「ニダイの心」
1
ある街の細い路地を、汚い身なりをした一人の男が、大きなつぼを担いで歩いていました。ニダイという男でした。街の人達はその姿をみると、顔をしかめ鼻をつまんで避けるように通り過ぎていました。何とも臭いのです。臭いのも道理で ニダイは、街の家々を回り、糞尿を汲み取って運ぶ仕事をしていたからです。たしかに汚い仕事には違いありませんが、誰かがその仕事をやらねば、たちまち街の人達は困ってしまうのです。それを自分がやっているのに、皆んなから嫌がられていては、ニダイもいい気がしません。でも、仏さまの教えを信じているニダイは、腹立ちの心が起こるとすぐに、「してやっているという、恩きせがましい心があるから腹が立つのだ。させてもらっていると思えば腹が立つことはない。実際、その仕事で、ごはんを食べさせてもらっているのだから・・・。それに、自分は、糞の臭いが体にしみこんで臭いのだから、皆が避けて通るのも当たり前ではないか。腹を立てることはない! 」そう思うと腹立ちの心が消え、皆に迷惑をかけてすまないとさえ思えたのでした。だから、ニダイは、できるだけ人の多い通りを避け、細い路地を通ることにしていたのでした。
ニダイは、ずんぐりとした体型で顔も醜くかったので、四十にも手が届くというのに、未だに独り身でした。仕事が仕事だけに友達もいません。そんなうだつの上がらないニダイでしたが、一つだけ生き甲斐がありました。それは、お釈迦様のお姿を遠くから拝見することでした。今日も一日の仕事を終えたニダイは、祇園精舎に立ち寄り釈迦様の説法している姿を遠くから見ていました。勿論、遠くから見ているので、お釈迦様の声は聞こえません。でも、お釈迦様の姿を見ているだけで、ニダイは幸せだったのです。
2
そんなある日のことでした。
いつものように細い路地をつぼを担いで歩いていたニダイは、前からやってくる一団を見て息が止まるほど驚きました。何と、お弟子を連れてやってくるお釈迦様と出食わしたのです。お釈迦様の姿を近くで見られると思うと胸がときめきましたが、ニダイは「いや、いけない!」と激しく首を振りました。「お釈迦様は、この世で一番尊いお方じゃないか。お側にいる人たちも、身分の高い立派な人たちばかりである。いくら身分のことを考えないお釈迦様でも、糞尿を汲み取る仕事をしている自分が近づくなどもったいない。」そう思ったニダイは、別な脇道にそれたのでした。でも、どうしたことか、その脇道の前からも、お釈迦様と弟子たちと歩いてくるではありませんか。「これは、いかん! 」ニダイは、慌てて更に脇道にそれました。でも、不思議なことにその脇道の前からも、お釈迦様がやってくるのです。もう、それる道がありません。ニダイは、おろおろとその場に立ちつくしてしまいました。お釈迦様は、ニダイに近づくとニッコリとお笑いになられ、こう言いました。
「ニダイよ、どうして逃げるのですか? 何も逃げることなどないではありませか?」
はじめて聞くお釈迦様の声でした。しかも、自分の名前までご存知だとは・・・?
ニダイは、驚きと、もったいなさと、嬉しさに、糞つぼを背負っていることも忘れ、その場にひれ伏したのでした。と、その拍子につぼからドッーと糞が流れ出し、ものすごい臭いが辺り一帯に立ち込めたのです。勿論、ニダイは、糞まみれです。ニダイは、泣きそうになって、「申しわけございません! 私は汚い者です。どうぞ、どうぞ、早くお通りくださいませ! 早くお通りくださいませ!」と何度も叫びました。でも、お釈迦様は、顔をしかめるどころか、ニコニコと笑いながら言いました。
「ニダイよ! あなたのどこが汚いのですか?」
「はあ?!、でも、こんなに糞まみれで・・・」
「そんなものは、ちっとも汚くない。世の中には、高価な着物や宝石などで美しく身を飾っている者が大勢いるが、その者たちは、本当に美しいだろうか? どんなに身を美しく飾っても、心が醜くては本当に美しいとはいえないのです。あなたは、思いやりのある美しい心を持っている。それこそ、仏さまの心なのです。私は、今日、あなたに出会えて、とてもうれしい! さあ、ニダイよ、これから祇園精舎へ行ってゆっくりと語り合おうではありませんか。」
そういうと、お釈迦様は、優しくニダイの手を握るのでした。
お釈迦様の手の何と温かいこと・・・感激のあまりニダイは、涙が溢れるのも忘れ、お釈迦様の手を握り返すのでした。そして、二人は、懐かしい旧友にでも再会したように肩を並べ歩き始めたのでした。
3
あの日以来、弟子の一人に加わったニダイは、お釈迦様が、なぜ、自分の名前をご存知だったのか訊きたいと思っていました。
そんなある日、ニダイは、その疑問をお釈迦様にぶつけました。お釈迦様は、ニコニコ笑いながら、こうおっしゃいました。
「ニダイよ何も不思議がることはないのです。あなたは、月に一度、この祇園精舎の糞尿の汲み取りに来てくれていましたね。
ニダイは、「はい!」と勇んで返事をしました。お釈迦様が自分の仕事に関心を持ってくれていたことが、とてもうれしかったからです。
「その時、あなたは、説法の邪魔にならないよう、南よりの風が吹いているときは汲み取らず、北よりの風が吹いているときに汲み取ってくれていましたね。」
「えっ! そんなことまでご存知だったのですか?」
「ええ!、ええ! 知っていましたとも・・・あなたは、気付かなかったと思いますが、私は、あなたの仕事ぶりをこっそりと見ていたのです。」
お釈迦様の言うとおりニダイは、糞尿の臭いが南側の説法の場所にいかないよう、気を配りながら汲み取っていたのです。
「私は、そんな思いやるあなたの心の中に、仏を見たのです。」お釈迦様は続けました。
「世の中には、平気で道端にツバを吐いてゆく無神経な者がいますが、あなたは、風向きまで考え仕事をしてくれていたのです。そんなあなたに、私が感心持たないはずがないではありませんか。
"それで私の名前を知っていたのか" ニダイは納得しました。
「ニダイよ、本当にありがとう! これからも、よろしく頼みますよ!」そう言うと、お釈迦様は、深々と頭を下げるのでした。
「とんでもありません。どうぞ、お顔をお上げください。」ニダイは、恐縮してお釈迦様の手を取った。そんな心洗われる光景を弟子たちは、目を細めて見ているのでした。
おしまい