直せ!」ということを通して気付かせようとしているのです。人それぞれ魂の高さによって課題は違っていますから、一握りに出来ない部分はありますが、意識させられた中には必ず課題があるのです。だから、何かを意識させられたら、そこにどんな課題が隠されているのか考えるべきです。もし、課題が発見できれば、原子核を大きく増やすことができるでしょう。
意識に入ってくるものにはみな理由があり、そのすべてが、自分の成長の足掛かりになっているのです。どうか、意識に入ってきたことの意味を考えてください。意味なく意識させられることは絶対ないのですから・・・。
絶対宇宙の真相は、相対宇宙で体験すればするほど、知ることができるようになっています。一を知るには、多を知る必要があるということです。だから、私たちは、多様な相対世界に出てきて、今、一を知ろうと奮闘しているのです。しかし、多を知るためには、沢山 体験が必要になり、沢山 体験するためには、多くの人との出会いが必要になり、多くの人と出会うためには、多くの情報が必要になります。今日、目を見張るような通信技術や交通技術の革新が進んでいるのは、幼い魂を抱える地球にとって必然的要請だったわけです。
もう一つ、私たちが相対世界に出てくる理由は、克服しなければならない課題を見付けるためです。「犬も歩けば棒に当たる」という諺がありますが、出歩けば、必ず出会いがあります。出会いがあれば、様々な体験ができます。その体験から、必ず何かを掴みます。だから、幼い魂は、多くの情報を欲するし、体験するため外に多く出たがるのです。情報花盛りの今の社会は、まさに幼い魂にとって必要不可欠な社会といえるでしょう。彼らは、今、沢山の情報を頼りに様々な体験をし、成長しようとしているのです。その意味において、幼い魂が情報を多く得ることは良いことなのです。だからといって、野放図な情報のやりとりをして良い、といっているわけではありません。するにしても取捨選択が必要です。
注意せねばならないのは、想念の管理です。悪い想念を発信すれば悪い情報が入ります。良い想念を発信すれば良い情報が入ります。これは波動の法則によるものですから、正しい想念の管理が必要になるのです。良い情報を受け取りたかったら、できるだけ良い想念を発信することです。でも、このことを意識しながら情報のやりとりをしている人は、今の地球では殆どいません。多くの人は、心の寂しさを紛らわすために、野放図な情報のやり取りをしています。その結果、様々な犯罪に出くわしています。勿論、自業自得なわけですが、でも、それも無駄ではないのです。なぜなら、苦しい体験から何かを学ぶからです。これは、神の完全性を信じる上でも、とても大切なことです。
魂が成長してくると、心の寂しさは少なくなりますから、情報のやりとりも少なくなります。また、判断力も増しますから、情報の取捨選択も正しくできるようになります。この宇宙には、様々な想念波動が飛び交っていますが、その波動は想念の色に同調して入ってくるのです。白い想念の色には白い情報が・・・、黒い想念の色には黒い情報が・・・、どうか、白い想念波動を出すよう心掛けましょう。その人は、きっと良い情報を受け取ることでしょう。
この宇宙には、一つの意識しかありません。一様の神しかおりません。一つの意識しか無いということは、私しかいないということになります。なぜなら、私は、その一つしか無い意識を持っているからです。私は、宇宙を認識できる唯一の存在なのです。それは、どんなものの中にも、私がいることを意味します。つまり、結果体の中に、原因者である私がいることを意味しているのです。私が何かを見ているということは、私が私を見ているということです。私が私を認識しているということです。私が私を作っているということです。今、私が病気を認めているということは、その病気の中に私がいるということです。今、私が苦しんでいるということは、その苦しみの中に私がいるということです。私が病気を作り、私が苦しみを作り、私が苦しんでいるということです。結果体の中には、必ず原因者である私がいるわけですから、これは当たり前のことです。
意識したものの中には、必ず認識者である私がいるということ・・、それは、私の意識がすべてのものを作っているからです。だから、正しい想念の管理が問われるのです。不幸を誰かのせいにしても良くならないのは、自分の想念が不幸を作っているからです。不幸は、すべて自分の想念が作った自作なのです。自分が苦しみを作り、自分が苦しんでいるということです。意識したものの中には、必ず認識者がいるということ、結果体の中には、必ず原因者がいるということをご理解ください。
今、あなたが存在しているということは、結果です。結果があるということは、必ず原因があるということです。つまり、あなたという結果体の中には、必ず原因者がいるということです。原因と結果は、切り離すことができないからです。結果体と原因者は、二つで一つなのです。それは、原因者は一様しかおられないからです。ということは、原因者自らが結果体になるしか無いということです。モノを創造する場合、神がそのモノになるしかないといわれるのは、この宇宙には、一様の神しかおられないからです。ということは、今、存在している、あなたの中に神がおられるということです。つまり、結果体である あなたの中に、原因者である 神がおられるということです。だから、あなたは間違いなく神なのです。原因者なのです。どうか、この事実を受け止めてください。
なぜ、想念は実現の母なのかといいますと、想念そのものがモノを形作っている本質だからです。人間は、その想念を持っています。想念を持っているということは、創造力を持っているということです。だから、私が何かを認めたら、想いに添って本質が働き、その何かを創造してしまうのです。私が何かを認めたということは、その認めたものの中に本質である私がいるということです。想えば必ず実現するのは、その想い、そのものが本質だからです。あなたが、悪いことを想えば 悪いことが起きるのは、本質である あなたの想念が、その悪いことを創造してしまうからです。
人生は、想念が生み出した作品なのです。不幸な人生を送っている人は、自分の想念を悪く使い、不幸な人生を送っているということです。幸せな人生を送っている人は、自分の想念を良く使い、幸せな人生を送っているということです。誰も、あなたを不幸にしていないのです。みな、自分の責任において不幸になっているのです。すべて自分の想念の持ち方次第です。どうか、想念の偉大さを知ってください。知れば、決して想念を悪いことには使わないでしょう。人生を良くするも悪くするも、自分の想念の使い方次第であることを知ってください。
“ 有ると思えば有り無いと思えば無い!” と、私がいうのは、人間の意識(想念)そのものが創造の原理であり創造の力だからです。イエス様は、“ 山よ動け!” と、念じれば動くといわれましたが、想念の偉大さを考えたら、山を動かすことぐらい朝飯前でしょう。いや、それどころか、宇宙を創造することも不可能ではないでしょう。ただし、今人間が持っている創造力は、人間の自覚に与えられたものですから、そのような力はありません。せいぜい、コンピューターを操って、ビルを建て、船を浮かべ、ロケットを飛ばすくらいなことしかできません。でも、軽んじてはなりません。その想念も集まれば、宇宙を破壊しかねないほどの大きな力になるからです。想念は自由なのです。どのようにでも使えるのです。想念ほど、頼もしく、恐ろしく、また、自由で確実なものはないのです。その想念を持っているのが人間ですから、上手に使えば素晴らしい世界を造ることも夢ではないのですが、残念なことに、今地球上には醜い世界が造られています。それは、多くの人間が、想念を悪しきものに使っているからです。
想念によって何でも創造できる理由は、前述したように、想念そのものが、本質であり、創造の原理であり、創造の力だからです。でも、本来、その想念は、実際に有るものは創れても、実際に無いものは作れないのです。例え、作れたとしても、一時の幻しか作れないのです。なぜなら、本質は完全の塊だからです。病気や事件や事故などの不完全なものは、迷いの想いが、一時、生み出した幻であって、実際に有るものではないのです。幻だから、悪しき想念を断てば消えて無くなるのです。それは、今もいったように、不完全な本質など宇宙には無いからです。私が良い想いを持ちなさいというのは、良い想いを持てば、それに沿って本質が働き良きモノを生むからです。反対に悪い想いを持てば、それに沿って本質が働き悪しきモノを生むからです。でも、その悪しきものを生み出した本質は、もともと、善であり、完全ですから、悪しき想いさえ断てば、悪しきモノは消えて無くなるのです。それは、もともと、悪しき本質など、この宇宙に無いからです。想いの本質は、善そのもの、完全そのものですから、迷っている悪しき想いさえ断てば、悪しき現象は消えて無くなるしかないのです。だから、私は、想念の持ち方が大切だというのです。一にも二にも想念の持ち方次第なのです。
原因と結果の法則は、絶対曲げられない真理です。結果があったということは、必ず原因があったということです。私たちは、主観宇宙の主ですから、自分の宇宙内で起きたすべての結果には、原因者である真我の自分が責任を取らねばならないのです。良き原因には喜びを、悪しき原因には苦しみを・・・。ということは、自我の自分に必要な情報(結果)しか、自我の自分の意識に入ってこないということです。意味のない情報を(必要のない結果を)、真我の自分が自我の自分に認識させるはずがないからです。今、自我の自分の意識の中に情報(結果)が入ってきたということは、その情報(結果)が自我の自分に必要だから、原因者である真我の自分が自我の自分に認識させたのです。だから、何かを意識させられたら、その意識させられた情報(結果)に疑問を持ち、その情報から意味を発見しなければならないのです。発見すれば、自分が成長できます。原因者の真我の自分をさておいて、自我の自分が勝手に結果を生み出すはずがないのです。結果が原因に先立って、生まれるわけがないからです。
繰り返します。
原因と結果の法則は、絶対曲げられません。今、自我の自分が認識した情報(結果)には、その情報(結果)を生み出した原因者がおり、その原因者は、真我の自分であるということです。必要あって、意味あって、真我の自分が、そのような情報を発信したのです。真我の自分が原因を作りもしないのに、自我の自分の意識の中に勝手に結果が入ってくることはないのです。なぜなら、先程も述べたように、自分が主観宇宙の主だからです。真我の自分と自我の自分は、二つで一つなのです。ゆえに、自分の意識に入ってきた情報(結果)は、すべて自分が発信しているといえるのです。もう、お分かりと思いますが、この話を理解するには、二人の自分を考えなくてはなりません。一人は自我の自分、もう一人は真我の自分です。私たちの中には、二人の自分がいるのです。この理解がなされなくては、この話はこれ以上前に進みません。どうか、二人の自分の存在を理解してください。
私が補色について話すのは、この宇宙は二つで一つであるということを心の底で知ってほしいためです。
赤を見ても青は見えません。しかし、赤の背後には必ず青があるのです。つまり、見える物の背後には、必ず見えない本質があるのです。このことを、補色を通して知ってほしいのです。
あなた達の目は、見える物しか見えないようにできています。でも、理解力で観れば見えないものが観られるのです。つまり、心眼(理解眼)を使えば、物の背後にある本質が観られるのです。本質が観られるようになると、生命の自覚、神の自覚が持てるようになるのです。補色は、心眼を開く一つの方便なのです。誤解しないようにいい添えますが、補色を見る訓練をすれば心眼が開かれるのではありません。補色を見る訓練は、あくまでも背後にあるものを観るための訓練です。 赤は赤だけで赤にはならないのです。赤の反対側に青があって赤になるのです。つまり、見える物だけでは見える物になれないのです。見えないものが反対側にあって、見える物になれるのです。見える物は、見えないもの(本質)から生まれてくるからです。見えないもの(本質)が無くては、見える物はあり得ないのです。その見えないもの(本質)は、色や形がないため理解力によって観るしかないのです。心で理解して、はじめて見えないもの(本質)が観えるようになるのです。観えるようになるといっても、本質には色や形がありませんから、目で見えるわけではありません。心で理解することによって、納得することによって、ああそうかと気付くことによって、観えるようになるという意味です。その見えない本質のことを、神とか、生命とか、霊とか、エネルギーとか、呼んでいるのです。
目で何かを見ている時は、形の世界を見ているわけですから、それは、肉眼を使っているのです。形の背後にある、見えない本質を理解力によって観ている時は、心の眼を使っているのです。この辺が非常に理解のしづらいところですが、神の自覚を得るためには、この理解力を最大限に高めるしか無いのです。それは、補色を観る訓練をすることによってコツが掴めるのです。