私たちが希望を持って生きられる根拠は、この宇宙に一時の停滞や退化はあっても、永遠の停滞や退化はないという、神の愛(進化)の裏付けがあるからです。ですから、今、どんなに苦しい境遇にあろうとも、決して絶望してはなりません。どうか、神の愛を信じ、今、できることを精いっぱいやって待ちましょう。そのうちに、必ず前途が開けてくることを私は保証します。
一般人が真理を求める動機は、病苦から逃れたい、生活苦から逃れたい、家庭苦から逃れたいなど、殆どご利益が目的です。でも、今、この書を読んでいるあなたは、違うと思います。今の人生に満足できない! 一体、こんな人生でいいのか? 他に別な人生があるのではないだろうか? そんな人生に対する疑問から、真理の道に入ってきたと思います。
あなたは、今日まで、何かを探し求めてきたと思います。でも、何を探していいのか分からなかった。そこで、お金を求め、地位や財を求め、異性を求め、ついには、家庭を持ち、そこに安住してしまいました。でも、妻を娶っても、子供を授かっても、地位や名誉を得ても、なぜか満足できないでいる。それどころか、何かがおかしい? 何かが違う? そんな悶々とした日々を送ってきたはずです。そうです。あなたの魂は、現状に満足できないのです。
多くの人は、権威や名声を頼りに本を求めます。でも、あなたは、今、名声も権威も何もない者の書いた書を読もうとしています。それは権威や名声に騙されない、理解力の高い熟成した魂だからです。そんな熟した魂が、今の人生に満足できるはずがないのです。あなたの魂は、今、喉を嗄らしています。どうか、真理の水を与えてやってください。きっと水を得た魚のように、生き生きすることでしょう。あなたは、そのような特別な魂なのです。
真の求道者なら、真の求道者らしく、泰然とした態度で真理に向き合わねばなりません。何か起きたら、すぐに探求を諦めてしまうようでは、真の求道者とはいえないからです。では、真の求道者は、どうあるべきか、その心得を述べたいと思います。
以上、真の求道者としての心得を述べさせてもらいました。ただし、あまり囚われてもなりません。自然体で行ってください。自分の心の中に神がおられるのですから、その思いに素直に従うことです。
私たちは実に幸せです。なぜなら、私たちの目の前に、すでに先人たちが開拓してくれた道があるからです。もし、自分で道を開拓するとなると、大変な苦労がいったでしょう。そう思うと、先人たちに感謝せずにはいられません。では、最初に道を開拓した先人たちは、一体、どのようにして開拓したのでしょうか? 大自然をご覧ください。見事な調和を見せています。神は、その大自然の中に真理を隠されたのです。先人たちは、その隠された真理を発見し、悟りを開いたのです。
人が得た真理は人のものです。自分が得た真理は自分のものです。自分の中から得たものだけが、自分の実力となるのです。だから、知花先生は、自力の大切さを訴えるのです。先生は、常に疑問を持ちなさいと、口癖のようにいっておられました。それは、先生自身の体験から得た答えだからです。どうか自分に問いかけてください。自分に問いかけた回答は、必ず自分の中から得られます。回答が得られれば、あなたの原子核(魂・生命核)は間違いなく増えます。ぜひ、“なぜ? なぜ? なぜ?” と、疑問を自分に問いかけてください。
人があくせく働くのは、この肉体が自分だと思っているからです。肉体を自分だと思えば、肉体は、か弱く作られていますから、どうしても、沢山の物やお金がいるのです。世の親たちが、子供たちを良い学校に入れるのは、物や お金や 地位や 名誉を手に入れさせるためです。お金が沢山 得られれば、いい家に住めます。いい着物が着られます。美味しいものが、たらふく食べられます。地位や名誉が得られれば、人に頭を下げる必要がなくなります。今の世の中をご覧ください。朝早くから夜遅くまで、みな働き蜂のように働いているではありませんか。肉体が自分だと思えば、誰もがこのような生き方をするのです。これは今の社会では仕方のないことで、誰も責めることはできません。でも、もし肉体が自分ではなく、生命が本当の自分だと知ったら、このような生き方をするでしょうか。いいえ、しないはずです。なぜなら、生命には、物も お金も 地位も 名誉も いらないからです。本当の私たちは、汚く、重く、不自由で、無能な人間ではないのです。清く、軽く、自由で、全能な生命なのです。その生命に生きたら、もう保身に走る必要はなくなるのです。
人生の目的は、本当の自分を知るため、すなわち、生命の自分を知るためです。それ以上の目的はありません。人生の目的を知らない人は、どうしても物に溺れたり、金儲けに躍起になったり、地位や名誉や権力に執着したりしてしまうのです。これは肉体を自分だと思っている限り、やむを得ないことなのです。でも、この書を読んでいるあなたは、そうであってはなりません。人生の目的を知ったからです。といっても、日々の生活に追われると、つい人生の目的を見失いがちになるものです。多くの求道者が、真理を求めながら苦しんでいるのは、俗世の誘惑に負け、人生の目的を見失ってしまうからです。決して人生の目的を見失ってはなりません。もし、見失ったときには、次のように自分にいい聞かせてください。「一体、自分は、何のために生まれてきたのか?、何のために生きているのか・・?」と・・・。きっと、冷や水を浴びせられたように目を覚ますことでしょう。
「人間万事塞翁が馬」という諺は、「人生において、何が幸せで、何が不幸か、分からない」という意味だそうですが、本当の意味は、「神は、何一つ無意味なことは、なさらない! どんなことにも意味があり、それは、すべて良いこと なのですよ!」という意味なのです。「無用の用」という諺も、「この世に無用なことは、何一つ無い、すべて必要あって起きているのですよ!」という、神の完全性を教えている諺なのです。では、無意味なことの無い理由を述べましょう。
このように、誰一人として、無意味な人生を歩んでいる者はいないのです。だから、今、どんな境遇にあろうと、決して自暴自棄になってはなりません。あなたの人生は、間違いなく、あなたの糧にも、周りの人たちの糧にも、人類の糧にも、地球の糧にも、宇宙の糧にも、なっているのですから・・・。
人生には、生・老・病・死という四苦がつきまといます。でも、その苦しみは、夜道に迷わないよう、神が用意してくれた、予防灯のようなものだと考えてください。もし、この予防灯の一つでも欠けたら、無事に家に辿り着くことは、できないでしょう。神は夜道をさ迷わないよう、四苦という四つの灯りを用意してくれたのです。今は灯りの意味が分からないかも知れませんが、いつか、必ず、感謝できる日が、くるでしょう。荒野といわれるこの表現世界は、「天使とて地獄に落ちる」と、いわれるくらい厳しい世界です。だから、神様は、迷わないよう、四つの予防灯を用意してくれたのです。その予防灯は、確かに、痛く、苦しく、辛いのです。でも、その痛みや苦しみが、なかったら、私たちは、道を正しく歩くことが、できないのです。
どれ一つ欠けても、まともに、歩くことは、できません。さあ、四つの予防灯に守られながら、故郷を目指して歩みましょう。
この世は、夢幻の世界です。多くの人は、この世の儚さや死の哀れさを目の当たりにしながら、いまだに、この世を真実の世界だと思い込み、消えゆく、物やお金のために、命を削っています。なんと愚かな事でしょう! お金や物に 生きている人は、夢幻に 生きているのですよ!
夢幻に 生きている ということは、死んでいる ということです。実際に無い世界に生きることは、死んでいるのと同じだからです。どうも、長いこと人間をやってきたために、私たちは、長い物に巻かれてしまったようです。それは、長いこと 寅さん役を やっていた 渥美清が、本当に、寅さんに なってしまったようなものです。さあ、目を見開いて ください。
どうか、実際に有る生命に、生きてください。その人は、真に、生きている人なのです。
最近、占いがブームになっているようですが、そんなものに頼っている人は、自分の人生をサイコロ任せにしている無責任極まりない人です。他人が、占いが、偶然が、神が、自分の人生を作るのではありません。自由意思を持つ自分が、自分の人生を作るのです。賢い人は、自由意思を良く使い幸せな人生を送っています。愚かな人は、自由意思を悪く使い不幸せな人生を送っています。これは誰の責任でもなく、自由意思を悪く使った自分の責任です。
もし、他人が、占が、偶然が、自分の人生を作るなら、そこに人間としての尊厳があるでしょうか? また、神が人生を作るなら、その人生は、一体、誰の人生でしょうか? こう歩きなさい、ああ歩きなさい、と案内される人生に何の意味があるでしょうか。自分の自由意思で作る人生だからこそ、やりがいもあるし、誇りも生まれるし、やり遂げた喜びも生まれるのです。操り人形の人生が、誇れる人生といえるでしょうか? 喜べる人生といえるでしょうか?
確かに、操られる人生は楽かもしれません。何も考えなくていいし、何の努力もいらないのですからね・・・。でも、考えてみてください。もし、その人生が失敗に終わったら、その責任は誰が取ってくれるのですか? 他人ですか? 占いですか? 偶然ですか? 神ですか? いいえ、自分が責任を取るのです。痛みとして、苦しみとして、悲しみとして・・・。他人任せで責任だけは自分が取る、そんな割の合わないことをあなたはするのですか? どうか、自分の人生を、他人任せにしないでください。さあ、自分の人生に責任を持ちましょう。
真理が理解できないからといって、自分を卑下するようなことはしないでください。理解力のなさを認めることは良いことですが、それで、波動を落とすようでは、求道者としては失格です。理解力のなさは、原子核の少なさですから、このように考えて自分を励ますことです。
“今日、理解できなくても、明日には、きっと理解できるようになる” と・・・。なぜなら、私たちは、毎日、少なからず原子核を増やしているからです。
このような質問をする人がおりました。“ 私は年を取っているから、女性だから、頭が悪いから、今生、悟れないのではないか ” と・・・悟るのに、どうして年齢や性別や頭の善し悪しなど関係あるでしょうか?
あなたは、自分の原子核の量を知っているのですか?
もしかしたら、一時間後、自覚の境界線を超える量が集まるかもしれないのですよ。女性でも、前世で、すでに境界線を超えた魂かもしれないのですよ。これは誰にも分からないのです。分からないということは、希望が持てるということです。求道者なら、ポジティブに考えましょう。
やった者が勝ちです。やらない者は負けです。原因と結果の法則は完璧なのですから、これは当たり前のことです。
ある人が、このようなことをいっておりました。“ 私はアセンションが終わってから人生設計を立て直すのだと ”・・・。なんと愚かな考えでしょう。この人はアセンションが起きれば、自分が変わると思っているのです。自分は何もしないで、どうして自分が変わるのでしょうか?
よろしいですか。この宇宙は、愛のエネルギーが均一に遍満しているのですよ。宇宙のどこかに、エネルギーの高いゾーンがあるわけではないのです。ならば、どうしてアセンションが起きるのでしょうか。アセンションとは、自力で波動を上げれば、高い波動(守護霊)と同調できるようになるため、様々なヒントが得られるようになるという意味です。しかし、これは、あくまでも自力によるのです。「こちらが 一歩 近づけば、神は 百歩 近づいてくれる! 」とは、このことをいっているのです。だから、私は、守護霊が導きやすくなるよう波動を高めてくださいというのです。守護霊は、いつも私たちを導こうと身構えております。でも、今の私たちは波動にギャップがありすぎて、導こうにも導けない状態なのです。それは、物質に溺れ、情欲に溺れ、波動を落としているからです。欲に目がくらまされ、お金や物の虜になっている間は、守護霊は導きたくても導けないのです。
確かに、うお座の時代から、みずかめ座の時代に移行しつつある今日、かってないほど人類の意識が高まりやすい環境にあるのは事実です。それは、今、地球上に多くの覚者が下生し、法を説いているからです。でも、それは、あくまでも真理を自力で追及しての話であって、何もしないで意識が高まるわけではないのです。何もしないで自分が変われるなら、こんな楽なことはありません。何事も原因あっての結果です。良い原因を作りもしないで、どうして良い結果が得られましょうか。神が怠け者に都合の良い仕組みを作るわけがないのです。また、そんな仕組みがあるなら、わざわざこの世に生まれてくる必要もないではありませんか。アセンションとは、節目の時代に多くの覚者が下生し、衆生に法を説くことによって真理が根付き、地球人類の波動が上がるという意味です。どうか巷のうわさに惑わされないようにしてください。
求道者の中にこのような人がおりました。
このような人は、自分で勝手に言い訳を作って真理に背を向けている卑怯者です。本来、求道に、障害物など、あるわけがないのです。真剣に神を求めている人の前に、神がどうして障害物を置くでしょうか? もし、障害物があるとしたら、真剣さを試すために置いた障害物か、叱咤激励するために置いた障害物かの、どちらかでしょう。誤解してはいけませんので言い添えますが、神が障害物を置くことはありません。自分を奮起させるために自分が置いたのです。私が、このように厳しいことをいうのは、自覚の境界線付近まで来ている可能性のある魂だからです。私は、小学生や中学生の魂に、このようなことはいいません。大学生の魂だからいうのです。どうか、自分の魂にふさわしい求め方をしてください。
求道者が一番陥りやすいのは、知識をヨロイカブトにしてしまうことです。知識は悟りではありません。かえって悟りの妨げになるだけです。既成概念や観念を多く持てば持つほど悟りから遠のいてしまうのは、自分の意識の中に限定壁を作ってしまうからです。一旦そのような壁ができれば、その壁を壊すのは大変なのです。
悟りは学問ではないのです。知識ではないのです。実感が大切なのです。その実感は知識では得られないのです。知識は、実感の道筋を閉ざしてしまうだけです。求道者に必要なのは、直感です。インスピレーションです。ひらめきです。純粋な心の中にキラメク一筋の光です。知識は、物質世界に生きる人たちには必要であっても、真理を求める人たちには不要なのです。不要などころか、あればあるほど、悟りの妨げになるだけです。なぜなら、真理は外側にあるのではなく、内側(自分の心の中)にあるからです。さあ、余分な知識を捨てましょう。真理は、直感が大切であることを知ってください。
“真理を求めたいけど、求めるのが苦しい!”、という人に、私は、いいたい、強い勇気と強い意志を持ってくださいと・・・。生活に追われながら真理を求める大変さは良く分かります。でも、今、せっかく布石が打てるというのに、そのチャンスを逃しては大損ではありませんか。今、チャンスを逃したら、いつまた、チャンスが巡ってくるか分からないのですよ! あなたは、また、何千年も、さ迷いたいのですか? また、同じ苦しみを味わいたいのですか? もうこりごりですよね!・・・。
本当は、苦しんでいることを、あなたは喜ぶべきなのです。なぜなら、苦しむところまで魂が成熟しているからです。世の中には、このいっている意味さえ分からない魂が沢山いるのですよ! そのことを考えたら、あなたは、どれほど成熟した魂か・・・。さあ、魂の望みに応えるためにも、一つでも多く布石を打っておきましょう。それは誰のためでもない、未来の自分のためなのですから・・・。
確かに、世間の人たちが汗まみれになって働いているとき、一人、静かに、神に意識を向ける自分に疑問を持つのも無理はありません。いくら、神を想っても一向に手応えがない! "一体、こんなことをしていて本当に意味があるのだろうか?" そう思うと虚しくなって涙が出てくる。でも、良く考えてみてください。外で働いている人たちは、永遠のものを追い求めているのですか? 朽ち果てる物を追い求めているのですよ! それに比べたら、あなたは、永遠のものを追い求めているのですよ! これは凄いことなのです。どうか、神を信じてください。この宇宙の仕組みを信じてください。自分を信じてください。
お釈迦様の教えの中に「毒矢の例え」があります。ある者が、毒矢に射られました。伴の者が すぐに毒矢を抜き手当てをしようとしたところ、射られた当人は、“誰が矢を射ったのか? 矢はどの方向から飛んできたのか? どんな弓矢を使ったのか? ” など、詮索するばかりで、一向に矢を抜かせようとしません。こんなことをしていては、毒が回って死んでしまいます。今一番に すべきことは、あれこれ詮索することではなく、矢を抜き手当をすることです。
真理の探究も同じです。求道者の中には、論議に夢中になり、一向に瞑想しない人がおりますが、そんなことをしていては悟る前に寿命が尽きてしまいます。今一番に すべきことは議論することではなく、神につながる瞑想をすることです。神につながるのに理屈や議論はいらないのです。今一番に すべきことは、
これ以外のことは、みな絵に描いたボタモチです。
世の中には、権威を振りかざし人集めしている人や、不思議な現象を見せつけ人集めしている人がおります。なぜ、そのようなことをするのかといいますと、実力で(真理の内容で・波動で)人を集めることができないからです。彼らは、外側の飾りつけを見せて信者を集めているのです。でも、残念なことですが、そのような人のところには多くの人が集まってくるのです。それは、多くの人が真偽を見分ける目を持っていないからです。彼らは、真偽を見分ける目を持たないがゆえに、権威や現象を頼りにするのです。真偽を見分ける目を持っている人は、権威や現象に惑わされることはありません。彼らは真理の中身を見て真偽を判断します。理解力が高いから、それができるのです。世の中には、そのような求道者が少ないため、ホンモノの指導者の下に集まる人も少ないのです。
この宇宙は良くできているもので、小学校の教室には小学生が集まり、中学校の教室には中学生が集まり、高校の教室には高校生が集まり、大学校の教室には大学生が集まるようになっているのです。飛び級で上下の教室に行くことはないのです。例え、一時、行っても、実力に相応した教室に戻って行くのです。
形式や現象や名声や権威などを頼りにしている限り、本者の指導者に出会うこともありません。例え、出会っても、すぐに去って行きます。頼りにすべきは、あくまでも、真理の内容です。中身です。身に受ける波動です。真の求道者なら、私のいっていることが分かると思います。自尊心で道を閉ざさないでください。それは、自分が損するのですから・・・。
何でもそうですが、何もしないで待っていては、与えられることはありません。真理も同じこと・・・自ら探し歩いて、はじめて、与えられるのです。生き物に なぜ 足があると思いますか? それは、歩くためでは、ありませんか。歩けば 必ず 出会いがあります。出会いがあれば 必ず ドラマが生まれます。そのドラマでの体験が、自分を成長させてくれるのです。「犬も歩けば棒に当たる」の諺の意味は、“歩けば 何か体験できますよ、体験できれば 必ず 成長できますよ!” ということなのです。
彼の偉大な覚者たちでさえ、このように、一時も休まず、歩き続けているというのに、どうして、凡夫の私たちは、歩こうとしないのでしょうか。歩かないで、求めないで、真理が与えられた人など、いまだかつて、一人もいないのですよ! どうか、自尊心を捨ててください。謙虚になってください。そして、求めて、求めて、求め続けてください。向上心は、その望みの高さです。努力は、その意志の強さです。みな、真理を得るために必要な道具です。どうぞ、しつこく求めてください! きっと、神様は与えてくれるでしょう。
知花先生の下に多くの求道者が集まってきます。
彼らは、“素晴らしい真理だ!” といって涙を流します。しかし、それもつかの間で、多くの者は先生の言葉につまずき離れて行きます。言葉につまずくとは、理解できなかったということです。理解できなければ、話を聴いてもおもしろくないのです。
おもしろくなくても、理解できなくても、根気良く聴くことが大切です。何度も何度も聴いている内に、先生から頂いた波動によって意識の高揚が起こり、次第に理解できるようになります。意識の高まりは理解力の高まりを呼びますから、色々な気付きが起きるようになるのです。さらに、師授してゆくと、波動の同調が起こり、これまで味わったことのない気持ちの良さを体験します。また、先生から頂いたエネルギーによって体調も良くなります。ここまで来た人は、もう離れることはありません。でも、ここまで来る前に離れて行く人が多いのです。「招かれし者は多いが、選ばれし者は少ない!」とは、真理を聴いた者は多いけれど、理解のできた者は少ないという意味です。それほど、真理を理解するのは、容易なことではないのです。
本当の自分を知る厳しさは、口ではいえません。多くの人は本道に入る前に躓きます。
まず、
「人間は実在しない! 肉体は実在しない! 物質は実在しない!」 というところで躓きます。
次に、
「物質界は実在しない! 幽界は実在しない!」 というところで躓きます。
さらに、
「病気は存在しない! 老は存在しない! 死は存在しない!」 というところで躓きます。
それを乗り越えても、
「自覚できなければ、知ったことにはならない!」 というところで大きく躓きます。
そして、
「この宇宙には、私しか実在しない!」 というところで完全に躓きます。
このように、本当の自分を発見するまで躓きは続くのです。躓かなくなったとき、あなたは選ばれし者となったのです。
一番陥りやすいのは、焦るあまり知的に悟ろうとすることです。知識を組み立て悟ろうとしても、それは無駄骨というものです。なぜなら、悟りは知識を超越しているからです。大切なのは焦らないこと、難しく考えないこと、単純に、素直に、ただ一心に、本当の自分を見詰めること、意識すること、それは理屈抜きです。ただただ、生命に意識を集中し、天の岩戸を開くことです。
大ハンマーで叩けたら最高ですが、それが適わぬなら、せめて中ハンマーで叩きたいものです。それも、五分間、雑念なしにやれたら最高です。ハンマーは外にはありません。また、誰も与えてはくれません。ハンマーは自分の強い意志力と強い思いです。想念はエネルギーですから、強い思いを持って叩けば、どんな硬い扉でも開けることができるのです。あくまでも、自力です。強気です。やる気です。根気です。
信仰浅き者とは、教義や経典をただ盲目的に信じる者のことをいいます。また、外形(偶像・儀式・現象)だけを見て信じる者も、信仰浅き者のする所業です。信仰深き者は、決して盲目的な信じ方はしません。まず、疑い、深く知り、さらに、理解し、納得して、はじめて信じるのです。決して人から聴いたことを鵜呑みにしません。
真理の導き手(本当の自分)は、いつも、自分の中におります。だから、信仰深き者は、安易に外に導き手を求めないのです。といっても、アドバイザーは必要です。なぜなら、真理を追究するためには、コツを教えてくれるアドバイザーが必要だからです。そのアドバイザーの一人が知花先生です。「いまだかつて真理の導き手が人手に渡ったことが無い!」といわれるのは、一人一人の中に導き手がおられるからです。生命がおられるからです。神がおられるからです。すなわち、本当の自分がいるからです。その自分から教えを受けてください。では、どうすれば、教えを受けることができるのでしょうか?
それは、
やっている内にコツが掴めます。焦らず、諦めず、根気よく続ければ、必ず、本当の自分から答えが得られるようになります。あなたは、そのとき、自分の中に神の存在を確信するでしょう。
師と仰いでいた者が亡くなると、あたかも、求道の旅が終わったかのような振る舞いをする人がおりますが、求道の旅はそんな軽薄なものではありません。求道の旅は、前世でも続いていたし、今も続いているし、今後も永遠に続くのです。師が、いなくなることはありません。常に、あなたと共におります。会いたかったら、いつでも、会えます。ですから、何も寂しがることはありません。
肉体を持つ持たないにかかわらず、あなたの中には、これまで、悟られたすべての覚者がおられるのですから・・・。
私たちは、いったい、何を追い求めるべきでしょうか? 消えて無くなる、お金や 物や 地位や 名声 でしょうか? それとも、永遠に無くならない、真理でしょうか? 永遠に無くならない、真理ですね・・・。理由は、私たちそのものが、永遠不滅の真理だからです。
宇宙は、実に正直に、私たちの要求に応えてくれます。真実を求めれば真実が、幻を求めれば幻が・・・。だから、聖書では、「真実を求めなさい! さすれば、必ず、与えられるであろう」、と謳われているのです。また、聖書では、「子供がパンを欲しがるのに石が与えられましょうか、石を欲しがるのにパンが与えられましょうか」、とも謳われています。“私は求めたが与えられなかった!” という人は、求め方が少なかったか、間違った求め方をしていたからです。「想念は実現の母」ですから、真剣に求めて与えられないはずはないのです。
人間が作った法は裏切りますが、宇宙(神・生命)が作った法は絶対裏切りません。真の求道者が、どんな困難にも、怯まず、真理を求め続けるのは、宇宙法則の完全性を信じているからです。さあ、宇宙法則を信じ、求め続けましょう! 探し続けましょう! 叩き続けましょう! 宇宙法則は、きっと、あなたの要求に応えてくれるでしょう。
人間は、ほぼ、同じ形をしていますので、誰もが、同じ人間だと思っています。でも、それは、外面を見るからであって、内面を見れば、みな、違うのです。内面とは、意識の高さのこと、魂の熟成度のことです。人間の中に宿っている魂は、同じ時期に生まれた魂ばかりではないのです。早く生まれた魂もあれば、遅く生まれた魂もあるのです。早く生まれた魂は、それだけ、体験豊富ですから、熟成度が高く、遅く生まれた魂は、体験不足ですから、それだけ、熟成度が低いのです。これは誰が悪いのでもなく、ただ、遅く生まれたか、早く生まれたかの違いです。でも、その違いを意識して生きることは、とても大切なことなのです。
今の人類の最大の欠陥は、命格(魂)を認めないことです。認めれば、自分より幼い魂に対して、寛容の心をもって接することができるようになります。例え、相手が分からないことをいってきたり、喧嘩を仕掛けてきたりしても、“まだ、幼い魂なのだから許してやろう!” という、大きな心で接することができるのです。これは、先輩が後輩に見せる心の余裕のようなものです。不思議なもので、人間は、相手が幼い子供だと思えば、何をいわれても、何をされても、笑って済ますことができるのです。もう一つは、慎み深くなることです。すなわち、行為を慎み、言葉を慎み、思いを慎む、「身・口・意」の正しい制御ができるようになるのです。では、どうすれば、自分より幼い魂かどうか見分けることができるのでしょうか?
それは、自分の魂が今どの位置にあるのか、常に意識していることです。自分の魂の位置を冷静に判断できる人は、大人の魂です。その人は、相手の魂の高さが判断できます。その人は、謙虚です。人を許せます。決して増上慢になることはありません。でも、子供の魂は、そんなことを少しも考えませんから、増長します。自分を偉そうに見せます。小さな問題を大きくして、人と諍いを起します。下から上は見えなくても、上から下は見えるのです。魂の高さを意識できる人は、上から下を見通せる人です。その人は、相手が自分より高い魂だと思ったら、敬慕の念を持って接します。相手のいう事を良く聞いて自分の成長につなげます。反対に、相手が幼い魂だと思ったら、少しでも、魂を成長させてやろうと腐心します。この書を読んでいる、あなたは、それが、できる魂です。ぜひ、自分の魂のレベルを意識して生きてください。その人は、大きな心が表せます。その人は、もう、人と諍いは起さないでしょう。
私たちは、永遠の旅を続けている生命核(魂)です。今、私たちは、人間の形の中に入って旅をしておりますが、ここまで来るのに、どれほどの時を必要とし、どれほどの試練を潜り抜けてきたことでしょう。では、これまで、私たちは、どのような旅を続けてきたのか、ここで振り返ってみることにしましょう。
私は、あるとき、もうろうとした意識の中に放り込まれました。私という意識はあるのですが、私が何者なのかが分からないのです。一体、私は誰なのか? 何者なのか? まったく記憶が無いのです。私は不安になり、辺りを見渡しました。そのとき空間が開かれ、そこに沢山の意識核が浮遊しているのに気づきました。私は一個の意識核に近づき訊ねました。
「君は誰なの?」
でも、彼も首を傾げ、
「君こそ誰なの?」と訊きかえします。
さらに、近くの意識核に同じ質問をしたのですが、誰もが「分からない?」と首を傾げるばかりです。そこで、私は、「どうだろう、一緒に自分探しの旅に出掛けようじゃないか?」と提案しました。
「賛成!」「私も賛成!」と皆が賛同してくれます。
どうやら、皆、自分が何者なのか知りたがっているようです。そのような意識核が、一つ、また一つと集まってきました。皆と一緒にいると、なぜか勇気が湧いてきます。こうして自分探しの旅が始まったのです。後で分かったことですが、この集まりの力が、神の用意された親和力だったのです。
今、思えば、それはそれは気の遠くなる年月をかけての進化の旅でした。私たちはこれまで、ある時は鉱物に身をやつし、ある時は植物に身をやつし、ある時は動物に身をやつし、やっと自我を持つ人間にまで進化してきたのです。今、私たちは、人間としての自覚を持っておりますが、私たちの本性は生命です。ですから、いつまでも人間で止まっていてはならないのです。一日も早く人間を卒業し、生命の自覚を持つところまで上り詰めねばならないのです。進化の先は、生命がおられる天です。さあ、生命を目指して旅を続けましょう。それが、自分探しの旅の目的なのです。
あなた達は、「生きる」ということについて、どのように考えていますか? 「命」ということについて、どのように考えていますか? これは、人生における最大の課題なのです。
「命」とは、意識のこと・・・、「生きる」とは、意識があること・・・、形のあるなしにかかわらず、意識を持っているものは、みな、命であり、みな、生き物なのです。皆さんは、人間だけに意識があると思っていますが、どんな物にも、みな、意識があり、生きているのです。石ころ一つ、花一輪、原子一個、みな、意識があり、生きているのです。現代科学は物質の中にエネルギーが同居していることを認めていますが、このエネルギーが、命であり、意識なのです。意識はエネルギーそのものなのです。だから、どんな物の中にも、命があり、意識があるのです。
テレビが働いているのではなく、電気エネルギーが働いているのです。冷蔵庫が働いているのではなく、電気エネルギーが働いているのです。
同様に、人間という形が生きているのではなく、意識エネルギーが人間を生かし働かせているのです。 ということは、意識(エネルギー)は、永遠に無くなりませんから、私たちも、永遠に無くならないことになります。つまり、私たちは永遠に死なないということです。 無くなるのは、形(肉体)だけで、エネルギー(命)は、永遠に無くならないのです。どうか、そのことを知ってください。それも、心の底で知ってください。心の底で知らなければ、絵に書いたボタモチで終わってしまいます。
人生の目的は、家族を養うためでも、名声を得るためでも、財産家になるためでもありません。真実を知るためです。どうか、真実を知ることを、人生の最優先順位にしてください。